□ 第六章 新風蓮 □
その数日後、再び田畑部長から連絡があり、沢田課長と津山主任に、部長付の応接間で待機しておくようにとの指示があった。
「先日津山君から提出された提案書のことで、経過報告を兼ねて、いくつか確認しておきたいことがあって、来て貰った」
津山は提案書の評価がどうだったか気にはなっていた。
「沢田君、君は優秀な部下がいて幸せ者だな」
部長が課長に向かって笑いながら言った。
「はい、部長のおっしゃるとおりです。津山主任は実に良くやってくれています。とてもありがたいと思っています」
「この度の津山君からの提案書を、時間を掛けてじっくり読ませて貰った。俺を含めて、我が社の経営陣が、如何にあぐらをかいて、日々貴重な時間を消耗していたのかを思い知らされたよ」
「…………」
「良くまとまった提案書だった。一つ一つが実に的を得た提案で、別添の文書も含めて、一部の役員にも読んで貰った。その結果、役員会に諮問してみたらどうかと、異口同音に意見が出て、先日役員会議に諮問した。一部の古い考えの役員が、異を唱えたが、最終的に検討を重ねて、しかるべき会社の見解をまとめようという結論に達した」
津山は、田畑部長の目を凝視した。何という事だ。信じられない事が起こった。
「各自が意見を述べる為の資料として、役員全員に提案書が渡されている。近いうちに役員会で最終的な討論が行われ、会社の正式な見解が承認される見込みだ。今そういう段階に来ている」
「…………」
「これまで前例のない事案だけに、役員の中には多少戸惑いがあったり、良く読みもしないで討議するまでもないなどと言う役員もいた。このような事は普段でも良くある事ではあるが、今回の事案が社員からの提案事案だという事で、なおさらそういう雰囲気が支配的だった時もある。もしかしたら真実に背を向け、直視して来なかったツケが、会社の現在の姿なんだと、悲しい気持ちにもなった。地位にあぐらをかいていたら、会社の進展もない、つまり未来なんて描けないことになる」
「…………」
「役員の中では妙な順列があって、俺は発言力においては、そんなに力のある方ではないが、俺自身、思うところがあって、今回ばかりは、何とかしなければという強い気持ちで、一人一人粘り強く議論を重ねていった。役員と言えども、会社自体がおかしくなったら、ふんぞり返っていられないからな。火の粉が降りかかる前に、何とか手を打たねばという思いを語り続けた」
津山は部長の言葉に集中してじっと耳を傾けて聞いていた。何という部長だ。凄いの一言に尽きる。
「その結果、先ほど言った段階にまでこぎ着けることが出来た。久しぶりに物事に必死になっている自分が居ることに、何か妙な気分になった。不思議だよなあ、自分の中で何かが弾ける音を聞いたような気がしたからなあ」
「…………」
「少し余計なことを話したような気がするが、君たち二人には一応話しておくべきだと判断して、来て貰ったということだ」
「…………」
「事案が正式承認されても、いざ具体的になってくると、多分、これだけの規模の会社だし、過去の膿を出す事は容易ではない。一筋縄とは行かない。だから、それ相応の相当な時間を必要とするとは思うし、場合によっては、思わぬ自体も起こりうると覚悟しながら、目的に向かって進めていく必要があると思っている。過去にも苦い経験があるからなあ。簡単には成就しないだろうな」
部長の思い詰めたような話しぶりに、意外な部長の側面を感じながら、沢田も津山もただ黙って聞き入っていた。
「だから、今の段階では、良い方向に向かうようにするから、期待しておいてくれとは、残念ながら言えないなあ」
「…………」
「ま、そういうことだ。…………話は変わるが、津山君に聞きたいんだが」
津山が驚いたような素振りで部長の課を見た。
「あ、はい。何でしょうか」
「君の中では、仕事とは何だね?」
思いがけない問いかけに津山は戸惑った。
「言い方が悪かったかな。会社での日々の仕事に、どういう気持ちで取り組んでいる、と言った方が良かったかな」
「はい、そのことでしたら即答できます。私が一番夢中になれる遊びです、ゲームです」
「主任、部長の前で、仕事を遊びとかゲームとかは不謹慎だろう」
沢田課長が津山をたしなめた。
「いえ課長、誤解しないで下さい。子供の頃、山や川で夢中になって遊んでいた頃のことを、仕事に例えて申し上げたのです。仕事はメダカ採りですし、仕事はかくれんぼなのです。面白くて、楽しくて、これほど夢中になれるものは他にありませんよ」
「なるほど、そういうことか」
課長は妙な面持ちで納得顔になった。
「津山君、君はスマホのゲームをしたことがあるか?」
「いえ、ありませんし、全く興味はありません」
「しかし、小・中・高生は勿論だが、君と同じような年代の若者も、スマホゲームに夢中になってると聞くぞ」
「そのようですね」
「何か思うことがありそうな目つきだな」
「確かに面白いのかもしれませんが、人に操られるのは良しとしない性格ですから、私は」
「操られる?」
「はい、スマホゲームなんて、どうせ儲け主義に染まった輩の作ったゲームですからね。ゲームをやる度に、相手、つまりゲームの制作者ですね。の懐にお金が転がり込む。そのこと自体は、こういう世の中ですので、別に悪くいうつもりはありませんが、しかしながら、夜も眠らずにゲームに没頭する価値を私には見いだせません」
「なるほど」
「小・中・高生と言えば、人の一生の中で、頭脳が一番柔らかく、吸い取り紙のように、何でも吸収出来る年代だと思うんです。そういう二度と来ない、とても大事な時期に、スマホゲームにうつつを抜かすなんて、私にはとても信じられません。
ゲームもそうですが、SNSで見知らぬ人とメールしたり、会話したりするなんて、画面の向こうは実在の人物かもしれませんが、お化けかアバターとしか思えません。
その実、最近、スマホやSNSにまつわる、いろいろと悪い方の問題が噴出してますよね。いや、人それぞれですし、何かあったら自分で責任をとるとか、始末すればいい訳ですので、敢えて言う必要はないのですが、子供達の将来のことを思えば、どうも困った世の中になってしまったものだと思いますね」
「うん、全く同感だな。時間はあっという間に過ぎていくからなあ」
「人生の中で、生産性のある、自分に合ったもっと価値のある事に没頭すれば、今後の人生が実りある輝かしものになると思うんです。是非そういう道を歩んで欲しいと強く思います」
「沢田課長、今の主任の話を聞いてどう思う?」
「主任に家に来て貰いたいですね。子供達に説教して欲しいと思いました」
「あはは、悩んでるんだ。そんなの何も主任に頼まなくても、自分で説教すれば良いじゃないか」
「理屈では分っているんですが、いざ自分の子供となるとですねえ」
「あ~あ、そういう親ばかりだから、世の中がおかしくなって行くんだよ」
「はい、ごもっともです」
「最近の若者には、モラルがないとか、夢がないとか、いろいろ言われているが、そういう連中が多くなってきたら、今後どういう世の中になるのか、ちょっと心配だな」
「はい、確かにそうですね。社員の中にも、それに似たような社員もまれに見かけますからね」
「何事もそうだが、溺れてはいけないな。川や海でブクブクと溺れて死んでいく人もおれば、運良く助かる人が居る。同じように、酒に溺れたり、賭け事に溺れたり、薬に溺れたりして、人生を棒に振る人が五万と居る。溺れるのはあっという間だが、立ち直るのは想像以上に苦しく時間が掛る。スマホやSNSに溺れるのも同じじゃないかな」
「怖いですね。自分の子供達がそうなったら、親子共々つらい事になりますね」
課長は不安な顔をした。
「社会の発展進歩の中で生まれてくる、例えば最近ではAIとかも、上手く活用すれば、とても素晴らしい事とは思うが、利用方法を誤るととんでもない事になる。ましてや、悪意のある人物がプログラムしたアプリにはまってしまうと、地獄へのパスポートを渡されたようなものだから、大変なことになってしまう。世の中全体がそうなってしまうのではないかと、危惧してしまうぐらいの、怖さがあるな」
部長の言葉に耳を傾けながら、課長も主任もしきりに頷いていた。
「この問題は、依存症とか中毒とかの類いの新たな社会現象だが、危惧されるのは、従来の現象と異なるのは、若年層を初め、今まで良しとしなかった若者や高齢者にまで裾野が格段に広がる可能性があることだな。このまま進めば、場合によっては取り返しのつかない、由々しき社会問題にならないかと心配だな。そうならないように、意のある関係者の対応に期待するより他ないような気がする。
未来に向かって世の中が進んでいく中で、とても重要な要素を含んでいるから、もっと語りたいが時間がなくなってきた。この辺で止めとこう」
「はい」
津山が小さく頷いた。
「この不景気、入社試験や面接も一段と厳しくなるからなあ。社会人になる入り口で、猛烈な突風に吹き飛ばされないように、小さい頃から鍛錬しないと、世の中を渡り歩けなくなるかもしれんな」
「全く同感です」
沢田課長が大きく頷いた。
「最後は雑談になってしまったが、今日はこの辺でお開きとしよう。ありがとう。ご苦労さん」
一ヶ月が経過したある日、津山のデスクに一通の封書が置かれていた。封書の裏を見て津山はニヤリとした。達筆の墨字で坂田康平の名があった。中身は見るまでも無かった。結婚式の招待状である。式が都内の某ホテルで、三月初旬に執り行われる旨の内容だった。
津山はすぐスマホに手を伸ばし、タップして耳に当てた。
「おい、どの手を使ったんだ」
津山はお祝いの言葉を省いて、いきなり気になっていたことを口にした。坂田の元気な声がスマホ内で踊っていた。
「あ、先輩。届きましたか。そういう事ですから、宜しくお願いいたします」
「おめでとう!良かったな。頑張ったんだな。う~ん、良かった良かった」
津山は我が事のように満面の笑みをたたえながら、何度も良かったを連発した。
「はい、もう肩の荷が下りて天にも昇る思いです」
「田舎の親父さんが良く承知したな」
「どの手を使ったと思いますか?」
「決まってるだろう、自分が田舎の実家に行って口説いたんだろう?」
「実はですね、先日の先輩とのやりとりを社長に話したらですね」
「うん、社長はなんて言った」
「たった一言でした、俺と一緒に君の実家に足を運んで説得しよう、と」
「お~、そうか、なるほど、やっぱりな」
「その時に言われましたよ、俺が行くからには、娘と君との結婚のことは最終結論になる。俺が説得に失敗したら、つまり、親父さんや家族が反対したら、この件は無かったことになる。とても残念なことだけど、その覚悟をしておけ、と」
「あはは、最後通牒を突きつけられたんだ。後継者の問題は、今一種の社会問題になっているが、社長としても、何としても解決しなければという、強い思いがあったんだろうなあ。グズグズして煮え切らない君を見て決断したんだろう」
「先輩も口が悪いですね。グズグズして煮え切らないなんて」
「何を言う、そう言いながら、君の気持ちは、渡りに船。地獄に仏だったんだろう?」
「ヘヘヘ、図星です」
「だけど、結果として、俺に封書が届く結果になったんだから、ま、良しとするか」
「はい、ありがたいことです」
「社長が実家に行って、親父さん達はびっくりしたろうなあ。ははは、親父さんのびっくり眼が目に浮かぶよ」
「それはもう、大変な騒ぎでしたよ。もう、それだけで結論が出たといっても良いくらいです」
「なるほどなあ、まさに、案ずるより産むが易しだな」
「思いましたよ。人の力って凄いなあと。改めて社長の凄さを感じましたね」
「君も次期社長に就任するんだろ?準備しとかなきゃな、人間的にも」
「今のところ全く自信はありませんが、結構時間はありますので、それまでにいろいろ努力しなければと痛切に思いました」
「実直で真面目な君のことだから大丈夫だよ。社長のレベルを超えなきゃ」
「ですね、頑張ります」
「とにかく、おめでとう。お祝いをかねて、近々一杯行くかな?」
「いいですねえ、是非。その時、彼女を連れて行ってもいいですか?どうしても先輩にだけは紹介しておきたいのですが」
「お~、嬉しいことを言ってくれるじゃないか。願ってもないことだ、楽しみにしてるぞ」
坂田の弾けるような声を聞いて、津山はホッと胸を撫で下ろした。
それから三ヶ月後のある日の午後、沢田課長に呼ばれた。課長のデスクの前に立ったとき、課長がいきなり手を差し伸べて握手してきた。初めてのことである。
「おめでとう、たった今田畑部長から連絡があって、君に宜しく言っといてくれと言われた」
沢田課長の顔は天下を取ったような、なんとも晴れ晴れした顔だった。
「えっ、田畑部長からですか?……えっ、もしかしたら」
「そうだよ、そのもしかたらだよ。東条物産と契約したそうだよ」
津山は思っていたよりも早い朗報にびっくりした。
「えっ、ほんとですか。その件、知花君は知っていますかね」
営業一課の知花社員の名前が、津山の口から真っ先にでた。
「さあどうかな、営業一課長は知ってるだろうけどな」
「契約の窓口は、と言いますか、水面下で東条物産と交渉にあたった人は誰かご存じですか?」
「先日、そうだなあ、三週間ぐらい前だったかなあ、営業一課長から聞いた話では、何でも、田畑部長と電算課の黒川部長が以前から水面下で交渉してるとは聞いていたが」
「ええ~っ、田畑部長自ら交渉に当たられた?凄い」
「あの部長らしいなあ、動きが速いな」
「ほんとでか。課長、ちょっとお電話を拝借しても宜しいですか?」
言うより手の方が早かった。内線番号を確認してダイヤルした。
「はい」
女性の声がした。
「津山ですが、知花君は?」
「未だ帰社しておりませんが」
「そうですか、じゃあ、知花君の携帯の番号を教えてくれませんか、分ります?」
「はい。申し上げます」
女性から連絡して貰って、折り返し連絡するよう頼んでも良かったが、直接自分の口から、いの一番に伝えたかった。電話番号をメモって、受話器を置き、改めて知花の携帯番号をプッシュした。
「はい、知花ですが」
「津山です。知花君おめでとう。やりましたね」
「あ、津山主任。お世話になっています。……おめでとうって、何のことですか?」
「東条物産の案件、契約になったそうですよ」
「えっ、嘘でしょ?」
知花のすっとんきょうな声が耳に響いた。
「まだ、課長から連絡ない?」
「ありません。東条物産の案件は、三ヶ月前くらい前ですかね、課長から、暫く営業を休止するように言われていました。ので、それっきりになっていました。とても気にはなっていたんですが」
「たった今知ったんで、いの一番にと思って連絡したんです。改めておめでとう」
「ありがとうございます。契約に至ったいきさつはご存じですか?」
「いや、詳しいいきさつは、水面下での交渉ごとだったみたいだから、聞かされてないけど、何でも建材事業部の田畑部長と電算課の黒川部長が窓口になって、交渉されていたみたいですよ」
「そうでしたか、会社のトップレベルの交渉だったんですね。道理で営業を休止するように言われる筈だ」
「ま、ともかく詳しいことは追々分るでしょうから、取り敢えず連絡しておきます」
「ご親切にありがとうございます。これからすぐ社に帰り、参上いたします」
「待ってます」
目の前での津山の素早い行動に、沢田課長は津山の人となりを改めて見直した。自分の手柄を棚に上げて、営業担当者の知花社員に連絡するなんて、この男、やっぱ見上げた男だと痛感した。
津山は東条物産の坂田からの連絡を待った。だが、その日は坂田からの連絡はなかった。
この案件では、坂田に対して、愛羅スタイルの立場で探りを入れるような行動をとったことに、多少の後ろめたい感じはしたが、愛羅スタイルと東条物産が取引上の契約が成立することで、どちらにも計り知れない利が生じる事を思えば、結果として、きっと坂田も喜んでくれる筈だと確信していた。
津山が寝泊まりしている社宅のポストに、一通のの封書が入っていたのは、それから間もなくだった。
パソコンの活字ではなく、薄い青色の便箋に次のようなことが書いてあった。
謹啓、先輩には日頃から多大のご厚意を頂き、心より感謝申し上げます。お電話でご連絡しても良いとは思いましたが、やはりこのような形の方が良いのではと思い直して、遅くはなりましたが、お礼を申し述べたくペンを取りました。
先輩が所属されている部署とは関係のない事でしょうから、余りご存じではない事かもしれませんが、この度、先輩の会社と縁あって取引上の契約が成立いたしました。
さすがに大きな会社のなさることは違うなあと感嘆しているところです。
その一つに、私がかねてから先輩に愚痴を申しておりました、物流システムのことが見事に解決したのです。運営に掛る設備費は勿論、社員教育にはシステムを開発する程の費用は必要としませんが、それでも相当な資金が必要となります。先般も申しましたように、銀行筋はそっぽを向いていました。そのことなどを含めて、諸々の悩みを洗いざらい相談しました。
先輩の会社の田畑部長さんと黒川部長さんの、丁寧で微に入り細に入りの説明と、運用方法、稼働後の期待できる売り上げ等々、私の会社が安心して取り組める環境作りに、積極的に協力するのは勿論、ちゃんとした形でシステムが立ち上がるまでの諸費用も、低利で出資して下さる旨のお話を頂き、ただただ敬服するばかりでした。
大きくなる会社の懐の大きさに驚きの連続でした。これまで、狭い視野で、過去のしがらみにばかり拘って運営してきた、会社の姿勢にただ恥じ入るばかりです。そんな事を痛烈に思い知らされた出来事でした。
社の社長も、それこそ涙を流さんばかりの感嘆・感激の様子でした。
これからは、先輩の会社の配下で経営を運営することになりますが、大きな希望と期待が膨らんでいます。私も、一関係者として、自社の発展と共に、先輩の会社に迷惑が掛らないよう、事業発展の為に粉骨砕身で事に当たる覚悟です。
どうか、今後とも、これまで以上にご指導ご鞭撻を賜りますよう、心からお願い申し上げます。
仕事を離れて、また近いうちに親交を温めていただける事を願ってペンを置きます。
まずはお礼方々ご連絡まで。
東条物産(株)取締役部長 坂田康平
それから間を置かずに、社内の抜本的改革を伴った新体制が発表された。
それは、まさに新生(株)愛羅スタイルの未来志向の新しい会社像の発表だった。社内が騒然となる程のセンセーショナルな発表だった。
そして
新体制から半年の習熟期間を経て
次の年の春三月
業界に激震が走った
株式会社愛羅スタイルが自社で独自開発した、愛羅物流ウルトラシステム、AILUSの発表が大々的に行われた。
この発表にメディアが動かない筈はない。物流界に新時代の到来などと大々的に報じられた。
津山は雲一つない青空の下、顔に降り注ぐ太陽の光に、手にした新聞を両手で高々とかざした。