◇ 第二章 退社


□ 第二章 退社 □

 水島佐太郎は、K市の株式会社丸和環境ビジネスの漁業部門の第一監理部主任である。この会社は排出事業者の委託により産廃全般の収集・運搬とその処分までを一貫して行うことを業とした産業廃棄物処理業者である。

「水島君、ちょっと来てくれ」
 課長の松本良治に呼ばれて佐太郎は課長のデスクの前に立った。
「少しいいかな?付き合ってくれ」
 松本は厳しい顔で佐太郎の顔を見て言った。他の社員の手前もあり、課長は佐太郎を別室の応接間に導き、ソファーに座るように促した。
 佐太郎は課長が何を言いたいのか、大方の予想はついていた。数日前に退職願を出した。多分その件であろう。佐太郎の突然の退職願に松本課長は少し驚いて見せた。
「どうしたんだ急に」
「はい、父の跡を継ぐように言われたのです。それで」
 佐太郎は正直に答えた。
「そうか、しかし君は言っていたよな。例え父親にそのようなことを言われても、跡を継ぐ気は全くありません。と、……だろ?全くないと言ったんだぜ。あれは嘘だったのか?」
「はい、確かにそのように申し上げましたが、状況が急変したのです」
「おいおい、簡単に言うなよ。俺の立場も考えろよ。いいか、うちの会社は、今大事な時に差し掛かっているんだ。ライバルも多いし、何としても実績を伸ばさなければならないことぐらい、君が一番よく理解してる筈じゃないか。違うか?」
 課長の顔は怒りに満ちていた。
「はい、課長のおっしゃる通りです。ですが、どうにもならないのです」
「どう、どうにもならないんだね。説明してくれ。いいか、この話は、当然社長にも言わなければならないんだぜ。俺もそうだが、次長や部長も君の才能を高く評価していることは君も感じているだろ?」
「はい、何となくそう感じています。とてもありがたいことだと思っています」
「しかも、高卒の中では昇進も早いし、部長の言葉を借りれば、会社のホープだと一目置かれてるんだぜ。君の今の年齢で、部長にそう言わしめるってことは極めてまれだと思うけどなあ」
「……」
「それとも会社に何か不満でもあるのかな?」
「いえ、とんでもありません。それは全くありません。むしろ好きな仕事ですから、出来ればずっとお世話になりたいと思っていたのです。これは嘘偽りではなく正直な気持ちです」
「うん、君の勤務態度を見ればそうだよな。俺も君のことを課の誇りだとさえ思っているんだから。それを藪から棒に退職したいとは、まさに寝耳に水って感じだぜ」
「はい、申し訳ありません」
 佐太郎は、こういう事態に至ったいきさつを細かく説明した。聞きながら課長は時折首を縦に振り頷いた。
「そうか、いや俺も昨年の台風の後のことは小耳に入って来たし、それとなく気にはしていたんだが、そうか、やっぱりなあ。我が社も多少被害は受けたが、そんな比じゃなかったんだ。だよなあ、考えてみればイケスって海に浮かべてる訳だから、台風ともなると場合によっては甚大な被害になる可能性もあるんだもんなあ。想像以上に大変な事態だったんだ」
 課長はしきりに頷きながら窓の外を見た。遠く漁港が見える。
「はい、私の父の会社は、お陰様で倒産にまでは至らなかったのですが、もう死に体も同然なのです。いつ倒産してもおかしくない位なのです」
 佐太郎は少しオーバーな表現で課長を説得しようとした。
「そうか、なるほどな」
 佐太郎はここぞとばかりに畳みかけた。
「それに、父も高齢になってしまって、身体が大分へばってきているようなのです。その上、社員の事や借金のことで頭が一杯なのですが、なかなか思うようにいかないようなのです。父はとても生一本なところがあって、下手すると下手してしまうのではと、毎日ハラハラしてるんです」
「下手する?どういうことだ」
「はい、そこまでは多分ないとは思うのですが、自殺でもされたらと心配してるんです」
 佐太郎はこの際とばかりにオーバーに言うつもりが、自分でも驚くような言葉が思わず出てしまって、内心しまったと思った。
「そうだよなあ、事例がない訳でもないからなあ。あり得るよなあ。それは心配だなあ」
 佐太郎は驚いた。課長があっさりと同調してきたからである。確かに、昨年の台風の被害で自殺者が出たことは、マスコミでも大きく報道されていた。佐太郎はそのことを計算に入れて課長に話した訳ではなかったが、偶然にも合点がいくような展開になってしまったのである。
「はい、ですから、そうなってしまってからでは遅いですから、今のうちに何とかしたいのです。親から言われて跡を継ぐということもありますが、そればかりではないのです。息子の私が、親の窮地を救いは出来ないまでも、何も手伝わなかっとなると、世間の物笑いになりますから、それだけは避けたいと思うのです」
 佐太郎は我ながらうまいこと言えたと心の中で自画自賛した。
「なるほどな、俺が君の立場だったら同じようなことをするだろうな。……なるほど、そこまでとは知らなかったなあ」
 課長は再び窓の外に浮かぶ漁港を見ながら、納得した顔を佐太郎に見せた。佐太郎はこの時課長が退職に同意してくれると確信した。だが、甘かった。
「しかし、君の気持は分らないでもないが、君が手伝ったら、君のお父さんの会社は良くなるのかね?」
 痛いところを突かれて佐太郎は、少し苦笑いを見せて目をテーブルに移した。
「いえ、それは分りません。私が手伝ったくらいで会社が良くなるなんて、そんなに甘いものじゃないと理解しています」
「だったら、会社を辞める意味がないじゃないか。だろ?世間の物笑いにはなるかもしれないが、ただそれだけのことで、優秀な君がこの会社を辞める価値を俺には見い出せないけどなあ。会社なんて潰れる時は潰れるしな。言葉は悪いかも知れないが、所詮無駄な抵抗ってこともあるしなあ」
 課長の言葉に佐太郎は少しムッとした。
「課長、お言葉ですが、そんな風におっしゃることには少し抵抗があります。やって見なければ分らないこともあると思います。やってやってやりまくって、命を懸けで必死になって努力すれば、何とか打開する糸口が見い出せるかもしれないじゃないですか」
 課長は佐太郎の、かって見たことのない鋭い眼光に驚いた。
「うん、それは君の言う通りだ。これまでも一貫して君はそういう心意気で仕事をしてきて、かなりの実績を残してきたことは、この俺が一番良く知っていることだからな。君だったらやれるかもしれない。……いや、悪かった。言葉が過ぎたようだな。何としても君の退職を、思い留まってもらいたいという気持ちが、オーバーランしてしまったようだな。あはは、俺もまだ修行が足りんな」
 課長が自嘲気味の言葉に、佐太郎は課長の人柄を見た。
「いえ、私こそ余計なことを申しげました。お許しください」
 佐太郎は課長に頭を下げた。
「それはまあ良いとして、こんなことを言うと、君はまた怒りだすかもしれないが、もしも、もしもだよ?君の手伝いの甲斐もなく、お父さんの会社が万一上手くいかなくなり、最悪倒産でもしたら、またこの会社に戻ってくれる気はないか?」
 佐太郎は課長のしつっこさに半ばあきれ果てたが、ここは課長の顔も立てておかなければという思いが働き、逆らう気が失せてきた。
「えっ、課長その話ほんとですか?とても有り難いお話ですね。そうなりましたら、一番に課長のところにご相談に上がりますから、その節はよろしくお願い致します」
 佐太郎は、心にもないことを言う自分に苦笑いしながら、課長に向かって頭を下げた。
「そうか、そうと決まれば、君が辞めた後、君のお父さんの会社が潰れるように画策するかな。あはは、冗談、冗談。あはは」
 佐太郎はドキッとした。なるほど、この課長はともかく、会社自体がそういう具合に動けば、あり得ない話ではない。だが、佐太郎は一笑に付した。
「課長も冗談がきついですね。天下のマル環さんが、そんな手を使うほどの価値が私にはありませんよ」
 世間ではこの会社の事をマル環と呼んでいた。
「あはは、だから冗談だよ、冗談。……よし、わかった、少し時間をくれ。次長や部長とも相談してみる。ニ、三日後に結論を出そう」
「ありがとうございます。無理言ってほんとにすみません。よろしくお願い致します」
「うん、わかった。それにしても残念だなあ。君が抜けた後のことを考えるとなあ、あはは、悩みがまた一つ増えたよ」
「すみません」
 佐太郎は深く頭を下げた。
「あ、そうそう、さっき言いそびれたんだが、実は君に昇進の話が持ち上がっていたんだよ。だが、もう関係ないかな。あはは」
 課長は寂しげに笑った。佐太郎は親父も同じような話をしてたなあと、思い出しながら苦笑いした。課長は自分の笑いに佐太郎がもらい笑いしていると受け止めた。

 数日後、朝礼後に佐太郎は応接間で松本課長と対面した。課長の顔は柔和だった。
「君の退職の件で、社長が君と話ししたいそうなんだ」
「えっ、社長がですか?まさか」
「そうだ、前代未聞だな。あはは、俺もその話聞いて驚いたよ。あの社長が、人事部を通り越して、君と直に話がしたいなんて想像もできないよ」
「……」
「秘書から連絡があるとは思うが、九時半に社長室に行ってくれ」
「あのー、退職の件は認められたのでしょうか」
 佐太郎にとっては、そのことの方が重要だった。
「さて、どうなるかなあ。俺は知らないよ」
 松本課長はとぼけてみせた。
「課長!それはないでしょう。認められたんでしょ?」
 佐太郎は課長の顔をじっと見詰めて念を押した。
「ま、社長に会って自分自身で確認したらいいよ。面白い話が聞けるかも知れないよ」
「えっ、面白い話ですか?どんな?」
「あはは、俺が知る訳ないだろ?小耳にはちょっと入っているけどな。君にとって悪い話じゃない事だけは言っておく」
「課長、もったいぶらないで教えてくださいよ」
「社長から直接聞いた話じゃないからな。あくまで小耳に挟んだだけだから。そんなこと話したら社長に対して失礼だろ?」
「はい、まあ、そうですね」
「一応、この前君に言ったように、部長までは了解を取り付けてある。これでも難儀したんだぞ」
「課長、ほんとにありがとうございます。それを聞いて安心しました」
「安心するのはまだ早いと思うよ。最後の関所だからな、心して行けよ。ここだけの話だが、社長は名うての策士と聞いているからな。うちの部長や人事部長と社長がどういう会話をしたかは知らないが、場合によっては、逆転満塁ホームランでサヨナラ負けということもあるからな」
「課長、おどかさないで下さいよ。さっき悪い話じゃない、とおっしゃったじゃないですか」
「うん、それはその通りだ。ま、そんなに気にするな。ここまで来たらなるようになるさ」
「課長も人が悪いですねえ。他人事みたいに言って」
「あはは、そういうな。行けば分ることじゃないか。だろ?」
「はい、そうですね」

 地場の大企業の社長が、退職を申し出ている一社員の佐太郎と面談したことがきっかけで、後にとてつもない大きな社会的なうねりとなって、世間をあっと驚かす事態まで発展しようなどとは、この時点では、社長自身も考えも及ばない事だった。

 九時半前に社長秘書から、社長室横の応接間に来るように電話が入った。佐太郎は、社長と直接対面するのは初めてのことで、しかも急な話でいささか緊張していた。応接間のドアを恐る恐る開いた。と同時に秘書らしき女性の笑顔が目に飛び込んだ。秘書に応接間に通されてソファに腰を掛けた。豪華なソファとテーブルに圧倒された。
「少しお待ちください。社長はもうすぐお見えになると思います」
 秘書がコーヒーをテーブルの上に置きながら笑顔で話した。
「はい、ありがとうございます」
 佐太郎は立って秘書に礼をした。スタイルの良いえくぼの可愛い女性だった。秘書は佐太郎に向かって深々と頭を下げ、そして応接間の扉を開けて出て行った。コーヒーカップから揺ら揺らと湯気が立っていた。間もなく別な扉が開き、多分60過ぎと思われる、恰幅の良いいでたちの一人の男性が現れた。片手には書類があった。社長の丸岡和夫である。佐太郎は反射的に立って深々と頭を下げた。
「君が水島君か。待たせたな。まあ、掛けたまえ」
 社長の威厳のある声に恐る恐るソファに腰をおろし、佐太郎は社長の次の言葉を待った。その時、秘書がコーヒカップを社長の前に置いた。社員である佐太郎の珈琲カップよりも、見るからに安いと思われるカップだったが、緊張している佐太郎には分る筈がなかった。秘書はその場に立って社長の言葉を待っているようだった。
「ありがとう。さがっていいよ」
 秘書は一礼してその場から立ち去った。社長は秘書が扉の外に消えるのを確認して佐太郎に顔を向けた。
「早速だが、退社したいんだってな」
「はい、申し訳ありません」
「それは構わないのだが、理由が聞きたい」
 佐太郎は、退職の理由については、課長に細かく話してある筈なのにと少し疑問に思った。
「人事部長からの話だが、君の上司の松本課長には細かく説明してくれたそうで、その報告はここにある。だが、もう一度君から直接聞きたいのだ、その理由をな」
 社長の言葉にはトゲがあった。佐太郎は少なくともそう感じた。
「あのー……」
 佐太郎の話を社長が遮った。
「君の親父さんが自殺するかもと言うことは抜きだぞ。君のほんとの退社の理由を聞きたいのだ」
 佐太郎は大いに驚いた。これはうかつには発言できないと緊張して身構えた。
「あはは、そう硬くなるな。冷めないうちにコーヒーでも飲みながら、気楽に話したまえ。ありのままの君の気持を言ってくれればいいのだ」
 佐太郎は、ありがとうございます、とは言ったがコーヒーを飲む気にはなれなかった。課長に話した内容と重複するのはやむを得ないと思いながら、先日の父と母と自分との縁側談義の内容をつぶさに正直に話した。社長は目を閉じて佐太郎の話をじっと聞いていた。佐太郎の話が終わるなり、社長が佐太郎の目をジッと見て言った。
「ということは、君は親父さんに言われて、会社を辞める気になったという訳だな?」
 佐太郎はよくよく考えて返事しないと危ないと思った。
「いえ、そうではありません。確かに父に説得はされました。確かに父に跡を継げと言われました。それが引き金になっていることについては否定しません。しかし、私は父に言われたから退社したいと思った訳ではありません」
「じゃあ、どういう理由だ」
 社長の言葉が一段と厳しくなった。
「はい。それは私の宿命なのです」
 佐太郎は社長の目を見て毅然とした態度で言った。
「宿命だと?どういうことだ」
「はい、水島家は代々漁業で身を立ててきました。ですが、それも今の父親の代で終止符が打たれるだろうと、ついこの間までは思っていました。ご存じだとは思いますし、先程も少し申し上げましたが、昨年の台風で漁業を営む全ての会社が、甚大な被害を受けてしまいました。倒産する会社が多く出ました。自殺者も出たほどです。漁業組合の存続すら立ちいかなくなるのではと、今も皆懸命になって復興作業をしています。私の父の運営する有限会社水島漁民はお陰様で何とか息はしておりますが、息絶え絶えの状態です」
「……」
「そのような状態が長く続けば続くほど、漁業を営むすべての方々に、取り返しのつかない悪い連鎖が起きると想定されますし、ひいては、漁業に多くを依存しているこの市の産業形態が、おかしくなってくるのは必定です。一時も早く体制を整えることが望まれる状況にあると思われます。漁業の復活が、この市の活性化につながる最も有効な手段だと思います。わたしは、先日の父親との会話でそれを痛感しました。いえ、父がそのようなことを言ったのではありません。しかし、かっては代表理事組合長を任された経験のある父としては、いたたまれないほどの心境にあることは容易に推察できました」
「……」
「何を言いたいかと申しますと、私も社長の元で働かしていただいて、我が社の去年から今年にかけての、漁業関連からの仕事が激減しているのを承知しております。我が社にとってはとても大きな損失です。このまま放置しておきますと、それこそ重大な事態になることも懸念されます。勿論、我が社の実績は漁業関連ばかりではありませんので、漁業関連以外の会社に、これまで以上に重点的に営業を展開していけば良いのかもしれませんが、過当競争がし烈を極めている現在、少ないパイを食い争うことになりますので、益々困難な事態になるやもしれません。すみません、生意気なことを申しまして」
「続けてくれ」
「はい。少し視点を変えて考えてみますと、手前味噌なことを申しますが、私の父は、地場では一応名の通った会社の社長をしております。これはとても幸いなことだと思っています。この会社を活用しながら、死に物狂いで事に当れば、必ず活路は開ける筈だと確信しています。私如きに何が出来ると思いながらも、この世界に我が身を投ずることで、何かのお役に立てればという思いが日を追うごとに強くなってきたのです。これが私の申し上げる宿命です」
「……」
「さらに申し上げれば、漁業関連が復調し、活気が取り戻せれば、再び我が社にも恩恵が生じてくるのではと秘かに思っているところです。長い間お世話になっておきながら退社する私の、せめてもの恩返しが、もしかしたら出来るのではという思いもあります。以上が私が退社したい大きな理由です。若輩者がご無礼を顧みず、生意気なことを長々と申し上げて、ほんとにすみません。社長、どうか私の我が儘をお許しください」
 佐太郎はテーブルに頭が付くほどに深々と頭を下げた。とつとつとではあるが、しっかりとした口調で、信念に満ち、筋の通った内容で、しかも最後には涙を流さんばかりに懇願する佐太郎を見て、目を閉じて無言で聞いていた社長が言葉した。その顔は柔和になっていた。
「ありがとう。良く話してくれたな」
 社長はかねてから、部長などからこの若者のことは耳にしていた。だから、その若者が退社したいという人事部長からの報告を受けて、ふと、理由もなく一度は会っておきたいと思ってはいた。前例のない全く異例の事だった。だが、今、社長は若者の話を聞きながら、会って良かったと痛切に思った。それほどまでに聞きしに勝る若者だと感心したのである。こんな優秀な青年が我が社に居たなんてと思うと、もっと早くに会っておくべきだっと、反省の念すら浮かんだ。それだけに、これほどの得がたい人材を失うことの失望感が心を駆け巡りながら支配した。
「君の気持ちは良く理解できた。長い間ご苦労だったな。ありがとう」
 社長の言葉を聞いて佐太郎は嬉しかった。最後の難関を突破できたと確信した。
「とんでもございません。こちらこそ長い間勤務させていただき、ほんとにありがとうございました」
 佐太郎は再び深く頭を下げた。
「この会社を辞めることについては、君の口から親父さんには既に伝えてあるんだな?」
 佐太郎は、円満退社できた暁に父親に報告するつもりでいたので、この時点では、まだ報告は出来ていなかった。
「いえ、まだです。はっきりと決まってから報告しようと思っています」
「そうか、なるほど。親父さんを驚かすつもりだな?」
「はい、そう思っています」
 佐太郎は正直に胸の内を明かした。
「親父さんはさぞかし大いに喜ぶだろうなあ。親父さんの長年の念願だったろうからな」
「はい、そのように思います。父の喜ぶ顔が見たいと思っています」
 社長丸岡和夫は、この若者のストレートな態度に、少なからず心を動かされた。今時珍しい若者だと、改めて佐太郎の顔をしげしげと見たほどだった。

「水島君、君に頼みがあるんだが聞いてくれるか?」
 社長の突然の言葉に佐太郎は驚いた。
「はい、何でしょうか」
「役員や管理職と話し合って人選はこれからするが、我が社の社員を三人、君の会社で研修生として預かってくれないかなあ」
「えっ、社長、それはまたどうしてですか?」
「どうしてだと思うかね?急な話で悪いが、君の意見を聞きたい」
 佐太郎は突然振られて困惑したが、しばらく目を閉じて考えた。
「社長、研修期間はどの程度ですか?それと一回だけですか?」
 社長は佐太郎がかなり深い部分まで考えているなと思った。
「そうだな、期間は一年間。そして、可能なら毎年受け入れてもらいたいのだが」
「その三名は、漁業部門から人選されると理解してよろしいでしょうか」
「そうだな、取り敢えずその方向で考えている」
 佐太郎は、ここまで聞いて、多分社長はこう考えているのではと思ったことを話した。
「そうですね、二つ考えられますね」
「ほー、二つねぇー、聞きたいね」
「多分当ってないと思うのですが、一つは、漁業関連のことを外から見るのではなく、中に入って深く理解することで営業戦略上、つまり受注活動の強力な武器となり得るのではないかということです」
「もう一つは?」
「はい、これもいい加減な発想で申し訳ないのですが、近い将来、そうですね五年いえ遅くとも十年以内に、マル環の業務拡張とするか、あるいは別会社を設立して養殖業に進出する。その為の下準備ですかね」
 社長の顔色がみるみる間に変わった。
「どうして。そう思うんだ?」
「私が社長の立場だったら、そうしたいからです。それだけしか頭に浮かびません」
 社長はこの若者の、恐るべき才能を眼の当りにして改めて驚嘆した。
「我が社がそんな事出来ると思うかね?」
「もちろん出来ます。いえ、そうすべきです。マル環だからこそ出来ると思います」
「万一我が社が養殖業に進出したとなると、君の会社と競合する事になるが、それでも良いと思っているのかな」
 社長は少しニヤリとしながら佐太郎の顔を見た。
「はい、大歓迎です。いえ、そうあるべきです。競合の中で切磋琢磨して優良な企業が誕生します。敵は中ではなくて外にありますし、もっと申し上げれば、今後は海外の企業が強敵になると思われます」
「……」
「これからの十年いや二十年を考えた時に、必ずぶち当たる問題ではないでしょうか。ですから、場合によっては、社長の会社と私どもの会社が合併して、外国と戦うなんてことも、まんざら考えられないことはないですよね。あはは、私も良く言いますね、すみません。天と地ほどの差がありながら、合併なんて考えられませんが、万に一つ、そのような事態が訪れたら、その時はよろしくお願い致します。そういった意味で申し上げました。もちろん、私がその域まで達しているかは自信ありませんが、努力したいと思います」
 もう何をか言わんやである。社長は完全に白旗を上げた。この若者と、もっともっと深い部分で語り合いたいとまで思った。同時に、会社を今の年功序列から完全能力主義に一刻も早く移行しなければと思った。いや、そうしなければ会社はダメになりますよと、この若者が大声で叫んでいるように聞こえた。
「じゃ、三人の研修社員を受け入れてくれると理解していいのだな?」
「いえ、社長、まだ私は社長にお世話になっている身です。円満退社させて頂いてから、父親に相談してみます。水島漁民の代表者は父ですから」
「うん、なるほど、そうだな」
「父に相談する際、何故そうするのか、何故三人に研修をさせる必要があるのかを説明した上で、さらに、そうなるかどうかは分りませんが、話として、今しがたお話にあった、将来的なことも含めた内容を、誤解のないようにしっかり父に説明しておきたいのですが、よろしいでしょうか?」
 社長は佐太郎のそつのなさに驚いた、もう既に向こう二十年間の事業タイアップの確約を迫っているようなものだった。だが、この男なら人間的に絶対的な信用が出来るし、会社の将来のことを考えれば、十五年ものキャリアを積んだ上に、極めて優れた頭脳を持ったこの男の力を借りたほうが、得策だと即断した。
「うん、頼む。そうしてくれ」
「かしこまりました。父に相談した上で、研修生として受け入れても良いということになりましたら、父の方から社長に連絡して貰います」
 丸岡社長は佐太郎の申し出を快諾した。

「何か会社の方で考えておかなければならないことはないか?」
「はい御座います。(有)水島漁民が社長の要望を受け入れるについての、例えば、先ほどの研修期間や研修費、保険面等々の条件等を打ち合わせ頂く事になろうかと思いますが、よろしくお願い致します」
「保険というのは?」
「はい、漁業の仕事は、傍で見ているよりも厳しい面があります。自然との闘いでもありますから、全てに順調に行く保証はありません。危険が伴う場合があります。昨年の台風の時も怪我人が出たほどですから。万一怪我とか最悪の場合、死亡事故ということになりますと、責任の所在の事もありますので、事前にしっかり対応策を練っておく必要があります」
「なるほど、そうだな。良く打ち合わせしておく必要がありそうだな」
「そうなんです。支店の社員が本社に出向いての研修を受ける場合と違います。他の会社に出向いてしかも長期間になりますと、法的なことも含めて、あらゆる角度から検討しておく必要があろうかと思います。あくまで社員の立場と言いますか、身分のことを最優先に進めて行くことが大事だと思います」
 佐太郎の話を聞きながら、社長は自分の考えがいささか甘かったと思った。
「なるほど、そうだな。良く分った。ありがとう」
「いえ、なんだか楽しくなってきました。希望が湧いてきました」
「あはは、そうだな。……ところで研修を受ける社員はどんな社員がいいだろうか?誰か推薦する社員はいるかい?」
「すみません、それは私の関知するところではありません。人選にあたっては、一つだけ申し上げておきたいことがございます」
「おー、何だね?」
「はい、頑強な身体でないと、途中で会社にお返ししなければならないことになりかねません。極端な話、体力測定をした方がいいかもしれません」
「なるほど、そうだろうな。良く分った。ありがとう」

「この話は、この辺して、水島君は今何歳だ?」
「はい、今年の誕生日が来て三十三歳になります」
「うーん、三十三歳なあ。そうか、俺の時とだいぶ違うなあ」
「はい、月とスッポンです。すみません。努力して社長のようになりたいと思います」
 社長は逆さにとられて苦笑いした。
「ところで、君はまだ独身だと聞いているが」
「はい、縁がないものですから、未だに一人身です」
「君の所属する課にも大勢の女子社員がいるだろう?気に入った女性はいないのか?」
 佐太郎は、一人だけ気に掛る女性がいるにはいるが、ただ、それだけのことで、仕事以外で言葉を交わしたことは一度もなかった。
「はい、残念ですが、今のところは」
「そうか、結婚のことはどう思ってるんだ。縁があればしたいと思ってるのか?」
「もちろんそうです。親にも言われました。これからがいよいよ人生の正念場だから、そろそろ身を固めた方がいいと」
「うん、うん。だな、俺もそう思う。どうだ、俺の知ってる女性で、かなり良く出来た女性がいるんだが、良かったら会って見る気はないか?」
 佐太郎は、まさか社長の口からこの手の話が出るとは信じられないと思った。大いに慌てた。
「社長、ありがとうございます。ですが、申し訳ありません。お断りいたします。と申しますのも、私にはやる事が山ほど残っていますので、今はそれどころではありません。その気になりましたら、お願いに上がるかもしれません。その時はよろしくお願い致します。すみません」
 佐太郎は、頭を下げながら思った。社長の紹介する女性だと、それこそ紋付き袴を着て、人生を歩かねばならない羽目になる。それは嫌だった。そんなことは言える筈がないから、角の立たないように言葉に気をつけたつもりだった。社長は会話を楽しんでいる様子で、終始笑顔だった。
「そうか、ま、その気になったら遠慮なくいつでも尋ねてきなさい。待ってるぞ。だが、早い方がいいぞ。所帯を持つのもいいもんだぞ。パートナーの女性のありがたみが分ると思うよ。あはは」
 社長は我が子に話すような口ぶりで佐太郎の顔をジッと見た。佐太郎は父親からも同じようなことを聞いたような気がした。

「水島君、ちょっと待っててもらっていいかな?」
 社長は何かを思い出したように、急に腰を上げて社長室に足を運ぼうとした。
「はい、かしこまりました」
「すまんな、ちょっと待ってな」
 社長が佐太郎の目の前から消えた。そして、暫くして、ゆったりとした足取りで戻ってきて、ソファに座りながらこう言った。
「水島君、すまんが、退職の日取りが決まって、朝礼での君の挨拶が済んだ足で、又此処に来てくれないか。頼みたいことがあるんだ。いいかな」
 佐太郎は、これでやっと円満退社出来ると喜びをかみしめた。が、社長の言葉には、何か含みがあるように佐太郎は感じた。
「はい、かしこまりました。そのようにいたします」
「今日はすまなったな。ありがとう。もう戻っていいぞ」
「私の方こそ、ありがとうございました」
 佐太郎は立って社長に深々と頭を下げて、背を向けた。社長の丸岡和夫はその後ろ姿をじっと見つめていた。

 水島佐太郎が退職する。あのエリートコースをひた走っていた男が退社する。このセンセーショナルな話が、あっという間に社内に流布された。親の跡を継いで漁業をするという話に尾ひれがついて、明日にも有限会社水島漁民の社長に就任する、という話がまことしやかに囁かれた。回りまわって佐太郎の耳に入って佐太郎は苦笑いした。噂って怖いと思ったりもした。

 朝礼での型通りの退職の挨拶を済ませ、佐太郎は社長室の応接間のソファに腰を下ろしていた。この日の佐太郎は気分爽快だった。退社後に新たな未知の世界に飛び込むという不安がない訳ではなかったが、新たな挑戦が出来るという思いの方が強く、ワクワクとした気分だった。

 実は、佐太郎は、父と母との縁側談義の最後に、父が暗示したことを、その翌日からずっと考えていた。父は豚小屋に向かいながらこう言った。
『佐太郎、去年の台風にはほんとに参ったなあ。自然の力って侮れないよなあ。佐太郎が父さんの立場だったらどうするかなあ。今後のこともあるから、何か対策を考えてくれたら嬉しいけどなあ』
 佐太郎は親父は何を言いたかったのか、この俺に何をして欲しいのか、考えに考えた。そしてある事に突き当たった。そうか、親父はそのことが実現できずに、悔やんでいたんだと思った。
 その気付きがきっかけで、佐太郎の思いに急激な何かが膨らんできた。これからの時代を生き抜く為にはどうしたらいいのか。将来の展望をどう描いて、そして果実足らしめる為には何をどう行動したらいいか、それこそ寝ずに考えた。それは、佐太郎のこれからの戦場で、勝利足らしめるための知恵であり戦略でもあった。が、しかし、何となくイメージにはあっても、はっきりとした形は見えていなかった。言えることは、その気付きが佐太郎の退社への引き金になったことは確かであるということである。

「やあ、待たせたなあ」
 社長の丸岡和夫が社長室のドアを開いて、ゆっくりと歩いて来た。佐太郎は立って頭を下げた。テーブルには既に二つのコーヒが置かれていた。
「あはは、晴れやかな顔だな。どうだ、今の心境は」
「はい、爽やかな気分です。長い間ほんとにありがとうございました」
「なあに、礼を言うのはこっちの方だよ。これまでよく頑張ったな。正直言うと、もう少しいて欲しかったけどな、君の人生の足を引っ張る訳にはいかないからな。いや、ほんとにありがとう」
 社長は佐太郎に向かって頭を下げた。
「社、社長止めてください。私如きに頭を下げるなんて良くないです。すみません、お願いです、顔を上げてください」
 佐太郎は社長の意外な行動に困惑した。社長は頭を上げながらこう言った。
「実はな、今日此処に来てもらったのは、君に頼みたいことがあったからなんだ」
「はあ、……」
「君のお父さんには何時報告するつもりだ?」
「はい、今夜にでも報告しようかと思っています」
「そうか、だな、早い方がいいな。……、で、その時何と言うんだ。今日会社を辞めた、と言うのかな?」
「そうですね、その方法もありますが、両親を前に座らせて、きちっとした形で、『半年後に社員として雇ってください』と、頭を下げてお願いするつもりです」
「おーー、いいねえ、流石だなあ。考えることが違う。失業保険の受給が完了してからということだな。なるほどな。そしたら親父さんが、『何、会社はどうするんだ』と言う。そこですかさず『辞めた』とポツリと言う」
「社長、ずるいですね。あはは、お見通しですね。それからどうなりますかね」
 佐太郎は成行きが楽しくなった。もう社員の枠を外れた、歳は離れてはいるが、男同士の会話である。
「そしたら、親父さんが、『親をからかうのもいい加減にしろ』と怒鳴る」
「それはないと思いますが、あり得ない事ではないですね」
「じゃあ、どうなるのだ」
「はい、まず、『半年後に社員として雇ってください』といいますと、『何、半年後?ということは、半年後に会社を辞めるというのか』と言うと思います。そこで『失業しました』と言います。そしたら父が、『何?首になったのか』と目くじらを立てる。そこですかさず『いえ、派遣社員になったのです』とポツリと言います」
 この時社長はまたもこの若者の考えに驚いた。およそ、想像もつかないことを、こともなげに言う。
「おお、おおー、派遣社員か。君が派遣社員になるという想定か」
「あはは、そうです。父は派遣社員なんて多分聞いたこともないでしょうから、当然尋ねてきます。『何だ、その派遣社員とやらは』と」
「うんうん、だろうな」
「そこで、社長のおっしゃった三人の研修生も含めて、かくかく云々と詳しく説明します」
「なるほどなあ、そうすれば親父さんも、すんなり受け入れてくれるんじゃないかと踏んだんだな」
「そうです。回りくどいようですが、そういう制度の事も含めて、ちゃんと説明すれば、理解してくれるのではと思います」
「だけど、そうなると四人の研修生となるが、落とし所があるんだろ?」
 社長は佐太郎の次の考えに興味を持った。
「はい、落とし所をどうしようか、と思いながら社長とお話ししてきましたが、こんなのはどうでしょうか」
「……」
「この手を実際に悪用して、会社の経費を削減しようという輩がいますが、……」
 ここまで聞いて社長はアッと思った。何という男だ。
「あはは、社長すみません。社長がそういう事をなさる筈はありませんので、黙って聞いていて下さい」
「うん、わかった」
「父親としては、もう大方理解できた頃でしょうから、そこを見計らって、ほんとのことを言うのです」
「なるほど、一石二鳥って訳だ」
「そうなんです。母もそうだと思いますが、特に父はその時点で、腰を抜かして驚き、喜びを爆発させるのではと思うのです。あくまで想像ですが」
「そして、君の狙いは、実は別なところにある」
「さすが社長ですね。そうなんです。大きな喜びは、三人の研修生受け入れのことを呑み込んでしまって、もう了解したも同然となります。後は父が社長に了解した旨の電話するだけとなります。と、まあこんな風に考えますが、この通りになるかどうかは、もちろん分りません」
 社長は唖然として、しばらく何も言えず、ただ佐太郎の目を見つめるだけだった。

「あのー、社長、先日頼みたいことがあるっておっしゃっていましたが」
 佐太郎は話題を切り替えた。
「おっと、そうだったな。忘れるところだった」
 社長は、背広の内ポケットから一通の封筒を取り出した。封筒の開き口は糊付けされていた。
「この封筒を君のお父さんに渡して欲しいんだよ」
 テーブルの上に置かれた、少し膨らんだ白い封筒の表に、(有)水島漁民 代表取締役水島良助殿と墨で書かれていた。達筆だった。佐太郎は、どうして社長が親父宛に封筒を渡すのか理解できなかった。過去にこの社長と親父が接触する機会はなかった筈である。
「えっ、私の父にですか?」
「あはは、そう不思議そうな顔をするな。長い間一人息子を預かっていたのだから、そのお礼を言いたいのだよ」
「えっ、社長は退職する全ての社員に、このような事をされているのですか?」
「バカ言え、そんな事する訳ないだろう?そんなことしたら身が持たないよ。君の親父さんだけだよ。もちろん、後にも先にも初めてのことだがな」
 この時佐太郎は、この社長の考えがおぼろげながら察しがついた。
「……」
「但し、親父さんに渡すタイミングは見計らってもらいたい」
「タイミングですか?」
「そうだ、いいか?君が親父さんに対して、さっきみたいな経緯になるかどうかは別にして、もう完全に報告が終わって、ヤレヤレという時が来た時に、それとなく思い出したような感じで、この封筒を親父さんに渡してくれ。いいかな。理由は聞くな」
 佐太郎は益々社長の腹の中で何かがうごめいていることを感じた。
「分りました。そのように致します」
 理由は聞くなと言われて、佐太郎はこう返事するしかなかった。
「うん、頼む。すまんな」
「いえ、かしこまりました。社長、念のためにお聞きしますが、私はこれを父に渡すだけでよろしいのですね」
「そうだ、後は君の親父さんが、中のものを見て判断する事になると思う」
「はい、良く分りました。では、お預かりいたします」
 佐太郎は、封筒を両手で拝むようにして持ち上げ、懐に入れた。

 佐太郎が懐に封筒をしまい込む様子を見終わって、丸岡社長は、改まった様子で佐太郎の顔を見た。
「水島君、これから俺は用事があって出かけなければならないのだが、まだ少し時間があるようなので、もう少し付き合ってくれ。いいかな?」
「はい、今日は業務の引き継ぎや残務整理をするだけですので、時間はあります」
「最後に君に聞いておきたいことがあってな」
 佐太郎は先日からこれまで随分長く話し込んで来たのに、まだ何か聞きたいことがあるという社長の言葉の意味が読めなかった。
「はい、何でしょうか」
「うん、君はこれまで十五年の間、我が社に勤務してくれたのだが、その間、会社の将来的なことについて、上司に提案とか進言したりしたことはなかったのか?」
 佐太郎は退職する人間に、今更何故このような事を社長は言うのだろうかと、少し疑問を感じた。確かに会社の将来のことについて、上司と何度か提案などをしたことがある。だが、上司との意見や考え方の食い違いがあり、激しい口論に至ったことがないではなかったが、もう既に過去の事である。
「はい、無い事はなかったと思いますが、それが何か」
「いや、どういう内容の提案をしたのか聞きたくてな」
「あ、そういうことですか。すみません。大分前の事ですので、もう忘れてしまいました」
佐太郎はとぼけたが、社長は納得がいかない様子だった。
「君の提案したことで、実行に移された事はあったのか?」
「……」
「どうした、答えられないのか。何か答えられない理由でもあるのか?」
「いえ、それはありませんが、私が申し上げるより、上司の方にお聞きになってください。お願いします」
「そうか、どうしても言えないのだな。分った。俺がどうしてこういう事を君に聞きたいのか知りたくないかね」
「はい、知りたいと思います」
「これまで、短い時間だったが、君といろいろ話をしていて感じたことがあったんだよ。それは、君のことだから、多分上司に会社の改善策をぶつけていたのではないかとね。しかし、上司に潰されて、俺の方までその意見が届かなかった。もしかしたら、その為に会社が大きな損失を被ったのではないかと思ってな」
「社長、勘弁して下さいよ。私如きの意見が通らなかったからといって、会社が大きな損失を被るようなことはあり得ませんよ」
 佐太郎は半ば笑いながら、社長に顔を向け、両手を広げてあり得ないジェスチャーを見せた。
「いや、今の俺はそうは思っていない。かといって、今更上司を締め上げて云々するような愚かな事はしたくない。だから、もし良かったら君から聞きたいと思ったまでだ」
「社長、ありがとうございます。しかし今となっては申し上げられません。とうに忘れてしまった事ですから」
「うん、わかった、もう聞くまい」
「すみません」
 佐太郎は、過去のことを思い出し、悔しい思いを隠して首を垂れた。
「それはいいとして、もう一つ聞きたいことがあるのだ。いいかな」
「はい、何でしょうか」
 佐太郎は社長の顔を見た。温和な顔だった。
「君はこれからどうするのだ。お父さんもまだ六十五を過ぎたばかりだし、まだまだやれるだろう?明日にでも君が社長になって、どうのこうのとは考えにくいんだがなあ。どうなんだ?」
 佐太郎は、社長がどうして退職後の自分の事が気になるのか理解し難かった。
「はい、私が今考えていることを正直に申し上げます。社長のおっしゃるように、例え今日私が父に退職の旨を伝えたとしても、喜んではくれるでしょうが、明日から社長になれなんてことは無いと思います。いえ、例え父にそう言われても断るつもりです」
「どうしてだ、すんなり受ければ良いじゃないか」
「私は、父が五年間は今のままでいてくれることを望んでいます。その間、私は漁業のことについて、ゼロから勉強しようと思っています。修行しようと思っています。今まで父が営んできた会社を、いくら息子だからって、社員や周囲が心からすんなり認める筈がありません。上に立つ者は、それなりのものが備わってこそリーダーシップを発揮できるのだと思っています。ですから、受ける訳にはいかないのです」
「そうか、なるほどな、言えてるな」
「息絶え絶えの会社ですから、贅沢は言えませんが、元々私が最初からいないと思えば良い訳ですからね。今までがそうだった訳ですから。ですから、父にはもう少し頑張ってもらおうと思います」
「と言うことは、水島君、ずばり言うが、君はその五年の間に、将来に向かっての何か計画があるのではないのか?」
 佐太郎は社長の眼力に少なからず驚いた。
「いえ、先ほども申し上げましたが、勉強と修行に明け暮れる毎日だと思っています。それから後に、父の跡を継ぐことを考えたいと思います」
「だったら、会社を辞める必要はないのではないのか?勤務しながら勉強をし、修行も出来るんじゃないのかい?そう出来るように、俺が取り計らってもいいぞ」
しまった。藪蛇だ。最後の最後に来てドジを踏むとは。社長は愉快そうな顔をして、佐太郎が何と返してくるか楽しみにしていた。
「すみません。言葉足らずだったようです」
「あはは、はっきり言ったらどうなんだ。ん?五年の間、したい事や、どうしてもしなければならないことがあるんだろ?それに専念したい為に、会社を辞める気になったんだろ?どうだ、図星だろ?」
 社長は鬼の首を取ったかのように、得意満面の顔を佐太郎に向けた。
「社長、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「うん、何だね」
「社長はどうしてそのような考えになられたのですか?」
「あはは、簡単だよ。君自身が答えを出しているじゃないか」
「私がですか?」
「そうだよ、さっきからいろいろ話してる中で、研修生のことだとか合併の話だとか、およそ即席で答えられるようなことじゃないだろう?相当以前から考えていなければ、即座に出る訳ないだろう。さっき君は答えるのを躊躇したようだったが、もしかしたら、このことを以前に上司に提案とか進言したことがあるのじゃないのかね。そして、一笑に付されたんじゃないのかね」
余りにも図星なことを言われて、佐太郎は何も返事出来なかった。
「……」
「あはは、やっぱり図星のようだな。いくら上司に進言してもらちがあかない、ならば会社を辞めて、自分一人でやってやろうなんて考えたんじゃないのか?」
「……」
「俺はそのことを責めているんじゃないんだよ。君の提案や進言を深く理解もしないで、おそらく聞く耳も持たず、半ば門前払いだったのだろうな。その程度なんだな今の上司は」
「……」
「当社が養殖業に進出した方が良いと、上司に進言したのは何時のことだ?」
「はい、五年前です」
 とうとう佐太郎の口から、過去の出来事を語らずにはおられないように、まんまと社長に仕掛けられてしまった。
「そうか、五年も前か。研修生の話は?」
「三年前です」
「そうか、誠に残念な話だな。会社の風通しが悪いとこうなるんだよな。いやあ、俺の方が大いに反省しなければならないことだな」
「……」
「君はさぞ悔しかったろうなあ。まともに聞いてくれなかったんだからな。あはは、社長だと言ってふんぞり返っていると、ろくなことないな」
「……」
「で、もし良かったら、君の考えている将来の構想でも良いし計画でも良い。今ここで聞いておきたいのだが、聞かしてもらえるかな?さっきからの話は、分かった。その事は君のお父さんと話し合うとして、その話ではなくて、もっと違う話を聞いておきたいのだよ。あるんだろ?隠しても君の顔に書いてあるぞ。あはは」
 佐太郎はどうしたものだろうかと考えあぐねた。退職する身だし、とても大事な核心の話を社長に話す価値を見いだせなかった。
「急に言われても即答できないよな。分ってるよ。どうだ、今日じゃなくて日を改めてということで。その気になったら話してくれないかな」
「その気にならなかったらどうなさいますか?」
 佐太郎は少し笑いながらおどけてみせた。
「おいおい、君も水臭いことを言うなあ。この俺が君にお願いしてるんだぜ」
 顔つきは穏やかだが、社長が凄んできたと佐太郎は思った。そして、課長が『社長は策士だからなあ』と言っていたことを思い出した。

「でも、お話ししても、何だその程度の事かと、お笑いになる内容だと思います。それより、社内には優秀な社員が多くいますから、その中から人選してプロジェクトを立ち上げて、構想を練ってもらった方が、むしろ早く成就できるのではないでしょうか」
 佐太郎の考えている将来的な構想は、ある程度の輪郭はイメージ出来ていても、まだ完全に煮詰まっている訳ではないし、それに、この時点で例え大まかな骨格であっても、社長に話すこと自体、大いに躊躇するところである。いや、会社を辞める人間が、これからの自分のやりたいと思っている構想を、何故、社長に話さなければならないか、はなはだ腑に落ちないのである。だから、話題を別な方向に向けた方が得策だと判断した。
「その事も、5年前に上司に提案したのだな?」
「はい、実はそうです」
「その時、上司はどう言った?」
「あのー社長、すみません。これ以上は申し上げられません。立つ鳥は跡を濁さずと申しますから……」
「君は、上司の立場を考慮して、当時のことを話すことに躊躇があるようだな」
「はい。辞めてしまう人間が、社長に陰口を言って去ってしまったなんて思われたくありません」
「あはは、それは考え過ぎだよ。そんなことは一切ないから安心したまえ。社長の俺が責任を持つ。だから話してくれ」
「……はい」
 佐太郎は社長の顔をジッと見て仕方がないという顔をした。
「で、その上司は、君の提案に対してどう言ったのだ?」
「はい、当時の課長は、今の松本課長ではなかったのですが……」
「そうか、だな。そうだな、リサイクル部の下村次長が課長だった頃かな?」
「はい、そうです。課長はこう言われました。『余計なことを言うな。今は会社の業績も順風だし、今のままで突き進めばいいよ』と」
「そう言われて、君はどう返したんだ」
「はい。私は課長にこう申し上げました。『確かに今はそうかも知れませんが、これからは同業他社との熾烈な戦いが益々激しさを増してくることが予想されますから、より盤石な会社にする為に、今手を打っておく必要があると思います。その為のプロジェクトを早急に立ち上げるべきです』と」
「それに対して下村課長は何と言った?」
「はい。『その必要は全くないよ君。我が社を脅かすような会社が出てくる筈はないよ、絶対にな』と。そこで私は申し上げました。『どうしてそういう考えになるのですか?教えていただけないでしょうか』と」
「うん、なるほど。そうだよな。君にしたら納得出来ないよな」
 佐太郎は、社長に当時の課長とのやり取りを思い出しながら話すに連れて、段々と記憶が鮮明になって行くのを覚えた。そして悔しい思いが改めて胸をよぎった。
「そうなのです。当時私は二十八歳で、入社して十年程度しか経験のない駆け出しの若造とはいえ、根拠のない課長の言い方に、正直、少なからずカチンと来てしまいました」
「……」
「もちろん、そんな若造の提案ですから、的を得ているなんてことは考えてもいませんでした。私は少なくとも、上司がそのことに少しでも興味を示して、議論して頂ければ良いと思っていただけなのです。例え実現しなくても、仕事のことでトコトン議論することで本物が見えてくると、いつも思っていましたから」
「……」
「ですから、議論すらもしてくれない上司に、少々腹が立ったということなのです。これでは、私のみならず、希望に燃えている若い連中が育つはずがないと、自分勝手に思い込んでいました。」
 丸岡社長は、若い佐太郎の話に納得顔で何度も頷いていた。そして、この五年間に佐太郎の心配していたことが現実のものとなり、今そのツケを払わせていることを思い、失われた五年の重みをかみしめていた。実態を掴めないままに時間が流れ、その課長が今では次長に昇進しているのである。その事は良いとしても、その間、会社の業績が伸び悩んでいることの隠しようのない事実が、鋭いナイフで胸を突き刺されているような痛みとなって、社長の脳裏に容赦なく突き刺さってきたのである。痛恨の極みとはこのことである。
「で、君が課長に対して『どうしてそういう考えになるのですか?教えていただけないでしょうか』と言った時、課長は何と答えたんだい?」
「課長はこう答えました。『考えも何もないよ。俺の長年の勘だよ』と。私はそれを聞いて、これ以上話すことは止めようと思いました」
「なるほどな。だな。……なるほどなあ、そういうことだったのか」
 社長は顎を手で撫ぜながら何度も頷いた。その顔の眉間にシワが光っていた。

「一つ聞いていいかな?」
「はい。何でしょうか」
「先ほど君は、課長との会話の中で、これからは同業他社との熾烈な戦いが益々激しさを増してくる、と言ったよな?」
「はい、そうですね」
「そういう具合になりそうだという、何か具体的な情報でもあったのかね?」
 佐太郎は、社長の勘の鋭さに驚いた。さすがに大会社のトップである。会話の裏に隠れた真実を探るのに長けている社長だと思った。
「はい。実は今では会社の強力なライバルになっているA社の事なのですが」
 A社は三年ほど前に関東から当地に進出してきた同業者で、資本力にものを言わせて着々と規模の拡大を図っていて、丸環といえども安閑としておれない状況が追い込まれていた。それだけに、佐太郎の口からA者の話が出て来たことに対して驚きを隠さなかった。明らかに興味深そうな顔になった。社長は身を乗り出して佐太郎の口元を見た。
「うん、A社の事を何か知っているような口ぶりだな」
「はい、A社は東京に本社を構えている会社なのですが、私の同級生の友人が勤務している会社なのです」
「ほーー、そうか、で?」
「丁度五年前に、先ほどお話ししました、下村課長に提案した少し前のお盆休みの時に、私はある恐るべき情報をその同級生から聞いたのです」
「うん、続けて」
「同級生が言うには、近い将来ある企業、A社だったのですが、このK市に進出すると言うのです。最近では中央の会社が地方に進出してくるのは、そんなに珍しい事ではありませんし、酒で頭が少しぼやけていた精もあるのですが、右から左に聞き流していました。ところが、その同級生の様子がどうもおかしいのです。酒に酔った勢いで、ま、適当に世間話程度に話しているという風でもないのです。顔は意味ありげにニタニタと笑っているのです」
「うん、それから?」
「この同級生は、切れ者で秀才でした。私とは無二の親友の関係で、何でも話し合う仲でした。私は、同級生の意味ありげな顔について、何気なく聞いてみました」
「うん。……」
「その進出してくる会社の業種は何だい?と尋ねたのです」
「彼は何と返事したのだ」
「エコロジー関連だよ、と、私にお酌しながら上目使いに話すのです」
「うん、そうか、エコロジーねえ」
「私は同級生の表情から、何となく少し気になってしまい、いろいろと探りを入れながら聞き出しました。そうしましたら、彼は『あはは、流石だな。ピンと来たようだな』と言うのです」
「何にピンと来たんだ」
「私は酒の為におぼろげだった感覚が目覚めた感じでした。結論から言いますと、そうです、A社の進出だったのです。いえ、当時彼がはっきりと具体的に会社名を言ってくれた訳ではありませんが、私は直感的に同業者だと閃いたのです。しかも、A社は相当以前から市場調査をしていたみたいなのです。驚いた私は、急ぎ課長に進言したという次第だったのです」
「そうか、なるほどな。その君の進言を、下村君は自分の勘で片づけてしまったということだな?」
「はい、ま、そういう事になりますね」

「話の腰を折るようだが、その同級生だが、どんな会社に勤めているんだい?」
 佐太郎は、同級生の事について社長が質問してくるなんて考えも及ばなかった。
「えっ、どうしてですか?何か興味がおありですか?」
「あはは、いや、単に君の話を深く理解する為に、参考までに聞いておいた方が良いと思ったまでだよ。それに、君とこうして会話してると、思ってもいないことが次々と飛び出してくるからなあ。それだけの事なんだが、同級生と君とのつながりが、単なる友人関係だけではないように思えてきてな」
「そんなことはありません。単なる友人関係です。津山と言う名で、会社の名前は今ちょっと思い出せませんが、関東界隈では少しは名の知れた会社だそうです。彼はそこの営業係長をしています」
 佐太郎は具体的な会社名を言わなかった。知っていたが、何となく言わないほうが良いと判断した。
「その会社の業種は?」
「魚介類の卸業者で、輸出入も手広く手掛けている会社だそうです」
「何?君の会社と同業じゃないか」
「社長、水島漁民がその会社と同業だなんて、相手に対して失礼ですよ。比較に値しませんよ」
「あはは、そうか、ま、そういうことにしておこう。津山君とか言ったな。君も良い友人を持って幸せだな」
「はい、私にとって彼はとても心強い存在なのです。心の底から信頼していますし、誇りに思っています」

「そうか、……わかった。良く話してくれた。ありがとう」
「お話ししない方が良かったようですね。社長」
「いや、そんなことはないよ。逆だよ。いま俺は自分に恥じ入っているところだよ。図体はでかくても、中身は情けない会社だな。……全く」
 社長は吐き捨てるように呟いた。
「三年前も同じようなことだな?」
「はい、少しは違いますが。そうですね。同じようなことですね。新しい課長でしたから、少しは期待したのですが、結果は同じようなことになってしまいました。その時私は、会社の根強い社風と言いますか土壌と言いますか、そんなものを感じました。私も入社して十二年くらい経っていましたが、改めてそんなことを考えさせられて愕然としました」
「そうか、……そうか、そうだったのか。う~ん、そういうことだと、その間人材の流出、つまり、優秀な若者が辞めて行ったってことも考えられるな」
「はい。私もそう思います。私の知っている限りでも、かなり優秀な同僚が退社して、ライバル会社に勤めておりますから」
「そうか、そうだろうな。十分あり得ることだな」
 社長は姿勢を正して佐太郎の目を直視した。鋭い目つきだった。
「まさか、君はその辞めたライバル会社の連中と、手を組もうとしてるんじゃないだろうな」
 佐太郎は、思ってもみないことを社長に言われて、即座に手で遮ったが、同時にある考えが浮かんだ。
「そんなことは全く考えもしませんでした。……でも、面白いですね。その手もありますね。……なるほど」
「おいおい、あはは、余計なことを言ってしまったようだな」
 言いながら社長は、満更ありえない話ではないと思い、早急に何らかの手を打っておく必要を感じていた。

「話を横道にそらされてしまったが、肝心要の話をまだ聞いていないな」
 佐太郎は社長のしたたかさを嫌というほど思い知らされた。話が振出しに戻ってしまった。
「……肝心な話ですか?」
「あはは、とぼけるなよ。君の将来の構想とか計画のことだよ」
 佐太郎はこの時ふと、何かが脳裏に浮かんだ。それは得体のしれないものだったが、とてつもなく大きなものが光り輝きながら、脳の中を激しく駆け巡っていた。その物体が佐太郎にこう言わしめた。
「社長、そのお話は、申し訳ないのですが出来ません。すみません。その気になるまでお待ちいただけないでしょうか。お願いします」
「今後の社の運営に参考になるのではと思って、君の考えを聞きたかったのだが、仕方ないな」
 社長は諦めたようにポツリと呟いた。
「ありがとうございます」
 佐太郎はフッと胸をなでおろした。
「待ってくれと言うことは、いずれは話してくれるという風に解釈しても良いということだな?」
「私如きが考える構想なんて、どうせ大したことではないですから、社長から見たらママ事みたいなものだと思います。それでも宜しかったら喜んでお話しさせて頂きます」
「そうか、ありがとう。で、基本構想だけでもいいのだが、いつ頃になるかなあ」
 社長が何故にこうまで熱心になって、興味を示しているのかは容易に想像できた。
「その前に社長、一つだけお聞きしてよろしいでしょうか」
「改まってなんだよ。いいよ」
「私が先ほど申しました、優秀な人材を集めて、プロジェクトを立ち上げる気持ちはおありですか?」
「うん、君といろいろ話しながらそのことを考えてはいたのだが、当分後回しというか、状況を見ながら考えることにしようと思ってる」
「状況の中に、私の事も含まれますか?」
 丸岡社長は、先日来から感じていたことではあるが、この時、この若者の恐るべき才能を改めて感じた。この若者の頭脳と行動力を何としても会社発展の為に活用したい。その思いが急速にしかも強力に迫ってきた。
「そうだな、君が賛成してくれて、協力してくれたらという条件付きだがな」
「ありがとうございます。将来の構想の事ですが、そういうことでしたら急ぎます。取り敢えず基本構想を半年後にお話しするということでどうでしょうか」
「半年後か。思っていたより早いな。その後はどうなるんだ?」
「はい、その時点ではあくまで輪郭でしかないと思います。その後の事は、社長と打ち合わせして、固めて行けたらと思います」
「ということは、はっきり言えば、君の会社だけではなく、我が丸環も含めた形での構想だと理解してもいいのだな?」
「はい、構想が実現可能かどうかは、社長の腹一つに掛っていますが、概ねそんなところです」
 丸岡社長が破顔した。
「そうか、ありがとう。楽しみが増えたな。大いに期待しているからな。その為の人材が必要なら、社員を当ててもいいから言ってくれ」
「ありがとうございます。基本構想が固まれば、次の段階に人材が必要になるかもしれませんが、半年後の段階では、それには及びません」
「そうか、なるほどな。わかった」

「最後に聞いておきたいことがあるのだが、いいかな?」
 佐太郎は、社長が今度は何を聞きたがっているのだろうと興味を持った。
「思ったままを言ってくれれば良いのだが、今のこの会社に一番必要なものは何だろうね。勿論、社の発展の為にだが」
 佐太郎は少し考えるふりをした。
「そうですね、社内の風通しを良くすることと、管理職を含めた社員の能力を最大限生かせる、社内システムの構築ではないでしょうか」
「例えばどういうことかね?」
「辞める私が申し上げるのも変ですが、能力を目に見えるものにするということです」
「具体的にどういうことだ?」
「一つの例として、記名式の投稿箱の設置です」
「投稿箱?」
「はい、そうです。社内の然るべき場所に郵便ポストみたいなものを設置して、社員の考えや意見やアイデアを幅広く吸い上げるのです。条件をつけてはいけません。場合によっては上司の悪口でもいいのです。極端な話、社長の悪口でも良しとします」
「おーー、面白いな。で、それによって期待できることは?」
「自分の勤めている会社の発展を望まないものは一人もおりません。俺だったらこうするのにとか、あの上司は云々とか、そのようなことを吸い上げて会社発展のネタ作りをするのです。
 その中から、優秀な提案などを選んで、社内でトコトン議論する。先ほども申しましたが、議論することで頭脳が研ぎ澄まされてきます。その事は即ち、社の将来像を浮かび上がらせる原動力になります。それが狙いです。
 当然、管理職もウカウカできません。あぐらをかいている場合じゃなくなります。場合によっては淘汰の憂き目に遭うかもしれない管理職が出てきます。当然なことです。 会社が繁栄して社員が潤い、多くの家族が喜びを共有できるのだと思います。
 そして、そんな優秀な提案には、金一封付で表彰することも忘れてはいけないと思います。その事が社員のやる気を育て、自ずと能力が高まってきて、会社全体の業績に大いに寄与すると思われます。逆に、全く投稿しない社員は、それなりに考えます。記名式の意味はこの辺にあります。
 このようにすることで、社員が変に委縮したりする懸念も考えられますが、全社挙げてサポートすれば、そんなに心配する事ではないと思います」
「なるほど、なるほど。うん、うん、だよな。良くそんなことを思いついたな」
「社長これは、江戸時代の目安箱の受け売りに似ていますよ。会社に応用したまでです。でも、いい考えでしょ?」
「だな、こんな事をやっている会社があるのかな」
「はい、あると聞いております」
「そうか、なるほどな。すぐにでも始められそうだな」
「是非やって見られてはどうでしょうか。最初から上手くいくとは思えませんが、やることに意味があると思います。やりながら修正して行けばいいことだと思います。
 言えることは、社員の能力は宝です。その宝である社員の能力を、如何にして業績に直結させるかが問われている訳です。社員は厳しい面接などを経て採用した訳ですから、宝の持ち腐れだけは避けたいですよね。言葉は悪いですが、もしかしたら、磨かれない宝に、会社は長年にわたって、せっせと賃金を払っている訳です。何とも勿体ない話ですよね。要は、何故宝が持ち腐れに至ったのかの原因究明が重要なのではないでしょうか。あは、申し訳ありません。偉そうなことを申し上げてしまいました」
 この時点で、丸岡社長の顔に、佐太郎に対する絶対的な信頼感が生まれたことを、無論佐太郎が知る由はなかった。

 こうして丸岡社長との異例の話し合いが終了した。
 佐太郎は残務整理をすませ、十五年の長きに亘って勤務した会社に別れを告げた。

 会社の出入り口から外に出た。空はまばらな雲を抱いて青空が大きく広がっていた。佐太郎は少しばかり歩いて振り向き、社屋を正面にして万感の思いで深々と頭を垂れた。

「ありがとう!」

 そして、くびすを返し、空に向かって親指を突き上げ、思い切り大きな声で叫んだ。

「行くぞ! ヨーソロー!」


第二章 退社
―― 短編小説 波の標 完 ――
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