□ 第二章 宝石箱 □
沢田課長の言っていた二・三日どころか、一週間経っても二週間経っても課長からの声掛けがなかった。東条物産との取引の案件は、座礁に乗り上げたなと津山は推察した。
津山のデスクの後方のすぐ近くに課長のデスクはある。その後の経過がどうなっているのか、余程尋ねようかとも思いはしたが、何か事情があっての事だろうと、気にとめないことにした。
そんなある日の夕刻、営業三課の渡辺隆二と立ち話で、営業上の打ち合わせをしていた。渡辺のデスクの電話が鳴った。
「はい、渡辺のデスクです。…………、はい、いらっしゃいます。今変わります」
「津山さん田畑部長から電話です」
津山は耳を疑った。
「何?部長から?」
渡辺は首を縦に振った。
「はい、津山です」
「津山君か、田畑だが今いいかな?」
滅多にあることではない。一瞬津山の体に緊張が走った。
「あ、はい」
「業務に差し支えなければ、こちらに足を運んでくれないか。応接間で待っていてくれ」
「あ、はい、かしこまりました。すぐに参ります」
「そうしてくれ」
津山は大いに慌てた。渡辺に向かって右手を挙げてゴメンと会釈して、急ぎ自分の席に戻り、上着を羽織りながら、課長に部長から呼ばれた旨を報告して、その場を立ち去ろうとした時、課長に呼び止められた。
「部長から?そっか、さっき部長から電話があって、君がどこに居るか尋ねられたから、営業三課にいると答えたのだが」
後は言葉にならなかった。課長は信じられないという顔をした。業務のことなら通常は何事もまず課長に指示がある。
「はい、行ってきます」
階段を駆け上がり部長付の応接間のドアをノックした時、少し息が上がっていた。
ドアノブが勝手に回転してドアが開き、同時に女子社員の顔が目の前にあった。その顔にはかすかな笑みが漂っていた。
「どうぞこちらでお待ち下さい」
案内された応接セットの豪華さに一瞬戸惑いながらも、女子社員の手のひらに誘われて、恐る恐るソファに腰を下ろした。ゆっくりと沈んでいく体の感触が異次元だった。
暫くして片手に書類を持った細身で長身の姿がゆっくりと近づいて来た。建設資材部の取締役田畑本部長である。津山は起立して緊張の面持ちで深く頭を垂れた。
「待たせたな。ま、掛けてくれ」
津山はゆっくりと腰を下ろしながら部長の言葉を待った。
「早速だが、先日沢田課長から提案書が提出されたのだが、今一理解に苦しむところがあってな」
部長は懐から眼鏡を出して書類に目を通した後、眼鏡を外しながら書類をテーブルに置いた。
「…………」
「で、課長の話によると、この案件は君の提案らしいから、理解を深めるためには、君に直接聞いた方が良いと判断して来て貰ったという訳だ」
「はい」
「本来は沢田課長も同席するのが筋だが、思うところがあってこういう事にした。場合によっては、後日また課長にも同席して貰う事もあるかもしれない。筋を通さないやり方は、会社のルールに照らし合わせると良くない事だが、私の立場上、たまにはこういうこともあることを理解してくれ」
津山はこの時、たかだか主任の立場の社員に対しての話し方に、部長の人となりに思いを巡らした。
「課長からは一通りのことは聞いておるし、この提案書にもまとめてあるが、それはそれとして、東条物産に関する事で、これまでの経過を含めて、どんな小さな事でもいいから、ありのままに君の考えを聞かせてくれ」
津山は次第に緊張が緩み、本来の物事に動じない津山に戻っていた。
「はい、申し上げます。およそ三週間近く前ですが、課長に呼ばれまして、東条物産との進捗状況と取引先になって貰うべき営業上の対策について打ち合わせしました。そこで……」
「津山君ちょっと待ってくれ。この提案書が俺の手元に届いたのは一週間前だぞ。何でそんなに時間が掛るんだ?」
「部長すみません。その件は課長に聞いて下さい。私には分かりません」
「それもそうだな。後で沢田課長に聞いておこう」
津山は、東条物産に関する営業上の経過を細部にわたり話し、最後に東条物産が物流システム構築の件で悩んでいる事を話して締めくくった。
「なるほど、やっぱりな。これで合点がいった。あはは、いい勉強させて貰ったな」
津山は部長の言ってる意味が分からなかった。考えられるのは課長が提案書としてまとめた中身の事だ。
「部長、もし差し支えなければ、その提案書見せて貰っても宜しいでしょうか」
「お~、読んでみたまえ。君の提案だと前置きしてあるぞ」
津山はテーブルに置かれた書類を、手元に引き寄せ目を通した。そして部長が笑いながら言った意味を理解した。
「私の申し上げた内容と少し違いますね」
「少し?何言ってる、全然的外れじゃないか。あきれたね」
「もしかしたら、私が課長と打ち合わせした時の、私の話し方に問題があったのかもしれませんね。すみません」
「あはは、何も課長をかばうことないよ。君から直接話を聞いて、俺は合点がいった訳だからな?少なくとも、もし俺が課長の立場だったら、こんな提案書には絶対にならないな」
相当な日数を費やした上に提案書の中身がこれではと、津山は課長の見識を疑った。
「津山君ありがとう。これは率直に言っていい提案だと思う」
「えっ、ほんとですか?ありがとうございます」
「そこでだ、すまんが君の手で改めて提案書として提出してくれないか」
「部長お言葉ですが、私自身で提案書を書くのは構いませんが、出来ましたら課長に指示して頂けないでしょうか」
「そのつもりだよ。筋は筋だからな。あはは、筋は筋でもスジ肉なら頂けるが、筋違いの提案書は頂けないよな」
「部長も冗談がきついですね」
津山は思わず小声で呟いた。
「今何か言ったか?」
「いえ、すみません」
「後で課長に指示しておくが、提案書として俺の手元には何日後くらいになるかな。できるだけ早いほうが良いのだが」
「三日後でどうでしょうか。遅すぎますか?」
「いや構わない。忙しい業務の合間でまとめ上げなければならないだろうからな」
「はい、ありがとうございます。その様にさせて頂きます」
津山は部長の顔を見て、そして深々と頭を垂れてソファから離れようとした。
「まあ座りたまえ。まだ話は終わっていない」
津山は再び腰をソファに乗せた。
「最後に確認しておきたいことがある」
「はい、何でしょうか」
「君の話の中で、情報源として君の後輩の話があったが、信頼できるのか?」
「と、おっしゃいますと?何か不審な点でも」
「君の先ほどの話だと、飲み食いの席で、後輩が何気なく発した言葉が気になってとあるが、飲み食いの席での話がまともなことなのかという事だ。何処まで信憑性があるのだという事だ」
「…………」
「その後輩は事務職だということだが、役員会に諮って決裁しなければならないような極めて重要な事案だぞ?事務職の立場でどうやってその事を知り得たのか、確認したのか?」
津山は部長の鋭い指摘に我を失った。確かにそうだ。後輩の話を鵜呑みにしている。裏をとっていない。これがもし事実と反した事なら何をか言わんやである。全てが水泡に帰し、挙げ句の果ては笑いものになるのは必定である。全くのドジを踏んだことになる。
「部長すみません。信頼している後輩の言葉を鵜呑みにしてしまいました。裏をとって確認していません。ドジを踏んでしまったかもしれません。すみません」
津山はテーブルに触れるほど頭を下げて詫びた。
「いやいや、謝るのは未だ早いよ。問題は君の後輩が、どうやってその情報を知り得たのかを探る必要があるな」
「そうですね、今夜にでも後輩に会って探りを入れてみます」
「うん、そうしてくれ。……ところでその後輩の人となりはどうなんだ?」
「はい、実直そのものの性格で、人に嘘をついたりするような男ではありません。私が一番信頼する一人でもあります。ですから、何も疑いもなく、すっかりまともな話と思ったのです」
「そうか、だとしたら情報の出所だな。今夜の君と後輩との会話で答えが出ればいいが、そうでなければ、津山君」
「はい?」
「提案書に一行書き加えておいてくれないか。情報源の調査を依頼する旨の事を」
「はい、かしこまりました」
「その件はそれでいいとして、もう一つ尋ねたいことがあるんだが」
津山は部長の次の言葉を固唾をのんで待った。
「もし情報源がまともだったとして、どの部署の誰が東条物産と交渉するのかだ」
「…………」
「単なる売り買いの交渉なら従来のやり方で良いと思うが、会社対会社レベルでの交渉ごとだとそうはいかない。交渉相手は東条物産のトップクラスだからな」
「そうですね。そこまでは考えが及んでいませんでした。申し訳ありません」
「そうなるとだ、…………津山君、提案書にもう一行追加してくれ。交渉人の人選について。いいね?」
津山は、部長の見識・洞察力・判断力に驚嘆した。さすがに違う。これぞまさしく会社の中枢で指揮する立場の人物像だ。一分の隙もない。
「はい、かしこまりました」
「君からの提案書は、場合によっては単なる紙切れに終わるか、または、役員会に諮る重要資料に化けるかだからな、ありのままを慎重に書いてくれ。頼む」
「はい。ありがとうございました」
「いいか、この件に関するこれからの君の行動は、全て秘密裏にな。たとえ後輩との飲み食いでも、一切我が社の計画を口にするな。この件に関しては、会社のスケジュールに則って着実に進んでいる。良いな?」
「はい、心得ました」
「うん、この件は取り敢えずこの辺にしておこう」
津山は腰を上げようとした。
「津山君、君は我が社に対し、何か思うことがあるのじゃないか?」
津山は浮いた腰を下ろし、部長に顔を向けた。
「どういうことでしょうか」
「いや、参考までに、もし会社にこうして欲しいと思ってる事があるんだったら、一応聞いておこうと思ってな」
津山は我が意を得たりと思った。が、部長が何故そういう問いかけをしてきたのかが計りかねていた。
「いえ、私ごとき分際が申し上げる事はございません」
津山は一応とぼけて見せた。
「あはは、隠さなくてもいいぞ。君の顔に書いてある。部長、聞いてくれとな。あはは、遠慮せんでいいぞ。会社に対する君の思いをここで吐き出してみてはどうなんだ。俺がそのことでどうのこうのは一切言わないと約束するから、気楽な気持ちで話してみたらどうだ?」
津山はしばし沈黙し、どうしたものか考えあぐねていた。
「どうした、話したくないのか?」
こういう機会は滅多にあるものではない。千載一遇の大チャンスでもある。津山は腹をくくった。
「いえ、お話したくないのではなくて、お話しても良いものかどうか迷ってるんです」
「だから言ったろ?どうのこうのは一切言わないと」
津山は再びしばし沈黙した。そして、やおら、ゆっくりとした口調で語り始めた。
「その前に、部長、会社が開発した物流システムのことですが、いつ頃正式発表になる予定ですか?」
「ん?何か関連でもあるのか?君の話と」
「はい、大いに関係があります。一応勝手に半年後としておいても宜しいでしょうか?」
部長はこの瞬間に、この若者がただ者でないことを実感した。聞きしに勝る切れ者である。
「そうだな、大方それでいいだろう」
「我が社の物流システムのプログラム名は既に決まっているかもしれませんが、ここでは仮名として『AILUS』とします」
津山はかねてから、日本のこれからの物流のあり方に興味を持ち、あらゆる資料をかき集め、自分なりに考察して、こうあるべきだとする見解をまとめていた。
「AILUS?仮名だからどうでも良いことだが、一応説明してくれないか」
「はい、愛羅物流ウルトラシステム【Aira Logistics Ultra System】社名の頭のAiと以下の頭文字をとってつけてみました。このシステムのプログラム名をアイラスとしました。ダサいですかね。ま、仮名ですから、余り気にしないで下さい」
田畑部長の目が津山の目を凝視した。
「なかなかいいネーミングじゃないか」
「ありがとうございます。それにもう一つ、これから私がお話しさせて頂くことを、ご指示頂いた提案書の後段にでも記述しても宜しいでしょうか?」
部長の顔が和らいだ。
「君ね、まだ話してくれない内に、宜しいかどうかもないだろう?」
津山は手の平を頭に滑らせながら、恥ずかしそうな素振りをした。
「はい、そうですね」
津山は完全に甲を脱いだ。丸裸にされたお思いが、返ってすっきりした気分にさせてくれた。しかし、この時、津山の脳裏に別な考えが浮かんだ。
「あのー、部長、この場でお話させていただくとなると、どうも、大事なところですし、整理してきちんとお話し出来るかどうか自信がありません」
津山は部長がどういう反応をするか気になった。とにかく、今ここで考えていることを話すのだけは避けたっかった。
「うん、ま、それもそうだな、俺が急に持ち出した話だし、間違いや欠落部分があっても良くないからな。で?」
「はい、先ほど申し上げました、提案書の後段に記述するという事でどうでしょうか。どうしてかと申しますと、部長がおっしゃったように、間違いや欠落部分が無いように慎重に記述したいという事と、今夜の後輩の坂田との会食で、後輩が、どうやってその情報を知り得たのかを探った上で、その内容も含めた形で提案書を作成した方がより充実した提案書になるのではと思ったからです」
ここにきて田畑部長の津山に対する評価が急変した。この若さにしては、一連の話し方にそつが無く余りに緻密だ。何という若者だ。
「なるほど一理あるな。よし、それで良かろう」
「内容をより深く掘り下げた形で記述したいのですが、部長、今の段階では、我が社が開発した物流システムがどういうシステムなのか、デモ版でも宜しいのですが体験する訳にはいきませんでしょうか。一応理解しておいた方が、記述内容に現実味を持たせる上で良いように思うのですが、…………部外者ですから、無理でしょうね」
津山は最後は小声になって部長の顔を見た。部長は津山の申し出に即座に反応した。
「今の段階では無理だな。悪いが諦めてくれ」
「はい、承知いたしました。システムに関連する部分は私なりに想像で記述しておきます。当然的外れな記述になるとは思いますが。勘弁して下さい」
「わかった」
「それと、先ほど提案書の後段に記述するとか申しましたが、私が会社にこうして欲しいと思ってる事を述べる訳ですから、先の提案書とは少々意味合いが違うと思います。ので、それとは切り離した別な文書として、部長にお届けした方が良いようにも思えますが、如何しましょうか?」
部長は津山の目を凝視した。こんな若者が社にいたなんて。
「なるほど、そうだな、君のいう通りだな。提案書の添付書類として提出してくれ」
「かしこまりました。書類は沢田課長に提出すれば宜しいのですね」
「そうだなそれが筋だからな」
「A4の用紙にプリントしますが、裸のままで課長にお渡ししても……」
「いや、それはまずい。書類全部をA4の茶封筒に入れ、セロテープでも糊付けでも、どちらでもいいから封をして課長に渡してくれ」
「はい、かいこまりました」
「いいか、渡す時に急いで俺に提出するよう、俺に言われてるとか何とか言って渡すのを忘れないようにな。あの課長のことだ、黙って渡すと、いつ俺の手元に提出されるか分ったもんじゃないからな。頼んだぞ」
「はい、分りました」
「じゃあ、この辺でお開きにしようか。ご苦労だった」
津山は応接間を出た時、かすかな足の震えを覚えた。腕時計の針が五時過ぎを指していた。