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◇ 三畳一間の青春

もえたぎって過ごした灼熱の夏が過ぎて、秋は不思議と、何となくもの悲しく、わびしい感じがしたり、人恋しくなったりします。
私は、毎年この季節になりますと決まって思い出すことがあります。それは、遠い遠い過去の青春の中の、今から思い起こしますと、まさに一瞬の出来事のような気がします。

ご存知の方も多いと思いますが、南こうせつとかぐや姫が唄って大ヒットした「神田川」という名曲ですが、私は、この歌が好きで好きで、上手くもないのに、たまにカラオケで良く唄ったりします。時には感詰まって、涙するときもあります。

この歌は、私の青春そのものの歌と言ってもいいかと思います。
田舎から上京して、見るもの触るもの全てが異次元でした。
大学の理工学部の建築学科を卒業して、住宅専門会社に就職しました。
東京築地の社宅では、6畳間に新入社員5人で生活しました。
初任給が忘れもしません7,000円でした。
勤務先の東銀座から電車に乗って社宅に帰る時には、空腹の余りお腹がグーと鳴り出し、周囲の目を気にしたりしたものです。
何せ6畳間に男ばかり若者5人の生活ですから想像できますよね。

それから暫らくして、代々木の社宅に引っ越しました。
新宿までは歩いてすぐの所でした。
社宅の部屋は押入れ付の三畳一間。待望の個室という贅沢さです。
共同便所に共同炊事場。当時ごく一般的な木賃アパート並みの社宅でした。
もちろん浴場なんてありませんから、近くの銭湯に通っていました。

東京にも少しは慣れてきて、少しばかり給料も上がり、休みの日は、新宿のジャズ喫茶で音楽を楽しむような日々でした。
同僚たちと新宿や原宿や渋谷あたりに遊びに出かけたりもしました。
私にとって、それはそれは、唯一ささやかでも、自分を見つめて暮らせる楽しいひとときでもありました。

今から思いますと、都会にあこがれた少年(青年)が、わき目も振らず、ただ一生懸命に生きていたような気がします。
夢や希望だけが膨らんでいた青春時代では決してなかったと思います。

日本中が貧乏でした。私の田舎も超貧乏でした。
少ない給料の中から田舎の親に仕送りし、残ったお金で細々と暮らしている毎日でした。
それでも、未来を見つめて、頑張るのだという思いだけで、出来る事の一つ一つに、ただがむしゃらに没頭していたような気がします。それなりの青春時代だったのです。
同僚たちもそれぞれ、それなりの青春だったと思います。

そんな時に流れてきたのがこの曲です。
何とも切なくて、その歌と自分を重ね合わせて、夢中になって聞き入っていました。涙しました。フォークギターを買い、窓辺で練習したり口ずさんだりしたものです。

三畳という広さは、決して広くはありません。でも、意外と落ち着く広さなのです。
畳三枚を横に敷いた形ですので、ベッドを置いても、机を置いても少し通路が出来るような便利なサイズでした。
でも、1人には丁度良いけど、二人だとやっぱり狭い広さだです。
ですから、この歌の「神田川」のように二人で暮らした人には、とても切なくて、やるせなくて、青春時代の独特の思い出になっていることでしょう。

東京という大都会での三畳間での一人暮らし。
若い一人の青年が過ごしたひととき。もしかしたら、その広さ(狭さ)ゆえに生まれる、ある意味、人間としての資質が形成されていくのかもしれませんね。

三畳一間での一人暮らし、
それは私が永遠に忘れる事ができない、尊くて貴重な青春の一ページなのです。