□ 第一章 説得 □
人口五十万人程のK市で生まれた水島佐太郎は、地元の高校を卒業後、漁港近くに構える産業廃棄物会社に就職した。そして今、勤務歴十五年余りが経過しようとしていた。カンパチの養殖業を営んでいる父親が、六十五歳を過ぎてもなお身体に鞭打って働いている姿を見て、少しでも楽させてあげたい思いから、会社勤務の合間を縫って、時々手伝いをする日常が随分と長く続いていた。だから、魚の養殖についての知識はそこそこ身につけてはいた。
佐太郎の父良助は、有限会社水島漁民の代表者で従業員を十五名ほど雇っていた。佐太郎がまだ幼かった頃に、祖父の後を継いで以来三十年間運営してきた会社である。十八台ほどだったイケスを徐々に増やし、現在では百台になり、実績も漁業組合の中でいつもトップスリーに入る地元では名の通った会社に成長した。
数年前まで漁業組合の代表理事組合長を任され、それまでになかった新しい考えの元に、組合組織の近代化と拡充に取り組んだ。その結果、地域としてこれまでにない大きな実績を残し、全国から注目を浴びて、一躍時の人になった経歴がある。何事にも積極果敢な行動と緻密な計算に裏打ちされた養殖技術は高く評価された。そんな父親の後姿を見て佐太郎はいつも感心し、内心誇りに思い、心の中では父親に対する尊敬の念を抱いていた。
その年の夏、大きな台風の襲来を受けた。父親の陣頭指揮の元、佐太郎も含めて、社員総出の必死の防備の甲斐もなく、イケスが流されて破損し、大量の魚が海に放り出され壊滅的打撃を受けた。他の会社も同様の被害を受けたが、父親の所有するイケスだけが特にひどかった。そのことが父親に相当のショックを与えたようで、それからの数日間は、後始末などにも翻弄されて、心身ともに相当疲れている様子だった。
実は台風にも安心な、イケス自体を浮かせたり沈めたり出来る浮沈式イケスに切り替えるべく、銀行筋の融資を取り付け準備していた矢先のことだった。それだけにショックも大きかったのである。
この台風がもたらした被害は、多くの漁業関連企業の急激な業績悪化を招いた。その為に地域に多大の影響が出て深刻な事態となった。幸いにも、父の運営する会社は、銀行などの支援もあり、何とか急場はしのぐことが出来た。
しかしながら、それからというもの、あの気丈夫な父親の仕事に対する意欲が日に日に衰えて行く様子を目にして、佐太郎は何とかしなければと思っていた。良い機会だから、養殖業を廃業することを父親に進言しようとも考えたが、愛着のあるこの仕事を辞めることは、父の気持を逆なですように思えたし、一徹な父が首を縦に振ることは到底ないだろうと思われた。ましてや社員のこともあるし、借金の返済も残っている。地域への貢献を一番のモットーにし、これまでがむしゃらにやってきた仕事を、簡単には放り出せない状況にあるのは確かである。
それから一年が経過した時、驚いたことが起きた。各漁業関連の多くの企業が倒産してしまったのだ。昨年の台風で壊滅的な被害を受けたことが尾を引き、このような形で表面化したのである。そのことで漁協組合自体の存続すら危機に直面したほどだった。所詮弱小企業の集合体であるとはいえ、余りにも無残な姿を露呈してしまい、漁協としても途方に暮れる始末だった。
そんなある日曜日の午後、佐太郎は久しぶりに縁側に腰をおろし、のんびりと外を眺めながらスマホから流れる音楽を聞いていた。晴れ渡った空からは燦燦と太陽が降り注いでいた。暑い日だった。目の前の大きなぶどう棚には緑色した房が所狭しと連なっていて、日陰から吹いてくるそよそよとした風が心地よかった。しかし、時折りぶどう棚の左奥にある豚小屋からの臭気が、豚が鼻を鳴らす声と共に漂ってきて、この風情を消してしまうことがあった。
その豚舎から、手拭いを首にぶら下げて、父親がゆっくりとした足取りで近づいてきた。父親の額にはうっすらと汗がにじんでいた。父親の趣味と言った方が良いと思うが、子豚も含めて十数匹のブタやヤギを家畜として飼っていた。その小屋の横にはウサギ小屋まである。
真っ黒に日焼けした顔は精悍ではあるが、前頭部が薄くなり、最近のやる気のなさも手伝ってか、この日ばかりはやけに年寄臭く見えた。いつもの鋭い眼光も覇気もなく、随分と穏やかに見えた。父親はニコニコしながら佐太郎に何か話掛けてきた。佐太郎は慌ててイヤホンを外した。父は手拭いを首に掛けたまま額と前頭部の汗を拭いた。そして佐太郎の左隣に腰を掛けた。
「いい天気になったな」
どちらかと言うと寡黙な父親が、横に座り話しかけて来るなんて滅多にあるものじゃない。
「そうだね」
佐太郎は何とはなしに曖昧な返事をした。
「どうだ、仕事は上手く行ってるのか」
「うん、まあ可もなく不可もなくってとこだね」
「そうか、今の会社に入社してもう何年になるかなあ」
「ざっと十五年になるよ」
「そうか、お前も高校を卒業して十五年もたったか。早いもんだんなあ」
「そうだね、あっという間だったような気がするよ」
「うん、もう会社じゃベテランだな」
「だよねえ、仕事の上では何でもこなせるようになったよね」
「そうか、そうか、お前は考え方が真面目で一途なところがあるから、会社も重宝してるんじゃないのか?」
「うん、まあね、会社でも一目置かれるようになったと思ってる」
「主任という立場もあるし、これからが頑張り時だな」
「そうだね、自分なりに頑張ってみるよ」
「そうか、それは何よりだな。今後も会社の歯車になって働き続けるつもりなんだろ?」
この時、佐太郎は反射的にドキッとした。口ぶりは穏やかだが、親父がそれとなく探りを入れて来ている事は容易に察しがついた。一方では、とうとうこの時が来たかと思った。前々から予想した展開になるのではと緊張が走った。
「うん。好きな仕事だし、出来れば続けてもいいかなとは思ってるよ」
佐太郎はそれとなく鎌をかけてみた。親父がどう返事するか、佐太郎は親父の口元をじっと見詰めた。
「一生大将にはなれずに、社員のままで勤める訳だな」
「うん、それでもいいと思ってる」
佐太郎は、何ともいい加減な答弁をしていると感じながら父親の次の言葉を待った。
「そうか、だよな、これまでの努力を無駄にしない為にもその方がいいかもな」
父親のあっさりとした口ぶりに佐太郎は、はしごを外されたような感じで驚いた。その時、一瞬ではあったが、父親の顔の表情が曇った諦めの表情に変わったのを見逃さなかった。
「ところで、佐太郎は好きな女はいるのか?」
突然話題が変わり、佐太郎は慌てた。
「うん、気になっている女性はいるよ」
「気になっているだけで、実際に付き合ってる訳じゃないんだな?」
「うん、ま、そうだね。何で?」
「いや、お前もそろそろ身を固めた方がいいんじゃないかと思ってな。これからの人生が、お前にとって極めて重要な局面を迎えることになるから、出来ればサポートしてくれる相手がいた方がいいだろ?……うん?」
佐太郎は親父の鋭い視線がこちらを凝視しているのを感じ、思わず目をそらせた。
「ま、そうだよね、そのことは考えないでもないけど、踏ん切りがつかないんだよ」
「何を言ってる、実際に付き合ってる女がいないくせに、踏ん切りも何もないだろう」
「あはは、一本取られたなあ。確かにそうだね」
「バカ!感心してる場合かよ。……どうだ?何だったら俺が紹介しようか?見合いしてみないか?」
佐太郎は大いに慌てた。今まで結婚のことは考えない訳でもなかったが、男ばかりの会社で機会は全くなかった。何度か合コンに参加したことがあったが、気に入った女性とは巡り会わなかった。
「お父さん、チョ、ちょっと待ってよ。その気になったら、俺からお願いするからさ、それまで待ってよ」
佐太郎は今気になっている女性のこともあるし、自分の結婚相手は自分で決めたいと思っていた。
「そうか、分った。いやな?お前にふさわしいと思われる女性が一人いるんだよ。あの女性だったらお前もきっと気に入ってくれると思うよ。気立てが良くて、器量も十人前だし、料理も上手いと聞いているが、何と言っても物事に前向きな考えをするところがいいねえ。あんな女性はそういるもんじゃないよな」
親父の口ぶりでは、その女性にぞっこんな様子だった。その時、奥の方で二人の話を聞いていた母が、お盆を持って来て中に入った。
「ふふ、お父さんがその娘さんと付き合いたいような口ぶりね」
母房江はお茶を二人の前に置きながら、いたずらっぽい視線を夫に向けた。
「おーー、そうなんだよ、俺が佐太郎みたいに若かったらなあ、命がけでアタックするけどなあ」
「まあ、ここにこんなに素敵な女性がいるというのに、ぬけぬけと」
「あはは、すまんすまん。それぐらい素敵な女性だと言いたいんだよ」
「その人って、誰なの?」
母も親父の言う女性のことは知らないようだった。
「あはは、言わぬが花だな。佐太郎がその気になったら教えることにするかな」
「でも、女の私から見た評価も大事じゃないかしら」
「うん、そう言われればそうだな。じゃな、母さんにだけは後でそっと教えておこうかな」
「はい、お願いします」
「ほい、わかった。……佐太郎言っておくけど、俺が今日まで何とか人生を送って来れたのも、ひとえにこの母さんのお蔭なんだぞ。この母さんと巡り合えなかったら今の俺はないね。男にとって、女ってそれほど大事な存在なんだよ。分るか?」
父親は母の顔を見て照れくさそうに言いながら、佐太郎の方に顔を向けた。
「まあ、初めてお褒めいただきありがとうございます」
母は良助に向かって頭を下げ、そして佐太郎に向かって言った。
「佐太郎、ここいらで、これからの人生のことを今まで以上に真剣に考えた方がいいと思うわよ。お父さんもお母さんも、後何年かしたらあの世へ行くような年齢になってしまったけど、その後のことを考えると夜も眠れないくらい心配してるんだよ。だから、一人息子のお前には頑張ってもらわないとね。人生甘くないからね」
母親のこの言葉が、佐太郎の胸にグサッと来た。今でこそ穏やかになった父親ではあるが、これまでの頑固一徹な父親と人生を共にする中で、辛苦をなめてきた母のことは佐太郎が一番よく知っていた。それだけに母の言葉が痛烈に胸に突き刺さったのである。
実は十五年前の話であるが、佐太郎が高校を卒業する時に親父との間で猛烈な言い合いがあった。父良助は佐太郎に大学に行くように諭し、その上で事業の後を継ぐことを望んだ。だが佐太郎は激しく反発した。大学に行くことはまあ良いにしても、親父の後を継ぐことは嫌だった。その当時の父親の事業は名ばかりで、家内事業の域を出ることなく、細々とした暮らしが佐太郎には夢も希望もないものに映っていた。
結果として、佐太郎は大学にはいかず、今の仕事を選び就職したのである。そのことは父良助の脳裏に鮮明に焼き付いていた。だから、後継者は社員の中から選ばざるを得ないかも知れないと思ってきた。しかし、出来ることなら、とずっと思い続けて今日まで来たのである。
あれから十五年。その間良助夫婦の凄まじいばかりの仕事ぶりは、近隣で評判となり、それと共に着実な実績が年を追うごとに膨らんできて、代表理事組合長にまで上り詰めたのである。たった一人の息子にそっぽを向かれた親父の、猛烈な人生との戦いだったのである。言葉を変えれば、息子の気持をこちらに振り向かせる為の戦いであったと言っても良い。
地域の仲間からは、規模の大きくなった良助の会社は、当然の成り行きとして、息子の佐太郎が継ぐものとばかり考えられていたが、一向に会社勤めを辞めようとしない佐太郎に疑問の目が向けられていた。そのことは佐太郎自身もうすうす感じない訳ではなかったが、過去のしこりが尾を引いていた。
父良助はお茶を一気に飲み干し、房江の方を振り向いた。
「母さん、美味しいお茶ありがとう」
房江には、良助の目が少しばかり潤んでいるように見えた。気丈夫で人の話に耳を傾けない頑固一徹の面もあるが、房江はこの男に、男としての底知れない優しさを感じていた。そして、息子の佐太郎のことで、父親として思うようにいかない自分に対する悔しさと苛立たしさを、誰にも打ち明けることが出来ないもどかしさが、房江には手に取るように理解できたが、何をどう言って良いのか言葉がない。
「佐太郎、もう二度と言うことはないと思うが、十五年前と同じように、もう一度だけ言う。これはお前のこれからの人生のことを考えて、ずっと思ってきたことなんだが……」
佐太郎は親父の覚悟を感じた。
「はっきり言う。俺の後を継いでくれ。頼む!お前だったら俺以上に上手くやれると思ってる。お前の考えた通りに事業を展開して行けばいいよ」
佐太郎は父良助の思い詰めたような熱い眼差しを肌で強く感じた。
「実はな」
親父が話を続けた。
「お前が三歳の頃で、俺が今のお前と同じような歳の頃のことだったと思うが、俺の親父つまりお前のおじいちゃんだよな、その親父から、いま俺がお前に言ったのと同じようなことを言われて、最初はとても嫌だった。親父の背中を見て、将来に夢も希望も持てないような人生を送りたくないと強く思っていたんだよな。だから、親に対して強く反対したんだ。あの頃の俺は、今のお前を見ているようで、思い出しながら時々苦笑いすることがあるんだよ」
親父の顔が柔和になった。真っ青に晴れ渡った空を見上げて、遠い過去の当時の自分を思い出しているようであった。
「人生は長いようで短いし、家族を守る為、地域との絆を良好に保つ為に、辛苦を舐め尽くしてでも頑張らなきゃならない時があるんだよな。これは言ってみれば、自分に振りかかった運命でもあり宿命でもあると思うんだよ」
親父は佐太郎の方を振り向き、話を続けた。
「だが当時はもちろん、そんなことを理解出来る訳がない。若かったからなあ。自分がこれといった意味もなく、ただ単に親の言いなりになりたくないという、くだらない反骨心だけで親に逆らっていたことに気づいたのは、ずいぶん後の事だった」
「じゃ、どうしておじいちゃんの後を継ぐことになったんだ?」
これまでじっと聞いていた佐太郎が口を挟んだ。
「それは簡単だよ。俺は親父が好きだった。ただそれだけのことだよ」
「えっ、理解できないよ。だって、親の背中を見て、そうなりたくないって思っていたんだろ?」
「それはそうだ。だが、そのことと、俺が親父を好きだったこととは別なことだろ?」
「……」
「俺はな?親に跡を継いでくれと言われて、悩みに悩んだよ。会社勤めしていて順調だった。しかも昇進の話まであった自分に、よりもよってこんな時に、跡を継げ?冗談はよしてよ。と叫びたい心境だった。そんな時、ある知人から言われた言葉が俺の心を変えたんだよ」
「どう言われたの?」
「知人が言うにはな?良助お前はなんて贅沢な考えをするんだよ。世の中選択肢のない人間が五万といるんだぜ。分るか?生活費を稼ぐために、好きでもない仕事を、ただ単に会社の歯車にすぎないと感じながらも、働き続けなければならない、言ってみれば不幸な人生を送っている多くの人がいるってことだよ。と、ここまでは俺も知人の言ってることは理解出来た。だが、それがどうして贅沢な考えなのだという点が理解できなかった」
「うん、うん、なるほど同感。で、その人はそれから何と言ったの?」
「親から仕事を受け継ぐことの意味を考えた事があるかと言われた。それから、家族の歴史やルーツのことを考えた事があるかだとか、どうしたら仕事に誇りを持つようになれるかだとか、自分の生き様を後世に伝える意義や価値のことを考えた事があるかとか、いろいろ言われたよ」
「ヘエー、面白い。面白いけど、それがどうして贅沢な考えと繋がるだろう」
佐太郎は俄然興味を示してきた。
「そのようなことを背負って生きて行ける人生を享受できるって贅沢なことだろ?とその人は言うんだよな。分るか?」
親父は佐太郎の目を見た。
「……、いまいち分らないなあ」
佐太郎が首をかしげた。
「俺はこう理解した。途中の昇進などを経て、会社で与えられた仕事をこなしながら人生を終えるのもいいかもしれない。だが、自分のたった一度の人生を、例え思わぬ失敗や挫折などがあったにしても、それらを解決しながら、能動的に自分の思い通りに突き進むことが出来れば、この上ない喜びがある筈だとな」
「なるほど、お父さんは自分が選択さえすれば、能動的に自分の思い通りに突き進むことが実現可能な立場にあった。という訳だね。だから贅沢な考えだという訳だ。なるほどなあー、一理あるよなあ。だけど、それは分るけど、その事と、さっきお父さんが言っていた、親が好きだったから跡を継いだことと、どう繋がるの?」
佐太郎は頷き、しきりに感心しながら疑問符を親父に振った。
「その人は、最後にこう言った。良助お前は自分の両親を好きか?ってな。俺は意外な展開に驚いた。俺は即座に答えた。大好きだとな」
「うんうん、それから?」
佐太郎はもうすっかり親父の術中にはまっていた。良助は佐太郎の顔をチラチラっと見ながら話を続けた。
「仕事のことは置いといて、両親を精神的に受け入れられないのであれば別だが、そうでなく、むしろ両親の物の考え方とか生き方などが好きだったら、それがすべての答えだというんだ。つまりこうだ。好きだということは、自分の中にもそういう生き方をしたいという、一種の願望みたいなものが内在している証拠なんだ。だとしたら、その両親と精神的な面を共有して一緒に行動することが、自分の願望を成就する一番の近道になる訳で、そのことが人生という括りの中で、大きな喜びをもたらしてくれる原動力になるのだ。と、まあこんな話だ。佐太郎、分るかな?」
良助は佐太郎の顔を見ながらニヤリとした。
「うん、何となくは理解出来るけど、何だか屁理屈をこねているようにも思えるなあ」
「お前はまだ独身だから理解し難いことかもしれないが、これはとても大事なことを言ってるんだよ。おまえも結婚して子供が出来るころになると理解できると思うよ」
「お父さんは理解出来たの?」
「理解出来た。なるほどと思った。自分が思い描いた人生の何たるかは、実は独りよがりな、全く根拠にならない理屈にベールされていることに気づいたんだ。会社の単なる歯車ではあっても、結果として社会に貢献してるとすれば、それはそれで立派なことかもしれないが、所詮、歯車は歯車だ。長いこと勤務すれば、場合によっては管理職を経て、重要なポストを手に入れることが出来るかもしれない。それに伴って収入が増えて家族が安定し、人生の喜びを味わえるかもしれない」
「だったら、会社を辞めることないじゃないの?そんな人生もいいんじゃないの?」
佐太郎が口を挟んだ。
「もちろんだよ。俺はそんな生き方や人生を、根本から否定している訳では決してない。だが、それよりももっとダイナミックな生き方が出来、さらに社会の仕組みや家族の絆、そして地域との絆を大事にしていくことが出来れば、一回りも二回りも大きな人生が歩めるのだということを、その人の話を聞いて実感として理解出来たんだ。その結果として、俺はそちらの方を選ぶことにしたんだ」
「そっかあ、なるほどね。いまいち理解し難いところもあるけど、何となくそんなものなんだ程度は理解出来るね」
母親の房江が空になった茶碗にお茶を注いだ。そしてまた二人の会話を聞く態勢に入った。父親と息子がこんな風にして会話するのは初めての事だった。それだけに内心嬉しかった。もっと早くにこんな会話をしていればという思いもあった。
佐太郎も同じような考えだった。会話を通して、今まで理解できないでいた親父の何たるかを知ることが出来るし、今日みたいに親と子というよりも、一人の人間として接してくれる親父の優しさみたいなものに初めて触れて、込み上げるものを感じていた。
「だけど、会社を辞めるとなったら、母さんを説得する必要があるだろ?説得したの?」
「したよ。俺とおじいちゃんの間の気持のやり取りは、それなりに分ってたみたいだから、単刀直入に切り出した」
「会社員を辞めておじいちゃんの後継ぐことに、母さんは反対じゃなかったの?」
佐太郎は母の房江の顔を覗き込んだ。
「その話を聞いた時は正直少し驚いたわよね。でも私はお父さんの考え方に惚れていたし、この人が行く道なら間違いはない、と心底思っていたから、何処までもついて行く覚悟は出来ていた。だから私の中では、それほど深刻ではなかったわね。でも、確かにお父さまの給料も良かったし、将来を期待されている人材だということは聞いていたから、勿体ないとは思ったけどね」
「将来に対する不安はなかったの?」
「無いと言えば嘘になるわね。確かに少しは悩んだけど、でもねえー、この人は一度言い出したら聞かない人だし、ま、何とかなるんじゃないかと楽観的なところが母さんにはあるからね」
「確かにね、母さんてそんなところがあるよね」
佐太郎は父良助の方を振り向いた。
「あはは、今思うと俺はこの母さんの楽天的なところに、随分と救われてきたなあ。悩みを抱え込まない性格みたいだね母さんは」
「でも、母さんは漁業の仕事は経験なかったんだろ?」
「私は農家の生まれだったから、もちろんそんな経験ないわよ」
「おじいちゃんの仕事ぶりを見てて、大変な仕事だとは思わなかったの」
「確かに農業も大変な仕事だけど、漁業の仕事ってとても大変な仕事だということは、近隣のおばさん達からも良く聞いていたから、何となくは分っていた」
「だったら、何も敢えて苦労を背負って生きていくことないじゃない。会社員の方がいいと思わなかったの?反対しなかったの?」
佐太郎は母が何故反対しなかったのか理解し難いようだった。
「ふふ、佐太郎はまだ女心が分ってないみたいだね。女ってね、惚れた男のロマンに何処までもついて行きたいものなのよ」
「ヘエー、そんなもんかなあ。将来苦労すると分ってて、反対しないなんて理解できないなあ。あはは、正に国宝級の楽天家だね」
佐太郎はいかにも愉快そうに声を上げて笑った。それを見て、良助がしみじみとした口調で語り出した。
「実際は違うようだが、徳川家康の人生訓とされている『人生は重き荷を背負いて行く道が如し』という言葉があるが、全くその通りだな。一日たりとも肩の荷を軽いと思った時はないな。なあ、母さん?どう思う?」
「そうですね。私なんか、お父さんの後を付いて行くだけですからね、お父さんに私の荷物まで背負っていただいたから、あんまり感じませんが、お父さんを見ていると、その通りだと思いますね。ほんとに長い間ご苦労様でしたね。そろそろ肩の荷を下ろしたいのでしょ?」
「あはは、母さんには参ったね。お見通しだね。あはは」
良助は豪快に笑ったが、心なしか淋しげであった。再び佐太郎の顔をジッと見て言った。
「いいか佐太郎、今まで俺が話した事は、ま、参考になればという思いで語ったのだから、右から左に聞き流してくれていいんだからな。後は自分で考えて決めればいい。お前が決めたことについては俺は何も言わない。分ったな?」
佐太郎は黙って頷いて下を向いた。縁側の縁甲板に太陽の光を浴びたぶどう棚の影ができていた。
「くどいかも知れないが、いつも言っているように、人生は自分で選択するものだ。親としてお前をサポートすることはもちろんいとわない。しかし、親だからと言って、ああしろこうしろとは決して言わない。お前の人生はお前自身で責任を持つべきだ。だから、俺が言ったからといって、それに従うことはない。自分でじっくり考えて、後々後悔のないような結論を出せばそれで良い。……いいな?」
佐太郎は親父が腹を切るつもりだと感じた。これを機会に廃業もいとわない覚悟だなと感じた。昨年のあの台風による被害がなければ、社員の中から後継者になって貰おうという選択肢もあったろうが、その考えは無残にも消え去っていたのだと理解した。
父良助は縁側から降りて地面に足を置き、首に巻いていた手拭いを取り、二つ折りにして腰のベルトに挟んだ。そして、再び豚小屋の方向に身体を向けながら佐太郎にこう告げた。
「佐太郎、去年の台風にはほんとに参ったなあ。自然の力って侮れないよなあ。佐太郎が俺の立場だったらどうするかなあ。今後のこともあるから、何か対策を考えてくれたら嬉しいけどなあ」
良助は背中を佐太郎に向け、右手を挙げながら豚小屋に消えた。