初めて降り立ったホームの中央付近で2人の女性が手を振っていた。1人は亜希子と分ったが、亜希子の後ろで、隠れがちに小さく手を振っている女性がいた。亜希子の妹と思われる。早川は少し急ぎ足で2人に近づいた。亜希子の顔は喜びに満ち溢れていた。ようやくこの日が来たんだという思いがはち切れていた。走って行って早川に飛びつきたい思いであったが、妹の手前その気持ちを抑えた。
妹の真理子が、恥ずかしそうにぺこりと頭を垂れた。姉の亜希子とほぼ同じくらいの背丈で、目がパッチリしていて鼻筋が通っている。可愛らしい口元の、うっすらと塗った口紅に色気がある。スタイルの良い美形である。
「やあ、ありがとう、……こんにちは」
「お疲れ様、ようこそ。……紹介します。妹の真理子です」
姉の言葉が切れるのを待って、真理子は一歩前に出て深く頭を下げた。
「はじめまして、真理子と言います。よろしくお願いします」
はきはきした感じの良い声である。白い歯がとても印象的に見えた。早川も初対面の恥ずかしさが照れ笑いを誘った。
「はじめまして、こちらこそ、今日はお願いしますね。……早川と申します」
早川は下げた頭を上げて、しげしげと真理子の顔を見た。そして亜希子の方を振り向いた。
「ふふ、どうしたの? 真理子の顔に何か書いてあって?」
「いやいや、とっても美しい方だなあと思って、つい見とれてしまった。……ごめん」
「謝ることないわよ、ねえ真理子?」
「はい、とっても嬉しいです」
早川のことについては、姉の亜希子からいろいろ聞かされてはいたが、目の前の実物を見て、近い将来、もしかしたら、この人が私のお兄さんになるのかもしれないという思いもあって、何故かドキドキしていた。真理子は早川に褒められて、嬉しさが身体中を駆け巡った。少し赤らんだ顔が一段と美しくなった。初めて会う緊張感が消えていった。この時真理子は、早川の人となりを感じ取った。さすが、堅い姉が惚れるだけのことはあると思った。
早川は、また1人、一生大事にしていかなければならない人が増えた、と内心喜んでいた。
駅前の駐車場に止めてあった車に乗った。早川は後部座席に身を沈めた。助手席に亜希子が座り妹が運転した。車は駅前の広い道路を進んですぐに右に曲がった。
「リンゴの旬は今頃じゃないですか?」
早川はレトロ列車のことを思い出していた。遠藤君子を交えた3人の会話で、たわわにぶら下がったリンゴを、一度見てみたいと言った記憶がある。
「そう言えば、でしたね。すっかり忘れていましたわ。思い出しました。まさに今が旬ですよ。いい時に来られましたね。昼食が済んだら見に行きましょうか?」
亜希子が後部座席の早川の顔を見ながら言った。今日の昼食のことは、既に早川に伝わっていたんだと真理子は思った。
「ほんと? これはありがたい。嬉しいなあ」
「その時は、真理子お願いね、運転」
「あら、姉さんが案内したほうがいいんじゃない? 私は遠慮するわ」
「早川さん妹はこう言ってますけど、どうします?」
「僕は妹さんも一緒の方が嬉しいなあ。妹さんとは滅多に会えないし、良かったら、今日は出来るだけ長い時間一緒に居たいなあ。僕には妹がいないし、ほんとの妹と思って付き合えたら、こんな嬉しいことはないよ」
「真理子聞いた? あなたは気を利かしたつもりでしょうけど残念でした、早川さんてこんな人なのよ」
妹の真理子は嬉しくて仕方がなかった。なんて優しい人なんだと思った。亜希子は妹の顔を見て喜んだ。早川だったら、妹のいい兄貴になってくれそうな気がした。
「いいお兄さんが出来て良かったね。真理子」
「姉さん、真理子泣けそうよ目がぼやけてきた」
「あら、大丈夫? 運転代わろうか?」
「……ううん、大丈夫」
亜希子と真理子は、2人だけの姉妹として、これまでいろいろ助け合ってきた。しかし、あと少ししたら、辛いけど離れ離れに暮らさなければならない。おそらく早川は、その辺のことも考えて言ってくれたのだと思った。
暫らくして、左手に5階建てのビルが見えてきた。看板には花岡貿易商事株式会社と書かれていた。ビルの左手に横長の配送センターと思われる集荷場がある。集荷場の床は地面から一段と高くなっていた。大型運送車の荷台と同じ高さである。2台の大型運送車が停まっていた。その左に仕切るようにして、高い樹木が道路端まで立ち並んだいた。樹木の内側に大谷石の塀がある。
正面の大きな門構えに覆いかぶさるように、よく手入れされた樹木が茂っていた。その奥に、幾重にも重なった一文字葺きの屋根をたずさえた、2階建ての重厚な和風の住宅がたたずんでいた。門の手前に広い駐車場がある。真理子の運転するステーションワゴン車が、その駐車場に入って止まった。
鋳物の門扉を押し開けた。両側の庭木や草花が、柔らかな朝の日差しと爽やかな風に揺れていた。地面に埋められた飛び石に足を運び進む。暫らくして、銅板葺の玄関の土庇が見えてきた。引違戸は堅木の格子戸である。亜希子がその格子戸を引いた。広い玄関が現れた。
「ただいまあー」
真理子の大きな声が響いた。奥から「はーい」と声がした。和服姿の細身の女性が現れた。女性は早川の姿を見てにっこり笑い軽く頭を下げた。
「お帰り、……いらっしゃいませ」
「うちの母です」
亜希子が早川を見て紹介した。
「お母さん、早川さんよ」
「早川です。よろしくお願いします」
早川は深々と頭を下げた。
「まあ、いらっしゃい、お疲れでしょう、さあさあ、お上がりになって」
亜希子に促されて、早川は並べてあったスリッパに足を通した。
「失礼します」
幅広の縁側の床には朝の陽光が優しく照っていた。縁側に面した庭には灯篭があちこちに配されて、それを囲むようにして美しい庭木が生い茂っていた。早川は8帖間に通された。亜希子と真理子は母親と一緒に奥に消えた。部屋には重厚で大きなテーブルがでんと座っていた。書院造りの床の間には、大きな松を描いた掛け軸が下がっていた。床の間の横には、地袋と天袋の間に違い棚がある。太い絞り丸太の床柱が長押を受けていた。縁側に面した刷り上げ障子のガラスから庭園が見える。
早川は何故か冷静でいられた。この場に及んでじたばたしても始まらない。世の中は成るようにしかならないのだ。このような場合、自分を素直にさらけ出して、事の成り行きに身を委ねるしかないのだ。そう思うと気が楽になった。とは言え、生まれて初めての経験である。緊張感が少しある。こういう時に、会社の名刺を差し出すことに少々躊躇があったが、自分を知ってもらうには、手っ取り早くていいのではと思い、名刺を手に用意していた。床の間から離れた位置の厚い座布団の横に正座していた。間もなくして障子が開き、亜希子と真理子が入ってきた。テーブルにお茶と茶菓子が並べられた。
「あら、早川さん、そこじゃなくて、こちらに座ってください」
亜希子が、床の間側の座布団を指差した。早川は手で制して、ここでいいのだと合図した。
「父に叱れるから、お願いここに座って」
早川は亜希子の願いを無視した。それを見ていた真理子は、何を思ったか頷いていた。程なく母親と恰幅のいい男性が部屋に入ってきた。父親である。いかにも実業界で鍛え上げた厳しい顔をしていた。眼鏡をかけていた。入るなり開口一番怒鳴るような言葉を発した。
「亜希子何だよ、お客様のもてなし方も知らないのか? なんでこちらに座って待ってもらわなかったのだ? ……ん?」
亜希子の言った通りである。亜希子は早川の顔を見て、ほらごらんなさいと言わんばかりである。
「いえ、私の意思でこうさせていただきました」
早川は亜希子をかばった。父親は立ったままである。早川の顔をじろじろ見た。床の間側から離れた位置で、座布団には座らず、畳の上に正座している青年を見て怒るのを止めた。柔和な顔になった。
「いやァー、いきなり怒鳴ったりして悪かったね。……ま、座ってください」
父親は床の間側の座布団に座るよう促した。
「いえ、私はこちらに失礼します」
床の間と反対側に座ろうとした。
「いや、それじゃ困る。お客様は床の間側と昔から決まっている。こちらにどうぞ」
真理子は、父親が今にも爆発しそうで冷や冷やしていた。亜希子はニコニコしていた。
「いえ、お言葉を返すようですが、私の辞書には、年配の方が床の間側にお座りになるのが習わしだと書いてあります。私如き若造が、こんな分厚い座布団も勿体のうございます。お願いですから、そちらにお座りください」
早川は畳に手を付き、頭を下げて、まるで武士が発するような口調で言った。
亜希子も真理子も、2人の男のやり取りを興味深げに見ていた。どちらが折れて決着がつくのか面白い。それにしても、男ってどうでもいいことにこだわる動物なのだと思ったりもした。亜希子は真理子の方を振り向き微笑んだが、真理子は少しこわばった顔をしていた。母親は手を前で組み成り行きを見守っていた。
父親はこの青年は頑固だと思った。いまどき年配者を立てる考えは立派である。一歩も引かぬ姿勢を見て、大人げないことをいつまでも主張したって始まらない。この青年の言うことを受け入れようと思った。
「お父さん、ちょっと質問いいかしら?」
黙って見ていた母親が、困ったような顔をしているのを見て言った。
「うん? 何だ?」
「ええ、それだったら、テーブルの向きを90度変えたら、上座も下座もなくてよろしいのではないですか?」
父親は母親の顔を見て笑った。
「母さんもたまにはいいことを言うね。そうだな、ま、今日のところは上座も下座もないことにするか」
言いながら父親が上座に座った。その横に母親が座った。早川が父親の正面に座り亜希子真理子と続いた。
「改めまして、早川と申します。今日はお忙しいところを、ありがとうございます」
早川はまたも座布団から離れ畳に手をついて、畳に着くくらいに頭を深く下げた。そして、手にしていた名刺を差し出した。
「亜希子の父親です。遠路はるばる、こんな田舎に足を運んでいただき、ご足労でしたね」
父親は内ポケットから名刺入れを取り出し、1枚を早川に渡した。名刺には花岡貿易商事株式会社、代表取締役社長花岡誠一郎と記されていた。
「ありがとうございます。頂戴いたします」
早川は名刺を丁重に受け取った。
「さ、さ、座布団にお座りください。慣れない正座だと足がしびれますから、足を崩して楽にしてくださいよ。私もそうさせてもらいます」
亜希子の父親誠一郎はあぐらをかいた。
「お言葉に甘えまして、失礼します」
早川も頭を下げて座布団にあぐらをかいた。
「粗茶ですが、熱いうちにどうぞ」
母親が早川の顔を見ながら微笑んだ。誠一郎は眼鏡を鼻の下にずらし、手にした名刺をじっと見ていた。
「このC&Tプロジェクトというのは?」
「はい。チャレンジ・アンド・トップのイニシャルからきています。挑戦して一番になろうというキャッチフレーズです。会社は来年国際設計コンペに参加するのですが、それの特別部隊です」
「ほー、その部隊のリーダーか」
誠一郎は、早川の顔をチラッと見てまた名刺に目を落とした。
「国際設計コンペだと、世界中の設計技師達との戦いとなる訳かな?」
「はい、そうです。とても太刀打ちできないと思いますが、何とか頑張ってみようかと思っています」
「ところで、亜希子のことだが、……亜希子から君のことはさんざん聞かされているけど、今日はそのことで足を運んでくれたんだね?」
亜希子の父誠一郎が、早川の顔を見つめながら話を変えた。早川は正座の姿勢になった。
「あ、すみません。申し遅れました。……はい。そうです。ご両親にご挨拶をと思いまして参りました」
「で、回りくどいことは嫌いだから単刀直入に言うが、亜希子のことをどういう具合に思っているのかな?」
「はい。お許し願えれば、結婚をさせていただけないかと思っております」
「そうか。亜希子から聞いたと思うが、亜希子には養子婿を迎えて、会社を継がせようと思っていたんだよな」
「はい。そのように聞いております」
「ところが、こいつがどうしても聞き入れてくれない、家出も辞さない構えに、ほとほと困ってしまって、とうとう根負けしてしまったんだよ」
「……」
「苦労して苦労して、会社もやっとここまで来たのだから、という思いが強くてなあ。どうしても後継ぎが欲しかった。正直、会社を手放すことに、なかなか踏ん切りがつかなくて悩んでいたんだよ。そこへ持ってきて、亜希子の考えや態度を見て火に油だよな。最初は怒り心頭だった。親の言うことが聞けないのかっ、なんて思ったもんだよ」
「……」
「しかし、親にとってはかけがえのない娘たちが、だんだん可哀想に思えてきてな。よく考えてみたら、親のエゴで娘たちに物事を押し付けてしまうのは、良くないなと思うようになったんだよな」
「はい」
「一代で築き上げた会社だけど、人間どうせ死ぬんだし、いつまでも会社にしがみついて生きていくより、幸いに蓄えも多少できたことだし、これからの人生をこの母親とゆったり暮らしていくのも、一つの人生じゃないかと思い直したんだよな。……この母親にも、ずいぶん苦労かけてしまったからな。罪の償いじゃないけど、せめて残り少ない時間を、2人して手を取り合っていけたら、この母親もきっと喜んでくれるんじゃないかと思ったのさ。そう思った瞬間から、急に事業意欲がなくなってしまったよ。あははは」
花岡誠一郎の顔は、幾分寂しげではあったが、自分で決めたことに対する満足感が溢れていた。
「会社は他人に譲ってのんびり暮らすよ、なァー母さん?」
亜希子から聞いた話では、この話を聞いて母は泣いていたとか。しかし、今日の母親はニコニコ笑って頷いた。幸せそのものの顔である。
「ところで君の両親は? まだ健在なのか? 亜希子からは鹿児島生まれだと聞いていたが」
「はい。鹿児島です。父親は他界しました。田舎で年老いた母が暮らしています」
「お母さんの面倒は見なくてもいいのかな?」
「近くに住んでいる姉夫婦が、将来は親の面倒を見ることになっています」
「どうして一緒に暮らさないのだ?」
「母は、元気なうちは、子供に面倒見て貰いたくないと言うものですから」
「なるほど」
「私は母の生き方に賛成しています。いつかは姉夫婦の世話になるでしょうが、自分の人生ですから、せめて元気な間は、母親の思い通りにさせたほうがいいのではと思っています」
「そうだね。それはいいことだ賛成だね」
「そう言っていただくと、とても嬉しく思います。ありがとうございます。田舎から遠く離れて暮らしていますと、子供として、ましてや長男として親の傍にいてやれず、時々、これでいいのだろうかと悩む時があります。父は事業に失敗して、会社を倒産させてしまいました。それからというもの、私の母は生活にすごく苦労していました。そんな母の姿をさんざん見てきました。子供心に母の辛さが身に浸みていました。ですから、なおさらです。……あ、すみません。余計な話をしてしまいまして……」
この時、誠一郎は早川の人となりを理解した。亜希子が頑なに、親の言うことに耳を傾けなかった理由がようやく分った。亜希子の人生は、この男がきっと幸せにしてくれそうな気がした。後はこの男に全て任せようと思った。
「よっしゃ、分った。早川君ろくな教育もしていないから、君も苦労するだろうが、亜希子のことをよろしく頼む」
出たー。亜希子よりも真理子が手を叩かんばかりに喜色満面になった。母親は誠一郎の顔を見て、よくぞ決心したと小さく手を叩いた。亜希子の顔は、この瞬間を待っていたかのように、真理子と母親の顔を見て喜んだ。早川の父親との胸のすくようなやり取りを見ていて、改めて男としての魅力を感じた。凄い男だと思った。
「ありがとうございます。亜希子さんを世界一の幸せ者にします。よろしくお願いいたします」
「いやいや、世界一じゃなくてもいいよ、日本一で充分だよ。な、亜希子。……良かったな」
誠一郎の顔は安堵感で一杯だった。厳しかった顔が、柔和な顔になり父親の顔になった。
「はい。長野一でもいいです」
「あっはは、だな、いやァー良かった、良かった。……真理子お茶が冷めてるぞ、お茶だ」
「はーい」
真理子がすっと立ち上がって、飛ぶように部屋を出て行った。
「早川さんは、将来はどうされるんですか? 田舎にお帰りになるんですか?」
母親の花岡典子が真剣な顔で聞いてきた。
「いえ、仕事柄、おそらく東京にずっといることになると思います。ごみごみした所ですので、あまり好きではないのですが、ビジネス的には魅力のある都市だと思っています。それに、此処とはそう遠くありませんから、何かといいのではと思います」
「そうですか。正直に言いますと、鹿児島に帰られては、余りにも遠い所ですから心配していました。今のお話をお聞きして安心しました。私からも、亜希子のことよろしくお願いします」
母親らしい話しぶりである。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「早川君には、田舎のお姉さん以外に兄弟はいるのか?」
誠一郎が尋ねてきた。
「はい。弟がいます」
「何処で何をしてるんだ?」
「神戸の通商会社に勤務しています」
「ほー、その会社で、どんな仕事に携わっているんだい?」
「営業主任を任されているようです」
「たまには兄弟で会うことがあるのかい?」
「はい。盆と正月に田舎で会います。それ以外は、私が神戸に行ったり、弟が東京に出張の際に会ったり、たまに、中間の名古屋で会ったりしています」
「そうか、仲がいいんだ」
「はい。たった1人の弟ですから、出来るだけ会う機会を作っています。弟とは、包み隠さず何でも話し合っています」
「そうか、それはいいことだね。まだ独身か?」
「そうです」
「ずぅーっと今の会社にいるつもりなんだろうか?」
「さー、分りません。弟は実直で真面目過ぎるぐらいの所があるのですが、この前会った時に、都会の暮らしが性に合わないと言っていまして、田舎に帰って姉の手伝いでもするかなあ、なんてこぼしていました。悩んでいるみたいでした」
「会社で嫌なことでもあったのかな」
「いえ、それはないみたいです。ま、将来に対して、丁度悩む時期なのではないでしょうか」
「お姉さんの所は何してるんだ?」
「農業です」
「そうか、通商会社で営業主任までして農業とは勿体ない話だな」
「私も同じことを言いました。兄の私が言うのもなんですが、頭もそこそこいいですし、何よりも、広い視野で物事を判断する能力があると思っています。時々、私も見習わなければと思う時があります」
「そうか。ま、兄弟仲良くして、お互い切磋琢磨して頑張るといいよ」
「ありがとうございます」
誠一郎が時計を見た。
「早川君、すまんが俺はこれで離席する。来週から長期出張に出るから、その準備をしなくてはならない」
「いろいろありがとうございました。失礼します」
早川は座布団を外し、畳に手をついて深く頭を下げた。
「母さんと真理子も一緒に来て手伝ってくれ」
3人は部屋から出て行った。真理子は広縁に出た時、にっこり笑って手を挙げて亜希子にウィンクした。嵐の前の静けさではない。嵐の後の静けさだ。何事もなかったかのような静けさだ。
亜希子は父親が柄にもなく、早川と2人きりになるよう気を利かしたのだと思った。結構優しいところがあるじゃないか。
こうして、悟と亜希子の最大の難関が解決した。 残された悟と亜希子は手を取り合った。ヤッターと叫びたいくらいである。
「お父さんたち、俺たちに気を利かしたんだね。いいとこあるじゃない」
「うふ、もう完全に白旗を上げたのよ。でも少し可哀想だったね」
亜希子は父親の気持ちを思いやった。
「だね、何だかね」
「……今、ここを片付けるから、ここで待っててね。済んだら私の部屋に行きましょ?」
亜希子がテーブルの上を片付け始めた。
「いいね。後片付け手伝おうか?」
「そんなことしなくていいのっ。座ってて」
奥の階段を上り、亜希子の部屋に入ってドアを閉めた。入るなり2人は無意識に強く抱き合ってキスをした。
「悟さん、亜希子嬉しいっ、……とっても嬉しい。一時はどうなるかと思ったのよ」
「あは、こっちも冷や冷やもんだよ。話に聞いていたから、いつ癇癪玉が飛んでくるかとね」
「でも、やっぱり悟さんて頼もしいわね」
「そうかなあ、背中は冷や汗だったよ、あはは」
「でも良かった、……ほっとしたわ」
「そうだね。ほんと良かった。……やっと夢がかないそうだね」
「ねえー、お願いがあるんだけど」
「うん、……何?」
「来週の土曜日に両親が出張するでしょう?」
「うん」
「その時成田に行って両親を見送らない? 2人で」
「おー、それはいいね。いい考えだね。妹さんは?」
「ダメッ、みんながいなくなると困るから、留守番してもらうの」
「そっか、……ほんとは連れていってあげたほうがいいと思うけど、……アキと2人きりのほうがいいしねー、……困ったね」
「でしょう? 冷たいと思う?」
「いや、仕方ないさ、この埋め合わせを、またいつかすればいいさ」
「そうね。じゃあそうする?」
「いいね。きっとご両親も喜んでくれるね」
「ええ、そう思うわ。……うふ、嬉しいわ」
亜希子はまたキスを求めてきた。
「結構綺麗にしてるんだね」
早川は改めて部屋を見回した。女の子らしい飾りがしてあって、綺麗に片付いていた。
「だって、悟さんが来たとき片付いていないと、がっかりするでしょう?」
「いや、この雰囲気はにわか仕立てじゃないね、いつも綺麗にしてる雰囲気だよ」
「あら、どうして分るの?」
「これでも建築のデザイナーだよ。そのくらいのことが分らずしてどうするの」
「さすがね見直したわ」
「あは、サンキュー」
亜希子は机の引き出しを引き、中から封筒を出した。
「あのね? これ読んで欲しいの」
封筒の中から便箋を取り出して悟に渡した。
「何なのこれ」
「読んだら分るわ。読み終わったら、修正したほうがいい所や感想を聞かせてね」
達筆だった。
「達筆だね」
「どうせ一日中暇だったから、一生懸命練習したの」
「そうか、読みやすい綺麗な字だね」
悟は、亜希子の書いた手紙をゆっくりと読み始めた。
亜希子が生まれて初めて書く、お父様への手紙です。読み終わったら、お母様にも見せてね。
亜希子がこれまで考えていたことや、お父様に対して感じていたことを、ありのまま素直に書きます。お父様が怒りたくなるようなことや、生意気なことも書いてあると思いますが、どうか最後まで、冷静になってお読みください。お願いします。
事業に邁進している時は家庭どころではない。他社との競合に勝たねばならないという思いと、事業の発展の為に必死になるのは、どこの経営者も同じだと思います。その為に、家族が犠牲になるケースは、何も我が家だけではありません。どこでもあることだと思います。
しかしこの間、亜希子との話し合いの中で、そういうプレッシャーから解放され、1人の優しい父親としてこれからを歩んでいくのだと、お父さんは言ってくれました。なかなか出来ることではないと思っています。男のロマンを投げ捨てて、家族の愛に包まれて余生を生きて行きたいなんて、泣かせるセリフです。
お父さんは、男の子が出来なかったことに、一生の不覚とも言っていましたね。しかし、出来なくて良かったんじゃない? と言いたいです。何故かと言いますと、死の直前まで父親を取り戻せないまま、あの世のご厄介にならなければならないなんて、何と寂しいことか何と残酷なことかと思うからです。
お父さんがそのような決心をせざるを得なかった原因が、この亜希子のせいだとしたら、うふ、私は最高の親孝行をしたことになるのではありませんか?
今だから言えることがあります。
何を隠しましょう、私はお父さんに、ことごとく反抗し続けてきました。お母さんの余りにも可哀想な姿を見て、お父さんが許せなかったのです。もちろん、家族を養うために事業に熱中することは、百歩譲って良しとしましょう。でも、それだけではなかった筈です。家族の幸せ家族の絆のことを、爪の垢ほどでも考えてくれたら、お父さんに反抗するというような考えには至らなかったと思います。
私は大人になるにしたがって、自分の都合の良い時だけ父親風を振りかざすお父さんの考え方に、ついて行けなくなったのです。お父さんは、私達2人の娘を箱入り娘にしておきたかった。お父さんのその心が、何か仕事をしたい、社会との接点を持ちたいと願う2人の娘の気持を、ただ理由もなく受け入れようとしなかった。そうですよね? そんな時、なぜ娘を自分の会社で働かそうとか、後々の為に実務を体験させておこうとかいう考えに及ばなかったのですか? そうしたら、少しは状況も変わってきたと思います。私だって、ちゃんと仕事を覚えれば、そんじょそこらの男性よりも仕事が出来ると思っていました。
今は女性の多くの人達が第一線で活躍しています。いえ、むしろ男性よりも高い能力を発揮している企業があるとも聞いています。時々、私が社長だったらこうするのに、なんて考えたこともあります。お父さんの会社で働いている間に、養子縁組のことも真剣に考えたかもしれませんよ。
年頃の娘をただ、言葉は悪いけど、事業の奴隷としか考えないお父さんに、父親としての資格はないと思いました。娘は娘なりの、1人の人間としての人生があると、どうして思えなかったのですか? それが親というものじゃないのですか?
見合いの話も随分ありました。その度に、頑なに拒み続ける私を見て、何故そうなるのだと、一度でも私の心に寄り添って考えた事がありますか? ないでしょう? そんなお父さんが、よくも従業員を教育出来るものだと思ったこともありました。給料さえ渡せば何も文句はないだろう、と言いたいのかもしれませんが、ほんとに会社の将来を考えるのなら、優秀な人材を育てたいのなら、やはり、人の心に寄り添った経営をすべきだと思います。間違っていますか? 事業経営は、そんなに甘いもんじゃないよ、お前らに経営の何が分るというのだ、とおっしゃるならそれでもいいでしょう。でも、これだけは言えると思います。人の心を大切にしたい、優秀な人材がどうしても必要だと思えない経営者の末路は、自ずと見えてくるのじゃないでしょうか。
社内で権力争いがあることを私は知っています。人間の欲が悲しい事態を引き起こしてきた例は、世の中枚挙にいとまがありません。そのようになる原因は何なのでしょうか? 経営者が尊敬できない? それもあるでしょう。しかし一番の原因は、経営者をはじめ構成員である社員の一人一人の人間性やモラルの欠如じゃないでしょうか。優秀な人材を育てることを怠った結果が、権力争いという最も醜い事態になったのではないのでしょうか。
私が婿を迎えようとしないから、跡継ぎがいないから、会社を手放そうと思うようになった、とおっしゃいましたが、ほんとにそれだけでしょうか。厳しい言い方になってしまいますが、結果として自分が蒔いた社内の権力争いに嫌気がさして、それから逃げようと考えたのではないですか?
私は毎日がいたたまれなかったのです。このままでは、私も妹もノイローゼになってしまうとほんとに思いました。私はある日、束の間だと思いながらも、友達の君子を誘って博多への旅を考えました。心の洗濯をしたかったのです。気分を紛らわせたかったのです。そうでもしないと、死んでしまいそうな毎日だったからです。妹も一緒にと思ったのですが、2人が家を空けるとなると、それこそ何を言われるか分りません。妹には、ごめんと言って旅に出たのです。
その旅先で、早川悟という青年と知り合えるなんて、いまだに考えも及びません。まさに、奇跡という言葉以外の言葉を私は知りません。
私は今、お父さんに心から感謝しています。亜希子と真理子の、ほんとうの意味での父親になってくれましたね。嬉しくて嬉しくて仕方ありません。ありがとう。そして、何よりもこのことを叫びたいです。お父さんのお蔭で、世界で一番素晴らしい人に巡り合うことが出来ました、と。
今のお父さんでしたら、たかが娘の言うことだと、懐の深さで許してもらえるのではという思いで、思いのままを書きました。ですからお父さんの気に障るようなことも書いたと思います。お許しください。お父さんは今、まさに人生の節目に差し掛かってきているように思います。ある意味、とても大切な時期なのかもしれませんね。そんな大切な時に出た、娘、亜希子の我が儘を、ま、良かろう、と、寛大に受け止めていただければとても嬉しく思います。
お父さんが、ほんとのお父さんになってくれたことを、心の底から嬉しく思っています。多分、妹の真理子も同じ思いだと思います。亜希子はこの喜びを表す形容詞を見つけることが出来ません。
……ありがとう。おとうさん。
最後に亜希子からのお願いです。
もうこれ以上お母さんを泣かしては駄目よ。大事にしてあげてくださいね。お願いします。出張ですからそんな気分じゃないかもしれませんが、せっかくお母様も一緒ですから、旅行は思い切り楽しんでください。もしかしたら、夫婦で旅行するのは、今度が最後になるかもしれませんからね。
最後まで読んでくれて、ありがとう。
どうか、いつまでも元気でいてくださいね。
亜希子より
悟は読み終わって亜希子の目をじっと見つめた。
「良く書けているね。素晴らしいよ。お父さんきっと喜ぶと思うよ」
「訂正するところない?」
「ない。実に良く書けている。……感心したよ」
「ありがとう」
「これをどうするの?」
「成田空港で渡すの。出発の直前にね。飛行機の中で読んでねと言って」
「うんうん。いいねぇー。……良く考えたね、そんなこと」
「エヘン、……お利口でしょう?」
「さすが俺が惚れただけのことはあるね」
「あら、嬉しい」
「お父さんもお母さんも、これを読んで多分号泣するね」
「あら、そうなるかしら」
「そうなると思う。きっとなる。そして向こう、何処だったけ、サンフランシスコだったっけ?」
「そうよ」
「サンフランシスコに着いてから携帯に電話が入るよ」
「なんて?」
「早川君とのことはすぐ解消しろ、と」
亜希子はびっくりしたような顔になった。
「えェー、どうして?」
「だって、書いてあるじゃない。ほらここ」
悟は便箋を指差した。
「お父さんの会社で働いている間に、養子縁組のことも真剣に考えたかもしれませんよって、ここ」
「えっ、そういう風にとるかしら、でもこの場に及んでそれはないと思うけど」
「いやいや、あるかもよ。なるほど、そういう手があったか、ウヒヒ、いい手を教えてくれた、なんて言ってね」
「じゃあ、ここの部分は消しておいたほうがいいと思う?」
「いや、そのままのほうがいいと思う」
「でも、ほんとにすぐ解消しろと言われたら、……どうするの?」
「そうだね、そのようにしたら?」
「えっ、私が父の会社に勤めるの?」
「そう」
「やだー、今更」
「俺が養子になったら、全て解決じゃん」
「うっそー、そんなこと出来る訳ないでしょう?」
「あはは、だね。冗談だよ。大丈夫だよそんな電話掛りっこないよ。……あるとすれば」
「あるとすれば?」
「亜希子、ありがとう、ありがとうと言って電話口で号泣する」
「それも考えられないわ。父はそんことが出来る人じゃないと思う」
「でも、人間て分らないよ。急に気が弱くなるってことあるからねー。急に老けたりしてね」
「そうね、それは考えられないことはないわね」
その時ドアをノックする音が聞こえた。悟と亜希子は同時に顔を見合わせた。
「はい? 誰? 真理子なの?」
「そうよ。入っていい?」
「ええ、いいわよどうぞ」
真理子がドアを開けて入ってきた。悟に一礼した。
「姉さん、お邪魔じゃなかった?」
「ふふ、お邪魔よ、……嘘よ。丁度良かった」
「うん、何?」
「いま、早川さんに読んでもらったんだけど、真理子も読んでくれる?」
亜希子は真理子に便箋を渡した。
「あら、手紙? 誰宛なの?」
「お父さんよ」
「えっ、お父さんに?」
真理子は手紙を読み始めた。
「正直な感想聞かせてね」
真理子は読み終わって亜希子を見た。
「お姉さんは、これをお父さんに読んでもらうことで、今までのわだかまりを綺麗さっぱり洗い流して、新しく親子の関係を築いていこうと考えているのね」
「さすが私の妹ね、ずばりその通りよ。……どう思う?」
「大賛成だわ。姉さんて、さすがね。やっぱり考えていることがどこか違うね。……とてもいいと思う」
「悟さんも、良く書けてると言ってくださったの」
「良かったね。苦労した甲斐があったね」
真理子が姉の亜希子に向かって思いやった。
「でも、ちょっと気になるところが」
「気になるところ? どこ?」
亜希子が便箋を覗き込んだ。
「お父さんの会社で働いている間に、養子縁組のことも真剣に考えたかもしれませんよって、ここ」
「あら悟さんと同じこと言うわね。……大丈夫よ」
「お姉さんは大丈夫かもしれないけど、なるほどそういう手があったか、いい手を教えてくれたと思って、私に振ってくるんじゃない?」
「あっ、なるほどそれは考えられるね」
亜希子はとっさに悟の顔を見た。
「なるほど、当然考えられることだね。一旦は現役を退くようなことを言っといて、いい手が見つかったと、なるほど、今度は妹さんにねェー」
「えっ、でもやっぱりこの場に及んでそれはないと思うけど、悟さんの前で、あれだけ啖呵を切ったんだから」
「私、お父さんが言うんだったら、それでもいいけど」
真理子がポツリともらした。
「真理子何を言うのよ、お父さんの会社で仕事するの、死んでも嫌だと言ってたじゃないの」
「うん、でも、ちょこっとだけど、養子縁組でもいいやと思ってた時があったでしょう?」
「うん、そうね」
「あの時に一瞬だけど、お父さんの会社で仕事する羽目になるのだと思ったことがあったの」
「うん、なるほど」
「だからこの際、心を決めてもいいかなって思ったの」
「心を決める? 何をどう決めるのよ」
「だって、お姉さんは早川さんの所に行くでしょう? そうしたら、この家にいるのは私だけでしょう? お父さんやお母さんの老後のことを考えたら、養子縁組とかいうことじゃなくても、傍にいてあげたほうがいいのかなと思ったの」
亜希子は、真理子がそこまで考えていたことに少なからず驚いた。真理子の顔をじっと見て言った。
「真理子、それって、いつから思うようになったの?」
「さっき、お父さんと早川さんがやりあっていた時よ。ふっと、そういう風に思ったの」
「そう、……そうなの。……そうよね、会社のことはともかく、お父さんお母さんの老後のことねェー。真理子がそこまで考えているなんて驚いたわ」
「だから、お父さんの会社で仕事したら、ずーっと傍におれるでしょう? だって、私まで親元を離れたら可哀想だもの」
「……悟さんどう思う?」
亜希子が悟に救いを求めた。
「妹さんの気持はとてもよく分るけど、ここで結論出す必要ないと思うよ、後でゆっくり話し合ったほうがいいと思う」
「そうよね。真理子そうしよう、ねっ?」
「ええ、いいわよ」
「じゃあ、ここの部分は、やっぱり消したほうがいいかしら」
亜希子が心配した。
「いや、そのままでいいと思う。あれだけのことを言ったお父さんが、まさか話を振り出しに戻すようなことは言わないと思う。万一、そのようなことになったらなったで、その時考えよう。だから、その部分は残しといて、お父さんがどういう風に出てくるか見てみようよ。これも一つの楽しみだよ」
「そうよね。意外と全く話にも出なかったりしてね」
「そうだよ、そういうことも考えられるから心配したことないよ。ところで、えーと、何と呼んだらいい?」
悟は真理子に顔を向けた。
「私のこと?」
「そう。真理子さんでもいいけどちょっと堅いしね。真理ちゃん? リコちゃん?」
「友達はマリちゃんって呼んでくれてるけど、どちらでもいいです。呼び捨ての方が嬉しいな」
「そっか、じゃあさ、これからは、……えェーとね、利口な人と言う意味も込めて、……リコでいこうかな。……いい?」
「わァー、嬉しい。はい。いいです。……呼んでみてください」
「あは照れるね、……リコ」
「わァー、いい響き、ね、お姉さん?」
「良かったね、じゃあ、私も真理子のことを、これからリコって呼ぼうかしら」
「うんうん。そう呼んで?」
「じゃあ、……リコ、……は、悟さんのことどう呼ぶの?」
「言ってもいい?」
真理子は待ってましたとばかりにはしゃぎだした。
「言ってみて」
「悟お兄さん」
「まあ、この子ったら、まだ早くない?」
「そうかしら、……ダメッ?」
真理子は悟の顔を見た。
「あは、どうしようか、……ま、悟としましては、……エヘン」
悟はおどけてみせた。
「早く言って」
「悟としましては、エヘン、……とても嬉しい気分であるぞえ」
悟は胸をそらした。亜希子も真理子も大きな声で笑った。
「じゃあ、いいのね、……お姉さん、……いいのね?」
真理子は亜希子の手を取って言った。
「もう、真理子ったら、……好きにしたら。……だけど、まだ、お父さんたちの前では禁句よ、……分った?」
「うん。分った。そうする。……悟お兄さん、……ありがとう。なんだか、……いい感じ」
「生まれて初めて言われたから、何だか照れるけど、とってもいい気分だね。……うん。これからも宜しくね、改めてお願いします」
悟は照れ笑いしながら、真理子の明るく美しい顔を見た。
「こちらこそ、お願いします」
「真理子、良かったね」
「ありがとう。……ウレシイ」
真理子はぺこりと頭を下げた。悟は真理子の無邪気な姿を見て、この2人の愛を感じた。どんな時も2人で手を取り合ってきたことが良く分る。
「真理子、何か用事があったんじゃないの?」
「あら、すっかり忘れてた。食事まで余り時間がないけど、その前に、3人でコーヒーでもどうかなと思ったもんだから」
「さすが気が利く子だこと。ね、悟さん?」
「そうだね、嬉しいね。いい妹さんを持って君は幸せもんだね」
「私の自慢の妹です。……じゃあ、リビングに行きましょうか」
真理子は悟に褒められてルンルンになった。2人より先に階段を駆け下りた。
コーヒーを飲みながら悟が真理子に言った。
「彼とはうまくいってるの?」
「えっ」
真理子は少し慌てた様子で亜希子を見た。
「この前のお父さんとの会話、悟さんに話してあるのよ」
「そう」
真理子は暗い顔になった。
「ごめん。悪いことを言ったみたいだね。悪かった、ごめん」
「いえ、構いません。いいのです」
「真理子、……リコだったね。話しにくかったら、私からお話ししようか?」
「私のお兄さんになっていただく人だから、私からちゃんとお話しします」
「そうね。そのほうがいいわね」
「はい、実は、……」
真理子が思い出したくなさそうな顔をした。
「無理して話さなくてもいいんだよ、ただ、何となく気になっていたもんだからね」
「ありがとうございます。お話しします。……聞いてください」
「うん」
「彼とは別れました」
「えっ、どうして?」
「却って良かったんです。父の言う通りでした」
「と言うと? ……婿養子の話がなくなったから、彼のマリに対する熱が急に冷めたってこと?」
「はい。その通りです。全く情けない話ですね」
「そっかー、そうだったのか。それにしても最低の男だね。……あ、ごめん。悪いこと言っちゃった」
「いえ、その通りです。最低の男でした。そんなに深い付き合いじゃありませんでしたから、それが幸いと言えば幸いでしたけど」
「そうか。……辛かったね、でも、そのうちいい話もあると思うから、元気出そうよ」
姉に言われても泣かないのに、どうしてだろう。悟の言葉を聞いて真理子は泣き出した。
「ごめんな。悪かった。思い出したくないことを思い出させてしまったね。……俺も配慮が足りないなあ」
「そんなことありません。リコは却って良かったと思っていますから、一時的な感傷よね、リコ」
「はい。姉の言うとおりです。そんなことぐらいで、くよくよする真理子ではございません」
真理子は、涙をハンカチで拭きながら強がって見せた。
「話は変わるけど、リコは仕事したいの?」
「はい。ブラブラしているのもどうかと思います。何か仕事したいです」
「そう。じゃあさ、これは兄からの、……ヘヘヘ、ちょっとまずいかな?」
「いいえ、嬉しいです。続けてください」
「兄貴の提案として聞いて欲しいんだけど、思い切ってお父さんに言ってみたら?」
「えっ、……なんて?」
「お父さんの会社で仕事させて、って」
「え、えェー、そんなの絶対だめだと思う。許す筈がないと思います」
「そうかなあ、今のお父さんは、もう昔のお父さんじゃないと思うんだよ。この兄さんと亜希子姉さんの結婚を承諾した。お父さんにしてみれば、とても大変な決断をしたことになり、一つの大きな節目が来たと感じてる筈なんだよ。もちろん、婿養子の話は消えてしまったけど、今は、そんなことはもうどうでもいいという心境だと思うんだよ」
「ええ」
「そうなると、後は家族の幸せのことを考えるのが普通だと思うんだよ。もちろん、あれだけのお父さんだから、何だかんだ言ったって、娘たちの幸せを願わないなんてことはない筈だから、今だったらきっと許してくれると思うけどなあ」
「そうね、以前とは状況が変わったってことよね」
亜希子が相槌を打った。
「お父さんも言ってたじゃない、親のエゴで、娘たちに物事を押し付けてしまうのは良くないなと思うようになったんだ、って」
「ええ、そう言っていましたね」
「むしろ、喜んでくれそうな気がするんだよ。だから、今がチャンスかもよ? どう思う? リコは」
「何となくそんな気がしてきたわ。さすが、私のお兄さんね読みが鋭い」
「まあ、リコったら調子に乗って、コラッ」
「ふふ、ごめんなさい」
「でも、いつがいいのかしら。来週出張するでしょう? その前かしら。出張から帰ってからかしら」
亜希子が悟の顔を見て言った。
「出張前のほうがいいと思うよ。今度の出張は、お母さんも一緒だから少しは旅行気分もあって、割合心にゆとりっていうか、じっくり考える時間もあると思うんだよ。そういう時ってほら、何でも許してやろうという気になり易いと思うんだよ。他でもない我が娘のたっての願いだものね」
「そっかー、今がチャンスなんだ」
「その代り、一旦言い出したからには、リコは絶対に最後までやり遂げる覚悟がないと、それこそ後々困ることになってしまうよ。なーんだ偉そうなことを言って、やっぱり社長の娘は社長の娘だよ、もう辞めたのかよ、あはは、……なんてね。変なレッテルが張られてしまう。このレッテルが、これは一生付きまとってくるんだよ、分るよね?」
「はい」
「一般の会社の場合は、いつ辞めても何とも言われないけど、同族会社の場合はそうはいかない。一番難しいところなんだよ」
「ええ」
「軽はずみなことでは出来ないことだよ。こういうことは、しっかりとした考えに立って、誰に指図された訳じゃない、自分自身で決めた自分の人生なんだと、固く信じて突き進む気概がないと出来ることではないよ。……分る?」
「良く分ります」
「じゃあさ、リコが考えている気持を、お姉さんのように、素直に手紙にしたためて、情熱をもって懇願してごらん。きっと、お父さんは許してくれる筈だよ」
真理子は生まれて初めて、自分の人生のことについて考えさせられた。自分の甘い考えを指摘されたような気がした。親に不満を持つ前に、自分はどうなんだと言われているような気がした。もっとしっかりしろ、と言われているような気がした。
「お父さんから許しが出たら、それこそ一生懸命になって働くことだよ。最初は、知らないことばかりだから、周りから何だかんだと言われたり、場合によっては、社長の娘さんということで、言いたいことも言えない人もいるかもしれない、それは一つに、リコの考え方や行動によって引き起こされると考えたほうがいいんだよ。つまり社長の娘という意識を捨て去ることだよね。1人の社員として、分らないことはとことん聞く。知ったかぶりをしない。仕事に好き嫌いを言わない。心を広く持って、何でも喜んで引き受ける。誰よりも早く出社して、誰よりも遅く退社する。そうすることで、みんなが心を開いてくれて、リコ自身がとっても仕事がし易くなる。これを、とことん貫き通せば、みんながリコを認めるようになると思う」
「お兄さん、私、手紙を書きます」
「そうだね。そうしたほうがいいと思う。そして、書いたものをお姉さんに見て貰って、良いということになったら、お姉さんの手紙と一緒に空港で渡すといいよ」
「えっ、そういうことになってるの? 成田まで見送りに行くの? 私も行きたい」
「手紙は私がちゃんと渡すから、リコは留守番して。……だって、誰も居なくなったらまずいでしょう?」
「そっか、そうだよね。……うん、分った。……早速手紙書かなくっちゃ」
「良かったね、お兄さんにいいアドバイスしてもらって」
「うん。姉さん私とっても嬉しい。……こんなの初めてよ」
「これからは、お兄さんがついていて下さるから、困った時は何でも相談するといいわ。……だから、思い切ってリコの人生を歩んで行ってね。これは私からもお願いします」
亜希子は可愛い妹の顔をじっと見て諭すように話した。真理子は胸にジーンとくるものを感じた。
「リコも今までいろいろあったと思う。でも、人生はこれからだと思えば、元気も湧いて来るし楽しくもなるさ。さっきの別れ話も、神様が微笑んで導いてくれたんだと思えば、気も晴れるだろ?」
悟の優しい言葉が身に浸みた。
「……」
「世の中は思わぬことも起こるし、それによって右往左往することもあると思うけど、そういう時は、この3人で知恵を出し合っていけば、ちっとも困ることにはならないと思う。縁があって、こうして絆が持てた訳だから、これを大切にして人生を歩んで行けたら最高だと思う」
「はい」
「リコのことはお姉さんと同じように、この俺がしっかり守っていくから、リコの思う人生を、思い切り羽ばたいてごらん」
ここまで聞いて真理子は、亜希子の胸に頭を埋めて号泣した。今まで、心の奥深く溜まっていた何かが、ドロドロと溶け出していくような感じがして、思わず泣けてきたのである。
「お姉さん、わたし、わたし……」
「これからも一緒に頑張ろうね」
亜希子がまた泣けるようなことを言ったもんだから、真理子は益々大きな声で泣きじゃくった。
「ほら、ほら、せっかくの美貌が台無しだよ。もうすぐ食事だから、お父さんたちに見られたらまずいよ。洗面所に行ってきたら?」
悟が気遣った。何と優しい人なのこの人は。却ってまた泣けてくるじゃない。真理子は洗面所に向かった。
亜希子の父親、花岡誠一郎は食事中終始上機嫌だった。余程嬉しかったのか、悟に向かって、来週末にアメリカに行くが、一緒に行かないかと真顔で言う始末である。母親の花岡典子は、亜希子と早川の顔を何度も見て、時々ハンカチを目に当てていた。妹の真理子は、頼もしい兄貴の出現にことのほか喜んでくれた。真理子は自慢のデジカメを持って、所構わずシャッターを押していた。
その後、3人でリンゴ園に車を走らせた。ここでも、真理子は飛び跳ねながらデジカメのシャッターをおした。亜希子と悟のツーショットを撮ったり、悟とのツーショットを亜希子に頼んだりしていた。悟を真ん中にして3人で写真を撮ったりした。自動シャッターがジィーパシャという音がする寸前に、真理子が悟の腕にしがみついてきた。リプレイ画像には、はにかんだ顔で、悟の腕にしがみつきながらVサインをしている真理子の姿がばっちり映っていた。真理子は、ヤッターと言わんばかりの顔をしながら、ルンルン気分で、ステップしながら2人から離れて行った。
悟は、赤く熟したリンゴが、たわわにぶら下がっている光景を生まれて初めて見た。悟は真理子が少し遠くにいるのを見て、亜希子の耳元でそっと囁いた。
「アキのリンゴより大分小さいね」
亜希子の顔が少し赤らんだ。
「まあ、こんな所であきれた。うふふ」
「大きさもだけど、此処のリンゴの味は、アキのよりもまずそう」
「コラッ、長野県のリンゴの味は日本一ですっ」
2人は笑い転げた。それを遠くで見ていた真理子が、手を振りながら近づいてきた。
「ずいぶん楽しそうじゃない?」
「悟さんがね、……止めとこ」
亜希子は悟の目を見て吹き出しそうになった。
「何よ、何なの?」
亜希子は仕方なく、とっさに作り話を思いついた。
「悟さんがね」
「ええ」
「リコって、リンゴ姫みたいだね、と言ったの」
「リンゴ姫? それで?」
「私が、じゃあ、リコリンゴと言う名前で、新種で売り出そうかと言ったら、悟さんがね、売れるかなあと言ったの」
「ま、失礼ね」
「でしょう? 私も同じことを言ったの、そしたら何と言ったと思う?」
「2人が笑い転げるようなことね、さあ何だろう。……お兄さんは何と言ったの?」
「アップリコ、アップリコ」
「アップリコ? ……何なの? ……どういう意味?」
「リンゴのことをアップルっていうよね?」
「うん」
「アップルとリコをくっつけて、売れないリンゴ、売れなくて売れなくてもうアップアップ。アップリコ~、アップリコ~、そして、どんぶりこ~、どんぶりこ~」
3人は腹をかかえて笑った。悟は亜希子の機転の早さに舌を巻いた。
「リンゴ姫と言いながら、売れないリンゴだなんて、一生お嫁に行けないみたいだわ」
真理子が不満そうに言った。間髪をいれずに早川が言った。
「上流から、どんぶりこどんぶりこと流れてきたリンゴを、真理子は拾い上げて、おうちに持って帰りました」
「うん? 急に展開が変わってきた。……ちょっと、桃太郎に似てない?」
真理子は興味津々である。早川が続けた。
「そして、リンゴを二つに割ったら、中から水も滴るイケメン青年が出てきました」
「やったあー、……それでどうなったの?」
悟の顔を見て真理子が先を急がせた。
「リンゴ姫とその青年は、結婚して3人の子供が出来ました。そして、生涯幸せに暮らしました、……とさ」
真理子も亜希子も、早川の顔を見ながらにっこりと笑った。
「なるほど、いい話になってきました」
真理子が頷きながら満足そうな顔をした。
「ねェー、ねェー、その青年の名前なんて言うの?」
突然亜希子が、手と腰をハワイアン風にして踊りだし、妙なメロディーを口ずさんだからたまらない。
「その青年の名前はねェ~、アップリコ~、アップリコ~、どんぶりこ~、どんぶりこ~」
亜希子の踊る様子を見て早川と真理子は、片足を土に叩きつけ、両手で拍手喝采しながら、ありったけの大声で笑った。そして、亜希子の踊る姿が、真理子のデジカメの動画にしっかり納まってしまった。踊っていた亜希子本人も、こらえきれずに2人を見て大笑いした。動画のリプレイを見て3人はまたも大笑いとなった。
夕方になり、亜希子の両親に別れの挨拶をして駅に向かった。亜希子は、あらかじめ用意していた手土産を悟に渡した。駅のホームで、真理子の今にも泣きそうな顔を見て、悟は少し辛くなった。
「今日はいろいろありがとう。楽しかった。また近いうちに遊びに来るから元気でいてね。……笑って見送ってくれる?」
悟の言葉に真理子の顔が明るくなった。
「はい。お待ちしています」
弾けるような声になった。
「その笑顔は最高だよ。素敵だよ」
「ありがとうございます。悟お兄さん」
亜希子は悟と妹との会話を聞いていて、悟の妹に対する優しい気の使い方に、これまでにない喜びを感じた。今回のことで、おそらく、真理子の心の奥深くに、悟の人となりが刻み込まれたことだろうと思うことだった。
「リコのこと、今まで以上に大事にしてあげてな。何と言っても、この世で2人きりの姉妹だからね」
悟は亜希子に対して、せめて一緒に暮らすまでは、妹のことをかまってあげなさいと言う。
「はい。そのつもりです。……ありがとう」
亜希子は小走りに売店に向かった。そして、週刊誌と夕刊を買った。ホームに電車が滑り込んできた。別れる寂しさが募ってきた。悟は亜希子と握手して真理子とも握手した。亜希子は週刊誌と夕刊を悟に手渡した。
「今日はほんとにありがとう。……じゃあね、元気でね」
悟は車中の人になった。ドアが閉まり手を振った。姉妹も、ちぎれんばかりに手を振って別れを惜しんだ。真理子は、やはり泣いてしまった。亜希子も貰い泣きしそうだったが抑えた。悟の存在感を、いまさらながら大きく感じた。電車が消え入るように小さくなるのを見届けて、今日は何の記念日だろうか。ふと、亜希子は電話して悟に聞いてみようと思った。
その晩亜希子から電話があった。
「おー、アキ、今日はありがとう。楽しかったよ」
「夕ご飯は? もう食べたの?」
「さっき済ませた」
「そう、美味しかった?」
「そうだなあ、まあまあだったかな」
「アキも、もっともっとお料理の勉強しておかないといけないね」
「だね、今の腕前でも充分だと思うけど、家に帰っったら何と言っても楽しみは食事だからね」
「それだけ?」
「……あ、うん、もう一つあるね、あれも勉強するの?」
「うーん、どうしようかしら、そんなこと教えてくれる学校あるかしら、ふふふ」
「おいおい、ある訳ないでしょう? 学校なんか行かなくても、今でも優等生だよ」
「うふ、ほんと? ほんとにそう思ってくださるの?」
「今度、表彰式をしよう。右の者、特に優秀につきここに表彰する」
「金一封付?」
「もちろん、つけなかったら意味ないじゃん」
電話先で、亜希子が笑い転げているのが分った。
「傍に誰かいるんじゃないの?」
「いいえ。今、自分の部屋からだから大丈夫よ」
「話変わるけど、ほんとにいい妹さんだね。つくづく思ったよ」
「でしょう? でもね、あれから大変だったのよ」
「えっ、何があったの?」
「リコが、ホームで泣き出しちゃって、もう大変」
「リコにとっては、今日はよく泣く日だったみたいだね」
「そうね。今までは私たち2人だけだったでしょう? そこに素敵なお兄さんが現れたものだから、気持ちが昂ぶってしまったのね。あの子にとっては、何もかもが新鮮で、過去に経験したことのないことばっかりだったと思うの。その素敵なお兄さんと別れなければならなくなって、感極まって泣いたのね」
「そっかあー、ほんとに素直ないい子だよなァー」
「ほんとの妹と思って、大事にしてあげてね」
「そう思ってる。リコが何とか幸せになるように、考えてあげなきゃと思ってる」
「ありがとう。今の言葉リコが聞いたら、また泣いちゃうんじゃないかしら」
「あは、もう泣かすなよ」
「今日の涙で、何もかも綺麗に洗い流せたみたいよ。今までと少し違ってきたみたい」
「そうか。それは良かった」
「お父さん宛の手紙を書くんだと張り切ってたわよ」
「あは、そうか、今日と言う日は、ほんとにいい一日だったね」
「そうだったわね、……何の記念日かしら?」
「そうだなあ、求婚記念日じゃありふれていてつまらないか」
「そうね」
「考えてみたら、みんな一人一人にとっての、人生の分岐点のような気がするんだよね」
「そうね、お父さんもお母さんも私もリコも、悟さんだってそうでしょう?」
「そうなんだよな。人生の中でとても大事な一日だったと思う。……そう思わない?」
「思う。泣けてくるくらいに感動の一日でもあったよね」
「うん。5人が一人一人、賢明な決断をした日、そして、幸せに向かって羽ばたこう、と決意した日とも言えるよね?」
「そうよね。言えてる。新しい絆が生まれた日でもあるのよね?」
「だね。それって凄いことだよ。何もなかった処に、新しく何かが生まれるってね。設計と似てるなあ」
「そうよね。設計も何もなっかた土地に、建物が建って町が広がっていくんですものね」
「いいこと言うじゃない。俺の言うセリフ奪わないでよ」
「ふふ、……で、何の記念日にするの?」
「そうだね、新しい絆誕生の日かな?」
「長いのね、新絆の日、しんばんのひ、っていうのはどうかしら?」
「いいねェー。それにしようか。……新絆の日か、うん、いい響きだね。……さすが、うちのお姉さん」
「あら、リコの真似してる。……じゃあ、日記に書いておきます。新絆の日って」
「うん」
「あ、それと、お父さんから、悟さんの携帯の番号を教えろと言われたんだけど、どうする?」
「で、アキは何と答えたの?」
「本人の承諾がなきゃ駄目よと言ったら、じゃ承諾を得ておいてくれって言うのよ」
「俺を監視しようって訳だな。いいよ構わないよ」
「じゃあ、教えるね」
「知らない番号から掛ってきて、お父さんに失礼するといけないから、お父さんの番号を教えてよ、登録するから」
「そうよね。分りました。後でメールで連絡します。ついでにリコの分も書いておきます」
「おいおい、いくら姉でもそれは良くないよ。それこそ、リコの承諾を得ないと」
「ふふ、実はねリコから頼まれてるの。お兄さんの番号教えてって」
「そっかー、で、どうしたの?」
「ええ、ちょっと迷ったけど、ま、いいかなと思って、悟さんの承諾を得ないで教えてしまったの。……良かったかしら?」
「それはちっとも構わないよ。むしろそうしておいたほうがいいよね」
「ええ、私もそう思ったの。だから、お父さんとリコの番号をメールで連絡しておくね」
「ありがとう」
「来週の成田の件また連絡するわね」
「そうだね、そうしてくれる?」
「はい。じゃあ今夜はこの辺で、……おやすみなさい」
「お休み、……チュッ、愛してるよ」
「私も愛しています。……おやすみ……」
月曜日の朝早川は、浅田がコーヒーをデスクまで持ってきてくれた時にそっと告げた。
「ちょっと聞きたいことがあるんだよ。電話するから」
浅田はすぐ自分の席に戻った。早川は受話器を上げて浅田の番号をプッシュした。
「田部井君やってくれたかな? ……聞いてない?」
低い声で聞いた。田部井に直接聞いてもいいが、やはり浅田に聞いたほうがいいと思った。
「聞きました。金曜日に別れの連絡をしようと思って、携帯で電話したけど、やはり出なかったみたいです」
「で、どうしたの?」
「仕方ないから、携帯メールで、もう二度と会えない旨のメールをしたみたいです」
「で、彼から返信があったのかな?」
「分った、とだけの返信だったみたいです」
「えらくあっさりした返信だねェー」
「今まで付き合ってくれてありがとうぐらい言ってくれてもいいですのにね」
「そんなことが言えるような男かよ、……だろ?」
「そうですね。全く最低の男ですね」
「……それで携帯は買い替えたの?」
「土曜日に3人で販売店に行って、新しい携帯に変えてもらいました。番号も新しくなりました」
「そっかー、良かった、良かった」
「早川さん、ちょっと聞いてもいいですか?」
「うん。何?」
「これは私の勘なんですけど、社内で何か起こりそうな予感がしているんですけど」
早川は、勘のいい浅田だったら実際のことは分らなくても、おそらく何かを感じている筈だと思っていた。
「ごめん。その話は友誓会の時ちゃんと話すから、……今は、言えないんだよ。分ってくれ」
「……分りました」
夜、早川はタクシーを拾い、赤坂の料亭野菊に向かった。
「いらっしゃいませ」
「早川と申しますが」
「はい。伺っております。お連れ様が少し前からお待ちです。ご案内致します。さあどうぞこちらへ」
甲斐オーナーは今夜は早かったんだと思いながら仲居の後を進んだ。墨で花梨の間と書かれた部屋に通された。先日の部屋と同じ間である。一旦控えの間に入る。その奥に本部屋がある。
本部屋に入る襖の前で、仲居は腰を下ろし丁重なしぐさで襖を開けた。さあどうぞと促され畳に足を踏み入れて驚いた。部屋の片隅の畳に正座している青年がいた。青年は、早川の顔を見るなり、畳に手をついて深く頭を下げた。
「これは驚いた。珍しい方にお目にかかるなんて」
「ご無沙汰しております。いつもお世話になり、ありがとうございます」
「いやいや、私が言わなければならないセリフを、先に言われてしまいましたね。こちらこそ、大変お世話になっております」
早川も正座して丁重に挨拶した。青年は、八王子のエルコンG・ホテルのフロントチーフだった。名を水島正治といって、早川とは甲斐オーナーの指示で、設計の段階から打ち合わせに参加して、意見を交わした人物である。このフロントチーフの上司に支配人がいるが名ばかりで、実際にはこの若いチーフが実務を取り仕切っていた。甲斐オーナーはこの青年の能力を高く評価していた。この業界では得難い人物だと話していた。早川は能力もさることながら、人間的な面に特に好感を持っていた。
「オーナーは間もなく来ると思います。すみません、こんな野暮ったい男の顔をお見せしまして。驚かれたでしょう?」
「仲居さんがお連れ様がお待ちですよと言うものですから、てっきり甲斐オーナーかとばっかり思っていましたから、突然の美青年の出現にびっくりしました。一瞬、仲居さんが、部屋を間違えたのではと思ったくらいです」
「あは、美青年は余計です。……お元気そうですね。相変わらずお忙しいんでしょう?」
早川は、オーナーが何故今夜チーフを同席させたのか、その理由が呑み込めないでいた。
「野暮用が多くてただ走り回っているだけですよ。水島チーフもお元気そうで何よりです」
「元気だけが私の取柄です。……仕事では、毎日オーナーに怒られっぱなしです」
「何をおっしゃいます、いつも甲斐オーナーからお聞きしていますよ。一番頼りになる男だって」
「そうだといいのですが、そうなるようにもっと頑張らなくてはいけませんね」
その時、襖が開いて甲斐オーナーが笑いながら入ってきた。
「私の噂していたでしょ? くしゃみが出たわよ」
「あは、ばれましたか。こんばんは。いつもお世話になっています」
早川は畳に手をついて深く頭を垂れた。
「遅くなってごめんね。あら、チーフどうしたのよ貴方らしくもない。お客様をほったらかしにして」
「あ、すみません。久しぶりにお会いしたものですから、つい話に夢中になってしまいまして」
「あはは、やっぱりそうだ。怒られっぱなしですね」
「でしょう?」
水島は早川の顔を見て笑った。
「何よ2人して、あ、その話してたんでしょ?」
甲斐が割り込んできた。
「水島さんが、オーナーに怒られっぱなしだとおっしゃるものですから、いえいえ、オーナーは水島さんを一番頼りになる男だ、っておっしゃってましたよ、とお話ししていたところでした」
早川はありのままを話した。
「私が怒るのはね、能力を高く買っているからなのよ。どうでもいい人には怒らないわよ。……分るでしょ?」
甲斐は水島を見て言った。
「ありがとうございます。これからもどしどし叱ってください。お願いします」
「さ、ちゃんと席に着いて。早川さんはそっち、チーフはこっち。私はここ」
甲斐は勝手に座る場所を決めてしまった。早川は、また床の間を背にすることになってしまった。早川が躊躇するのを見て、甲斐は両手で早く座りなさいと命令した。その時、仲居が入って来て、お待ちどうさまでしたと言いながら、料理と酒をテーブルに並べた。
「さ、いただきましょう。まずは再会を祝して乾杯ね」
水島が甲斐のコップにビールを注ごうとした。
「身内のものに注いで貰っても全然嬉しくないわよ。分らない人ねェー」
「あはは、また怒られてる。……はい、オーナーどうぞ」
「そうよ、そうこなくっちゃ」
「はい、水島さんどうぞ」
「いえ、それは困ります。また怒られますから」
水島は頭に手を置きながら、早川のコップにビールを注ごうとした。
「あは、水島さんお願いします。困るのは私です。どうぞ受けてください」
水島は甲斐の方をチラッと見て、早川からビールを注いで貰った。
「早川さんどうぞ」
甲斐が早川のコップに注いだ。
「あ、すみません。ありがとうございます」
甲斐がコップを手にして言った。
「さあ、乾杯しましょう。……さて何に乾杯しようか?」
「オーナーはさっき再会を祝してとか」
水島が助け舟を出した。
「そ、そうだったわね、……もう、ボケが始まったかな? ……そうよね、それしか見当たらない。……乾杯」
甲斐はなかなか本論に入ろうとしなかった。世間話に終始した。料理のほうはともかく、酒がなかなか減らない。
「さ、水島さんどうぞ」
早川がビールを勧めた。
「すみません。私は極端な下戸なんですよ」
コップに手で蓋をしてしまった。早川はニタリと笑った。そして甲斐の方を向いた。
「オーナー、ありがとうございます。お友達を連れ来ていただいて」
「ったく、2人とも下戸で話にならないわね。ゲコゲコしちゃうわ」
「あはは、選りにも選って、呑兵衛のオーナーが下戸2人を相手にするなんて、なんか面白いですね」
早川が場を持ち上げた。
「断っておきますけどね、私は呑兵衛ではありません。それに、ちっとも面白くありません」
「失礼しました。……それにしても、水島さんまで下戸とは知りませんでした」
「飲みそうな顔をしてるでしょう? そのギャップが私の取柄なんです」
水島が笑いながら言った。
「何が取り得よ、シャーシャーとよくも言えたもんだわね」
甲斐はわざと不機嫌な顔をした。
「失礼ですが、水島さんは、ご結婚されてるんですよね?」
早川が機転を利かせて話題を変えた。
「いえ、それがまだなんです。……どうも奥手で」
「えっ、そうなんですか? 周りには素敵な女性が一杯いらっしゃるでしょう? モテモテなんじゃないのですか?」
「それならいいのですけど、さっぱりですよ」
水島は頭に手をやって照れた。
「仕事が出来る上に、この人には妥協しない厳しいところがあるから、……だから、女性が近づきにくいのよ。女性を口説くのも能力の内よと言うんだけど、こればっかりは駄目みたいね」
甲斐が愚痴った。
「そうですか、こんな素敵な男性がですねェー、……信じられません私には」
「男は所帯を持って初めていい仕事が出来る、っていう面もあるわよね?」
「そうですね、世間ではよく言いますね」
「だから、私としては早くそうなって欲しんだけど、こればっかりは、本人がその気にならないとねぇー。……ったくお手上げだわ」
「ま、オーナー、これだけの人ですから心配ないですよ。その内、突然オーナーに実は結婚することになりました、って素敵な女性を連れてきますよ。……ねっ、水島さん?」
「はー、そうなればいいのですが」
水島は他人事のように弱弱しい声を出した。
「この手の話になると、ほんとにからっきし駄目なんだから、仕事してる時と天と地の差があるわね。……困った人だわ」
「まさか、女性が嫌いとかいうことはないですよね。……男性の方が良かったりして」
甲斐がニタリとした。
「コラッ、何てこというのよ」
甲斐は早川に笑いながら言って、急に真面目な顔になった。そして水島を見た。
「……まさか、……それはないわよね」
甲斐は確認するように、水島の目をじっと見ながら言った。
「実はそうなんです」
水島も負けてはいない。ちょっとふざけてみた。
「な、何てこと言うの、……それほんとなの? ……男のほうがいいの? ……えっ、まさか、……ほんと?」
甲斐の慌てぶりは尋常ではなかった。今にも腰を抜かさんばかりである。こんな姿を早川は初めて見た。
「あははは、冗談ですよ。そんな訳ないでしょう?」
甲斐は怒るのを通り過ぎて呆れ果てていた。
「コラッ、大人をからかうもんじゃないよ。……ああ、びっくりした。心臓が止まりそうだったわよ」
甲斐は、如何にもほっとしたような感じだった。
「ということは、最近流行のあちらが駄目だとか?」
早川が少しニタリとした。
「あちらといいますと?」
水島も水島である。おとぼけ満天である。そこへ甲斐が野暮なことを言いだした。
「あちらの意味も呑み込めないの? ……ああ、情けない。男じゃないわね。……もう、あなたは首だわよ」
甲斐は、水島がおとぼけで言っていることぐらいは分っていた。
「おやおや、困りましたね。水島さん首ですってよ。……どうします?」
「困りましたね。どうしましょう。首ですか。首を逆さにしますとビクビクしてきますね」
3人は大笑いした。さすがに機転が利く。
「そこでね? 聞いてほしいんだけど」
甲斐が、急に大真面目な顔を早川の目に向けた。
「はい? 何でしょうか?」
「あ、その前にお話ししとくわね、チーフ、……マネージャー、あなた、新しい名刺を早川さんに差し上げたの?」
「いえ、まだです」
「早川さんね、このチーフを今度の秋の人事異動で、マネージャーに昇格させたの」
「えっ、そうですか、それはそれはおめでとうございます」
早川は水島に顔を向けて丁重に頭を下げた。
「さ、早川さんに名刺を差し上げて」
水島は内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚を早川に渡した。
「改めて宜しくお願い致します」
「いやー、こちらこそ。……良かったですね」
名刺には、第一マネージャーとある。早川は名刺を見ながら笑顔を返した。
「私にこんな重責が勤まるか自信はないのですが、何とか頑張ってみようかなと思っています」
水島の緊張感が伝わってきた。
「マネージャーといいますと、各ホテルを統括する総責任者ということですか?」
早川は甲斐に尋ねた。
「早川さんだったら、もうご存知かもしれないけど、うちの本社の組織を、簡単に説明するわね」
「はい。お願いします」
「まず、各ホテルの責任者として支配人を置いています。その支配人の下にフロントチーフをおります。これは各ホテルのことです」
「はい」
「各ホテルを管理する組織が本社にあります。本社には、現在第一から第三のつまり3人のマネージャーがいて、それぞれ割り振られた2~3のホテルのマネージメントをしているのね」
「はい」
「その3人のマネージャーを管理しているのが、チーフマネージャーです」
「なるほど、そうしますと、水島さんは八王子のホテルのフロントチーフでいらしたんですけど、今回、本社の第一マネージャーに昇格された、と、こう解釈すればよろしい訳ですね?」
「そうなの。各支配人の上に立つ訳だから、大抜擢になるんだけど、今までの実績とこれからのことを考えて、特に人間的なことを重点に考えて、そういうことにしたの」
「なるほど」
早川は甲斐の決断に目を見張った。さすがに見る目が高いと思った。
「この人には、将来チーフマネージャーになれるくらいの能力があると思ってるの。だから、それを目指して頑張って欲しいという期待感もあるんです」
「そうでしたか、それはそれは、いい話ですねェー。水島さんなら大丈夫ですよ。きっと重責を担ってくれますよ」
「早川さんにはちゃんとお話ししておいたほうがいい、そう思って今夜連れてきたの。早川さんと水島は、これまでの仕事を通して、まんざら知らない中じゃないし、今後のこともありますからね。電話だけでお知らせするより、お食事しながら直接お知らせしたほうが良いと思ったの」
「ありがとうございます。さっきは再会を祝してなんておっしゃっていましたけど、めでたい昇進祝いじゃないですか。改めて乾杯しましょうよ」
「身内の祝い事は身内ですませますから、……それに、……下戸のくせに」
甲斐は嬉しそうにしながら、早川に飲めないくせにと言った。
「あはは、今夜は私も身内にしてくださいよ。……さあ、水島さんも今夜は下戸返上でいきましょう」
「どうせ口ばっかりだけど気持ちが嬉しいわね。じゃあ、マネージャー乾杯しようか?」
「はい。ほんとにありがとうございます。とても嬉しいです」
「それでは改めて、……かんぱーい」
早川の音頭で乾杯した。
「そこで、早川さんに相談なのよ」
「えっ、私に相談? ……ですか? ……お役に立てるかどうか分りませんが、一応承ります」
「あのね?……」
「はい」
甲斐は言いかけて少し間を置いた。コップに残っていたビールをぐっと飲み込んだ。水島が、空になったコップにビールを注いだ。
「マネージャーがいつまでも独身って訳にはいかないのよ」
「どうしてですか? ……関係ないような気がしますけど」
「そう思うでしょう? ところが、各ホテルの支配人はみんな妻帯者なのね。その支配人に、あれこれ指示する立場のマネージャーが独身だとね、表面上では納得した顔をしてもね、腹の中ではこんな若造が、……何て思うのよね」
「他の2人のマネージャーは妻帯者なのですか?」
「そうなの」
「ですけど、組織っていうのは、そんなもんじゃないと思ってますけどねェー。こんな若造が何て思ってる側に問題があるのではないですか?」
「そうなのよ、分ってるのよ理屈ではね。だけど、この人ももう三十五歳よ、これから、ますます頑張ってもらわなければならないのに、いつまでも1人身なんて良くないでしょう? ……だから、この際身を固めてくれた方が何かといいのよ」
「……今一、オーナーのおっしゃることに疑問がない訳ではありませんが、ま、心情は分らないでもないですね」
「物事にはタイミングってものがあるでしょう? これからますます忙しくなる訳だから、傍に理解してくれる奥さんがおれば、仕事にも一段と張り合いが出ると思うの。そうすれば、次のスッテプにも早く到達すると思うの」
「その点はそう思います。……それはそうですね、おっしゃる通りですね。これから、ますます良い仕事をしていく為には必須なこと、必須だったら出来るだけ早いほうがいい、と、こういう訳ですね?」
「そうなのよ。そう思うでしょう?」
「確かに。……その点は水島さんはどう思っていらっしゃるんですか?」
早川が水島に尋ねた。
「オーナーのおっしゃる通りだと思っています。ですが、こればっかりは縁の物ですからねェー、私がいくらそう思ってても、どうにもなりません」
「ということは、お尋ねしますけど、そろそろ結婚してもいい、と思ってはいらっしゃるんですね?」
「もちろんです。ほんとは、オーナーに言われるまでもないことなんです。私自身が、何とかしなければと一番思っていることでもあります」
「それだったら話は早いですね。オーナーのお眼鏡にかなった女性と、見合いをしたらどうなんですか?」
水島は我が意を得たりと頷いた。早川は視線を水島から甲斐に移した。甲斐が困ったような顔をした。
「それがねェー、私ってこういう女でしょう?」
「えっ、そう言われましても、オーナーがどういう女性なのか分りませんが」
早川がとぼけた。
「もう、話を茶化さないのっ」
「すみません」
「この人に、どういう女性がいいのか、さっぱり分らないのよねェー」
「そんなことないと思いますけど。顔が広いオーナーのことですから、いろんな女性をご覧になっていらっしゃるでしょうし」
「私の考えはね、出来れば、うちで働いている従業員は勧めたくないのね」
「どうしてですか?」
「この人が、会社の将来を担う有望な青年だ、ということをほとんどの従業員が思ってると思うの。そうなると、そこに変な感情が生まれてくると思うのね」
「変な感情ですか?」
「そうなの。例えば出世と結婚するとか。お金と結婚するとか。それだけが目的で結婚して貰っては困るのよね」
「良くありがちなことですね。その結果は大体想像できますね」
「でしょう? この人は、根が真面目で実直で努力家なんだけど、お人好しなところがあるから、騙され易いと思うの」
「なるほど」
「だから、ほんとに、この人の人間性に魅力を感じて付き合ってくれる人でないと、ダメなような気がしてるの」
「社外の人なら、敢えて話さない限り、人間的なことしか分りませんからね」
「その通りよ。かといって社外の女性となると、私が知ってるのは、飲み屋のウェートレスぐらいなのよねェー。悪いけど勧める訳にいかないしね」
「水島さんは、どんな女性が好みなんですか?」
早川は水島に聞いてみた。
「そうですね、誰でもいいという訳にはいきませんよね。贅沢は言えませんが、明るくて嘘をつかない人がいいですね。優しい心根の人だったらいいですね」
「顔とかスタイルは気にする方ですか?」
「極端な場合は困りますが、健康であれば、顔やスタイルはソコソコでいいと思います」
「オーナーにお聞きしますが、将来も含めて水島さんの立場の場合、夫婦で2人揃って人前に立つなんてことありますか?」
「それはあるわよ。レセプションとか業界のパーティーとか、いろいろあるわよ」
「そうですよね。じゃあ、顔やスタイルも営業のうちですね」
「さすが早川さんね。そうなの、立派な営業よね。何にも言わなくても、黙ってそこに立っているだけで旦那の顔を立てている。こんな言い方はよくないと思うけど、もう立派な商品よね」
「そうなると、なかなか難しいですね」
「でしょう? ……そこで早川さんの登場なの」
「えっ、とおっしゃいますと、私に水島さんの彼女を探してくれ、とでもおっしゃるのですか?」
「その通りよ。早川さんの推薦くれる女性だったら、まず間違いないような気がするの」
「オーナー、それは買い被りですよ。それに、私もまだ独身ですよ。そんな男が推薦した女性なんて当てになりませんよ。しかも、水島さんより年下の私が、年上の人に女性を紹介するなんて、失礼もいいとこですよ」
「そうは思わないわ。早川さんの見識の確かさは、私がちゃんと見て知ってるから、それは大丈夫。年齢なんか関係ないわよ。それに何よりも、この水島の人となりを良く理解してる早川さんのことだから、この人に一番ふさわしい女性を見つけて下さると思っているわよ。早川さんの身近な方で、そういう人いない?」
「そうですねェー、急に言われましてもすぐには思い起こしませんが、……水島さんの意見も聞いておきたいですね」
早川は、肝心の水島が違う意見だと困ると思った。
「私もオーナーと全く同じ考えです。他でもない早川さんにお勧めいただく女性でしたら、こんな有難いことはありません。是非共お願い致します」
水島は、真面目な顔で深く頭を下げて早川の顔を見た。
「うーん、困りましたねェー、変な人を紹介したらオーナーに絶交されそうだし、水島さんとも変な風になるし、参りましたねェー」
「そういう風に思ってくださるから早川さんにお願いするのよ。人助けだと思って、お願いね?」
「はー、そうですか。分りました。少し考えさせてください。……これって急ぎますか?」
「なるべく急いで欲しいの。と言っても、付き合うのは本人だし、結論までにはそこそこ時間も掛ると思うから、その辺は成行きね」
「ですね。……だけどお役にたてるかなあ。自信ないなあ。……オーナー、ふさわしい人が見つかりませんでした、……も、ありですよね?」
「ダメッ、何をグズグズ言ってるのよ。早川さんらしくない。絶対に探して。……これは命令よ」
「あーあ、さっき、身内にしてください何て言わなきゃ良かった。命令が下っちゃった」
甲斐の眼元が笑っていた。早川はいかにも困ったような顔をした。
「水島さん助けてくださいよ」
早川は矛先を水島に向けた。
「私からも宜しくお願い致します。楽しみに待っております。私の一生の問題ですから、早川さんに私を預けます」
「やだなー、水島さんまで……そこまで言いますか? ……分りました。……分りました。何とか頑張ってみます。こんな場合、頑張るっていうんだっけ? 努力しますだ」
早川は独り言を呟いた。
「えー、良く分りました。努力してみます。……で、これに関する連絡は、オーナーでよろしいのですか?」
「何言ってるのよ、私が聞いてどうするのよ、本人直接でなきゃだめよ」
「分りました。水島さんへの連絡は、八王子ではなくて本社になるんですね。この名刺の番号でよろしい訳ですね?」
早川は水島の顔を見て尋ねた。
「はい。もう少し引き継ぎが残っていますが、その番号でよろしいです。よろしくお願い致します」
水島の顔は先ほどから明るくなっていた。
「ああ、良かったね水島君」
「はい。ありがとうございました。何だか仕事にファイトが湧いてきました」
「でしょう? それが私の狙いなのよ」
「あーあ、本人の前でそこまで言いますか?」
「本人の前だから言うのよ。他人の前で言ったって仕方ないでしょう?」
「ですね。言えてますね」
「じゃあ、水島君はいいね、後は朗報を待っていればいいから。何か言っておくことは、もうない?」
「はい。ございません」
甲斐は早川の方を振り向いた。
「実は早川さん、さっき来るとき業界の人から電話があって、今夜はそちらの会合に出なければいけなくなったの」
「あ、そうですか。道理で酒が進まなかったのですね。オーナーも下戸になったのかと思いましたよ」
「ったくもう、よりもよってこんな時に。……ごめんなさいね。……で、あと10分ぐらいしかお話しできないんだけど、いいかしら。この埋め合わせは後日するから」
「ええ、もちろん結構です」
甲斐は水島に顔を向けた。
「もう少し早川さんと打ち合わせすることがあるから、あなたは先に席を外して」
「はい。分りました。……早川さん、今日はほんとにありがとうございました。お先に失礼します」
「こちらこそありがとうございました。お気をつけて。痴女に襲われないように」
「襲って欲しいわよ」
甲斐の顔を見て、水島が笑いながら部屋から出て行った。
「早速だけど、早川さん例の離婚の話」
「ええ、ええ、どうなりました?」
「それがね、えらくもめてしまってね。もう大変だったの」
早川はやっぱりと思った。電話口の声で、何かあったのではとは思っていたが、このことだったんだ。
「そうでしたか。それは大変でしたね。……で、どうなりました?」
「一応双方に弁護士を立てたりして、今週中には結論が出る見通しなの」
「離婚成立ってことですか?」
「そうなの。清々したわ。時間がないから要点だけ言うわね」
「はい」
「来週付き合ってくれる? 離婚の報告とお祝いをしたいの」
「えっ、お祝いですか?」
「そうよ。私が身軽になって、いよいよ羽ばたくためのお祝いよ。……祝ってくれないの」
「いえ、それはもう、……ですけど、こういう場合、……おめでとうございます、って言うものなんですかね?」
「そうよ。おめでとうよ。私にとってはおめでとう、なのよっ」
「あは、変なの。分りました。……オーナー、私の話も聞いていただけますか?」
「何よ、改まって。ははー、そちらもおめでたい話みたいね。……匂うわよ」
「はい。ずばり申し上げます。お陰様で結婚することになりました」
「えっ、花岡さんと? ……ほんと? ……ほんとなの?」
「式はまだずっと先ですが、先週の土曜日に、先方の親の了解を得ることが出来ました」
「先週長野に出張とか言っていたけど、そのことだったのね」
「はい。そうです。オーナーには一番にご報告をと思いまして」
「早川さんやったわね。……いやー、どうしよう、おめでとうが重なったわね」
「とりあえず、そういうことで」
「分ったわ。じゃあ、来週ね。うんとお祝いしましょう、……ああ、嬉しい」
「ありがとうございます。オーナーにそう言っていただくと、ことのほか嬉しいです」
「じゃあ、ごめんだけど行くね。近いうちに電話するからね」
甲斐は腕時計を見ながら、急ぎ足で部屋を出て行った。
火曜日になった。15時に郷田部長から早川に電話があった。
「あ、部長、お疲れ様です」
「あのな、野田係長と高津社員に、人事部の応接間に来るように指示してくれ。君は来ないほうがいい」
早川は、いよいよ来たと思った。
「はい。かしこまりました」
電話を切って野田と高津を呼んだ。2人にとって試練の始まりである。自分で蒔いた種は、自分で摘み取らなければならない。
「今、郷田部長から電話があった。人事部の応接間に来るようにということだよ。……何だろうな」
早川は首をひねるふりをして、2人を見上げながら言った。2人は、少しびっくりしたような顔をした。野田が首をひねった。高津は神妙な顔つきだった。
「分りました。行ってきます」
2人はいったん席に戻り、上着を着てネクタイを正した。そして緊張した面持ちでドアを開け出て行った。
2人は1時間たっても席に戻ってこなかった。スタッフ達が少しざわめきだした。ようやく、野田と高津が戻ってきた時は16時半であった。2人が出て行ってから1時間30分程度経過していた。スタッフ達は全員立って一斉に2人を見た。2人の顔は青ざめていた。早川のデスクの前に立った。
「ただ今戻りました」
頭を下げた。声は小さく聞き取れないくらいである。
「どうしたんだ。元気ないな。顔色が悪いぞ、気分でも悪いのか?」
早川は何にも知らないふりをした。
「いえ、何でもありません」
「ま、コーヒーでも飲んで身体を休めろ」
2人は重い足取りで席に戻った。明日は祭日である。早川は、おそらく祭日明けの木曜日以降、この2人の顔を見ることはないだろうと思った。人事部か郷田部長に、何と言われたかは知る由はないが、多分、すぐ後片付けをして、退社しなさいとでも言われたのであろう。野田と高津は、他のスタッフ達には目立たないように、デスクの廻りをゴソゴソやり始めた。沈み込んだ顔に虚ろな目があった。少し慌てている様子だった。
早川は、社内情報が外部に漏洩した事案の終息を実感した。
明後日にC&Tの緊急会議を開き、話せる範囲で一部始終を語ろうと思った。そして、いよいよ国際設計コンペに勝利すべく、新たなプログラムを構築していこうと考えていた。A案は、既に素案であるとはいえ東西国土建設に漏洩されている。B案は、漏洩している人物を割り出すために仕掛けられた素案であって、そもそも、あってないようなものであった。だから、国際設計コンペに出品するプランは、全く新しい構想で作成しようと考えていた。災い転じて福となすとはこういうことだろう。先日から用意していたプランに手ごたえを感じていた。むしろ、A案よりもはるかに良いプランに仕上げられる。後は時間との戦いだ。増員して貰って、ゴールを目指して頑張るだけだ。勝負の舞台は整った。行くぞ。
デスクの電話が鳴った。郷田部長からだった。5時半頃、部長室まで上がるようにという電話だった。役員会の最終結論が出て、処分が決まったのだろうと思った。5時半になり、早川は部長室に足を運んだ。
「ご苦労さんだったな。処分が決定したから、君だけには話しておこう」
「ありがとうございます」
郷田部長は印刷物を手に取り、目で確認しながら早川に告げた。
「野田君と高津君は解雇になった。首だな。2人には少し前に、明日からの出社には及ばない旨を通告した。本来は告発に値する出来事だということを言った上で、会社としては告発しないから安心しなさいと伝えた。設計2課の松岡課長は、熊本支店の工務主任に降格したが、辞令を受け取った後退職願が出された。後任はまだ考えていない。暫らくは3課の片桐課長に兼務して貰うことにした。人事2課の保坂課長は、高松支店の業務主任に降格した。以上だ」
極めて厳しい結果となった。事の重要さから見て、当然と言えば当然の処分である。
「……」
「何か意見があるか?」
「いえ、ございません。とても残念な結果になり、言葉がございません」
「そうだな、会社としても止むを得ないことだった」
「安浦君については、どのように考えたらよろしいでしょうか。念のためお聞きします」
「安浦君は単なる飲みの付き合いだということで、直接の関連は見当たらない。君も同じ考えだと思う。……だろ?」
「はい、そのように思います」
「だから、処分なしとなった。……それと、君はハグレタカについて分らないとメモしていたが、……分ったかい?」
「いえ、未だに分りません」
「君は、はぐれ親父の純情物語というテレビの番組を知ってるか?」
「いえ、知りません。その番組と関係があるんですか?」
「その番組の主役の名前が、安浦と言うんだよ」
早川は部長の顔を、あっけにとられたような顔で見つめた。部長の顔は笑っていた。
「悪知恵の働く奴だったな」
そうだったのか、分らない筈だ。
「……」
「他に何か意見があるか?」
「はい、私の立場でこのようなことを申し上げるのもなんですが、部長のお立場を案じております」
「君がそんなことを心配せんでもよろしい。業務に専念しろ。そして何が何でもコンペに勝利するんだ。優勝を勝ち取るんだ。いいな。この前も言ったがそれが唯一の展望を開く方法だ」
「はい。かしこまりました」
「君に言っておきたいことがある。これは、役員会でも話が出たことなのだが、社内情報が野田係長を通して社外に漏洩した時期は随分前、かれこれ半年以上前から始まっていたことが分った。これは、本人からも確かめているから間違いない。従って君の責任ではない。設計2課の松岡課長の管理責任となる」
「ですが、C&Tでも漏洩されています」
「ごく最近になり、C&Tに配属になっても続いていたことは確かだ。しかし、これはこの前から言っているように、C&Tの人事は最近行われたこと、建設部の各課長の意見は聞いたが、俺と人事部長で人選したことである。従って、人事部では君の責任は問わないこととなった。役員会もそれを了承した。俺も妥当な考えだと思っている」
「とてもありがたいことではありますが、……ですが、……けじめがつきません」
「君の気持は、この前から何度か聞いているから分っている。だがな、そんなことは考えなくても良い。いいか、再度言っておくぞ。絶対に軽はずみな行動は慎めよ。後のことは俺に任せろ。心配せんでもいいぞ。……いいな? ……分ってるな?」
郷田は早川の目を見つめて強い口調で言った。
「分りました。ありがとうございます」
「それから、増員のことだが、5名ほど増員することにした」
「そうですか。ありがとうございます。助かります」
「今回のことについては、この前も言ったと思うが、君の功績は計り知れないものがあった。改めて礼を言う。ご苦労だったな」
早川は感詰まって危なく涙するところだった。郷田は、早川のその顔を見逃さなかった。そして小さく頷いた。
「ありがとうございます」
「それと、暫らくの間は、社内に波風が立つと思うが、平気な顔をしておればいいからな」
「明日、C&Tの会議を開こうと思っているのですが、野田君と高津君については、どのように説明すればよろしいでしょうか」
「君は一切知らないことにしておけ。とぼけるんだ。……出来るか?」
「はい。やってみます」
「それと、全てを明日の会議後にでも解除しろ。元に戻すんだ。おそらく社員の中には、私書箱とかパスワードとか、この前からの、急でおかしな動きに関して質問が出るかもしれないが、知らん存ぜぬに徹しろ。全て俺の指示だと言うんだ」
「はい。分りました」
「この事案については、君は一切知らない、関わっていないことにしてあるから、そのつもりで対応するように。全てにおいて、俺を悪者にしたらいいんだ、……いいな?」
「はい。かしこまりました。何から何まで、ご配慮いただきありがとうございます」
「じゃあ、また何かあったら連絡してくれ」
「承知しました。それでは失礼致します」
早川は腰を上げ一礼して、その場を立ち去ろうとした。
「おっと、忘れるところだった。下に降りたら、3人のPCを立ち上げて、フリーのメールフォルダと関連のデータを全て削除しておいてくれ。月末の総務課のチェックにかからないようにしておいてくれ。この際、他の部門に余計な疑念を抱かせたくないからな」
「そうですね。かしこまりました。早速そのように致します。……失礼します」
早川はがらんとした部屋に戻り時計を見た。友誓会まではまだ少し時間がある。
野田と高津のデスクは、会社の所有物を除いて綺麗に片づけられていた。どういう思いでデスク周辺を片付けたのだろうかと思った。
爪の垢ほども予期していなかった青天の霹靂が襲ってきた。弁解の余地は全くなかった。あっという間の処分が下された。そして、初めて自分のやってきたことに恐ろしさを感じた。金と女に目がくらんでしまい、絶対にやってはならないことをしてしまった自分に、激しい罪悪感が身体中を駆け巡った。だが、既に時遅し。告発を免れたことだけでも良しとしなければなるまい。
早川は、先ほどまで野田が座っていた椅子に座り、目の前のパソコンをじっと見つめた。その時、野田と高津の慟哭にも似た、激しい懺悔の叫びが聞こえたような気がした。ロッカーは作業着だけが掛っていて、他は綺麗に片づけられていた。他のスタッフが、黙ってロッカーを片付ける2人を見て、転勤命令でも下されたのだと思ったかもしれない。
野田と高津と安浦のPCの電源を立ち上げた。安浦はともかく、野田と高津は気が動転して慌てていたので、メールを削除するところまで考えが及ばなったのであろう。フリーフォルダもメッセージも削除されていなかった。早川は、もうメールの中身をチェックする必要性を感じなかった。部長の指示通りに、フリーフォルダと関連するデータ全てを削除した。安浦のデータについては、明日削除しておくように、直接本人に指示するつもりでいた。
友誓会が7時から開かれた。みんなで軽い食事を済ませたあと、早川が切り出した。
「えーとね、本論に入る前に、今日はみんなに伝えておきたいことがあるんだけど、いいかな?」
「はい」
異口同音に3人が返事した。 早川の真面目な顔を見て、浅田も田部井も島田も一斉に早川を注視した。
「この会も、今日で3回目になるよな」
「そうですね」
浅田が代表して答えた。
「最初は田部井君の悩みの相談事を、みんなで知恵を出し合って解決していこう、ということで始まったんだよな」
「そうですね。ありがとうございます」
田部井が返事した。
「田部井君には、俺からいろいろな質問をした。田部井君のことを思ってしたことなんだけれども、嫌な思いもさせたような気がします」
早川は田部井の顔をじっと見て語った。
「いえ、ありがたいと思っています」
「田部井君はみんなの前で泣きました。手書きのメモまで出してもらいました。4枚の用紙にぎっしり書いてありました。実に丁寧に克明に記されていました。俺はそれを見て田部井君の几帳面さを知りました」
「嬉しいです」
「俺は見える形で、彼とちゃんと別れなさいと言いました。さらには、携帯を新しく買い換えるように提案して、そのようにしてもらいました。田部井君そうだよな?」
早川は確認の意味で田部井に尋ねた。
「はい。そうです。これが新しい携帯です」
田部井は、バッグから携帯を取り出して早川に見せた。
「ありがとう。みんなは、どうしてそんなことまでしなければならないだろう、と思ったことだろうと思います。これから、その訳をじっくりお話ししようと思う」
3人は早川の口元を見つめて姿勢を正した。
「……メモしなくてもいいですか?」
浅田が聞いてきた。
「メモは必要ない。聞いてくれればそれでいい。……話す前に、約束して欲しいことがあるんだけど、……いいかな?」
「はい」
3人が同時に返事した。
「これから話すことは、明後日以降になれば皆も知ることになるんだけども、本当のことは、社内の上層部しか分らないことなんだよな」
「はい」
「俺もさっき部長から聞いたばかりで、実はびっくりしているところなんだよ」
浅田はいよいよ来たと思った。
「そこで、俺からこういう話があったってことを、絶対に口外しない、誰にも喋らないということを約束して欲しんだよ。そうでないと話すことが出来ない。……出来るかな?」
「はい。約束します。……するよね?」
浅田が音頭を取って田部井と島田に同意を求めた。2人は首を大きく縦に振り頷いた。
「ありがとう。……えーとね、田部井君は最初の会合の時、野田君のことを、この世から抹殺して欲しいとか、殺してやりたいくらい悔しい、とか言っていたよな」
「はい。そうでした。今でもそう思っています」
田部井が厳しい顔になった。
「抹殺したり殺すことはもちろん出来ないけど、社会的な制裁を加えるっていうか、彼の人生に、ダメージを与えることは差支えないと思うんだよな」
「はい。そうですね。それが出来れば私も納得します」
田部井は、早川から何か飛び出してきそうな予感がして、胸が動悸してきた。
「……田部井君」
「はい?」
「田部井君……」
早川は田部井の目を見つめた。
「はい? 何でしょうか?」
「おめでとう。いい結果が出たようだよ」
田部井はもちろん、浅田も島田も早川の言葉に耳を澄ませた。
「いいか、しっかり聞いてくれ。今さっき、部長から聞かされたばかりだが……」
3人に緊張感が走った。
「結論から先に言うよ。……野田係長と高津社員が解雇された」
女性3人は、何を聞かされたのか呑み込めないでいた。狐につまま れたような、キョトンとした顔をした。
「えっ、……もう一度言ってください」
田部井が、素っとん狂な声で叫ぶように言った。
「野田係長と高津社員が会社を首になった」
早川の言葉を聞いて、3人は顔を見合わせた。まさか、信じられないという顔である。
「それって、まさか、仮の話ではないでしょうね?」
田部井がまた声を上げた。早川はにっこり笑った。
「もう、今日からは仮の話はないよ。現実の話だよ」
そう言われても、3人はまだ信じられないという顔だった。
「うっそー、……解雇? ……くび? ……何で? ……どうして?」
島田から、ありったけの疑問符が飛び出した。
「信じられなのは良く分る。俺だって、部長から聞いた時は信じられなかったからな」
「原因は何なんですか?」
田部井が聞いてきた。
「俺ももちろん知らないんだけど、何でも、設計2課の時に、不正を働いたとかいうことだったよ」
浅田は早川が嘘をついていると思った。だが、真実かもしれないとも思った。
「そうですか。……信じられない……」
田部井は独り言のように小さな声で呟いた。
「明後日になれば分ると思う。明後日から、2人は出社しないみたいだから」
「ええっ、……???」
田部井が絶句した。
「他にも、何人か人事異動があるみたいだよ。詳しくは知らないが、これも明後日になれば分るさ」
浅田は早川の顔をじっと見て、何故かこの人は怖いと思った。
「田部井君」
「はい?」
「思いが叶って良かったね」
田部井は、まだ他人事みたいな顔をしていた。
「会社は彼に社会的な制裁を加えたんだよ。彼の人生にダメージを与えたんだよ」
「……」
「それで良かったんだろ? 君が望んでいたことが現実になったんだよ」
「……」
「どうしたんだ? ……嬉しくないのか?」
「とても、信じられません。タイミングが良すぎて、まるで、計算されたようなストーリーを見ているみたいです。……怖い感じがします。……背筋が凍りついている感じです」
「そうかも知れないな、でも、映画やテレビの話ではないんだぜ。現実の話だよ。君の悔しい思いが天に通じたんだよ。……良かったな」
「それがほんとだったら、こんな嬉しいことはありません」
「ま、明後日になるのを待とう。明後日になれば実感が湧くと思うよ」
「早川さんは、こうなることを予め知っていて、私が知っている彼の情報を聞き出しながら、いろいろお話しされたんじゃないのですか?」
「どうしてそう思うの?」
「だって、先週私が、早川さんがそこまでおっしゃるには、それなりの重要な意味がある、と解釈したほうがいい訳ですね、とお聞きした時、その意味については、来週の会合の時話せると思う、とおっしゃったでしょう?」
「確かに野田君のことについて、俺は君にしつっこくいろいろ聞いたよな。そして、君は彼が羽振りがいいとか、高級な飲み屋に行ってるとか、全部現金で払ってるとか話してくれたよな」
「ええ、そうでした」
「彼の給料で、そんなことが出来る筈がない。おかしいと言ってたよな」
「そうですね。言いました」
「俺も、どうもおかしいと思ったもんだから、自分なりにいろいろ調査もしたし、君から話を聞いたり、メモ書きを出してもらったりしたんだよな」
「ええ」
「俺の考えは単純だったんだよ。何とかして君の気持を晴らしてあげたい。ただそれだけの思いだったんだよ」
「ありがとうございます」
「考えられるありとあらゆる事態を想像して、可能性を探ってきた」
「ええ」
「ところが、俺の力だけでは、なかなか思うようにいかなかったんだよ。今は、自分の部下でもある野田君について調べるといっても、表立っては動けない。しかも、C&Tの業務を疎かにする訳にはいかないだろう?」
「ですね。良く分ります」
「そこで、考えあぐねた末に、躊躇はあったんだけど、思い切って郷田部長に相談してみたんだよ」
「そうでしたか、知りませんでした」
「相談したと言っても、自分なりにいろいろ調査したことや、君からの話やメモ書きを参考にして、何かのついでに、部長にそれとなく話しただけなんだよ。ただ、それだけのことなんだよ」
「それを聞いて部長が、おかしいと思って調査し始めたら、思ってもいなかった不正が判明したということですか?」
「多分、これは俺の想像だけど、会社は野田君の行状についての情報を、以前、つまりC&Tに配属になる前から、多少なりとも得ていたと思うんだよな。そこに俺がそんな話をしたもんだから、本格的に調査をし出したんじゃないかと思うんだよ。素行調査なんて、探偵事務所に頼んだら済むことだからね」
「ええ」
「だから、俺が想像した通りに展開したら、多分こうなるだろうという思いがあったもんだから、先週はああいう言い方になったんだよな」
「そうですね。……なるほど」
「だから、君が教えてくれた野田君に関する情報が引き金になって、結果的にこうなったってことじゃないかな?」
「そうかもしれませんね」
「そして、たまたまタイミングが良かっただけだと思うけどな」
「それにしても、余りにもタイミングが良すぎると思いません?」
「そう言われればそうだけど、良く考えてごらん。設計2課の時の不正というと、彼がC&Tに来る前だから、今からどのくらい経つかなあ、それほど立ってないけど、それでも一月以上にはなるだろう?」
「そうですね。ということは、それ以前の問題ですね」
「だと思うんだよな。俺が君からの話を部長に話したのが先々週だから、探偵事務所が1週間ぐらいかかったとして、……先週だろう? 社内でいろいろ協議して、結論が今日になった。ぴったしカンカンじゃん」
「ですねー、ほんとだわ」
「会社もいろいろ身辺捜査をして、タイミングが偶然今日になったということじゃないのかなあ」
「そう言われれば、そうかもしれませんね」
「そうに決まってるよ。だってそれ以外には考えられないだろう?」
「そうですね。確かに」
田部井はだんだん納得したような顔になった。
「不正があったと言われましたが、どんな不正だったんですか?」
島田が中に割り込んできた。
「そこまでは部長は話してくれなかった。会社としては、恥をさらすようなものだから、こういう類のことは、あまり表沙汰にはしたくないだろうからな。会社を首になるくらいのことだから、かなりの不正を働いたんじゃないのかなあ。それぐらいしか言えないよな」
「そうですね。でも驚きましたね。怖いぐらいのタイミングで」
「だよな」
「でも、何はともあれ、ちーちゃん良かったじゃない。念願かなって。……田部井号、結果オーライで発車オーライ」
島田が、持ち前の茶目っ気で田部井を元気づけた。
「考えてみたら、早川さんが、私からの情報を部長に伝えなかったら、こういうことにはならなかった訳よね」
田部井がしみじみとした口調で話した。
「そうそう。そうことだよね、さすが我が友誓会の座長だ」
島田がおどけた。
「俺のことより、自分の恥になるようなことを、正直に話してくれた田部井君を誉めてあげようよ。田部井君も、いくら友達に話すこととはいえ、とても辛い思いをしたと思うんだよ。……な、田部井君」
早川は田部井に優しい視線を投げかけた。
「ありがとうございます。確かに辛いと感じたこともありました。でも、こうして思ってもいなかった、信じられないくらいの良い結果になりました。お陰様で相談した甲斐がありました。ほんとに嬉しいです。……みんなありがとう」
田部井はスクッと立って深々と頭を下げた。浅田と島田も立って田部井の手を握った。
「良かったね、ちーちゃん。これもみんな早川さんのお蔭だから、皆で早川さんを胴上げしようか? ……無理だね」
浅田の言葉にみんな大笑いした。
「じゃあ、はい起立っ、……礼。……ありがとうございました」
浅田の号令で、3人は早川に向かって深々と頭を下げた。
「あはは、俺はただ田部井君からの話を部長に言っただけだから、何にもしてないよ。……ま、でもいい結果になって良かったね。うん。良かった、良かった」
浅田は、早川の凄まじいばかりの行動力と頭の回転に舌を巻いた。田部井の相談を受けた時点で、この日のことを既に予測していたと思う。そうでなければ、田部井に彼とのあいまいな関係を断って、すぐにでも、別れの言葉を彼に言いなさいとか、携帯を買い替えなさいなどと言う筈がない。周到な準備と的確な判断と調査・分析力を駆使して、最善で最高の結果をもたらしたのだと確信した。
「ところで、みんな宿題やってきたかな?」
「はい。考えてきました」
浅田が手を上げて応えた。田部井も島田も手を挙げた。
「じゃあ、テーマは、……恋愛と結婚に絞った場合、お付き合いする相手の人間としての価値観をどこに求めるか。……このテーマだったよな? 島田君からいこうか?」
島田は手帳を繰った。
「ちょっと、質問いいですか?」
「うん、どうぞ」
「相手の人間としての価値観ということでしたが、恋愛とか結婚する条件として、こういうことを相手に求める、と置き換えて考えてもいいですか?」
「そうだね。同じようなことだからいいと思う」
「はい。ここに箇条書きにメモしてきましたから読みます」
島田が、手帳に挟んだメモ紙を読み始めた。
- ちゃんとした職業についている人。
- 実直な人で嘘をつかない人。
- 物事に前向きな人。
- 私の話を真剣に良く聞いてくれる人。
- 健康で丈夫な人。
- お金や時間や約束にルーズでない人。
- 何かあったときに自分を省みることの出来る人。
- すぐ感情的にならない人。
- マザコンじゃない人。
- 金銭感覚が一緒の人。
- 精神的に強い人。
「はい。分りました。……次は、田部井君いこうか」
「私も箇条書きにメモしてきましたから読みます」
田部井が、手帳に挟んだメモ紙を読み始めた。
- 自分の意見をちゃんと持っている人
- 優しくて思いやりのある人
- 品行方正な人
- ちゃんとした意見交換が出来る人
- 我がままじゃない人
- 自己管理がちゃんと出来る人
- 見栄を張らない人
- 他人にも胸をはって紹介出来る人
- お互いの家族にも認められる人
「はい。分りました。……最後に浅田君いこうか」
「はい。私も箇条書きにメモしてきましたから読みます」
浅田が、手帳に挟んだメモ紙を読み始めた。
- 今持ってる技術を発揮出来る仕事をしたい。
- お互いに向上しあえる関係を続けられる人。
- 結婚する事に迷いを感じない人。
- ずーっと一緒に居たいと思える人。
- 話し合いをとことん出来る人。
- 心の痛みが分る人。
- 周りの環境や人に感謝出来る心を持ち合わせた人。
- 自分に厳しく他人にやさしい人。
- 老後のことを2人で考えてくれる人。
- 真面目な人。
- 粘り強い人。
- 感情の起伏が激しくない人。
「その条件に出来るだけ近い人がいい訳だな」
「はい」
3人は異口同音に答えた。
「みんなありがとう。そのメモ書きを預かってももいいかな?」
3人は書いてきたメモ書きを早川に渡した。早川は、それぞれのメモ書きを見てニタリと笑った。それを見ていた浅田が話しかけてきた。
「何ですか? 変な笑いをして、何処かおかしな所がありました?」
「いや、そうじゃないんだよ、みんな真面目だなあと思ってさ。凄くまともジャン」
「だって、恋愛とか結婚を、ふざけて考える訳にいかないでしょう?」
「そういう意味じゃなくて、イケメンな人とか、お金持の人なんて、何処にも書いてないもんだから、可笑しくなったんだよ」
早川は変に頷いてみせた。
「そうなんです。書いてる間に、凄く真面目に考えてしまって。そうしますと、イケメンなんて価値のうちに入らない、なんて考えてしまうんですよね」
島田が顔を向けた。
「俺は、いつも考えていることがあるんだけれども、メモをする、しかも、パソコンじゃなくて、手書きでメモることが如何に大切かとね。手で書くという行為と、表面だけではなく、深く考えるということが連動していると思うんだよな。時には、本物が見えてくるから不思議なんだよなあ。単に頭で考えていたことが、書いてみると、同じことでも鮮明になって浮かんでくる、なんて経験ない?」
「あります。ですから、私は毎日起こった出来事を、出来るだけ克明に書くようにしているのです」
田部井が返事した。
「メモ魔の言うとおりだね。田部井君は、実にいい癖を持ってると思うよ」
「ありがとうございます。書くことが好きなんですね」
「そうか。いっそのことコピーライターとかにでもなれば良かったね」
「そうですね。嫌いじゃありませんねコピーライターとか記者は」
早川はこの時ふと、田部井には内村がお似合いじゃないかと思った。内村はまだ結婚していないと言っていた。
「いいかも。田部井君みたいにメモをつける癖をつけておくと、物事を冷静になって見れるようになるから、誰かみたいに、簡単にイケメンだからって、付き合うようなことはしないんだよな」
「あら、誰ですか誰かみたいって」
島田が突っ込んできた。
「さあ、誰でしょう。自分の胸に聞いてください。……これを見ると、恋愛も結婚も同じだということかな?」
「ニュアンス的には少し違いはあると思うのですが、恋愛をして結婚までいくとなると、そういうことだと思います」
浅田が解説してくれた。
「分りました。それでは、私は我が友人、可愛くてきれいで素敵な3人のキューピットとして、理想の男性を探すために行脚して参ります。なんだか、ほんと、笑いごとじゃないよさ。責任重大だなあ」
「そう思って、素敵な男性をつかまえて来てください。首を長くして待っています」
島田の言葉につられて、3人は明るい顔で、そして、満面の笑顔で早川の方を向いた。
「結婚してからも働きたいなんて書いてない、……浅田君は、そんな意味のことは書いてあるけど、他の2人はどう考えているの?」
「社会との接点は失いたくないから、出来れば働きたいですけど、相手によりけりですね。相談して決めます」
島田が答えた。
「田部井君は?」
「私も同じです」
「分った。場合によっては、今の会社を辞めることもあり得るからね。そうなると、淋しくなるなあ」
「そうですね。段々淋しくなってきますね」
「だよねえー、この話止めにしようか? 1人2人と、いなくなってしまうからなあ」
「でも、止めてしまうと、私たち3人は1人身でしょう? そちらの方が寂しい話ですよ」
「そうか、そうだよな。やっぱり頑張ってみるかな。いつになるか分らないけど」
「もうとっくに年頃になっていますから、出来るだけ早くお願いします」
島田が真面目な顔で早川を見た。
「分った。だけど、これだけは言っておく。たとえ紹介しても、ま、当たり前といえば当たり前だけど、必ずしも義務感を持つ必要はない、ってことにしてくれないかなあ。自分が良いと思えば付き合えばいいし、そう思わなかったら、義理で付き合う必要がないってこと。そうでないと、結局は傷つけてしまうことになってしまうから、そうなったら俺は嫌だから、あくまで、フリーに考えてくれたら気が楽なんだけどなあ」
「私達も、大好きな早川さんを困らせるようなことはしたくありませんから、その時はまた相談します。ねェー」
浅田が田部井と島田の顔を見て同意を求めた。2人は頷いた。
「そうか、ありがとう。……これで決まりだな。……じゃあ、このテーマは終わりにしよう」
4人は二次会に足を運んだ。田部井の問題が解決したことと、早川が、3人のキューピット役をしてくれるということで、飲み会は夜遅くまで盛り上がった。
社内情報の外部への漏洩事案が、友誓会という思ってもみなかった副産物を生みだした。そして事案の終息の日に、くしくも女性3人の、それぞれの人生に新しい芽吹きが始まったのである。早川には自分の結婚のことも含めて、希望に満ちた人生の到来を予感した。
早川は自分を含めた友誓会のメンバーである浅田、田部井、島田には、最終ステージで、ひと仕事して貰うつもりで構想も出来上がっていた。しかし、部長の鶴の一声で中止せざるを得なくなった。確かに、その必要性は感じなくなったが、胸のどこかが疼いていた。すっきりしない気分が行ったり来たりしていた。この続きは、会社を離れて、関東建設日報の内村に委ねるしかないと考えていた。思うような結果が出なくても構わない。自分1人が巨大な組織に立ち向かうなんて、馬鹿げた考えである。結果は明らかだ。だが、内村の情報収集力と新聞社という情報伝達力をすれば、もしかしたら、思っている万分の一ぐらいは気を晴らしてくれるかもしれない。ニュースソースとしては、抜群の価値があるように思う。業界の恥部を暴く、一大スキャンダルをスクープする。内村さん頼んまっせ。
祭日明けの木曜日の朝、野田と高津はやはり出社して来なかった。全社朝礼で人事異動が発表された。何事もなかったように極めて簡単な発表だった。それでも、全社員から少なからず驚きの声が低く起こった。早川は朝礼後C&Tの会議を開いた。そして次のような項目について細かく説明した。
- 野田係長と高津社員の件
- グループを解除する件
- 5人の増員の件
- 新プランニングの開始(新素案提示)の件
- 作業分担の件
- 作業のスケジュールについて
設計2課の課長が退職し、その部下であった野田と高津が退職した。全社朝礼の人事異動を聞いて、社内で何かがあったんだ、と思うものも少なくない筈である。
早川はいつもの通り、淡々と整然と会議を行うことで、心の動揺を抑え、余計な波風が立たないように気を配った。会議の冒頭で、人事部から、一昨日付で野田係長と高津の2人が退社したという連絡があった旨の話を改めてした。全社朝礼で発表があったといえ、さすがに全員が驚きざわついた。突然の事態だから無理もない。特に安浦は首を何度もかしげ、かなり動揺しているようであった。1人浅田だけが落ち着き払っていた。
野田と高津の件で何人かが質問してきたが、早川は全く知らなかった。自分でもびっくりしていると話した。グループ解除と5人の増員については郷田部長からの指示だと告げた。
A案でもB案でもない新規のプランニングの素案と、それに基づく今後の作業の分担とスケジュールを、早川のPCに格納しておいたから閲覧しておくように全員に指示した。
国際設計コンペ応募の締め切りまで残された時間は少ない。チームワークを重視し、全員が効率よく作業するよう指示した。
細部にわたる作業プログラムは既にできている。後はこのプログラムに沿って各担当者の作業状況をチェックしていきさえすれば良い。早川のコンペに向けた本格的な作業にギアが入った。どこまで戦えるかは未知数だが目指すは優勝。全知全霊を傾けて作業に専念する体制は整った。後は時間との戦いだ。もし、優勝を勝ち得ることが出来なかったら、責任を取るより手はない。やるだけやるしかないのだ。一途一心で突破するぞ。
会議後、早川は安浦を別室に呼んで注意した。
「君は野田係長や高津君と大分親しかったようだな」
「はい。良く飲み会に誘ってもらいました」
「そのことは、特別どうのこうのはないのだが、何の理由かは分らないが、2人は退職してしまった。今朝の朝礼での発表で設計2課長まで退職した。それを聞いて、この3人は設計2課の時に、何か不始末をしでかしたんじゃないか、と俺は思うんだよな。そうでなかったら、急にこうなる訳ないもんな?」
「はい。私もそう思います」
「そうなると、2人と深い付き合いだった君も、君の今後の行動次第では、あらぬ疑いを掛けられる危険性がない訳ではないと思うんだよな」
「えっ、私がですか? 私は何も知りません」
「それは分ってる。君が悪いことをする訳がないからな。そういう意味ではなく、念のために、今後の行動に細心の注意を払っておいたほうがいいぞ、ということを言いたかったんだよ」
「はい」
「例えば、野田君や高津君との付き合いは、今後一切しないほうがいいと思うよ。言ってる意味が分るかな?」
「はい。良く分ります。そのように致します」
「もしかしたら、君は、設計2課長を含めた3人が、こうなった理由を知っているんじゃないのか?」
早川が鋭い口調で安浦を問いただした。安浦の驚きは尋常ではなかった。
「リーダー、とんでもございません。私は、ただ飲みに誘われただけです。飲食を共にしただけです。後は何も知りません」
「飲食代は誰が払ったんだ。割り勘だったのか?」
「いえ、全て野田係長か高津さんでした。私も悪いと思って、割り勘にしてくださいと言ったことがあるのですが、その度に、俺に恥をかかせるのかよ、金のことは心配しなくていいよ、なんて言われました」
「野田係長は大分羽振りが良かったそうだな」
「はい。そう思います。どうしてだろうと、疑問には思ったのですが、実家が金持ちなんだろうぐらいしか思っていませんでした」
「松岡課長も飲食に同席したことがあるのか?」
「はい。2回ほどあります」
「その時も野田君が飲食代を支払ったんだな?」
「はい。そう記憶しています」
「羽振りが良かったってことは、高級クラブや料亭にも誘われたことがあるのか?」
「いえ、そんなことは一度もありませんでした」
「あ、それと君は、PCにフリーフォルダを作成していたのか?」
早川はとぼけて聞いてみた。
「あ、はい。作成しております」
「野田君と高津君への連絡は、社内メールを使っていたんだな?」
「はい。すみません」
「社内メールは、私的なことには使用してはいけないとなっているだろ?」
「はい。野田係長からの誘いに対して、返事をしていただけのことなんですが、私用に使っていたことになります。申し訳ございません」
早川はこの安浦は正直者だと思った。
「部長から、野田君と高津君のフリーフォルダとメッセージを、全て削除しておきなさいと言われたもんだから、訳も分からず昨夜削除したが、その時、野田君のフォルダに、何だか訳の分らない名前が付けられていたが、その中にハグレタカというフォルダがあったんだが、あれは何だろうね。君は知ってるか?」
「いえ、知りません。どういう意味なんですかね」
安浦がとぼけているか、嘘をついているようには思えなかった。
「これから席に戻ったら、すぐフリーフォルダとメッセージを削除しておいたほうがいいぞ。近いうちに、総務課のチェックが入るから見つかったらヤバいぞ」
「はい。分りました。そのように致します」
「それと、野田君や高津君は、君のパソコンのアドレスを知っている訳だから、もしかしたら連絡があるかもしれないな、……どうする?」
「私の方で勝手にアドレスは変えられませんから、迷惑フォルダに入るようにしておきましょうかね」
「いや、それじゃ甘い。君のアドレスを変えてもらうように頼んでおこうか? いいかな?」
「はい。そうしていただければ助かります」
「野田君と高津君以外には社外も含めて、今のアドレスを使って、メールのやり取りをしている人はいるのか?」
「いえ、いません。私的なことは、これ以外では携帯を使っていますから」
「分った。……くどいようだが、その君の携帯の番号やメールアドレスを、野田君や高津君は知っているんだろ?」
「いえ、教えていません」
「嘘だろう? そんなことは信じられないけどなあ」
「いえ、ほんとです。今思いますと幸いでしたが、その程度の付き合いでしたから」
「そうか、それは幸いだったな。余計な心配だったな」
「いえ、ありがとうございます」
「野田君や高津君が社内の誰かに電話して、君の番号を聞き出すかもしれないな。そんなことも考えられるよな」
「いえ、それも心配ないです。携帯でも公私の区別はつけています。社内には、私の携帯の番号やメルアドを知ってる人は1人もおりません」
「分った。君の今後のことを案じて話したまでだから、悪く思わないでくれよな」
「はい。良く分っております。ご心配おかけして申し訳ございません」
「君も将来のある優秀な人材だから、余りくだらないことに時間を割かずに、業務に精励するとか、もっと前向きなことに時間を使うことだな。時間の浪費は、人間を駄目にしてしまうからな。時間は金では買えないし溜めておくこともできない。君が成長するために時間がどれほど貴重か、これを機会に一度良く考えることもいいと思うけどな」
「はい。肝に銘じます。そんなアドバイスをしてもらったのは初めてです。ありがとうございます」
「酒のことも肝に銘じたらどうだ?」
「そうですね。これから控えるようにします」
「うんうん。約束だぞ? ……今日はありがとう。期待してるから頑張ってな」
「はい。……ありがとうございました。……失礼します」
早川は席に戻り、石川係長と田崎係長をデスクに呼んで、新しい素案を閲覧した上で、素案についての各スタッフの意見をまとめておくように指示した。意見の集約をして、その中から優れた意見を素案に加味していこうと思った。
早川は浅田に電話した。
「ごめん。例のおいしいコーヒーを所望してもいいかな?」
「あ、はい。おやすいご用です。……その前に一言いいですか?」
「うん。何?」
「さっきの会議素晴らしかったです。改めて惚れ直しました」
「ありがとう。そう言ってくれるのは君だけだよ。嬉しいね」
「会社では孤独なんでしょう?」
「ま、そうだな。立場上仕方ないよ。これも仕事のうちだよさ。でも、友誓会があると思うと、最近はそうでもないけどな」
「ふふ、少しお待ちくださいね。飛びっきり美味しいコーヒーを作ってきます」
「うん。頼む」
暫らくして、浅田がニコニコしながら早川のデスクに近づき、コーヒーカップを置いた。
「いやー、ありがとう。いつもすまないね」
コーヒーを一口飲んで指で丸を描いた。浅田は早川に対してこれまでと違う思いをしていた。今では完全に友達感覚になれたのである。前みたいな感情のときめきがなくなった代わりに、信頼と尊敬の念が一段と強くなった。いい兄貴分に思えてきた。似たようなことを田部井と島田からも聞いていた。田部井と島田を含めた3人の間では、どんな男性を紹介してくれるのか、事あるごとにそればかりが話題になった。
「田部井君のことで、少し話を聞かせてくれないか? ここじゃなんだから電話する」
浅田は急ぎ足で席に戻った。電話が鳴って出た。
「田部井君と今朝話したかい?」
「ええ、彼女一昨日の話がほんとだと知って、改めてびっくりしていました。そして、泣き出さないかと心配するくらいに嬉しがっていました」
「田部井君は泣き虫だからな。他に変わったことなかった?」
「松岡課長の退職と保坂課長のことにびっくりしていました」
「彼女のメモにも、2人の課長のことが記されていたからね。それは驚いたろうね」
「少しお尋ねしてもいいですか?」
「うん。何だね?」
「今日の一連の社内処分に至ったことに関して、私は、早川さんが深く関わっていたと、どうしても思えてならないのですが、ほんとに昨夜お話になった通りなんですか?」
早川は、浅田の勘の良さは前々から感づいていたが、ずばりと言われて困ってしまった。
「……浅田君、それ以上のことは言わないで欲しいんだ。近いうちに、君だけにはほんとのことを言っておきたいと思っているんだ」
「はい。分りました。これ以上申しません。すみませんでした」
「ごめんな。俺も辛いところがあってな、察してくれ」
「はい。早川さんのこと、もっと好きになりそうです」
「友人としてだろ?」
「はい。そうです。私は今、素晴らしい友人を持って、とても幸せだと思っています」
「ありがとう、みんなのことは、いつも大事に思ってるから、そのことだけでも感じてくれると嬉しいよな」
「みんな感じていると思います。恋愛とか結婚よりも、男と女の友情って、はるかに感動的だと言っていますよ」
「そうあるべきだよね。結婚は1人だけしかできないけど、友人は無限に出来るからな。そういった意味では、人生に於ける友人の存在というのは、何にも代えがたい大切な宝物かもしれないな」
「最近になって、そう思えるようになりました。とても充実した、生きがいのある人生を歩いて行けそうな、そんな感じがしています」
「そうか。良かった。君がそこまで言ってくれると、ほんと何よりも嬉しいね。君のことを、もっと好きになりそうだよ。ありがとう」
「それは恋人として? 友人として?」
「決まってるじゃないか、恋人としてだよ。……あ、間違った友人としてだよ」
「ああ、一瞬心臓が破裂しそうでした。ふふ、……これからも宜しくお願いします」
「うん、こちらこそ。……あ、それとさ、話変わるんだけど、この前君と食事に行った時、電算課の吉田君との食事の話したよね。……覚えてる?」
「あ、ええ、そう言えばそういう話がありましたね」
「あの話、彼と食事をしたいとは思っているんだけど、やっぱ悪いから、君を誘うの止めにした。そのつもりでいてくれる?」
「ええ、いいわよ。私もあんまり乗り気じゃなかったから」
「そっか、良かった。……じゃあな」
早川は岩田課長に電話した。
「課長、今いいですか?」
「オー、君か、いいよ」
「ちょっと今から、そちらに行っていいですか?」
「俺も君と話ししたかったんだよ、すぐ来てくれ」
岩田課長も2課長が退職したことに、さぞかしびっくりしていることだろうと思った。岩田課長は既に応接のソファに腰を下ろしていた。そして、女子社員にコーヒーを持ってくるように頼んだ。早川が顔を出した。その顔を見るなり、手招きでソファを指差しながら言った。
「驚いたね、……えっ、何があったんだね」
「私は、課長がご存じなのではないか思って、それを聞きたくて電話したんですけど」
早川は機先を制した。
「そうか、皆目分らない」
「やっぱりそうですか、課長がご存じなければ誰も知らないでしょうね」
「ウーン、分らん」
「野田君と高津君は、松岡課長の部下だった訳でしょう?」
「だよな。じゃあ、設計2課の時に何か不正が行われたのかな?」
「この前課長は、野田君が、かなり羽振りが良いとおっしゃっていましたよね」
「そう聞いたけどな」
「その線で、何か浮かんできたんじゃないでしょうか」
「そうかもしれないな。それにしても、降ってわいたような急な話で耳を疑ったよ」
「そうですね。朝礼で聞いた時は、ほんとにびっくりしました」
早川はとぼけるよりほか手はなかった。
「3課長の片桐課長も大変だよ。兼務だというからなあ」
「急な話で、後任がまだ決まらないんでしょうね」
「だろうな」
「C&Tも大変でしたよ。さっき会議を開いたんですけど、みんなショックな顔をしていて、困ってしまいました」
「だろうな。君も大変だな。どうするよ今後は」
「ええ、5人増員して貰いましたから、これから馬力をかけて頑張ります」
「どうだ丁度いいや、この話の続きは、今夜一杯やりながら」
「ですね、久しぶりにご馳走になります」
「じゃあ、この前の不義理した藤にでも行こうか。その前に腹ごしらえだな」
「ええ、18時頃でいいですか? 一緒に出ましょうか?」
「えーとな、悪いけど、18時半にしてくれないか、ちょっとばかり、やらなければならないことがあるんだ」
「分りました。じゃあ、そういうことで、……失礼します」
関東建設日報の内村に電話した。
「おや、嬉しい人の声が聞こえてきました。先日はありがとうございました」
「こちらこそ、大変お世話になりました。……今いいでしょうか?」
「ええ、いいですよ。心待ちにしていました」
「あのー、明日は時間取れませんか?」
「少しお待ちくださいね。……ああ、申し訳ないなあ、と言うより残念だなあ。明日は金曜日ですよね、終日予定が入っているんですよ」
「そうですか、……それでは来週にしましょうかねェー、……ちょっと待ってくださいね、……内村さん、今日の午後はどうなっていますか?」
「今日の午後は、14時からでしたら2時間ばかり空いていますが」
「じゃあ、その時間にしませんか? この前の喫茶店でどうですか?」
「えっ、ほんとですか、嬉しいなあ。是非お願いいたします。お待ちしています」
「じゃあ、その折りに」
早川は、14時に関東建設日報社の近くの喫茶店に入った。既に内村記者は席に腰を下ろしていた。早川の顔を見て手を上げた。
「いやー、お久しぶり、……お元気でしたか?」
早川が頭を下げながら近づいて、反対側の席に腰を下ろした。
「元気だけが取り柄です。今日はすみません。ありがとうございます。……コーヒーでいいですか?」
「私は、ミルクティーをお願いします」
内村は店員を呼んで、コーヒーとミルクティーを注文した。
「内村さんの顔を、たまには拝ましてもらおうと思いまして、お忙しいのにと思いながら、厚かましく参上しました」
「今日のことは私の方からお願いしたことですので、本来は、私の方が出向いていかなければならない立場ですのに、そうおっしゃっていただいて痛み入ります」
「ま、お役に立つかどうか自信はないのですが、一応一段落したものですから、頃合いかなと思いまして」
「そうでしたか、それはそれはご苦労様でした。……いろいろあって、大変でしたでしょう?」
「ま、そうですね、今、ホッとしています。内村さんの方は、その後進展はありましたか?」
「足踏み状態には変わりないのですが、少しづつは進展しています」
「そうですか。それは良かった。時間が余りないようですので、もういいですか? お話ししましょうか?」
「はい。よろしくお願いいたします」
「これから私が申し上げることを、メモしていただけますか?」
「はい、どうぞ」
「確認申請がらみのことについては、既に掌握されていらっしゃるでしょうから、ここでは申し上げません。内村さんのことですから、これから私が申し上げることは既にご存じのことばかりで、つまりゲスネタに過ぎないかもしれませんが、私が今日までに知り得た情報を、差支えない範囲でお話ししますが、それでよろしいでしょうか?」
内村は、早川の緻密な神経に少々驚いた。
「はい。結構です」
内村は、あらかじめ用意していたノートをテーブルの上に開いて、早川の口から出る言葉を、一言一句もらさず書き留めようと真剣な顔になった。早川は、手帳に書き留めたメモを見ながら、ゆっくりと話し始めた。内村がノートに書いたメモは、次のような内容だった。
- 東西国土建設(株)名古屋本社の電話番号
→ 052―***―**** - 東西国土建設(株)東京支店の電話番号
→ 03―****―**** - (株)佐藤建設資材の電話番号
→ 0532―XXX―XXXX - (株)佐藤建設資材 東西国土建設(株)担当
営業主任中条幸一の電話番号
→ 0532―***―**** - 東西国土建設(株)名古屋本社
TTという女性のメールアドレス
→ ttarimatu@xyz.ab.com - (株)佐藤建設資材
hmanoという女性のメールアドレス
→ hmano@ab.xyz.jp
「分りますか?」
早川は内村に聞いた。
「今一、流れが掴めませんね」
「でしょうね。内村さんに差し上げたいものがあるんですが、今一度約束していただきたいことがあるんです」
早川の真面目な顔を見て内村は少し緊張した。
「はい。何でしょうか?」
「一連の流れを、私なりに推理して順を追って記述してみました。これから、それを内村さんに差し上げようと思っています。これには、本来は絶対口外してはいけないものが含まれています。そこで、会社の名前や私のことは、くれぐれも伏せて頂きたいのですが、お約束できますか? 信頼をしている内村さんに、このようなことを申し上げるのは誠に忍びないのですが、会社の恥ずかしいところをお見せすることになりますので、ご配慮いただきたいのですが」
「分りました。この前から申し上げていますように、早川さんや早川さんの会社には絶対にご迷惑はかけません。誓ってお約束します」
「ありがとうございます。これは、あくまで私の推理の域を出ておりません。ま、当らずとも遠からずとは思っておりますが、その辺はご理解ください。それと、ここに書いてある内容は、私の推理ですが、内村さん自身が推理したように書いてあります。そこもご理解ください」
「はい。分りました」
早川は内ポケットから、今日の為に社宅のパソコンで作成したものを取り出した。そして内村に渡した。
◆考えられる推理
- 東西国土建設(株)名古屋本社の役員、津村健太郎が陣頭指揮していると思われる
- 建設資材納入実績3位の(株)佐藤建設資材が、資材納入のさらなる上積みをしきりに願い出ていることに着目する。
- 建設資材の東西国土建設(株)への納入を大幅に増大する旨の確約を条件に、取引先の(株)佐藤建設資材に次のような指示を出す。
- ライバル会社の受注予定リストの入手。
- ライバル会社が進めている国際コンペに関するデータ並びに進行状況の入手。
- 上記に関するライバル会社建設部の人事を含んだ組織図の入手。
- 上記に掛る費用は一切(株)佐藤建設資材が負担する事。
- (株)佐藤建設資材は、東西国土建設(株)担当の営業主任の中条幸一が、ライバル会社の某人物(A)と高校の同級生であることを知る。
- そこで中条に事の仔細を説明しAに接近するよう指示する。
- 中条は社内における他の班との実績比較で後れを取っていた。同級生に対して、反社会的な行為を求めることに強い後ろめたさを感じていたが、背に腹はかえられない、悪いと思いつつもこの指示を絶好の機会ととらえた。
- ライバル会社からの指示を完遂するための費用は、当面月100万円程度(推定)とする。
- 中条は高校の時はAとはそれほど親しくはなかった。しかし、同窓会の席で飲食し名刺交換してから、まんざら異業種ではないという思いから、割合親しく歓談するようになった。
- 中条は出張でちょくちょく上京するから、暇なときにでも会って食事でもしないかと誘いをかけた。
- 以来中条とAは頻繁に飲食を共にすることになった。
- 暫らくして、時々Aの部下Bも交えて飲食するようになった。
- 資材納入の為の営業ということにしておいてくれという中条の言葉をAは信じた。
- その理由で飲食代は全て中条が持った。会社持ちだから大丈夫だよという中条の言葉にAは疑念を持たなかった。むしろ接待されてる感覚になり、中条との飲食を楽しむようになっていった。
- 中条との高級料亭や高級クラブでの分不相応な遊びを重ねるうちに、Aとその部下は徐々に我を失っていった。
- そんなある日、中条は高額の見返り費用を用意してる旨の話を交えて、Aにこっそり打診してみたが、最初色よい返事ではなかった。
- Aの立場は厳しい管理下に置かれ表立っては行動できないから、そんなことはとても無理だという。この時まではAも冷静で強い罪悪感が勝っていた。
- 中条はそれでも度々東京に足を運びAと飲食を共にした。
- Aは安給料の身である。自腹で飲食するには限界がある。体に染みついてきた、高級料亭や高級クラブの何とも言えない心地よさと雰囲気が嫌でも脳をくすぶる。
- Aはある日、あろうことか部下Bにこの話を持ちかけた。
- 自分にしっかりした信念を持っている人間は、そんな誘惑に乗ってはならないと、強い拒否感が生まれるものである。だが、部下の立場は実に弱いものである。この話に乗れば、高級料亭や高級クラブでの遊びが出来ると、言葉巧みに話しかけるAにとうとう陥落してしまった。部下Bも、しばしば同席した高級料亭や高級クラブでの遊びの悦楽が体に染みついている。
- 会社にばれたら大変なことになるという部下Bの心配は一笑された。絶対大丈夫だよ。俺が責任を持つとか何とか言われれば、そうかなと思ってしまうほどの人間のレベルといってもいい。
- ある日、Aは上京してきた中条との食事の席で、表立っては動けないが部下Bが動くからという話を持ち出してきた。このことは既に部下Bも了解済みだという。
- 中条は、それでは一度東京ではなんだから、目立たない名古屋でちゃんとした打ち合わせをしないかと持ちかけた。中京競馬場もあるし。
- Aと部下Bは一つ返事で応じた。
- 名古屋での食事を兼ねた会合の席に、中条の同僚という1人の女性を紹介された。女性はhmanoと名乗った。
- 会合で取り込められた内容は以下のようなものであった
- Aと部下Bはライバル会社の受注予定リスト、国際コンペに関するデータ並びに進行状況、建設部の人事を含んだ組織図を定期的に提出する。
- 情報提供の見返りに2人に月当たり100万円(推定)を与える
- 但し、提供される情報が期待したものを下回る場合は減額もあり得るものとする。
- 案分は2人の話し合いで決定する。
- 情報提供料は、hmanoから部下Bに直接手渡すことにする。
- 即日実施することとする。
- この会合で決定されたことについては各人守秘義務を負うこととする。
- 特殊な事情や変更等が生じた場合は協議して決定する。
- 以来、Aは管理職という立場を利用して情報の収集に余念がなかった。
- その結果、時間の経過とともに(株)佐藤建設資材はもとより、東西国土建設(株)に大きな成果をもたらした。
- hmanoは当初現金の手渡し役ではあったが、次第に部下Bと深い仲になっていった。
- hmanoは名古屋での定期会合ごの飲食の時、東西国土建設(株)勤務で友人のTTを野田に紹介した。今から半年程度前のことである。
- AはTTの魅力に取りつかれ次第にのめり込んでいった。
- Aは新宿、渋谷、池袋あたりで豪遊するようになり天下を取ったような気分を謳歌した。
- 連絡先
- Aの電話番号 090―****―5678
→ 退職(解雇) - 部下Bの電話番号 080―1234―****
→ 退職(解雇)
ここまで読んで内村は、早川の顔をしげしげと見た。この人は何という人なんだ、と言いたげな顔である。驚きの余り、暫らくは声が出なかった。
「どうでしょうか、……やっぱりゲスネタですかね?」
「……」
「そんなことは、とうに調べ上げていますよね。……あは、その用紙を返していただきましょうか。……紙クズでしたね」
内村は、まだ早川をじっと見詰めたままだった。
「どうされたんですか? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をされて」
「これは、頂いてもよろしいのですか?」
「先ほどの約束を守っていただけるんでしたら、どうぞ」
「ありがとうございます……」
「少しはお役にたちそうですか?」
「ごめんなさい。正直言いまして度肝を抜かれています。私は早川さんが怖くなりました」
「あはは、こんな優しい男を捕まえて、怖いはないでしょうよ」
「いえいえ、感服いたしました。凄いの一言です。私なんか足元にも及びません。新聞社を辞めなければいけませんね。良くここまで調べ上げましたね」
「いえいえ、大したことないですよ。素人がやることですからね。状況を判断して、当てずっぽうに推理したまでです。後は内村さんの方で、適当に解明していただければと思います」
「早川さん、これは凄いことになりますよ。間違いなく、世間がひっくり返るほどの大スクープになりますよ」
「そうなればいいですね」
これだけの途方もない価値のあるソースを提供しておいて、他人事のように振る舞う早川の度量を計りかねていた。聞きしに勝る人物である。
「ここまで分れば、後は私どもの調査力で真実が明らかになります。ほんとにありがとうございます」
「いえ、どういたしまして。そのメモは内村さんが書かれたものですから、私には関わり合いのないことです。……ですよね?」
話をするっとすり替えてしまう。まさに何をか言わんやである。
「はい。そうです。これは私自身が推理したものです。良く出来ていると自画自賛いたしております」
「あははは、良かった、良かった。内村さんの笑顔って素敵ですね」
「あれ? この話は終わりですか?」
「はい。終わりましょう。時間もありませんし、後は内村さんにお任せするしかない訳ですから」
「いやー、ありがとうございました。何とお礼をしていいのか今は思いつきません」
「お礼なんかいりませんよ。ニュースソースの成果と言いますか、果実が私には一番嬉しい訳ですから」
「そうですね。じゃあ、そのように理解致します」
「スクープ記事が世間に出るのは1年後ぐらいですか?」
「いえ、遅くても半年後ぐらいには何とかなると思います」
「いきなりドカーンとやるんですか?」
「いえいえ、いきなりはやりませんよ、じわりじわりといきます」
「何段階かに分けてですか?」
「そうなりますね。まず週刊誌でジャブを聞かせて、私どもの新聞でボディーを打ち込んで、最後に大手新聞社がとどめを刺す。ま、簡単にいますとこんなイメージですね」
「そうですか、楽しみですね。ちなみに、この前おっしゃっていた、ある有力な全国系の大手新聞社の優秀な記者と懇意にしていらっしゃる、とお聞きしましたが、大手の新聞社ってどこですか? ……差支えなければ」
「いずれ分ることですから、一応申し上げておきます。日本速報新聞です。発表になるまで、このことは極秘でお願いいたします」
「分りました。お約束します。ありがとうございます」
この時内村は、早川の心の奥底に潜む、凄まじいばかりの復讐心を感じた。この人を敵に回したら怖いとすら思った。そして、自分もそうであるが、この人のほんとの狙いである、建設業界にはびこる恥部を一掃することに全力を挙げることが、この人に対する恩に報いることだと思うことだった。
内村の一刻も早く社に帰りたい心境を、早川にあっさり見抜かれてしまった。
「ほんとは明日の予定でしたから、そう慌てなくてもいいでしょう?」
「あは、見抜かれましたね。あまりにも凄いソースをいただいたものですから、もうパニック寸前ですよ」
「百戦錬磨の内村さんに限ってそんなことはないと思います。……内村さんはどんな女性が好みなんですか?」
早川が思ってもいない話をしてきた。
「えっ、また、話がくるっと変わりましたね」
「固い話の後には、柔らかい話で中和しないと人生面白味がありません」
「あは、なるほど。……私の好みですか、そうですね、ま、私の仕事を理解してくれる人がいいですね。これでも結構生活が不規則になりがちですからね」
「そうかもしれませんね。やはり美人でスタイルのいい女性がいいのでしょうね」
「それに越したことはありませんが、余り拘りませんね。それよりも少し苦労している人がいいですね」
「苦労ですか?」
「ええ、何もかも親の言いなりで育ってきた人よりも、自分なりにしっかりした考えを持っている人で、人間関係で多少苦い経験をしたとか、精神的に苦労をした経験のある人の方が、いざという時に、乗り越えるだけの知恵を発揮出来るような気がするんですよね。人生、順風満帆は一時のことだと思ってるんです。苦労する時間が長いですからね、いろんな意味で」
「そうですね。内村さんは、将来独立なんてことは考えていらっしゃるんですか?」
「いやいや、とてもじゃないですが、世の中そう甘くはありませんので、独立してなんて、ちょっと無理なような気がしてるんです。それでも、心のどこかにそんな気持ちもないことはないのですが」
「そうしますと、先ほど仕事を理解してくれる人とかおっしゃっていましたが、出来れば、内村さんの仕事を手伝うことの出来るような能力を持った女性なら、なお良いですね。独立した時も助かるでしょう?」
「それは、そういう人に越したことはありませんよ。しかし、そういう人はまずいないでしょうね。いたとしても、私の目の前には現れませんよ」
「宝くじに当たるようなもんですね」
「そうです。そうです。ま、結婚相手となるとそうですねえー、人間的に良い人ならいいと思います。贅沢は言えません」
「何をおっしゃるんですか、一生の問題ですから、贅沢な考えをしておいたほうがいいと思いますが」
「確かにそういう考えもありますね」
「内村さんはそういう女性が現れたら、すぐにでも結婚したいとお考えなんですか?」
「はい。実は30歳になるまでは結婚したいと考えていたのですが、超えてしまいましたからね」
「どうして30歳までなのですか?」
「あはは、これは失礼しました。早川さんも越えていましたね。いえ、特別な理由はないのですが、子供が出来て、その子供が女の子だとして、早くて20歳から23歳くらいで結婚してくれますと、私の年齢が50歳から53歳くらいでしょ? その年に孫の顔が見れる訳です。さらに上手くいけばひ孫の顔も拝めるかもしれませんからね。ま、そんなくだらないことを考えていたものですから。……バカですよね」
「内村さんて、外見に似合わずとても家庭的なんですね。子供が好きみたいですね」
「大好きですね。今からじゃもう遅いですが、保育園か幼稚園の園長をやりたいと思った時がありました」
「へー、この内村さんが園長先生ですか? ……いやー、それはちょっと無理ですよ」
「えっ、どうしてですか?」
「だって、そんな精悍な顔じゃ、子供が逃げ惑うか泣いてしまいますよ」
「あははは、言えてますね。これでも優しんですよ。慣れてくれさえすればいいと思うんですが、慣れるまで時間が掛ってしまって、慣れる前に卒園してしまったなんて、……ですね?」
「あははは、面白い。意外な一面を見させていただきました。……では時間もなんですから今日はこの辺で失礼します」
「あ、はい、いろいろありがとうございました。ほんとに助かりました。これで、やっと明るい陽射しが差し込んできたような気がします」
「喜んでいただいて嬉しいです。じゃあ失礼します」
「ありがとうございました。私の嫁さんに良いような女性がいましたら、そちらの方もお願いします。その方面はどうも奥手なんです」
「あは、気にかけておきます。……それでは」
早川は茶店を出て社に戻った。
6時半に早川は岩田課長と連れ立って社を出た。軽い食事を済ませた。岩田が初めてのスナックに連れていった。カラオケスナックである。さほど上手くもない岩田の歌を何曲か聞かされた。そこを出て、スナック藤に顔を出した時には11時を回っていた。珍しく客が少なかった。
「あら、いらっしゃい。お久しぶりです」
ママが元気な声で挨拶した。奥のソファに2人を案内した。
「いつもの焼酎でいいですね?」
ママはおしぼりを渡しながら聞いてきた。
「先にビールを1本貰おうかな。後はお湯割りでいこう。君はどうする?」
岩田は早川に聞いてきた。
「同じでいいです」
「涼ちゃんお願いね」
ママが涼子を呼んで、奥の厨房に下がった。涼子が、ニコニコしながらテーブルの横に膝をつき挨拶した。ビールとつまみをテーブルに置いた。
「いらっしゃいませ、お待ちしていました」
「誰を待ってたの?」
岩田が言わなくてもいいことを言った。涼子がビールを2人のコップに注ぎながら言った。
「もちろん、お二方ですよ」
涼子は早川の顔をチラチラ見ながら微笑んだ。
「もう少し、嘘のつき方を勉強したほうが良い。顔に嘘ついてますと書いてあるぜ」
岩田がニヤニヤしながら涼子の顔をみた。
「あら、ごめんなさい、ほんとのことを申し上げたつもりですのに」
涼子は少しはにかみながら弁解した。
「課長、今日は嫌に絡みますね。どうしたんですか? 涼子さんのことが気になりだしたんでしょう?」
「俺がもう少し若かったら、そうかもしれないがね」
「ということは、気になってるってことでしょう?」
「ま、こんな美人を気にならない男性が居たら、お目にかかりたいね」
「涼子さん聞きましたか? 最高の誉め言葉ですよ。どうします?」
「あら、どうしましょう、とっても嬉しいです。ありがとうございます」
涼子は岩田に微笑みかけた。
「課長、恋愛や結婚に歳の差なんて関係ないですよ。今流行の歳の差結婚だってある訳ですから。30何歳も違う女性と結婚した芸能人もいるじゃないですか」
「いやいや、俺はそのことでは懲りてるからな、……もういいよ」
岩田は、浅田と田部井を誘って、飲みに行ったことを言っている。
「やっぱりママがいいですか? ……あれ、こう言うと、ママに失礼かな?」
早川は口に人差し指を当てて涼子を見た。涼子がニコニコしながら首をすくめた。
「そうだな、ママとなら、なんとか話題も弾むかもしれないな」
「涼子さん残念でした。課長はママが良いそうです」
「はい。残念ですけど、ママの美貌には足元にも及びませんから、仕方ありませんわ」
そこにママが奥から焼酎瓶とポットを持って来て、話に割り込んできた。
「お待たせしました。お話が弾んでいるみたいね」
「ママ、課長さんが、ママのことをとっても気になさってる感じですよ」
涼子がママの顔を見て言った。
「あら、まあ、今夜も? ありがとうございます」
「その気もないくせに」
課長がすねてみせた。
「課長、ネバーギブアップですよ。良くあるじゃないですか、熱意にほだされて付き合うことになりましたって」
「いや、俺はまだ諦めている訳じゃないんだよ。だがなあ、この美貌だろ? 毎晩男に言い寄られて困っているんだろ? えっ、ママ?」
岩田がからかうようにしてママの顔を見た。
「だといいのですが、こんな商売をしていますと、正直本音を見せる訳にはいかないでしょう?」
「それはそうだよな。だけど、店に来る男の中で、ママがほろっとするような奴もいるんじゃないの?」
「それはいらっしゃいますよ。例えば、今夜の課長さんとか早川さんとか」
「参ったな、これだからな。誰にでも同じことを言ってるんだよな。商売がうまいなあママは」
岩田が笑いながら喋った。じっと聞いていた涼子が口を開いた。
「私もここに来てまだ少ししか経っていないんですけど、難しいですね」
「えっ、何が難しいの?」
早川が涼子の顔を見た。
「ええ、いろんな男性がお見えになりますし、その点は社会勉強にはなるのですが、酔っぱらった人を相手にお話しするって、私にはとても出来そうにないのです」
涼子がママの顔を見ながら辛そうな顔をした。
「課長さんや早川さんみたいな人達ばっかりでしたら、そんな思いはしないのでしょうけど」
「たまには酔った勢いで、変なことをしたりする奴もいるのかな?」
岩田が聞いてみた。
「ええ、そうなんです。私は慣れないものですから、とても不愉快で困っています」
涼子はいかにも困ったような真剣な顔になった。
「その点、ママは上手ですね。受け答えをスルリスルリとかわして、さすがだなと思います。私もママのようになれればいいのでしょうけど、とても自信がありません」
それまで黙って涼子の話を聞いていたママが、困ったような顔をした。
「そうなんですよ、私もこの商売に入った頃はそうでしたからね、気持ちは分らないでもないのですけど」
「そっかあ、そうかもなあ、この世界は」
「ええ、ですから、そのうち慣れるからって言うのですけど、この子は出来ないと言って、近いうちに辞めるって言い出したの」
「えっ、辞めるの?」
早川が驚いた。もしかしたら、先日電話があったのはその相談だった? まさか、店でほんの少ししか話していない男に相談する筈はない。
「この子はご覧のとおり、美人だしスタイルもいいから、男性の評判が良くてすごくモテるの」
「うんうん、それはそうだろう。分る、分る」
岩田がしきりに頷いた。
「この子が来てから売り上げも上がって、助かっていた矢先に、こんな話が出てきて困ってるんです」
「でも、涼子ちゃん、この店を辞めてどうするの? 生活出来るの?」
早川が心配して尋ねた。
「少しですけど蓄えがありますから、その間、就活しようかと考えています。元々このお店にお世話になる前はOLでしたから、やはりその方が自分には合ってるような気がします」
「そっかあ、うまいこと就職出来ればいいけど、こういうご時世だから、なかなか大変だろうと思うけどなあ」
「でも、ママにはほんとに良くしていただいているのに、身勝手なことを言って悪いと思うのですが、生理的に受け付けない状態を続けていくのは、とても耐えられないのです。……ママごめんなさい」
涼子が今にも泣きそうな顔を見て、早川は可哀想に思った。やむを得ずこの世界に入っては見たものの、外で見ているよりも厳しい世界に触れて、とても性に合わないことに気づき、気持ちが滅入っているのである。ママと2人きりで話し合えばいいものを、客の前で話さざるを得ないほど悩んでいるのであろう。岩田と早川だから話してみようと思ったのかもしれない。いや、2人で散々語り合ったが、らちが明かなかったのかもしれない。
「で、ママはどう考えているの?」
早川がママを向いた。
「ええ、私としては、ドル箱を手放すことになる訳ですから、ほんとはずーっといて欲しいのですけど、この子の人生まで縛り付けることは良くないことですので、残念だけどやむを得ないかなと、もう諦め掛けてはいます」
「ママ、人には向き不向きがあるし、女性が生理的に受け付けないなんて、よっぽどなことだと思うんだよな。ママの事情も良く分るけど、俺は涼子ちゃんの気持ちを大事にしたいな」
岩田が珍しく真面目になって話しかけてきた。
「飲む席で、課長のそんな良い話を聞いたの初めてです。私も賛成です」
「おいおい、俺だってたまにはまともなことは言えるんだぜ」
「恐れ入りました。……ママ、いい意見だと思うけど。どうなの? ……こんな素敵な涼子ちゃんの悲しい顔は見たくないでしょう?」
早川は涼子の顔を見てママを向いた。
「そうね、この店のお客さんと変な風になっても困るし、かと言って、この子がいなくなった後のことを考えたりすると、つい悩んでしまって」
ママは自分の気持を正直に口にした。
「ママの気持は実によく分ります。でも大事なことは、人の心を奪ってはいけないと思うのです。むしろ、その人の心に寄り添ってあげていくことで、明るい素敵な未来が開けてくるのではないでしょうか。お店のことは、また別に考えれば良いと思うのです。……でも涼子ちゃんみたいな人は、なかなかいないでしょうけどね」
早川はママの気持にも理解を示した。こういう場合、気持ちよく受け入れることで、新たな展望も開けると思った。
「おっしゃる通りです。私の我が儘を押し付けては罪になるわね。分りました。いいアドバイスをいただきありがとうございます。……きっぱり諦めました」
涼子の顔がパッと明るくなった。胸につかえていたものが取り払われた思いだったに違いない。
「ママ、我が儘言ってすみません。ありがとうございます」
「その代りと言っては何だけど、お願いがあるの」
「ええ、何でしょうか?」
「年末までいて頂戴。一番の稼ぎ時だし、代わりの女の子もすぐには見つからないし、せめて、年末まではいて欲しいの。どうかしら? いいでしょう?」
涼子は暫らく考え込んでいた。
「……はい。分りました。最後のご奉公をさせていただきます」
「ほんと? 嬉しいわ、ありがとう。売り上げがうんとあったら餞別弾むからね」
「ほんとですか? じゃあ、頑張らなくっちゃ」
「あはは、涼子ちゃん良かったね」
早川が我がことのように喜んだ。
「はい。ありがとうございます。イーさんと早川さんのご恩は忘れません。……とっても嬉しいです」
「うんうん。良かった、良かった。じゃあ、年明けから就活だね。ガンバレ」
「はい。頑張ります。決まったらご報告します」
「待ってるよ。……ママもこれで良かったのではないですか?」
「ええ、そう思います。すっきりしました。ありがとうございます」
「そうと決まれば、今夜は涼子ちゃんの前途を祝して乾杯だな」
岩田がコップを手にして、乾杯の音頭を取るポーズをした。
「ですね、そうしましょう」
早川が応じた。
「かんぱーい」
1人の女の子の人生が、今後どういう具合に展開していくのかは誰も分らないことだが、少なくとも、一つの悩みが解決したことにはなる。
「ところで、涼子ちゃんてどういう男性がいいの?」
早川が尋ねてみた。岩田が横から口を挟んだ。
「おいおい、そんな質問するなよ。答えは決まってるんだから」
「でも、課長一応聞いておきたいでしょう?」
「ま、それはそうだけどな」
岩田は焼酎を口にした。
「あら、私ですか? ……そうですね、早川さんみたいに優しい人がいいです」
「ほら、言わんこっちゃないだろ? 必ずこうなるんだから」
ママがしきりに笑っていた。
「私のことは置いといて、ただ優しければいい訳?」
「いえ、やはり早川さんみたいに、きちっとした自分の意見を持った人で、俺についてこいみたいな、そんな人に魅力を感じますね」
「ほら、またでた。何度質問しても答えは一緒だよ」
岩田がぶつぶつ言いだした。
「イーさんは、いつも聞かされているみたいですね」
「そうなんだよ。会社の中だけならまだいいけど、こうして飲んだ時も、いつもそうなんだよ、ママ、分る? 俺の気持」
「早川さんてモテるのね」
「モテるなんてもんじゃないよ。もっとも、女がこの男に惚れるのは良く分る。男の俺でも惚れているんだから」
「あら、イーさん、いつからこれになったの?」
ママが手のひらを返して顎に持っていった。
「バカ」
大笑いとなった。
「男が男に惚れるって最高の男のことよね。涼子ちゃん立候補したら? 早川さんはまだ独身よ」
ママが涼子を見て笑った。
「あら、立候補してもいいのかしら、でも、もういい人がいらっしゃるような感じがします」
「へー、それって女の感ていうやつ?」
岩田が涼子を見て言った。
「そうです。女の感です。女の感は大概当たるんです。……そうでしょう? 早川さん?」
「そうですね。当っています」
早川の意外な言葉を聞いて岩田が驚いた。
「おいおい、それってほんとかよ。この場しのぎの嘘じゃないだろうな」
早川は、今の段階で岩田の前でほんとのことを言うことに躊躇があった。社内で流布されては困ってしまう。ここはとぼけるに限る。
「いえ、ほんとです。まだはっきりしませんが、嘘ではありません」
「はっきりしないっていうことは、好きな女の子がいるんだけど、打ち明けられないでいるということか?」
岩田が格好の話を振ってくれた。
「そうなんですよ、なかなか打ち明けられなくて、だめですねェー」
「なんだったら、俺が仲を取り持ってあげようか? で、相手は誰なんだ? うん?」
「はい。目の前にいます」
「えっ、ママのことか? 嘘だろう?」
ママは早川がこの場をしのごうと考えていると察した。話の展開次第では乗ってみようと考えていた。
「……ママは課長がぞっこんですから、そんな訳ないでしょう?」
「さすが、理解が早い」
岩田が喜んだ。
「ということは、涼子ちゃんのことか?」
「ピンポーン」
涼子は嘘だと思った。そんなに軽々しく大事な話をするような人ではない、と思っていた。でもここは乗ってみよう。
「あら、嬉しいわ。ほんとですか? 本気になってしまいますよ」
「私の代わりに、涼子ちゃんにそういうことを言った人がいたら、涼子ちゃんはどうしますか?」
「おいおい、話が急にすり替わってしまったな。どういう意味だい?」
「素敵な男性が、涼子ちゃんに、私がさっき言ったようなことを言ったら、涼子ちゃんはどう言うのかなあと思って」
早川は、話が変な風になってしまったなあと思った。
「素敵な男性にもいろいろありますから、人によりけりなんじゃありません?」
「ですね。俺は何を言ってるんだ、さっきから」
「ふふふ、女の勘もはぐらかされてしまったようね」
涼子は早川の頭の良さを感じた。
「課長、私が今それどころじゃないってことは、課長が一番ご存じな筈でしょう?」
「あはは、そうだったな、だけど、そんんことをいつまでも言っていたら、歳を取るばっかりだぞ。いい加減身を固めたらどうなんだね」
「はい、涼子ちゃんの顔を思い浮かべながら、良く考えてみます」
「あは、君ほどの男が、この手の話になると、からっきしダメだということが、俺には分らん」
「私自信も分っていないのに、課長が分る筈ないですよ」
「あはは、変な理屈をこねやがって」
涼子はこの店を辞めたら、改めて早川に相談してみようと思うことがあった。
岩田と早川以外に客がいなくなってしまった。
「ママ、今日はお客さんが少なかったですね」
「こういう時もありますよ。水商売ってこんなもんですよ。毎日が大繁盛だったら蔵が建ちますよ。このご時世でしょう? 社交費が削られて楽しみが減った、と嘆いているお客さまも多いのですよ。特に建設業界がひどいですね」
「ママ、ここにも建設関係の人は良くいらっしゃいますか?」
「ええ、良くいらっしゃいますよ。建設業界は他の業種と比べても、すそ野が格段に広いですからね、その業界がそんな具合ですから、私たちの処までは、お金が回ってこない訳ですよねェー。困ったことです」
「大手の業者さんもお見えになるんですか?」
「ええ、そうですね、有名どころでは松中建設さんとか、小林建設さんとかは良くお見えになりますね」
「東西さんも大きな会社ですよね」
「東西さん?」
「ええ、東西国土建設さんです」
「ああ、あの会社の方々も良くお見えになりますよ」
早川はびっくりした。そうか、迂闊なことは言えないと思った。壁に耳あり障子に目ありである。
「そうですか、大手さんも大変なんだ」
ママが急に席を立って奥に引っ込んだ。暫らくして、ウェートレス達が失礼しますと言って帰ってしまった。涼子だけが残った。
「あ、涼子ちゃん、もう看板だからドアに鍵かけてきて、今夜は、この紳士たちと飲み明かしましょう」
音楽がこれまでのJポップ系から、ムード音楽に切り替わった。
「課長はいつもこの手に乗せられて午前様なんですね」
「そうなんだよ。だけど、この前のこともあるから今夜は早めに引き上げよう」
「はい、それがよろしいですね。奥さまに叱られますよ」
「叱られるぐらいならまだいいよ、中に入れて貰えないのがきついよな。夏はまだいいが、これからの季節はたまらんでー、寒くて」
「あはは、相当何回もご経験で」
「数えきれない」
「よく奥さんも我慢されていますね」
「ここだけの話だけど、うちの奴は俺にぞっこんだからな」
「おやおや、そうですか、急にお腹がいっぱいになってしまった。ご馳走様です」
早川は、そこまでして飲まなきゃならない心境が理解できなかった。ママが厨房の片づけを済ませて戻ってきた。
「さ、飲みましょう。イーさん、今夜もいいんでしょう? 夜明けまでいきますよ」
「ママ、今日は勘弁して、うちは今、破局寸前なんだよ」
岩田が嘘をついている。
「あら、そうなの? 丁度いいじゃない。別れてしまったら? そして、この私と一緒になりましょ?」
よくもシャーシャーと、思ってもいないことを言えたもんだと感心した。
「ママは誰にでも言ってるんだろ? 見え見えだよ」
なんだか、これを大人の会話っていうの? まさか。時間潰しの、くだらない会話以外の何物でもない。だが、こういう会話もまた楽しいと思えるようになったほうがいいのかなあ。
「ふふ、いーえ、イーさんだから本音が言えるのっ」
ママは少し酔ってきたみたいである。涼子が戻ってきた。
「ママ、いい音楽が掛ってるわ。イーさんと踊ってらしたら?」
「そうね。イーさん踊りましょ、……さあ」
岩田は嬉しそうな顔になり、にっこり笑ってママと踊りだした。涼子が、早川の真横にぴったりと体を寄せてきた。思わず早川は身体をずらした。
「あら、ごめんなさい。私、嫌われたみたい」
「あは、そうじゃないよ、急なことだったから、びっくりしたまでだよ」
「私がこういう風にするとは、思ってもいなかったんでしょ?」
「うん。正直びっくりした」
「実はママに言われたの。おそらく、早川さんは当分店には来られない人だから、もしかしたら、お店で話が出来るのは今夜が最後かもしれないから、自分の思うようにしなさいって」
「当ってるような気がする。ママの勘は凄いね」
「だから、今夜は早川さんと遅くまで一緒にいたいの、……いいでしょう?」
「それはいいけど、課長と一緒に帰るからそれまでだよ?」
「あら、そうなの? つまらない、……ね、今夜2人きりで飲み直しませんか?」
早川は涼子の気持が分らないでもない。この店も年末までだし、来年からは厳しい就活が待っている。今夜ぐらいは思い切り遊びたいと思ってるのだろう。
「いや、そうはいかないと思うよ、明日は仕事だしね。またの機会にしよう」
涼子は少し淋しげであったが首を縦に振った。
「何をボソボソ話してるの? あなた達も踊ったら?」
ママが2人を振り返りながら言った。涼子はにっこり笑って早川の手を引きながら言った。
「踊って?」
「ごめん。俺は踊りは駄目なんだよ」
早川の言ってることがママに聞こえたようだ。
「ダメッ、早川さんの意気地なし。人の心に寄り添って、って言ったの誰だったっけ?」
ちょっと意味が違うんだけどなあ。
「実は、私もダンスできないの。適当に踊りましょうよ、……ねっ?」
早川も楽になった。この子は優しいと思った。
「じゃあ、一曲だけだよ」
「はい。お願いします。……うれしい」
涼子は早川の手を強く握りしめ、カウンターの横まで早川を引っ張って行った。店の灯りは薄暗かった。課長とママは、気持ちよさそうに抱き合って腰を揺らしていた。涼子は早川に抱きつき、顔を胸に埋めた。ほのかな香りが漂ってきた。時折涼子が顔を上げて早川を見た。胸のふくらみが早川を少し刺激した。少し赤らんだ涼子の酔った顔の、程よい厚みの下唇が燃えるようだった。一段と艶っぽい顔も今夜で見納めである。早く就職が決まり、幸せな人生を歩んで欲しいと思った。曲の終わり間際に、腰に回していた涼子の両手が、早川の腰を強く引き寄せた。そして、早川の顔に顔を近づけて目を閉じた。早川は涼子の顔をじっと見つめた。涼子はキスを求めているようだったが、酒の力って凄いなと思いながら囁くようにして言った。
「幸せになるんだよ、頑張るんだよ、諦めたらおしまいだからね。歯を食いしばってでも頑張らなくっちゃ。そしたら、きっと女神さまが微笑んでくれるからね。……幸せにね」
早川は、曲が終わるのを待って涼子から離れた。涼子はお客と踊ったのも初めてだし、早川と踊りながら、自分をさらけ出すことが出来た自分の気持に自分自身が驚いた。こちらが思い切って求めたのに、早川は何にもしてくれなかった。励ましの囁きが耳にこびりついて離れない。涼子はますます早川を好きになった。
「ありがとう。今夜は楽しかった、……また遊んでね」
早川はもう帰ろうと思った。
「こちらこそ、……今日は特別な日になりました。……またお会いできますか?」
「そのうち機会があったら会いたいね」
「お願いします」
涼子は深く頭を下げた。
「課長はまだいますか? 私は帰りますけど」
「いや、一緒に帰ろう。ママ、ありがとう」
「いいえ、またいらしてくださいね。忘年会とかされるんでしょう?」
「そうだね。考えておこうかな」
「お待ちしております。今夜は、ありがとうございました。気をつけてお帰りくださいませ」
ママと涼子は、深々と頭を下げて2人を見送った。