この物語は正義感に満ちた一人の男の物語です
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◇ 第4章 意地と野望

 早川は国際コンペに向けて精力的に動いた。帰りが深夜になることも度々あった。5階の特別室は熱気でむんむんしていた。早川とスタッフのミーティングが頻繁に行われ、たまに早川の激が飛んだ。データや情報は全てパソコンに打ち込まれ着々と準備が整って行った。予定のスケジュールより幾分速いペースでは進んで入るが、実作業の段階で予期せぬことが起る場合を考えて、早め早めに作業を進めていた。作品の提出まであと半年しかなかった。
 スタッフ一人一人に作業を分担しているだけに、一人でも遅くなると全体の進行に影響が出てくるのを早川は恐れていた。そういう場合は集中的にそのスタッフに付きっきりで指導した。心配して時々訪ねてくる課長や部長には、仔細を説明し心配ないことを告げた。

 午後になり、郷田部長がC&Tの部屋に入ってきた。柔和な顔である。
「どうだ進行状況は」
「はい。お蔭様で順調に推移しております」
 早川は頭を下げながら応じた。
「そうか、毎晩遅いそうだな。身体に気をつけろよ。君に寝こまれたらそれこそ困るからな」
「ありがとうございます。充分気をつけます」
「あと半年が勝負だ。辛いだろうけど頼むな?」
「はい。骨格が固まって来ましたので後は煮詰に入ります。これからが正念場です」
「頑張れよ」
「はい。ありがとうございます」
「ところで、こんな時になんだけど今夜時間取れないか、君の労をねぎらいたいのだがな」
 まずいことは重なるものである。今夜は甲斐オーナーと会う約束を午前中にしたばかりである。部長は余程のことがない限り社員との付き合いはしない。その部長の誘いである。
「ありがとうございます。ですが、申し訳ありません。今夜は先約がありまして、そちらの方に行く約束をしてしまいました」
 早川は正直に言った。
「そうか先約があったか。じゃ仕方ないな又にするか」
「ええ、せっかくの部長のご配慮を無にしてしまい申し訳ありません」
「なあに構わんさ。気にするな。急に誘う方が悪い」
「はあ」
「近い内にまた誘うからそのつもりでいてくれ」
「かしこまりました。その時は喜んでお供致します」
 郷田は早川に伝えておきたいことがあってわざわざ5階までに降りてきたのである。電話で済む話だが直接会って作業の進行状況や雰囲気も確かめておきたかった。
「早川君」
「はい」
「今時間取れるか? 8階まで来てくれるか?」
「はい。かしこまりました。直ぐ参ります」
「うん、じゃあな、頼むな」
 郷田が部屋から出ていった。暫らくして、早川は郷田部長の部屋に向かった。
 早川が部屋に入ってくるのを待っていたかのように、郷田は秘書を通じて奥の部屋に入るように言った。そして、秘書にコーヒーを出すように命じた。早川は言われるまま秘書の案内で部屋に入った。
 早川はこの部屋に入るのは初めてであった。ソファに腰を下ろした。如何にも高級そうな応接セットである。奥に、これまた高級と思われる大きなデスクがあった。分厚いガラス板の上に白い電話機が置いてあった。 デスクの奥の広い窓には、洒落たカーテンが掛かっていてレースが窓を閉ざしていた。南面に面したこの窓から差し込む午後の陽光がレース越しに差し込んでいた。デスクの右横には大型テレビが置かれていた。左側の本棚には本がびっしりと並んでいた。広々としたこの部屋で部長は何をしているのだろうか。
 間もなく、秘書の林田裕子がコーヒーを運んで来た。顔は少し微笑んでいた。林田は会釈して、2人分のコーヒーをテーブルの上に静かに置いた。洒落たカップと皿である。皿にはミルクと砂糖が置かれていた。林田裕子は背が高くすらりとした美人ではあるが、早川には、なんとなく冷たそうな女だなと思えた。
「すみません。僕はブラックですので、砂糖とミルクは下げて貰ってもいいですよ」
 どうでも良いことであったが、早川は林田に声を掛けた。
「そうでしたね、すみません」
「あは、謝ることはないですよ。いちいち覚えてられませんからね」
「いえ、早川さんには、以前にもコーヒー出さしていただいたことがありますから」
「うん」
「秘書として失格ですね」
 林田は恥ずかしそうに下を向いた。
「あはは、オーバーですよ。気にしないでくださいね」
「失礼します」
林田は一礼してその場から離れた。間もなく郷田が入ってきた。早川は立ち上がって一礼した。
「そのままでいいよ。掛けてくれ」
「はい」
「君を呼んだのは、ほかでもないんだが、ちょっと気になる話を小耳に挟んだもんだからな」
 郷田はコーヒーカップに手をつけた。
「君もコーヒーをどうだ?」
「ありがとうございます。いただきます」
 コーヒー好きの早川には、口にしたコーヒーが特別なものと容易に分った。何とも美味しい。
「気になる話ですか?」
「うん。君に確かめておこうと思ってな」
「はあ」
「プロジェクトの様子におかしな事はないか?」
「5階のメンバーの事ですか?」
「そうだ、変わった様子はないか?」
 早川は郷田の言っている意味が飲み込めなかった。
「はい。私の知る限りでは思い当たる事はございませんが」
「そうか、それならいいのだが」
「部長、その小耳に挟まれたことってどんな内容ですか? 差支えなかったらお聞かせ願えませんか?」
 どうも早川の管理下での話のようである。それだけに管理能力を問われかねない。知っておく必要があった。

 コンペに応募する際の作業で、一番恐れていることは、コンペに関する情報が、外部特にライバル会社に洩れることであった。そのことは常々スタッフには厳重に注意していた。トップからの指示でもあったが、ことの重要性と極秘性に鑑み、心ならずも、スタッフ全員から誓約書まで取っていた。
 スタッフの一人一人を信頼している早川は、スタッフの行動については一切疑いを持っていなかった。ただ、そういうこともあり得るという気持ちは何処かにあり、細心の注意は払っていたつもりだった。
「実はな、……社内の情報がライバル会社に筒抜けらしいんだよ」
 郷田は性格上曖昧なことは言わない。
「えっ、部長、それほんとですか?」
 早川は驚愕した。まさか、そんなことがある筈がないと思った。
「確かなことはまだはっきりしないが、どうもそうらしいんだよ」
「そうですか、すみません。責任者として申し訳ありません」
 早川はいかにも申し訳ないような顔をして頭を下げた。
「いや、単なる噂だけかもしれないんだよ」
「そうだといいのですが。しかし、煙の立たないところに何とやらと申しますから」
「そうなんだよ。そこでだな早川君、ちょっとその辺を気をつけといて貰えないかな?」
「はい。もちろんそうさせていただきます」
「うん。頼むわ」
 郷田はコーヒーを口にした。
「部長はその噂をどこで耳にされたのですか?」
 早川は噂の出所について確かめておく必要を感じた。
「先日ゴルフの大会があってな」
「ええ」
「昼食の時の雑談の時に、隣に座っていた津村さんという人から出たんだよ」
「その津村さんという人は部長のお知り合いですか?」
「いや、これまで面識のない人で、初めて一緒にプレイした人なんだがな」
「ええ」
「具体的に国際コンペの件で話があった訳ではないが、話しぶりから何となく気になるところがあってな」
 郷田は早川の顔を見ながら話した。
「その人とは名刺交換はされなかったのですか?」
「いつもは大抵するんだが、その日はたまたま名刺交換しなかったんだ」
「じゃあ、その津村さんて人も、部長のことは良く知らなかった訳ですね」
「多分そうだと思う。だから気楽な気持ちで話されたような気もするけどな」
 早川は暫らく思案した。そして、郷田の顔を見詰めながら聞いた。
「食事の時の会話ってどんな風だったんですか?」
 郷田は思い出しながら喋りはじめた。
 早川は部長の話をメモした。会話の内容は次のようなことであった。津村をA、話し相手をBとした。

A 今回の国際設計コンペには、国内から18社ほど参加するそうですね。
B 相当な数ですね。国内の参加者ではどこが有力なんですか?
A いやそれは分りませんが、下馬評では、今回も環太平洋建設さんの設計部が有力だと噂になっています。
B でも今回は国際コンペですからねェー。
A いえ、環太平洋建設の設計は素晴らしいですよ。
B えっ、コンペ用の設計図をご覧になったのですか?
A ……あ、……いえ、これまで出品された作品を見て、そう思っただけですよ。
B そうですか。どこが優勝するか楽しみですね。
A 全く下馬評に上がらない地方の会社が優勝したりして。あははは。
B そうですね。このゴルフコンペもあり得ますかね。
A あるかもしれませんよ。楽しみですね。頑張りましょう。あははは。

「社内の情報が外部に洩れたと仮定しますと、どういうルートで外部に洩れたか、何か心当たりはあるんですか?」
 早川は、郷田がこの件に関する情報を、どの程度知ってるのか確かめておきたかった。
「いや、これも憶測の域を出ないんだが、こういう場合、考えておかなければならないのは女性だな」
 早川は部長の言ってる意味が理解出来た。プロジェクトC&Tの中の女性と言えば浅田しかいない。浅田香織が情報を外部に洩らしている? まさか考えられない。浅田は自分に好意を持っている。他に付き合っている男性はいないような気がする。浅田に限っては少なくともそう思って間違いないような気がする。それとも意図があって俺に近づいてきた? まさか、そんな悪ではないよ絶対。
「女性は、浅田君しかおりませんが」
「分ってる。彼女がそうだとは言っていない」
「はあ」
「いいか、早川君」
「はい」
「浅田君も含めてだが、C&Tに所属している男性の中で、社内恋愛もしくは社外の女性と恋愛している人物をそれとなく探り出してくれ」
 なるほどその手があったか。早川は部長の考えに頷いた。
「分かりました。徹底的に調査致します。結果は逐一ご報告致します」
「慎重にな。この手の調査はあらぬ誤解を生み易いし、場合によっては社員を傷つけてしまうからな」
「はい、心得ております。私にとりましてもとても大事な仕事ですので、チームワークは乱したくありませんし、その為に社員のやる気が失せてしまっては元も子もありませんから」
「そうだな。ところで、もし万一情報が盗まれていたとしたらどう対処するつもりだ?」
「はい。今の段階での情報はまだ下準備の段階ですし、はっきりとした設計の形としては表れておりませんので、たとえ盗まれたとしても被害は小さいと思いますが」
「うん」
「ですが、被害が小さいといいましても、今後のこともありますし、ライバル会社にヒントを与えた訳ですので、これは良くありません」
「だな。で、どうする」
「……部長すみません。……暫らくお時間いただけませんか? 1時間後にまた参ります」
「そうか。分った」

 早川は急ぎ5階の自分の席に戻り、暫らく考えて、ある作戦を思い付いた。そして、再び部長の部屋まで走った。部長も心待ちにしていた様子だった。
「失礼します。お待たせしてすみません」
 早川はソファに座ると同時に口を開いた。
「部長にもご意見いただきたいのですが、方向転換します」
「方向転換?」
「ええ、チームを2班に分けます」
「それで?」
「はい。たとえばAチームとBチームとしますと」
「うん」
「Aチームは、これまでの路線のまま直接プランニングに関係のない、例えば基礎の構造とかインテリアに関する事や資材等とかに特化して、その一般的な資料の収集に専念して貰います。これらは、いずれは設計に織り込む為には、しなければならない作業なのですが、とりあえずAチームに作業して貰います。もちろん当分の間ですが」
「うん」
「Bチームは、私が今申し上げた方向転換、つまり抜本的に方針を変えて進みます。これが本命路線です」
「なるほど」
 郷田は早川の話にじっと耳を傾けた。早川は事の重大さに驚いてばかりもおれないし心配しても始まらないと思った。こうなったら、とことん戦ってやるという、早川の内面に潜んでいる正義感が沸々と湧いてきた。社内にしかも早川の膝元にこういう奴がいるとしたら、許す訳にはいかない。もしこの話が事実だとすれば、いずれ真相が分かった時に、その行為の代償は支払って貰わなければならない。
「部長はもうお察しだと思いますが、容疑者はAチームに配属させます」
「うん」
「2班に分けるのは、容疑者がほぼ特定出来てからになります。特定方法は私にお任せください。必ず突き止めて見せます」
「Aチームの設計データとBチームの設計データを隔離するつもりだな」
「はい。そうです。Aチームの設計データは外部に洩れるても良いような、と申しますより、外部に洩れたほうが好都合な設計データにします」
「なるほど、それで?」
「はい、暫らく泳がせといて、どういう動きをするか観察します」
「うん」
「それとパソコンの件ですが」
「うん」
「今、全部のパソコンを社内LANで繋げています。私のパソコンを除きますと、計19台のパソコンが、同じ目的、つまり国際コンペに応募する設計図書の完成に向けて日夜稼働しております。これらのパソコンは、所属する全スタッフが自由にお互いの設計データを見たり、設計データの取り込みが出来るようになっております」
「うん」
「各スタッフはそれぞれ、あるルールに基づいて設計上の役割を分担していますので、こうすることで、各人の作成した設計上のCADデータを交換したり取り込んだりすることで、作業が大幅に省力化出来ます」
「うんうん、なるほど。CADデータというのは、パソコンで作成した設計作図データのことだな」
「おっしゃる通りです。私は各人の作業の進捗状況が一目で確実に把握できます。ですから、それぞれのスタッフに的確な指示が可能になる訳です。たとえば、あるスタッフの作業が遅れますと全体に影響してしまいますので、私の方でそのスタッフに、ピッチを上げるように指示する訳です」
「うーん、なるほどねぇー、良く出来てるねぇー」
「ですが、今回社内情報が、外部へ漏洩されてしまっているのではないかという懸念が出た以上は、残念ですが、大幅に見直さなければならなくなった訳です」
「そこでAチームとBチームに分割して、社内LANも切り離すということだな」
「さすが部長、お察しの通りです。Aチームの設計データとBチームの設計データは、チーム内同士では見れますが完全に双方見れなくなります。つまり、Aチームの誰かがBチームの誰かの設計データを見ようと思っても、それが出来なくなる訳です」
「うん。だな」
「社内LANは、スタッフ各人がお互いの設計データを自由に見れる訳ですので、盗もうと思えば簡単に盗めます」
「そのCADデータはどんなパソコンでも開くことが出来るのか? 社内のパソコンではもちろん開くことは出来るとは思うが、例えば他社のパソコンでも開くことが出来るのかということだが」
「いえ、当社のCADは、当社が開発したオリジナルプログラムです。当社のパソコンでも、このプログラムがインストールされているパソコン上でしか作業は出来ません。データ変換が出来るソフトが出回っておりますが、当社のCADデータは、どんなソフトでも変換できないようになっています。ですから、設計データをUSBメモリーなどにコピーして、他のパソコンでデータの変換もしくはデータを開こうとしても不可能です。当然、他社のパソコンでも同様です。不可能です」
「じゃあ、データを盗んだって、開くことが出来なければ意味がないんじゃないのか?」
「ええ、そうです。おそらく犯人は、パソコンの設計データを、こっそり印刷して相手に渡してると思われます」
「当社のプログラムそのものをコピーして、他のパソコンにインストール出来るんじゃないのか?」
「それは、システム上で制御してますので不可能です」
「そうか、なるほどな」
「今まで全台で共有していた設計データを、AチームとBチームに切り離そうという訳です。これにより、AチームはBチームの設計データは見ることが出来なくなりますし、もちろん取り込むことも出来なくなります。その逆も同様です。元々効率を重視する為にやっておりますが止むを得ません」
「作業効率が大幅に落ちそうだが大丈夫か? 時間的に間に合いそうか?」
「そのことを実はとても心配しています。作業工程を根本的に練り直さなければならないと思っています」
「大丈夫かよ」
「はい。当分はBチームのみのスタッフによる作業になりますが、犯人が特定出来れば、その時点で他のスタッフ、つまりAチームの犯人以外のスタッフが戻ってくる訳ですので、あとは順調にいくと思います」
「そうか」
「場合によっては、人員の補強をお願いすることもあるかもしれませんので、その時はよろしくお願い致します」
「だな、分った」
「ありがとうございます」
「うん、それで人員の割り振りはどうする」
「Aチームは6人、Bチームは13人にしようと思います」
「うん、浅田君はどちらに入れる」
「Aチームです。疑っている訳ではありませんが」
「うん、それがいいな。しかし急にやり方を変えると、却って感づかれはしないか?」
「はい、私に考えがあります。その点は大丈夫です」
「それと、いくらそうしても、C&Tに置いてあるパソコンは、誰でも見ることが出来るんだろ?」
「ええ、今まではそうでした。まさかこんなことが起こるなんて考えもしませんでしたからね」
「まったくな」
「そこで、Bチームのパソコンはスタッフ毎のパスワード管理に切り替えます。つまり13個のパスワードを各人に割り振ります。各人固有のパスワードを発行する訳です」
「Aチームのパソコンは?」
「はい。誰でも見れるようにしておきますが、これもチーム用のパスワードを一個用意します」
「なるほどな」
 郷田は、早川の作戦を聞いた後、目を閉じて暫らく考えていた。
「早川君」
 郷田は、早川の目を見て言った。
「はい」
「君が特定した容疑者が、真犯人かどうかを突き止めるのに何日くらい掛る予定だ?」
「はい、早ければ3日、遅くても1週間以内には何とかなります」
「そうか、で、その方法とか作戦は?」
「はい、これを遂行するには、部長の名前をお借りしたいのですが」
「俺の? どういうことだ」
「はい。設計コンペに関する重要な極秘な部長方針が、私に指示されたようにします」
「ほぉー、それで?」
「その内容は、設計コンペの極めて重要なことについての内容にします。マル秘扱いにします。もちろん作り話ですが」
「うん、なるほど、それから?」
「これから先が問題です。相手が引っかかるかどうかの重要なところです」
「うん、どうするんだ?」
 郷田が身を乗り出してきた。
「ええ、その重要な事項を、会社のホームページの私書箱に掲載します」
「私書箱?」
「はい。私書箱という名前がいいかどうかは検討しますが、新しく別枠で作ります」
「だけど、その部長方針は、わざわざ私書箱を作るという面倒臭いことをしなくても、会議の席で発表してもいいと思うが」
「ご尤もです。ですが、それでは犯人は特定しにくいと思います」
「……」
「で、私書箱を作る。……こんな方法がいいのではと思いまして」
「うん。面白そうだな」
「お察しの通りです。当然、重要でマル秘扱い事項ということを、前もって全員に言っておきます。全員に見ておくように言います」
「うん」
「私のパソコンに表示されている私書箱へのアドレスを知っている者しか接続できないようにします」
「それで?」
「ですから、私のパソコンの内容は、単にウェブ上の私書箱の案内だけにします。つまり、私書箱のアドレスのみを掲載しておきます」
「うん」
「当然みんな、一斉に私のパソコンを見に来ます」
「うん」
「その結果最初だけですが、私のパソコンを見た者だけが、私書箱へのアドレスを知り得るようになる訳です」
「うん。だな」
「社内LAN上の私のパソコンは自由に見れますが、ウェブ上の私書箱は、パスワードがないと入れないということになります」
「うん」
「部長が犯人でしたらどうなさいます?」
「おいおい、犯人扱いかよ」
「すみません。お答えください」
「そうだよなあ、当然君のパソコンを見た後私書箱にアクセスするよな」
「それから、どうなさいますか?」
「どうって、それだけだろう?」
「違うと思います。犯人は私書箱の重要でマル秘扱いの事項、これは実は偽装された内容で、部長名で掲載されたものですが、このことをライバル会社に伝えたいですよね」
「うんそうだな、一刻も早くな」
「そうです。早く伝える為にどうなさいますか?」
「うーーん、その内容を印刷して持っていく」
「ええ、実は私書箱の重要でマル秘扱いの事項は、印刷もできなければ保存も出来ないようにしておきます。そうなるとどうしますか?」
「……うーん、印刷も保存も出来ないのかよ、……分らん、……どういう方法だ?」
「はい、ライバル会社が直接ウェブ上の私書箱を見ることです」
「えっ、そんなこと出来るのか? 見るにはパスワードが要るんだろ?」
「ええ、そうです、犯人はパスワードを知っています」
「なるほど」
「そのパスワードを、メールか何かでライバル会社に知らせる筈です。もちろん、社内のパソコンでメール送信しますと記録が残りますので、メールした後、残らないように削除することもできますが、自宅のパソコンか個人の携帯電話を使ってメールするか電話すると思われます」
「なるほど、そうすれば見れるな」
「ですが、それだけではいつ行動に出るのか分かりませんので、効果がありません」
「うん、それもそうだな、現れるのをじっと待ってるほど暇じゃないからな。で、どうするんだ?」
「早く確実に犯人を突きとめる為に、この情報は1時間で削除することにします。もちろん全員に伝えます」
「うんうん、なるほどな」
「おそらく犯人は、この1時間内に何らかの行動に出る筈です」
「しかし、所属する他の社員も両方見れる訳だし、どうやって犯人を特定出来るんだ?」
「さすが部長ですね 鋭いご質問です」
「おいおい、おだてるなよ」
「すみません。……部長これから私の申し上げることを、良く聞いていただきたいのです」
 早川は肝心な話を持ち出しうとしていた。
「うん。聞こう」
「順を追ってご説明します。まず、ここまで部長とお話しさせていただいた内容について、確認の意味で整理しながらご説明します」
「うん」
「まず、社内の情報を外部に漏洩させたと思われる人物を特定するための作業、といいますか調査に早急に取り掛かります。特定方法は私にお任せください。
 部長のおっしゃる、所属する社員の社内外の恋愛関係を中心にまず調べてみます。出来れば3日から1週間以内に特定出来ればと思っています。場合によっては、予定内に特定できない場合も考えられますが、ま、何とかやってみます。
 2番目に、これらしき人物が特定された後に、スタッフをA・Bの二つのグループに分けます。なぜグループ分けするのかは、ちゃんとスタッフに説明します。A・Bグループのそれぞれの役割分担と作業方法なども細かく指示します。内容は先ほど申し上げた通りです。Aグループに特定された人物を配属します。
 3番目に、社内LANの取り扱いの変更について、スタッフに細かく説明します。さらに、使用する場合のパスワードの扱い方と守秘義務について説明します。Aチームは共通のパスワード1個、Bチームは、スタッフ各人に固有のパスワードを与えます。何故そうするのかもちゃんと説明します。
 4番目に、ウェブ上に私書箱を設けます。私書箱の内容は、部長名による極めて重要な事項でマル秘扱いだということを、ことさら強調した上でアクセス方法を説明します。先ほどご説明した通りです。
 5番目に、極秘情報は、指定の時間帯の1時間以内でないと見れない旨の説明をします。ここまでが今までの内容です」
「うん。確かに」
「ですが、実はこれだけでは駄目なんです。これからが肝心要の話になります」
「うん。じっくり聞こう」
「ご指摘の、どうやって犯人を特定するのかの話です」
「そうだったな」
「はい。これには少しプログラム上の問題になります。と言いますよりも、ある特殊なプログラムを作る必要があります。特殊と申しましてもそんなに難しいことではありません」
「何だか、難しくなって来たな」
「で、それについて部長に少しお願いがあります」
「おいおい勘弁してくれよ、俺はプログラムのプの字も知らない人間だぜ」
「あは、とんでもありません。お願いと申しますのは、誰か信用のおける電算課のプログラマーを、一人紹介して欲しいのです」
「プログラマー?」
「はい、自分でも出来ないことはないと思うのですが、それに関わっている時間がないように思います」
「そっか、分った。考えよう」
「ありがとうございます」
「で、作ったプログラムをどうするのだ?」
「はい、私のパソコンとウェブ上の新設する私書箱に仕組みます」
「ほぉー」
「プログラムの中身は、簡単に言いますと、特定な人物を割り出すためのソースが内蔵されているということです」
「ソース?」
「はい、正確にはソースコードというのですが、プログラミング言語の言語仕様に従って書かれていまして、コンピュータに対して一連の指示をします。このソースが動くことで、何日のどの時間に誰が私のパソコンを見たのか等が分ります」
「そんなことが出来るのか?」
「はい。さらに私書箱では、相手のグローバルIPアドレス等も分ります」
「なんだよ、その何とかアドレスとかいうのは」
「はい、ネット上に割り振られた、分り易く言いますと、個人の住所と名前みたいなものです」
「ほんとかよ。じゃあ、パスワードを使って、私書箱にアクセスしてきた人間とか会社が特定出来るって訳か?」
「いえ、そこまでは、プロバイダでないと詳しいことは分りません。しかし、どの地域に割り振られたIPアドレスか程度は分ります。……凄いでしょう?」
「おぉー、それは凄いことだよ。えぇー、……ほんとかよ」
「しかし、それも今の段階での技術では、多少曖昧なところがあるようですので、参考程度になると思います」
「なるほど」
「社内のパソコンの、一台一台の機械番号とパスワードとスタッフの名前を組み合わせることで、これも同じようなことが出来ますので、今回はこれを重点的にプログラム化しようかと思っています」
「何だって? 信じられないね」
「考えてみますと、恐ろしいことですよね」
「ゾッとするな」
「でも、そのゾッとすることが実は良く行われているのです。良く耳にするウイルスなども、ハッカーやマニアによる攻撃ですし、銀行や官庁のサーバーやパソコンに侵入して情報を盗むなんてことが、世界中で割合頻繁に行われていますからね。それに比べたら、今度のことは可愛いもんですよ」
「そっかあ、凄い世界だなあ」
「部長、話の腰を折るようですが、この方法ですと、実はグループを二つに分ける必要なんかないのです。分けなくても特定できますから」
「何だって? じゃあ、何で分けるんだよ。面倒だし時間の浪費だろ?」
「グループを二つに分けることで、尤もらしい雰囲気が生まれて来ます。しかもこの方法だと、グループ分けしない時と比べて、若干早い結論を導き出すことが出来ると考えています。別に席替えはしません。今のままです」
「へぇー、これは驚いた。……分った、もうそれ以上聞く必要ないな。……君に任せるよ」
「ありがとうございます。今日にでも電算課のどなたか推薦してください。お願いします」
「うんうん、分った早速人選しよう。……それにしても凄いなあ」
 郷田は大いに驚いた。信じられないという顔だった。
「それに部長、もう一つ。もしかしたら……」
「もしかしたら?」
「はい、大物が引っ掛かるかもしれませんよ」
「大物?」
「はい。犯人が接触しているライバル会社が、分るかもしれませんよ」
「ほんとかよ」
 郷田は信じられない様子だった。
「はい。この社内情報が漏洩されたという話がほんとでしたら、私の感ではそうなると思います」
「ほぉー、それはまた楽しみだな。どんな魚が釣れるか、乞うご期待ってとこかな?」
「はい。そうですね。部長に特大のお土産が出来そうですよ」
「ははは、それは頼もしい。頑張ってくれ」
「はい、それでは、こういう行動予定で行きますが、宜しいでしょうか?」
「例の俺の極秘文書はどうするんだ?」
「はい、私が考えます。社内的に差し障りがあるといけませんので一応部長に目を通していただきたいのですが」
「分った。それにしても君は良くこんな事を思い付いたな」
「はい。パソコンやインターネットについては、日頃その活用については勉強しております」
「うん、はからずも今回はそれが役立ちそうだということだな」
「ええ、変な役立ち方だと思いますけど」
「あははは、何にしても役立てば結構。……うん、結構なことだよ」
 郷田は愉快そうにそして豪快に笑った。
「じゃあ、大変だろうけど、頑張ってくれ」
「はい、ありがとうございます」
「だけど、もし失敗したらどうするつもりだ? 真犯人をあぶり出せなかったらどうするつもりだ?」
「はい、その時はまた別な手を考えます」
「そうか、うん、分った」

「部長、私からお願いがあるのですが、よろしいでしょうか」
「うん、何だね?」
「はい、実は先ほどから気になっていることがございまして」
「そうか、何だ?」
「はい。念には念をと申しますので、ちょっとお願いしたいのです」
「うん」
「あのー、先ほどのゴルフ大会の時、部長と食事された、えーと、そうそう津村さんて方のことですが」
「うん、それがどうした」
「はい、津村さんがどこの会社の人かどういう立場の人かなど、出来るだけ調べておいて欲しいのですが」
「どうしてだ?」
「はい、間違った考え方かもしれないのですが、ライバル会社を攪乱する為に、わざと噂として流したということも考えられます。これはもちろん、憶測もしくは邪推の類かもしれませんが。戦国時代にもよく行われた、ちょっと古い手のような気もするのですが、敵を攪乱させることで、大幅な時間延長を目論むとか作業効率を落とさせるとかすることで、有利に事を運ぼうという魂胆も考えられます。現にこうして時間を割いて対策を考えているくらいですから」
「うん」
「私にはゴルフのことは余り良く分りませんが、食事時にそんな類の話をするものなのでしょうか?」
「なるほど、一理あるな」
「もしかしたら、先方さんは、部長のプロフィールを知っていて近づいて来た、ということも考えられますしね」
「だけど、大会での各組のプレーヤーの人選は、委員長が取り仕切っているから、同じ組になるなんて、よっぽど偶然が重なれば別だが、それは考えられないと思うよ」
「その委員長と津村さんとの関係はどうなんでしょうか。知り合いだったとか、取引上特に深い関係にあるとか」
「……」
「もしそうだったとしたら、津村さんが委員長に頼み込んで、環太平洋建設(株)の建設事業本部のトップである部長と同じ組になることは、容易にできたと思うのですが」
「なるほどな」
「部長が先ほど、津村さんの話しぶりから、何となく気になるところがあってな、とおっしゃた時に、これは駄目元で調べたほうがいいのではと思ったまでなのですが」
「そうか、その線もあり得るな。よし、分った。出来るだけ詳しく調べることにしよう」
「お忙しい部長にこんなこと、しかも無駄骨になるかもしれないことをお願いして。すみません」
「いやいや、ある筋を使って調べるから心配せんでいいよ」
「ありがとうございます。先ほどの犯人の特定には、全力を挙げて取り組みますが、一方では正直言いまして、部下がやったとは、どうしても思えない気持ちもない訳ではないものですから」
「君の気持ちは痛いほど分るよ。私もそうだが、部下を信じられないなんて、これほど情けなくてやるせないことはないからねぇー」
「ありがとうございます」
 郷田は早川の痛烈な叫びを聞いたような気がした。一瞬、この大事な時に、早川の強烈なリーダーシップを阻害してしまいかねない話、しかも単なる噂に過ぎない確証のない話を持ち込んだ自分に対し、少し早まったかなという思いがしない訳ではなかった。

 早川は郷田の部屋を出て、暫らくしてから2階の設計部に足を運んだ。何となく古巣を覗いて見たい気もあったが、課長から何かヒントになる情報が得られるかもしれないと思ったからである。
 岩田課長は、社内のゴシップや井戸端会議情報には特に興味を示す性格だった。それだけに、社内の人間関係については明るかった。課内は静かであった。
「課長、どうですか? 課の成績は」
 早川は岩田課長の席の前に立ち頭を下げながら言った。岩田はしきりに書類に目を通している最中だった。
「おぉー、早川君、どうしたんだ珍しいな」
「ええ、たまには顔出さないと、課長に忘れられると思いまして」
 早川は笑いながら言った。岩田は書類から目を離しメガネを書類の横に置いた。
「この前はすまなったね。休みのところ電話して」
 岩田の顔は如何にも申し訳なさそうである。亜希子と逢ってる時に掛って来て、不愉快な思いをした電話である。その後必殺仕掛人は鳴っていない。
「いえ、どういたしまして」
「まあ、ちょっと座れや、……斉藤君すまん。コーヒー頼む」
 岩田課長は事務の斉藤恵子に声を掛けた。
「はい」
 斉藤恵子の弾んだ声が返ってきた。
「どうだC&Tの方は」
「ええ、お蔭様で順調です。いよいよこれからです」
「そうか、それは良かった。楽しみだな」
「ご期待に添えられるかどうか分りませんが、ま、精一杯やってみます」
「浅田君も張りきっているみたいだね」
 岩田課長が浅田香織のことを話題にするとは思わなかった。
「ええ、助かってますよ。良くやってくれてます」
 斉藤恵子がコーヒーを運んできた。
「お待ちどうさま、どうぞ」
「ありがとう、ごめんな忙しいのに突然来ちゃって」
 早川は彼女に礼を言った。
「お待ちしてました。時々いらっしゃればいいのに、みんな主任のことそんな風に言ってますよ」
 彼女は嬉しそうである。さほど綺麗とは言えないが、丸顔でえくぼの可愛い女性である。
「うん、ありがとう。一段落したら又来るよ」
「はい、お待ちしております」
 斉藤は一礼して去った。
「相変わらず君は女性にモテルなあ」
「あは、そうだと良いのですが、女性にはなかなか縁がありません」
「君は仕事以外に興味はないのか?」
「いいえ、これでも男です。興味がない訳ではありません。ただ縁がないだけですよ」
「君は忙しすぎるからなあ、少しぐらい羽目外したらどうだ? 何だったら今夜でもどうだ?」
 早川は情報収拾の為に課長の誘いに乗って見ようと思った。酒の席で課長は、いつも社内の人間模様について語ることが多かった。早川はこの手の話は苦手であった。大の男が酒の力を借りて、週刊誌まがいの話を、飽きもせず語ることの価値を見出せずにいた。だが今日は違う。その週刊誌まがいの中に、犯人の手掛かりが見つかるかもしれない。
「いえいえ、今そんなことしたら首になりますよ」
 早川は笑いながら一応それとなく誘いを断った。
「そんなこと言わずに行こうや。いい店を見つけたんだよ。きっと気に入ると思うよ」
「どんな店ですか?」
「うん、ま、行ってからのお楽しみだな。……な、いいだろ? そこへ案内するから」
「あはは、課長にはかなわないですね。では課長、今日は用事がありますので、明日の晩ではまずいですか?」
 今夜は甲斐オーナーと会わなければならない。甲斐オーナーとは多分酒の席になると思われるから、明日岩田課長と飲むとなれば連チャンとなってしまう。今までもなかった訳ではない。犯人の手掛かりを早く知りたい思いが誘いを承諾した。
「そうか、分った。明日の晩だな、そうしよう」
 岩田は嬉しそうに笑った。早川は岩田と久しぶりの会話を楽しんだ。
「ところで課長 成績の方はどうですか?」
 早川が話題を変えた。
「うん、それがねえ」
 岩田の顔が曇った。
「悪いんですか?」
「そうなんだよ。さっきも部長に怒鳴られたばかりだ」
「そうですか、いけませんね」
「うん。君のありがたさが痛いほど分ったよ。そうでなくても人員の補充がないだろう? 少ない人数でやり繰りに大変だよ」
「そのうち、なんとかなりますよ」
「そうだといいけどなあ、……ったく、困ったもんだ」
 岩田は困り果てたような顔をしていた。
「早川君、例の話早くしてくれないかなあ。根回しの時間もあるし」
 岩田が小さな声で懇願してきた。例の早川の後継者の話である。
「分りました。実はもう、2、3推薦出来るように考えてあります」
「えっ、ほんとかよ、……すまん」
「明日の晩でいいですか? 飲みながらお話ししますよ」
 岩田の曇った顔が急に明るくなった。
「うん、明日の晩だな。分った楽しみにしてるよ」
 岩田は如何にも嬉しそうな顔をした。
「おっと、忘れるとこだった。……おーい、若林君、ちょっといいかな?」
 奥から若林が小走りに近づいてきた。
「主任、あ、すみませんリーダーでしたね。……どうも」
「うん、どうも、……元気かい」
「はい、お陰様で」
 若林良夫は終始にこやかだった。課内では芸能部長で通っていた。
「若林君、例の送別会の件で、早川主任いやリーダーと打ち合わせしたのか?」
「いえ、まだです」
「じゃあ、丁度いいや。今しておいたらどうだ?」
「そうですね。リーダーはいつが都合がいいですか?」
 早川は手帳を取り出してスケジュールを確かめてみた。今週の土・日は完全休養日の予定になっていた。手帳を見ながら急に別なことが頭をよぎった。
「えーと、そうだね。あまり近くても段取りしにくいだろうから、今度の木曜日はどうだろうか?」
 今日は月曜日だから、3日後の木曜日なら会場の手配などがし易いのではと思った。
「分りました。多分みんなは大丈夫だと思います。課長はどうですか?」
「うん、俺は大丈夫だ」
「はい。分りました。……じゃあ木曜日ということで準備します」
「何時からだ?」
「7時、……19時からはどうでしょうか?」
「そうだね。いいね」
「じゃ、そういうことで」
「すまないね、無理言って。……それと、これは私からのお願いなんだけど」
 早川は若林の目を見て言った。
「はい。何でしょうか?」
「せっかくだから、私と同じ5階のC&Tにいる石川君や浅田君など、ここにいたスタッフにも声を掛けてくれると嬉しいんだけどなあ」
 若林は相変わらずの早川の気配りに感心した。
「もちろんそのつもりです。既に声だけは掛けてあります」
「そっか、さすが芸能部長だな。ありがとう、きっと喜んでくれると思うよ」
 早川は笑いながら一応幹事の若林に礼を言った。
「いえ、私の取柄はそれぐらいですから。じゃあ失礼します」
 若林は足早にその場を去った。その時、早川に電話の知らせがあった。5階のスタッフから至急な用事だと言う。
「課長すみません。又来ます」
「うん、ありがとう。……じゃあ、明日な、頼むわ。……頑張れよ」

 早川は急いで5階の特別室に向かった。早川の席で待っていたのは係長の石川達郎だった。
「おー、石川君、何だね? 急用って」
「はい、部長から電話がありました。折り返しすぐ電話するように言われました」
「おっ、そうか、すまん」
 石川係長は席に戻った。早川はデスクの受話器を取った。
「あ、先ほどはありがとうございました」
「あのな、電算課に吉田雅彦という主任がいるから、彼に電話するといいよ。内密に主旨を簡単に話しておいたから」
 郷田の早い対応に驚いた。
「ありがとうございます。早速準備に掛ります」
「うん。そうしてくれ。それと例のゴルフの時の件だが、これも依頼しておいたから、おっつけ報告があると思う。報告があったら知らせるから」
「重ね重ねすみません。ありがとうございます」
 早川は受話器を耳に当てたまま頭を下げた。
「成功を祈る。大変だろうが頑張ってくれ」
「はい、かしこまりました。ありがとうございました」
 早川は受話器を耳に当てたまま、部長との電話を切りデスクの引出しを開け、ビニールでカバーされた内線番号表を取り出した。指でなぞりながら電算課の吉田主任の内線番号を探しだし、ボタンをプッシュした。
「吉田のデスクですが」
「お忙しいところすみません。C&Tの早川ですが」
 少しトーンを落として話した。相手の吉田も事情を呑み込んだらしい。
「あ、はい、先ほど部長からお話は伺っております」
「そうでしたか、早速で申し訳ないのですが、1時間後にいいですか?」
 時計を見た。15時半を少し回っていた。
「ええ、構いませんよ。どうしましょうか?」
「ここじゃなんですから、そちらにお伺いします」
「そうですか、じゃあ応接間にお願いします」
「ありがとう、じゃあ後ほど」
 プログラム作成にはそれなりの時間を必要とする。早川はなるべく早くこの作業は終えておきたかった。デスクの椅子に腰を掛け、引出しからA4の用紙を取り出した。天井を向き目を閉じて少し思案した。暫らくして目を開けて用紙を縦にしてメモし始めた。メモは以下のような内容である。

(PC識別番号)
早川 → CT00
Aチーム → CT(0106)
Bチーム → CT(0719)
上記Aチーム・Bチームの席の並び替えは必要ない
アクセス者の記入欄(INPUT TYPE)
 ・氏名、生年月日、出身地、メールアドレス
用意するもの
 ・私書箱 (サーバー転送用HTML)
 ・極秘事項(早川作成)→ 電算課にソース渡し
 ・私書箱へのアドレス → ※(CT00
 ・各スタッフの固有のパスワード → ※
 ・HTMLにプログラム記述
  → ウェブサーバー用(CGI?)→ ※
 ・CT00にプログラムインストール(早川)
  → 社内LAN用 →(※)
 ・ウェブサーバーへのアクセス可能時間
  → ※(1500分~1600分)
  ※は電算課にお任せ
目的
 ・人物の特定
 ・成りすましの対策
 ・PC → PC識別番号など
 ・ウェブサーバー
  → IPアドレス、メルアド、アクセス時間等

 思いつくままに書いた。書き終わって早川は暫らくじっと見つめた。小さく頷き、用紙を二つ折りにして胸のポケットにしまった。

 16時半になって電算課の応接間に駆け上がった。電算課は、8階の朝礼が行われる大ホールの横にある。応接間のソファに腰かけて程なく1人の青年が現れた。普段はまず顔を見ることはない。
「お待たせしました。吉田です」
 首から胸にぶら下がった社員カードには、電算課主任吉田雅彦とあった。早川と同じくらいの年齢と思った。
「いやー、すみません、早川です。……初めまして」
「あはは、私は初めましてではありません」
「えっ、何処かでご一緒しましたかね?」
「いえ、ご一緒したことはありませんが、早川さんのことは社内では有名ですし、先日は朝礼の時に、熱いスピーチをお聞きしたばかりです」
「あぁー、……あは、お恥ずかしい限りです」
「いえいえ、なかなかのものでした。敬服しました」
「ありがとうございます。そう言っていただくとなんだか嬉しいですね」
 早川は頭に手をやりながら恥ずかしそうに笑った。
「大変な作業なようですね。ご苦労様です」
「ありがとうございます。私が至らないものですから苦労しております」
「お越しになった用件も思わぬ展開で大変ですね」
 吉田は部長からの話から、ことの成り行きをあらかた想像していた。
「ええ、お察しの通りです。私の不徳の致すところで、突然とんだご迷惑をお掛けすることになり、申し訳ありません」
 早川は吉田に向かって深く頭を下げた。吉田はこの早川という人物から、何か言い知れないオーラを感じた。やはり噂に違わぬ人物だと改めて思うことだった。建設事業本部長がC&Tのリーダーにしたのも頷けた。
「ところで早速ですがお話をお伺いします。部長からは大体はお聞きはしていますが」
「はい。ありがとうございます。吉田さんもお忙しいでしょうから早速ご説明します」
「お願いします」
「確認ですが、今回のお願いの主旨はご存知ですよね」
「はい、部長からお伺いしております」
「はい。それと、これも念頭においていただきたいのです。と申しますのは、多分この件は、部長からの話にはなかったと思われますが、場合によりましては、せっかくのご努力も、徒労に終わる可能性もあることを、ご承知おきいただきたいのです」
「と申しますと?」
 早川は、この問題は社内のこととは全く関係なく、もしかしたら社外の問題ではないかと、部長のゴルフ場での件を交えて話した。そして、その津村という人物が怪しいという思いを、どうしても捨てきれないでいることの旨を話した。だから、場合によっては、外部からのウェブサーバーへのアクセスが全くないことも充分あり得るということも話した。
「なるほど、充分考えられますね」
 そして、どちらにしても、会社にとってマイナスになるような疑わしきことに対しては、可能な限りあらゆる手段を講じて、事実を突き止めておく必要性を力説した。
「ご尤もです」
「ほんとは、どちらも事実無根であって欲しいと祈っているんですけどね」
「ええ、ええ、そうなるといいですね」
 早川は胸のポケットから用紙を取り出して、テーブルの上に置いた。
「私なりに簡単に考えをまとめてみたました。大体網羅したつもりですが、ちょっと見ていただけますか?」
 吉田は少し前かがみになって、用紙にぎっしり書かれたメモを目でゆっくりと追った。時々、うんうんと頷くように首を小さく曲げた。
「早川さんはプログラムについて大分お詳しいようですね」
「あは、何をおっしゃいます。ずぶの素人ですよ。見よう見まねで、多分こんなことかなと思いながら書いてみたまでです」
「CGIの知識をお持ちのようですね」
「それも見よう見まねですが、少しばかりは」
「このCT01~CT19は現状の配置で、これがA、Bグループに区分けされたときに、必ずしもこの順番通りにはならないと解釈すればよろしいのですね」
「はい。その通りです」
「もう一つ、これは確認なのですが、それぞれのパソコンは、スタッフ専用になっているのですね。つまりCT01~CT19は、それぞれ固有の担当者の属性がくっついていると考えてよろしいですね」
「はい。その通りです」
「AチームとBチームに区分するのは、カモフラージュの為ですね?」
 もう何も言うことはない。早川はさすが電算課のエリートだと感心した。呑み込みが早くて的確だ。
「分り易くて、良く出来た内容になっていますね。早速作業に取り掛かります」
「どのようなタイムスケジュールを考えておけばよろしいでしょうか、少しばかり急いでいるのですが」
「ですね、こうしましょう」
「はい」
「3日後に、私なりに作成した内容についてここで打ち合わせしましょう。確認作業です」
「はい。3日後ですね。木曜日ですね。何時がよろしいですか?」
「今日と同じ時間でいかがでしょうか? 16時半ですね」
「はい、分りました」
 早川は手帳を取り出してメモした。
「内容的に問題がなければ、コードの記述を経て最終的に仕上げます。この作業が4日程度で済みますから、どうですか? 来週の木曜日にPCのCT00とサーバーにプログラムをインストールして、テストしたいのですが」
 吉田は、応接セットの横の壁にぶら下がった暦を指さしながら言った。
「えっ、そんなに早く出来ますか?」
 早川は手帳にメモしながら驚いた顔を吉田に向けた。
「ええ、大丈夫ですよ、この手のプログラムは、とても簡単なんですよ。お任せください」
 早川は吉田が頼もしく思えてきた。
「それまでに、この段階の内容は、実際のものとは違ってもいいですから、プログラムを経て、アクセスしてきた時に私書箱で表示するためのHTMLを私にいただけますか?」
「はい。分りました。用意します」
「上手くいくように頑張ってみます」
「いやいや、ほんとにすみません。助かります」
「部長直々の仕事ですので、実は少し緊張しています。失敗は許されませんからね」
「私も同じですよ。でも吉田さんのお蔭で、部長にいい報告が出来そうです」
 早川は吉田の手を握った。
「吉田さん、ほんとにありがとうございます。よろしくお願いします」
 深く頭を下げた。吉田はこの時、早川と、はからずも縁が出来たことに喜びを感じていた。早川の目をじっと見た。
「何としても成功させましょう」
 手を強く握り返した。
「それじゃあ、失礼します」
「頑張ってください。お疲れ様でした」
 早川はソファから腰を上げて立ち上がったが、言い忘れていたことに気がついた。
「すみませんが、私の思うところがありますので、実際のプログラムの稼働については、改めてその日時をお伝えする、ってことでよろしいでしょうか?」
「はい、多分そうなるでしょうね。心得ました。結構です」
 早川は電算課の応接間を後にした。

 早川が部屋の壁に掛けてある大きなホワイトボードに進行状況をチェックしていたその時、スタッフの一人が近づいて来た。
「リーダー、甲斐さんからお電話です」
「あの甲斐さんか?」
「はい、そうです。オーナーです」
「ありがとう」
 早川は保留中になっている自分のデスクの受話器を耳に当てた。先日八王子のホテルで、チェックアウトの際手渡されたメモのことを思い出した。
「お待たせしました。早川です」
「おはようさん。いつぞやはどうもありがとう」
「とんでもございません。却ってご配慮いただきまして、ほんとにありがとうございました」
「早速ですけど」
「ええ」
「早川さん、今夜時間取れない? ちょっと相談があるの」
「仕事の件ですか」
「ええ、それもあるけど、別な要件もあるの」
「そうですか、分りました。で、いかがしましょう」
「無理言ってごめんなさいね。……お仕事大丈夫?」
「はい。なんとか都合つけますから」
「ありがとう。赤坂の野菊っていう料亭ご存知?」
「いえ、存じ上げませんが」
「そう、タクシーでいらして、タクシーなら大概知ってる筈よ」
「分りました。何時ですか?」
「出来れば20時頃だと嬉しいの」
「はい、かしこまりました。お伺い致します」
「ほんとに無理言ってごめんなさいね。じゃあ、お待ちしてます。……それとこの話、誰にも内緒にしといて下さる?」
「はい、心得ました。じゃあ、その時に、……失礼致します」
 甲斐オーナーとはこれまでに何回となく会っている。仕事上の打合せが主だった。場所も社内かオーナーのオフィスかのどちらかだった。もちろん建設現場での打ち合わせも頻繁にあった。料亭での打合せは今回が初めてである。しかも、仕事以外の要件で相談したいことがあると言う。あれほどの立場の人が、仕事ならいざ知らず、プライベートなことで自分如きに相談とは一体なんだろう。しかも、誰にも内緒にしてくれと言う。この言葉が早川は妙に気になった。

 甲斐佐知代は先代の父啓三郎の長女として生まれた。一人娘であった。
 啓三郎は都内で小さなホテルを経営していたが、後継ぎのことで悩んでいた。同族企業であるが故に、佐知代は役員として名前は連ねていたが、実際は娘の域を出ることはなかった。出張を理由に、あちこちに出かけて遊びほうけた。特に海外への出張が多く、世界各国の都市を見学し、佐知代の言葉を借りれば見識を広めたのである。
 30歳になり、今の専務の泰三と結婚した。泰三は若い頃から父の啓三郎を慕い良く働いた。真面目で口数の少ない青年であった。息子に恵まれなかった啓三郎は、この真面目で働き者の泰三を我が息子のように可愛がった。
 佐知代は父の半ば強引な説得に渋々応じた。そして、泰三と結婚したのである。晩婚であった。結婚してくれれば少しは落ち着いてくれるだろう、という父の期待は見事に外れた。自由奔放に生きてきた佐知代には、結婚そのものが窮屈だった。以前にも増して自由に伸び伸びと遊ぶようになった。もっぱら婿の泰三が表舞台で働いていた。
 佐知代は父の急死によって後を引き継いだが、経営者とは名ばかりで全くの素人であった。長年の経験で婿の泰三が実務をこなしていた。
 そんな時、佐知代が表舞台に出ざるを得なくなった出来事が起こった。
 ある日、客とのトラブルがあった。客はフロントや泰三の対応に納得しなかった。代表者を出せとしつっこく迫った。困り果てた泰三は、オーナー室にいた佐知代に相談した。
「原因は何でしたの?」
 佐知代は婿の泰三に聞いた。
「シャワ-の出が悪いということだった」
「確かなの?」
「前々から、上の階に行く程、シャワ-の出が悪いことは分かっていたんだけどな」
「今までにもお客様から同じような苦情はあったの?」
「たまにあった。だけど、今日みたいなことにはならなかった」
「そう、で、お客様の要求は何なの?」
「シャワーもまともに使えないホテルの料金にしては高すぎる、ということを主張してるんだよ」
「それで、専務としてはどう対応したのかしら」
「当ホテルの規定ですからと主張を聞かなかった。飲みこめば、次々とそういうお客が増えるからな」
 佐知代は泰三の話を聞いて愕然とした。
「分ったわ。そのお客様を応接間にお通しして。……あなたも同席して頂戴」
 佐知代は泰三に命じた。
 客は応接間に入った。その顔は怒りに満ちていた。佐知代は丁寧に挨拶した。
「この度はとんだご迷惑をおかけ致しまして、ほんとに申し訳ございません」
 佐知代は深々と頭を下げた。
「その上、社員の対応が悪くご機嫌を損ねましたこと、重ね重ねお詫び申し上げます」
 客は佐知代の態度に、次第に怒りが収まったように見えた。
「別に私は因縁をつけようと思って言ってる訳じゃないよ。このホテルのことを思って言ってるんだよ」
「ありがとうございます。ほんとに申し訳ないことを致しました。これから充分気をつけます」
「分かってくれればいいんだよ」
 客は席を立とうとした。
「あ、少しお待ちください」
 佐知代は用意していたチケットを客に見せた。
「お詫びの代わりというのもなんですが、これをお受け取りください」
 無料宿泊券であった。
「いや、いくらそういうものを貰っても、快適に利用できないホテルに足を運ぶ気にはなれないよ」
「ご尤もです。今度来られるときには、このチケットのありがたさがお分かりになる筈です」
「というと?」
「はい、お客様のおっしゃる不満を含めて大改造致します。今度はきっと喜んでいただける筈ですよ」
 泰三は驚いた。客室の改造の話は聞いていなかった。
「それと、今日の宿泊代は戴く訳にはいきませんわ。ほんとに申し訳ないことを致しました」
 客は驚いた。無料宿泊券を貰った上に、今日の料金までも無料だと言う。
「いや、私は何もそんなつもりで言ったのではありませんよ。それでは却って申し訳ない。料金はお支払いしますよ」
「いいえ、私どもの不手際ですから気になさらないでください。それより、これに懲りずに、またのご利用をお待ちしております」
 客は大いに恐縮した。
 一方、佐知代と客とのやりとりを聞いていた泰三は、佐知代の感覚を疑った。これでは客をのさばらせるだけである。笑顔で客を見送った後、佐知代は泰三の顔を見て言った。
「ふふ、ご不満のようね」
「当たり前だろう。あそこまですることはないよ」
「そうかしら。専務は他のホテルに宿泊したことあって?」
「ない訳じゃないよ」
「そのホテル快適だったの?」
「何を基準に快適なんだよ。不満はなかったけど」
「そうね、快適の基準は人それぞれよね。でもね、シャワーの快適さって、ホテルに求められる大事な要素の一つには変わりないわよね」
「それはそうだけどな」
「もしもよ、専務が宿泊したホテルが、うちと同じようなことだったら、先ほどのお客様と同じようにきっと不満な筈よ。愚痴の一つや二つも言いたくなるわよ。そうじゃないかしら、……そうでしょう?」
 佐知代は鋭い目つきで泰三の目を見た。
「……」
「その快適さを提供できなかったホテルに、いい訳なんて通用しないわ」
「……」
 泰三は言葉に窮した。
「はっきり言って、これは専務の怠慢ね。勉強不足だわ」
 佐知代の言葉には、はっきりとした怒りが込められていた。
 それ以来佐知代は遊びを止めた。そして、ことごとくホテルの運営に口出ししてきた。オーナーは佐知代である。ホテルの運営に口を出すことは当たり前と言えば当たり前だが、これまでの経緯上泰三には佐知代のそういう態度が不満であった。これまでのように佐知代には好きなことをしたり遊んでいて欲しかった。だが、佐知代の精力的な行動と筋の通った考えの前に何も言えなかった。長年勤め上げ経験豊富な筈の泰三にも及びもつかないようなアイディアが、佐知代の口から次々と飛び出した。
「だてに遊んでなんかいなくてよ。こういう時の為に勉強してたのよ。いよいよ私の出番が来たみたいね」
 佐知代は泰三に宣言した。皮肉にも、佐知代の遊びがホテルの運営に役だったのである。
 まもなく佐知代は、銀行の融資を取付け大改造に踏み切った。改造後ホテルは繁盛した。クレームをつけた先の客も来てくれた。そして丁重なお礼の言葉を残した。こうして甲斐佐知代は事業の面白さに目覚め、着々と事業を拡大していったのである。

 早川との出会いは丁度その頃であった。当時早川は若いにもかかわらず、大型プロジェクトの旗頭として、作品を次々と世に送り出していた。
 会社が受注し施工することには変わりはない。会社の一社員に過ぎない早川ではあったが、社の命を受けて、発注者との打ち合わせに精力的に動いた。競合に打ち勝ち着実に成果を上げて行った。いつしか会社は、早川の能力に高い評価を与えるようになった。それと同時に、社内外に徐々に名前が知れ渡るようになった。
 一方、そのころの甲斐はまだ女性経営者として、それほど名声が高かった訳ではなかった。いやむしろ、世間はその手腕を高みの見物してるようなところがあった。
 人づてに噂を聞いて佐知代は、早川という設計技師に興味を持ち始めた。そして事業拡大に伴ない早川に急速に接近した。
 今では甲斐は会社の上得意でもあり、早川自身のことも高く評価してくれていた。仕事の打合せにいつも早川を指名してきた。甲斐は早川の仕事に対する熱意と設計センスもさることながら、いつも経営的な視点から、如何にしたら運営が軌道に乗るか等の、具体的な提案をしてくれることに感謝していた。甲斐としては、当然自分のグループ会社やホテルが軌道に乗ることを望むし、意見も欲しい訳である。
 しかしながら、甲斐は早川の頑固なまでの主張に、最初の頃は抵抗があった。というよりも、自分の考え方や運営に絶対の自信を持っていた。その為早川の提案を何度も無視し、なかば強引に自分の主張を貫き通した。その度に早川の残念そうな顔を見てきた。
 ところが、八王子にホテルを設計する時点から甲斐の考えが変わった。その時は何故か早川の説得に乗って見ようと思った。何故その時そう思ったかははっきりしないが、それこそ、騙されたつもりで早川の説得に応じた。その結果、甲斐自身の事業、いやホテルを初めとする商業施設やオフィスビルの設計に対する考えが大きく変ったのである。
 成績の悪い店に優秀な人材を配置し、テコ入れを計る場合が良くある。だがこれは、一時的には業績は良くなるが長続きしなかった。早川の設計した建物だけが不思議と業績が良かった。オープン当初は普通である。だが、日を重ねるごとに客足が伸びた。もちろん現場の努力は見逃せないが、甲斐はそればかりではないような気がしてきた。やはり早川の主張が正しいのではないかと思うようになってきた。早川の設計には、はっきりと目には見えないが、何かがあるような気がした。
 それ以来、事あるごとに早川の意見をじっくり聞き尊重するようになったのである。

 早川はタクシーを拾い赤坂の野菊という料亭に向かうよう運転手に告げた。
「かしこまりました」
 運転手は一つ返事だった。野菊という料亭は、余程名の通った料亭とみえる。約束の時間より10分ほど早く着いてしまった。手前でタクシーを降りて歩いた。暫らくして右手にいかにも料亭らしき古い和風の建物が目に入った。さすが赤坂の一等地だ。一目で高級感を漂わせた料亭であることが分る。
 やや狭く長いアプローチに敷き詰められた那智石の鳴き声を聞きながら、この暗さでは目で確認するには少し難儀な、太い丸太に黒く掘り込まれた野菊という筆文字が見えた。
 2本の太い丸太に支えられた、如何にも古そうな深い土庇をくぐった。土庇の門の化粧垂木の先端の唐草模様の銅版が緑青を化粧していた。
 床は天然の割り肌石の乱形に変わった。歩を進める両脇は、品のある植栽が来客に微笑みかけているようである。花と緑それに石の巧みな施しが心憎いばかりである。少し歩いていくと、黒御影石のバーナー仕上げと思われる敷石に導かれて玄関にたどり着いた。
 腕時計は20時5分前を指していた。趣のある玄関の引き戸に手を掛けて静かに開けた。
「いらっしゃいませ」
 式台のよく手入れされた分厚い欅の一枚板の艶が、来客には威張って見えた。その奥で数人の仲居が深々と頭を下げていた。
「早川と申しますが」
「はい。伺っております。お連れ様から少し遅れる旨の連絡が先ほどございました」
 他の客に名前を知られては不都合な場合もある。そういう配慮から名前はお連れ様になる。
「ご案内致します。……さあ、どうぞこちらへ」
 長い廊下を何回か90度に右に左にと折れ曲がりながら部屋に通された。控えの間の奥のふすまを開けた。部屋中央には1寸5分ほどの分厚い花梨の一枚板が光沢を飛ばしていた。仲居はそのテーブルにお茶を置いた。早川は仲居に勧められてテーブルに着くように促されたが遠慮した。
「あら、困ったわ、お連れ様に怒られてしまう」
 仲居は早川の姿勢を崩さない姿を見て、諦めたようにしぶしぶ引き下がった。甲斐オーナーが見えるまではテーブルに着くのを控えた。部屋の入口側の隅に正座して甲斐オーナーを待った。
 案内された8帖間には趣のある床の間があり、松竹梅を抱いた昇り龍が掛軸の中で所狭しと踊っていた。その下の欅の地板には生け花が品良く座っている。聚楽の土壁にはやや幅広の長押が取り付けられ、付鴨居とそれに沿って抱き合ている。今ではとても珍しい赤松中杢正角の床柱が部屋の雰囲気を引き締めている。部屋中を見まわしながら、久しぶりに見る純和風の造りが目の保養になった。
 早川は過去に港区で、銅板のこけら葺きに一文字葺きの粘土瓦を乗せた、純和風の住宅を設計したことがある。材料の吟味に、何回となく木場に足を運んだことを思い出した。
 間もなくして甲斐オーナーが襖を開けて現れた。
「遅くなってごめんなさい。……あらまあ、そんな片隅に。あれだけ言っておいたのに」
 甲斐は入り口に立ったまま少し不満そうだった。
「お疲れ様です。……いえ、そのことでしたら、仲居さんに強く言われたのですが、私が勝手にこうさせていただきました。仲居さんを叱らないでください」
「相変わらずね早川さんて。……さ、そちらに座って」
 甲斐オーナーは、床の間側のいわゆる上座の座布団に座るように言った。
「とんでもございません。私はそちらに」
 と言って反対側に足を運ぼうとした。
「ダメッ、今日の早川さんは私のお客さんだから。ね、そうして頂戴」
「困りましたねぇー。……やっぱりまずいですよ。オーナーどうぞ」
「早川さんってそんなに強情でしたの? 今日は何も言わずにそっちに座って。……ねっ」
「オーナー、そんなにいじめないでくださいよ」
「いいから、座って」
 甲斐は笑っていた。
「そうですか? なんだか気が引けるなあ。じゃあ、すみません」
 言いながら、いかにも困ったような照れ笑いの顔で頭に手をやりながら座った。
「なんだか、落ち着きませんね」
「なかなか様になっててよ。うんうん、君よろしい」
「あはは、冷やかさないでくださいよ。穴があったら入りたい心境です」
「ふふふ」
 ほどなく仲居が2人、ビールと料理を運んできた。
「早川さん、先日はお越しいただいてありがとう。改めてお礼言うわね」
「とんでもございません。却って良くしていただいて恐縮しています。ありがとうございました」
 電話で交わしたリプレイであった。
「その後、花岡さんとは上手く行ってるの?」
 早川は、甲斐オーナーが亜希子の名字を覚えていたことに少し驚いた。
「はい。今のところは何とかやっています」
「そう、何度も言うけど、ほんとにいいお嬢さんね。女の勘と長年の経験でそう思うの」
 早川は甲斐オーナーに亜希子のことを誉められて、悪い気はしなかった。自然と顔がほころんだ。
「結婚する気なんでしょ?」
「ええ、そのつもりでいます」
「そう、頑張ってね。彼女を大事にすることね」
「はい。そのつもりでおります」
「お似合いのカップルが誕生したみたいね」
「ありがとうございます」
 仲居がテーブルの準備が整ったことを告げて引き下がった。
「さ、何もないけど召し上がってください。ビールの方がいいと思ってビールにしたわよ」
「ありがとうございます」
 早川はさっとテーブルのビール瓶を手に取り、甲斐オーナーに勧めた。
「さっきも言ったでしょ? 今日は早川さんは私のお客さんよ」
 甲斐オーナーは早川が持っていたビール瓶を強引に取り上げて、早川にコップをとるように促した。仕方なく、伏せてあったコップを返しながら手に取った。甲斐オーナーがビールをゆっくりと注いだ。それから、早川が甲斐オーナーのコップにビールを注いだ。
「じゃあ、乾杯ね。今夜はよろしくね?」
 早川は先ほどからのこれまで見たことのない甲斐オーナーの素振りに、戸惑いそして多少の疑念を抱きながら、
「こちらこそ」
 と返事した。
「早川さん、お酒強いんでしょう?」
「オーナー、私が下戸だということはご存じな筈でしょう?」
「ついこの間まではそう思ってたわよ。この間まではね」
 甲斐は意味ありげに含み笑いをした。
「この間までですか?」
「あのワインの飲みっぷりで下戸とは言わせないわよ。……まさか花岡さんが全部飲んだとは言わないわよね」
 あっ、あの記念日のことだ。あの晩2人で高級ワインを1本平らげてしまった。
「ふふふ、思い出したようね」
「あ、あの、あれは、あまりの美味しさ、……初めて味わう美味しさでした。で、ついついやってしまいました。……これってオーナーも悪いのですよ」
「わたしが? どうしてよ」
 甲斐オーナーと早川とはだいぶ歳の差があるが、まるで恋人と喋っているような雰囲気になってきた。
「あんな高級なワインは、滅多にいただけるものじゃありません。よく考えてみてください。庶民の感覚では、飲み切れずに残すことに強い罪の意識が働きます。余りにも勿体なくて。ですから、あのワインをサービスしていただいたオーナーも悪いのです」
 早川は照れ笑いを交えて精一杯の理屈をこねた。
「まあ、変な屁理屈だこと。……じゃあ、このビールじゃすぐ酔ってしまうとでも言いたいの?」
 甲斐も少しばかりいじめてみたい心境になった。
「そうです。すぐ酔ってしまいます」
「そう、じゃあ、この前のワインと同じものをここに届けさそうかしら、そしたら酔わないわよね? ふふ」
 早川は大いに慌てた。甲斐オーナーならやりかねない。
「オーナー、もう勘弁してくださいよ」
「ほほほ、そうだわね。今日は肝心要の話があるから、早川さんに酔っぱらってしまわれては困るわ」
「あぁー、良かった。どうなるかと思いましたよ」
「ふふふ、早川さんて可愛いわね。……花岡さんから奪ってしまおうかしら」
 甲斐は早川を指さし、目をじっと見つめながら言った。甲斐の美しい顔は微笑んでいる。
「また、きつい冗談ですよ。……もう心臓が止まりそうですよ」
「ほほほ、そうだわね。ほほほ」
 甲斐は愉快そうに笑った。それから2人は、料理をつつきながら長いこと談笑した。

「オーナー、ところでお話って何ですか?」
 早川が切り出した。
「まあ、せっかく久しぶりにいい気分になってるのに、空気の読めない人ねぇー」
「あ、ごめんなさい」
「冗談よっ、でも半分本気よ。話はまたの機会にしようかなあ」
 甲斐の顔がふっと曇った。こんなに気分が晴れやかで愉快なことは久しくなかっただけに、この気分をもう少し持続させたかったのである。
 早川は甲斐オーナーの一瞬ではあったが曇った顔を見て、オーナーは孤独なのかもしれないと思った。
「あれっ、オーナーのそんな弱気な言葉、オーナーらしくないように思います」
「ほら、いつだったかしら、話したことがあると思うけど、私ってホントは弱い女だって」
「はい。お聞きしたことございます。でも、その弱い心を奮い立たせて頑張ってきたのよ、ってことも言われていました」
「こうして、若い将来性のある青年と気さくに談笑出来ることが、私の心を弱くしてるのよね」
「オーナー、私の口から申し上げるのも、とても失礼なような気もするんですが、怒られるのを承知で、今私が思ってることを申し上げてもいいですか?」
「ええ、何なの? 何言われても怒らないわよ。大丈夫よ」
「酒の上での話と思って、聞いてください」
「酒の上での話というほど飲んでないわよ。2人でたった1本のビールよ」
「ははは、そうですね。でも私は下戸ですから結構きてます」
「嘘おっしゃい。……で、なんなの。早くおっしゃい」
「絶対怒らないと約束してください」
「まあ、くどいわねぇー。じゃあ指切りげんまい。……はい」
 甲斐は無邪気に笑い早川の小指を胸元に引き寄せた。真珠の首飾りが豊満な胸の谷間に沈んでいた。
「さあ、約束したから話して頂戴」
「はい、じゃあ思い切って言います。……間違っていたら、ごめんなさい」
「ええ」
「オーナー、……今っていうか、最近、孤独なんじゃないですか? ……間違っていたら、ごめんなさい」
 早川の言葉を聞いて甲斐の様子が変わった。早川の目を見つめて、急に今にも泣きだしそうな顔になった。
「どうして分ったの?」
「ええ、何となくです。ただ何となくです」
「早川さんって鋭いわね。図星よ」
「やはりそうでしたか。……先ほどから気になっていたんです」
「そう、ありがとう」
「いえ、……」
「早川さん」
「はい?」
「話変わるけど、うちのダンナのことどう思う?」
「えっ、旦那さんですか?」
 思わぬ話の展開に驚いた。
「ええ、うちのダンナ」
「どうって言われましても、あまり深いことは分りませんが、実直そうな人だと思いますが」
「実直ねぇー。うん、それは当ってるかな。……ほかには?」
「そうですね。ホテルの実務経験が長いですから、頼りになる人ですかね」
「ほんとにそう思ってるの?」
「……」
「適当なこと言ってるわね? 顔に書いてあるわよ。当たり障りのないことを言って欲しくないの。本当のことを言ってくれた方が私としては嬉しいわ」
「……」
 早川は困った顔になった。
「私はこんなに弱い女ではあるけど、やっぱりもっともっと羽ばたきたいのね」
「ええ、オーナーのことですからきっと出来ると思いますよ。これはほんとにそう思っています」
「ありがとう」
「そのことと旦那様のことと関係があるんですか?」
「大いにあるのよ、それが」
「私には理解しかねますけど、どう関係があるのですか?」
「このことは、いままで誰にも話したことないのね」
「はい」
「これからお話しすることは他言無用でお願いしたいの。信頼出来る早川さんだからお話しするのよ」
「はあ……」
 早川は自分の仕事に関する事ならいざ知らず、この類の話は、どちらかというと苦手であった。
「お話しするわね」
 甲斐は残りかけのビールを一気に飲んだ。
「他言無用よ、いいわね。……実はね、……主人と離婚しようと思ってるの」
 寝耳に水とは正にこのことを言う。早川は飛び上がらんばかりに驚いた。甲斐オーナーが電話先で仕事のこともあるけど別な要件もあるの、と言っていたのはこのことだったのだ。この話誰にも内緒にしといて下さる? ってことも。
「オーナー、それほんとですか? ほんとに離婚なさるんですか?」
「そうよ、ほんとよ。……もう決めたことなの」
「旦那様にはお話しされたんですか?」
「まだよ。近いうちに言うつもり」
「何とも、驚きました」
 このオーナーのことである。そう軽々しく話をされる筈はない。これからのことも含めて、きっとじっくり考えてのことだとは容易に想像はつくが、それにしても思い切った決断である。
「どうして、このことを早川さんにだけお話しするのか知りたくない?」
「もちろん知りたいですよ。私如き若輩者に、そんな重要なことを内密に打ち明けてくださるなんて」
「何もかも正直に私の心のうちを話すわね」
「はい」
「それはね、私が早川さんを好きだからなの」
「えっ、……」
「ははは、その顔は何よ、困ったような顔をして。誤解なさらないで、色恋の話じゃないの。……だって、あなたには素敵な人がいるじゃない。こんなババァじゃとてもかなわないわよ」
「いえ、オーナーはとてもスタイルはいいし、美しい方だと彼女とも話していたんですよ」
「そうなの? ありがとう。お世辞でも嬉しいわね。もっとも、私がそうね20年も若かったら、花岡さんのライバルになってたかもよ」
「私としてはとても嬉しい話ですけど、……もう遅いです」
「そうだわね。年は取りたくないわねぇー。……ああ、悔しい」
「オーナー、話を元に戻してください」
「まあ、憎たらしい人ね」
「はあ」
「私はね、これからもっともっといろいろ勉強して、世界中にエルコンG・ホテルを建設していきたいの」
 エルコンG・ホテルの名前を聞いて早川の頭を一瞬よぎったものがあった。エルコンGシャワーである。
「早川さんっ。何を考えてるの? 花岡さんのこと?」
「あ、いえ、そんなことありませんよ。それは凄いことですね。うん、オーナーなら出来ますよ」
 自分の顔が少し火照っているのを感じた。甲斐オーナーに感づかれたのではと、早川は慌てて誤魔化した。
「おだてないで。大変なことだってくらいは分っているつもりだからね」
「でも、離婚まですることではないような気がしますけど」
「話をそらさないの。そのことは後でちゃんとお話しするから」
「はい、すみません」
「そこでね」
「はい」
「早川さんに助けてもらいたいの。あくまで仕事上でのお付き合いだけど、私のパートナーになっていただきたいの」
「パートナー?」
「そう、今でも殆どパートナーみたいなもんだけど、今はあなたの会社を通してのお付き合いでしょ?」
「とてもありがたいことだと思っております」
「そんなことはどうでもいいの。私が言いたいことは、会社を離れて私に協力して貰えないかと言ってるの」
「オーナー、……ちょっ、……ちょっと待ってください。私は何だかんだ言っても、一介のしがない社員でしかありません。会社あっての自分です。甲斐オーナーの言われる、会社を離れての意味が今一見えないのですが」
「そうね、説明の仕方が悪かったわね。ちょっと今の件は横に置いといて、話を変えます」
「はあ?」
「早川さんは今の会社にずーっといる気なの?」
 話が思ってもいない方向に来た。
「と言われますと?」
「だから、今の会社に定年まで勤める気なのかって聞いてるのよ」
「あ、はい、……今まであまり考えた事はありませんが、……希望があるとすれば、何年か先に独立出来ればとは思っています。でも、このご時世ですからねぇー独立しても、おまんまを食べていけるかどうか全く自信はありません。資金も持ち合わせておりませんし。ま、出来たらいいなあぐらいの軽い気持ちですね、今は。私が今思い切り仕事をさせてもらっているのは、会社のバックがあるからだといつも思っています。こうして甲斐オーナーと懇意にさせてもらっているのも、会社あってのことですからね。それに何といっても、私が今日あるのは会社のお蔭ですから、今はとても裏切ることなんかできませんね」
「会社のお蔭って何? 裏切るって何なの?」
「あ、はい、その件は、またの機会にお話しさせてください」
「何か、訳ありって感じね」
「はい」
「何年か先って、大体でいいけど、何年ぐらいをイメージしてるの?」
「そうですねぇー、年齢的に考えて、何とかなるもんでしたら40歳になるまでですかねー。あんまり年とっても気力が伴わないと思いますし」
「早川さんて今いくつでしたっけ?」
「32二歳です」
「そう、若いわねー、羨ましいわ。その若さで、今や業界では時の人ですものね。大した実力ね。でもこれからよね。人生の中で一番仕事に油が乗るのは」
「あは、オーナー、もうおだてには乗りませんよ」
「おだててなんかいなくてよ。ほんとのことだもの」
「ありがとうございます。オーナーにお褒めをいただくと何よりも嬉しいです。もっと頑張れって私には聞こえたりもします」
「相変わらずのご謙遜ね。そこがまた魅力なのよね早川さんって」
「あんまりおだてますと木に登ってしまいますよ」
「そうなの? じゃあ、そこの床柱でも昇ったら。……見てみたいわ」
「あははは、参りました。オーナーにはもう降参です」
「じゃあ、降参ついでに言うわね。単刀直入に言うわよ。すぐにでも今の会社を辞めること出来ないの?」
 一瞬早川はわが耳を疑った。
「そして明日にでも、私のパートナーになること出来ない?」
 甲斐は矢継ぎ早に言葉を浴びせてきた。早川は冗談としか受け取れなかった。甲斐オーナーの真の意図がどこにあるのか読み切れないでいた。
「どうしたのよ、鳶に油揚げをさらわれたような顔をして」
「だってオーナー、あまりにも唐突で突飛な話ですもの」
「あら、私はあなたに八王子のホテルを設計して貰ったあの時点からずーっと考えていたことよ。唐突でも突飛な話でも何でもないわ」
「もう、私の立場も少しは考えてくださいよ。……参ったなあ」
「今日は参ったの連続ね。ふふふ、……ああ面白かった。……今のは冗談よ」
 甲斐は早川の顔を指さして笑い転げた。
「あなたの立場は充分に承知しているつもりよ。そんなことは出来ないことぐらい百も承知よ」
「オーナーって、いつからそんなに意地悪な人になったんですか? 意地悪にも程がありますよ」
「そうね、ごめんね。でもね、これだけは言っておくわね。先ほども言ったけど、私の将来の夢として世界中にエルコンG・ホテルを建設していきたいのね」
「はい、先ほどのお話ですね」
「でもね私の年齢って、……話は少しそれるけど、早川さん私の歳ご存じ?」
 早川は急に振られて咄嗟に考えた。たぶん50歳前後とは思ってはいたが、こういった場合、実年齢より少しばかり低めに答えておいた方が無難である。
「そうですね、43歳くらいですか?」
 甲斐オーナーの顔が満面の笑顔になった。
「聞くけど、ほんとにそう思ってるの?」
「ええ、オーナーのスタイルや肌の艶や美貌から判断して、多分そのくらいかなと思いますが、違います? ごめんなさい、もしかしてもっと若い?」
 早川は頭に手を当てて気まずい顔をした。
「ふふ、ありがとう。大分サバを読んでくれたのね。優しい人だこと。でも女としては嬉しいことなのよね。このまま43歳で通そうかしら」
「おいくつなんですか?」
 早川が笑いながら答えた。
「ご期待に添えなくてごめんなさい。残念でした48歳です」
「えっ、そうなんですか? とても見えませんけど」
「化粧や衣装で誤魔化してるだけよ。女って悲しいわね。いつもそんなことを気にしながら生きていかなければならないんですものね」
「オーナーでもそうなんですか?」
「オーナーでもとは何よ、これでも立派な女よ。それとも男に見えて?」
「あは、いえ、オーナーはいつも活発に活動されてるイメージがあるものですから。それにしても48歳にはとても見えませんねぇー」
「そうかしら? 何だったら今夜にでも試してみる? 化粧落としたらシワだらけの婆さんよ。あらまた変なこと言っちゃった。……冗談よ」
「冗談がきつい」
「話を元に戻すわね。48歳という年齢は、この業界ではまだヒヨっこよね。新参者もいいとこなのよね」
「年齢なんて関係ないような気がしますが」
「それが大いにあるのよ、業界では。それに女だてらに、何が出来るんだなんて好奇な目で見てるのよね」
「そんなもんですかねぇー」
「でもね、それはそれでいいと思ってるの。私は私なりに、この業界を突き進んでやるわって逆にファイトが湧くのね」
「ええ、ええ、そうですとも」
「よく、出る杭は叩かれるというでしょう?」
「はい、そうですね。どこの業界でもあるようですけど」
「特にこのホテル業界っていうのは、客の奪い合いだから特にその傾向が強いのね」
「へぇー、そうなんですか?」
「そこで考えたの。私がこの業界で、大成功とまではいかなくてもいいけど、せめて成功という二文字を手に入れる為には、何が一番重要なことかと」
「ええ」
「早川さんには聞くまでもないとは思うけど、あえて聞くとすれば何が一番重要だと思う?」
「それはオーナー、言うまでもないでしょう。一口で言いますと経営手腕だと思います」
「もちろんそうだわね。でもそれは全経営者に求められる、いわば当たり前のことでしょう?」
「ははァー、分りました。オーナーのおっしゃりたいのは、その経営手腕をより高めてくれると言いますか、結果として経営手腕を強力にバックアップしてくれる、いわば、これからのホテルはどうあるべきかという、実はあまり語られない、よしんば語られたにしても、その質が満たされない中にあって、質のレベルにおいて、極限まで高めた位置でのホテル論を実際に具現化することで、出来れば他を圧倒し勝利したい、とおっしゃりたいのですね」
「そうなの、そうなのよ。その通りなの。さすが私の惚れた早川さんね。まさにそういうことなの」
 甲斐オーナーは、我が意を得たりと目を輝かしながら、若いにもかかわらず、そのずば抜けた才能の高さに、今更ながら感服した。
「実はね、以前私は機会あるごとに設計事務所やゼネコンの、そこそこ名の通った人たちの考え方を聞いて回ったことがあるのね」
「そうでしたか。……で、どうでした?」
「ええ、まあ、そこそこいい線いってる人もいたけど、帯に短したすきに何とやらで、わたしの考えを満たしてくれるような、ドンピシャという人は一人もいなかったわ」
「そうでしたか、それは残念でしたね」
「建築の技術上の事では、ずぶの素人の私だけど、私なりに、かなりのハイレベルだなあ、と思われるような人はいたわよ。でも私が求めるのは、もちろんそれも大事な一つとは思うけど、それじゃないのよね」
「はい、良く分ります」
「私が思ってることを一発で回答してくれたのは、早川さんあなただけなの」
「ありがとうございます」
「早川さんがさっき語ってくれた話は、八王子のホテル設計の打ち合わせの段階でもお聞きしていたわ」
「はい、同じお話をさせていただいた記憶があります」
「でも、今またその時と全く同じようなお話を聞いて、実はわたし今少し身震いがしたの。考えがブレないというか、理論だけじゃない理屈だけじゃない、何か特殊な能力を持ってこの世に生まれた人じゃないかしらと、怖いくらいに感じたの」
「あは、よしてくださいよ。大袈裟ですよ。それに私は、そんな怖い人間じゃないですよ。ごくごく普通の男ですよ」
「早川さんが以前の話とブレたような話だったら、今日はこれからお話ししたい話はよそうと思ったの。その意味では早川さんを試したってことになるわね」
「あは、別に構いませんよ。私の考えは、どんな時でも揺るぎもしませんから」
「あなたってほんとに凄い人ね。心底敬服するわ」
「あは、買い被りもいいとこですよ。……ところで、これから話したい話ってなんですか?」
 早川はやっと核心の話になってきたと思った。
「今の段階では将来のことについては何一つ具体化してないけど、一つだけ今のうちに確認しておきたいことがあるの」
「私にですか?」
「ええ、そう、もちろん、今すぐ返事しなくてもいいんだけど、近い将来、必ず私のパートナーになることを約束して欲しいの」
「今までのお話の中で、オーナーのお考えが私にも読めてきました」
「ありがとう、少し回りくどかったわね」
「いえ、そこで、今すぐはお答え致しかねますが、会社のことも良く考えた上で、近いうちにお答えしたいと思います。それで宜しいでしょうか?」
「ありがとう、恩にきるわ。無理言ってごめんなさい。でも私にとっては、この人生の中で、今もっとも大事な時期に差し掛かってることを実感してるの。どうしても成功したいの。それが、死んだ父親に対する恩返しにもなると思ってるの。その為には早川さん、あなた以外と手を組める人はいないの。あなた以外は考えられないの。あなたのことは、決して悪いようにはしないつもりよ。それは誓ってもいいわ。だからお願いだから前向きに考えてね」
「良く分りました。とてもありがたいお話しで、私には勿体ないくらいです。ありがとうございます。ご意向に添えるかどうか分りませんが努力してみます」
「ほんとにごめんなさいね。私を助けてね。良いお返事首を長くして待ってるわ。早川さんの返事次第では、私の今思ってる計画が根底から頓挫してしまいかねないの。だからお願いね」
 甲斐オーナーの今にも畳にひれ伏さんばかりの必死さに、胸を打たれると同時に、女経営者としての強い意地と野望を垣間見たような気がした。

「早川さん、今夜は遅くなってもいいんでしょ?」
「はい、特別用事は入っていませんから大丈夫です」
「そう、嬉しい。じゃあ、ビールをもう少しいただかない? それともお酒か焼酎がいいかしら」
「オーナー、その前に、もう仕事のお話はないのですね?」
「そうね、実はもう一つお話するつもりだったの。でも、今日は止めておこうかな。そんな気分じゃなくなったのよね。このままあなたと、じっくり飲み明かそうかなって、そんな気分になったの」
「はい、分りました」
 しかし、甲斐は暫らくの間天井を見つめた後、早川の顔を見つめながら言った。
「……でもやっぱり、今話しておいたほうが良さそうね。あなたとこんな風にお食事出来るの滅多にないことだから」
「はあ、でも、酔うとちゃんとした話が出来ないと思います」
「2人であと2本ぐらいは平気よ。私は強い方だから大丈夫よ。あなたが酔って話が出来ないようになったら、その時点で止めるから、ねっ?」
「分りました。じゃあ、ビールをいただきます。混ざると悪酔いしそうですから」
「お食事は? 何か追加しましょうか? 遠慮なさらないでね」
「いえ、もうお腹一杯です。ご馳走さまでした」
 甲斐は仲居を呼んでビールを2本注文した。
「一番気になっていた大事な話も終わったし、これからは飲みながらじっくり語りましょう」
 甲斐はいかにもほっとしたような素ぶりをして微笑んだ。
「その仕事のお話ってなんですか?」
「ええ、近いうちに新しいホテルを計画しようと思ってるの」
「そうですか、今度はどこですか?」
 その時仲居が、「お待たせしました」と言いながらビールをテーブルの上に置いた。
「ありがとう」
 仲居が部屋から出ていくのを待って、ビールを早川のコップに注ぎながら甲斐が言った。
「麻布よ」
「いつ頃からの予定ですか?」
 早川も甲斐のコップにビールを傾けた。
「来年の春先から計画に入ろうかと思っていたの。土地はもう手当してるから、基礎設計を来年の春先からできないかなあ、と思っていたの」
「思っていた? ……で・す・か?」
「そう、でも出来そうもないのよね」
「えっ、時間的には充分間に合うような気がしますが」
「時間的にはいいのよね。でも駄目なの。ほんとは銀行筋などの関係者との絡みもあるからそうしたくないんだけど、計画を延期しようかと思ってるの。だからさっき少し躊躇したの」
「そうですか、理由は分りませんが、オーナーの決断なら仕方ないですね」
「この原因は、早川さん、あなたに関係があるのよ」
 甲斐は少し強い口調で、早川を見つめながら言った。早川はびっくりした。甲斐の言ってる意味が呑み込めないでいた。
「あら、その顔はこの話が伝わっていないみたいだわね」
「伝わっていないですって? ということは、うちの会社の誰かに、このお話を持って行かれたのですか?」
「そうよ、いつだったかしら、そんなに日にちは経ってないわよ」
「そうですか、で、その話は誰とお話になったのですか?」
 甲斐は早川の酌を制して自分で手酌した。
「いつものことじゃない。岩田課長よ。そして、いつものように、この物件も早川さんに設計と監理をお願いしますと言ったの」
「そうでしたか、岩田はなんて言っていました?」
「少し困ったような顔をしていらしたわ、そして、実はって言われて」
「ええ」
「あなた、私に隠し事してるでしょ?」
 甲斐は顔は微笑んでいたが、目がきつかった。早川はまずいと思った。岩田課長は、早川が国際設計コンペのリーダーになったことを甲斐オーナーに話したとみえる。当然、暫らくは早川は担当できない旨の話をしたであろう。いや話さざるを得なかったことは容易に理解出来た。偶然にも甲斐は物件の設計・施工依頼の話を持ち込んで、この秘密裏の話を聞いてしまったという訳である。まさか、米国支店設立の話までしたとは考えられないが、岩田課長のことだ、もしかしたらその話までもしてしまった?
「オーナーすみません。でも隠し事をしていたのではありません。これには少し訳がございまして」
 早川は頭を下げて弁解した。
「分ってるわよ、秘密裏に事を運ばなければならない事情があったのよね?」
 甲斐の呑み込みの早さは相変わらずである。
「ええ、実はそうなんです。すみません」
「そうだったの。でもすごいわね、国際設計コンペのリーダーだなんて、さすがね」
「いえ、分不相応なことを命ぜられて、今苦労しているところです」
「そのコンペの建物ってどんな建物なの? どこに建つの?」
「……」
「そう、全て秘密なのね」
「オーナーほんとにすみません」
 早川は再び頭を下げた。甲斐はコップのビールを飲み干して手酌した。返して早川のコップに注ごうとした。早川はコップに手で蓋をした。
「あら、どうしたの? もう飲まないの?」
「はい、すみません。これ以上の飲むと、オーナーの言葉を見失ってしまいそうです」
「まあ、呆れた。なんて下戸なの。やっぱりワインを頼もうかしら。ふふふ、ま、仕方ないわね」
 甲斐はまたも意地悪そうに言った。
「実はね、その話を岩田課長から聞いた時、ある不安を覚えたの」
「不安?」
「そう、とてつもなく大きな不安」
「大きな不安? 何ですかそれ」
「あなたが、どこか遠い遠い所に行ってしまうのではないか、という不安」
「あ、オーナーそれはないですよ。現に今こうしてオーナーの傍にいますし」
「今はね、確かにそうね。でも、……その時以来、あなたが、どこか遠い遠い所に行ってしまうのではないか、と思うようになってしまったの」
「……」
「遠い場所に行ってしまうということではないのよ。私も規模は小さいけど会社を預かる経営者のはしくれよ。会社組織の構成員である管理職や社員のことについては、私なりにいろいろ勉強しているつもりよ」
「はい」
「あなたみたいに有能な人材は、時間の経過とともに、ますますキャリアに磨きがかかり、会社という組織を動かす上で、だんだんと重要な役割を演じて行くようになるのよね。そうなると会社はあなたをどうすると思う?」
「私はけっして有能ではありませんよ」
「じゃあ一般的な話として聞いて。そうなると会社にとっては、そういう有能な人材はもはや欠くことのできない人材として、重要なポストを与えていくわよね。こんなことはどこの会社でもやっていることだわ」
「そうでしょうね」
「そうなると、あなたもいずれというより、近い将来必ず課長になり、そして、部長になり役員になっていくと思うの」
「話がオーバー過ぎませんか?」
「黙って聞いて。その結果あなたは実戦から離れて、つまり今の設計・監理という仕事を離れて、いわゆる管理部門の仕事につかざるを得なくなるのよ。これはいわば会社人間の宿命みたいなものだから否も応もなくなるわよ」
「……」
「そうなると困るのは私よ。あなたが今の会社で偉くなっていくことは、それはそれでとても喜ばしいことだとは思うの。でもね、私が今考えているこれからのいろいろな計画には、早川さん、あなたという人が完全に組み込まれた形で動くようになっているの。それは、「あなたの勝手でしょ」と言われてしまえばそれまでだけど、私にしてみれば、この計画を遂行していく上で、もしも、あなたを失うようなことがあると、お先真っ暗になるのよ。だから不安が募ってくるの」
「でも、オーナー、私よりはるかに優秀な人間は、ごまんといると思いますよ」
「何言ってるのよ。いたらこんな話しないわよ。もうちょっと、自分自身のことを高く評価してもいいんじゃないの? いい意味で威張ってもいいんじゃない?」
「あは、それは私の人生観の中には存在しない考え方です」
「そうね、だからとても魅力的なんだけどね。もう何と言ったらいいの? 憎たらしい人ねぇー、あなたって人は」
 甲斐はあきれたような顔で笑った。
「オーナー、それに私は、今やっている仕事が好きなんです。技術者として実戦から離れた仕事はしたくありません」
「だから言ってるのよ。たとえそう思っていても、会社はそうは思わないでしょ、って。じゃあ、その類の辞令が出されたらどうするの? 私は嫌ですと言って会社を辞めるの? そうはいかないでしょう?」
「お世話になっている会社の方針にそむくつもりは毛頭ありませんが、時と場合によってはそれもアリかなと思います」
「ほんとに?」
「はい、確かに会社で重要なポストに就いて高い給料をいただいて、家族を喜ばせることも一つの生き方だと思いますし、それはそれでとても良い生き方だとは思います」
「そうね」
「でも、私は会社の単なる歯車にはなりたくありません。人生そんなに甘くありませんから、思い通りにはいかないとは思いますが、たとえどんな苦労をしても、自分なりの人生を突き進んでいきたいと思っています」
「自分なりの人生、って?」
「出来れば一人の技術者として、生涯を貫き通して生きていきたいと思っています。こよなく好きな道ですから」
「そうね、超難関の国家資格まで取ったんですものね」
「人生に対する価値観をどこに見出していくかは、人それぞれですし、人様のことをどうのこうのという気は全くありませんが、私は私の生き方で、私なりにたとえ小さくてもいいから夢を実現するべく努力して行きたい。そのことに自分なりの価値観を見出していけたら最高だなと思っています。何だか、カッコいい話をしてしまいましたが、心の底からそう思っています」
「早川さんの夢って何?」
「それは今は言えません。秘密です」
「この私にも言えないの?」
「はい、すみません。今は言えません」
「今はということは、いずれかは話して下さるって思ってていいのね」
「はい。そう遠くない日にお話し出来るかと思います」
「今のお話を聞いて、少しは気が軽くなったわ。早川さんありがとう」
「いえ、何だか失礼な言い方もしたような気がします。お許しください」
「そんなことちっともないわ。それより、先ほどから早川さんにパートナーになってとか、いろいろ言ってたことの意味を分かっくれたわね?」
「はい。よく理解できました。私としましては、勿体ないくらいの、実にありがたいお話と受けとめています。オーナー、ほんとにありがとうございます。今後ともよろしくお願いします」
「ふふふ、お堅いご挨拶ね。でもこれで何だかほんとにすっきりしたわ」
「私も晴れやかな気分になりました。ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう」

 早川は気になっていることを尋ねた。
「オーナー、岩田から話があったのは、設計コンペのことだけでしたか?」
「そうよ、どうして?」
「いえ、何でもありません」
「何よ、何か意味ありげな言い方ね。奥歯に物が挟まってない? もしかしたら、まだ隠し事があるの?」
「はあ、いえ、課長は彼女のことを知っているものですから」
 早川は嘘をついた。まさか、米国支店の話をする訳にはいかない。
「花岡さんと付き合ってること?」
「はい」
「ああ、なるほどね」
「はい」
「あの岩田課長は少し軽いところがあるから、余計なことを言ったんじゃないかと心配したのね」
「はい」
 早川は苦しい嘘をつきながらも、甲斐オーナーが、米国支店の件を知らなかったことに安堵した。
「そうとなれば、早川さん、これから飲み直しましょう。今夜は私にとことん付き合って。さあ、出ましょう」
 甲斐は腰を上げた。甲斐の満面の笑みを見て早川は何にも言えなかった。明日の晩は、岩田課長との付き合いになっている。これはある目的があっての付き合いだから断る訳にはいかない。二晩の連チャンは何回となく経験しているからどうってことはないが、
「オーナー、忘れていることがありますよ」
 早川は甲斐オーナーを見上げながら言った。
「えっ、そうかしら? 何?」
「離婚の話」
「……あら、そうだったわね。でも今夜は止めとく。そんな気分じゃなくなったわ」
「そうですか」
「他人の夫婦喧嘩は犬も食わないって言うわ。こんなつまらない話、今夜は勘弁して」
「私はどちらでもいいのですが、オーナーが持ち出した話ですよ」
「ふふふ、そうだったわね。ごめんなさいね、今度またじっくり話します。来週あたりまた会わない?」
「それはいいですけど、今から何処に行くんですか?」
 早川は腰を上げた。既に腰を上げて、襖の取っ手に手をかけている甲斐の背中越しに言った。
「野暮な話は言いっこなしよ。今夜は私に任せて。今日のあなたは、私のとても大事なお客様だから」
 2人は料亭野菊を後にした。22時を回っていた。
「あれ、オーナー、今夜は車ではなかったのですか?」
 広い駐車場には、お抱え運転手付の高級車が見当たらなかった。
「あれは仕事用の車だから。今夜はプライベートなの、だから車はなし。タクシーにしましょ」

「銀座のクラブ・エラルドにやって」
 甲斐はタクシーの運転手に言った。早川は甲斐の右手に座っている。
「はい。クラブ・エラルドですね。かしこまりました」
 運転手は帽子のつばに手を当てて返した。
「虎の門から新橋を経て、銀座の目抜き通りを行きますが、よろしいでしょうか」
「お任せするわ」
「はい、ありがとうございます」
 運転手は少し頭を下げた。
「運転手さん、クラブ・エラルドのエラルドって、どうしてエラルドって言うのか知ってる?」
 甲斐が右斜め前方の運転手に向かって尋ねた。
「さあ、……さっぱり分りません」
「あなたは?」
 甲斐は早川の方を振り向いていった。顔はやや上気していたが目は笑っていた。
「さて、何か曰くありげな名前ですね。……何だろう」
「じゃあ、宿題ね。着くまでの間に答えてね」
 都心の雑踏の中を運転手は巧みにハンドルをさばいた。虎の門を過ぎて程なく新橋に差し掛かった。車はさらに左にハンドルが切られて、銀座6丁目を過ぎて5丁目で止まった。
「さっきの宿題分った?」
 甲斐は笑いながら運転手に言った。
「いえ、分りません。……何ですか?」
「ここで教えたらつまらないから、今度またお宅の車にお世話になるようなことがあったら、その時教えます」
「そうですか。粋な計らいありがとうございます。これは、一生悩み続けなければならないかもしれませんね。あはは」
 運転手は甲斐から料金を受け取りドアを開けた。早川は何となく答えが分ったような気がしていた。
「さ、行きましょう」
 甲斐はさっさと先を歩き、一つ先の筋を左に曲がった。間もなく右手の黒いビルのエレベータの前に来た。甲斐は人差し指で6階の文字を押した。赤いマニュキアが明るい照明の灯りに輝いて見えた。エレベーターの扉が静かに開いた。

 明るいエレベーターホールの真正面の幅広の高い茶褐色の重厚な鋳物ドアの上に、深緑色の押出成形の文字が目に入った。クラブ・エラルド Erald・CE。暫らくの間この文字を見続けて、早川は甲斐オーナーからの宿題が解けた。そして、早川はこのクラブは2度目であることを思い出した。八王子のエルコンG・ホテルの完成披露パーティーが引けた後に、甲斐オーナーに連れてこられた。その時は会社関係の数人も一緒だった。
 見た目よりも意外と軽いドアとみえて、ドアボーイがさっとドアを開けた。甲斐オーナーが早川の背中を押しながら中に入った。
 カウンター付のクロークを右手に見て奥へ進む。両サイドにはお茶引きのウェートレスたちが立っている。2人に向かって一斉に頭を下げた。赤いどん帳の前に来た。ボーイがサッとどん帳を開いた。
 サックスの音色が耳に入った。ムード歌謡のようである。蔦柄模様の絨毯の上は結構な賑わいである。左右に広がっているボックスの数はソコソコ多かった。正面に舞台があり、その手前がホールになっている。全体に暗い中で、さらに暗いそのホールで数組の男女が体を寄せ合ってチークを踊っていた。
 やや薄暗い灯りの奥から、落ち着いた若い声が届いた。
「あら、オーナー様、いらっしゃいませ。お2人ですか?」
「そう。空いてる?」
「ええ、いつもの左側の一番奥手前でよろしいでしょうか」
「ええ、いいわよ。……ママは?」
「はい、おります」
 小さな懐中電灯を持ったボーイが、足元を照らしながら甲斐オーナーと早川を奥へ案内した。ボックスのL形のソファに腰を下ろした。高級なセットがこれ見よがしに威張って見えた。テーブルの上には、電照のローソクがゆらゆらと揺れている。隣のボックスとの境は、厚い曇りガラスの壁で仕切られていた。ほどなくスラリとした女性が現れた。
「まあ、オーナー様、いらっしゃい、こんばんは。いつもえこひいきいただき、ありがとうございます」
 一礼して、甲斐オーナーから少し離れた横に腰を下ろした。そして早川には無言で軽く会釈した。
「ママ、元気そうね。これだけ繁盛していれば元気も出るわね。羨ましい」
「オーナー、それは私の言うセリフですわ」
 ママは、それでも満足そうな、満更でもなさそうな顔で笑っている。ママは、斜め後ろに待機していたバーテンとウェートレスに目で何やら合図した。ママは甲斐オーナーにおしぼりを渡そうとした。
「ママ、あなたも空気の読めない人ねぇ、何年銀座でママしてるのよ」
「えっ?」
 ママは怪訝そうな顔をした。
「今夜は私のお客様をお連れしたのよ。順番が違うでしょ?」
 ママは事情が呑み込めたようであった。甲斐に渡しかけていたおしぼりを早川の方に持っていった。
「どうも大変失礼しました、どうぞ」
 早川はおしぼりの渡し方にも順番があることに苦笑した。こんなことで何だかんだ言っても仕方がない。早川は甲斐の顔をチラッと見て、失礼しますとジェスチャアしておしぼりを受け取った。
「もう少し待ってくださいね。もう少ししたら女の子たちが来ますから」
 ママは甲斐の方を振り向き、おしぼりを渡しながら言った。
「あらママ、今日は呼ばなくていいわ。3人で飲みましょ」
「あ、そうですか。はい、かしこまりました」
 ママは何やら振り向いて合図を送った。
「ママ紹介するわね、私のお客さん……兼……恋人よ。滅多に拝めないイケメンよ。目の保養になるわよ」
 甲斐はニタニタ笑いながらママに言った。
「いらっしゃいませ。ここでママごとをさせていただいております。よろしくお願します」
 早川はおしぼりで手を拭きながらママの顔を見た。綺麗と言ってもいい顔である。やや厚化粧の感はあるが商売柄かもしれない。甲斐オーナーより幾分若いように見えた。電照のローソクのみの薄暗い効果は、お客の錯覚を引き出し、ジャンジャン金を使って貰うことにも繋がる。
「いえ、こちらこそ。今夜はお世話になります」
 早川はママの顔を見ながら言葉を返した。ママはしげしげと早川の顔を見た。
「あら、このイケメンさん、何処かでお会いしたような気がしますけど、気のせいかしら」
 ママは甲斐の顔を見た。すかさず甲斐の目が早川に向いた。
「あら、早川さん、あなたこの辺に毎晩たむろしてるんじゃありません?」
 甲斐の言葉が飛んできた。
「あはは、オーナーも人聞きの悪いことを。……違いますよ、ほら完成披露パーティーの帰りに……」
 そこまで言って、甲斐も、あゝ、というような顔をした。
「あ、そうか、そうだったわね。ママ、ほら、だいぶ前だけど、ここに一緒にお邪魔した方よ。もっともあの時は大勢で押しかけたけど、……覚えてない?」
「オーナー、それはいくらなんでも無理ですよ。毎晩、今夜みたいに大勢のお客さんがいらしゃるでしょうから、まして、もうあれから大分経っていますから」
 早川はママに助け舟を出した。
「でもね、ここのママの凄いとこはね、たとえ一元のお客様でも、必ず名前を記憶してることで有名なのよ。その証拠に、さっきママはどこかで見たような気がするって言ったでしょう? 早川さんがここに来てから大分日にちが経ってるから、普通はそこまで覚えていなくてよ」
「なるほど、言われてみればそうですね」
「名前を憶えてくれるなんて、お客にしてみれば嬉しいことですものねぇー。だから繁盛してるのよね、きっと。ねぇ、ママ?」
 甲斐はママの方を見て笑いながら言った。
「でもですね、最近駄目ですの。……ねぇー、年のせいかしら、昔みたいにパッと思い出せないっていうか、顔と名前が一致しなくて困ってしまうことがあるの」
 その時、テーブルにバーボンとつまみが置かれた。その隣にクラッシュアイスの入った器が置かれた。
「早川さん、バーボンにしたわよ。それとも、ブランディか何かの方が良かったかしら」
「いえ、私はこの類の価値が分らない人間ですので、どうぞ何でもいいです」
「バーボン・ウィスキーの原料はトーモロコシ、ブランディはぶどうだからワインと親戚ね。製法の違いね」
 甲斐はアルコールについてかなり博識のようであった。さすが、海外などへ出向いてまで遊んで来ただけのことはある。
「そうですか全然知りませんでした。トーモロコシは好きですから、バーボンもいいかもしれませんね」
「そうはいっても、トーモロコシそのものの味はしなくてよ。芋焼酎も芋そのものの味しないでしょ? それと同じよね」
 ママが2個のそれぞれのグラスにクラッシュアイスを入れ、バーボンをそれに落とした。
「女の子を呼ばないと、ママ直々に作ってもらえるご利益があるのよね。いつもすみません。ママも一緒にどうですか?」
「オーナー様には特にお世話になっていますから、感謝の気持ちを込めて作らさせていただきます。……はい、ありがとうございます。じゃあ、私もお言葉に甘えて、いただきます」
「ほかのお客さんの所に行かなくてもいいの? 怒られるわよ」
「今夜は、お邪魔じゃなかったら、甲斐オーナー様の傍にいたい心境でございます」
 そうは言っても、必ずお呼びが掛ることは間違いない。このスタイルと美貌を客がほっとく筈はない。やがて蝶のようにあちこちと舞うことだろう。
「さ、挨拶はそれくらいにして飲みましょう。……早川さん、いいでしょ?」
「オーナー、私はウーロンをお願いします」
 早川が、もう知ってるくせにと言いたげな顔をしながら、首を小さく横に振った。
「ママ聞いた? 聞いたことのない高級ワインをご所望のようよ。そんなワインここの店に置いてある?」
「残念ながら、こんな安クラブにはとても置けないです。高級過ぎて」
 2人は今にも吹き出しそうである。早川は、この2人の中年の絶妙な言葉のキャッチボールに感心した。
「このバーボンね、あの例のワインより数段美味しいわよ。数段ということは、この前のワインより3倍くらいの量はいけるかもよ、ふふふ」
 甲斐の容赦のない意地悪がここでも早川を悩ました。2人のやり取りを見ていたママが、甲斐の方に体をよじらせて、
「オーナー、もしかして早川さんはオーナーのこれ?」
 と言って小指を立てた。
「何よそれ、馬鹿ねぇー、早川さんはれっきとした男性よ」
「あら、どうしましょ。男性のお客さまが多いものですから、つい癖が出てしまって」
 3人は腹を抱えて爆笑した。早川は仕方なくグラスに口をつけた。バーボンの強烈な味が、早川の口の中で激しく踊った。だが意外と柔らかな味わいでもあった。
「どう? 美味しいでしょう?」
「はい。この前のワインとはまた一味違う美味しさですね。癖になりそうな味ですね」
「まあ、怖い。下戸の口からよくもシャーシャーと言えたものね」
「あははは、でも、この分だと飲み過ぎてしまいそうですよ。……責任は持てませんよ。どうなっても」
「ふふ、大丈夫よ、私が嫌というほど面倒見てあげるから」
「おお、コワッ」
「あのねママ、……酔わないうちに言っとくけど」
「はい?」
「この早川さんて、どんな人か知ってる?」
「ええ、良く存じ上げてましてよ」
「えっ、ママ知ってるの? 早川さんのこと。何処で調べたのよ。酔った勢いで、適当なこと言ってるんじゃないわよね」
「オーナー、伊達や酔狂で銀座のママをやってなくてよ」
 ママは大いに威張って見せた。
「じゃあ、言ってみてよ」
 ママは再び甲斐の方に身体をよじらせてきた。
「言うわよ。早川さんはオーナーのこれでしょ?」
 言いながら親指を立てた。甲斐はもう呆れ返って返す言葉を失った。
「もう、ママったら、小指を立てたり親指を立てたり、何なのよ、もー」
 これでまた大爆笑になった。
「やっぱりオーナーのこれなんだ」
 ママが親指をまた立てた。
「さっき紹介する時、恋人だって言ったでしょう? 聞いてなかったの?」
「オーナー、ごめんなさい。早川さんがあまりにもいい男なものですから、早川さんの顔を見た途端に、オーナーの声が聞こえなくなったの。私、焼もち焼いちゃったのかしら」
「ママのバカ。人の話をちっとも真面目に聞いてないんだから」
 言いながらも甲斐は満更でもないような顔である。ママは、甲斐が早川のことを恋人だと言ったことを、本気にはしていなかった。冗談だということは、とっくに察しがついていた。
「ごめんなさい、だって、こんなイケメン滅多にお目にかかれないから、つい」
「そんなに、早川さんのことが気になるんだったら向こうに行ったら?」
「ああ、今夜もオーナーを怒らせてしまったわ」
 言いながらママは早川の隣に席を移した。
「まあ、呆れた。とか何とか言って、ちゃっかり目的を達したみたいね」
「オーナーのお言葉に甘えてみました。許してください」
「心にもないことを言って、このー」
 また笑いが渦巻いた。
「早川さん改めて宜しくお願いします」
 ママは胸元から名刺を出して早川に渡した。
「こちらこそ」
「名刺いただけません?」
「あ、ママすみません。私は仕事以外には、名刺は持ち歩かないことにしてるんです」
「まあ、変な女に付きまとわれないようにしてるのね」
「あは、そんなんじゃありませんよ」
 早川は照れながら言い訳した。
「あら、何だか他の男性にはない、この空気何だかいい感じね。……うーーん」
 ママの言葉を甲斐が遮った。
「でしょう? 独特のオーラを感じない?」
「オーラ? まあどうしよう。……オーナー、私どうしたらいいのかしら?」
「あはは、相変わらず言うことがオーバーねぇー」
「わたし惚れてしまいそう」
「コラッ、これだけは言っとくわね。絶対惚れちゃダメだからね。もっとも、そんじょそこらの人には絶対に振り向くような人じゃないけど」
「えっ、そうなの? 早川さんて結婚なさってるの? それともいい人がいるとか」
 早川は困ったような顔をして、チラッと甲斐を見た。甲斐が後を引き受けた。
「これだけの男をほっとく人がいると思ってんの? そうじゃないのよ、おあいにく様、彼には……」
 言いかけた時、早川が甲斐の目を見て小さく首を振った。意を解した甲斐は、
「彼にはね、ママ、ここだけの話にしておいてね。実はね、彼がいるの」
 機転を利かし親指を立てた。
「えっ、ほんとなの? じゃあ、女は嫌いなの?」
「ええ、そうよ。ママ残念でした。私も振られた一人だから」
 ママは早川の顔をしげしげと見た。信じられないという顔である。

 甲斐がたたみかけた、
「ママ、ここにはこれがいるの?」
 甲斐は右手の中指を立てた。話題をそらした。ママも自分の右手の中指を立てて、首をひねりながら言った。
「これって何ですか? オーナー、中指は何かの意味があるんですか?」
「えっ、ママ知らないの?」
「中指? さあ私は小指と親指しか知らないわ」
「じゃ教えてあげる。指っていろいろ意味があるのよねえー、フィンガーファイブ様」
 甲斐は電照のローソクにかざしながら、ふざけながら自分の手に向かって言った。
「さすが、甲斐オーナー。何でもご存じなんですね」
「ご存知と言うほどのもんじゃないわよ。みんな知ってるわよ。これを知らないなんてママ、ママを返上しなさい」
 甲斐が笑いながら言った。
「返上したら、誰がママをするのですか?」
 私でないと務まりませんわよ、というような顔である。
「私がなってあげる。私がなったら、店の売り上げを今の100倍にして見せるわ」
「まあ、凄い」
「ああ、そう言えば今思い出したけど、私なんかよりもっと凄い人がいるわ」
「えっ、オーナーより凄い人がいるの? 教えてください。その人は誰なんですか?」
「私なんか、その人の足元にも及ばないわね。私の友達なんだけど、それはもう絶世の美女と言っていいわね。スタイルも抜群だし。うん、そうね。 彼女がもしここのママになったら、間違いなく今の売り上げの1,000倍にはなるわね」
「1,000倍? まあ。蔵が建つわね。いくつも店を出せそうね。オーナー、その人誰なんですか?」
 甲斐は早川の顔をチラッと見ながら、
「ふふ、秘密。そのうち機会があったら教えてあげます」
 と言って話を元に戻した。
「ああ、残念。1,000倍の売り上げ。夢でもいいから、なってみたいわねぇー」
「1,000倍は少しオーバーね。でも彼女なら相当やると思う。……ああ、話が横道にそれてしまった。……元に戻すわよ」
 甲斐は笑いながら話を続けた。5本の指を広げて、
「これが小指で女性、俗にいう彼女をを表す。これが親指で男性、俗にいう彼氏を表す。小指と親指の真ん中つまり女と男の真ん中だから?」
 早川は、ママの真面目くさった顔を見て吹き出しそうになった。
「ママ、もう分ったわよね?」
 ママは首を横に振った。
「……分りません」
「まあ、ママったら、もう少し賢いと思ったけど、さっぱりね」
 甲斐は今度は、薬指と中指と人差し指を立てて広げながら、
「ママって、……これね」
 と、ママの目の前につきだした。
「……」
 ママは甲斐の言ってることが、さっぱり呑み込めないないようだった。
「早川さん分る?」
 甲斐はさっきからニタニタしている早川に振った。
「ええ、分りますよ」
「さすがね早川さん」
「でも、オーナー、それって、ママが可哀想じゃないですか?」
「いいのよ、このママいつも私をいじめてるから仕返しよ」
「オーナー、私からママに説明しましょうか? 当ってるかどうか分りませんけど」

 早川は退屈しのぎにママへの説明を願い出た。
「相変わらず優しいのね早川さんて。ほら、ママちゃんと聞いてて」
「はい、お願いします」
 ママはわざと殊勝な顔になった。
「じゃあ、二つあるうちの一つだけ説明します。あとの一つは甲斐オーナーに話して貰ってください」
 早川は薬指と中指と人差し指をひろげて、
「オーナーはこれをママの目の前に突き出して、ママはコレねっておっしゃったでしょ?」
「ええ、そうだったわね」
「ママ、これって、ちょっと言いにくいんですけど、……怒らないで聞いてくださいね」
「私が怒るようなことなの?」
 甲斐オーナーは、早川とママのやり取りを見てニタニタ笑っていた。
「はい。多分頭にくると思います。ですから、怒らないでくださいとお願いしてるんです。それとも説明するの止めましょうか?」
 ママは甲斐の顔を見た。甲斐は右手の中指を立てたり折り曲げたりして、相変わらずニタニタ笑っていた。そして、
「ママは、これのことを知らないから、これなのよ」
 と、さっきと同じことをわざと繰り返した。
「もう、2人して私をからかってー。……分ったわ、何を言われても怒らないから、早川さん説明して頂戴」
「はい、じゃあ、いいですね。ママも私と同じように3本の指を広げてください」
「はい、広げました」
「じゃ、私がママの指を使って説明しますね。私の指の動きをよーく見てくださいね」
「はい」
 早川から見たら、ママの痩せた手のひらが見える。だからママは自分の手の甲を見ていることになる。
 ほっそりした指の爪には、透明がかったピンク色のマニュキアが薄明かりの中で光っている。
 早川は自分の人差し指を、ママの人差し指と中指の内側を、まず人差し指の爪の方から下の方にゆっくりと這わせた。ママがくすぐったいような顔をした。
「あーあ、私にもして欲しいわ。ママが羨ましい」
 甲斐が半ば本気な顔で微笑みながら言った。早川は、今度は指と指の谷間から中指の爪に向かって、同じようにゆっくり指を滑らせた。ママがまたくすぐったいような顔をした。
「はい、何が見えましたか?」
「えっ、何が見えましたか? 何にも見えないわよ。……もう一度して」
「コラッ、ママ」
 甲斐が笑いながら言った。
「はい、じゃ今度は別な指をしましょう」
 早川は今度は、中指の爪の方から指の内側を谷間の方に指を滑らせ、さらに谷から薬指の爪の方に滑らせた。
「さあ、何が見えたでしょうか」
「……」
「分りませんか? じゃあ、こうしましょう。私の指先を鉛筆の芯と思ってください。いいですか? もう一回やります」
 早川は同じことを繰り返した。人差し指と中指の間が済んだ時、
「ママ、私はいま鉛筆で何という字を書いたでしょうか? 横文字の大文字です」
「横文字? 大文字? ちょっと待って。…………ブイの字?」
 ママは自信がないような顔で、小さな声で早川の顔を見ながら言った。
「ママ、正解です。ブイです。そうアルファベットのVです。じゃあ、もう一方は? もうお分かりですね」
「えっ、じゃあ、Vが二つ?」
「はい、Vが二つ見えましたね」
「そうね確かに。……これが何なの? ……えっ、なんで私がこれなの?」
 ママは甲斐と早川の顔を怪訝そうにしてみた。
「じゃあ、正解を言います。ママ、怒らないという約束ですからね?」
「うん、さっき約束したから大丈夫。怒らないから」
「少し回りくどくなりましたが言いますよ。……ブイが2個だから? ニブイ。ですから、……ママは鈍いとなります」
「ピンポーン」
 甲斐がいかにも愉快そうに大きな声を上げた。そして、グラスに口をつけて美味しそうに飲んだ。ママは怒るどころか、しきりに感心していた。
「なるほど、なるほど。……これ使えるかも」
「オーナー、他のことはともかく、とりあえずこのニブイの説明は、これで良かったでしょうか」
「さすが、ドンピシャリ。言うことないわ」
「もう一つの説明はオーナーお願いします」

「分ったわ、……ママ、この中指の件だけど聞きたい?」
「聞きたい、聞いたい。すごく勉強になるわ」
「でしょう? たわいのない遊びだけど、結構面白いでしょ?」
「うんうん。早く教えてください」
「さっき私は、ママ、ここにはこれがいるの? って言ったわよね」
 甲斐は右手の中指を立てながら言った。
「そうでした」
「もう一度言うわね。これが小指で女性、俗にいう彼女をを表す。これが親指で男性、俗にいう彼氏を表す。小指と親指の真ん中つまり女と男の真ん中だから?」
「女と男の間には愛がある」
「ブゥーー、……それから?」
「女と男の真ん中にあるものは? あらオーナー、……エッチ」
「バカねぇー。何を勘違いしてるのよ。他に思い当たるものはないの?」
「女でもない男でもない? この店に、これはいるの? ……あっ、もしかして」
「分りかけてきたみたいね。ヒントをあげようか?」
「はい」
「早川さん何よ、まだ半分も飲んでないの? 駄目ねぇー」
「はい、ぼちぼちやってます。バーボンと氷が半分ずつになってしまいました」
 早川は、ことの成り行きに吹き出しそうになっていた。
「オーナー、……ヒントは?」
「今のがヒントよ」
「えっ、……」
 暫らく考え込んでいたママが、
「あ、分った、……分ったわ」
 と、素っとん狂な声を上げた。自分でも余りに大きな声に驚いて、下を向いてケタケタ笑った。多少アルコールが回っていることもあるようだった。そして2人に向かって小さな声で、
「……ニューハーフ?」
 甲斐とは早川は異口同音に「ピンポーン」と言って拍手した。
「この店には残念ながらそんな類の人は置いておりません。何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます」
 またも3人は腹を抱えて爆笑の渦をまき散らした。

「さっき早川さんが、オーナーに向かって他のことはともかく、とおっしゃったでしょう?」
「そうでしたね」
 早川が答えた。ママはグラスに口をつけた。
「ほかにも似たような話があるの? 勉強のために教えてくれませんか?」
「ええ、結構ありますよ。単なる遊びとしてもありますが、極めて真面目な学問的な角度から研究している人もあるくらいですよ」
「えェー、そうなの。知らなかった」
「簡単にさっきの続きを言いますと、ブイを二つくっつけますとWになりますよね」
「そうよね、そうなるわね」
 ママは改めて指を広げた。
「Wを頭文字とする言葉は捨てるくらいあります。簡単な例で言いますと、パソコンのOSのWindowsもそうですし、単なるWINとかWHO、WELLなどですね」
「ふーん、そっかあ」
「人差し指、中指、薬指を開いて上に向けたらWなのですが、じゃあ下に向けたら何になりますか?」
「えっ、下に向けるの? ……こんな風に?」
 ママは指を広げたまま下に向けた。
「それはエム、Mに見えませんか?」
「そう言われれば、Mに見えるわね。……なるほど」
「MはパソコンのOSのMacになります。同じように、Mを頭文字にする言葉も無数にあります」
「凄い。面白いわねぇー」
「早川さんて、これよね」
 今まで黙って聞いていた甲斐が、5本の指をいっぱいに広げて言った。
「これっ?」
 ママも手を広げた。
「あは、オーナー、どちらの意味にとればいいのでしょうか」
「もちろん、いいほうによ」
 ママはいっぱいに広げた指を見つめながら、手のひらを見たり手の甲を見たりして首をひねった。ママは2人の会話がまるで意味不明なようだった。
「ママ、簡単ですよ。ブイが何個ありますか?」
「ブイ? 4個、……よね?」
「ですね、ブイが4個でシブイになります。あの役者はシブイなあ、なんて時に使えますよね」
「あら、ほんとだ。……すごーい」
「シブイには良い言い方だと美男 ・ お洒落 ・ 燻し銀などに使えますが、悪い言い方だとケチになりますから、気をつけたほうがいいですね」
「なるほど、こんな遊び何個ぐらいあるの?」
「そうですね、ざっと100個くらいはありますよ」
 早川の言葉に仰天したのはママばかりではなかった。甲斐オーナーも目を丸くしていた。
「早川さんてそんな研究もしてるの?」
 甲斐オーナーが突っ込んできた。
「あはは、オーナー、研究だなんてそんなんじゃないですよ。単なる遊びですよ。でも、これをうまく組織に生かすと、凄いことが出来そうだということも私なりに考えています。真面目に」
「凄いこと? どんなこと?」

「あは、これを語り出すと夜明けになってしまいますのでこの辺にしますが、例えば人間の五感の視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、それに第六感も含めて、人間同士の意思伝達方法に用いられるのはどれでしょう。とか、目が見えない人、耳の聞こえない人、口がきけない人などの意思の伝達方法は? とか、考えていきますと……」
「ええ」
「みんな何となくは分るのですが、あくまで常識的な何となくなんですね。ところが、もっと突き詰めていきますと、凄いことが隠されていることに気づくようになります」
 オーナーとママは、完全に早川の生徒になっていた。時々頷きながら早川の口元を見ていた。
「実は、ある所にぶつかるんです。それが指なんです。指で会話するのは、手話が代表的でしょうけど、そこまで行かなくても、ちゃんと会話出来るんですね。思春期の頃、女の子の背中にスキと書いたことがあります。それがちゃんと伝わるんですね。これは目が見えない人、耳の聞こえない人、口がきけない人でもちゃんと分ります。同じように、少しエッチな話になりますが、男性が女性の身体のどこかを唇と舌で愛撫すると、度合いは女性にもよるかもしれませんが微妙に反応します。声を発したり体をくねらせたり」
「へぇー驚いた。早川さんてそんな話もするんだ」
 甲斐が興味ありそうな顔で言った。
「たとえばの話ですよ、仮の話ですよ」
 早川は照れくさそうに言った。既に酒の力は、早川の顔を首筋まで赤く染まらせていた。
「ふふふ、赤くなってる」
「もー、オーナー。……続けます。男性は無言ですが、唇と舌で女性と会話しています。女性はこれに応えています。これも一種の会話と言えると思うんですね。もっとも、愛の深さによって会話の濃密さが違いますよね。愛していない好きでもない人に、強引に会話されても返事は返ってこないと思います」
「なるほどねぇー、いい話ねぇー。なんだか酔いが冷めていきそうだわ。……ねぇママ」
「ほんと、凄いもっと続けて」
「まあ、ママったら、また早川さんからエッチな話を引き出そうとしているわね」
「ふふふ、図星、あははは。……今夜は楽しいっ」
 ママは如何にも楽しいという表情をしながら、グラスに口をつけ飲み干し、お代わりを作り始めた。ピッチが上がってきたようである。早川はそれを見て、よくもまあ飲めたものだと感心しきりだった。
「オーナーもママもこんなことありませんか? 口では言われてないんだけど、あの人は私に好意を持っているんじゃないかしら、みたいな、そういう空気を感じることはありますよね。以心伝心というやつですよ」
「あるある、こっちが好意を持ってるかどうかは別にして、よくあるわねそんなこと」
「それも一種の会話ですよね」
「言われてみるとそうよね。不思議だわねぇー」
「もっと分り易く言いますと、影絵も一つの伝達方法ですね。親指に中指と薬指をくっ付けて、ほかの指を立てますと影絵で犬になります。これを、影絵じゃなくても、その手の指の形を、犬と認識するように約束事としてしまうのです」
「……」
「そのようなことを考えていきますと、通常声に出してする会話を、あえて無言の会話にすることで、秘密の会話、つまり此処みたいなクラブとかで、お客様には知られたくないことを、例えばこの席からチーフに連絡したいけど、声が出せないなんていう時に使えるんですね」
「すごーい、……それいただき」
 ママが大真面目で言った。甲斐はまたグラスに口をつけていた。
「親指と人差し指で丸を作り、続けて片手全部の指をいっぱいに広げて誰かに合図します。何の合図でしょうか? もうお分かりですね?」
「……」
「このお客は金に渋ちんだよ、と伝えたことになります」
「あははは、これほんと使える。……おもしろーい」
 ママは完全にはまってしまった。
「指で作った丸は、お金の意味のほかにも、オーケーとかアルファベットのOとか、縦にして目を添えると覗き穴になりますし、水平にして目を添えると虫眼鏡になります。両手で目の前に持っていきますとメガネですよね。これはよくやることですが、両手を使って四角を作るとカメラのファインダーを覗いてる意味ですし、菱形にしますとダイヤモンドにもなりますね。要はいろいろ研究して、店内の約束事としてしまって、意思伝達や言葉の代わりに利用するというやり方です」
「早川さんて、すごーい。それが100個くらいあるということ?」
「もっと深く考えれば、他にも一杯出来ると思います」
「へぇー、初めて聞いた。凄い」
 ママは凄いを連発した。余程新鮮で面白い話だったに違いない。
「実は、ママはもう実践済みだと思います」
「わたしが? とんでもありません。考えにも及びませんわ。こんな脳たりんには」
「でも、さっき甲斐オーナーが、女の子呼ばなくていいからねとおっしゃった時、ママは振り向いて、スタッフに何やら合図されたでしょう?」
「あらやだ、隅に置けない人ね早川さんて。見てたんですか?」
「あはは、その合図が無言の会話でしょう?」
「そっかー、そういう風に考えたらいい訳ね」
「そうです。その応用範囲を拡大したら、凄いことになるかもしれませんよ」
「どうして、こういう話になったんでしたっけ」
 突然、甲斐オーナーが思い出したように言った。
「そうそう、私がママに、この早川さんて、どんな人か知ってる? と言ったら、ママが、『ええ、良く存じ上げてましてよ』と言って、『早川さんはオーナーのこれでしょ?』って、親指を立てたからじゃないの」
「あ、そうそう、そうでした」
「ったくもう、そうでしたじゃないでしょう? 凄い遠回りしちゃったわ」
「ふふ、オーナーすみません」
 ママは甲斐に向かってぺこりと頭を下げた。

「分った。早川さんの話はそれくらいにして、今度は私からママに話があるの。ちゃんと聞く気ある?」
「少し酔ってきたけど大丈夫です。ちゃんと聞きます」
 ママは言いながらも、よせばいいのに、またグラスを口にした。
「あのね、この早川さんてね」
「はい」
「やっと真面目な顔になったわね。今まで早川さんの話を聞いて、少しは分ったとは思うけど、この早川さんね、とても優秀な、…有能と言った方がいいのかな、設計士さんなの」
「さっきからお話を聞いてて、普通の人じゃないような気はしていたけど、まあ、そうなの? それは失礼しました」
「そうよ、ママ、さっきから失礼ばっかりよ。謝んなさい。……あは、これは冗談ね」
「じゃあ、もしかしてオーナーのところの、あの八王子の設計も?」
「そうなの。お察しの通りよ。この方が総合プロデュースされたのよ」
「わー、凄い。……凄いわねぇー、……大先生なんだ」
 早川は黙って2人の会話を楽しんでいた。それにしても甲斐オーナーの遊び方は尋常ではない。若いとき遊びほうけていたとは聞いていたが、圧倒されそうな遊びの極意を見るようだった。
「どこが凄いのかって聞きたくない?」
「聞きたい、聞きたい。お話しして」
「お話しする代りにお願いがあるの」
「何でしょう」
「ママやママの知り合いが、例えばお、店を改装したり新装したりするようなことになったら、早川さんにその設計を依頼して欲しいの」
「ええ」
「これから、依頼するだけの価値のある話をするね、きっと納得すると思うわよ。きっと頼まざるを得なくなるわよ」
「そうなんだ。オーナー、分ったから早くお話しして」
「じゃあ、お話しするわね。ちゃんと聞くのよ。いいわね?」
「はい」
 2人の話は完全に早川を蚊帳の外に置いてしまった。ママは横に早川が居るのに、まるで居ないかのような話しぶりである。その方が好都合だった。
 暗い店内に流れる音楽がムードジャズに変わった。ホールでは相変わらず男女がくっついた身体をくねらせていた。
 早川にウトウトと睡魔が襲った。遠くで亜希子の呼ぶ声が聞こえたような気がした。

「うちの八王子のホテルは、早川さんが総合プロデュースした、というのはさっきお話ししたわね」
「はい」
「実はそれまでは、他の会社に設計をお願いしていたのね。早川さんのことは、まだその時は知らなかったの」
「ええ」
「そんなある時、あれはいつだったかしら忘れたけど、風の噂に早川っていう名前を聞いたのね」
「ええ」
「新進気鋭の、凄い建築家が現れったっていう話なのね」
「ええ」
「それを聞いて少し興味が湧いたの。そのころは私も、ホテル業の将来についていろいろ考えることがあったから、一度その人物に会いたいって思うようになったの」
「ええ、ええ」
 ママはまたグラスを口に持っていった。
「ママ、飲み過ぎよ。真面目に聞いてるの?」
「あ、すみません。つい手がグラスと会話しちゃって」
「まあ、早速早川さんをパクって。……でも、うまい表現ね」
「ありがとうございます」
「でね、調べていったら、環太平洋建設の設計士さんだってことが分ったのね」
「やったー」
 ママがグラスを片手に持って高々と上げた。
「とりあえず会うだけでもと思って、ほとんどアポもとらずに早川さんの会社に足を運んだの」
「ええ」
「そしたら、いま目の前にいる、……あらまあ、居眠りしてる」
 甲斐は、早川が首を前に垂らして居眠りしている姿を見ながら笑った。
「酔いが回ってきたようね。……ママそっとしといてね」
「はい分りました。……でもオーナー、……この方ほんと素敵な方ね」
 ママは甲斐の方に少し前かがみになって、囁くように言った。
「でしょう? 私もそう思ってるの。……でね、……続けるわよ」
「はい」
「早川さんを紹介されたの。最初びっくりしたの。口は悪いけど、こんな若造が、今を時めく噂の人? って感じね」
「なるほど、俄かには信じられなかったって訳ですね」
「そうなの。だけどお話を聞いてるうちに、あれっ、この人少し変わってると直感的に思ったのね」
「どう変わってたんですか?」
「なんというか説明しにくいんだけど、同じことを説明する時に、他の人は多分こう言うだろうなあということも、角度が全く違う言い方なのね。……うーーん、説明しにくいなあ」
「オーナーの言ってること、何となく分るような気がします」
「で、その後具体的な建設物件を提示して、それを中心に何回も打ち合わせを重ねて行ったのね」
「ええ」
「ところが何回聞いても、私には早川さんの言っている意味がちっとも理解出来なかった。こちらも、この道つまりホテル業を長いことやってきたという自負があるじゃない?」
「それはそうですね」
「だから、早川さんの意見は度外視して、こちらの言い分を通したのね。そしたら、早川さんは何と言ったと思う?」
「さあ、それだったら私は設計できません?」
「違うの。あっさり分りました、その方向で設計致しますと言うの」
「拍子抜けですね」
「そうなのよ。なんだ、何だかんだ言ったってただの若い設計士じゃないの、と思ったの」
「ええ」
「そしたらね、微笑みながら、あの笑顔は未だに忘れられないけどね。早川さんこう言うの」
「ええ、何ておっしゃったの?」
「ホテルの設計って、私は単に器を設計するだけでは、これからのホテル業は成り立たなくなると思います。今回はオーナーさんの考えていらっしゃるイメージで設計させていただきますが、もし次のチャンスをいただけるのでしたら、是非、100%私なりの考えで設計・監理をさせてもらえませんか? 出来れば条件の悪い建設地の方がいいのですが、って言うの」
「へぇー、凄い自信ね」
「そうなの。で、私もいささか頭に血が昇ってしまって、売り言葉に買い言葉ってこのことを言うのよね、きっと。分りました。それほどまでにおっしゃるのなら、次回は是非お宅にお願いします、って言っちゃったの」
「そうなんだー、早川さんやったね」
「してやられたって思ったけど、やれるならやってみろこの若造、って気もあったの。それに一方では、世間の評判も高い、今を時めく若手建築家だし、騙された気持ちで、何となくお願いしてみようかなあ、という気もないではなかったのね」
「ええ」
「少し辺ぴなとこだけど、八王子に以前所有してた土地があったから、よし此処の設計をしてもらおうと意地悪心が働いたの」
「郊外っていうか、都心以外はそれまでは建設したことはなかったのですか?」
「そうなの、それまで建設したホテルは、みんな都心つまり23区内だけだったの」
「そう」
「話が長くなるといけないから簡単に話すね。で、いよいよ八王子の現地測量が始まり、設計が始まり着工になり型通りに完成した訳ね。完成披露パーティーの帰りに、此処に寄せて貰ったって訳なのね。それまで私は、一言も自分の意見を言わなかったの」
「ええ、ええ。オーナーも随分我慢っていうか辛抱された訳ですね」
「そうなの、そんなの初めてだったわね」
「それで、どうなったのですか?」
「最初は都心の一等地に比べたらどうせ辺ぴな所だし、外観とか設計を見ても、他の設計士が設計したのと何ら変わりないと思ったから、ま、損をしない程度に売り上げが上がればいいと思ってたの」
「それから?」
「最初の段階は、普通っていうかこんなもんかなって感じだったのね。可もなく不可もなしって感じね。やっぱりあの設計士も、早川さんのことよね、そこらの設計士と何ら変わりないじゃないの。あの世間の評判は何なのぐらいに思ってたの」
「ええ」
「ところが、半年を過ぎたあたりから客足が全然違ってきたの。急に予約が殺到し出したの。応対がままならなくなってしまう有様よ。まあ、凄いっていったらありゃしないの。初めての経験だったわ。あの八王子でよ? とても嬉しい悲鳴だけど、正直言って私怖くなったくらいよ」
「へぇー、凄い、でもどうして? まさか、さっきの1,000倍のお友達が来てくれたとか」
「あははは、それはないわよ」
「じゃあ、どうしてなんでしょうね」
「そう思うでしょう? 当然よね。そこで私も、今後のこともあるから私なりに調べてみたの」
「ええ、ええ。どうでした結果は」
「台帳を見たら、東京都以外からのビジネスマンが結構多かったの。これは都心のホテルでも同じことはあるんだけど」
「ええ」
「例えばね、八王子から新宿までJRの中央線でも京王線でも、時間的には片道35、6分、料金は400円前後なのよね」
「ええ」
「観光客は別にして、忙しいビジネスマンが、八王子に泊まって新宿まで電車に揺られていくのよ? それだけのリスクを負いながら、わざわざ八王子のホテルに泊まるなんて、余程都心のホテルが満杯ならともかく、ちょっと考えられないと思ったの」
「ええ、そうですね」
「もう一つあるの。なんと7割のお客さんが口コミでいらした方だったの」
「口コミ? なるほど、じゃ最初に利用したお客さんが、かなり満足されてお帰りになったってことですね」
「そうなるわね」
「そんなことってあるかしら。口コミって余程のことでしょう?」
「それでね、私は最初、その口コミになる原因そのものが分らなかったのよ。……何で? ってね」
「うんうん、ですね」
「お客様が満足するって、今どき、どこのホテルでもソコソコある訳でしょ? フロントの応対や清掃やホテル独自のサービスも他のホテルと何ら変わったことをしてる訳じゃないし、それなのにどうしてなの、ってね」
「ほんとだ。そうですね。……不思議ですねぇー」
「寝ないで考えたわよ。そしたら、このホテルの総合プロデュースを担当した、あの憎たらしい早川さんのことがふっと頭に浮かんだのね。出来れば条件の悪い建設地の方がいいのですが、なんて生意気なことを言っていたことを思い出したの。……もしかしたら」
「ええ、ええ。それからどうなったの?」
「いても立ってもいられなくなって、次の日朝一番に電話して、新宿の喫茶店で早川さんといろいろお話したの」
「早川さん何ておっしゃいました?」
「まだまだこれからですよ。これからもっと忙しくなりますよ。余程従業員さんを教育しませんと、へまをやった時の変動が逆に大きくなりますよ。そうなると評判もガタ落ちになりますよ。っていうのよね」
「で、お客さんが増えた原因については?」
「ええ、どうしてですかねと尋ねたらね、どういう答えが返ってきたと思う?」
「オーナーの顔が綺麗だからですよ、って?」
「ふふ、そうね。ありがとう。実はそうなの。バカ、早川さんがそんなこと言う訳ないじゃないの」
「じゃあ、なんておっしゃったの」
「それは、申し上げる訳にはいきません。秘密です、って」
「企業秘密ってこと?」
「違うの、早川さん自身の秘密。どうか勘弁してください、って言うの」
「そっかあ、考えてみればそうかもね。早川さんにしてみれば、宝の中身を言う訳にはいかないのかもね。何となく分るような気がするわ。だって、それって、早川さんの最大で強烈な武器ですものね」
「そうなのよね、で、さらになんて言われたと思う? そのことはお客様自身にもっともっとお尋ねになってください。そしたら答えは自ずと出てきますよ、って」
「そう」
「さらにこうも言うの。私のことよりも、ホテル経営に目いっぱい精を出してください、って逆に励まされたわよ」
「へぇー、そうだったんですか」
「私は何だか涙が出るくらいに嬉しくって、それ以来、この方の大ファンになってしまったの」
「そっかー、いい話聞いちゃった。オーナーありがとう」
「うん、だからさっきの話お願いね。この人のこと」
「はい、よーく分りました。その節はお願いしたいと思います。でもその頃は遠い遠いところに行かれて、私なんかには見向きもしなかったりして」
「ふふ、そう思うでしょう? でもこの人は、そんな人じゃなくってよ。ほんとにいい人なんだから」
「オーナー、ぞっこんね。何だったら申し込んでみたら?」
「何を?」
「不倫」
「バカねぇー。この人これしか相手しない、ってさっき言ったでしょう?」
 甲斐は親指を立てた。
「オーナーも嘘をつくのが下手ですね。早川さんは絶対にそんなことないと思います」
「あれっ、どうして分ったの?」
「ふふふ、オーナー、私も伊達に銀座でこんな商売やってませんよ。これでも男を見る目はあるつもりですけど」
「ああ、やっぱりばれちゃったか、残念」
「で、惚れてるんでしょ?」
「不倫したらって言うの? 馬鹿ねぇー、出来る訳ないのよ」
「どうして?」
 甲斐は手招きしてママの顔を近づけるように言った。
「私から聞いたって絶対に言わないでね」
「ええ、約束します」
「さっき私がお話ししたでしょ? 1,000倍のお友達」
「ええ、ええ」
「彼女が早川さんのこれなの」
 甲斐は小指を立てて囁いた。
「あら、そうだったんですか。……あらまあ、……ショック」
「何よわざとらしい。あなたにはいいパトロンがついてるくせに」
「オーナー、……シッ」
 丁度その時、早川が目を覚ました。
「あ、すみません。ついうとうとしちゃって」
「おはようございます。すっかり酔いが冷めたみたいですね。さ、召し上がれ」
 ママがグラスにウィスキーを注いだ。
「あ、すみません。ありがとうございます」
 相変わらず店内はムーディーな音楽が酔いを増幅させていた。時間の経過とともに、客が少しずつ増えているようである。
 その時、ボーイがそばに来てママとヒソヒソしていた。
「オーナー、ちょっとごめんなさい。すぐ来ますから」
 ママが席を立った。
「こちらは気にしなくていいから、ゆっくりしてらっしゃい」
 甲斐はママの顔を見て笑いながら言った。
「ふふふ、いよいよ蝶の舞が始まりそうね」

 早川はゆっくりとグラスを持ち上げ口に持っていった。2人きりになってホッとしたような気分になった。
「踊りません?」
 突然甲斐が早川をダンスに誘った。
「あ、オーナーすみません。私はダンスはからっきしダメなんです」
「嘘おっしゃい。顔にウソですと書いてあるわよ」
「いえ、ほんとなんです。勘弁してください」
「ジルバとかルンバじゃなくて、チークだから簡単よ、くっ付いてればいいんだから」
「でも、……」
「丁度ジャズ風のムーディーな曲がかかってるわ。……さ、行きましょう」
 甲斐はもう腰を上げて早川の手を引く構えをした。早川は仕方なく後からついて行った。
「オーナーの足を踏んでしまうかもしれませんよ」
「ふふ、いいわよ、思い切り踏んでね」
「もー、オーナーったら、じゃあ、よろしくリードお願いします」
「任せといて百戦錬磨の腕を見せてあげるわ」
 甲斐は楽しそうに微笑んだ。暗いホールでは数組の男女が曲に合わせて腰を振っていた。甲斐は片手を早川の腰にもう一方を背中に回した。早川も同じ姿勢になった。甲斐の胸のふくらみが早川の胸で柔らかくバウンドした。さすがに甲斐のリードは巧みだった。早川はあまり経験のないことなので、その巧みさに吸い込まれそうになっていく自分を抑えることが出来なかった。甲斐に身をまかせた。
「下手ですみません」
 早川は甲斐の耳元で囁いた。
「ふふ、早川さんと踊れるなんてとても嬉しいわ。花岡さんに怒られるわね」
「……」
 気になっていることをズバリと言われ返す言葉がなかった。その時、甲斐の腰に回していた手が、早川の腰を強く引き寄せた。そして上半身を少し離し、上目づかいに早川をじっと見つめた。甲斐の高い鼻が早川の口元にくっ付きそうである。甲斐が囁いた。
「今日はとっても楽しかったわ。ありがとう。久しぶりにスカッとしたわ」
「いえ、こちらこそ、ほんとに楽しい夜になりました。ありがとうございます」
「こんな時間を時々持てるといいわね」
「……そうですね」
 2人は続けて2曲踊って席に戻った。

「あら、どさくさに紛れていいわね」
 ママがすでに戻っていたらしく、2人を冷やかした。
「まるで恋人同士みたいに見えたわよ」
 早川に向かって言った。
「あは、私が下手なものですから、オーナーも苦労されたみたいで、いけませんね」
 照れながら弁解した。甲斐がママに顔を向けた。
「ママ、早川さんと踊ってあげて」
 早川はびっくりして甲斐の顔を見た。笑っていた。淋しそうな笑いに見えた。
「オーナー、私はもうご迷惑かけるの一人で沢山ですよ」
「そうじゃないの。早川さんはこれからジャンジャン伸びて行く人でしょう? だったらダンスの一つや二つマスターしときゃなきゃ。きっと将来役に立つわよ。さ、ママ誘ってあげて」
「まあ、嬉しい。さ、早川さん行きましょう」
「ママ、ごめん。今度来たときにお願いします。今夜はちょっと、……ゴメン」
 顔の前で両手を合わせてママに言った。
「この美人ママを断る人なんて前代未聞だと思うわ。どのお客様もママと踊りたがるのに、ねぇママ」
 甲斐はほんとは嬉しかったのである。笑いながら早川を指さしながら言った。
「ああ、振られてしまった」
「ママ、ごめんなさい」
「じゃあ、今度来たとき必ずよ約束よ」
 その場しのぎに言ったのに、そう言われると弱い。
「はい」
 小さい声で言ってしまった。
「じゃ、そろそろ、おいとましましょうか。ママも忙しくなりそうだし」
「そうですね」
 早川が待ってましたとばかりに腰を上げようとした。
「オーナー、もうお帰りですか? まだ早いじゃございません? もう少しゆっくりしてらしてください」
 ママが甲斐の顔を見ながら言った。
「丁度きりがいいと思うけど。ねぇ早川さん?」
「そうですね」
 早川の言葉を遮るようにして、ママが甲斐のそばに移動して耳元で囁いた。
「実は、さっきうちのこれに言われて、もう少しお聞きしておきたいことがあるの」
 ママは親指を上げた。
「えっ、来ていらっしゃるの? そう」
 甲斐は腰を下ろした。早川も何ごとかと思いながら腰を下ろした。
「で、何なの?」
「ええ、早川さんの考えを、もっとお聞きしておきたいの」
「ほんとに男が好きか、ってこと?」
「違いますよ仕事のお話です」
「おや、そうなの? それじゃ真面目に聞かなくっちゃ」
「まあ、現金なんだからオーナー」
「おあいにく様、今夜はカードです」
 また始まったと早川は苦笑した。

「あのね、さっきからずーっと、とてもいいお話を聞かしていただいて、とても勉強になりました。で、ついでと言っては悪いのですが、早川さんにお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「おや、警察の尋問みたいね」
 甲斐が茶化した。
「改まってまた何でしょうか? お伺いします」
「じゃ、いいますね。早川さんの仕事に対する考え方をお聞きしておきたいの」
「まあ、ママどうしたの急に超真面目な話になったりして。さっき私がいろいろお話してあげたのに、まだ足りないの?」
「いえ、そうじゃないんです。それはそれでとても参考になりましたし、却って、この際もっと深くお聞きしておいた方がいいのではと思ったのです。ここへはそう度々お越し願えないでしょうからねぇー」
「あらそうだったの、ごめんんさい。余計なことを言ったみたいで」
 パトロンからの指示と見えてママも真面目になっていた。
「いいえ、早川さんの口から、設計に対する姿勢っていうか考え方を、お話し出来る範囲で結構ですから伺っておきたいのです」
 ママは早川の方を向き両手を合わせた。
「そうですか。分りました。お話し出来る範囲でという条件でお話ししますね」
「ありがとうございます」
 早川は少し目を閉じて考えていた。
「どこからお話ししましょうかね。そうですね、先ほど話したことに関連づけてお話しした方が、分り易いかもしれませんね」
「さっきのとおっしゃいますと?」
「はい、先ほど人間の五感のお話をしましたよね」
「ええ」
「私の場合視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、それに第六感と、さらに指を加えて、これらの一つ一つを丹念にじっくり研究して、それぞれの設計に投入していくのです」
「……」
「中には例外もありますが、ほとんどの場合、建物は全て人間が活用するための器ですよね」
「そうね」
「この手のお話は、まともにお話ししますと、とても長い時間かかりますので、今夜は簡単に分り易くお話しします」
「はい、その方が助かります」
 ママは甲斐の方を見ながら言った。甲斐も頷いていた。
「建物の設計をする場合、建物の機能性や使い勝手やデザイン、さらには自然環境との共生・からみ等がとても重要なのです。さらに立地条件や例えばホテルだとか店舗だとかの建物種別によって、優先順位をどうするかということもあるのですが、もっともっと重要なことがあると思っています。私の場合、実は、当たり前のことなのですが、それは人間のことなのです。人間をどう設計するかということなのです。すみません、ちょっと難しい話になりました。うまく説明が出来なくてすみません」
「人間を設計する? なるほどね。そうか、そうなんだ」
 甲斐が妙に納得顔で早川を見た。
「オーナー、何ですか? 一人で納得しないで、私にも教えてください」
 甲斐は早川を指さして、聞きなさいと言わんばかりであった。早川が続けた。
「さっきの話にも出てきましたが、これは会話なのですね」
「会話?」
「ええ、例えばママのこのお店を例にとりますと、このお店の従業員の方も含めて、調度品や備え付けられた備品などの全てと、お客様が実は会話しているんですね。声を出して会話してるんじゃありませんよ」
「ええ」
「これもさっきは、エッチな話として言いましたが、実はとても大事なことが包含されているのです。愛する男性にくすぐり会話された女性は、いつもまた抱かれたいと思いますよね。抱いて欲しいと思いますよね。また会話したいと思い続けますよね。そしてその実現に努力すると思うんです。男も女もね」
「うんうん、分ります」
「そのことと、先ほどお話しした、此処のお店とお客様との会話と全く同じなのです。つまり、此処のお店の全てとお客さまが、どのように会話するかによって、売り上げに微妙に変化を与えている訳です」
「はい」
「お客様をこよなく愛したこの店が、お客様をあらゆる手段を講じてくすぐり続ける。お客様はくすぐられることに無上の喜びを感じて、再びこの店を訪れたいと思うようになります。訪れる機会を積極的に作ろうとします。場合によっては無理して、借金してでもこの店に来たい行きたいと思うようになります。この段階になりますと、お客様の心の奥深くに、お店のくすぐりが浸透してもう離れなくなります。そうなりますと、どうなるでしょうか? 結果は明らかですよね」
「なるほど」
「おそらく、これが口コミとなって広がり、お客が殺到するようになります」
「ええ、ええ」
「ですが、じゃあ、どうしたらそんな風に持っていけるのかという、肝心要の部分が極めて大事になってきます。言うのは簡単ですが、実際に具体的にどうすればいいかが、みんな分っていないのです」
「……」
「ママをはじめとする従業員さんに対する教育は、どこのお店でもやっていますし、接客マニュアルもありますよね。甲斐オーナーのところも同じですよね」
「ええ、そうですね」
 早川の話に目を閉じてじっと聞き入っていた甲斐オーナーもママと異口同音に返事した。
「このボックスみたいな備品や舞台やホールや照明などの設備のレイアウトは、設計の段階で決められますよね。これは規模の大小とか立地によって微妙な違いはあるかもしれませんが、どの店もほとんど同じだと言ってもいいと思うんです」
「そう言われればそうですね」
「もちろん美人がいるとかいないとか、料金が安いとか高いとかも多少関係してはきますが、そんなことは、とても小さなことです。例えば、此処のお店で出すビールの小瓶は1本いくらするんですか?」
「1本1,200円です」
「これを1,800円にしたらどうなります。ママ」
「客が遠のくと思います」
「通常はそうですね。ですが、今お話ししてるくすぐり会話を完成させますと、まずそういうことはありません。お客さんが減るということは、まずありません」
「えっ、ほんとに? とても信じられない」
「そう思うのが普通ですね。でも、ほんとなのです。一度愛されて、愛撫によって狂わされた女性は、どんなことがあっても死に物狂いで彼の後を追い続けたくなるのです。これは何も女性だけの問題ではありません。男性でも同じです。でしょう? ママ」
「ええ、そうです。その通りだと思います」
「ママは、今その絶頂期にあるんだもんね」
 甲斐がからかった。
「まあ、オーナー、真面目な話に茶々入れないでください。こんなに真面目に人の話を聞くなんて、滅多にないことなんですから」
「やっぱりね、とうとう白状したわね。いつもは人の話をいい加減に聞いているんだ」
「もー、オーナーったら、そんな意味で言ったのではございません」
 早川が続けた。
「もちろん、愛撫されただけでこうなるとは思いません。その人の人間性とか好みとか、お金持ちだとかそうじゃないとか、場合によっては、背が高いとか痩せてる・太ってるとか、時には尊敬出来る人かどうかなども微妙に関係すると思います。人が何かに夢中になるとかファンになるとか、もう一度会いたいというような気持になるのは、単なる魅力だけではだめだと思うのです。一時的には良くても、すぐ飽きられてしまう可能性があります。美人がいるからといって繁盛していた店が、その人が店を辞めたら途端に客が減るようではだめだと思うのです。要は、お客さんが恒常的に死に物狂いで追い続けたくなるような、そんな仕掛けを作ることなのです」
「なるほど、でもそんなことが出来るのかしら。どんな仕掛けなんだろう」
「その仕掛けが実は私の設計のミソになっているんです。設計の中にその仕掛けを施すのです」
「その仕掛けって、どんなものなんですか?」
「それは、ホテルの場合と此処のお店みたいな場合とは大きく違います。つまり建物種別によって、注入するミソの種類が違うってことです」
「ここのお店の場合どうすればいいのですか? 教えてください」
 ママがかなり熱心に聞いてきた。
「ママ、それは教える訳にはいかないのです」
「えっ、どうしてですか? 人にその気にさせといて、それはあんまりですわ」
 ママは口を尖らしてふくれてみせた。
「あはは、ママごめんなさい。このことは、特に長いことお世話になっている甲斐オーナーにすらもお話ししてないのです」
 早川は甲斐オーナーの顔をちらっと見ながらママに話した。甲斐は頷きながら目を閉じていた。
「そうなんだ、早川さんの秘密の武器って訳ね」
「はい、早川独自のくすぐり設計のエキスなのです」
「くすぐり設計のエキス?」
「はい。これだけは、私が長いこと研究してきた、とても重要な設計理論なのです」
「そっかー、これでやっと、さっき甲斐オーナーの言ってた意味がよーく分ったわ。怖いくらいに客が来るって」
「えっ、さっき? それって私聞いてないですよ。いつ話されたのですか?」
 早川の知らないことの話が出て少し驚いた顔になった。
「ふふ、早川さんが彼女の夢を見ていた時の話」
 甲斐が早川を見ながら笑った。
「ああ、私が眠っていた時にそんな話されたんですか?」
「そうそう、何だかとても幸せそうな顔でしたよ。ねぇー、オーナー」
「そ、そ、鼻の下を長ーくしてね」
「あはは、からかわないでくださいよ。……参ったなあ」
「早川さん、ほんとにありがとうございました。よく理解できました」

「もう、よろしいですか? じゃあ、最後にとても大事なお話をします」
「ええ、お願いします」
「これからママが、大きなお店を出したり改装したりする時に、気をつけなければならないことがあります」
「ええ」
「これは甲斐オーナーも聞いていただきたいのですが」
「はい、聞いてますよ」
 甲斐が体を起こして前かがみになった。
「設計を依頼したり施工を依頼したりする時に、あそこの会社だと良いというようなことを決して思わないことです。例えば、江島建設とか松中建設、小林建設、水島建設などの大手の建設業者・ゼネコンだと、満足するものを作ってくれるのではと決して思ってはならないということです」
「……」
「確かにそういう会社は、実績もありますし技術力もかなり高いものがあります。しかし、必ずしも100%満足なものになるとは限りません」
「……」
「自分の住宅を建てるのも同じことです。有名な大手の会社が、必ずしも満足する家を作ってくれるとは限らないということです」
「どうしてですか?」
「会社そのものが設計する訳ではありません。会社の中の一人のスタッフが設計を担当することになります。もちろん大型物件になりますと、組織だって動きますので必ずしもそうではないのですが、それでも最終チェックする責任者がいます」
「ええ」
「何が言いたいかと言いますと、いくら大手でも実際に手がけるのは担当者であって、会社が設計する訳じゃない。だから、結局は担当者の能力が大きく影響する。担当者の能力が問題だということを言いたいのです」
「そっかあ、会社は大きいけど、担当する設計者は必ずしも優秀じゃない?」
「そういう場合もあるってことですよ。でも、これって意外と錯覚してしまうんです。大きい会社だから、実績にある会社だから、テレビで宣伝してるから、だから良い会社? だから良い建物を作ってくれる? と。 けれども、必ずしもそうはならないということを知ってて行動することが、とても大事になってくることを申し上げておきたいのです」
「なるほどねぇー、そうなんだ、とっても参考になったわ」
「ありがとうございます。私の話はこれでおしまいです。話下手ですみません」
「いーえ、噛み砕いてお話しされたから、とっても良く分りました」
「ママ、分ったわね、私が早川さん個人に拘るのが分ったでしょう?」
「はい、ほんとに良く分りました」
「早川さんのことファンになってね」
「はい、もうとっくにファンになってます」
「そうかしら、ほんとに? ……不安だわ」
「あらやだ、オーナーからダジャレを聞くなんて」
 3人は大きな声で笑った。

「話は変わりますけど、ママにちょっとお尋ねしたいことがあります」
 早川がママの顔を見た。
「あら、なんでしょう。色恋以外は受け付けません」
「あは、相変わらずですね。いえね、このお店の店名のことなんですけど」
「はい? 藪から棒になんでしょう」
「この店名は誰が考えたのですか?」
「さあ、どなたでしょう。早川さん当ててみて」
「考えられるのはママか、ここの経営者。だけど、私は違うような気がするんです」
「だれ?」
「このお店を設計監理した人じゃないかと思います」
「どうしてそう思ったのですか?」
「特別理由はありません。ただ何となくそう思ったまでです。CEを後ろに付けているとこなんかがそうですね」
「さすがね早川さん」
 ママが驚いた様子で小さく拍手した。その時甲斐が言い出した。
「その前に今思い出したんだけど、早川さん車の中での宿題、解けた?」
「はい。このお店に入る前に、ドアの上の表札を暫らく眺めて考えたのですが、当ってないかもしれませんが、ママ」
「はい?」
「ママはエメラルドが好きですね?」
「えっ、どうして分ったの?」
「表札に書いてありましたよ。エラルドって。これって、エメラルドの意味でしょ?」
「まあ、凄い」
「ほんとはエメラルド・キャッツアイとしたかったけど、銀座にはエメラルドってお店が既にあるからエラルドにした。メが抜けているのは、銀座の目抜き通りにあるからメ抜きにしたんでしょう?」
「呆れた、……凄い」
「だから、銀座の目抜き通りにあるエメラルド・キャッツアイ。つまり、キャッツアイの頭文字をとって、Erald・CEになったと思います。違いますか?」
「早川さんさすがね。100点満点の解答ね」
 甲斐が感心したような顔で、早川を見てからママの方に顔を向けた。
「オーナー、いまふっと思ったんですけど、もしかしたら八王子のホテルの名前は」
 と言いながら早川の顔を指さした。
「そうよ。何か文句がある?」
 甲斐は威張って見せた。そして、
「ママ、何にも言うことないでしょ?」
「……」
「どうしたのよ黙ってしまって」
「だって、早川さんて、怖い」
「そう、やっぱりね。……私も最初はそうだったのよ。この人天才じゃないかしらとか、超能力者じゃないかとか思ったりしたことがあったの」
「ええ、ええ、分ります。怖くて身震いがするわ」
「ついでに愛撫していただいたら?」
「もうやだ、オーナー、わたし失神してしまいそう」
 ママは顔を真っ赤にして照れ笑いを見せた。笑い転げていた早川がママに向かって言った。
「ママのその笑顔はエメラルドの輝きですね。その笑顔を設計に織り込めるように研究しなくっちゃ」
「まあ、まあ、どうしましょう」
 と言いながら、早川に聞こえないように甲斐の耳元でささやいた。
「オーナー、わたし今の彼と離縁する。……いい?」
 それを聞いて甲斐は大声で笑った。そして、早川に言葉を投げた。
「ママの芝居がまた始まった。……さ、早川さん、お後がよろしいようですよ」
「そうですね。お開きにしましょうか。……ママ、いろいろありがとうございました」
「とんでもございません。こちらこそほんとにありがとうございました。またいらしてくださいね」
 ママは我に返ったように商売顔になった。
「ママ、今夜はほんとに楽しかった。ありがとう」
 暗い店内は、相も変わらずムードミュージックが静かに流れていた。甲斐と早川の2人はエラルドを後にした。エラルドのドアを開けて、ドアの上の表札を見て2人はくすくす笑った。

「どうする? お茶づけでも食べない?」
「いえ、もう遅いですからタクシーで帰ります」
「どうかしら、うちに寄って行かない?」
 滅多にない楽しい余韻を家に持ち帰りたいようだった。
「いえ、明日も飲み会が入ってますので、今日は失礼します」
「早川さんは家には一度もいらしたことないから、いい機会だと思うけど、……来ない?」
 甲斐は渋谷区の松濤にある自宅で、もう少し余韻を楽しみたかった。早川と別れた後の淋しさを想像していた。
「旦那さんは?」
「今夜は事務所にお泊りよ。よくあることなのよ。だから気兼ねなんかいらなくてよ」
 甲斐は名残惜しそうだった。
「オーナー、今夜はやっぱり失礼します。……ごめんなさい」
 甲斐は早川の決心が固いと思い誘いを諦めた。
「そう、分ったわ。……いろいろありがとうね」
「いえ、こちらこそ、ほんとに楽しい時間でした。ありがとうございました」
 早川は深々と頭を下げた。
「そこいらで車を拾いましょうか?」
「ええ」
 暫らくして、タクシーが1台滑り込んできた。
「さ、乗って」
「いえ、何をおっしゃいます。オーナーからどうぞ。私は適当に拾いますから」
「いーーえっ、今夜の早川さんは私の大事なお客さまだから、……運転手さん横浜まで行って」
 甲斐は運転手にチケットを渡した。半開きのドアを手で開けて、「さ、早川さん」と言ってお尻を押した。
「またね、来週あたり電話するから、また付き合ってね?」
「はい、すみません。じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます。……お先に失礼します」
 タクシーのドアが閉じた。
「オーナー、おやすみなさい」
 早川はドアガラスを開いていった。
「おやすみなさい、……ありがとう」
 オーナーの淋しげな顔が、暫らくの間早川の脳を支配した。思えばとても楽しく愉快な晩だった。だが、その思いを亜希子の面影が打ち消した。そして、いつの間にか寝入ってしまった。

 次の日の朝10時に、早川は甲斐オーナーに昨夜のお礼の電話をした。
「あ、オーナーおはようございます。……早川です。昨夜はほんとにありがとうございました。ご馳走さまでした」
「わざわざ電話するなんて相変わらず律儀な方ね。いーえ、どういたしまして。大変に楽しい夜を演出していただきありがとう。今朝もまだ余韻が残ってるくらいよ。あれからまっすぐ帰ったの?」
「はい」
「来週また時間空けといてね。来週の月曜日に電話するから、いい?」
「はい、お待ちしています」
「都合の悪い日、ある?」
「夜間でしょうか?」
「そうよ、夜」
「今のところ、水・木・金の以外でしたら空いていますが」
 早川は、C&Tのミーティングやプログラムの動作の監視をする木曜日の前後の日は、予定を入れたくなかった。
「そう、土曜日とか日曜日はどうなの?」
「あ、オーナー、すみません。土・日はちょっと」
 早川は余程のことが無い限り、仕事と私的なことは混同しないようにしていた。いくら大事なお客様とはいえ、公私だけは混同したくなかった。甲斐オーナーに対してそのことを言う訳にはいかない。曖昧な言葉になってしまった。
「花岡さんとデート?」
「いえ、そうじゃないんですけど、ちょっと」
「ということは、月曜日か火曜日しか空いてないってことよね」
「すみません」
「そう。……分ったわ。じゃね、ありがとう」
「はい、失礼します」

 来週も会ってくれという甲斐オーナーの意図が読めなかった。多分、昨夜話が途中で切れてしまった離婚の話だろうと思った。しかし、オーナーほどの人が、私的なことを、わざわざ時間を割いてまで早川に話す必要があるのだろうか。ご主人とは近いうちに離婚の話をする、ということだったが……。
 新しいホテル建設の話を会社に持ち込んだが、岩田課長から当分の間、早川はご意向に添いかねる旨の話を聞いた。甲斐オーナーは仕方がないから建設計画を延期すると言ってはいたが……。

第4章 意地と野望
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