□ 第三章 バトン □
津山は自分で蒔いた種が、場合によっては大きなうねりとなって自社のみならず、業界自体に激震を与えてしまいかねないことを想像し身震いした。事と次第によっては、当然津山の責任問題にも発展しかねない。自分で蒔いた種は自分で刈る。無責任な行動をとる訳にはいかなかった。
田畑部長からの提案書作成の指示を受けて、沢田課長が津山に指示が伝達されたのは、六時をまわっていた。課長の怪訝そうな顔はもうなかった。部長からの電話で納得したような様子だった。
津山は東条物産の坂田康平に連絡して、八時半に行きつけの居酒屋で待ち合わせする事にした。
坂田との待ち合わせの時間まで二時間ほどある。津山は部長に提出する提案書の骨子について思案していた。津山の並外れた集中力は、外部の物音を遮断してしまう。トントンと肩に触れる感触でハッと後ろを振り向いた。
「ふふ、相変わらずね」
同じ課の事務職の清田美喜だった。
「おお、君か。気がつかなかった。帰るとこ?」
津山は、清田が自分に好意を寄せていることは薄々感じてはいた。だが、六歳下の清田は津山にとって、気さくに何でも話の出来る単なる同僚に過ぎなかった。
「いいえ、今日はお誘いに来たの。どうお?これからお茶しない?」
飛び抜けた美人という程ではないが、チャーミングが体中を覆ってる感じの美人ではある。
「悪いなあ、折角のお誘いだけど、もう少ししたら人に会う約束をしてるんだよ。ごめん!」
津山は清田に向かって合掌した。
「ふふ、美人の先約ね」
「あはは、ご期待に添えず残念でした。同郷の後輩と会うことになってるんだよ。ハンサムな男だよ」
「あら、そうなの?でも、主任はちょっと働き過ぎかも。その内身体がおかしくなるわよ」
「気遣ってくれてありがとう」
「待ち合わせって何時なの?」
「うん、八時半」
「そうなんだ。それまで一時間ちょいあるから、ちょっと息抜きしたら」
津山は部長との緊張の中での話し合いに、多少なりとも疲れを感じてはいた。
「そうだなあ、たまには美人の誘いに乗らないと罰が当たりそうだね」
清田は飛び上がらんばかりの嬉しい表情を見せた。初デートの実現である。
「嬉しい~ィ」
近くの喫茶店のテーブルの上に置かれた、二つのコーヒーカップからかすかな湯気が立ち上っていた。二人の会話は、取り留めのない話に終始した。清田にしてみたら、話の内容はどうでも良かった。目の前に津山という好きな人が居ることそのものが全てだった。
「どうお?少しは息抜き出来た」
「ウン、お陰さまでした。ありがとう」
「あらまあ、もうこんな時間。もう行くでしょ?ハンサムさんに宜しくね」
清田の後ろ姿を見送って、津山はくびすを返した。
居酒屋のドアを開けた時、店の時計の針は八時半を少しオーバーしていた。店の案内で予約していた個室に通された。坂田の顔がニコニコしながらこちらを向いていた。
「ごめん、ごめん。遅くなってしまった」
「相変わらず忙しそうですね、先輩」
「それ程でもないけど、野暮用が多くてな。うんざりするよ」
「野暮用も大事な仕事だよと訓示されたのはどなたでしたっけ?」
「あはは、またそれを言う。ところで、料理の予約は遅かったからしてないけど、何か頼んだ?」
「いえ、未だです」
注文した料理をつつきながら二人の会話が弾んだ。津山は酒に酔わないうちに肝心な話を切り出さなければならないと、そのタイミングを見計らっていた。いつもは気楽な飲み食いだが、今日ばかりは仕事の感覚が脳を支配していた。
「個室は初めてですね」
「うん、大勢のガヤガヤした中で飲み食いするのもいいけど、たまには個室で、静かに飲んだり食べたりするのもいいかなと思ってさ」
「ですね、いいですね」
「と、言うのは嘘で、電話したとき満席でやむなく個室を予約したという具合なのだ」
津山は苦しい言い訳をした。
「そうですか、でもこういうのも良いかもですね。高いんでしょ?部屋代」
「あはは、安給料の俺が出せるくらいの金額だから、心配しないで良いよ」
実は部長から、今夜の会食は特別に会社で負担するよう、会計責任者に申し伝えてある旨の話があった。
「はい、いつも先輩におごって貰うばかりですみません」
「ところで、仕事は順調なのか?」
タイミングが来た。
「可もなく不可もなくって感じですね。相変わらずです」
「それが何よりだよ。仕事はそれが一番だものな」
「最近そう思うようになりました」
「ところで、もう随分前のような気がするけど、君は会社がITがどうのこうのって言ってなかったっけ?」
「ああ、物流のIT化のことでしょ?」
「あ、そ、そう、そんな話だったな」
「どうしたんですか?いきなり」
「いやな?ほら最近ITだとか、AIだとか、Chatなんたらとか、聞き慣れない言葉がマスコミなんかでも飛び交っているだろ?」
「何だか世の中が変わってしまいそうな、そんな言い方をしているジャーナリストもいますよね」
「そうなんだよなあ。テレビなんかでその話題が出た時に、ふと君も同じような事を言ってたなあ、ということを思い出してな」
「ああ、なるほど」
「何だか、その事はこれから先避けて通れないなんて話を聞くと、今のうちに勉強しておいた方が良いのではと思ったものだから、君に少し教わろうかと思ってな」
「あはは、先輩に教える?冗談はよして下さいよ。そんなの出来る訳ないじゃないですか。知識も経験も全くないのに」
「でも君の会社は物流の何たらを計画してるんだろ?」
津山は核心に迫ろうとしていた。
「ああ、その話は今も継続中だそうですよ」
「だそうですよって、その話どこから聞いたんだよ。単なる社内の噂話か?」
「いえ、役員会で決まったれっきとした事案ですよ」
「そっか、役員会で決まった事案ならほんとの話だな」
「ただそれだけの話で、役員会で決裁はされたにも拘わらず、一歩も進んでいない有様で、あきれて物も言えませんよ」
「進まない阻害要因は何だと思う?」
「資金ですよ、資金。開発に莫大な資金を必要とするらしいのです。このご時世、内の会社にそんなゆとりなんて有りませんよ。そうでなくとも、四苦八苦してる有様ですからね」
「なるほど、莫大な資金が掛るのか開発するのに」
「ですから、当分の間、業績が急展開して好業績になるまで、多分凍結だと思います」
「もったいな、折角未来志向の計画なのになあ。銀行筋は融資してくれないのか」
「無理でしょうね。財務の責任者の方で鋭意交渉中ではありますが、やっぱり、銀行としては、業績が少しでも上向かない限り、融資する気にならないんじゃないでしょうかね」
「そっかあ、なるほどなあ、そんなもんかもなあ」
「銀行って、ご都合主義なところが有りますからね。冷たいもんですよ」
「うん、うん、そういう側面があるな。…………ところで、今まで君の話聞いてて思うことがあるんだが」
「改まって何ですか?」
「いや、失礼だが、君の今の職場の立場として、役員会の重要案件だろ?そんな重要な情報を知り得るなんて、とても思えないけどなあ」
「先輩、先輩の会社の目線で考えてはダメですよ。あ、ごめんなさい、生意気なことを言いました」
「いや、ちっとも構わないよ」
「先輩の会社とは、規模も売上高も、月とすっぽんですから比較になりませんよ」
「それはそうかもしれないが、何処の会社でも、重役会議で決まったことは、正式な発表がない限り、知り得る者はごく限られた人だけだと思うけどなあ」
「それは確かにそうですね」
「ということは、君はその知り得る立場にいる、と言いたげだね。少なくとも俺にはそう聞こえるけど。そうなのか?」
「あはは、先輩には参りました」
「えっ、じゃあ君は知り得る立場にある?どうしてだよ」
いよいよ核心の扉が開こうとしていた。
「実は先輩にいつ話そうかと、随分と悩んでいることがあります」
「おいおい、君と俺の間でそれはないだろう?」
「はい、すみません。…………実は、……」
「おいおい、どうした」
「もう少しはっきりしてからと思っていたのですが、……」
「もう、じれったいなあ、何なんだよ。思い切って吐き出したら気が楽になるぞ」
「実はですね、実は私の結婚の話なのですが」
「なに?結婚?おお~、何でそんなめでたい話に躊躇はないだろう」
「いえ、違うんです。話としては持ち上がってはいるんですが、場合によってはご破算になる可能性もあるものですから」
「相手は誰なんだ」
「社長の一人娘です」
「おお~、この野郎やったな。だったら何も悩むことないだろう」
「いえいえ、重大な問題があるんです」
津山は感づいた。
「一人娘と言ったが、兄弟は?」
「それが、居ないんですよ」
「じゃ何か?跡取り息子に?えっ、養子になれとでも?」
「はい、まさにご推察の通りです。ご推察の通りなのですが、田舎の実家がですねえ」
「なるほど、読めた。田舎の実家が反対してるんだ」
「そうなんですよ。猛烈な反対の嵐です。どうしたもんでしょうねえ」
「君自身はその社長令嬢に惚れてんだろ?結婚しても良いと思ってるんだろ?養子になっても良いと思ってるんだな?」
「はい、先輩のおっしゃる通りです」
「それと、社長も社長の奥さんも、君と娘さんとの結婚を望み、婿養子になることを望んでるんだな」
「はい」
「それだったら話は早いよ」
「先輩、そう簡単に言わないで下さいよ」
「実家が反対する理由は何なんだよ」
「はい、ただただ反対の一点張りです」
「特に親父さんじゃないか?」
「そうなんです。先輩もご存じなように、ああいう父親ですから、たまりませんよ」
「親父さんの跡取りの問題ではないんだな。すぐ下の弟さんが居るからなあ」
「それが複雑でして。困ったことです」
「君が田舎に帰ってきて、弟さんと一緒にやってくれとか考えているのかなあ、親父さん」
「親父ははっきりとは言わないのですが、どうもその辺もありそうですね」
「君は今の会社とか仕事の事を、実家に帰ったとき話したことはあるのか?」
「全然ありません。聞こうともしませんし、話す気もないもんですから」
「この話は、社長も娘さんも知っているんだな?」
「はい、社長からは、この問題が解決しない限り、結婚は出来ないと、釘を刺されています」
「なるほど、困ったことになってしまったな」
「そうなんですよ。何か良い解決策はないものですかねえ」
「う~ん、即座には思い浮かばないが、…………ちょっと待てよ、……うん、今、二つの方法、いや、も一つ追加して三つの解決策を思いついた」
「えっ、三つもですか?ほんとですか?どんな方法ですか?」
その時ノックする音がして部屋の戸が開いた。給仕が片手にメモ書きを携えて現れた。
「ラストオーダーですが何かご注文はありませんか?」
少しばかりのつまみと、焼酎のお湯割りを注文した。
「一つ目は、これが本筋だと思うが、君自身が田舎に帰ってちゃんと、死に物狂いで説明して了解を得る。君の一世一代の人生劇場の晴れ舞台だからな。それぐらいの気概がなくてはいけないと思うよ。どうしても了解を得られなければ、悲しいことだが強行突破の線だな」
「強行突破ですか。親子の縁を切るですか?いやだなあ」
「二つ目は、社長と一緒に実家に行き説得する。俺の考えでは、これは意外と効を奏するかもしれないぜ」
「ええっ、社長を実家にですか?」
「社長自身も親戚になるからには、実家の事も知っておきたいだろうから、同行してくれると思うよ」
「なるほど、で、三つ目は何ですか?」
「多分一つ目と二つ目で解決できるとは思うけど、それでもダメだったら、最後は俺の出番だな」
「えっ、何ですって?先輩が実家を口説くって事ですか?」
「君に許しが出ればの話だが。君の実家のことは、小さい頃から十分承知してるし、俺の実家とも深いつながりがあるから、オレ流に説得すれば、何とかなるかもという甘い考えかもしれないがな」
「そ、それがいいですね。内の実家では、家族みんなが先輩のことを、人徳のある素晴らしい青年だ、と褒めちぎっていますから、先輩がお話しして下されば、絶対に承知してくれますよ。先輩お願いします。それで行きましょう」
「あはは、馬鹿何を言う。その逃げ口上が気に入らない。自分の結婚のことだろ?自分でまず解決するんだという強い気持ちがなくてどうする。えっ?東条物産の次期社長さんよ?そんな弱腰の社長じゃ東条物産も大したことないなあ」
「先輩、からかわないで下さいよ」
ところが津山が最後に冗談めいて発した言葉が、坂田康平の脳裏に焼き付いて離れなかった。
「そうか、そういうことだったのか。道理で事務職の立場で重要事項を知り得たんだ。納得。うん、納得した」
「そういうことでした。ですから、私としても、物流システムの構築の事案は他人事ではないのです」
「分った。ま、立場立場で頑張ることは違うけど、やるからには、死に物狂いで、とことんやらなければ男がすたるからな」
「また始まった。先輩特有の持論が。でもほんとにそうですね。今日改めてそうだと確信しました」
「それにしても、康平君が東条物産の次期社長になるなんて、なんてめでたいことだろう」
「先輩、よして下さいよ。未だ決まった事じゃないし、どうなるか分りませんもの」
「もしそうなったら、今の内にお願いしておこうかなあ」
「お願い?」
「うん、もしも俺が今の会社を首になったら、雇ってくれないかなあ」
津山は坂田の顔を意味ありげな顔で見つめながら言った。
「あはは、先輩もよく言いますねえ。聞いてますよ、先輩が愛羅スタイルきっての切れ者で実力ナンバーワンってね。次代を担う若手のホープだとかね」
「あはは、よく言うよ。世間の噂なんて箸にも棒にも掛らない。そんなの信じたら馬鹿を見るぜ」
「いいえ、信じています。そんな先輩が絶対に首になる訳わけないし、百歩いや千歩譲って、もしもそういう事になっても、我が社の器と先輩の器が釣り合いませんよ。しかも、後輩の私がやりにくいですよ」
「おいおい、何でやりにくいんだよ。俺が君の先輩だからと言いたいのだろ?」
「はい」
「あはは、言っとくけど、俺は個人的な付き合いならまだしも、企業戦士として働く以上、そんな事は全く気にしない。会社内では、ただ与えられた仕事を、ただ一生懸命にこなす。それだけだよ。他は何も考えないし、考えること自体おかしいよ」
「ま、先輩が首になるなんて事は、百パーセントあり得ません。断言します」
「あはは、そうか。……おっと、もう閉店の時間だ。先のことは未だはっきりは見えないが、坂田君の将来に乾杯しようか。おめでとう!……乾杯!……成功を祈るよ」
「乾杯。ありがとうございます。頑張ってみます。それに、ご馳走になった上に、貴重なお話が聞けて、嬉しく楽しいひとときでした。重ね重ねありがとうございます」