オーナーの声が、いつものはきはきした口調と違うように聞こえた。ちょっと疲れているような、そんな感じだった。改めて電話するからと言って電話が切れた。
社内情報漏洩事案に関しては、今週いっぱいが山場である。今後は郷田部長が動いてくれるという安堵感から、早川の気持は幾分落ち着いてきた。手筈は全て整った。
木曜日には、全てが明らかになる。早川は、社内情報漏洩事案に関することで、今週やらなければならないことをメモした。
- 田部井のメモを浅田から受け取る。
- 部長からドタキャン物件のリストを受け取る。
- 同級生の中村純一郎と会う。
- 中村から関東建設日報の記者を紹介してもらう。
- ドタキャン物件の確認申請の状況を関東建設日報で調べる。
- 水曜日
- 関東建設日報で調べた、ドタキャン物件の確認申請状況のデータを部長に報告。
- 電算課の吉田主任の指導の下に、PCとサーバーにプログラムをインストールしてテストする。
15時00分~17時00分 - 木曜日
- AM10時 C&T緊急会議
- 15時00分~16時00分 プログラム監視
- 16時00分~18時00分 プログラムから抽出されたデータの分析 → 部長に報告
- 20時00~会合(4人)
10時ころ田部井のメモが、他の業務用の書類と一緒に、浅田から届けられた。
「やあ、ありがとう」
浅田は何にも言わず、一礼して席に戻った。メモは用紙4枚にびっしり書かれていた。さすがに、田部井のメモ魔を思い知らされた。次のステージでの作戦に利用できないかと思って、田部井にメモを書くように頼んだ。しかし、部長の一声で、次のステージの舞台に立つことはもうなくなってしまった。しかも、おそらく、部長の手配による探偵事務所の結果が、全てを明らかにしてくれる筈だから、田部井のメモは、必ずしも必要ではなくなったような気がした。そんな思いでメモを目で追っていた。目では追っているが脳が反応しない。早川は用紙を折りたたんで、胸のポケットにしまい込んだ。
11時前に部長から電話で呼び出され、一枚に印刷されたドタキャン物件のリストを手渡された。この1年間で15件ほどの打ち合わせが没になっていた。その内、契約寸前の物件が5件あった。その中に岩田課長が言っていた設計3課の分もあるのだろうと推測した。リストを内ポケットにしまい込んだ。
早川は自分の席に戻り同級生の中村に電話を入れた。
「おい、元気かい?」
「おー、悟か珍しいな。うん。こっちは元気だ。そっちは?」
「こっちも元気だ。今いいかな?」
「構わないよ、なんだ?」
早川は少し声を落とした。
「今日昼から時間取れないかなあ」
「ちょっと待ってな、手帳を見てみるから」
「ああ、うん」
「14時からならいいが?」
「そっか、じゃあさ、そちらに行くから、近くでお茶でも飲まないか?」
「どうしたんだよ、急に」
「いや、君とは随分ご無沙汰だし、顔を見たくなったんだよ」
「あはは、俺のこんな顔見たってつまらんだろ、何か魂胆がありそうだな」
「大いにあるんだよ。どのくらい時間取れる?」
「1時間位しかないんだよなあ。それでもいいか?」
「そっか、うん。それでもいいよ。……じゃあ、いいな? 14時にそっちに行くから」
「分った。待ってる」
大学の同級生中村純一郎は、早川とは苦学を共にした無二の親友である。渋谷区で設計事務所を経営している。20名の所員を抱え、都内の設計事務所としては中堅の事務所である。早川とは不思議と気が合う。何でも言い合える、気心知れた仲である。早川と同じ独身である。早川は丁度14時に、一旦中村の事務所を訪れた後、2人で近くの茶店に入った。
「君の事務所、だいぶ繁盛しているみたいだな」
早川がコーヒーを一口飲んで言った。
「何を言うか。このご時世だろ? 大変だよ。所員を何人か減らそうかと思ってるぐらいだよ」
「いずこも一緒だな。この景気じゃなあ仕方ないな」
「君ん所は大きな会社だし順調なんだろ?」
「今は規模が大きいから良いという時代じゃないな。逆だよ。規模が大きい分打撃も大きい。うちの会社もそうだが、どこも必至みたいだぜ」
「だよなあ」
「ところで、その顔では、相変わらず浮いた話はなさそうだな」
「あはは、そう言うなよ、こればっかりは縁がないねェー。俺は女性には奥手だからなァー。もっとも、今仕事が面白くてたまらないからな。そんなのどうでもいいよ」
「君ほどの男でも縁がないのか。ま、本人がその気にならなきゃ縁もないわな」
「そう言う君はどうなんだ? いい話でもあるのか?」
「近いうちに報告するよ」
「何? ……ということは? ……畜生、先を越されたか」
中村はいかにも悔しそうな顔をした。
「あは、お先に失礼します」
「この野郎、俺の許可もなしに、……憎たらしい」
「あはは、……ちょっと聞くけど、結婚するんだったら、どんな女性がいいと思ってるんだ?」
「そうだな、誰でもという訳にはいかないからな、こればっかりは。……ま、俺の仕事を理解してくれる女性だったらいいかな。さらに仕事を手伝ってくれることが出来る人だったら、もっといいと思うけどな」
「容姿とかスタイルは? 気にしないのか?」
「性格さえ良ければ、それは二の次だな。顔は歳を取るけど、性格は歳を取らないからな」
「言えてる。たまにはいいこと言うじゃないか」
「ま、出来れば、顔は10人前だったらいいかな」
「あは、贅沢な。……何だったら紹介しようか?」
「そんな人いるのか?」
「ピッタリの女性がいるぜ。会って見ないかい?」
「君の紹介する女性だったら考えてもいいな。結婚後の、家族同士の付き合いも大事だからな」
「分った。そのうち一緒に食事でもしよう。きっと気に入ると思うよ」
「そっか楽しみだな。……ところで、時間が余りないんだが、何か用事があるんだろ?」
「うん。会社の用事で、関東建設日報で調べたいことがあるんだが、記者を紹介して欲しいと思ってな」
「関東建設日報の記者か?」
「そうなんだよ。誰かいないかね。付き合いがあるんだろ?」
「仕事柄付き合いはもちろんあるさ。そうだな、何人か居るけど何を調べるんだ?」
「過去1年くらいの、確認申請のデータを調べたいんだよ」
「それだったら、内村って人がいるから、その人を訪ねるといいよ。関東建設日報では一番優秀で切れ者だよ」
早川は手帳にメモした。
「そうか。ありがたい」
「君と気が合うんじゃないかな。知ってて損のない人だよ」
「おお、それはありがたい。すまんが、その人に一報入れておいてくれないか。明日の午後から訪問したいのだが」
早川は、午前中は相手も何かと忙しいだろうと思った。それに、午後からの方がじっくり調べられると思った。
「ああ、いいよ、明日の午後だな? 何時ごろだ?」
「13時半だとありがたいのだが」
「ちょっと待ってな」
中村は携帯を取り出して番号をプッシュして耳に当てた。
「ああ、内村さん? 中村です。お世話になります」
「おや、先生。嬉しい人から電話だ、……飲みのお誘い?」
「あは、残念でした。そうじゃないんです。……内村さん、明日の午後は何か予定入っていますか?」
「明日? ちょっと待ってくださいね。……えーと、夕方までは空いてますが」
「そうですか、実は私の友人が、内村さんを拉致したいと言ってるのですが」
「中村さんのお友達に拉致されるんですか。いいですねェー」
「13時半頃、早川という男が訪ねていきますので、会ってやっていただけませんか? ラーメンを生のまま食べて、ひっくり返った時のような顔をした男なんですが、」
「ラーメンを生のまま食べて、ひっくり返った時のような顔? ……面白い。中村さんの紹介でしたら、喜んでお会いしたいですね」
「お忙しい人なのにありがとうございます。……じゃあ、そういうことでよろしくお願いいたします」
「はい。お待ちしております。……タキシード姿でお待ちすればいいですかね?」
「あは、いえ、十二単がいいでしょう」
「あははは、これから貸衣装屋に走ります」
「内村さん、近いうちにまた一献行きましょう」
「ありがたい、その言葉は、何よりも嬉しい響きですね」
中村は携帯を切った。早川は2人の会話を楽しげに聞いていた。
「明日13時半、OKだよ」
「ありがたい。すまんな、……ありがとう」
「なーに、おやすい御用だよ。……どうだ、今度内村さんも交えて、一献行かないか?」
「いいね、任せるよ」
「分った」
「時間がなくなってしまったな。今日は忙しいとこすまんな。ありがとう」
「じゃあ、ここで別れよう。……また近いうちに、ゆっくりとな」
「そうだな、じゃあな」
次の日の午後、早川は中村に紹介された関東建設日報に出向き、受付に内村との面会を求めた。応接間に通されて程なく、中肉中背の鼻筋の通った眼鏡をかけた男が現れた。目がやたらと鋭く、濃い髭の剃り跡が全体の顔を精悍に見せている。
「内村と申します。よろしくお願いいたします」
低音の渋い声である。名刺を早川に差し出した。渉外担当主任 内村克行とある。
「はじめまして、早川と申します。今日はお忙しいところ、ありがとうございます」
早川は内村の名刺を、名刺入れの上に置き、頭を下げて丁重に挨拶した。内村は、早川から差し出された名刺をしげしげと見て、顔を上げて早川をじっと見つめた。
「環太平洋建設の早川さん? ……えっ、もしかしたら、あの噂の早川さんですか?」
内村は名刺をじっと見つめながら、びっくりした顔になっていた。
「どんな噂か存じませんが、どうせ、ろくな噂ではないでしょうけど」
早川は照れ臭そうに内村を見た。
「このC&Tプロジェクトとありますが、これは何ですか?」
「特別意味はありませんよ。単なる組織の名前です」
早川は適当に説明した。
「中村先生も先生だなあ、ひとこと言っていただければいいのに。いやー、今日は最高の一日になりそうですね。……ま、どうぞ」
内村は独り言を言いながら満面の笑顔になった。早川にソファに掛けるよう勧めた。
「失礼します」
早川は内村に会釈しながら腰を下ろした。
「おや? 中村先生からは、ラーメンを生のまま食べて、ひっくり返った時のような顔とかおっしゃっていましたが、ラーメンを生で食べてひっくり返ったら、こんな、水も滴るようないい男になるんですかね。試して見なきゃ」
「ラーメンを生のまま食べてひっくり返るような、そんな馬鹿な奴という意味ですよ。あはは」
「それにしても、今を時めく新進気鋭の建築家にお会い出来るなんて、いやァー、光栄だなあ」
「あは、いきなり、とんでもないお褒めをいただき、私はどうしたらいいのでしょう。スコップをお借りしようかな」
「スコップ? どうされるんですか? まさか」
「はい。そのまさかです」
「あはは、これは面白い。……そんな方がまた、何でこんなうす汚い会社などに御用なんでしょうか」
「それでは、早速お話しさせていただきます」
「ええ、どうぞ」
内村は急に真面目な顔になって、早川の口元を見つめた。
「ここ1年間程度でよろしいのですが、確認申請書の申請状況を閲覧したいのですが、可能でしょうか」
その時、内村の目が一段と鋭くなった。そして意味ありげな顔を早川に返した。
「ええ、結構です。当社発行の、過去の新聞を閲覧したいとお考えなのですね?」
「そうです。お願いできますでしょうか。当社も購読してますが、古いものは破棄しますものですから」
「しかし、具体的にどういうことをお調べになりたいのか分りませんが、1年分となりますと相当な時間が掛りますよ」
「そう思います。しかし、どんなに時間が掛ってもいいと思っています。今日だけで無理でしたら、後日またお願いすることになると思います」
「そうですか。お調べになりたい件数はどの程度ですか?」
「僅か15件程度なのですが」
「そうですか。せっかくの中村先生のご紹介ですから、いいものをお見せしましょう。……少しお待ちいただけますか?」
「はい」
内村は一旦引き下がり、暫らくして分厚いファイルを抱えて戻ってきた。
「これを閲覧していただいた方が、短時間で済むと思います」
内村はファイルをぱらぱらとめくり、書類の中身を見せた。用紙の右上に朱色の社外秘の印が押してある」
「でも、これは社外秘になっていますが」
「通常は、社外秘になっておりますので閲覧は出来ません。ですが、中身は新聞に公表したデータを地区別に一覧にしただけのものですから、社外秘というほどのものではありません。ただ私どもが足で得たデータですので、社外秘になっているだけです」
「はァー、でも、内村さんにご迷惑がかかるのでは」
「あはは、それには及びません。お世話になっている中村先生のご紹介ですので、遠慮なさらずにどうぞご利用ください」
「そうですか? ありがとうございます。助かります」
「その15件は建設地は分っているんですね?」
「ええ、もちろんです」
「それでしたら、簡単に調べられますよ。小1時間もあれば終わりますよ」
「そうですか、それではお言葉に甘えさせていただきます。ここでメモしますが、よろしいでしょうか?」
「此処は何ですから、別な所に移りましょう」
内村は早川を別室に案内した。長テーブルが置かれた小さな部屋である。
「此処だと気兼ねなく調べられますから、ごゆっくりどうぞ」
「何から何まで恐れ入ります。ありがとうございます」
早川は深々と頭を下げた。
「終わった時や他に何かございましたら、この電話で私を呼び出してください」
内村は内線番号表を指差して言った。
「ありがとうございます」
「あ、ちょっと書類を見ていただけますか? 少し説明を加えておきますね」
「はい」
「特に注目していただきたいのは、申請がいったん取り下げられて、再申請された履歴も記載されています。例えばここのところですね」
内村は、何故かわざと該当箇所を指で示した。早川の顔を見て、再び意味ありげにほほ笑みんだ。早川はこの時、この内川という男は、もしかしたら、業界紙の記者として、業界の裏事情に詳しいのじゃないかと直感した。裏情報の何かを掴んでいるのではと思った。
「あ、はい」
「ま、参考になるかどうか分りませんが」
「いえいえ、ありがたいです」
早川は内村の顔をじっと見つめ返した。
「じゃあ、私はこれで失礼します。……ごゆっくりどうぞ」
内村は部屋から出て行った。早川は、郷田部長から渡されたドタキャンリストを横に置き、1件ずつ慎重に調べていった。そして、持ってきた用紙に漏らさず書き写した。そして、その結果、驚愕の事実を知ることになり、新たな怒りが込み上げて来た。
書き写す時間は、内村の予想通り1時間足らずで終わった。内線電話で内村に終わった旨の連絡をした。暫らくして内村が部屋に入ってきた。
「ありがとうございました。ほんとに助かりました」
「そうですか。それは良かった。またいつでもお越しください。お待ちしています」
「あのー、内村さん、少しお話したいことがあるのですが、お時間いいでしょうか」
「はい。今日は夕方まで予定は入っていませんから」
「近くの茶店で、コーヒーをおごらせてください」
内村はそうなるのではないかと予期していた。
「いいですねぇー、天下の大先生にコーヒーをご馳走になるなんて、特ダネ物ですよ」
「あはは、オーバーですね」
2人は、近くの喫茶店に入ってコーヒーを頼んだ。
「何か収穫が得られましたか?」
内村はやんわりと早川に話しかけた。
「思ってた以上の収穫がございました。ありがとうございます」
「それは良かったと言いたいところですが、実は、はらわたが煮えくり返ったのではないですか?」
やはりこの男は何かを知ってる。
「あ、いえ」
「隠さなくても分りますよ、顔にちゃーんと書いてあります」
「あはは、そうですか。ちなみに何と書いてあるでしょうか」
早川は少しとぼけてみせた。
「こん畜生と」
「あはは、そうですか」
「早川さん、先ほど、何かお話があるとおっしゃっていましたが、どんなことでしょうか」
「はい。正直なところ、こんなことがあっていいのだろうか、と思ったものですから」
「と言いますと?」
「ええ、先ほどの書類を書き写している間に、どう考えても腑に落ちないことがございまして」
「例えば、どういうことですか?」
「中村からご紹介いただいた内村様ですので、正直に申し上げます」
早川はこの段階で、内村に話をすることに躊躇があった。しかし、社内情報漏洩事案に関しては、社内はもうすぐ一段落する段階になってきた。部長には、それが終わったらコンペの作業に専念しろと厳命された。それはそうするつもりだが、しかし、やっぱり心の底では腹の虫がおさまらない。で、社外のこととして、内村にそれとなく相談してみようという気になったのである。
早川はドタキャンの話をした。書き写してきたメモを見せながら、申請が取り下げられて再申請されていたことも含めて詳しく説明した。説明を聞き終えて内村が言った。
「そのことは、私の方では半年前から掴んでいましたから、私なりに調査しました。そうしましたら、あることに気づいたのです」
「あることとおっしゃいますと?」
「ええ、私は中途半端な言い方は嫌いな性格ですから、はっきり言いますね」
「はい」
「別なことで、東西国土建設という会社をマークしていたんです。調べている間に、環太平洋建設が申請した物件のうち数件が、途中で取り下げられて、東西国土建設の東京支店で再申請されている事実に気づいたのです。まるで、環太平洋建設を目の敵にして、潰しにかかってるなと私には映ったのです」
「ええ」
「早川さんが今日お見えになったのは、そのことを調べたい為でしょ?」
「ええ、実はおっしゃる通りです」
「今日調べて、驚くべき事実を知らされたのではないですか?」
「まさにその通りです。ですから先ほど、こんなことがあっていいのだろうか、と申し上げたのです」
「うんうん。で、その事実を知って、これからどうなさるおつもりですか?」
「社内に持ち帰り報告するだけです。もう過ぎてしまったことは仕方がありません。今後そうならないように、社内体制を強化するように進言するつもりでいます」
「それだけですか?」
「はい。それだけです。……何か」
「早川さん、悔しくはないのですか? 憤りを感じないのですか? 復讐してやろうと思わないのですか?」
「……」
「私は、その事実の裏に、何かあるなと直感したんです」
「……」
「ところが、その裏がさっぱり表に出てこない。完全に壁にぶち当たったのです」
「一つだけ質問いいでしょうか?」
「はい。何でしょうか」
「内村さんは先ほど、別なことで東西国土建設という会社をマークしていた、とおっしゃいましたが、その別なこととは何ですか?」
「さすが鋭いですね。……今の段階では申し上げられません」
「政治家がらみの話ではないですか?」
内村はびっくりして早川の顔をじっと見た。
「えっ、どうしてそのことを?」
「いえ、小耳に挟んだだけですよ。単なる噂かもしれませんし、詳しいことは分りません」
「いずれ、時期が来たらお話し出来ると思います」
「よそ様のお話ですから、あまり興味はありませんが、ただ、自分の会社がどういう理由であれ叩かれたとしたら、いい気持ちはしませんよね」
「でしょう? ……で、このまま矛を収めるつもりですか?」
「仕方ありませんね。私もしがない社員の1人ですし、これ以上のことは出来ませんからね」
「良く分ります。しかし、……早川さんの影武者になって、この私が事実を暴いていくとしたらどう思いますか?」
「それは、新聞社の記者としてですか?」
「そうです。実は、私はこの日が来るのを待っていたぐらいです」
「と、おっしゃいますと?」
「早川さんですから単刀直入に言います。このことは、中村先生にもお話したことがあるのですが、業界の恥部のことです」
「業界の恥部?」
「そうです。早川さんの今回の目的は、私としましては充分に理解しているつもりです。お立場上、やりたくてもやれないことも承知しているつもりです。私も業界紙に身を置く1人の記者として、見逃してはならないことに対しては、絶対に真相を明らかにすべきだという考えに立っています」
「……」
「しかし、これ以上調べを進めても、何も出てこないなと思っているんです。そこで、どうしても早川さんの力をお借りしたいのです」
「私の力ですか?」
「そうです。早川さんは賢い人ですから、例えお友達の中村先生から紹介されたとはいえ、初対面の私に多くを語りたくないのは良く分ります。しかも新聞社の記者ですからね、迂闊なことは言えないなと警戒されていると思います。しかしですね、先ほどもおっしゃったように、こんなことがあってはいけないと思うのです」
それは、この早川が、声を大にして一番叫びたいことなのだ。
「社会悪、しかも、私どもの身近な業界で起こっている悪です。早川さんの会社は大きい会社ですから、これしきのことでは、もちろんびくともしないでしょう。……しかしですね、これがもし、小さな会社で起こったとすればどうなりますか? その会社は、たちまち潰されてしまいますよ」
「……」
「そんなことは、絶対にあってはならないことですし、許されないことだと思うんですよ」
「一つまた質問してもいいですか?」
「はい」
「もし仮に私が、内村さんの力になれるようなことがあったとして、内村さんは、どうなさるおつもりなのですか?」
「当然はっきりした確固たる裏付けを取った上で、紙上で公表するつもりです」
「でも、こう言っちゃなんですが、関東建設日報さんの紙上だけでは、インパクトが今一なような気がするんです。当然ほかの手もお考えですね」
「さすがに一流は違いますね。質問が鋭いですね。さっきから感服しているところです」
「ありがとうございます。お世辞でも嬉しいもんですね」
「決してお世辞ではありません。ほんとの気持です。話を続けます」
「はい」
「実は私は、ある有力な全国系の、大手新聞社の優秀な記者と懇意にしております」
「ほォー、そうでしたか」
「その記者も、良かったらご紹介しますが、私と全く同じ考えに立っております。絶対に力になってくれる記者です」
「それは頼もしいですね」
「そうなんです。ですからその記者と協力して、業界の恥部を暴いていきたいのです」
「なるほど。ニュースソースとしては最大級のネタですね」
「そうです。それによって、救われる会社がどれほどあるか、とても社会貢献出来るネタですね」
「もう一つ質問いいですか?」
「お手柔らかにお願いします」
「また、仮の話で恐縮ですが、……私が内村さんに協力したとして、最後に私に言っておきたいことはございませんか?」
「いやァー、今までインタビューも含めて、数え切れないほどの人にお会いしましたが、これほどの質問を投げかけてきた人は、1人もおりませんでした」
「褒められてるのか、馬鹿げた質問だと受け止められたのか分りませんが」
「最上級の質問ですよ。質問の質と鋭さが違います」
「あ、そうですか? ありがとうございます」
「謹んでお答えいたします。早川さんに全面的にご協力願えたとしてお答えいたします」
「どうぞ」
「早川さんのことはもちろんですが、中村先生を含めて、もし、他にご希望があれば伺いますが、これらの人達は、決して表に出ることはありません」
「私の勤務先の会社のことはどうなりますか?」
「それも心配には及びません。安心してください」
「とか何とか言って、その気にさせるのが上手なんだから記者さんて」
早川は半分笑いながら冗談を言った。
「きついですねェー。確かにそういうことは無きにしも非ずですね。しかし、中村先生にしても早川さん、……おっと先生とお呼びしたほうが良いのかな」
「あは、先生呼ばわりは止めてくださいよ。さん付けでも勿体ないくらいです」
「じゃあ、さん付けでいきます。中村先生にしても早川さんにしても、私は今後、仕事を離れて1人の人間として、長くお付き合いいただければと思っています。ですから、そういう人を裏切るようなことは、神に誓ってしたくありません。そこまでして仕事はしたくはないですね。これが私の信条です」
「答えとしては最高の答えをいただきまして、安堵しました」
「それでは、協力していただけるのですか?」
内村の顔がパッと明るくなった。
「実を言いますと、先ほど悔しくはないのですか? 憤りを感じないのですか? 復讐してやろうと思わないのですか? といわれましたよね」
「はい。申しました」
「それをお聞きして、涙が出るほど嬉しかったのです。我が意を得たりとはこのことを言うのですね」
「そうでしたか」
「しかし、会社から、その悔しさや憤りや復讐心は、心の奥深くしまっておけと厳命されました」
「そうでしたか。さすがに大手は違いますね。懐が深い」
「しかし、私としては、会社の為だとかそういうことではなく、いみじくも内村さんがおっしゃった、社会悪をこのままにしておいていいものだろうか、という変な正義感が頭をもたげ、強い憤りが込み上げて来るんですね」
「なるほど。良く分ります」
「言ってみれば、しがないサラリーマンの私が、怒りの拳を振り上げたところで、会社から厳に言われていますから、拳の落としどころを見失ってしまっているというのが正直今の気持です」
「そうでしたか。実に良く分ります。そうとは知らず、失礼なことを申しげたような気がします。さすが新進気鋭の建築家だ。敬服の至りです」
「あはは、もう勘弁してくださいよ。誉めても何も出ませんよ」
「何もいりません。協力さえしていただければ」
「また、これだ。……内村さんの切なる気持ちは、良く理解できました。出来ればそう願えれば、とてもありがたいと思っております」
「はい」
「ですが、事が事だけに、慎重には慎重を期さねばなりません。機が熟すまで暫らくお時間をいただけませんか?」
「機が熟すとおっしゃいますと? 大体でいいのですが、いつ頃でしょうか」
「今は、そう遠くない時期とだけ申し上げておきます。必ず私の方からご連絡差し上げますので、それまでお待ちください。よろしいでしょうか」
内村の顔が紅潮してきた。一大スキャンダル暴露の幕が開いたと思った。
「はい。もちろんです。ありがとうございます」
「今日は、お忙しい中を時間を割いていただきまして、ほんとにありがとうございました。胸のつかえが取れたような気分です」
「何をおっしゃいます。お礼を申し上げるのは私の方です。正直言いまして失礼な言い方ですが、最初お会いした時、えっ、この若さであの有名な建築家? と思いました。しかし、お話をさせていただいている間に、お若いのに何と懐の広く深い人なんだと、今更ながら感銘を受けました。いやァー、いい勉強をさせていただきました。ありがとうございました」
「ははは、人を誉めるのがほんとに上手ですね。誉められた方は、嘘とか冗談と思ってても嬉しくなるから不思議ですね」
「いえ、ほんとにそう思っています」
「ところで、昨日中村から誘われましてね」
「えっ、何をですか?」
「今度内村さんと一献やるから、お前も来ないかって」
「えっ、ほんとですか? で、何と返事を?」
「任せるから頼むわと言っておきましたが、良かったですかね」
「良かったどころじゃないですよ、願ってもないことですよ」
「今のうちに白状しておきますけど、私は下戸なんですよ」
「おや、そうでしたか。私もどちらかというと、そんなにはいけません。会話が楽しいと言いますか、雰囲気を楽しむ方ですね」
「いやあー、そうでしたか、何だか仲間が増えたみたいで嬉しいですね。……これだけの、とりえのない人間ですが、これからも宜しくお願い致します」
「いえいえ、それは、こちらが言わなければならないセリフです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「ところで、内村さんは結婚されていらっしゃるんですよね」
「あは、そう見えますか? こればっかりは縁がなくて、……いけませんね」
「おや、中村と同じようなことをおっしゃる」
「そ、そうなんですよ。だから気が合うんですかね、中村先生と」
「おいくつでいらっしゃるんですか?」
「いくつに見えますか?」
「精悍なお顔をされていますし、とても落ち着いていらっしゃるからねぇー、……そうですねー、35歳くらいですか?」
「そんなに老けて見えますか? 嫌だなあ。……31歳ですよ」
「えっ、私より一つ下? 信じられない」
「あは、私は少し足りないところがありますから、老けて見えるのかもしれませんね」
「中村が言っていましたよ。内村さんは、関東建設日報さんの中では一番優秀で切れ者だと」
「ほんとですか? 中村先生に言われたら、うーん嬉しいですねェー。そうなるように頑張りなさいと言うことですね、きっと」
「ほんとは、もっと大きな夢がおありのようですね」
「あは、こんな小さな会社でくすぶっていてはとも思ったりしますが、結構面白い仕事ですし、自分に合っているような気がしてるんですよね」
「ええ、それが何よりですよ」
「早川さんもでしょう? 顔に書いてあります」
「あはは、嘘のつけない顔を親から貰いましたかね。あはは」
「あはは」
「じゃあ、これで失礼します。ほんとにありがとうございました」
「こちらこそありがとうございました。……じゃあ、ご連絡を首を長くしてお待ちしています」
社に帰った早川は同級生の中村に電話して、紹介してくれた内村記者に大変世話になった旨の話をした。思ってた以上の成果が得られたと丁重にお礼を述べた。中村も役に立てて嬉しいと言ってくれた。
関東建設日報でメモした内容を整理して、別な用紙にメモし直した。部長用も作成した。
水曜日の朝、部長に電話したが、秘書の林田から部長は会議中と知らされた。会議が終わり次第でいいから、ご報告しておきたいことがあるからと伝えてもらうように頼んだ。
10時半ごろ部長から電話が入った。
「はい。早川のデスクです」
早川はわざと大きな声をだした。
「何か報告したいことがあるようだが?」
「あ、部長、はい」
「いまなら多少時間取れる」
「あ、はい、ただ今お伺いします」
部長からの電話に見せかけて大きな声を出した。そして急ぎ足でドアを開けて出た。部下たちは、早川が部長に呼び出されて慌てて駆け上がったと思った。
早川のメモした、関東建設日報で調べたドタキャン物件の実態を、郷田部長はじっくりと目で追っていった。
「この東西国土建設というのは相当なワルだな」
「はい。そう思います」
「こういう会社が、のほほんと、のさばっているようでは世も末だな。嘆き悲しいことだな」
「はい」
「他の会社でも似たようなことがあるのかな?」
「いえ、我が社を狙い撃ちしてるようです」
「そうか分った。ご苦労だった。後は俺に任せろ」
「それでは失礼します」
早川は少し時間稼ぎしたかった。8階の吉田主任を訪ねた。
今日の15時から、ウェブサーバーと早川のPCにプログラムのインストールと動作のテストを行う予定である。しかし、電算課にあるサーバーには、吉田主任がインストールすればいいが、早川のPCにインストールする場合に、社員がいる前で、吉田主任が5階に下りてきて作業するのはちょっとまずい。早川のPCを電算課に持ち込んでもいいが、社員に変に思われても困る。あるいは、吉田主任からプログラムをCDか何かにコピーして貰って、それを早川が自分のPCにインストールしても良いが、間違いがあってはいけない作業である、やはり、吉田主任に任せるべきであろう。ここは社員が退社した後に作業した方が無難である。
幸いに今日は水曜日である。残業ゼロの日である。PCへのインストールを18時ごろからしたい旨の話を吉田主任に伝えた。吉田主任は事情を呑み込み、快く引き受けてくれた。残業する旨の許可も得ておくからと言ってくれた。
自分の席に戻り、早川は急きょ考えるところがあって、3人の係長を呼んで横の応接テーブルに座らせた。石川、野田、田崎の3人である。
「今部長に呼ばれた。今後の作業について変更が生じた。俺はこれからその作業に取り掛かるが、明日木曜日の9時半から1時間程度、それに関する緊急会議を行うから、予定しておくようにみんなに伝えておいてくれ」
「どんな変更なのですか?」
野田が突っ込んできた。
「なーに、大したことではないよ。会議を持つほどのこともないが、部長からの指示だから、一応俺から全員に伝えておいたほうが良いと思ってな」
明日の朝礼後に部下を集めて、9時半に会議を行うからと伝えれば済むことであるが、その前日に急きょ3人の係長を呼んで、あえて緊急会議のことについて伝えたのには訳がある。疑惑の人物の、送受信メールの変化を見たかったのである。吉田主任が、早川のPCへのプログラムインストールが終え次第、メールチェックを再び行う予定でいた。3人は元の席に引き返した。
15時30分頃に吉田主任から連絡があった。プログラムのウェブサーバーへのインストールが完了した。これから動作テストを行うから、上がってきてくれと言う。動作テストはあらゆることを想定して何回も行われた。そして、期待した通りの結果が得られた。ウェブサーバーの動作テストは1時間半程度で完了した。早川は吉田主任と固い握手を交わした。
18時頃に吉田主任が5階のC&Tの部屋に下りてきた。全社員が退社していて部屋はガラーンとしている。
吉田主任は早川のPCにプログラムをインストールした。そしてウェブサーバーの時と同じように、あらゆることを想定して動作テストを何回も行った。結果は予想した通りだった。早川のPC、CT00の動作テストは一時間程度で完了した。
早川は吉田主任と再び固い握手を交わした。早川は改めて吉田主任に礼を述べた。
いよいよ明日、社内の情報を外部に漏洩している中心人物が明らかになる。いや筈である。一連の疑惑のカギを握るデータが画面に表示されることを期待するしかない。
万1人物が特定できない場合も考えられるが、その時はその時のことだ。必ずいや絶対に真相が明らかになる。そう信じている。早川はPCの画面に両手を合わせて頭を下げた。
夕食を済ませ早川は、野田と高津のPCを重点的にチェックした。しかし、送受信の日付は最新のものに変わってはいるが、内容は前回と全く同じであった。早川は守衛に挨拶して帰路に着いた。
社宅に帰り、シャワーを浴びてテレビのスイッチを入れた。しかし、嫌になってスイッチを切ってしまった。最近のテレビはつまらない。やたらとバラエティー番組が増えて、番組自体がとても軽くなったような気がする。予算の関係もあるとは思うが、視聴者はこれで満足しているのだろうか。はなはだ疑問ではある。ラジカセをスイッチしCDを聞いた。
CDを聞きながら、月曜日に浅田から受け取った田部井の書いてくれたメモ用紙を開いた。
メモ魔の書いたメモは、用紙4枚にびっしり書かれていた。横書きの読みやすいきれいな字である。表も添えられていた。疑惑会社との対決用に役立つのではという思いから、田部井にメモを書くように頼んだ。しかし、次のステージはもうない。しかも、社内情報漏洩事案も、明日の夕方頃には全てが明らかになる筈である。だから、田部井のメモは必ずしも必要ではなくなったような気がした。しかし、せっかく田部井が書いてくれたメモだし、悪いと思って目を通し始めた。
ところどころにシミ跡がある。田部井は、自宅でこれを泣きながら書いたのではないだろうかと思った。
付き合い始めたころのウキウキした心が日を追うごとに変化していく。日記に書かれたデートのシーンを思い出すたびに、今こうして、絶縁の気持で書いてる自分の心のやり場のない思いに、泣けてきたのであろう。
メモは8ヶ月ほどの前からの、デートした時の事がこと細かく記載されていた。表は左から番号、月日、時間、場所などの順になっていて、表の下に各番号の順に感じたことが記載されていた。場所は飲食店や公園、映画館などが主だった。ホテルはなかった。
半年ほど前からの記述に変化が見うけられた。田部井の話では、この頃から、野田に別な女性の面影を感じていたということだった。直接はそのことには触れていないが、携帯電話の件などがリアルに書き記されていた。また、野田が高津と一緒に、頻繁に名古屋に行っていることが書いてある。理由は分らないが競馬じゃないかとある。
ふと、早川の視線が止まった。メモは以下のように書いてあった。3ヶ月前の日付である。
- 横浜市港北区日吉の、妻帯者用社宅に住んでいる松岡課長と保坂課長に、離婚騒動が持ち上がっている。
- 松岡課長の奥さんは、帰宅が遅い日が多くなってきたことに不信感を抱いた。
- 保坂課長の奥さんは、ワイシャツの香水の匂いや、クラブのマッチがポケットにあったことに不信感を抱いた。
- 保坂課長の奥さんが、探偵事務所に素行調査を依頼し課長の浮気が発覚した。
- 素行調査は、皮肉なことに保坂課長と松岡課長が、同じクラブで同席していたことも報告していた。
- 松岡課長の浮気も発覚してしまった。
この前の喫茶店での会合の時、田部井はこの話は一切口にしていない。自分のことが精一杯だったから思い出さなかったのだろう。
これを見て早川は、松岡課長も保坂課長も、野田や高津とかなり深い付き合いをしていると思った。さらに、社内情報漏洩事案に無縁じゃないことを直感した。
それにしても、金と女に目がくらみ、こともあろうに、大手の会社の課長職にありながら、離婚騒動を起こすとは空いた口がふさがらない。浅はかな考えと行動が、今まで必死になって築き得てきた社会的価値が、水泡に帰す愚かさを引き起こしたのである。余りにも大きな代償ではないか。
そう言えば、亡くなった親父が口癖のように言っていた。酒と女と金それと賭け事には、人の心を迷わす魔物がすんでいるから充分に気をつけろ。そうならないように、普段から社会的勉強をしろ。なるほど、親父、なかなかいいことを言うじゃないか。
運命の木曜日になった。早川は、9時半に緊急会議と銘打って、C&Tのスタッフ全員を会議室に集めた。そして次のような内容の話をした。
◇部長指示による方針変更
- A・B2案(素案)の作成
- Aは従来通り
- 新規にB案を作成する
- 部長指示に基づき、A、Bの2案を効率よく作業するためにグループ分けする(席の移動はしない)
- Aグループ
→ 野田係長、安浦一郎、高津良太、浅田香織他2名計6名 - Bグループ
→ A以外のスタッフ 計13名 - A、B2案の審査を経て、どちらにするかを役員会で決定する
- B案については、部長から緊急マル秘指示あり
- 緊急マル秘指示は、会社のホームページの私書箱に掲載
→ C&T社員全員はこれを各自確認しておくこと - 私書箱のアドレスは、早川のパソコンでに表示。各自確認する事
- 会社のウェブサイトには、私書箱を閲覧するためのリンク画像やリンク文字は表示しない。直接アドレスを打ち込む
- 早川のパソコンで、別ページを閲覧するためのアドレスを確認する事
- 早川のPCと私書箱を閲覧するためのパスワードを発行する
Aはグループ共通のパスワード(野田係長に発行)
Bは各人に発行(各自早川より個別に発行) - 緊急マル秘情報を閲覧出来る時間帯
→ 本日(木)15時00分~16時00分 - 入力欄の項目:氏名、生年月日、出身地、メールアドレス
話し終わると同時にスタッフがざわめいた。
「急なことで、みんなも戸惑いがあるだろうが、2案を作っていい案で作業を進めるというのも、考えてみたら道理にかなってると思う。大変だけどより良い案を作ってコンペに勝利しよう」
スタッフは大抵が頷いていた。
「何か質問がある人は言って欲しい」
早川は、野田係長と高津社員の顔色や素振りをそれとなく注視した。石川係長が挙手した。
「はい、石川係長」
「2案を作ってその上で良い案で進めるというのは、1案だけで進めるよりも、とてもいいとは思うのですが、時間的に非常にきついところがあると思うのですが」
「全くその通りだな。その件は私も心配したから、部長にスタッフの増員をお願いした。部長も了解して下さった。その上で、何とか時間との戦いを乗り切ろうと考えている。そういうことでいいかな?」
「分りました」
「他にないかな?」
「どうして、閲覧するのにパスワードが必要なのですか?」
田崎係長が質問してきた。
「部長の緊急の重要事項だから、各人が確実に閲覧をしたかどうかを把握する為だそうだ。それだったら、会議の席で発表しても同じ事じゃないですかと申し上げたが、社外秘のマル秘情報だからそれは出来ない、確実に閲覧出来るのはこの方法が良いとおっしゃった。かといって、だらだらする訳にもいかないから、1時間という制限を設けたとおっしゃった。私はなるほどと思った」
みんな首を縦に振った。スタッフの1人が手を挙げて言った。
「どうして、Aチームだけチーム全体で、一つの共通のパスワードになっているんですか?」
「いい質問だな。その件だが、さっきも説明したが、A案は従来通りのプランで進めていく。新しく作るB案については部長の指示があります。それを閲覧するのは、本来はBチームだけでいい訳だけど、Aチームの人も見れるようになっている。部長は、Bチームだけが見れたらいいのじゃないのかとおっしゃったのだが、私の方で、もしもB案で決まった時に、Aチームのスタッフが知らないなんてことになると、チームワークが乱れますし、時間短縮が計れませんとお願いしたんだ。部長は、なるほどと言われて納得された。で、Aチームの各人にもパスワードを配布しようと思ったが、そこまでは必要ないだろうと思って、チームで共通のパスワードと言うことになったという訳だ」
みんな首を縦に振り、なるほどと言う顔である。野田も高津も頷いていた。
「他にはないかな?」
「パスワードの発行はいつ行われるのですか?」
高津が質問してきた。
「お、そうだな、肝心なことを言うのを忘れるところだった。パスワードの発行については、この会議が終わり次第発行する。Aチームは野田係長、私のところまで来てくれ。君が代表で受け取って、ご苦労だけどみんなに指示してくれるかな?」
早川は野田の顔を見て言った。
「はい。分りました」
野田が答えた。
「Bチームの面々は各自に私の方に来てくれ。パスワードを書いた紙を渡す。各人のパスワードは、自分で責任を持って管理するように。いいかな?」
みんな「はい」と返事した。
「他には質問はないかな? なければ終わりにするけど、……野田君は何かないかな?」
早川はわざと振ってみた。野田が手を少し上げて聞いてきた。
「確実に閲覧するための手順を、もっと具体的にお願いします」
「そうだな。いま野田君から出た閲覧する手順について、慌てるといけないから少し詳しく説明する。みんなノートに書き写してくれ」
早川は黒板の前に立ちチョークを取った。みんなノートを開きメモをとる準備をした。
「えー、部長から出される社外秘のマル秘情報を閲覧する為には……」
早川は黒板に次のように書いた。
- 早川のパソコンから、私書箱閲覧用と別ページ閲覧用の二つのアドレスをメモしておく
- インターネットに接続
- アドレス欄に閲覧用のアドレスをダイレクト入力
- 閲覧用の私書箱のページが開いてパスワードを要求される
- パスワードを入力して次に進むをクリック
- 入力欄の項目が表示される
- 氏名、生年月日、出身地、メールアドレスを記入して、閲覧をクリック
- 国際設計コンペに関する緊急マル秘重要文書(部長からの指示)を閲覧
- 別ページのアドレスをダイレクト入力
- 別ページが開いてパスワードを要求される
- パスワードを入力して次に進むをクリック
- 入力欄の項目が表示される
- 氏名、生年月日、出身地、メールアドレスを記入して、閲覧をクリック
- B案の素案が表示される
早川は黒板に書き終わってから振り向いて言った。
「この順番だと上手くいくと思う。いま黒板に書いた閲覧方法は、全て部長と電算課が打ち合わせして決定したと聞いています。私のパソコンには私書箱用と別ページ用の二つのアドレスだけが表示されています。これは部長からの指示によるものです。これ以外は私はタッチしていませんから、これに関する質問を出されても答えられないと思う」
スタッフは黒板の字をせっせとノートに書き写していた。1人が質問した。
「メールアドレスを記入するようになっていますが、これは当然、社内用のアドレスですね?」
「そうだな、個人用のアドレスを打ち込んだら先へは進めないと思う。……2度も同じことを入力するようになっているから少々面倒くさいよな。だけど重要なことだからと、納得せざるを得ないと思う」
全員が納得顔だった。田崎係長が手を挙げた。
「どちらかの案が決まった時点で、チームは解体となって、元の状態になると理解していいのでしょうか」
「当然そうなるよな。たまたま2案の話が出たからそうしたまでだからな。そう理解してくれ」
田崎係長がまた手を挙げた。
「はい、田崎係長」
「最終案は役員会で決定ということでしたが、いつ頃決まるのですかね」
「さあ、それは今の時点では俺には分らない。時間的余裕がないから、部長には超特急で決めてくださいとお願いしておいた。……他にないかな?」
手が上がらなかった。
「よし、みんな納得したと理解した。会議はこれで終わりにするが、今日の15時から16時の1時間だけしか閲覧できないからな、くれぐれも閲覧しませんでしたとならないようにな。そうなったら、メンバーからはずされるぞ。あはは、冗談だよ。……だけど、あり得るかな?」
早川は半分笑いながら、田崎係長に会議終了の合図を送った。
「起立っ、……礼」
意味のない会議は終わった。全てが、社内情報を外部に漏洩している人物を特定するために仕掛けられたものである。今日の15時から16時の間にアクセスしてきた人物の中から、該当者が判明する手筈になっている。外部からのアクセスがあるかどうかがキーポイントとなる。人物が特定出来れば、あとは社内処理になるから、早川はあずかり知らぬこととなり、全てが元に戻る。
14時半ごろ電算課の吉田主任から電話があった。低い声だった。
「いよいよですね」
「そうですね。上手くいくといいのですが」
「大丈夫ですよ。きっと上手くいきますよ」
「そうなるように期待します。最終コーナーです。後はよろしくお願いいたします」
「はい。お任せください。結果が出たらどうされますか?」
「抽出されたデータを、印刷しておいていただけませんか?」
「はい。分りました。準備しておきます」
「データを2人でチェックして、結果を部長に報告していただけますか? 私も同席します」
「分りました。そのように致します」
「部長に報告出来る時間は、大体何時ごろになりますかね」
「そうですね、早川さんとのチェック時間も入れて、17時半だと間違いないと思うのですが」
「じゃあ、17時半に報告しますと部長に連絡しておけばいいですか?」
「はい。それでいいと思います」
「分りました。部長には今すぐ連絡しておきます」
「ですね」
「何から何までありがとうございます。くれぐれもよろしくお願いいたします」
「はい。頑張ります」
早川は受話器を置いて、ふぅーっ、と一息ついた。あとは成功を祈るばかりである。受話器を上げて部長秘書の林田に電話した。
「早川ですが、部長はお見えですか?」
「はい。いらっしゃいます。暫らくお待ちください」
「はい」
「おー、早川君か、いよいよだな」
「はい、準備は万端整っています」
「そうか、楽しみだな」
「はい、部長、結果が出ましたら、吉田主任とチェックした上で、データをお持ちする手筈になっているのですが、よろしいでしょうか」
「何時頃になりそうだ?」
「17時半にはお伺い出来るということでした」
「そうか、分った。時間空けとこう」
「吉田主任に説明してくれるように頼んでいるのですが、私も同席してよろしいでしょうか?」
「もちろんだよ。君が主役じゃないか」
「ありがとうございます。……じゃあ、17時半に2人でお伺いします」
「上手くいくといいけどな」
「そうですね。それと部長、ついでで申し訳ありません。例の調査の方はいかがですか?」
「うん、その件だが、丁度今日の15時に、探偵事務所と会うことになっている。その時に調査結果を手に出来る手筈になっている」
「そうでしたか。私の方からも、新たに気になることが出てきました」
「ほー、そうか、それも併せて夕方聞こうかな?」
「かしこまりました。……じゃあ、これで失礼いたします」
「ご苦労だった」
15時になると、いつもはコーヒータイムとなる。各自思い思いにコーヒーポットに足を運び談笑するのだが、この日ばかりは違っていた。15時になるのを待って一斉にパソコンにしがみついた。
早川は見て見ぬふりをして、野田と高津の動向を注視していた。早川のパソコンは当然立ち上げてある。ハードディスクへのアクセスランプがしきりに点滅している。暫らくして、浅田が早川のデスクの前に立った。
「リーダー、すみません。私書箱に入れないのですが、ちょっと見ていただけませんか?」
浅田のデスクは野田と高津の後部にあった。だから、浅田のデスクからは野田と高津のデスクが良く見える。早川は2人の動きを気にしながら、何気ない素振りで浅田のパソコンの前に来た。
「ちょっと見てみるかな」
早川はわざと大きな声で言った。浅田のパソコン画面を見るふりをして、目は野田の方に向けていた。前かがみになった瞬間に、野田が携帯を取り出すのを早川は見逃さなかった。腕時計を見た。15時20分である。高津の動きはなかった。
早川は浅田のアドレス入力欄を見て言った。
「アドレスのスペルが違ってるよ。……もう一度ちゃんと見たら?」
浅田はノートに控えたアドレスを見て首をひねった。
「えっ、合ってますけど」
「そうじゃなくて、ノートに書いてあるスペルが違ってるじゃないか。もう一度私のパソコンをよく見て確認しろよ?」
早川はよくぞ間違ってくれたと心で思い、笑いながら浅田の顔を見た。
「あら、ほんとだ、私って間抜けだこと。どうもすみませんでした」
浅田はぺこりと頭を下げた。
早川のパソコンのアクセスランプは、まだしきりに点滅していた。早川は大きな声で言った。
「みんな大丈夫か? あと30分しかないぞ」
みんなパソコンの画面と睨めっこしていた。
「俺は設計1課の課長のところにいるから、用事が出来たら呼んでくれ」
早川は部屋のドアを開けて階下に降りて、2階の設計室のドアを開けた。課長が書類に目を通していた。
「課長、ご無沙汰です」
「おー、暫らくだな。元気か?」
岩田課長は、メガネをはずしながら早川の顔を見上げた。
「はい。お陰様で。……課長、今下から上がってきたのですが、急に用事を思い出しまして、5階まで上がる時間がありませんので、ちょっと電話をお借りしたいのですが、よろしいでしょうか?」
早川は苦しい嘘をついた。
「相変わらず忙しい男だな、もちろんだよ、いいとも」
早川は電算課の吉田主任に電話した。
「どうですか?」
「はい。続々とアクセスしていますね。カウンターが上がっています」
「そうですか、今のところ何かありますか?」
「いえ、特別ありません。あと30分程度ですから、動きを見ておきます」
「そうですね。暫らく設計1課の岩田課長の所にいますから、何かありましたらお願いします。……じゃあ」
しなくても良い電話を切った。早川は自分の席にいるよりも、席を離れたほうが良いと思って、時間稼ぎに2階に降りたのである。
「課長、ありがとうございました」
早川は一礼して立ち去ろうとした。
「ま、いいじゃないか、せっかく来たんだから、コーヒーでも飲んで行けよ」
岩田課長は横のソファに座るように促した。早川にとっては好都合である。
「課長がお忙しそうだったものですから」
「何を言う、成績も上がらないのに、忙しいも何もないもんだよ」
「はい、それでは、せっかくですからお言葉に甘えます」
「斉藤君すまん。コーヒー頼む」
岩田課長は事務の斉藤恵子に声を掛けた。
「はい」
斉藤恵子の嬉しそうな声が返ってきた。
「課長すみません。遅くなりまして。送別会はありがとうございました」
「次の朝、此処に来てくれたんだってね」
「ええ、お礼をと思いまして。課長はお休みでした」
「あはは、ごめん、ごめん。ちょっと飲み過ぎたみたいだな」
「課長、モテモテでしたねェー。驚きました。浅田君と相々傘なんて、二度とみられない光景でしたよ」
「その辺までは覚えているんだが、後はさっぱりだよ。全然覚えていない」
「千載一遇のただ酒でしたからね。この機会を見逃す手はないなんて」
「君は下戸だから、呑兵衛の気持は分らないかもしれないが、たまらなく気持ちが高揚するもんなんだぜ」
「そんなもんですかねェー。私には分りません」
斉藤恵子がコーヒーを運んできた。
「お待ちどうさま、どうぞ」
「ありがとう、ごめんな忙しいのに突然また来ちゃって」
早川は斉藤の顔を見て言った。
「いーえ、もっとじっくりされたらいいのに。相変わらずお忙しそうですね」
彼女は嬉しそうである。えくぼが今日も可愛いかった。
「ありがとう。一段落したらそうしようかな」
「はい。お待ちしております」
斉藤は一礼して去った。
「送別会の晩、例のスナックに電話してくれたんだってね」
岩田がコーヒーをすすりながら言った。
「あ、はい、課長があのような具合になったものですから、ほんとは直接行って言えば良かったのでしょうけど、もう遅かったものですから電話で言いました」
「いやァー、すまん。ありがとう。……お蔭でママに誉められたよ」
「褒められた?」
「優秀な気が利く部下を持って幸せですねってな」
「あは、そうでしたか。じゃあ、電話しといて良かったですね」
「うんうん、大いに結構だったよ。ありがとう。この埋め合わせをしたいが、近いうちにまた行こうか、な?」
「あは、はい。ご馳走になります」
その時、課長の電話が鳴った。腕時計は15時55分を指していた。
「はい。岩田課長のデスクです」
岩田課長は、5階からだと言って早川に受話器を向けた。
「はい。早川です」
「藤波さんて方からお電話ですが、お待ちいただきますか?」
「藤波さん?……知らないなあ。男性? 女性?」
「女性の方です」
「そうか、いま課長と話し中だから……、あ、いや、いいや、そのまま待っててもらってくれ」
早川は受話器を置いて、課長に頭を下げた。
「課長すみません。また参ります」
「相変わらずだね君は。うん、さっきの件、連絡するからそのつもりでな」
「はい、じゃあ、失礼します」
早川は、慌ててドアを開けて階段を駆け上がった。
早川のデスクの電話は保留の状態だった。
「大変お待たせしました、早川です」
「お忙しいところにお電話して申し訳ございません。……涼子です」
思いもかけない人からの電話である。スナック藤のウェイトレスだ。
「……あ、はい、こんにちは。……どうしてこの電話を?」
「はい。ママに教えてもらったのです。……今いいでしょうか?」
「ごめん、いま取り込んでいますから……、のち程電話しますから、連絡先を教えていただけますか?」
「分りました。お待ちしています」
早川は涼子の電話番号をメモった。スナック藤では短い時間の会話だった。それなのに、わざわざ会社に電話するということは、はたして何の用事だろうか。
16時が過ぎた。
「みんな、閲覧は済んだか?」
早川は大きな声で全体を見渡しながら言った。みんな一斉に「はい」と答えた。石川係長が首をひねりながら近づいて来た。
「リーダー、ちょっと質問なのですが」
「何だ?」
「あのB案のことですが、あれはリーダーが考えられた案ですか?」
当然の質問である。
「いや、電算室と部長が考えた案だと思うよ? 何か?」
「ええ、どう見てもおかしいなと思ったものですから」
「だよな、俺もさっき見てみたんだが、ちょっとねぇー」
「じゃあ、くどいようですが、あの素案は、リーダーの提案じゃないのですね?」
「だから、午前中の会議で言った筈だよ。俺はタッチしてないって」
「ああ、そうでしたね。じゃあ、やっぱり部長と電算室で適当に作ったのですかね」
「適当と言うと失礼にあたるからそうは思わないが、俺の方から一度確かめておくよ」
「ですね。あれじゃあですねぇー」
「急な話だから、そんなに簡単には出来ないよなァー」
「確かに。みんなも口々に言っていましたよ。あれじゃあ、ひどいって」
「だろうな。いずれにしても、真意を部長に確かめておくよ」
「はい」
予めそのような質問は想定内のことである。そんなことはどうでもいいことである。ただ真実をあぶりだす為とはいえ、身内の社員を誤魔化してまでしなければならなかったことに対しては、痛恨の極みではある。 もう少しの時間で、すべての真相が明らかになる。そして、来週にでも社内の処分が完了した後に改めて会議を開き、事の真相を説明する日が来るだろう。その日まで待っていてくれ。
早川はさっきから気になっていた。スナック藤の涼子へ電話した。
「先ほどはすみませんでした。今もバタバタしてるんですが、気になったもんですから」
「すみません。忙しいのに突然電話してしまって」
「それはいいのですが、で、何でしょう?」
「ええ、今度いつお店に来ていただけるのかと思いまして」
「えっ、それって営業してるんですか? まさか、ママに言われて?」
「いえ、違います。この前は短い時間しかお話しできなかったものですから」
「確かに、少ししかお話しできませんでしたね」
「ですから、もっといろいろお話を聞きたいと思いまして」
「私の話なんかちっとも面白くないでしょう?」
「いえ、面白くなくていいんです。ただ何となく……」
「近いうちに課長と行くことになると思いますから、その時の楽しみにしましょうか?」
「はい、じゃあお待ちしています。……失礼します」
電話が切れた。何かの思いがあってわざわざ掛けてきてくれたのに、なんだかビジネス調になってしまって、少し冷たかったかなと思った。こんな時だから、ま、仕方がないかとも思ったりした。涼子は少し前までOLだったと言っていた。なかなかの美形で、とても艶っぽい感じだった。何か過去がありそうな感じの女性だったが……、電話してきた意図が分らなかった。
電算課の吉田主任から連絡が入ったのは16時40分頃だった。
「今いいですか? すぐ打ち合わせしたいのですが」
「はい。すぐ上がります」
いよいよ来た。早川ははやる気持ちを抑えるのに苦労した。階段を一気に駆け上がった。ハァーハァーと、荒い息づかいを見て吉田主任が笑っていた。
「ご苦労様です。大変でしたね」
早川は、吉田の労をまずねぎらった。
「ありがとうございます。出ましたよ、……これです」
プログラムから抽出されたデータが記載された書類が、早川の目の前に来た。用紙には文字列がびっしりと埋め尽くされていた。早川は吉田の顔を見て結果を求めた。
「結論から言いますね。Aチームのパスワードを使って、外部から侵入した者がいます」
吉田はデータを指差しながら説明した。
「機械番号とIPアドレスが社内の物と違った訳ですね?」
「はい。そうです。明らかに、野田係長が、外部の人に何らかの手段で情報を流したと思われます」
「どうして野田係長と断定出来るのですか?」
「入力欄の項目の、氏名、生年月日、出身地、メールアドレスが野田係長のそのものだからです。パスワードと同時に、携帯メールか何かで教えたものと思われます」
「あ、そうか、なるほど。……外部の人はどこの人か分りますか?」
早川は胸が昂ぶってきた。
「今のところはアバウトですが、中京方面の方ですね」
「そうですか。もっと詳しくは分りませんか?」
「少し時間は掛りますが分ると思います。今、別のスタッフが調べています」
「その他には怪しげな動きはありませんでしたか?」
「二つあります」
「えっ、二つも?」
「ええ、一つは野田係長の場合と同じく、Aチームのパスワードを使って、外部から侵入して者がもう1人います」
「そうですか。それは誰に結び付けられますか?」
「入力欄の項目の、氏名、生年月日、出身地、メールアドレスが高津社員のそのものになっています。これも野田係長の場合と同じく、パスワードと同時に、携帯メールか何かで教えたものと思われます」
「地区はどこですか?」
「関東地区です」
「えっ、関東地区ですか?」
「これも、もうすぐ詳細が分ると思います。別のスタッフが併せて調べています」
「もう一つは?」
「これが不思議なんですが」
吉田は該当する部分を指でさして説明した。
「不思議?」
「ええ、Aチームの共通パスワードなのですが、機械番号がプログラムに登録したものと違うんですよね」
「えっ、どういうことですか? IPアドレスは?」
「会社のIPアドレスです」
「と言うことは、C&T以外の社内の誰かが、Aチームの共通パスワードを使ってアクセスしたってことですか?」
「その通りだと思います。それ以外には考えられません。で、今、別なスタッフに、社内の全パソコンの機械番号と照合しています。間もなく分ると思います」
早川は、データを目で追った。
「入力欄の項目の、氏名、生年月日、出身地、メールアドレスは野田係長のデータになっていますね」
「そうです。野田係長が社内の誰かに、パスワードと入力欄の項目を教えたのでしょうね」
早川は吉田のプログラムの凄さを実感した。野田と高津以外の人間が絡んでいた。内村記者の言葉を借りればスクープである。
「他には怪しいのはありませんか?」
「他は全てが社内の人物と一致しました。この3件だけが不一致ですね。ですから、社内の情報を外部に漏洩している人物は、この3人に絞っていいと思います」
「そうですか。あってはならないことが起ったってことですね」
早川は沈痛な顔をした。
「そのようですね。悲しいことですね」
「分りました。ほんとにご苦労様でした。ありがとうございました」
「いえ、リーダーも大変でしたね。心情お察し申し上げます」
「ありがとうございます。じゃあ後ほど。17時25五分ごろ上がってきます。一緒に行きましょう」
「そうですね。分りました。それまでには、先ほどの地区とか機械番号の照合も終わっていると思います」
「それはありがたい。お願いします。じゃあ後ほど」
早川は何ともいえない複雑な気持ちになっていた。自分の部下が、こともあろうに社内の重要な情報を社外に、しかもライバル会社に売り渡していたなんて。とても信じられない。これから先、誰を信じて仕事をすればいいというのだ。早川は胸を締め付けられる思いだった。早川はかねて用意していた封筒を、胸のポケットにしまい込んだ。
17時30分に早川と吉田は部長室に入った。吉田は早川の時と同じように、プログラムから抽出されたデータについて部長に細かく説明した。調べた結果、野田が、社内の重要情報を漏洩して提供していたと思われる相手は、名古屋地区の人物または会社と判明した。これは東西国土建設と断定していい。また高津が提供していた相手は、東京の人物または会社と判明した。これも東西国土建設と断定していい。東京支店であろう。そして驚くべきことに、不明だった機械番号は設計2課の松岡課長のパソコンだった。
早川の予想が、ことごとく現実のものになって、郷田は早川の顔を見つめた。
「あい、分った。吉田君はご苦労だったね。ありがとう」
「それでは、失礼します」
「このことは絶対口外してはならないからな。……分ってるな」
「はい。承知しております」
「あとは俺に任せてくれ。ほんとにありがとう。……君はもういいよ」
吉田は深々と頭を下げて部屋を出た。郷田はホーヒーを口に含み、ぐっと飲み込んだ。
「これを見てくれ」
郷田は早川の前に分厚い書類を置いた。探偵事務所の報告書だった。相当枚数の写真と説明書きが整然と記されていた。
「これで、全てが明らかになった。誠に残念至極な結果になってしまったな。断腸の思いだよ」
「……はい」
「だが、結果は結果だ。これが現実だからな」
「……」
「君は、今朝だったかな、新たに気になることが出てきた、と言っていたが何だったかな?」
「いえ、もうその必要はなくなったような気がします。全てこの探偵事務所の報告書に記載されています」
「そうか、それにしても、残念な結果になってしまったもんだな」
「ですね。……部長、私の不徳の致すところとなり、何とお詫びしていいか申し訳ございません」
早川は沈痛な顔で部長を見つめた。
「いや、君のせいじゃないさ。彼らを任命したのは、他でもないこの私と人事部長だからな。しかも、C&Tが設立されて日も浅い。君の責任は及ばないさ」
「いえ、ありがたいお言葉ですが、そういう訳には参りません。社内のけじめがつきません」
郷田は、早川がどう出るかは予想出来ていた。早川が胸の内ポケットに手を入れるのを制した。
「早川君、君の気持ちは痛いほどよく分る。しかしこの前も言ったと思うが、君の使命が終わるまで、そのポケットの物は受け取る訳にはいかないよ」
「ですが……」
「まあ、聞きたまえ。……早川君、後は俺に任せろ。早まるんじゃない。……いいな?」
「……しかし、部長」
「いいから。これは俺の命令だ。社内のことは俺が何とでもする。そのポケットの物は出すんじゃない。手を引っ込めろ」
早川は手を元に戻した。
「いいか、これから俺が言うことをよく聞くんだ」
「はい」
「今回の事案は確かに残念な結果だ。しかし、そのお蔭と言っちゃ何だが得る物も大きい。社内も浄化出来る。何よりも社の甘い体質から脱皮出来る。これは大きいぞ。そのような結果をもたらしてくれたのは、他でもない君じゃないか。一番の功労者と言ってもいい。君のその責任感には頭が下がる思いだ。しかし、君にはまだやらなければならないことが残されている。その結果を見て判断しようと、先日も言ったような気がする」
「……」
確かにそんな話はあった。
「コンペに優勝することで、全てがいい方向に向かうのだ。分るだろ?」
「はい。良く分ります」
「物事にけじめをつけることは、とても大切なことだ。君の場合というか、俺も含めてと言ったほうが良いかな、けじめをつける方法にもいろいろあるが、コンペに優勝するというけじめのつけ方もあるぞ。……どう思う?」
「確かにそうですね。そう思います」
「そう思うんだったら、思う方向に進むべきじゃないか?」
「なんだか、部長に誘導されてるような気もしますが」
早川は郷田の顔を見て苦笑いした。
「誘導じゃないよ、正論だろ?」
郷田の顔も笑っている。
「それとも、優勝はもう諦めたのか?」
「いえ、むしろ逆です。必ず優勝します。そうでないと、気が治まりません。部長がこの前おっしゃったように、敵の鼻をへし折って見せます」
「うんうん。やっとまともな考えになったな。それ以外に自分を救う道はないと思うよ。自分をと言うのは、自分の気持のことだぞ」
「はい。何だか凄いプレッシャーを感じます。部長はお上手ですね、人を乗せるって言いますか、その気にさせるのが」
「おいおい、それはないだろう。人聞きの悪いことをよく言えたもんだよ。これが俺の仕事だろ? あははは」
郷田は豪快に笑った。
「部長、良く分りました。私の胸の内ポケットの中にある物は、コンペの成果との引き換えということにさせていただきます」
「よっしゃ。よくぞ言ってくれた。ありがとう。後は俺にすべて任せろ。……君にはもう時間がない。作業に全神経を注いでくれ」
「はい。かしこまりました。優勝を目指して頑張ります」
「うん。そうしてくれ。期待してるぞ」
「スタッフの増員もお願いします」
「おー、だったな。分った。人事部に取り合おう」
「それと、今日の結果の処分が完了するのは、いつ頃になりそうですか?」
「そうだな、早くしないと君もやり辛いだろうからな。来週中に全て完了しよう。それでどうかな?」
「部長、勝手言ってすみません。何とか、もっと早くなりませんか? C&Tを一日でも早く元に戻したいのです」
「そうだな、分った。関係者との話もあるが、出来るだけ急ぐようにしよう」
「処分は、4名と思っていてもいいですか?」
「解雇、降格も含めて4名は免れないだろうな」
「良く分りました。出しゃばった言い方をして失礼しました」
「君の筋書きでここまで来たんだから当然のことだよ。君はほんとによくやってくれた。改めて礼を言うよ」
「いえ、勿体ないお言葉ありがとうございます。……それでは、私はこれで失礼します」
「ご苦労だったね、また何かのことで呼び出すかもしれないから、そのつもりでいてくれ」
「はい。承知いたしました」
「あ、それと、この問題がすっきりしたら、君の慰労をしたいんだが、どうかな?」
「はい。それはもう喜んでお供します」
「そうか、分った。その件は成行きを見て連絡するかな」
「はい。お待ちしております。……失礼します」
早川は、部長の部屋を出た。
身体中の気がいっぺんに抜けていくような感じがした。階段を下りながら、ふぅーーと大きく息を吐いた。腕時計は19時を指していた。
早川は自分のデスクに戻り、椅子に掛けて天井を仰いだ。スタッフは1人もいなかった。戦いが終わった後の静けさを感じた。
足が野田のパソコンに向いた。パソコンを立ち上げて、メールソフトを立ち上げた。後日の為に、送信アイテムを開いて全てを印刷した。その中に、設計2課の松岡課長宛てのメールが含まれていた。何で削除しないんだよ。相当慌てていたんだな。ついでに受信メールも全て印刷した。その足で高津のパソコンを立ち上げ、後々の為に受信と送信の両方のメールの全てを印刷した。
お腹が急に空いてきた。20時には会合がある。4人組の会合だ。そこで食事をとろう。守衛に挨拶して、社を出たのは19時45分を過ぎていた。
早川は集合場所の喫茶店に迷うことなく到着した。店のドアを開いて中に入った。クラシック音楽が耳に入った。2階に通ずる奥の階段を上り左手の個室のドアをノックした。そして右手で静かにドアを開けた。早川がドアを開けると同時に、3人は腰を上げて早川に一礼した。
「やあ、お疲れさん」
早川は円形テーブルの空いてる席に腰を下ろした。テーブルには写真入りのメニューと、水の入った4個のグラスが置いてあるだけだった。3人はまだ注文してなかったみたいである。
「早く着いたの?」
「いえ、私たちも少し前に着いたばかりです」
「そうか、良かった」
「今日は方向音痴じゃなかったみたいですね?」
田部井がニコニコしながら話しかけてきた。
「あは、免疫が働いたみたいだな」
3人がクスクス笑った。
「何になさいますか? 私達もまだ決めていませんけど」
浅田が口を開いた。
「みんな食事は?」
「済ませてきました」
「そう、お腹ペコペコなんだよ。食事していいかなあ?」
「ええ、もちろんです。此処は茶店ですけど、食事も出来ますよ。結構美味しいですよ」
島田が説明してくれた。メニューを見ながらそれぞれ決めていった。
「俺はね、えーとな、チキン南蛮セットにしようかな。……食後はミルクティーにしよう」
浅田はまたチキン南蛮かと思った。好きなものばかり食べて、しかも、脂っこい料理ばかりで、食事が偏っているいるのじゃないかと心配した。
奥に座っていた島田が立った。壁掛けの電話まで足を運び、受話器を外してまとめて注文した。
「早川さんはチキン南蛮が好きなんですか?」
田部井が早川の顔を見ながら言った。
「好きだねェー、カツ丼だろう? ハンバーグ、焼きそば、ラーメンとかの脂っこいものが好きだから、身体に悪いと思いながらも、ついつい食べてしまうんだよな。……あはは、いけないね」
「そんなの、ほんと良くないですよ。早死にしますよ。早くお嫁さん貰わなくちゃ」
島田がからかいながら突っ込んできた。
「あはは、そうかも。だけど今はそれどころじゃないし、独身も結構いいかなと思ってるんだよな」
「でも、やっぱり食事は栄養のバランスを考えながら、気をつけて食べなきゃ悪いですよ。そのうち病気になってしまいますよ」
「おや、島田君、随分心配してくれるんだな」
「そうです。今のお話を聞いて心配になってきました。だって、病気になってしまうと、それこそ好きな仕事も出来なくなってしまいますからね」
「だな、よく考えたらそうだよな」
「よく考えなくてもそうですっ」
「あはは、今日はやけに手厳しいね。……いや、心配してくれてありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
「じゃあ、今頼んだのをキャンセルして、野菜サラダにしようかなあ」
と言った途端ドアが開いて、注文した料理とジュース類が運ばれてきた。あまりのタイミングの良さに4人は吹き出してしまった。
「今のが聞こえて、慌てて持ってきたんだ」
と早川が言ったもんだから、さらに大笑いになった。店員もつられて笑ったが、意味が呑み込めていないようだった。
「ミルクティーは後でお持ちします」
店員はドアの外に出た。
「美女3人にじっと見られているみたいで、意外と食べにくいもんだなあ」
早川が3人の顔を見ながら言った。
「初めての経験ですから、じっくりと観察させていただきます。ね、京ちゃん」
田部井が隣の島田の方を向いて言った。顔が笑っている。
「そうです。あ、しまった、デジカメ持って来れば良かった」
「おいおい、勘弁してよ、……あーァ、食べてくれば良かった」
3人はクスクス笑った。楽しくてたまらない顔である。
「じゃあ、どうせ見られてるんだったら、食べながら話しようか?」
3人は何にも言わずに、ただニコニコしていた。
「えーと、何から話そうかな。……あ、田部井君、ありがとう。さすがメモ魔だね、……すごく立派なメモ書きだったよ」
浅田も頷いていた。でしょう? と言わんばかりである。
「少しは役に立ちましたかしら」
「思った以上だったよ。ありがとう」
早川は多くを語らなかった。
「こちらこそ、お礼を言わなくっちゃと思っていました」
「お礼? どうして?」
「はい。書く前に、こうなったら何でも書いてやろうと思ったのですが、なにしろ日記帳一冊分ぐらいの内容ですから、とても書き切れないと思って整理しながら書いていったんです」
「綺麗にまとまっていたね」
「ありがとうございます。ところが順に書いてるうちに、いろいろなことが思い出されて、実は泣きながら書いたのです」
田部井はその時のことを思い出したのか、また泣きそうな顔をした。
「今日は泣いちゃダメっ。まだ未練があるの?」
浅田が少しきつい声で言った。いい加減にしたらという気持ちが溢れていた。田部井は浅田の顔を見てそうねと頷いた。
「ごめんなさい。食事がまずくなりますね」
「いや、いま君の未練南蛮を食べてるから平気だよ。未練というスパイスが効いて一段と旨いよ」
「ま、早川さんたら上手いこと言って、あら、ごめん。駄洒落を言ってしまったわ」
浅田が茶化したから田部井が明るく笑った。
「そうしたら、書き終えるころになって、何て言うんだろう、とってもすっきりした気持ちになったんです。未練をきっぱり断ち切ることができました」
「その気持ち、分るような気がするなあ。今までモヤモヤとした気持ちが、メモすることで、何もかも全てが吐き出されたって感じだな」
「そ、そうなんです。とっても不思議な気持ちでした。その瞬間に、久しぶりに元の自分に戻れたような気がしました」
早川は箸をおいて拍手した。
「やったー、良かったなあ、……おい、何ボヤっとしてるの、手を叩いて、……お祝いだよ」
早川に言われて、島田と浅田が席を立って拍手した。
「ありがとう、……とっても嬉しいです」
田部井は照れて首をすくめた。早川は食事を終え箸を置いて合掌した。それを見て、浅田が食器類を片付けて部屋の隅の床に置いた。そして、島田に合図した。島田が電話口に歩を進めた。
「お、ありがとう」
「いいえ」
「……田部井君、ちょっと意地悪な質問するけど、いいかな?」
早川は今日の結果を、3人に言うべきかどうか迷っていた。いずれはちゃんと話さなければとは思っていたが、今話すべきか迷っていた。
今日の結果では、おそらく野田と高津は間違いなく解雇される。そうなると当然資金源が閉ざされる。場合によっては、遠恋中の女性との縁も切れるかもしれない。金の切れ目が縁の切れ目である。その結果、野田が田部井に再び……ってことも心配しなければならない。多分それどころではないとは思うが、それだけに、金の無心をしてくるのではと考えられるのである。絶対にそうさせてはならないと強く思うが、女心は複雑怪奇である。
「ええ、いいですよどうぞ」
「野田君は、君は知らないと思ってる訳だろ?」
「他に女がいるってことですか?」
「そう」
「多分そうだと思います」
「だよな。これは仮の話だけど、しかし、まんざら仮でもなくなる可能性もあると思うけど」
「ええ」
「もしもだよ、野田君がまた元通り君に熱心になり、愛してるよと言われたら君はどうする?」
浅田は、早川特有の鋭い質問が始まったと思った。
「……」
「また彼の胸に飛び込むのか?」
「どうして、そんな質問をするのですか?」
「今は、彼に田部井君以外の女性がいて、向こうに熱心だから、君はどんなことがあっても別れようと心に決めた。そうだったよな? 未練をきっぱり断ち切ることが出来ましたと言ったよな」
「はい」
「じゃあ、彼が向こうの女性と別れて、こちらに、つまり田部井君、君に振り向いてくれたら、また元通り付き合いたいと思ってる訳かな?」
「……そういうことにはならないような気がします」
「どうしてそう思うんだよ。……そういう風に言うってことは、まだ未練があるってことだろ? ……違う? どうして、いえ、未練はきっぱり断ち切りましたから、もう一切付き合いません、って言えないんだ?」
浅田は早川という男は、もしかしたら冷酷な人なんじゃないかと思った。
「だって……」
その時、店員がミルクティーを持ってきた。早川は店員が立ち去るのを待って言った。
「だってもないだろう? 君のことを思って言うんだよ。……誤解しないでな。いいか、少なくとも付き合い始めの時、彼が結婚を匂わしていたと君は言ったよな?」
「ええ、そうでした」
「そう言いながら、他に女を作った。……だよな?」
「はい。そうです」
「君との結婚を匂わした男が、他に女を作った。君は許せないと言った。『殺してやりたいほど憎い』と言った。『この世から抹殺して欲しいのです』とも言った。だったよな?」
「はい。そうです」
「俺はな、君の心に入り込む気は毛頭ないよ。女心の微妙な心情も分らない訳じゃない。だけど、そんな男と万に一つ所帯を持ったとしようか? 君は幸せになれると思う? ……俺は、そのことを言いたい訳だよ」
「……」
「きっとまた、同じことの繰り返しになると思うよ。……彼はそういう男だと思うよ。……そして、結局泣くのは君なんだよ。決めつけてもいけないけど、そう思うんだよな俺は」
「……」
「浅田君や島田君はどう思う? ……俺の意見は間違っているかなあ」
早川はミルクティーを一気に飲み干した。
「私は早川さんの意見に大賛成です」
浅田が言った。
「私も同じです。他の女が出来た時点で別れたのならいざ知らず、平気で二股かけて来た訳だから、私は許せない」
島田が少し憤慨したような声で言った。
「でも、察するところ、田部井君には、まだ未練があるように見えるけどなあ」
「あのー、ちょっと質問いいですか? 気になることがあるんですけど」
島田が真面目な顔で尋ねた。
「うん、何?」
「あのー、先ほど早川さんは、まんざら仮でもなくなる可能性もあると思うけど、とおっしゃいましたよね」
早川は島田の勘の良さを察した。
「うん。言った」
「どう意味ですか? 分らないのですが」
「島田君、その話は機会があったら、その時じっくり話するから、今は田部井君の話をしよう、なっ」
「はい。分りました」
「田部井君どうなの? 君も辛そうだから、この話もう止めようか? ……ごめんな。先週の今日、この4人で良い友達関係になろうと誓い合った。だから友人として、君の将来のことを思って言ったつもりだけど、これ以上言うとなると、俺も辛くなってくる」
「みんな聞いてください」
田部井はキッとした顔になった。
「私はたった今、自分がほとほと嫌になりました。先週から貴重な時間を割いて、私の悩みごとで集まってもらって、私のことを親身になって一生懸命考えていただいたているのに、例え仮の話であるにせよ、ちょっとぐらつくような話になると、ちゃんとしたことが言えずにいる未練たらしい自分が、ほんとに嫌になりました。ほんとに情けない女ですね。ああ悔しい」
「でもそれって、答えになってないよな。未練があるってことを言ってるようなもんだよ」
浅田も島田も頷いた。
「ちーちゃん、さっきメモを書き終えるころになって、とってもすっきりした気持ちになったんです。未練をきっぱり断ち切ることができましたって言ったのは、あれって嘘だった訳?」
浅田が田部井の顔を睨みつけた。
「嘘じゃないわよ。ほんとよ」
「じゃあ、何で未練たらしい言い方する訳?」
「……」
「ああ、黙っているところを見ると、やっぱり未練があるんだ。早川さんそういうことみたいですね」
「だな、先週からのことが、全く無駄になってしまったようだね。……残念だなあ」
早川はいかにも残念だという顔をした。今日はこれ以上話しないほうがいいと思った。それに、今の田部井には少し時間を与えたほうが良いと思った。それにしても、女という生き物が分らなくなってしまった。だが、この場合の女の心は、そういうものかもしれないとも思った。だから、もういいか。肩透かしを食った様な感じだった。
「じゃあ、話題を変えようか? 田部井君はそれでいいんだな? ……もう俺からは何にも言わないよ、……いいな」
「……また後でお話ししていいですか?」
「うん、もちろんだとも」
田部井は複雑な顔をしていた。場が妙に白けたような感じになったと思った。実は言いたいことがあったが、後にしようと思っていた。
「あのー、先ほどの、まんざら仮でもなくなる可能性もあると思うけどの話は?」
島田がまた話をぶり返した。
「うーん、その話は実は、今日のメインテーマのつもりだったんだけど、止める。……ごめん。他の話をしよう」
早川はきっぱりした口調で言った。
「大事なお話だったんですね」
「まあな。特に田部井君にとってはな。……ところで、この会の名前決めたの?」
早川は話をすり替えた。
「ええ、決まりました」
「ほー、聞きたいね」
「じゃあ、私が代表で言います。この4人の会の名前は友誓会と決まりました」
「いやにあっさりした、どこにでもあるような名前だけど、シンプルでいいかもな」
「最初、シャット会とかハスト会とか出たのですが、4人で良い友達関係になろう誓いましたので、このような名前にしましたた。先週の木曜日から始まりましたから、木曜友誓会というのも考えたのですが、必ずしも木曜日ばかりにある訳じゃないと思って、頭の木曜を取りました」
「シャット会とかハスト会、って?」
「4人に頭文字をつなぎ合わせると、そんな名前になるんです。SHATとHASTですね。でもこれだと、何を意味しているのか分りませんから没になりました」
浅田は手帳にスペルを書きながら説明した。
「なるほどな。独身貴族会? なんて出なかったんだ」
「いえ、そんな、一生お嫁にいけないような名前なんか付けたくありません」
「あはは、言えてる」
「早川さんちょっとお聞きしたいことがあるんですが」
浅田が神妙な顔で口を開いた。
「そう言えば、先週そのようなことを言ってたな。何?」
「男と女の友情ってあると思いますか?」
「また急に話が変わったな。……うん、あると思うよ。……どうして?」
「ううん、何となく聞いてみただけです」
「君はどう思うの?」
「私はないと思います」
「どうして?」
「女の本能というか本性かしら」
「本性?」
「お付き合いしてる間に、恋愛に蓋をすることが出来なくなってしまうと思うの」
「どうして?」
「訳は分からないけど、特に好きな人といる時は、友情を超えたところに自分を置いてるのね。女のサガかしらね」
「女のサガねぇー。そっかー、そういうものかねェー」
「友情が恋に変化するってこと、あると思いませんか?」
「それはあると思うけど、そのことはまた別の話だろう?」
「そうですね」
「じゃあ俺から質問するけど、もしもよ、もしも君に好きな人が出来たとしたら、俺と2人きりで食事出来る?」
「……」
「田部井君は? どう思う?」
田部井はさっきから沈み込んでいた。それを見て早川は気遣った。
「私は無理だと思います」
「島田君は?」
「私はそんなお付き合いが出来れば、最高だと思います」
「だけど、君はそう思っていても、彼が許さないだろう?」
「いえ、彼にもちゃんと話します。早川さんだったら彼も許してくれると思います」
「嬉しいことを言ってくれるねぇー、つまり彼が許す許さないは、男性によりけりだって訳だな?」
「そうです」
「浅田君の考えだと、多分それは無理なことだよな。自然な考えだし、彼がそれを許す訳ないもんな」
「早川さんはそんな場合どうなさるんですか?」
浅田はどう答えていいのか迷っていた。
「難しい問題だけど、出来れば彼も交えて、3人で食事が出来るような関係になればいいよな」
「ほんと? そんなこと出来るんですか?」
「おそらく俺は出来ると思う。好きな彼と食事を楽しんでいる君の顔を見たいもんだな」
「ほんと? それほどまでに私のことを思ってくださるの?」
「君だけじゃないよ、今ここにいる3人は、誰にでも誇りを持って紹介出来る、得がたい人だと思ってるよ」
「最高の誉め言葉ね。……ありがとう」
浅田は嬉しそうな顔になった。他の2人も頷いた。
「俺は、実はな」
「ええ」
「社内恋愛をして結婚という形に、いささか抵抗があるんだよ」
浅田は初めて聞く話である。早川がそんな考えを持っていたなんて、想像も及ばないことだった。
「えっ、ほんとにそう思っているんですか?」
「うん、ほんとだよ、だから俺がもう少し若いころ、そうだなあ26、27の頃、その頃は今みたいに忙しくなかったからな」
「ええ」
「その時分に、もしも、この3人のうちの誰かが、社外の人だったら結婚を申し込んだと思う」
「そんなこと言わないで、今申し込んで」
3人が一斉に声を上げた。
「あははは」
「どうして、社内だといけないのですか?」
島田が尋ねてきた。
「変な考え方だと思われるかもしれないけど、変えることのできない俺の考えなんだ。俺の中では立派な理由があるんだけど、その理由については聞かないで欲しいんだ」
「ふーん。早川さんのことだから、それなりに理由があるのでしょうけど、私にはさっぱり理解できないわ」
「だから、これも変な理屈ととられてしまうかもしれないけど、この3人とはずぅーっと、せめて、ほんとの友人でいてくれたら、という希望があるんだよな」
「だから、男と女の友情はあると言うのね」
「そう、そうなんだよ。でも、君たち女性には無理かな?」
「実際にそういう状況にならないと分らないけど、とても嬉しい話だわ」
「ま、今すぐの話ではないからな」
浅田は、早川の厳として変わらない、揺るぎない人生観みたいなものを垣間見たような気がした。
「じゃあ、俺から質問してもいいかな?」
「誰に?」
「みんなにさ。例えば恋愛と結婚に絞った場合、お付き合いする相手の人間としての価値観をどこに求める? ……田部井君は?」
「こればっかりは、人それぞれだと思います」
「それはそうだよな。でも絶対になければならない、っていうか、譲れない価値観ってあるだろう?」
「そうですね、恋愛と結婚は、人生の中でも一番大事なことですものね」
「だな。……じゃあさ、急にこんな話しても簡単には言えないだろうから、宿題にしようか?」
「宿題? ……ということは、また来週も友誓会をここで開くの?」
「そう、……毎週じゃ無理かな?」
「いいえ、大賛成、ねっ?」
田部井が嬉しそうな声で、浅田と島田の顔を見ながら同意を求めた。2人も喜んでいた。
「おやっ? 田部井君、元気が出たみたいだな」
「あ、はい元気です」
「おーー、良かった、良かった」
「来週今夜と同じ時間ですか?」
「いや、来週はみんなで食事会をしないか?」
「やったー、早川さんのおごり?」
「そうだな、ご馳走しよう。……そうなると、早い時間がいいだろ?」
「そうですね、そのほうがいいですね」
「それとさ、考えたんだけど、木曜日とかだと、残業で出てこれないこともあるだろう?」
「そうですね」
「で、どうだろうか水曜日は。……水曜日は残業ゼロの日だから、みんな時間が取り易いのじゃないか?」
「はい。ですね、グッド・アイディア。……さすが座長」
島田がまたおどけた。
「ちょっと待ってください。来週の水曜日は勤労感謝の日で祭日です。会社はお休みの日ですが」
浅田が手帳の暦を見ながら言った。
「あ、そうか、うっかりしてたな。じゃあ、火曜日にしようか? そうなると、時間を少し遅らせたほうがいいな。今夜と同じ20時からのほうがいいのかな?」
「いえ、もう少し早くてもいいと思います。19時でどうでしょうか。どうかなあ?」
浅田が田部井と島田に同意を求めた。2人とも頷いた。
「はい。決まり、来週の火曜日、ここの喫茶店で友誓会を開きます。時間は19時分から21時迄の2時間です。……いいですか?」
浅田がはしゃぎだした。島田と田部井が頷くのを待って階下に走った。暫らくして浅田が戻ってきた。指を丸めて予約OKのサインを出した。
「じゃあ、来週までに宿題をまとめてきてください。はい手帳にメモしてください。テーマは、……恋愛と結婚に絞った場合、お付き合いする相手の人間としての価値観をどこに求めるか、……です」
浅田が重ねて言った。
「二次会は? ……ないの?」
田部井が手を挙げた。
「二次会ね、そうだね友誓会の結成記念パーティーでもするかな?」
早川は笑いながら提案した。
「ヤッター、これもおごり?」
「乗りかかった船だ向こう岸まで着けよう。……OK」
「よっ、船長、いいぞ、いいぞ」
島田が茶化した。
「あは、今度は船長かよ。座長になったり船頭になったり忙しいなあ」
「でも、それじゃあご馳走になった上に、飲み代まではちょっと」
田部井が、それじゃああんまりだと言わんばかりである。
「あはは、心配ないよ。君たちよりも少しは高い給料もらってるからね。それに、こんな美女に飲み代を出させたとなると、末代までの語り草になるからね」
「イエーイ、来週が楽しみー」
島田が気勢を上げた。
「飲み会の場所は幹事……、おっと幹事は誰にするのかな? ……浅田君か?」
島田と田部井が拍手して幹事が決まった。
「じゃあ、幹事、後はお任せだね」
「はい。分りました。なるだけ高いところを選びます」
浅田が答えた。
「おいおい、大丈夫かよこの幹事」
みんながクスクス笑った。浅田が続けた。
「飲み会となると、此処での食事は軽くしたほうが良いと思うわ。お酒のつまみを入れる別腹も用意しておかないとね」
みんなが頷きながらまた笑った。早川は腕時計を見て言った。
「まだ少し時間があるみたいだけど、どうする?」
「早川さん、今日は疲れてしまったのではないですか」
朝からバタバタしたのを知っているのは浅田だけだった。早川は浅田の気遣いが嬉しかった。
「今日はいろいろあったからなあ、少し疲れたけど、……せっかくみんんが集まったんだしな」
「私達3人は、もう少し話していきますから、もし何でしたら、先にお帰りになってもいいですよ」
島田がシャーシャーとして話した。
「おいおい、俺を追い出すのかよ。それでも友達かよ」
早川は笑いながら島田の顔を見た。
「友達だから気遣ってあげたのに。ほんとの気持も知らないで」
「お、そうかありがとう。……ほんとの気持って?」
「いつまでもいて欲しいのです。……帰っちゃダメッ」
「あはは、女心って複雑だなァー。……うん、そのうち女心とかいう奴を、おいおいと勉強するかな」
女3人を早川は手ごわいと思った。
「早川さん、私の話も聞いてよ」
島田がわざとなよなよとしてきた。
「オー、そう言えば先週君も、私の悩みも聞いてくださいて言ってたな」
「ああ、やっと出番が来た。私の場合は、誰かさんみたいに複雑じゃないから、心配しないでください」
島田は田部井の顔を見て言った。
「ま、憎たらしい」
田部井がすねてみせた。
「島田君、悩みって何なんだい?」
「私に恋人を紹介してください」
これが島田のキャラなのだ。実にあっけらかんとしている。
「あれ、彼がいたんじゃないのか?」
「いましたけど別れました」
「社内の人だったのか?」
「いいえ社外です」
「そう、どんな人がいいの?」
「そうおっしゃるってことは、紹介して下さるんですか?」
「あはは、参ったなあ。場合によっては考えてもいいよ。……どんな人がいいの?」
「簡単です。早川さんが私に似合いだと思う人なら誰でもいいです」
「おいおい、自分の主張はないのかよ」
「自分で選んだ結果が別れになりました。自分の選択なんて、いい加減なものだなという教訓を得ました」
「なるほどねェー、言い得て妙だな。一理あるよな。恋は盲目っていうからなあ、全てが良く見えてしまう、……だろ?」
「その通りです。ですから親の勧めもあって、見合いもと真剣に考えたりしたのですが、親の勧める見合いなんてやっぱりつまらないなと思います」
「なるほど」
「で、考えに考えて、早川見合い塾に入ろうかと思って」
「早川見合い塾? なんだよそれ」
「早川さんの紹介してくれる人と見合いをします」
「おいおい、正気かよ。俺に責任をなすりつけるつもりかよ」
「そうです、それが友達っていうものでしょう?」
島田が意地悪そうな顔で早川に迫った。
「何だか変な具合になってきたなあ。浅田君どう思う?」
早川は浅田に振った。
「島田さんて意外と頭がいいなと思いました」
「意外とは何よ意外とは」
島田が口を尖らした。
「ふふ、誉めてあげたのに。……私も同じようなことを考えていました」
「あら、じゃあ、香織も意外と頭がいいと言われたいの?」
「もう、話をへし折るんだから」
「ごめん」
島田がぺこりとした。
「ただ恋愛すればいいとか、結婚すればいいとかの問題じゃない筈ですよね、親の場合と早川さんの場合の決定的な違いは、人を見る目のレベルと世代感覚っていうか、同世代における適合性の考え方に大きな差があると思います。さらに言うなら、将来を見据えて相手を選んでくださるのではという強い期待感があります。だから、幸せになれる確率が一段と高くなるということかしらね」
島田が浅田をじっと見ながら拍手した。
「へえー」
「何よ、その目つき」
「私、香織を見直してしまった。……へえー、香織ってこんなに頭が良かったの? 今の話、凄い説得力がある」
浅田が鼻を天井に向けて威張った。それを見てみんなクスクス笑った。
「あはは、えらく期待をされたもんだな。人を人に紹介することほど難しいものはないよな。同性の場合はそうでもないかもしれないけど、異性となると特に難しいと思うなあ。単に友人として紹介する場合はともかく、恋愛とか結婚を前提ということになると、2人の将来が掛ってる訳だからな。下手に紹介できないよな」
「でしょう? そういう考え方の出来る人だから、早川さんでなければならないという訳です。……早川見合い塾の塾長さん」
島田が揚げ足を取った。
「おいおい、今度は塾長かよ。俺も忙しいなあ」
「そのうち、忙しさのあまり死んでしまう」
「頼むから殺さないでくれよ」
笑いが渦巻いた。
「よし、分った。そこまで言われたら考えざるを得ないな。じゃあこうしようか。……えーとな、来週の宿題の発表を聞いて、発表した内容にふさわしい相手を真剣に探して紹介するかな。幸せのキューピットか、それも悪くないな」
3人が手を叩いた。
「とりあえず、言い出しっぺの島田君と、それから、……浅田君もか?」
「ええ、私もお願いします」
浅田はもう既に早川を諦めて、すっきりした気分になっていたから、スッと言えた。早川も、浅田が自分を諦めてくれたと内心ホッとしていた。
「分った。宿題を聞いてからだな。社内の人じゃなくてもいいのかな?」
「どちらでもいいです。男性でしたら」
「あははは、分った。……田部井君は? ……あ、そうか田部井君は該当しないのか。……うん、だな」
早川は独り言みたいに言った。その時、田部井が悲しそうな顔をして手を挙げた。
「私をのけ者にしないでください。……仲間に入れてください」
「だって、君は……」
「はい。さっきからずぅーっと考えていたんです。さっきは言葉足らずだったんです。さっき私は、未練たらしい自分がほんとに嫌になりました。ほんとに情けない女ですね。ああ悔しいと言いました」
「だったな。みんなは、ああまだ、彼に未練があるんだと思った。だから、話を打ち切ってしまった」
「ええ、でも、あの言った意味が違うんです。これまでの自分の考え方、つまり、未練たらしい自分に対して悔しい思いをしたという意味で、彼に未練があるという意味ではないのです」
「だったら、何でさっきそれを言わなかったんだよ?」
早川がちょっときつく言った。
「言える雰囲気じゃなかったものですから。少し時間をおいてお話しした方がいいかなと思ったものですから」
「そうか、さすが我が友人だ。誤解を解くために間を置いたんだ。……じゃ、きっぱり諦めたと解釈していいんだな?」
「はい。そうです。……誓います」
田部井ははっきりした強い口調で言った。浅田も島田も我がことのように喜んだ。
「田部井君、くどいようだけど、ほんとにそう信じていいんだな? どんなことがあっても、君の今のその気持を貫き通すことが出来るんだな?」
「はい。そうです。どんなことがあっても、気持ちは変わりません。誓います」
「さっきは仮の話として言ったけど、仮じゃなくて、ほんとの現実になっても気持ちは変わらないんだな? ……念を押すけど、ほんとに信じてもいいんだな?」
「はい。そうです。もう忌まわしい過去は引きずりたくありません。新しい明日に向かって歩きます。どんなことがあっても気持ちは変わりません。……誓います」
「そうか、……そうか、嬉しいね。きついことを言ったかもしれないけど、俺は君の友人として、何とかしたい一心で話したんだからな。分って欲しんだ」
「痛いほど良く分ります。とてもありがたいことだと思っています」
「そうか、良くぞ言ってくれた。これで来週話すことがまた増えた」
早川はいかにも嬉しそうな顔をした。爽快な気分になった。
「今田部井君から話があったから言うけど、実は今日はとても大事な話をしようと思っていたけど、時間が無くなってしまったから来週にしようと思う」
「私のせいで余計な時間を取らせてしまって、すみませんでした」
田部井は身体も声も小さくして言った。そして頭を下げた。
「なーに、その時間があって君の話になったんだから、貴重な時間だった訳だよ。そう理解しよう。謝ることなんかちっともないよ、……なあ、みんな」
早川はほかの2人に向かっていった。2人とも大きく頷いてくれた。
「ありがとう」
田部井が嬉しそうに笑った。早川はこうなった事態を好都合だと思っていた。来週の方が何もかも結論が出ている筈だから、その上で話した方が理解が得やすいと思った。
「田部井君、2、3質問に答えてくれるかい? いいかな?」
「はい。何でもどうぞ」
「最近、野田君とデートした?」
「いいえ、もう2ヶ月ぐらいデートしていません。私から最近デートを申し込んだことがあるのですが、返事がなかったです」
「君にもらったメモ書きを見てもそんな感じだったな。でも、はっきりと別れた訳ではないんだろ?」
「ええ、そうですね、言葉に出してはいませんね、お互いに」
「そっかー、今はもう、付き合う気持ちはないのだから、はっきりと言えるのではないのか?」
「明日言おうかと思っています」
「直接言うの? 逢ってくれない訳だろ?」
「電話に出てくれるかどうか分りませんが、出たら言います。出なかったらメールで伝えます」
「それがいいな。何らかの形で、きっぱりとした態度を示したほうがいいと思う。だけど、ただ、もう付き合いたくありませんと言うだけ?」
「はい」
「俺だったら、彼が出来たから、今後付き合えませんと言うよ。相手は誰だと言ってきたら、警察官か自衛隊の人とか言うね」
「ふふふ、それっていい考えですね。言ってみようかしら」
「彼が承知しなかったらどうするんだい? ……そう言うなよ、俺はまだ君のことが気になってるんだよ、とか言われたらどうする? 女ってそういうのに弱いって聞いてるからな」
「いえ、きっぱりと断ります」
「そっか、分った。……それから、君のメモには書いてなかったけど、彼ってどうなのかなあ? 性格は? ……例えば暴力を振るうとかなかった?」
「それは、ありませんでした。どちらかというと、気の弱いところがありましたね」
「えっ、ほんとかよ。とても考えられないけどなあ」
「ええ、そんな姿を見ると、変に母性本能をくすぐると言いますか、何かしてあげたいなんて思ってしまうんですね」
「なるほどねェー、それが彼一流の手だったりしてな。女たらしのテクニックだったりして。本性を隠したりしてな」
「それは、当ってるかもしれません」
「思い当るところがあるの?」
「ええ、時々とても怖いと思うことがありました」
「ほー、それはどんな時?」
「何となくですが、時々不敵な笑いを浮かべたり、バーテンに食ってかかったり、料理にケチをつけたりしたことがありましたね。その度に嫌になりました。怖いと思いました」
「なるほどな。……それと君は、アパートかなんかに住んでるのか?」
「いえ、親元から通勤しています」
「彼は君の家に行ったことは? あるのか?」
「いえ、ありません」
「だって、結婚を匂わしてるとか言ってたから、親に紹介してるのかなと思ったんだよ」
「いえ、幸いにそんなことにはなりませんでした。親元に行って、挨拶しておこうなんて考えるような人でしたら、こんなことにはならなかったと思います」
「だな。言えてる。……君の住所を彼は知ってるの?」
「いいえ、話したことはありません」
「家の電話を彼に教えた?」
「いえ、連絡はもっぱら携帯かメールでしたから」
「お父さんの名前を彼に教えたことは?」
「いえ、ありません」
「じゃあ、電話帳で調べて、君の家に電話するなんてこともない訳だ」
「……???? ……どういうことですか?」
「いや、いいんだ聞き流してくれ。……ということは、彼からの君への連絡手段は、携帯電話かメールのみしかないと解釈していい訳だよな?」
「はい。そうです。……会社の電話もありますが」
「田部井君、俺の目を見て良く考えて返事してな」
早川は田部井にあるサインを送りたかった。
「はい? 何か意味がありそうですね」
「大いにある。だから、これから俺が言うことを、出来れば実行しておいて欲しいんだよ」
「はい。何でしょうか」
「……君が彼ともし別れたとして、しつっこく彼から携帯に電話してきたらどうする? ないかもしれないけど、あったらどうする?」
「そんなことは考えにくいんですけど」
「今はね、そうだと俺も思う。……だけど、実際にそうなったらどうする? 仮の話でもいいから考えてみて。こんな話は世間ではよくある話だからな」
「電話に出ません」
「高津君の電話を借りて君に電話してきたら? つまり成りすましだよね」
「……出てしまうかもしれませんね」
「毎晩毎晩、一晩中電話のベルが鳴ったらどうする?」
「携帯のスイッチを切って寝ます」
「でも、そうすると、ほんとに話したい人、例えば島田君からの電話のベルも、鳴らなくなってしまうんだよな。……いいのかな?」
「それは困ります」
「だろう? じゃあどうする? よく考えてごらん」
「……」
「君の携帯には、どのくらいの数の人が登録されているんだい?」
「身内とお友達と会社の人ぐらいですから、大した数ではありません」
「ヒントを話したんだけど、分らない?」
「……えっ、まさか」
「そうだよ、そのまさかだよ」
「登録する数が少なかったら訳ないだろ? しかも、今は簡単に販売店でやってくれるだろ?」
「そこまでしなければいけませんかね」
「それは君の考え方次第だよ。俺は絶対にやっておくべきだと思うよ」
「絶対ですか?」
「絶対にな」
その時、島田が田部井に顔を向けて口を挟んだ。
「ねェー、そのまさかって何なの?」
「携帯を買い替えることよ。その時、番号も変えるの。そうですよね早川さん?」
田部井は島田を見て、それから早川の顔を見て言った。
「その通り。絶対にそうすべきだね。買い替えなくても、手続きをすれば番号を変えることは出来るよね。メルアドは自分で変えてしまえばいい。それでも心配はあるんだけどな」
「どういう心配ですか?」
「社内の田部井君の友達に電話して、新しい番号を聞き出すことが出来るよな」
「なるほど、それはあり得るわね」
「あり得るけど、俺が絶対と言ったのは、少なくとも番号を変えることで、直接は全く掛って来なくなる、ベルそのものが鳴らなくなるということだよな。これにより、田部井君は心理的に非常に楽になる。場合によっては、彼が諦めてくれる動機になるかもしれないしな」
「そうですね。それは言えますね」
「どうしても新しい番号にしたくなかったら、こんな方法しかないな」
「どんな方法ですか」
田部井が真剣な顔で聞いてきた。
「まず登録している人以外は絶対に電話に出ない。それと、彼の電話番号と高津君の電話番号を迷惑欄に登録して、ベルが鳴らないように設定しておくことだな。もしかしたらこの設定は、既に経験済みかもしれないけど」
「設定方法は知っています」
「もちろん、この設定は新しい機種でも、今持ってる携帯でも出来る訳だから、どっちでもいい訳なんだけどね。絶対と言ったのは、自分の携帯とつながっていることには違いがない訳だから、それを断ち切りたいという強い気持ちがあるんだったら、そうすべきだと言ったまでだけどな。……俺は嫌だね。ディスプレイに表示される度に思い出すのは。あは、俺のことはどうでもいいか。……あとは、田部井君が考えることだな」
「質問ですが、いいですか?」
田部井が手を挙げた。
「早川さんが、そこまでおっしゃるには、それなりの重要な意味があると、解釈したほうがいい訳ですね」
「その意味については、来週の会合の時話せると思う。君のことを思えば、出来ればそうして欲しいな。しかも、なるべく早くにな」
「分りました。明日ちゃんと別れを告げて、明後日の土曜日に新しい機種に買い替えます。島田さん付き合ってくれる?」
「ええ、いいわよ」
島田はニコニコして言った。そこに浅田が口を挟んだ。
「あら、私はのけ者なの? 冷たいのね」
「ごめんごめん、そんなつもりじゃ、……付き合ってくれるの?」
「土曜日は予定もないし、暇つぶしに丁度いいわ。それに、2人より3人の方が賑やかでいいじゃない」
「早川さん、そういうことになりました」
田部井が早川の顔を見て言った。
「さすが賢明な淑女たちだ。頼もしいね」
「何だか、ほんとに身も心もすっきりしそうだわ」
「それが一番だよ。変なものを引きずっていたらろくなことはないよ。新しい自分に向かって歩き出すことだよ。真っ白なキャンバスに、また生まれ変わった自分を描いていくことだよ」
「何だかそんな気分になってきました」
「そうか、良かった、良かった。……また、変な質問するけど。……彼がしつっこくストーカーしてきたらどうする?」
「今度はストーカーですか?」
「これもないことはない。どうする?」
「あんまりしつっこい時は、警察に言います」
「それが一番だな。それと田部井君を1人にしないこと。いつも3人で行動すること」
「ですね。そうします」
「これで田部井君のことは安心だな」
「もう少し時間があるけど、何かないですか?」
浅田が明るく意見を催促した。
「俺からもう一つだけいいかな?」
「はい。どうぞ」
「さっきの見合い塾の続きみたいなもんだけど、言い出しっぺの島田君に聞いておこうかな」
「はい。何でしょう」
「これも仮の話で申し訳ないんだけど」
「はい。あくまで仮の話ですね。誰かみたいなへまはやりません」
「やだー、またそれをいう、コラッ」
田部井が笑いながら言った。島田がペロッと舌を出した。
「あのね、例えばさ、島田君が現在社内恋愛中だとしようか?」
「イメージを膨らまして考えたいですから、仮に相手は誰ですか?」
「この俺でもいいよ」
「えっ、うっそー、あり得ない」
「どうしてだよ、俺のこと嫌いなのかよ」
「いえ、何を隠そう大好きです。……そんなことじゃなくて、1人占めしては、後でこのちーちゃんと香織に袋叩きにされそうですから」
「あはは、ま、仮の話だからいいじゃないか」
「あ、ですね。仮でしたね。ちーちゃんの間違いをやらかすところでした。はい仮の話でしたね。ああびっくりした」
「自分で勝手に思っといて、びっくりもないもんだわ。ねー、ちーちゃん」
浅田が田部井を見ながら言った。顔が笑ってる。田部井もそうだそうだと言わんばかりである。
「で、島田と俺が凄い熱愛の関係でした」
「お願い、もう一度今の言って」
島田が目を閉じてわざと大きな声で言った。
「コラッ、いい加減にしなさいよ、もう、いつもこれなんだから」
田部井が呆れたような顔で言った。
「でも、島田君て、いいキャラしてるよねぇー。俺そんなの好きだなァー。明るくて、あっけらかんとしてさ」
「でも、彼と別れる時は大変だったんですよ。泣いて泣いて泣きわめいて、目が腫れて見られたもんじゃなかったのです」
田部井が島田の顔を見た。
「せっかくの美貌が台無しになった訳だ。でも、島田君を見てるとそうかもと思うね。一見明るそうだけど、実はそういう人に限って、とても淋しがり屋で泣き虫な人が多いっていうからなあ」
「ピンポーン。さすが塾長お見通しですね」
「別れた原因てなんだったんだ?」
「相手は証券会社の人で、結構イケメンだったものですから、最初の内はルンルン気分でした」
「ほー、で、それから?」
「でも、何か月か付き合っている間に、急に嫌になってしまったんです」
「どうして?」
「職業が証券会社、顔がイケメン。これがいけなかったんですね。中身が空っぽ人間的に尊敬できない。冷静になるともう欠点ばかり。いっぺんに熱が冷めました。恋は盲目ってほんとにその通りです。この賢い島田がまんまと恋の罠にはまってしまって、もう何にも見えなくなってしまったのですから。完全にバカの標本みたいなもんですよ」
「賢かったら、そんな風にならないでしょう?」
浅田がからかった。
「香織は恋愛したことないからそう言えるのよ。一度恋愛してごらん。青い色が赤い色に見えてしまうんだから。……もう悔しい」
「あはは、はい分りました。参考にさせていただきます」
早川は2人の会話を聞いて楽しんでいたが、腕時計を見て切り出した。
「で、君の方から別れを宣言したんだ」
「ええ、そうです」
「なるほどね、君はやっぱり賢いよ。そういう風に持って行けたんだからな」
「ありがとうございます」
島田は浅田に向かって鼻をツンとさせた。
「来週の宿題の人間の価値観をどこに求めるかが、まさにそういうことだよな。職業や顔や形のみで判断することのバカらしさを体験出来た訳だ」
「ほんとにそうですね。私が泣いたのは、自分の考え方が余りにも情けなかったものですから、それで泣いたのです。……分りますか?」
「分る、分る。俺と付き合っても、そんな風に泣くことになるかもしれないな」
「早川さんの場合は、それはないと確信できます」
「話を元に戻そうか。仮の話として、島田と俺が凄い熱愛の関係でした、て、ここまでは話したよね。島田君イメージできてる?」
「ええ、それはもうルンルンです」
「あはは、ところがその恋人に、ある日突然不幸なことが起きました」
「えっ、私の恋人の早川さんの身に何か起こったのですか?」
「そうなんだよ、とても悲しいことがね」
「いやー、お願い止めてそれ以上言わないで」
島田はわざと絶叫して見せた。
「あはは、京ちゃん、アカデミー主演女優賞間違いなし」
田部井がはやし立てた。その時ドアが開いて店員が入ってきた。
「あのー、もうお時間なのですが、いかがなさいますか? 延長されますか?」
4人は無意識に腕時計を見た。
「お、もうこんな時間だ。話がまだ途中だから30分延長できますか? みんないいね?」
みんな頷いた。
「ええ、出来ます」
「そう、じゃそうしてください。それと、喉が渇いたからジュースか何か追加します。みんなから聞いてください。私はオレンジジュースをお願いします」
店員は注文を聞いて引き下がった。
「何処まで言ったっけ」
「アカデミー主演女優賞」
「あ、そうか、その悲しい出来事っていうのは、何だと思う?」
田部井が手を挙げた。
「交通事故にあった」
「浅田君は?」
「過労で倒れてしまって、病院に担ぎ込まれた」
「島田君は?」
「恋人の不幸? ……何だろう。仮の話だから、早川さんじゃなくてもいい訳よね。そうなると地方に左遷させられた? ……ですか?」
「仮の話を、そういう具合に広げて考えられるって、島田君はほんとに賢い人だな」
「今はバカだけど賢い女になりたいです」
「あははは、ガンバレ。……島田君の彼の早川に何が起こったのか、……びっくりすることが起りました」
「何? ……何? ……何なの? 早く言って」
島田が次の言葉を求めてきた。コンコンとドアが鳴り、店員が注文した品を運んできた。
「ま、飲み物でも飲んでじっくり考えてみよう」
みんな一息ついた感じで、飲み物を口に持っていった。島田君の彼に何が起こったのか、早く聞きたい様子だった。店員が一礼して出て行った。
「えー、彼は、……彼は、会社を急に辞めなければならなくなったのです」
「うっそー、それって、急にどうして辞めなきゃならなくなったのですか?」
「田舎の母親が急に倒れてしまって、彼が親の面倒を見なければならなくなったんだよ。……さあ、島田君の彼が事情があって会社を急に辞めなければならなくなりました。島田君はどうしますか?」
「ど、どうしますかって、……どうしよう」
島田はじっと天井を仰いで考え込んでしまった。
「親の面倒を見なければならなくなってしまった彼は、田舎の鹿児島に帰らなければならなくなりました。会社を急に辞めたらそれこそ大変だよ。収入源が閉ざされてしまうからね。田舎で就職といっても、このご時世だからね簡単にはいかない。それでも、帰って親の面倒を見なければならない。こういうことって、あり得ることだろう?」
「そうですね、あり得ますね」
「はい。そこまで、時間が無くなってしまったから、この続きは来週にしよう。島田君の気持になってみんな考えてあげよう」
「考えるって、……」
「実はね、この仮の話の中に、とても重要で大切なことが隠されているんだよ。長い人生を幸せに暮らしていけるヒントが隠されている、と言ってもいいかな」
「へー、そうなんだ。……これも宿題ですか?」
田部井が聞いてきた。
「いや、宿題じゃない。しかし考えるだけの価値のあることだと思うよ」
「社会人になってこんなの初めて。凄い充実感がある」
田部井の言葉にあとの2人も頷いた。
「友誓会は、まるで人生に役立つ社会人学校ね」
浅田が受け継いだ。
「こういう話をみんなですることで、少しでも幸せに近づいていけたらいいよな」
早川は長く感じた友誓会を、ようやく締めくくることが出来た。
次の日の金曜日、朝礼後役員室で、緊急役員会が開かれていたのを早川は知らなかった。
その朝、野田係長と高津社員は普段通り仕事をしていた。早川は考えるところがあって、3人の係長を呼んで横の応接テーブルに座らせた。石川、野田、田崎の3人である。
「集まってもらったのは、2案のうちどちらが決まるか分らないが、今後の作業のこともあるから、意見を聞いておきたいと思ったからだ。昨日の別ページに表示されていた素案についてどう思う? ……まず、石川君から聞こうか?」
「昨日リーダーに申しあげた通りです。あれでは、どうしようもないですね。やはり、A案で行くべきだと思います」
「田崎君はどう思う?」
「私も同感です。まるでおかしいです。あの素案では、役員会で採用されるとは到底考えられません」
「野田君は?」
「同感ですね。やはり時間のロスもありますので、A案でいくべきだと思います」
「そうか、やはりな、ありがとう。俺もどうもおかしいなと思ったもんだから、それとなく部長に聞いてみたんだよ。そしたらどうも電算課が入力を間違えたらしいんだよ」
「えっ、そうなんですか? 驚いたなあ。……じゃ、どうするんですか? ……もう一度、昨日みたいなことをするんですか?」
「いや、それはない。正しいB案はある訳だから、それを役員会に計って検討するみたいだよ。全く人騒がせもいいとこだよな」
「それだったら、最初からそうすればよかったですのにね。時間の無駄だと思います」
石川が憤慨したような口調で口をとがらせた。
「まったくだよな、君の言う通りだよ。同感だね。上の方が考えることだから、我々は従うよりないから、ま、決定を待とうや。いや、ありがとう、もう席に戻っていいよ」
立ち上がろうとして、田崎が早川の方を向いた。
「A案もB案も駄目ってことありますかね。全く新しい案を考えなさい、なんて言ってきたりして」
「実はな、俺はそれを考えているんだよ。もしかしたら、その線もあるかもな。だから、時間のこともあるから、今、そうなってもいいように準備をしているんだよ」
「じゃあ、新しいプランを考えているんですか?」
「そうなんだ、……考えてみな、時間がほんとにもう無いぞ。提出期限までに完成しなかったら、それこそ赤っ恥をさらすようなもんだからな。スタッフみんなの為にも、それだけは絶対に避けなければならない。……だろ?」
「ですね。さすがですね、リーダー」
「……何の理由で、あるいは誰の意見で、2案を作って検討しようなどと考えたのか知らないが、そもそも、この作業はC&Tに任せるという話で今日まで進んで来た訳だからな。……だよな?」
「そうです」
「俺も少々憤慨してるんだよ。いい加減にしてくれってな。ま、社員の立場で怒ってもしようがないことだけど、責任者として怒りたくもなるよな」
「全く同感です」
石川が同調してきた。
「時間はロスするし、それでいてコンペに優勝しろだろ? ……スタッフの苦労も知らないで良くも言えたもんだよ。……野田君どう思う? 俺はリーダーを下ろさせてもらおうとすら考えているんだよ」
早川はありったけの怒りをぶちあげてみせた。
「リーダー、そこまでは考えなくていいのではないでしょうか。リーダーなしでは、それこそC&Tを解散したと同じですよ。もう少し様子を見ましょうよ」
この野郎、ぬけぬけと、お前のお蔭でこのような事態になったんだろうが。人の風上にも置けないお前は、人間のクズだよ。余程怒鳴りたかった。
「……だな。それしかないな、みんなありがとう」
3人が席に戻るのを確認して早川は浅田を呼んだ。浅田の顔を見ながら小さな声で言った。
「昨日はお疲れさん。ごめん、コーヒー頼む。自分で入れてもいいが、今朝は何だか君の入れたコーヒーを飲みたくなった」
「ふふ、嬉しいです。特別おいしいコーヒーを作ってきます。少しお待ちください」
浅田はニコニコしながら炊事場に向かった。暫らくして浅田が戻ってきて、コーヒーをデスクに置いた。
「いつもごめんな、ありがとう」
カップを口に持っていって一口飲んだ。
「ん? ……えっ、……これ旨いね。どうしたの?」
「特別な高級品です。会社のいつものコーヒーって、まずくはないけど、旨いとは言えませんものね」
「ということは、個人用に持ってきてるの?」
「はい。早川さんに飲んでいただきたいと思って買ってきました」
「ほんとかよ、なんと嬉しいことをしてくれるんだよ。泣けてくるぜ。ありがとう。ほんとおいしいよ、コレ」
「喜んでいただいて、とっても嬉しいです」
「頼まれついでに、もう一つ頼まれてくれないかな」
「あら、欲張りですね。何でしょうか?」
早川はあたりを伺いながら小さな声で浅田に語った。
「出来ればの話でいいんだけど、田部井君に連絡して、野田君と高津君の携帯の番号を聞き出して欲しいんだけどな」
早川はその気になれば直接田部井に連絡出来る。友誓会の一員であるから誰にも遠慮はいらない。しかし、早川はいつも浅田を通して頼みごとを言ってくる。それが浅田にとってはとても嬉しいことだった。
一方で浅田は、先週からの早川の動きに重大の関心を寄せていた。直感で何かがうごめいているのを感じていた。特に友誓会で、時折凄みを感ずるくらいに危機に迫った話しぶりを見て、近い内に何かが起こる気配を感じていた。
「分りました。後で連絡します」
「すまんな頼む」
早川は浅田に手を挙げて頼んだ。浅田は一礼して席に戻った。
その時早川はなぜか、浅田を、友人の中村に紹介しようと思った。結婚してからも自分の技術を生かしていけたら、と浅田は言っていた。中村だったらそれが可能だ。
10時を少し過ぎた頃デスクの電話が鳴った。交換から甲斐オーナーからの電話だと伝えられた。
「早川です。オーナー、おはようございます」
「おはようさん、元気?」
「お陰様で元気でやっております」
「早速だけど、早川さん、明日の土曜日は空いてるの?」
「あのー、土・日は出張です。といいましてもプライベートなのですが」
「何処に行くの?」
「長野の篠ノ井というところです」
「そうなの、じゃ仕方ないわね。来週の月曜日は? 時間空けられる?」
早川は手帳を繰った。
「何時ごろですか?」
「そうね、19時ごろはどうかしら?」
「その時間でしたら大丈夫です」
「ありがとう、この前の野菊で19時に、いい? お食事しましょう」
「はい。分りました。……オーナー、この前お電話いただいた時も思ったのですが、少しお疲れですか?」
「あら、よく分るわね。……そうなのよ、いろいろあってね」
早川は甲斐オーナーの近辺で何かあるのだと察した。離婚問題がこじれているのだろうか。
「そうですか、それはいけませんね。オーナーらしくないですね。元気出してください」
「ありがとう。そう言ってくださるの早川さんだけよ」
「やっぱり、元気な姿のオーナーが一番お似合いですからね」
「それを聞いて、少し元気が出たわ。ありがとう。じゃあね、お願いね」
「はい。こちらこそお願いします。……失礼します」
早川は甲斐オーナーの、元気のなさが気になりながら受話器を置いた。
社宅から早川は亜希子に電話した。
「お疲れ様。今夜は早いのね」
「こんばんは。……たまにはこういう日もないとね」
「ですね。……いよいよ明日ね」
「そうだね、ちょっと緊張してるよ」
「あら、もう?」
「やはりいざとなると、どうなることやらと、気分が行ったり来たりしてる」
「ふふ、まるでブランコね」
「あはは、だね。……ところで明日の件だけど、何時頃いけばいいのかなあ」
「悟さん明日は宿泊するんでしょ?」
「いや、最初、駅前あたりのホテルに宿泊して、アキとゆったり時間を過ごしてから、日曜日に帰ろうと思っていたけど、日帰りにする」
「えっ、せっかく長野まで来て下さるのに?」
「いろいろ考えて、今回は、ご家族に挨拶することだけにしておいた方が賢明だと思う。……そう思わない?」
「……結婚式を挙げるまでは、親に余計な思いをさせたくないと考えているんでしょう?」
「そうなんだよ。そのほうがいいと思うんだよね。それに、俺の顔を見た途端に出て行けっ、ってことにもなりかねないしね」
「ふふふ、そうなったらどうする気?」
「そうだね、そうなったら仕方ないよ、どうなってもいいから、もう破れかぶれだね、狼に変身する」
「それから?」
「その場でアキを縄で縛って連れ出す。駆け落ちする」
「まあ、古い言葉を知ってるのね」
「駆け落ちが古い言葉? じゃあ何て言うの?」
「愛の逃避行」
「おー、いいね洒落てるね。……洒落ている場合じゃないよ。こっちは必死なんだよ?」
「ふふ、その思い、胸にビンビン来てるわよ。せいぜいそうならないように祈るしかないわね」
「他人事みたいによく言うね。結婚は絶対にダメと言われたらどうする気なの?」
「それは任せといて。大丈夫よ。会う前からそんなことじゃ、君らしくないね。ふふふ」
「あれ、何の話だったっけ?」
「日帰りの話」
「あ、そうか、何かさんざん怒られて、逃げるように日帰りするみたいになっちゃったな」
「父に言われてるの」
「何を?」
「一緒に昼食するように段取りしなさい、って言われているの。どうする? 何を食べたい?」
「えっ、ということは、もう?」
「そうよ、私に感謝しなさい。……偉いでしょ?」
「ほんとかよ、嘘だろ? ……とか、何とか喜ばせといて、実は、なんてことにならないよね」
「あら、悟さんて、そんなに気弱で疑い深い人だったかしら」
「あはは、アキにはかなわないよ、……降参」
「でも、それもあり得るわね。父親のことだから、ま、結婚は認めないが、せっかく遠路はるばる来てくれたんだから、せめて昼飯ぐらい食べてから、帰ってもらったら? なんて考えてるかもしれないわね」
「おいおい、どっちなんだよ」
「うふ、どっちかしらね明日のお楽しみね」
「もう、何だよ人の気も知らないで」
「そういう訳だから、昼前に来てね。駅まで妹と迎えに行きます」
「そうか、妹さんと初めて会うんだ。嬉しいなあ」
「妹も楽しみにしているみたいよ」
「じゃあ、朝の10時位に篠ノ井駅に着くように行くかな」
「はい。お待ちしています。日帰りの件、淋しいけど仕方わないわね。私も賛成です。明日はとにもかくにも、父にOKさせることが目的だし、それに専念した方がいいですものね」
「ありがとう。いよいよ運命の日が来たか。明日だね」
「そうね、アキはこの日が来るのを一日千秋の思いで待ってたのよ」
「その日が意外と早く来てよかったと思ってる。時の神様が微笑んでくれたんだね。……いよいよだな」
「はい。……悟さん、まだ答えていないことがあります」
「えっ、あれっ、……何だったっけ?」
「昼食、何食べたい?」
「あ、だったね、任せるよ。俺よりもお父さんお母さんの好きなものにしたら? 俺は好き嫌いはないから」
「相変わらず優しいのね。分りました。……じゃあ、待っています」
「じゃね明日。……亜希子」
「ええ、……なーに?」
「……愛してるよ」
「……私もよ。愛しています」