□ 第五章 疑惑 ① □
十時過ぎに、設計一課の若林から送別会の会場が決まった旨の連絡があった。
夜になり、早川は今流行の大衆市場という居酒屋で岩田課長と食事をした。テーブルの上に酒のつまみが並びビールを酌み交わした。
「課長、私は酒に弱いですから、酔わないうちに、例の後継者の件をお話ししておきたいのですが」
岩田は、早川がいつ切り出してくれるのかと気にしていた。のっけから切り出してくれたことに多少の驚きがあったが、我が意を得たりとばかりに破顔した。
「えっ、ほんとかよ。それは、ありがたい」
「手帳を出してメモしてください」
「そうだな。分った」
岩田は内ポケットから手帳を取り出し、ペンを握り早川の言葉を待った。
「これから三人のスタッフを推薦します。ですが、これはあくまで私の考えに基づくものです。三人はそれなりに優秀ですし、課長の手足となって、充分な働きはしてくれると確信はしておりますが、各人、一長一短あると思われますので、あとは課長のお眼鏡にかなう人物かどうか、課長自身で判断していただけたらと思います」
岩田としては、早川が推薦してくれることそのものに意味があると思っていた。しかし、三人のうち、どの人物が最もふさわしい人物なのかを判断するのは、これまた悩ましいことではある。
「うん、そうだな。分った」
岩田は早川の口元を見て、今か今かとペンをくるくる回した。
「それと課長、私が三人を課長に推薦したことは、絶対に口外しないとお約束していただきたいのですが」
「えっ、どうしてだ?」
「どうしてもこうしてもございません。この三人のうち二人は確実に選から漏れます。場合によっては、課長の判断で三人とも対象外なんてことも考えられます」
「それはそうだな」
「その時の、各人の心情を重んじてやらなければいけないと思います。出来ることなら、人の心は傷つけたくありませんから」
「……」
「最初この話が課長からあった時に、私が渋ったのはこのことを考えたからです。人事部が、社命として決定するのであれば何ら問題はありませんが、こういったような場合、常にそのことを頭に入れておく必要があるように思います」
「なるほどな。……だよな」
「秘密裏に事を進めることで、結果として恨まれるようなこともありませんから、課長の立場も良くなると思うのです。人の心はいろいろ複雑ですからね。一見何でもないように見えても、心の内は誰も分るものではありませんからね」
「なるほどなァー。君の言うとおりだね」
「ですから、絶対口外無用に願いたいのです。……お約束していただけますか?」
「分った。よーーく分った。約束しよう」
約束しようなんて言われても、この課長の軽さが心配ではあるが、
「ありがとうございます。じゃ申し上げます。推薦するスタッフは……」
早川は岩田課長に三人の名前を告げた。三人の名前を手帳に書きながら、岩田は首をかしげた。あらかた岩田なりに考えていた人物と、一人は合致したが二人は違った人物だった。その様子を見ていた早川は、先手を打って釘を刺した。
「課長、一人一人の具体的な人物評は、私の口から申し上げる訳にはいきません。先ほども申し上げましたように、あくまで私の考えに基づくものです。具体的な人物評を申し上げることで、変な色がついてもいけませんので、あとは課長宜しくお願いします」
早川は岩田の顔を見ながら軽く頭を下げた。
「君の考えはよく理解出来る。分った。あとは俺の方で考えて結論を出そう」
「そうですね。この三人のうちの誰が選ばれても、課長の力にきっとなってくれますよ。それだけの能力を持った人物ばかりです。あとは、課長とフィーリングが合うかどうかでしょうね」
「そっか。いやー、今の言葉で救われたよ。いや、いや、早川君ありがとう。……恩にきるよ」
「課長に喜んでもらって私も嬉しいです」
テーブルの料理をつつきながら課長は上機嫌だった。
人事部の方針で、C&Tに配属された社員の補充はなかった。ご多分に漏れず課の成績は下降気味、設計コンペの作業期間が終了し、早川が課に戻ってくればいいのだが、その肝心要の早川が米国に出張してしまう。二年間もである。当然、その時点で早川の後任の人事が行われる筈である。
岩田にとっては、後任の人選は重大関心事である。先に根回しして、優秀な人材を確保出来れば課の業績は良くなる。今夜、早川から待ちに待った後任を推薦してもらった。と思うと、いやが上にも気分が高揚してくるのである。
「無理言ってすまなかったね。ありがとう」
岩田は自分のコップにビールをなみなみと注ぎ早川に乾杯を催促した。そして、コップの中の液体を一気に飲み干した。早川はコップに口をつけて乾杯の真似をした。
「人事部に根回しするんでしょ?」
早川は聞いてみた。
「そうなんだよ」
「何か当てでもあるんですか?」
「人事部の課長とは、こういうこともあるだろうと、普段から懇意にしてるんだよ」
何と呆れた人だ。
「そうですか。上手くいくといいですね」
「なーに、大丈夫だよ。ははは」
課長は大事そうに手帳を内ポケットにしまい込んだ。それから、とりとめのない雑談に花を咲かせた。頃合いを見て早川が言った。
「課長、そろそろ出ませんか?」
早川は今夜の目的を達成しなければならない。
「おー、もうこんな時間か、そうだな行こうか」
「何処なんですか、そのお店って」
「歌舞伎町の方だよ」
二人は居酒屋を出て歌舞伎町の方に向かった。岩田の足取りは、まるでかっ歩するような足どりである。嬉しさを一杯詰め込んだ籠を背中に背負って歩いているようである。コマ劇場を左に見ながら、
「この劇場も、とうとう閉館に追い込まれてしまったか。惜しいねえー。時代に飲み込まれていくって感じだね」
と、独り言を呟きながら歩いて行った。突き当りの花道通りを右に曲がると、カラオケスナックと書かれた赤文字のド派手な看板や、一見怪しげな店の構えが軒を連ねていた。
空から降り注ぐような街の灯りは、不夜城と言われる新宿歌舞伎町の真骨頂を見る思いである。
ほどなく目的の場所に着いたようである。ビルの縦看板にずらりと並んだ色とりどりの店名が、界隈の電照看板と一緒になって踊っていた。
エレベーターに乗った。扉が四階で開いた。出てすぐ右手に紫色の和文字で藤と書かれた店のドアがあった。岩田がそのドアを手前に開けて中に入っていった。早川が後に続いた。てっきり和風仕立てかなと思った内部は見事に違っていた。
右手の円形のカウンターの奥に藤色のボックス席があった。この時間帯は歌舞伎町としては早いのかもしれない。客は少なかった。そんなに広いという感じはない。ウェートレスは五人ほどであった。
課長のいい店というのは、少し怪しげな店かなと思い、幾分身構えていた早川だったが、期待を裏切られて内心ほっとした。
「いらっしゃいませ。あら、イーさん、暫らく」
「やー、こんばんは」
「カウンターになさいます? それとも」
「奥のボックスにしよう」
「はい。暫らくお待ちください」
岩田と早川は、奥の四人掛けのボックスに腰を下ろした。ボックスからは円形のカウンターが一望できた。
天井から三十センチ程の黒い二本の棒が、カラオケ用のモニターをぶら下げていた。その下の台には、白い胡蝶蘭の花弁が、客に向かってこれ見よがしに開いている。
胡蝶蘭も最近では年中どこでも見ることが出来る。季節感がなくなって、季節の初めに出くわした時の感動もなくなり、いささか幻滅である。
藤色ののれんで仕切られた左奥が厨房のようである。厨房の左手前の壁に取り付けられた透明のガラス棚には、所狭しと酒のボトルが詰め込まれている。
その棚から、ママらしき女が一本のボトルを取り出した。一人のウェートレスがそれを受け取り、つまみと一緒に二人のテーブルに置いて、岩田と反対側の席に座った。
薄緑色のボトルに、黒のマジックで岩田と書かれた、お世辞にも上手いとは言えない字が見えた。ボトルの中身はラベルから見て焼酎のようである。
「焼酎でいいだろ?」
「はい」
早川はさっきの居酒屋でビールを飲んだが、口をつけた程度だった。だから、殆ど飲んだうちに入らない。
「水割りになさいます? それともお湯割りになさいます?」
ウェートレスが、おしぼりを二人に渡しながら聞いてきた。
「そうだな、少しヒンヤリしてきたから、今夜はお湯割りをいただこうかな。ロクヨンでな。……君は?」
岩田はおしぼりで手をふきながら早川に聞いた。
「私も同じでいいです。サンナナにしてください」
どうせ飲めない身、早川にとってはどちらでも良かった。
「課長は焼酎が好きなんですか?」
「だな。こんな店に来て焼酎もなんだなあ、と思ったったこともあったけどね。何も無理して付き合うこともないと思って、好きな焼酎にしてるんだよ」
「確かに自分の金で飲むんですから、誰にも遠慮する必要はないですよ。好きなものを飲んだ方がいいですね」
「そうだ。酒飲むのに格好なんかいらないよな」
岩田は首を縦に振り一人納得顔である。
「銘柄のことはよく分らないのですが、芋ですか?」
「そうだよ、芋焼酎だよ。鹿児島の焼酎だよ。……お、そう言えば、君の故郷は鹿児島だったね」
「はい。そうです」
「それじゃ、故郷を思い出しながら飲むようなもんじゃないか。下戸の君でも、今夜はたっぷり飲めるかもよ」
「あは、課長下戸は下戸ですよ。そんなに飲める訳ないですよ」
その時、おそらくママであろう。顔に微笑みをたずさえて、いそいそとテーブルに近づいてきた。
「いらっしゃいませ、お世話になっております」
「いやー、ママ、元気そうだね。相変わらず綺麗だねぇー」
「まあ、お世辞がお上手だこと」
「あは、ママ、今夜はママ好みの、わが社の独身貴族を連れてきたよ」
「まあ、なんていい男」
「早川君、この人が噂のママさんだよ」
「まあ、どこで噂になってるのかしら、どうせ悪い噂でしょうけど。早川さんとおっしゃるのね。よろしく」
ママがぺこりと頭を下げて、名刺を早川の前に差し出した。胸の谷間がちらっと見えた。
「早川です。よろしく」
会釈し、名刺を受取りながらママの顔を見た。丸顔のぽっちゃりした顔の美人である。課長はこの手の顔が好きなようである。ママが早川の顔を暫らくじっと見て言った。
「見れば見るほどイケメンね。かっこいい」
「ママ、この人の頭脳の明晰さに比べれば、顔のイケメンなんて目じゃないよ」
「わー、すごい」
ママは驚いてみせた。
「あはは、課長、どうも私は酒の肴にもってこいみたいですね。遠慮しないで何でもおっしゃってください。心の準備は出来ていますから」
「あはは、ママ聞いたかい? 言うことが、普通の青年の言うことと違うだろ?」
岩田は得意げであった。それに、早川の後任の候補者も内ポケットの手帳にしまい込んである。上機嫌であった。
「ママもどうだ一杯」
「ありがとうございます。水割りをいただこうかしら。いいですか?」
「焼酎の?」
「いえ、ごめんなさい、ウィスキーの。いいかしら」
「いいけど、ママ、焼酎は嫌いなの」
岩田は、自分の好きな焼酎を付き合ってくれないママに、少々不満なようである。
「いーえ、大好きよ。今夜は、いい男を見ながらウィスキーを飲みた心境なの。それだけよ」
「嘘つけ。この前も同じようなことを言ってたくせに?」
「ほほほ、そうだったかしら。あら、そう言えばこの前いらした、あれは田崎さんておっしゃったかしら」
ママは巧みに話をすり替えた。
「おいおい、ママ、よく名前を憶えてるね」
「いい男の名前は忘れないようにしてるの。ふふ、田崎さん、お元気ですか?」
「知らないよ。あいつは課が違うから、それに、最近は別な部署に移ったからな」
早川は、田崎の名前が出て、おやっと思った。
「課長、その田崎ってC&Tの? 田崎係長ですか?」
「そ、そ、君の部下の」
「へえー、課の違う彼とよく飲みに行かれるんですか?」
「いや、ここに来たのは初めてだった」
「どんなきっかけだったんですか?」
「なーに、一人でこの店に寄ろう思って、コマの横を歩いていたら、あいつとばったり会ったんだよ。よくあることさ」
「で、仕方なくここに連れてきた訳ですね」
「そういうことだね。たまには一人で、綺麗なママの顔を見ながら酔いたいなあと思ってたのに、とんだ邪魔が入ってさ。しかも、ママをはじめ此処の女の子にキャーキャー言われて、あいつ、いい気になりやがって。ったくもう連れてこなきゃよかったよ」
「ここであったが百年目。仇討にあったみたいですね」
「ったく、そうだよ」
早川は探りを入れてみた。幸いに新しい客が入り、ママとウェートレスが「ちょっと、失礼します」と言って席を立った。
「課長は会社の社員とよくいらっしゃるんですか? 飲みに」
「そうだね、俺はよく飲む方だからね。ことあるごとに社員を誘って飲みに行くよな。ほんとは君とももっと飲みに行きたいんだけど、君は名うての下戸だからねぇー、なかなか誘えないんだよな」
「そうですか、すみません付き合いが悪くて」
「ただ単に飲むだけだったら、家で飲んだ方がましだよな。こんな所に来て飲みたいのは、気心の知れた何でも話せる奴と、バカ話をしながら飲みたいからなんだよ」
「なるほど、そんなもんですかね。ところで課長、その飲みの相手にC&Tの社員はいます? 田崎係長以外に」
「どうしてだ? 俺と飲んでるだろうって、問い詰めるのか?」
「あはは、まさか。意味はありませんよ。何となく聞いてみたかっただけですよ」
「C&Tの社員で俺とよく飲みに行く奴ねえー、……お、そうだ、二人いるよ」
「へー、二人もですか? 幸せもんだなあ課長と飲めるなんて。いつも課長のおごりですか?」
「当たり前だよ、若い奴らに金出させる訳にいかないだろう?」
「課長も大変ですね。で、その二人って誰です? 差支えなかったら教えてください。飲むのが好きな奴といったら、大体は想像つきますが」
「だろうな。……野田係長と安浦君だよ」
「やっぱり、そっかー。二人は好きだからなー」
「二人とも相当の酒豪だね。それと、野田係長は実家が金持ちなのかねぇー、相当派手に飲み歩いているっていう噂だよ」
「へー、そうですか。給料は私なんかと同じくらいな筈なのに、やっぱり親元が資産家とかですかね?」
「そうかどうかは知らないけど、そうとしか考えられないよ。その彼に、ただ上司だからというだけで、おごってやらなければならないんだからなあ。やりきれないよ」
「じゃあ、彼と飲まなきゃいいじゃないですか」
「そうなんだよ。だけど君には分らないだろうけど、呑兵衛って訳もなくついついそうなってしまうんだよなあ、不思議とな」
「あは、そんなもんですかね、まるで連れションみたいですね」
「連れション? あはは、上手いこと言うね、だな、まさに連れションだな。あはは」
「で、課長は、社の女の子は飲みに誘わないのですか?」
「バカ言うなよ。社の女の子と飲んだって、ちっとも面白くないよ」
「そうですか、じゃあもっぱら男だけ?」
「いや、一度だけある。……いつだったか忘れたけど、ほら、C&T唯一の女性、元々うちの課の女性だった、……浅田君さ」
「はい、はい。誘ったんですか?」
「誘ったんだけど、お友達と一緒だったらお付き合いしますと言ってさ」
「その友達っていうのは誰です?」
「うちの課の田部井君だよ、浅田君と大分仲がいいらしいな」
「たべい君? そうですか。知りませんでした。で、その二人と飲みに行かれたんですか?」
「行ったよ。渋谷に行った」
「課長と大分年が離れているから、話題が合わなかったでしょう?」
「そうなんだよ。……カラオケに行くことになってな?」
「ええ、ええ」
「俺は昭和演歌だろ? 彼女らは何だか知らないけど、歌ってるのか喋ってるのか分らないような歌ばっかり唄うんだよ」
「なるほど。ええ、ええ、分ります」
「全くつまらない晩だったね。……もう二度と若い女性は誘うまいと思ったよ」
「あは、その上、酒代からカラオケ代までおごらされて」
「ったく、そうだよ。それに二人とも彼氏がいてさ。こっちはいいオジサンピエロだよ」
「でも、課長は一応彼女らの上司ですから、彼女らもそれなりに?」
「あは、とんでもない。仕事は仕事、プライベートには関係ないでざーますよ、って感じだったよ。いまどきの若い子は、それが当たり前なんだろうね」
「そうでしたか、それは大変でしたね。同情します」
「早川君はその点まだ独身だし、年齢的にも近いから、そんなことにはならないだろうけどな」
岩田は残りかけの焼酎をあおり、「おいおい、手酌かよ」と独り言を言いながら、空いたグラスに自分でポットのお湯を入れ焼酎を注いだ。
「へェー、二人とも彼がいるんだ。知らなかったなあ。ま、もちろん居てもおかしくないですけどね」
「お、そうそう、いま思い出した。飲んでる時、二人の会話を聞いて思ったんだけどな」
「ええ」
「これは俺のあくまで勘だけどな。……断っておくけど、俺のこの手の勘はよく当たるんだよ」
「へェー、そうですか。で、どんな勘ですか?」
「本人がいる前でなんだけど、どうも、浅田君は君に惚れとるね」
「あは、冗談でしょう」
笑いながら早川は、岩田課長の勘の鋭さに少々驚いた。その勘を仕事に生かしたら……、そんな風に思ったりもした。
「もっとも片思いみたいなんだけどな。それ以来、社内で浅田君の様子を見ていたんだけどな、そんな感じなんだよね」
「思われているってことは、満更悪い気分じゃないですね」
「ところが、君にぞっこんの浅田君に惚れてる奴がいるから、世の中面白いよな」
「誰ですか? 惚れてる奴って」
「誰だと思う? 当ててみな」
「さあ、誰ですかね。そんなことには、からっきし駄目なんですよねェー、私は」
「宮下君だよ」
「あ、そうですか、宮下君。知らなかったなあ。課長はどうして分ったんですか?」
「宮下君の目を見たら分るよ。仕事をするふりして、ことあるごとに、浅田君に視線が走ってるからね、あれは浅田君にほの字だね」
「そっかアー、宮下君がですねェー」
「そうでなくても、彼女は社内でも五本の指に入るほどの美人だし、それに世話好きだし、男性諸君は彼女に近づきたいんじゃないかねえー。彼女にするにはいいと思うよ。どうだ付き合ってみては」
「そうですね。その気になったら考えてみます」
お膝元で、早川が浅田とたまに食事や喫茶店に付き合っていることを、情報通を自負する岩田ですら、今のところ知らないようだ。デートしているところを、もしかしたら宮下に見られているかもしれない。だがデートといっても、手も握ったことのない、ただ同僚と食事をしているだけの付き合いである。気にすることはない。
「それに、これも俺の勘だけど、田部井君はどうも社内恋愛みたいだな」
早川はいよいよ来たと思った。
「誰です? 相手は」
「それは今のところはっきりしたことは分っていないけど、どうも俺の睨んだところ、野田君じゃないかねえー」
「えっ、私の部下の、いま課長が言われていた、あの派手に飲み歩いているっていう、あの野田君ですか?」
「俺はそう思う。どうも臭いね」
「課長、どうしてそう思われたのですか?」
「彼女らと飲んだあくる日から、それとなく注意してみていたんだよ」
「ええ、ええ」
「そしたらな、ある日偶然だったんだけど、池袋の飲み屋街を歩いていたら、二人を見かけたんだよ」
期待してもよさそうな情報である。
「へェー、それはまた偶然でしたね。誰かと一緒だったんですか?」
「俺?」
「はい。飲み相手は誰だったんですか?」
「人事二課長の亀井君さ。住んでる方角が一緒だから、よく池袋で飲むんだよ彼とは」
「そうですか。じゃあ、亀井課長もご覧になったんですね」
「いや、彼は多分見てないな。別な方を見ていたからな」
「でも、課長も一杯入っていたし、空似ってこともありますからね。見間違いじゃなかったのですか?」
「いや、あれは間違いなく野田君と田部井君だったな。確かに少し遠目ではあったけど、まず間違いないと思うよ」
「そうですか、課長、話ついでに、課長の知ってる範囲でいいのですが、他にそんな面白いネタはないですか?」
「おや、いやに熱心に聞くじゃないか。どうしたんだい?」
「課長、私は独身です。もしもですよ、彼氏がいることを知らずに女の子に声かけてしまって、恥を掻くのも嫌ですからね。どちらかと言いますと、社内の仕事以外の情報については、からっきしダメな人間ですから、私は。……ですから、参考までに教えていただければ、恥をかかずに済むと思いまして」
早川は、さとられてはまずいと思い機転を利かした。上司の課長に対して嘘をついたり、心にもないことを言うことは心苦しいことである。とても申し訳ない気持ではある。が、しかし、課長には悪いが、ここは仕方ないと割り切った。
「なるほど、それもそうだな。だけど、何も君の方から声かけなくったて、向こうから言い寄って来るだろう?」
「課長、私も好みのタイプってありますよ。そういう女性には、男としてこちらからアタックしたいですよ」
「それはそうだな」
「ですけど、アタックした女の子の彼氏が、選りにも選ってC&Tのスタッフの一人だったなんてことになっては、管理者として物笑いになりますから、そちらを優先的にお話し願えればありがたいのですが」
幸い、ウェートレスたちは、客が多くなって忙しい様子である。ママも当分来そうにない。
「君の部下で社内恋愛してるやつねぇー。……うーん、それ以外だったら結構噂はあるけどなあ。……ちょっと待てよ」
岩田は天井を見上げて、少し考えているようだった。グラスを口に持っていき、液体をぐっと飲み込んだ。
「君の部下で社内恋愛をしてる奴ねぇー、さっき言った話以外は知らないなあ、……思い当たらないなあ」
「そうですよね、社内で何だかんだと言われるのも嫌ですからね。みんな秘密裏に行動してるんですね。きっと」
「……お、そう言えば、早川君、君は遠恋って知ってるかい?」
「遠恋ですか? 知ってますよ。遠距離恋愛のことを言うのでしょ? 逢いたくてもなかなかすぐには逢えない、どこか遠い距離の地域にいる人とメールやインターネットで知り合って、その人と現在恋愛中だってことでしょう?」
「そればかりでもないがな」
「例えば、課長が福岡に転勤になりました」
「おいおい、よしてくれよ左遷かよ」
早川は、飲んだ席でのたわいのない話を楽しんでいた。
「そうです。こんなに成績が悪かったら、君、仕方がないだろう? 地方支店で頑張りたまえ、結果次第ではまた呼び戻すから」
早川が威張ったような口調で言った。
「おいおい、今度は人事部長に変身かよ」
「そうだ。人事部長の命令じゃ、福岡支店に行きたまえ」
岩田も乗ってきた。
「はい。かしこまりました」
「ということになって、課長は泣き泣き福岡支店に赴任しました。奥さんは都内に置いて単身赴任でした。呑兵衛の課長は、夜な夜な博多の中州で酒を喰らい、我が人生の悲哀を嘆くのであります」
「まるで浪花節だな」
「そんなある日、課長は、ある飲み屋のウェートレスと恋仲になります。ここのママとよく似た、丸顔のぽっちゃりした美人です」
「おー、いいねえー。そんなこともないとやり切れないよな。うんうん、それからどうなった?」
「単身赴任の寂しさから、課長は、そのウェートレスの情愛にのめり込み、深い深い仲になっていきます」
「うんうん。九州の女性は情が深いというからなあ。……それから?」
「課長にとって彼女は希望の光となりました。俄然、仕事にもやる気が出てきました。支店の成績が急上昇したのであります」
「ほんとかよ、信じられないよ」
「本人が信じられずにどうするんですか。信じなさい」
「はい。すみません」
もう二人は完全に漫才調になった。
「ところが、運命は皮肉です」
「おい、どうしたんだ急に皮肉とは」
「月日が流れ、一年という時間が経過しました」
「おー、もう一年がたったのか。早いな」
「真夏も過ぎようかというある日のこと、本社から辞令が届いたのであります」
「おい、待てよ。俺はもう本社に帰る気ないよ」
「君、社の命令を何と心得おる。これが目に入らぬか」
「今度は人事部長から黄門様に変身かよ」
「岩田健一殿、上記の者、〇〇年九月一日付けで、本社建設部設計一課長を命ず。人事部長」
「ああ、これだから嫌なんだよな、サラリーマンは」
「熱愛した二人の運命やいかに。……どうされますか? 課長」
「そうよなあ。好きな彼女と別れるのは辛いよなあ。……きっと、泣いて、行かないでと言うと思うよ。……ああ」
「東京に連れていって、と言われたらどうします?」
「バカ言うなよ。そんなこと出来る訳ないだろう?」
「東京にマンションを買って、彼女を住まわせたら?」
「そんな金があったら苦労しないよ。安給料じゃどうしようもないだろ?」
「ですよねぇー。じゃあ、どうします? 博多湾に身を投げて心中しますか?」
「おいおい、簡単に人を死なすなよ」
「人の世は冷酷非情であります。涙の海に浮かんだ悩み船は、二人を乗せて、揺ら揺らとさまよい流されていきました」
「いいねぇー。いいナレーションだねェー」
「課長どうするんですか?」
「仕方がないだろ? 説得するしか方法ないよな」
「課長は東京に戻り、仕事の合間に、せっせと博多の彼女とメールのやり取りを続けたのであります」
「はやっ」
「そして、たまに博多に出向き、逢瀬を重ねたのであります。奥さまには内緒で」
「おいおい、そこで何でかーちゃんが出てくるんだよ。もうちょっと夢を見させろよ」
「あはは、課長、……これも遠恋でしょ?」
「随分長かったなあ、ここまで来るのに」
「この例のように、連絡手段は、手紙や電話や電子メールってことになりますね」
「そうだな」
「手紙は面倒くさいし電話はお金がかかるし、結局、連絡手段は電子メールってことになりますね」
「一番手っ取り早くて、金がかからないからな」
早川は、よく考えたら、亜希子と自分も遠恋中ということになるな、と心の中でつぶやいた。
「おっと、忘れるところでした。その遠恋がどうかしたんですか?」
「どこまで話したかなあ」
「野田君がどうのこうのって」
「ああ、そうそう野田君は係長だったよな」
「そうです。三人の係長のうちの一人です。元は二課の係長でした」
「その野田係長の部下に高津君っているだろ?」
「はい、おりますが」
「彼が遠恋してるって話を聞いたことがあるんだよな。今も続いてるかどうかは定かじゃないがな」
「そうですか。相手はどこの人なんでしょうね」
「なんでも、愛知県の豊橋の人だとか聞いたよ」
「豊橋ですか?」
「確かそんな話だったなあ」
「そうですか。みんな上手いことやってるんですねぇー」
早川は、岩田課長のC&Tに関係するゴシップ情報は、これでネタ切れになったようだと判断した。
「課長、いろいろ参考になる話ありがとうございました」
「君ももうそろそろだな。この前郷田部長に、俺が世話してやってもいいぞなんて言われてたけど、お願いしてみたらどうだ?」
「そうですね、とてもありがたいお話だと思っています。ですが、今はそれどころじゃありませんからね。一段落してからでしょうね」
「確かにそうだね。ま、大変だろうけど頑張ってな」
「ありがとうございます」
課長のゴシップ情報が確かなものかどうかは、今は知る由もないが、早川はかなり濃厚な参考になる情報が得られたと思った。と同時に改めて課長のゴシップ屋としての存在を思い知らされた。
課長の情報の裏付けを取る為に、部下である係長の田崎淳司と野田恵一、念のため、石川達郎、それに安浦一郎、高津良太、浅田香織のパソコンに残っているメールの履歴を調べる必要があると思った。プライベートなことは、おそらく携帯を利用するであろうから、会社のパソコンには、メールの履歴はないとは思うが、あくまで念のためである。
カモフラージュとして、A、Bにグループ分けしなければならないが、今夜の情報を元に、木曜日の送別会の飲み会の席でそれとなく探りを入れ、新しい情報が得られれば、それを加味して人選すればいい。
最終的には、電算室の吉田主任のプログラムの網に任せるしかない。
早川はこの時、課長に聞いておきたいことを思い出した。
「課長、ちょっとお聞きしたいことがあるんですが」
「何だ? 色恋の話はもういいよ」
「いえ、仕事の話なんですけど、ここ一年ぐらいの間に、ほぼ我が社に決まりかけていた物件を、ひっくり返された物件ってありませんかね」
「そんなこと、どうして知りたいんだよ」
「いえ、もしかしたら、今後もそのようなことがあるといけませんので、参考にお聞かせ願えればと思ったもんですから」
「なるほど君らしいね。……うーん。……ひっくり返されて、契約をさらわれた案件のことだろ?」
「そうです。思い当たることはございませんか?」
「うちの課では思い当たらないなあ」
「そうですか」
岩田はグラスの中の焼酎を一口流し入れて考え込んだ。つまみのキュウリ漬けを口に入れカリカリと鳴らした。
「……おー、そう言えば、三課の片桐課長がこぼしていたなあ。ほぼ決まりかけていて、一、二週間の間に契約の印鑑を貰える段取りだった物件がな」
「ええ」
「あ、そうそう、今はっきり思い出した。……あの時の課長の顔はなかったなあ。可哀想なくらいだったよ」
「ご破算になったんですか?」
「そうなんだよ。片桐課長の言うには、一方的に打ち切られたみたいだぜ。ひどいよなあ」
「それは、いつ頃の話ですか?」
「はっきりとは覚えてないが、半年ぐらい前だったと思うよ」
「で、その後どうなったかご存知ですか?」
「詳しいことは分らないが、別な会社が契約したみたいだぜ」
「その会社名は分りませんか?」
「いや、俺は知らんなあ。なんだったら、明日でも片桐課長に聞いてみたらどうだ?」
「そうですね、そうしますかね。建設地はどこだったんでしょうか」
「なんでも、港区の方だったみたいだぜ」
「そうですか。三課ですからオフィスビルですね」
「そうだな。……おっ、その話で、呆れ返った話を聞いたことがあるぜ」
「呆れ返った話って何ですか?」
「普通さ、メンツにかけてもそんなことはしないと思うけど、直前まで交渉していた相手、つまり我が社のことさ」
「ええ」
「片桐課長が言うには、我が社の設計図に少しばかり手直しした程度で、ほとんどそっくりそのままの図面で建設したと言うんだよ。あきれてものが言えないよな」
「ということは、完成した現場を確認して、それが分ったのですね」
「確認も何も、外観が我が社の図面とほぼ同じだから一目瞭然だよさ。恥も外聞もない会社だね、その会社は、全く」
「我が社から見たら屈辱的な事態ですね。良識ある会社だったら、そんなことはまずしないですよね」
「そうだよ。するもんか。だけどこういった場合、訴えたり公表するところがないから始末が悪いよな」
「ですねェー。しかしですよ課長、我が社が交渉していたということを、その会社はどうやって知ったのでしょうね」
「そこなんだよな。通常は発注者が意図的に行動しない限り、交渉ごとが他社に漏れることは殆どありえないからなあ」
「あるとすれば、確認申請の段階で情報は知ることは出来ますね」
「うん、だな。建設関連の情報は関東建設日報に毎日報道されているから、いつどういう物件が申請されたかが分る」
「ええ」
「報道には、建設場所はもちろんだが、物件の用途や面積などのほかに、設計者名や施工会社名が記載されているからな」
「こういうことは考えられませんかねェー」
「うん?」
「確認申請書が下付されるまでは審査に相当期間掛ります。それを考えますと、もし発注者が確認の下付前に、意図的にやろうと思えば、申請書を取り下げることも可能ですから、その線もあり得ますね」
「つまり、我が社から契約をかっぱらってしまったその会社が、発注者に働きかけて、確認申請を取り下げてしまったという訳だな?」
「そうです」
「確認を取り下げて、設計者名や施工会社名を変更した上で、再申請しようと思えば出来ないことはないよな」
「ええ、可能ですね」
「なるほどなあ」
「ですけど、建設に関する発注者との打ち合わせは、相当な期間を要しますし、その間、我が社の担当者と発注者とは、相当深いコミュニケーションが図られていると思うんですよ。それなのに、発注者がそのような行動に出るとは、とても考えられませんがね」
「確かにな。だが、建設費の大幅ダウンを見せつけられたら、誰でもぐらつくぜ」
「なるほど。発注者の分らないところで手を抜くなんてことは、簡単に出来ますからね」
「良心的な会社は、社会的な価値観を大事にするから、そんなことは絶対にしないが、恥も外聞もない会社は、目先の受注に走るからやりかねないな」
「そうですね。で、そのオフィスビルは繁盛してるんですか?」
「詳しいことは分らないが、何でも空き室が相当あるみたいだよ」
「我が社の設計のそっくりそのままで建設したんでしょう? 我が社の設計で、そういうことはまず考えられませんが」
「だから、見せ掛けはそうでも、中身は相当手を抜いているんだよさ。入居者は大抵が法人だから、その辺は賢いよさ」
「そうでしょうね。それにしてもバカなことをするもんですね。そんなことをしたって、結局ツケが回ってくるのに」
「年間売り上げに血眼になって受注する。これはある意味、どこの会社もやっていることだが、良くないのは、目の前の受注に目がくらむあまり、他社との競合の中で値引きなどの無理をして受注する。必然的にどこかで手を抜かざるを得ない。この繰り返しが、結局自分の首を真綿で絞める結果となり、会社がおかしくなる。おかしくなれば銀行が黙っちゃいない。ますます無理を重ねる。ま、こういう構図だな」
「ですね」
「会社としてのポリシーが貧困なんだよな、そういう会社は。……そんなことをしてまで仕事をしたくはないよな」
岩田は、少し憤慨したような顔をして焼酎を口に入れ、残っていたキュウリ漬けを平らげた。早川もつられてグラスを口にした。
「同感ですね。哀れにさえ感じますね」
「だな」
「それにしても腑に落ちませんねェー」
「何が?」
「確認申請の段階というのは課長、プランニングはもちろんですが、事業計画書や建設費や銀行融資など、諸々の条件をクリアした段階でしょう?」
「それはそうだな」
「そしたら、関東建設日報などで確認申請の情報を知り得たとしても、その段階では遅いと思うんですよ」
「それはそうだ。関係者を交えて相当な突込みをするからな。時間もかかる」
「ですから、相当前から情報を入手して、行動していたのではないでしょうか」
「一度聞きたいと思っていたんだが、君の頭ってどういう構造になっているんだ?」
「えっ、どうしてですか?」
「どうして、そんなに頭がくるくる回転するんだい?」
「アハ、お酒のせいですよ。もう焼酎で朦朧としています」
「嘘つけ。俺も少し朦朧としてきたけど、逆に回転が鈍くなってきたぞ」
「あははは、それは飲み過ぎだからですよ。適量だと頭の回転は良くなりますよ」
「アハ、ま、いいや、で、……何だったっけ?」
「その会社は、相当前から情報を入手して行動していたのではないかと」
「おー、そうだったね。……その可能性は大だね」
「だとしたら、社内の受注予定者リストが、部外に漏れたのでしょうか」
「いや、それは考えにくいね。というより、考えられないね。発注者に対する守秘義務もあるからな。まずあり得ないな」
「ですよね。じゃあ、たまたま何かで知ったということでしょうか」
「そうとしか思えないね。か、社内の人間が、何らかの手段で情報を持ち出して、その会社に渡したかだな」
「そうですね。それもあり得ますね」
「ないことはないだろうな」
「それにしても、片桐課長には気の毒なことになりましたね」
「そうなんだよな。それを聞いて、他人事じゃないなんて思ったもんだよ」
「ですねェー」
早川は、この話の裏には何かがあると睨んだ。
「それにしても、ここには、さっぱり女の子たちが来てくれないなあ、おーい、ママ」
呼ばれてママが笑みをたたえて、いそいそと二人の前に来た。
「ごめんなさい。お二人が何やら熱心にお話しなさっていたから、お邪魔じゃないかと思って遠慮していました」
「この青年の嫁取りの話をしていたんだよ」
岩田は、まんざら嘘ではないが適当に返した。
「あらまあ、ご結婚なさるの? 羨ましい」
「羨ましい? って、誰が?」
「決まってるでしょ? 早川さんとご結婚なさる女の人のことですよ」
「あは、ママ、私が結婚するという話じゃなくて、結婚するには、どんな女の人がいいですかね、と、まあ、そんな話です」
早川が話をすり替えた。
「そうでしたの。で、どんな女の人がいいってことになったのですか?」
「課長は、ママみたいな人だったら、一生大事にするって」
「ほんと? 嬉しい。早川さんは?」
「私は、ママみたいな美人じゃなくてもいいから、家庭的な人がいいかなって」
「そうね、それは大事なことね。私も家庭的だと自分では思ってるけどなあ」
「家庭的かどうかは、外見では分りませんものね。付き合ってみないと」
「そうよね。……私と付き合ってみる?」
「おいおい、マジかよ。それはないよ」
岩田が笑いながらママを見た。
「あは、遠慮しときます。課長に怒られますから。ね、課長」
「物分かりの良い部下を持って、うん、わしは実に幸せ者じゃわい」
どっと笑いが渦巻いた。岩田が続けた。
「それにしてもママ、若いって羨ましいねえー。俺も若返りたいよ」
「ふふ、そうですね、若さは人生の中で最大の宝ね。でも、イーさんも若いですよ。気持ちはね」
「おいおい、俺の身体が衰えてるみたいなことを言うじゃないか。これでもまだまだ達者だぜ」
「あら、奥さまが羨ましい」
「おい今度は奥さまかよ。……ところで聞いたことなかったけど、ママって歳いくつなの?」
「おやまあ、女の歳を聞くなんて、イーさんも野暮な人ですこと。……想像にお任せします」
「これだからなあ、まったく」
「早川さんは、おいくつでいらっしゃるの?」
「私は当年とって……四十二歳です」
早川はママを少しからかってみようと思った。岩田がニヤッと笑った。
「まあ、厄年? まさか嘘でしょ? とても信じられませんわ」
「信じてください。ほんとです。当年とって……四十二歳です」
岩田は、ママと早川の話の成り行きを面白そうに見ていた。
「じゃあ、結婚するとすれば再婚ですの?」
「いえ、初婚です」
「へェー、こんないい男が、四十二歳の今まで独身だなんて考えられない。女には不自由なんかしないでしょう?」
「そうですね。お陰様で不自由しませんね。だから、結婚がつまらなく思えるんですよ」
早川は終始ニヤニヤしながら、ママの顔を見たり岩田の顔を見て喋った。
「なるほどねー、もてる男の悩みね。それにしても、四十二歳だなんて凄い若作りね。まるで化け者ね。こんな人初めて見たわ」
「まぎれもなく四十二歳です。……当年とって」
「当年とって? さっきからやたらと当年とって、当年とってと」
早川が大きな声で笑い出した。
「何なの一体、ほんとは違うんでしょう?」
「ですから四十二歳。……当年とって」
「ん? 四十二歳? 当年とる?」
「そうです。四十二歳から当年とるのです。当年とってください、とお願いしてるのです」
「当年て、十年?」
「ピンポーンです」
「じゃあ、三十二歳ってことなの?」
「ピンポーン」
早川は大いに笑った。
「まあ、早川さんたら。やっぱりねぇー、……おかしいと思ったもの」
「ママ、まんまとやられたね」
「イーさんは知ってたの?」
「いや、俺も分らなかった」
「いやだ、それだったら、ママ、まんまとやられたねはないでしょう?」
「俺を含めてそう言ったのさ」
「あきれた」
三人が爆笑した。
先ほどから、カラオケの音がうるさいくらいであった。上手な唄なら良しとするが、お世辞にも上手くはない。
「涼子ちゃん」
ママがカウンター内のウェートレスを呼んだ。
「イーさんはご存じだから、早川さんにだけ紹介するわね。うちのナンバーワンよ。……涼子ちゃん。よろしくお願いいたします」
ウェートレスを早川に紹介した。
「涼子と言います。よろしくお願いいたします」
ウェートレスは深々と頭を下げて床に膝をついた。
「早川です。こちらこそよろしく」
涼子はママに促されて、早川の前の席に腰を下ろした。
「ま、一杯どう? 焼酎? それとも?」
岩田が酒を勧めた。
「ありがとうございます。焼酎のお湯割りをいただきます」
「おい、早川君聞いたかよ、涼子さん、焼酎のお湯割りをご所望だよ。いやー、嬉しいねぇー」
「課長良かったですね。お相手が出来て」
「だな。今夜はいくぞー」
「まあ、あきれた、ちょっと綺麗な子が来るとこれなんだから。知りませんよーだ」
「あは、ママ焼もち焼いてる。ああ、面白い。ざまーみろだ」
岩田は一人で喜んでいた。
「涼子さんはもうこのお店は長いの?」
早川が涼子の顔を見ながら聞いた。程よい胸のふくらみと、これも程よい厚みの下唇、おでこが広い。なかなかの美形である。しかもとても艶っぽい。二十二、二十三歳、いや、二十五、二十六歳かも。
「いえ、まだ三ヶ月です。まだ何にも分らずに、ママにご迷惑ばかり掛けています」
ママの顔をしきりに見ながら、涼子はやや伏し目がちに言った。
「そうですか。このお店に来る前は? どこにいらしたんですか? 差支えなかったら」
「……はい。OLをしていました」
「あ、そうでしたか」
早川はそれ以上聞くまいと思った。余程の事情がありそうに思えたからである。
「いろいろ大変なこともあると思いますけど、頑張ってください」
「ありがとうございます」
「若造の私が言うのもなんですが、人生、頑張って生きていくしかないですものね。頑張っていれば、きっとその内いいことありますよ。ママ、いい人が入ってくれましたね」
ママと涼子は、微笑みながら話す早川の顔をじっと見つめていた。涼子は男の優しさに触れた思いだった。心なしか目が潤んでいるように見えた。
「ママ、この早川って男はね」
「はい」
「とにかく頑張り屋さんなんだよ。その頑張りようは、まあ凄いのなんのって」
「そうなんだ」
「今や会社の若手のホープだよ。恐らく将来、会社を背負って立つ人物だよ、この男は」
「まあ、頼もしい。凄いのね早川さんて」
「あはは、ママ、課長のオーバートークはご存じでしょう? そう言って、社員をその気にさせるのが実にお上手なんですよ。ですから、話半分に聞いておいて丁度いいですよ」
涼子は早川の真面目で熱心な話しぶりを見て、この人もきっと辛い時があったのではと思えてきた。
「おいおい、人聞きの悪いことをよくも言ってくれるよ。いやほんと、この男には敬服する事ばっかりだよ」
「それじゃ、イーさんも、こんな方が部下にいて心強いですね」
「そうなんだよ、但し、この間まではね」
「この間までは?」
「うん。今は別な部署で大車輪の活躍だよ。その内、俺がこの男の部下になりかねないかもよ」
「あは、またまた始まった。課長のオーバートーク」
以外と人気のある店なのかもしれない。ほぼ満席になった。早川は頃合いを考えていた。
「私はこれで失礼します。課長はもう少しゆっくりされてはどうですか? 焼酎党のお相手も出来たことですし、今夜はきっとうまい酒になると思いますよ」
「何だよ、もう帰るのか? もう少しいいじゃないか。なあママ、引き止めてくれよ」
「そうですよ。もう少しいらしたらいいのに」
「ごめんなさい。またゆっくりお邪魔します」
「この男は、言い出したら聞かないからなあ」
「課長すみません。またお願いします」
早川は頭を下げて腰を上げた。
「そうか、仕方ないな。俺はもう少し居るとするかな。いや、今夜はありがとう。助かったよ。恩にきる」
いかにも名残惜しそうな顔で、岩田は早川を見上げながら、両手を合わせた。
「いえ、こちらこそ楽しいお話を聞かせていただいて、久しぶりに心の洗濯になりました。とてもいいお店ですね。またお願いします」
「おー、今度は、そうだ、木曜日に予定しておいてくれ」
「分りました。課長、ここはいいですか?」
早川は指で丸を書いた。
「もちろんだよ。じゃ、気を付けてな。まっすぐ帰るんだろ?」
「はい。いつもすみません。お言葉に甘えます。ありがとうございました」
「じゃあ、木曜日な」
「ママ、涼子さん、今夜はありがとう。またお邪魔します」
「何もお構いが出来ずにごめんなさい。これに懲りずにまたお越しくださいね。お待ちしています」
涼子も両手を前に重ね、深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。じゃあ」
早川は、最後に課長に会釈して席を後にした。出口のドアに手を掛けた時、
「ママ、混んできたから、俺はカウンターに移るよ。その方がいいだろ?」
と、課長の声を背中で聞いた。課長もなかなか気配りがあるじゃないか。
エレベーターを降りてビルを出た。深夜近くになっても雑踏は雑踏のままである。右を向いても左を向いても男と女とネオンの行列。
男は女を求め、女は男を求めてさまよい歩く。酒液を体に注射して、脳を麻痺させ朦朧の中に夢を見る。
はかないと知りつつも夢が舞い踊り金が舞う。夢かうつつか、うつつか夢か。手招きする女。女みたいな男。
狂気の沙汰と正気の沙汰の境を見失い、悪夢の招待を受けた子犬が、たどり着く泥の川。目覚めて気づく悪夢の正体。決別を拒否することも叶わず、再び招待状を夜空に掲げて夢を見る。
もう、秋が終わりかけようとしているのかな。少しばかりひんやりする空気が、少々ほろ酔い気分の頬に心地よさを運んでくれる。
暫らく歩を進めるとT字路が見えてくる。そこを左に曲がりコマ劇場を右に見ながら、早川は新宿駅の方向に歩を進めた。突き当りのファミマの角を右に折れ、中央通りに入り、暫らくすると靖国通りに出る手前右手にカラオケ館が見えてくる。新宿駅はもう近い。
ふと何気なくカラオケ館の入り口の少し先に目をやった。仲見世通りあたりである。人混みの中に思わぬ場面を目にした。とっさに右側のビルとビルの間に身をひそめた。
仲見世通りから見慣れた顔が二つ出てきたのである。何やら談笑しながら、右に身体を向けて中央通りの右側を、人込みを避けながらこちらのほうに歩いて来る。
早川のやや離れた左手方向の眼前を、野田係長と高津の顔が通り過ぎた。高津は少し赤い顔で口にタバコを加え、野田は片手をズボンのポケットに突っ込み、片手で鼻の上の眼鏡をずらしていた。
自分の部下達であるから、あえてビルの間に身を隠す必要はない。が、酒豪にからまれて飲みに行きましょう、なんてことになったらヤバイという思いと、さっきの課長の話に出てきた二人である。ここは避けたほうが無難である。
早川は、もしかしたら課長が、この野田と高津にばったり出会ってしまうかもしれないと思いながら、二人の後姿を暫らく見ていた。そしてくびすを返し新宿駅に急いだ。
早川は二日連チャンの深夜帰りで、多少の疲れを感じながらも通常通り出勤した。
頃合いをみて岩田課長に電話した。直接出向いて行って、顔を見ながらお礼の挨拶をしてもよかったが、また大袈裟なことになってもまずいと思って電話にした。
「課長、電話で失礼します。おはようございます」
「おー、おはよう。昨日はありがとうな」
「こちらこそ、ありがとうございました。ご馳走さまでした。大分遅くなったのではないですか?」
早川は周りのこともあり、声のトーンを落とした。
「そうなんだよ。午前様だよ。今朝は二日酔い気味で、ちょっと頭がズキズキするよ」
さすがに岩田も声を低くして返した。
「そうですか。いけませんね。奥さまに怒られたでしょう?」
「あは、お察しの通りだよ。危なく家に入れなくなりそうだったよ」
「おやおや、困りましたね。課長、昨夜のお店、結構いいお店ですね」
「だろう? 俺も気に入ってるんだよ。あれから、ママと、ほら、あの子、そうそう、涼子ちゃんさ」
岩田はさらに声を落として囁くような声になった。
「ええ」
「君のことをえらく気にしてたぜ。とってもいい人だってさ」
「あは、酔っぱらった勢いで適当なことを言うのが、あの人たちの仕事の一つですからね」
「いやいや、本気でそう言ってたぜ」
「そうですか、ありがたいことですね。ところで、帰りがけに誰かと会いませんでしたか?」
「いや、何かあったのか?」
「いえいえ、また社の呑兵衛たちと、もしかしたら出会い頭にガチャンと」
「あはは、いや、昨夜は幸いになかったよ。俺も相当酔ってたから、気づかなかったのかもしれないけどな。それに時間も時間だったし、通りに出て少し歩いてからタクシー拾ったからな」
「そうでしたか、それは幸いでした。あ、課長すみません。これで……、ありがとうございました」
「お、じゃあ、またな」
課長は野田と高津とは遭遇しなかったようである。野田係長と高津は少し前に早川に朝の挨拶をして席に着いていた。普段と変わらない様子である。
早川は、昨夜の岩田課長のゴシップ話を含めて、今後のスケジュールを簡単にまとめておこうと思った。部長にも中間報告をしておく必要もある。
パソコンのワードやエクセルを使って文書作成しても良いが、アナログな手書きメモのほうが安全である。
A4用紙に次のようにメモ書きした。
野田係長(元設計二課)
→ 羽振りが良い。毎晩のように飲み歩いている。
→ 田部井と恋愛中?
高津良太(野田班、元設計二課)
→ 愛知県豊橋市の女性と遠恋中?
田部井千鶴と浅田香織は友人関係
深夜、新宿の歌舞伎町で野田と高津を目撃
◎調べること
野田の家族を含めた身辺調査
→ 羽振りが良いのが気にかかる
出来れば愛知県豊橋市の女性の身辺調査
◇部長への中間報告
◇メールチェック(夜)
→ 係長 石川達郎、野田恵一、田崎淳司
→ 安浦一郎、高津良太、浅田香織
●木曜日の予定
◇電算課の吉田主任と打ち合わせ 16時30分
・変更および確認事項
・テストを一日早めてもらう(来週木→来週水)
・私書箱の文面は印刷不可、保存不可にする
・アクセスを二段構えにする。
・稼働する時間帯
→来週木曜日の15時00分~16時00分とする。
◇送別会 19時~
・社内恋愛、社外恋愛などのゴシップ情報収集
◇CT00とサーバーにプログラムインストール
→ 動作確認 15時00分~17時00分
●来週木曜日の予定
◇C&T内ミーティング 9時30分~10時30分
(会議で指示する主な内容)
◇部長指示による方針変更
・A、B二案(素案)の作成
Aは従来通り
新規にB案を作成する
部長指示に基づきA、Bの二案を効率よく作業する。
→ グループ分けする(席の移動はしない)
Aグループ
→ 野田係長、安浦一郎、高津良太、浅田香織他
Bグループ
→ A以外のスタッフ 計十三名
・A、B二案の審査
→ どちらにするかを役員会で決定する
・B案については部長から緊急マル秘指示あり
・緊急マル秘指示はホームページの私書箱に掲載
→ C&T社員全員はこれを各自確認しておくこと
・会社のウェブサイト
→ 私書箱閲覧用のリンク画像や文字表示なし。
→ 直接アドレスを打ち込む
・早川のパソコン
→ 別ページを閲覧する為のアドレスを確認する事
・早川のPCと私書箱を閲覧用のパスワードを発行
Aはグループ共通のパスワード(野田係長に発行)
Bは各人に発行(各自早川より個別に発行)
・緊急マル秘情報を閲覧出来る時間帯
→ 本日(木)15時00分~16時00分
◇正規プログラム作動開始
→ 木曜日 15時00分~16時00分
◇閲覧者一覧の抽出(CSV)
→ 電算課の協力を仰ぐ。
・出来れば部長立会い
・内部不審者のチェック
・外部不審者のチェック
・内部不審者が存在した場合の対処
・外部不審者が存在した場合のの対策
◇情報漏洩に関する社内事項の解除
・グループ解除
・B案による正規作業の開始
・私書箱の削除
・サーバーのプログラムは削除
・PCのプログラムは今後の安全を期す為に存続
(パスワード管理)
→ ごく普通の文章とする。(目的は別にある)
タイトル→国際設計コンペに関する緊急マル秘文書
内容
この度の国際設計コンペに関しては日夜努力していただいている由、責任者として諸君の労に対して心から感謝しております。
ご存じのとおり、このコンペは我が社にとっても極めて重要な活動の一つであります。設計図書の提出まで残された時間はそう多くはありません。
従いましてリーダーの指示に従い、皆さんが一丸となって初期の目的を達成出来るよう頑張ってください。
別ページに今回の設計コンペの最終の基本素案を掲示してあります。スタッフの皆さんは全員目を通して、設計指針ならびに方向性について
確認・把握しておいてください。
別ページへのアドレスはリーダーのパソコンに表示されています。表示されているアドレスをコピペして別ページにアクセスしてください。
尚この最終の基本素案は社外秘の重要情報です。取り扱いにはくれぐれもご注意をお願いします。
以上 建設事業本部長 郷田徳三郎
●秘書箱の内容(基本設計素案)
◇設計概要 → でたらめな内容 → 作成済
◇現在進行中の素案の左右・上下反転図面
◇寸法線・文字等の編集 → 編集済
早川はメモをじっくりと確認して、内線電話表から部長秘書の番号を確認し電話機のボタンを押した。
「林田秘書のデスクです」
「早川です」
「はい。ご用件をお伺いいたします」
「部長の今日の予定を知りたいのですが」
「部長は、昨日から関西方面に出張中です」
「あ、そうですか。いつお帰りですか?」
「本日の午前中にはお帰りになりますが、午後からは都内で会合があります」
「社にお帰りになるのは何時ごろでしょうか」
「十五時以降になると思います」
「そうですか、十五時以降ですね。申し訳ありませんが、お帰りになってからで結構なのですが、早川から電話があったとお伝え願えませんでしょうか?」
「かしこまりました。お伝えしておきます」
早川はもういっぺんメモ書きに目を通して、●秘書箱の内容(部長指示)と●秘書箱の内容(基本設計素案)の部分を切抜き手書きメモした。そして、受話器を耳に当て、電算課の吉田主任の番号をプッシュした。あいにく話し中だった。受話器を置いた。
暫らくして、浅田がコーヒーを入れてくれた。早川は、さっとメモ書きを内ポケットにしまい込んだ。
C&Tには女性は浅田一人である。スタッフにはお茶やコーヒーは自分で入れるように言ってあるが、リーダーには浅田がせっせとお茶やコーヒーを世話しているのである。
「いつもすまないね。忙しいのに」
浅田の好意に感謝した。
「いいえ、どういたしまして。これも私の仕事の内ですから」
浅田は微笑みながら返事した。浅田が早川に近づけるのはこんな機会しかなかった。
設計一課にいるときもそうではあったが、最近の早川の忙しさは、見ていても気の毒なくらいである。だから、立ち話も出来ない有様だった。
「元気かい?」
早川の言葉に嬉しそうである。
「ええ、元気よ。そうだ、今度木曜日に送別会があるでしょ?」
と、その時早川の電話が鳴った。早川は手で浅田を制して受話器を取った。
「はい。早川のデスクです」
「吉田です」
「お忙しいのにすみません。五分後にそちらにお伺いしたいのですが、いいですか? ちょっとお話ししたいことがあるんです。十分ぐらいで済むと思うんですが」
「ああ、大丈夫ですよ。お待ちしています」
受話器を置いて早川は浅田を見た。
「ん? 何?」
「今度木曜日に送別会があるでしょ?」
浅田には、早川の忙しさを邪魔しては悪いという気持ちが働いていた。
「ああ、だね。君も出るんだろ?」
「ええ、宴会が終わった後、お茶でもしない?」
浅田の声は周りを見ながら急に小さくなった。
早川はこの時、ある考えが頭をかすめた。早川も小さな声になった。
「ごめん。ここじゃまずいよ。後で電話するから、席で待っててくれないかな」
「そうですね。分りました。待っています」
浅田はしぶしぶ自分の席に戻った。
早川はポケットからメモ紙を取り出し、上から順に指をゆっくり滑らせて、今一度メモした内容を確認した。そして電算課に駆け上がった。
早川は電算課の応接間で吉田主任に、先日の打ち合わせ内容の変更をお願いした。
明日十六時半に確認の打ち合わせをすることになっているから、その時でもいいとは思ったが、プログラム作成上、こういうことはなるだけ早い方がいいだろうと判断した。
「いやあ、お忙しいところ申し訳ありません。少し変更していただきたいことが出てきましたから、明日より今日の方がいいと思いまして」
「そうですね、いま鋭意作成中ですので、早い方がありがたいです」
「助かります。大した変更ではないと思うのですが、次の四点をお願いしたいのですが」
早川は内ポケットからメモ用紙を取り出し、一つ一つ手で行を追いながら説明した。
吉田主任は手帳にメモしていった。
・テストを一日早めてもらう(来週木 → 来週水)
・私書箱の文面は印刷不可、保存不可にする
・アクセスを二段構えにする。
・稼働時間を来週木の15時00分~16時00分とする。
「可能でしょうか?」
吉田は暫らくメモした手帳を見ながらいった。
「アクセスを二段構えにする。これは?」
「ええ、私書箱に表示するこの内容をご覧いただきますと、お分かりかと思います」
早川は●秘書箱の内容(部長指示)と●秘書箱の内容(基本設計素案)の部分を切抜きしたメモを手渡した。
「さすが用意周到ですね」
と言いながらコピーに目を通した。
「良く分りました。土・日を返上してでも何とかします。心配ないですよ」
「いやあ、ありがたい。助かります。ありがとうございます」
「明日の十六時半は大丈夫ですか? 例の確認作業ですが。今打ち合わせしましたので、明日はそんなに時間はかからないと思います」
「はい、予定しています。よろしくお願いいたします」
「了解しました。じゃあ、その時また。お疲れ様でした」
早川は電算課を出て席に戻った。
浅田に電話しなければならない。受話器を取った。低い声になっていた。
「ごめん。何だったっけ?」
「今度の木曜日に送別会があるでしょ?」
「ああ、その話だったね」
「ええ、宴会が終わった後、お茶でもしない?」
浅田も低い声だ。
「ごめん。課長と飲みに行く約束しちゃったんだよ」
「またあ? この前も課長に邪魔されたばっかりなのに」
浅田はとても残念そうな声をした。
「あはは、ま、そう言うなよ、上司に誘われたら断れないことぐらい君も分ってるだろう?……お、そうだ。今夜はどうだ? 予定入ってる?」
「いいえ、何にも」
「久しぶりに食事でもしようか」
声を大きくして叫びたい気持ちだが出来ない。浅田は声を押し殺した。
「えっ、それほんと? ほんとなの?」
「うん、君にいろいろ聞きたいこともあるし。今夜いいかな? そうだな、今夜はちょっとやることがあるけど、二十時ごろ例の喫茶店で待っててくれる? それから食事に行こう」
「でも、今日は水曜日だから残業ゼロの日よ。なのに残業するの?」
「ちょっとやらなければならないことがあってな、これから許可をもらいに行く予定なんだ」
「分りました。待ってます。……いつかみたいに、仕事で行けなくなった、なんてことにはならないわよね」
「今夜はそれはない。じゃあ、そういうことで、いいな」
「あ、早川さん、お昼はどうなさるの?」
「社員食堂で適当に済ますかな」
「今日は久しぶりに三人でランチする予定なの。一緒に行かない?」
「三人て? 誰と一緒なんだ?」
「ええ、ちーちゃんと京ちゃんの三人で行くことになってるの」
「ちーちゃんと京ちゃん?」
「千鶴さんと京子さん」
「千鶴さんと京子さん?」
「あは、田部井さんと島田さんのことよ」
田部井も一緒と聞いて、一瞬その気になったが、別な気がその考えを打ち消した。
「女三人寄れば何とやら、俺はちょっと苦手だな。今日は遠慮するよ」
「まあ、大人しい淑女に対して何てことを」
「あはは、ごめん、ごめん」
「でも、気持ちも分るわ。どうせ木曜日の晩に一緒するから、その時の楽しみね」
「だな。じゃあな」
「はい。今夜は楽しみに待ってます」
浅田は花畑を蝶が舞っているような心持だった。
午後になり、パソコンの作業状況のチェックや、私書箱に表示する基本設計素案のチェックに余念がなかった。そして、ポケットからメモ書きを取り出し入念に確認した。間違いは許されない。
A4用紙にびっしり書かれたメモは、まさに、社内情報を外部に漏洩させた社員を割り出す、とても大事な処方箋である。部長が何と言うかは分らないが、今考えられる最善の方法と自信はあった。
早川はメモ書き全体をもう一部そっくりメモして、胸のポケットに収めた。一部は部長に手渡すためである。
十五時になり浅田がまたコーヒーを入れてくれた。浅田は嬉しそうである。コーヒーを早川のデスク隅に置きながら話しかけてきた。幸い、デスクの周りにはスタッフはいなかった。喫煙室や休憩室に居るらしかった。
「ランチタイムは、早川さんの話でもちきりでしたよ。相変わらず人気者ね」
「あは、酒の肴っていうのはあるけど、ランチの肴っていうのもあるのかな? どうせ、ろくでもない話だろうよ?」
「ううん、みんな憧れてるみたいよ。早川さんに」
「あは、ありがたいね。憎まれるよりはいいよね。ところで、田部井君と島田君とは仲がいいのかい?」
「ええ、島田さんとは同期生ということもあって、気心が知れてるから何でも話せるのね。田部井さんとは最近急速に親しくなって、良くランチやカラオケなんかに行くのよ」
「そうなんだ。二人とも恋人いるんだろ?」
「あら、まあ、もし居なかったら声かけるつもりなんじゃない?」
「あは、そんなこと言われたら、話が途切れてしまいそうだよ」
「だって」
「あはは、やめてくれよ。俺は今それどころじゃないよ。分ってるくせに」
「そうよね、この私にすら心を開かない人ですものね。それに、ほんとに忙しい人だから、それどころじゃないわよね」
「だな、一段落するまでは、何にも出来ないし、する気にもなれないよ」
「そうかもね、分るわ」
「やっぱり恋人は社内の人なのかなあ」
早川はそれとなく探りを入れてみた。
「島田さんは、ついこの間まで付き合ってた人がいたみたいだけど、別れたみたい」
「社内恋愛だったのか?」
「ううん、社外の人。証券会社の人だとか言ってた」
「そうなんだ。田部井君も社外の人?」
その時デスクの電話が鳴った。
「はい。早川のデスクです」
「郷田だが」
「あ、部長お疲れ様です」
「まだ会議中でいま休憩時間なんだが、林田君に電話したら、君に連絡して欲しいということだったが」
「あ、すみません。いえ、これまでの進捗状況の中間報告をと思いまして」
「お、そうか、聞きたいね。そうだな、遅くとも十六時過ぎには社に帰れると思うが、……お、……君」
「あ、はい?」
「こちらに出向いてくれないか? もう一つ行かなければならない所があるんだよ、十七時までに」
「分りました、今どちらですか?」
「麻布十番だ。麻布十番の駅前に、グランタンというホテルがあるから、そこのロビーで十六時でどうだ? 間に合うだろ?」
早川はちらっと時計を見た。
「はい、充分間に合うと思います」
「じゃあ、そこで十六時な、すまんが頼むわ」
「かしこまりました。失礼します」
早川は壁のデジタル時計をじっと見て、自分の腕時計も見た。
「麻布十番まで何分ぐらいだっけ?」
「乗ってから十五分から二十分ぐらいじゃないかしら。だから、三十分は見ておいた方がいいかも」
「そうだな、ありがとう、話の続きは、今夜の食事の時でも聞こうか」
「そうね、却ってその方がいいかも、いろいろあるから」
「いろいろ?」
「ええ、いろいろとね込み入った話」
「そうか、分った、じゃそういうことで行ってくる」
「いってらっしゃい。気をつけて」
早川は胸のポケットのメモ書きを確認し、押さえながら飛ぶようにして、ドアを開けて出ていってしまった。浅田は電話のやり取りを目の前で聞いていて、理由もなく胸が痛くなった。こんなに忙しく働いて、身体大丈夫かしらと思ってしまった。
四時十分前に麻布十番駅に着いた。回転ドアを押して、ホテルのロビーに入りキョロキョロして部長を探した。部長はまだ到着していないようである。ホッとして一番奥のソファに腰を下ろした。自然と手が内ポケットに伸びた。取り出してもう一度メモを目で追った。
「やあ、遅くなったな」
と言いながら、郷田部長が早川の前のソファに腰を下ろした。手にはバッグがあった。早川は起立して頭を下げた。
「お疲れ様です」
「忙しいのに呼び出してすまんな、十七時までに行かなければならない用事が出来てしまってな」
ほどなく、ブルーの制服を着た女子が、コーヒーを二つ運んできてテーブルに置いた。席に着く前に部長が注文しておいたに違いない。
「早速ご報告いたします」
「ま、コーヒーを飲んでからにしよう」
郷田がコーヒーを口に運んだ。
「はい、いただきます」
早川は部長に会釈しながら、コーヒーカップを持ち上げた。
「いい成果がでそうかい?」
「はい、今いろいろやっている最中なのですが、一応今日までの分と、これからの具体的なスケジュールをご覧いただいて、アドバイスをいただけないかと思い、急にお電話してしまいました。申し訳ありません」
「私も気になっていたから、一刻も早く知りたいと思っていたんだ。構わんよ」
「時間はどの程度ございますか?」
「そうだな、此処を十六時半には出ないと間に合わないと思う」
「はい、じゃ早速お願いいたします。これにまとめてあります。やや走り書きしましたから、見にくいところもあるかもしれませんが」
早川は胸のポケットから四枚の用紙を取り出して、二枚を部長に手渡した。
「この中で、木曜日の予定の吉田主任との打ち合わせは、先ほど済ませました。明日の木曜日はただ、再確認だけになる思います」
部長は頷きながら黙ってメモを目で追った。二枚の用紙にびっしり書き込まれたメモを、繰り返し何回も目を通した。
「昨日(火)の成果(気になること)とあるが、この情報源は誰だ? 誰から聞いたのだ?」
「設計一課の岩田課長からです。深夜、新宿の歌舞伎町で野田と高津が一緒のところを目撃とありますが、これは私が実際に目撃しています」
「岩田課長の話は信憑性があるのか? 多少浮ついた軽いところがあるからな、あの課長には」
「はい。事実かどうか、今週いっぱいで裏付けを取るつもりです」
早川は明日と明後日の浅田との食事、送別会の機会をとらえて裏付けを取り、事実を確認するつもりである。
「出来れば愛知県豊橋市の女性の身辺調査とあるが、今の段階では、その必要はないような気がするがな」
「分りました。取り止めます」
早川はメモ書きに取り消し線を横に走らせた。
部長はさらに熱心にメモ書きを追った。
「内部不審者が存在した場合の対処とあるが? これはどういう意味だ?」
「はい。不審者が、実際に社内情報を外部に漏洩させた社員であると確定した場合、本人の処分は会社で決めることですのでいいのですが、管理者である私の責は免れません。そのような事態になりましたら、進退伺を提出しようと考えております」
「……」
郷田は早川がそこまで考えていたことに驚いた。いや、早川という男はそんな男だということは郷田が一番知っていた。
「そうしませんと、社内のけじめがつきません。当然なことと考えております。解雇も覚悟しております」
C&Tの人選は郷田と人事部が執り行った。当初、早川の意見も聞いたほうがいいのでという郷田の意見を、人事部長が賛成しなかったいきさつがある。今思うと、強引に意見を押し通すべきだったと反省した。目の前の早川の後に引かない性格を考えると、事の成り行き次第では、事態が郷田の思わぬ方向に行きかねない。困ったことになる。それだけは阻止しなければ。
「そうか、分った」
部長は早川の顔をじっと見たあと、用紙の上を指を滑らせながら熱心にメモ書きを追った。
「先日の私との打ち合わせから、多少変更もあるようだな」
「申し訳ありません。いろいろ考えてそのようになりました。まずいところは改めます」
「いや、このままでいいようだな」
「ありがとうございます。この中で、部長の指示文書はC&Tの社員全員が閲覧いたします。ですから、部長の立場を損なうようなことがあるといけませんので、じっくりご覧いただきたいのですが」
「そうだな、文章そのものはいいと思うが、私の名前は出さないほうがいいんじゃないか? 建設事業本部長だけでいいよ」
「かしこまりました。そのように訂正いたします」
早川は、部長名のところに取り消し線を入れた。
郷田は腕時計を見た。
「早川君すまん、このメモ書き預からしてくれないか? もう少し時間かけてチェックしたいのだ。いいだろ?」
「もちろんです。そうしていただいた方が私も心強いです。よろしくお願いします」
「明日連絡する。時間かけてじっくり打ち合わせしよう。もしかしたら、例の調査も届いているかもしれないからな」
「はい。かしこまりました」
「急がせてすまなかったな。ご苦労さん。時間がないから、じゃな」
郷田はメモ書きをバッグにしまい込みながら言った。コーヒーはまだ半分残っていた。
「はい、いってらっしゃいませ。お疲れ様です」
郷田は、玄関ドアまで送ろうとする早川を制して言った。
「ま、コーヒーをゆっくり飲んでから社に帰るといいよ」
「すみません。お言葉に甘えさせていただきます」
早川は郷田に深々と頭を下げた。郷田はいそいそと出ていき、玄関の回転ドアの先に待機していた黒い高級車に乗り込んだ。
社に帰って早川は、電算課の吉田主任に、私書箱の指示文書の中の部長の名前を削除するように連絡しておいた。
晩秋の夕暮は早い。十七時ともなると、窓から見える夕景は、少しづつネオンの点灯を促し夜のとばりを誘っている。部下が一人また一人と早川のデスクの前に来て挨拶して退社していった。水曜日は残業ゼロの日となっている。定刻十七時過ぎには全社員退社しなければならない。
「朝も聞いたけど、ほんとにこれからお仕事なの?」
浅田がデスクの前に立っていた。
「おっ、お疲れ、うん、許可を取ってるから大丈夫」
「そう、毎日大変ね」
「ま、これが俺の仕事だから」
「でも、身体大丈夫?」
「あはは、大丈夫だよ、こんな丈夫な子を産んでくれた親に感謝しなくっちゃな」
「でも、過信は禁物よ。突然死なんてこともよくあるみたいだし」
「おいおい、殺すなよ。まだやることが山ほどあるんだから」
「ふふ、相変わらずね。じゃ失礼します。今夜は楽しみにしています。二十時に待ってます」
「すまんな。……二十時までどうするんだ?」
「友達と適当に時間つぶすつもり」
「ご苦労さん。気をつけてな。道端なんかで痴漢に襲われないようにな」
「あら、心配して下さるの?」
「だってC&T者紅一点だし、君が妙な風になっても困るからな」
「なーんだそんなこと、ありがとうございます」
「あはは、そうふて腐れるなよ」
「じゃ、これで失礼します」
「あ、ちょっと待って、コーヒーはまだ飲めるかな」
「はい。今日は飲めるようにしてあります。入れてきましょうか?」
「いや、今はいい。後でいただく」
「はい、何杯でもどうぞ」
「ありがとう、さすが気が利くなあ」
「じゃ、これで、頑張ってください。あまり無理しないでね。失礼します」
浅田は一礼して退社した。
全スタッフが退社し、ガラーンとした中で早川はコーヒー飲みながら考えた。
これから自分がやろうとしていることは何なんだろうか。全幅の信頼を寄せているつもりの自分の部下を、こともあろうことか、疑惑という名のもとに取り調べていかなければならないとは、誠に以て辛いことである。
何でもないような顔して、本人が知らないところで、そんなことがなされていたとしたら……。ああ、俺は何てことをしようとしているんだ。いっそのこと、何の疑惑もなかったようにしてしまおうか。その手もあるし出来ないことはない。だが、今更一歩も引けないところまで事態は進んでしまっている。
事が事だけにという真正面に、絶対に許してはならない正義が対座している。その正義が信頼を突き崩そうとしているのだ。チラっチラっと見え隠れする悪の事実から逃げてしまっては、正義に笑われてしまう。真の事実を事実として明らかにすることこそが全てを解決することにつながり、将来に禍根を残さないことになるのではないのか。吉と出るか凶と出るかは神のみぞ知る。こうなったら、やるだけやって天命を待つ。よっしゃ止むを得まい。決まった。
入り口のドアが開いて守衛が声を掛けてきた。
「今夜は遅くなりますか?」
「ええ、少し遅くなります。面倒掛けますが、よろしく」
「分りました。ご苦労様です」
守衛は敬礼をして階下に下りて行った。
コーヒーをゆっくりと味わった。そして、これからやろうとしていることが徒労に終わることを祈った。
五時半になって早川は一部の照明を消した。間引きされた照明で部屋が薄暗くなった。そして、安浦一郎、高津良太、浅田香織、石川達郎、野田恵一、田崎淳司の各PCブースに足を運び、それぞれのPCの電源を入れた。立上りに何分か掛る。一斉に立ち上げておいた方がチェックが短時間に済む。立上りが完了した順に、社で独自に開発したメールシステムを開いた。
安浦のPCから順にチェックに入った。
左側の受信フォルダを一つずつ注意深く開いて目で追った。各受信フォルダごとに相当量のメールがある。社内メールと外部からのメールもある。
フォルダ名と並び順は予め社内で統一されている。もちろんこれとは別枠で、フリーの受信フォルダとして三個までは各自で設定出来るようにもなっている。一番上に差出人、件名、受信日時、サイズ、分類項目などが横に並んでいる。これも社内統一項目である。
自動振り分け機能で、どの人からのメールはどのフォルダにと、自動的に振り分けられるシステムになっている。ほとんどは、上司から社員への指示メールであるが、時々イベント情報やマスコミに取り上げられた情報などもある。
フリーフォルダへの振り分けも、別枠で各自出来るようになっている。但し、フリーフォルダの業務用以外の利用は厳に禁止されている。月末になると総務課による定期チェックが行われる。社のルールに違反していないかどうかの確認作業である。その為、私的に利用するなどの違反をしている者は、月末近くになるとフォルダごと削除してしまうのである。今夜の早川のチェックはいわば抜き打ち検査みたいなことになる訳である。
受信フォルダ名の並び順はシステムで決められている。各フォルダ内に格納されている件名は、やろうと思えば自由に他のフォルダに移動することが出来るようになっている。ただそれをした場合、特殊なマークが件名の頭に自動的についてしまう為、ほとんどがやりたがらない。
早川が注目したのは、フリーの受信フォルダそのものが設定してあるかどうかである。あれば各フォルダの中身がどういう内容になっているを知りたかった。さらに注目したのは送信済アイテムの中身である。宛先が社内外を問わず送信記録は重要なチェック項目である。
早川は浅田との約束もあり出来るだけ短時間に終わらせたかった。そこで効率よくチェックするために、受信フォルダ名と移動された件名を中心にチェックして他は飛ばした。特にフリーに設定した受信フォルダ名があれば、その内容について注意深くチェックした。最後に送信済アイテムフォルダに目を通した。疑わしいことは何も出ないでくれと祈りつつ、早川は一台づつじっくりチェックした。社で決められたメールシステムだから、チェックにはさほど時間はかからないだろうと思っていたが、一台を終了するのに思わぬ時間を要してしまった。
疑わしい結果が出るとすれば野田係長と高津良太そして安浦一郎の三人と考えられる。安浦については岩田課長からは何もなかったが、呑兵衛ということが単純に引っかかってしまった。呑兵衛というだけで怪しむのかよ、コラッ、と言われそうだが、悪いけど調べさせてもらうよ。
正規の受信フォルダの中で、件名が移動された形跡はほとんどなかった。しかし、この三人のみがフリーの受信フォルダを設定していた。早川は少し胸が高鳴った。それでも何も出ないでくれと祈った。
係長の野田恵一は三個のフリーの受信フォルダを作っていた。フォルダ名は上から順に次のようなタイトルだった。
◆【桶と樽の狭間】
◆【Iebat】
◆【ハグレタカ】
何だこれは。ふざけて作ったに違いない。
①【桶と樽の狭間】を開いてみた。
- 件名の欄に、アルファベットのKとだけ書かれた行が三行、下の方から日付順に並んでいる。
- 受信日時は最近の日付になっている。
- 一番上のKをクリックした。
- 差出人が会社のドメインとは違っている。
- これは明らかに外部からのメールである。
- ttarimatu@xyz.ab.comとある。
- 宛先はct-knoda@kanthy.co.jpだから、野田係長のメルアドになっている。
- 件名とメッセージ欄は、共にKになっている。
②【Iebat】を開いてみた。
- 件名の欄にアルファベットのSとだけ書かれた行が一行のみである。
- 受信日は昨日になっている。
- 差出人のドメインが、会社のドメインと同じkanthy.co.jpである。社内からのメールであることが分る。
- s1-ctabei@kanthy.co.jpとある。設計一課所属の田部井千鶴からのメールである。
- 宛先はct-knoda@kanthy.co.jpだから、野田係長のメルアドになっている。
- 件名とメッセージ欄は、共にSになっている。
③最後の【ハグレタカ】を開いた。
- 件名の欄にRとIとだけ書かれた行がランダムに数行並んでいた。
- 受信日は最近の日付になっている。
- Rをクリックした。
- 差出人のドメインが、会社のドメインと同じkanthy.co.jpである。
- 社内からのメールであることが分る。
- ct-rtakatu@kanthy.co.jpとある。C&T所属の高津良太からのメールである。
- 宛先はct-knoda@kanthy.co.jpだから、野田係長のメルアドになっている。
- 件名とメッセージ欄は共にRになっている。
- Iをクリックした。
- 差出人のドメインが会社のドメインと同じkanthy.co.jpである。
- 社内からのメールであることが分る。
- ct-iyasuura@kanthy.co.jpとある。C&T所属の安浦一郎からのメールである。
- 宛先はct-knoda@kanthy.co.jpだから、野田係長のメルアドになっている。
- 件名とメッセージ欄は共にIになっている。
メッセージ欄が、何故件名と同じ文字になっているのか。理解し難い内容で意味がさっぱり分からない。ごく最近のメールしかないということは、過去のものは削除したものと思われる。
早川は時計を見ながら念のため全てを印刷した。
最後に送信済アイテムフォルダを開いた。ざっと十行程度の件数である。それ以外はおそらく削除したものと思われる。これも全てを印刷した。
高津良太は二個のフリーのフォルダを作っていた。フォルダ名は上から順に次のようなタイトルだった。
◆【酒井忠次】
◆【田の神様】
何だこれは。これも、ふざけて作ったに違いない。
①【酒井忠次】を開いてみた。
- 件名の欄に、アルファベットのKとだけ書かれた行が二行、下の方から日付順に並んでいる。
- 受信日時は最近の日付になっている。野田の場合とほぼ同じである。
- 件名の欄のKをクリックした。
- 差出人が会社のドメインとは違っている。
- これも明らかに外部からのメールである。
- hmano@ab.xyz.jpとある。
- 宛先はct-rtakatu@kanthy.co.jpだから、高津良太のメルアドになっている。
- 件名とメッセージ欄は、共にKになっている。
②【田の神様】を開いてみた。
- 件名の欄に、アルファベットと数字のG1・G2・
G3とだけ書かれた行が、ランダムに数行並んでいる。 - 受信日時は最近の日付になっている。
- G1をクリックした。
- 差出人のドメインが、会社のドメインと同じkanthy.co.jpである。
- 社内からのメールであることが分る。
- ct-knoda@kanthy.co.jpとある。C&T所属の野田係長からのメールである。
- 宛先はct-rtakatu@kanthy.co.jpだから、高津良太のメルアドになっている。
- 件名とメッセージ欄は共にG1になっている。
G2・G3も全く同じ内容だった。野田の場合と同じように、メッセージ欄が、何故件名と同じ文字になっているのか。理解し難い内容で意味がさっぱり分からない。ごく最近のメールしかないということは過去のものは削除したものと思われる。
早川は念のため全てを印刷した。
最後に送信済アイテムフォルダを開いた。数行程度の件数である。それ以外はおそらく削除したものと思われる。これも全てを印刷した。
安浦一郎は一個のフリーのフォルダを作っていた。フォルダ名は次のようなタイトルだった。
◆【Ichimeg】
訳の分からない横文字である。
①【Ichimeg】を開いてみた。
- 件名の欄に、アルファベットとカタカナのGa・
Gb・Gcとだけ書かれた行がランダムに数行並んでいる。 - 受信日時は最近の日付になっている。
Ga・Gb・Gcのそれぞれをクリックしても、野田係長や高津と同じような結果であった。
早川は念のためこれも印刷した。
最後に送信済アイテムフォルダを開いた。数行程度の件数である。それ以外はおそらく削除したものと思われる。時計を見ながら、これも全てを印刷した。
全て完了するのに、ざっと二時間と少しかかってしまった。各パソコンの電源を切り部屋の照明を落とし、守衛室に声を掛けて外に出た時は十九時五十分を回っていた。さすがに疲労感が全身を襲った。目がショボショボしていて、完全にドライアイの状態のようである。浅田との待ち合わせ場所に急いだ。
「いらっしゃいませ」
店員の声で浅田は入り口付近を目で追い、疲れたような顔の早川を確認した。ほほ笑みながら手を振って、ここよ、と合図した。ビジネスバッグを持った片手が重たそうだった。
「ご苦労様。まあ、とっても疲れたような顔よ。大丈夫?」
テーブルにはミルクティーが置かれていた。少し早目についていたと見えて、カップの液体は残り少なかった。
「うん。今日はさすがに疲れたなあ」
「いらっしゃいませ。何になさいますか?」
店員が早川におしぼりを渡しながら注文を聞いた。
「同じでいいや。熱くしてくれる?」
「はい。かしこまりました。暫らくお待ちくださいませ」
店員が去るのを待っていたかのように浅田が話しかけてきた。
「ほんとに大丈夫? 今日は早く帰ったら?」
「あは、大丈夫だよ。食事をしたら元気になるさ」
「だといいけど。お腹空いたでしょう?」
「うん、もうペコペコだよ。もう少ししたら出ようか? それとも、ここで軽くやる?」
「ここは、じっくりお話出来そうもないから、やっぱり別なところがいいわ」
「だな。そうしよう」
早川は、店員が持ってきた熱い紅茶にミルクを多めに入れ、スプーンでかき混ぜながら浅田の顔を見た。
「最近一段と綺麗になったみたいだな。恋人でも出来たのかい? 女は恋をすると綺麗になるって言うからなあ」
「ありがとう。そうよ、私ね今恋してるの」
「おっほー、それはいい話だ。後でゆっくりご馳走になろうかな」
早川は、多めのミルクで適度な温かさになったミルクティーを、一気に口に注ぎ込んだ。
「まあ、はしたない」
「あは、令嬢の前でごめん、……さ、もう行こうか」
「ふふ、相変わらずね、思い立ったらすぐ行動するんだから。行きましょ、行きましょ」
ルミネの角を左に曲がり、新宿駅の西口方面を歩いた。ほどなく雰囲気の良さそうなレストランに入った。
客の入りは結構多く、真ん中あたりと左奥のテーブルだけが空いていた。右奥のカウンターには、四、五人程度が掛けられる円形の椅子がカウンターに沿って並んでいて、アベック風の男女が楽しげに会話している。
アンティーク調のテーブルとチェアが十二セット程度整然と並んでいる。セットとセットの仕切りには、これもアンティーク調のフラワーケースがあり、ケース一杯に緑が生き生きと雰囲気をかもし出している。
壁の上隅からは茶褐色の大きな梁が伸びていて、店の中央付近で組子を形成していた。さらに上部の天井には、勾配のついた小幅板が船底を形作り、全体に黒く塗られていた。円形の埋め込み照明が、橙色の薄明かりに調光されていた。
通路の上部には、観葉植物が組子の梁に結び付けられた茶色の細縄によって品良くぶら下がっている。
台形の出窓が三カ所ある。出窓のガラスは格子状の枠に収められている。薄茶色のフリルのカーテンが粋である。出窓の天井のダウンライトが、膳板の上に置かれた観葉植物を浮き上がらせていた。かすかに聞こえる軽音楽が心地よい。
二人は空いている左奥のテーブルの硬い椅子に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ」
店員が、メニューを二人の前に置いていった。
「何にする? 好きなものたくさん食べていいよ」
早川は浅田の目を見ていった。
「ふふ、私を太らせるつもり? その手には乗らないわよ」
「あは、君はスタイルがいいから、たくさん食べても大丈夫だよ」
「変な理屈ね。じゃ遠慮なくいただくわ。サンドイッチとコーヒーにします」
「えっ、それだけでいいのか?」
「ええ、後で久しぶりにデザートをいただきます」
「うん、俺は、えーとな……、随分とお腹が空いてるから、チキン南蛮とご飯とコーヒーと後でデザート」
「たったそれだけ? お腹空いてるんでしょう? もっと頼んだら?」
「ふふ、私を太らせるつもり? その手には乗らないわよ」
「あは、私のセリフをそのままパクってる」
料理を注文して、二人はおしぼりを手にした。
「ずいぶんと久しぶりだったな、君とこうして食事するのも」
「そうね、もう遠い遠い昔のことみたいに感ずるわ」
「うん、だな。忙しすぎてそれどころじゃないしなぁー」
「そうね、でも忙しくなくったって、どうせ逢ってくれないでしょうからね」
「さっき、恋人がいるって言ってたけど、ほんとなのか?」
「ええ、ほんとよ、気になる?」
「いや、君は綺麗でスタイルもいいし、性格も明るく、あまり細かいことにくよくよしないし、それに何といっても賢くて気の利く人だから、いくらでも男性から声がかかると思ってるよ」
浅田は、早川が自分のことをよく観察していてくれていることが凄く嬉しかった。
「買い被りです」
「いや、ほんとにそう思ってるよ。だから、恋人の一人や二人いたってちっともおかしくないよ」
「恋人は一人で沢山です。私はどちらかというと一途な方ですから」
「あは、だな。二人も相手してたら身が持たないしな」
「身は持つかもしれないけど、心が許さないわ」
「誰かが言ってたなあ、君のことを社で五本の指に入るって」
「あら、三本じゃないの?」
「いや、俺はナンバーワンと思ってるけどな」
「うまいわねェー、お世辞が。その気もないくせに」
「あ、それと、これも聞いた話だけど、君のことをとても気にしている奴がいるんだってよ」
「分ってるわ」
「えっ、気付いてるのか?」
「ええ、以心伝心ってやつよ」
「誰? 以心伝心してる相手は」
「宮下さんもその一人ね?」
「えっ、宮下君以外もいるのか?」
「そうね、他に三人ぐらいかしら」
「ほー、凄いね。そんなにいるんだ」
「何となくだけど、そんな感じがするのね」
「ほー、分るんだ、以心伝心ってすごいなあ。凄いパワーだな」
「ふふふ」
「以心伝心ってさ、その正体は何なんだろうな。思ってることが、何かを媒体して相手に伝わる訳だろう?」
「そうよね、不思議だわね。思いの熱波が空気振動で伝わる?」
「そうかなあ、俺は違うと思うよ。多分目線パワーじゃないかなあ」
「目線パワー?」
「うん、赤い糸ならず、目から発せられる赤とか青のビーム光線」
「まるで、アニメ映画ね」
「好きな人をじっと見つめていたい。何かの拍子にその目線を感じてしまう。一度感じてしまうと知らず知らずのうちに、いつも見られているような気がする。そして、この人は私に好意を抱いている、と思うようになる。……こういうことじゃないかなあ」
「そうかも。心で以て心を伝えるじゃなくて、以眼伝眼? 眼で以て眼で伝える。目は口ほどにものを言うじゃない?」
「あは、いずれにしても、目に見えない思いの光線が当たってるって感じだな」
「そうね。ほんと不思議だわね」
「で、どうなの? 宮下君のことどう思ってるんだ?」
「お話しするまでもないわよ。全然好きなタイプじゃないわ」
「ほかの人は?」
「同じよ。全然興味ない」
「へー、そうなんだ、でも、君のことを気にしてる奴はもっといると思うよ。何だかんだ言ったって五本の指に入るんだから」
「いーえ、三本ですっ」
この時、早川は電算課の吉田主任のことを思い出した。独身かどうかは聞いていないが、いい男だと思っている。社内情報の漏洩事案が解決したら、お礼に食事でも誘おうかと思っていた。そして今、ある考えが浮かんだ。
「あはは、あのさ、ちょっと聞きたいんだけどさ」
「ええ、なに?」
「電算課の吉田主任のこと知ってるかい?」
「ええ、知ってるわよ。とても素敵な人で社内の評判もいいみたいね。……あの人がどうかしたの?」
「彼は結婚してるのかな?」
「いえ、まだ独身よ」
「そう、そんなに人気があるんだ。……なるほどね。女性から見たら、恋人にしたい人なのかもな」
「それはそうよ、ちょっとしたイケメンだし頭脳明晰だし、将来の幹部候補生と、もっぱらの評判の人だもの」
「君も彼を恋人にしたい?」
「おあいにく様、私にはれっきとした恋人がいますから、ご遠慮申し上げます」
「あは、そうだったな。これはまた失礼しました」
「それに、吉田主任には、どの程度のお付き合いかは知らないけど、彼女がいるみたいよ」
「あ、そうか、やっぱりなァー。……社内恋愛?」
「いえ、社外の人みたい、なんでも銀行に勤めてるとか聞いたことある」
「そっかー、長い付き合いなのかなあ」
「そんなこと知らないわよ、本人に聞いてみたら? どうしたのよ随分気にしてるわね」
「いや、最近彼といろいろ付き合いだしたんだけど、今度近いうちに食事に誘おうと思っててさ」
「ええ」
「その時、良かったら君も一緒に食事出来たらいいなあ、と思ったもんだから」
「私も?」
「うん、駄目かなあ」
「だって、吉田主任のことは、話には聞いてはいるけど一度もお話したこともないし……、吉田主任んが迷惑がると思うけど……」
「いや、それはないと思う。実に懐の広い人だから逆に喜んでくれると思う」
「でも、どうして私なの? 二人で行ってきたらいいじゃない?」
「うん、そう思っていたんだけど、付き合いだしたのが最近だし、同じ食事するでも二人だけでするより、君がいるともっと楽しくなるし、会話が弾むと思うんだ。おそらく吉田主任もきっと喜んでくれると思ったもんだから。でも、嫌なら無理することもない、いいよ。……ちょっと思っただけだから」
早川は少しがっかりした。無理もない。急に話を振る自分が悪いのだから。
「ちょっと考えてみる。私がそうすることで、早川さんが喜んでくれるんなら、考える値打ちはあるわね」
「そっか、でも無理も言えないから、その時になったら、また相談するから一応考えといてくれるかな?」
「はい」
「これでまた楽しみが増えた。ありがたい」
「まだ行くとも何とも言ってないのに気が早いのねェー。がっかりすることになるかもよ」
「あはは、ま、当てにしないでいい返事を待ってるよ」
「はい」
「……ところで、君はどんな人が好みなんだ?」
浅田はよっぽど早川さんみたいな人と言いたかったが、癪に障るからわざと話をそらせた。
「そうね、まずはイケメンでしょ? 頭がよくてお金持ちで、やっぱり優しい人がいいな」
「贅沢言ってる。でも、イケメンてそんなに大事なことかなあ」
「毎日顔合すのに、ブ男よりましでしょう?」
「あはは、確かにね。イケメンの基準も人によりいろいろだと思うけど、なるほどな」
「何を感心してるの?」
「いやね、イケメンと付き合うと苦労すると思うんだよな」
「どうして?」
「イケメンだと女性にもてるだろう? そしたら浮気でもされたら大変だろう?」
「そんなことないと思うけど」
「いやいや、世の中その類の話ごまんとあるじゃないか。用心しておいた方がいいと思うよ」
「じゃあ、早川さんも浮気するタイプなの?」
「おいおい、俺のどこがイケメンだよ」
「答えてください」
「仮に俺がイケメンだとしてお答えいたします。……誓って申し上げます。俺の辞書には、浮気と言う言葉は載っていません」
「まあ、威張って」
「なるほどなあ、俺なんか金持ちでもないし頭も良くないし、ましてやイケメンて言う顔じゃないからなあ。女性にもてない筈だ」
早川は笑いながらいかにも残念そうな顔をした。
「まあ、随分とご謙遜なこと」
「……話変わるけど、君が今やってる仕事を、将来生かそうと思ってるのかな?」
「そうですね、今の仕事は、とても気に入ってるし好きだから、結婚しても続けられたら最高ですね」
「だよな、君はいい腕してるから、そういう方向で考えたほうがいいかもな」
「いい腕でしょう? 綺麗でしょう?」
浅田は自分の腕を捲し上げて言った。
「おや、初めて見たけど細いねェー」
「ふふ、足も見てみる?」
「いーえ、ご遠慮申し上げます」
二人はお腹を抱えて笑った。
「……ところで、早川さんが以心伝心を感じてる人は?」
「全然ないし考えた事もないよ。だって今は、残念ながらそれどころじゃないよ。仕事にどっぷりだから」
「身体の周辺に、女性陣の熱烈光線を防御するバリアでも張ってるんじゃなくて?」
「あはは」
「社内の女性陣の大半が、早川さんに好意を持ってるってこと、ご存じ?」
「あは、まさか、俺なんか対象外だよ。だって白状するけど、俺には大好きな恋人がいるんだよ」
浅田はびっくりした。いつ頃からか、もしかしたら、この人には恋人がいるような気がしない訳ではなかった。やっぱりそうだったのだ。目を白黒させた。ショックで言葉が出ない。
「……えっ、初めて聞いたけどほんとに恋人いるの?」
「うん、いるよ。毎日熱烈に愛してるよ。誰だか聞きたい?」
「会社の人なの?」
「もちろんだよ.。熱烈な社内恋愛」
「誰なの?」
「苗字が仕で名前が事という人。仕事君」
「コラッ、もう人をからかって」
「あは、ごめん、ごめん」
二人はくすくす笑った。丁度その時注文した料理が運ばれてきた。
「オー、来た来た。さ、いただこうか。美味しそうだなあ」
「美味しそうじゃなくて、美味しいですよ当店の料理は」
店員が笑いながらコップに水を注いだ。えくぼが可愛い。
「これは、失礼しました。じゃ美味しい料理をいただきましょう」
三人に笑いがこぼれた。可愛いえくぼが引き下がっていった。
「どう美味しい? そのサンドの味」
「ええ美味しいわよ、そちらは?」
「うん、まあまあだな」
「えっ、じゃあ、あんまり美味しくないの?」
「今はすごくお腹空いてるから美味しいけど、そうじゃなかったら、ま、そこそこじゃないかなあ」
「素直じゃないのね早川さんて」
「そうかなあ、思ってることをそのまま素直に言ったつもりだけど」
「そう言えばそうね、ふふ」
やっとお腹が満足したところにデザートが運ばれてきた。
「ところで今日、田部井君のことで、いろいろあるとか言ってたけど」
早川は浅田には悪いと思ったが、事が事だからという郷田部長の言葉を思い出しながら探りを入れた。
「あら、よく覚えてたわね」
「田部井君の話になった時、君の顔が少し曇っていたからね、気になっていたんだよ」
「そうなんだ。ありがとう。早川さんて相変わらず優しいのね」
「でも、話したくなかったらいいんだよ。ただ何となく話して見たかっただけだから」
浅田が話したがらなかったら、それでもいいと早川は思った。もし誰かが傷つくようだったら、無理して聞き出す必要はない。大体の想像はついている。
「ううん、いいの、実はね相談受けてるの」
「田部井君に?」
「ええ、そうよ」
「どんな相談?」
「この話、誰にも喋らないって約束してくれる? 友情を壊したくないの」
「友情が壊れるほどのことなのか?」
「ええ、場合によっては、彼女を傷つけてしまうかもしれないから、私そんなの嫌なの」
「うん、当然だよ。誰にも喋らないって約束はしてもいいけど、無理して話さなくてもいいんだよ。俺が聞いたところで、どうなるもんでもないだろうからな」
「そうね、彼女の私的な問題だからね。でも相談うけてる私も、どうしたらいいか悩んでるの」
「分った、今日は聞くのを止めよう。君たちの友情が壊れるようではいけないからな」
早川はほんとにそう思った。おそらく田部井の色恋の話に決まってるから、敢えて探りを入れる必要もないだろうと思い直した。
「そうね、やっぱり今日は止めとこうかな」
「うん、それがいいよ、それに俺に相談することを、田部井君に頼まれてる訳でもないしな」
「……実は、そうでもないのよ」
「えっ、どういうことだ? そうでもないのよって」
「早川さんにも関係ないことはないのよね、この話」
「おいおい、ほんとかよ、じゃあ、C&Tに関係してることなのか?」
「……」
「話しにくそうだな。無理することないよ。いずれ話したくなっってからでもいいんじゃないのか? 何だったら田部井君も交えて話し合ったらどうなんだ?」
その言葉に浅田は急に明るくなった。想像もしていなかったことだった。
「三人で話し合うの?」
「うん。そう。田部井君が良かったらの話だけどな」
「早川さんてやっぱり凄い人ね」
「あは、何でだ?」
「だって、全然考えもつかないようなことを言うんだもん」
「そうかなあ、三人集まれば文殊の知恵って言うぜ」
「女三人はかしましいけどね。……そうね、分ったわ、ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
「じゃあ、今日はこの話やめとくね。彼女にそれとなく話してみるね」
「その方がいいな。ほんとは明日の送別会の後でも良かったんだけどな」
「岩田課長と付き合うんでしょう?」
「そうなんだよ、多分そうなると思う」
「えっ、多分ということは、決まりじゃないの?」
「いや、一応決まってるけど、ほらあの課長のことだから、送別会で飲んだ勢いでどうなるか分らないところもあるからなあー」
「じゃあ、そうならないこともあり得る訳ね」
「だな。でも、C&Tのメンバーの送別会だから、どっちみち誘いは掛ると思うけどな」
「課長以外の人からの誘いだったら、疲れてるとか何とか言って断ったら?」
「そう言ってて、三人で会ってるところを誰かに見られたら、目も当てられないよさ」
「それもそうよね。早川リーダーは、嘘つきだとかいい加減だとか言われるわね」
「飲んだ上でのことだから、適当に言い訳は出来るけどな。偶然帰る途中で会ってしまって、しつっこく言われたからとか」
「うんうん、それがいいわね。そういうことにしましょう、……ねっ?」
「しかしなあ」
「そうしましょうよ、その時は三人でどこか行かない?」
「こういうのどうかなあ? おそらく送別会は七時からだから、二時間かかったとして九時にはお開きになるだろう?」
「そうね」
「課長でも誰でも誘いが掛ったら、その人たちと一旦お付き合いをして、一時間ぐらいしたら適当に理由をつけて抜け出してくる」
「ええ」
「だから、十時位になると思うけど、君達と何処かで合流するという手もあるよね。でも、十時からじゃ遅いかな……。うん。やっぱり駄目か」
「何言ってるんですか。十時はまだ宵の口よ。終電までには相当な時間があるわよ。へいちゃらよ」
「そうなのか? ……じゃあ、そうするかい? ……田部井君も大丈夫かなあ。ほら、家によっては門限があったりするだろう?」
「そうしましょう、そうしましょう、決まり。田部井さんも多分大丈夫よ。この前も遅くなったことがあるから」
「そっかー、じゃそうするか? ……だけど、君達も他の人達から誘われたらどうするつもりだ? 例えば男性達が、君たちと二次会やカラオケに行こう、と言って誘ってこないか?」
「きっぱり断ります」
「じゃあ、女性同士だったら?」
「その時は早川さんと同じ手を使うわ。田部井さんと二人で抜け出します」
「あ、なるほどな。 ……でも、親友の島田君がいるんだろ? 置いてけぶりにするのか?」
「そうだわね、それは島田さんに悪いわね。こういう場合いつも一緒に行動してるから、変に不審に思われるわね。それって嫌だなあ」
「島田君は、田部井君が君に相談している中身について知ってるのか?」
「ええ、知ってるわ。いつも三人で話してるから」
「それだったら簡単じゃないか。島田君も誘ったら?」
「あらそうね、そうだわ、それでもいいの?」
「いいさ、多い方が賑やかになるし、俺は両手に花どころか、両手と片足に花って感じだから大歓迎だよ」
「まあ呆れた。それが狙いだったりして」
「アハ、冗談だよ。で、さあ、この線で決行したとして十時に落ち合う場所は?」
早川は連絡用に、携帯の番号を教えてと言われるのが嫌だった。
「早川さんの知ってる所でいいわ。何処かある? スナック?」
「スナックで? 俺は下戸だから、飲んだ後のスナックは勘弁してくれよ。それに悩み相談だろう? 何処か気の利いた喫茶店とかは? 静かで、じっくり話の出来る所がいいんじゃないのか?」
「そうね、宴会で随分飲まされるでしょうしね。ええ、そうしましょう。その方が私もいいわ」
「よし、そうと決まったら、その線で決行しよう。落ち合う場所は君に任せるから、決まったら、お店の名前と場所と電話番号を教えてくれるかな? 明日でも」
「三人で話し合って決めるわ。……でも大丈夫かしら」
「何が?」
「だって、もしもよ、やっぱり課長と飲む羽目になった時に、あの課長のことでしょう? 途中でうまく抜け出せるかしら」
「うーん、そうなんだよなあ、飲むと強引でしつっこいところがあるからなあー、あの課長は。……自信ないなあ」
「じゃあ、課長から誘われないようにすればいい訳ね?」
「あは、そんなこと出来る訳ないよ。一応約束もしてるしな」
「ふふふ、出来るかもしれないわよ」
「えっ、どうやって?」
「課長を、二次会に行けないくらいに酔い潰したらいい訳でしょ? そしたら、早川さんを誘うどころじゃなくならない?」
「甘い甘い、あの課長の酒豪っぷりを知らないからそう言うんだよ。底なしだぜ」
「いーえ、底のない器はありません。必ずギャフンと言わせます」
「体の構造を知らないみたいだな」
「えっ、どういうこと?」
「例えば、お酒を例にとると、人間の身体は上の器と下の器の二重構造になっていて、上の器の底には小さな穴が開いてるんだよな」
「へェー、そうなの?」
「分り易く説明するとそうなんだよ。下の器の底は自動開閉式になっていて」
「自動開閉式?」
「そう、お酒のような液体を飲むと、まず上の器に溜まって行き、底の小さな穴を経て下の器に溜まって行くんだよ」
「ええ」
「下の器は脳と直結していて、器の液体が満杯になると脳に信号を送るんだよ。満杯になりましたよー、ってな」
「へェー、そうなんだ」
「そうすると、今度は脳から下の器に向かって信号が送られてくるんだよ。開けゴマー、ってな」
「開けゴマ?」
「うん、すると、底の自動開閉式の扉が開いて、液体がどっと吐き出されるんだよ。吐き出されたらまた自動的に閉まる」
「じゃあ、下の器の扉は閉じたり開いたりを繰り返している訳ね」
「そういうことだな。……ということは? ……底なしだろ?」
「あ、なるほど、どんなにお酒を飲んでも酔わないってことね」
「ところが、実はそうじゃないんだよ」
「えっ、どういうことなの? 分らない」
「うん、お酒には分り易く言うと、アルコール分と水分が混ざってると考えられるよな?」
「うんうん、そうかも。いやきっとそうね。小水をする時、アルコールの匂いがするもの」
「あは、だよな。水分は確かにさっきの説明の通りだけど、アルコール分は少し違うんだよ」
「ん?」
「アルコールには、人間の脳を麻痺させる成分が含まれてるのは知ってるだろ?」
「ええ、なんとなく」
「脳を麻痺させるってことは、単純に考えると脳の器に麻痺成分が溜まっていく。……イメージ出来るかい?」
「ええ、出来る出来る」
「この脳の器は底があるんだよな」
「やったー」
「あはは、……麻痺成分が器に満杯になると? ……どうなる?」
「脳が制御不能になりダウン?」
「その通りだよ。普通は滅多なことでは満杯になることはないけどな。……じゃあ、麻痺成分を最も早く満杯にする方法って知ってるか?」
「ちょっと待って、質問。……早川さんは、名うての下戸でしょう?」
「お陰様でね、それがどうしたんだ?」
「だって、お酒に下戸の人が、どうしてそんなことに詳しいのかなと思って」
「あはは、お酒に強いとか弱いとかは、身体がお酒をどこまで受け付けるかどうかだろう? 早い話」
「ええ、そうだわね」
「そのことと、お酒に関する知識とはまた別物だろ?」
「なるほど、そうだわね。綺麗じゃない女の人が美容方法に詳しいのと同じ?」
「あは、少し違うような気がするけど、ま、同じようなもんだな」
「で、その先は?」
「もう、話をへし折るんだから。……えーと、……あ、そうそう、麻痺成分を最も早く満杯にする方法だったな」
「ええ、でした、どうするの?」
浅田は、岩田課長を酔い潰す方法を頭に描いていた。
「例えば、ビールの麻痺成分と焼酎とかワインとかの麻痺成分は、厳密なことは自信ないけど、それぞれ微妙に違うんだよ」
「へェー、そうなんだ」
「例えば、ビールだけ飲んでると、同じ色の成分だから脳はにっこりして受け入れ続けてくれるけど、違う色の成分が変わりばんこに来たら困ってしまうんだよな。脳の中で喧嘩が始まって始末が悪くなって、いつもより早く完全麻痺してしまうんだよ。悪酔いはこのパターンだよな。簡単に分り易く言うと、そういうことじゃないかな」
「なるほどねェー。さっき私が言った、底のない器はありませんと言ったのを、底のない脳の器はありませんと言い直せばいい訳ね」
「そういうことだな」
「じゃあ、この手で必ずギャフンと言わせます」
「おいおい、頭が少しおかしくなったんじゃないか? そんなこと出来る訳ないよさ」
「出来るのっ。私に考えがあるわ、後は宴会でのお楽しみね。ふふふ、……ああ、楽しみ」
浅田は含みのある言葉を言いながら、自分で悦に入っていた。
「……ところで、……話が変わるんだけど」
「ええ」
「俺と君とこうしてたまに食事をしてることは、田部井君や島田君は知ってるのか?」
「知らないわ。話してないわ。どうして?」
「うん、特にどうのこうのってないんだけど、仲のいい三人だから、話したのかなあと思って」
「残念でした。いくら仲のいい友達でも、話して良いことと悪いことは区別してるわ。……それとも、話した方が良かったかしら?」
浅田は田部井と島田に、早川のことについて話したいことは山々だった。しかし、自分の思い通りにいかなかった時のことを考えて、逃げを打っておきたかった。女の世界では、いざという時のために、内に秘めておかなければならないことがたくさんあることを知っていた。
「いや、今のままでいいと思う。どっちみち誰かに見られることもあるだろうしね」
「……」
「だけど、じゃあどうして、さっき、ぼくに相談することを、田部井君に頼まれてる訳でもないしね、と俺が聞いた時、実はそうでもないのよと言ったんだい?」
「だって、私はC&Tのリーダーである早川さんの部下だから、いろいろ話が出来る立場にある、と思ったからじゃない?」
「あっ、そうか。そういうことか。俺の考え過ぎだったみたいだな」
早川は浅田の賢さに改めて感心した。
「その話はそういうことにして、ちょっとまた別なことで聞きたいんだけど」
「なーに?」
「うん。俺はこういうことって全く駄目だから、勉学の為に聞くんだけど」
「はい」
「社内恋愛って結構みんなやってるのかなあ」
「それを聞いてどうするの?」
「いや、どうもしないよ。ただ最近やたらと社内恋愛の後に結婚する人が多いだろう? この前だってほら、資材課の、……誰だったっけ?」
「沢田さん?」
「お、そうそう、沢田さんと……、えーと、……」
「総務の藤田さん」
「うん、そうそう、沢田さんと藤田さん。ついこの間結婚したばっかりだよな? 社内恋愛だったんだろ? あの二人」
「そうよ、熱烈な恋愛だったみたいよ。……羨ましいなあ」
「俺はそういうのって全く駄目だから、社内の噂話って。だから、少し知っておいた方がいいかなと思って」
「そんな話にまったく興味を示さない人が、急に知っておいた方がいいなんて、何かあったの? 怪しいわ」
「あはは、だよな、じゃあ止めとく。……いや、さっきから、田部井君とか島田君の話が出て、俺としては、正直話が読めないところもあってさ、今度四人で会った時に的外れなことになっても、恥を掻くばっかりだなと少し思ったもんだからな」
早川は苦しい言い訳をした。浅田は言われてみれば、そんな気もするし、田部井の話を持ち出したのも自分だから、頷けるところがない訳ではなかった。
「そうね、確かにそうだわね。知って話すのと、知らないで話すのとでは説得力に差が出るわね」
「だろう? ……ま、でも、俺にしてみたら、どうでもいいような話ではあるけどな」
「ふふ、でも知りたいんでしょ? 顔に書いてあるわよ」
「あは、参ったな誤魔化せないな。ま、大まかでいいけど、知っておきたいなとは思うけどな、正直」
「特にC&Tがらみのことが知りたいんでしょ? ……いろいろあるわよ。と言っても、二、三人だけど。……聞きたい?」
「へェー、二、三人? うん、君が知ってる範囲でいいよ」
早川は、浅田がいろいろあるといった言葉に興味が湧いた。C&Tで紅一点の浅田ならではの情報を持っているのかもしれない。
「もちろんよ、知らないことをどうして話せるのよ」
「あれ、一本取られたな参りました」
「ふふ、困った人だこと。正直でよろしい。君の顔に免じて許すぞえ」
二人はおかしくなってクスクス笑った。店員がコップに水を入れに来た。
「ここは、何時までですか?」
「十一時で閉店です。ラストオーダーになりました。何かご注文はありますか?」
早川は浅田の顔を見た。目で聞いた。浅田は首を横に振った。
「生のオレンジジュースを二つお願いします」
「はい、ありがとうございます。暫らくお待ちください」
浅田は首を横に振ったのにと思った。
「オレンジジュースには、ビタミンCがたっぷり含まれていますから、美容と健康にとてもいいのであります」
浅田は早川の気持ちが嬉しくてたまらなかった。
「これ以上綺麗になったら、どうするつもりですか?」
「はい、私としましては、一般の民間会社にいるのは実にもったいないと思っています。従いまして、モデルか女優になって、思い切り羽ばたいたほうがいいと思います」
「あら、私は今の会社がとても気に入ってましてよ。おあいにくさま。芸能界なんてちっとも魅力は感じないわ」
「おやおや、そうでしたか。あなたほどの人がおっしゃることですので、わが社の社長がそのことを聞いたら、さぞかし泣いて喜ぶのではないでしょうか」
二人はたわいのない会話を楽しんでいた。オレンジジュースがテーブルに置かれた。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう、えくぼが可愛いですね」
店員は嬉しさを背中に描いた。
「何処から話そうかしら。人の噂をするのって、陰口を言ってるみたいで、あまりいい気分じゃないわね」
「だよな。分る。話したくなかったら止めてもいいよ。ゴシップなんて週刊誌の世界だからな」
「でも、ここまできたら話すわ。……そうね、まず松井さん」
「うん、松井君? 元二課だったね。背が高いよな」
「ええ、彼は三課の安藤さんと交際中ね、もうだいぶ長いわね二人は」
「うん」
「それから安田さん」
「うん安田君だね。ちょいイケメンだな」
「そうね、でも、私のタイプじゃないわ。彼は今、事務課の三浦さんと熱愛中。まだ日は浅いみたいね」
「うん」
「最後は山下さん」
「うん、山下君ね。痩せて黒縁の眼鏡をかけて、いかにもインテリって感じだな」
「そうね、彼は工務課の福原さんとラブラブね」
「そっかあー、みんな上手いことやってるんだなあ。全然知らなかった」
「聞いた話だけど、みんな浮ついた付き合いじゃないみたいよ。真面目な交際みたいよ」
「社内恋愛は、上手くいってる間はいいけど、破局になると何かとな」
「そうなの。あらぬ噂になってしまって、当事者の立場を悪くする場合もあるかもしれないものね」
「会社はそういうのって特にうるさいからなあ。能力の一つとか何とか言ってな。それに公私の区別をはっきりつけておかないと、昇進にも影響するからな」
「でも、ある人を除いて、この三組は、おそらく近いうちにゴールインかも」
「へェー、そうなんだ。ある人を除いてって? この三人の他にまだ居る訳?」
「そう、居るわね問題児が」
「問題児? そんな人が居るんだ。……誰なの?」
「……」
「言えないんだね。いいよ言わなくても。……もうこの話止めようか、なんだかつまらなくなってきた」
「でしょう? お腹一杯なところに、さらにご馳走さまの話じゃね。太ってしまいそう」
「あはは、そうだな、いや、ごめんな無理言ったみたいで、ありがとう」
早川はおおよその見当がついた。もうこれ以上聞く必要を感じなかった。
浅田はこれまで機会あるごとに、自分が早川を好きだということを思い切って打ち明けたかったが、早川の口からどういう言葉が飛び出すのか不安だった。不安が募ってどうしようもない怖さを感ずることがあった。だから、ずっと言い出せないでいた。そこで、話題を切り替えることで早川の今の考えを聞こうと思った。
「話変わるんですけど、あのね? 早川さんって、恋愛と結婚についてどう考えてるの?」
「あのな浅田君、俺は今、そんなことを考える暇もないし、考える気にもならないんだよ。恋愛とか結婚って、人生の中でもとっても大事な話だろう? だから、時間をかけてじっくり考えて結論出さなきゃいけない問題だと思うよ」
早川は完全に嘘をついた。亜希子と恋愛中で、もう既に心の中では、亜希子と結婚することを望んでいた。浅田の自分に対する気持ちは痛いほど分っている。だが、この問題はもう結論が出ているといってもいい。浅田には悪いが、いや、これからの浅田の為にも、ここははっきりしておいた方がいいと思う。今の段階では、手も握ったこともない程度の、同僚としての付き合いだから、傷つけてしまうようなことにはならないと思うが、それでも今ここで、ある程度はっきりしておいた方がいい。嘘も方便が、今最適の選択肢のような気がする。
「それはそうよね、私が言いたいのはね、例えば、恋愛と結婚は別なのかどうなのかをお聞きしたいの」
「なんだそういうことか。そのことだったら俺の答えは決まってるよ。恋愛の延長線上に結婚があった方が理想的だと思ってるよ、あくまで理想だけどな」
「そうなんだ」
「もちろん恋愛は恋愛、結婚は結婚、全く別物だという考え方も分らないではないよな」
「ええ」
「同性同士でもそうだけど、男と女の場合も含めて、人間てさ、付き合ってみて初めて分かることだってある訳だろ?」
「それはそうよね」
「良かれと思って付き合ってみたけど、とんでもない奴だったなんてな。よくある話だよ」
「確かに」
「それが、許容出来る範囲内にあるんだったら別だけど、そうじゃなかったら、結婚するという気持ちは遠ざかっていくと思うんだよな」
「そうね。同感だわ」
「その意味では、俺の考えは間違っていると思うけど、結婚を前提に考えるんなら、恋愛になる前にじっくり相手を観察して、自分にふさわしいかどうかを考える必要があると思うんだよな。これは男の方も女の方も同じだと思う。その上で自分にふさわしい、いや結婚してからの長い人生に於いて、自分に必要な人だと思ったら、その人と恋愛をして、さらに問題がなければ結婚に踏み切る。俺はそうありたい、ということを言いたかったんだよな。そのくらい、とても大事なことと受け止めているんだよ」
「恋愛してからも、じっくり観察する訳?」
「お互いにな。それは当たり前のことだと思うよ。観察というと大げさだけど、要はフィーリングが、ピッタリとまではいかなくても、ある程度合うかどうかということも大事なことだし、さらに、何事も生活する上で許容出来る範囲に入っているかどうか、ということもとても大事なことだと思うよ」
「例えば、どんなことかしら」
「そうだなあ、一般論だけど料理が上手いとか下手だとか、やたらと細かいとか、いびきをかくとか、パンツのまま家中を歩くとか、夜の営みが上手くいかないとか、挙げたら一杯あるあるんじゃないか?」
「夜の営みって?」
「あは、知ってるくせに。敢えて言わせるつもりか?」
「知りませんっ、教えてください。……ふふ」
「……H」
「うん、それは分りそうな気がする」
「性格の不一致ってよく言うだろ? それが原因で離婚したとか」
「ええ」
「そのことを言うんじゃないかな?」
「……どうして?」
「だって、性はHのことを言う場合があるだろ? だから、H格の不一致」
「まあ、上手くこじつけたわね。ふふ」
「あはは、ま、そういうことです。……終わりっ」
「終わりじゃありません。……例えば、料理のことだけど」
「うん」
「努力して、とても美味しい料理を作れるようになった、なんてこともあるじゃない?」
「それはそうだよな。そういうこともひっくるめて、人間的にそういうことの出来る人なのかどうかということだよな」
「そうね、納得。でも、恋愛は恋愛として大いに楽しんで、結婚は見合いで決めよう、なんていう人も居たりして」
「君はそういうタイプ?」
「そうじゃないけど、そういうのも有かなってふっと思っただけです」
「うんうん、分る、分る」
「だって、付き合ってみてからじゃないと分らないことが多かったり、たとえ結婚してもすぐに離婚してる人って結構多いでしょう? それを考えると恋愛とか結婚は、とても難しい問題だなあ、って今思ったの」
「だよな。他人同士が、ふとしたきっかけで知り合って恋愛して結婚する。そのうち子供が出来る。マイホームまで買ってしまう。一見幸せそうに見えるけど、気がついたら、底なしの泥沼の中でもがき苦しんで、どうする事も出来ない事態になってしまった、なんてことにもなりかねない。可能性は誰にでもあることだし、前もって予測できないだけに始末が悪いよな。いっそのこと、恋愛はいいけど、結婚せずに一生独身貴族を押し通そうかしら、なんて思ったりしてな」
「ええ、言えてる」
「恋愛してたら、自然な成り行きとして、もちろん上手くいってればの話だけど、この人と結婚したいなとか、一緒になれたらいいなとか、必然的に考えるようになると思うんだよな」
「上手くいかなかったら?」
「結婚は諦めるより仕方ないだろう? そんな状態で結婚したって、すぐ離婚ってことになるのは明らかだもんな」
「女ってね、一度は結婚したいって思うものなのよ」
「結婚の為の結婚?」
「ええ、そうね」
「それって、女性特有の考え方なのかなあ」
「そうかも。旦那は居なくても子供だけは欲しいとか」
「うーん、俺にはその心境は、さっぱり分らない」
「私は何となく分るわ」
「少しそれるけど、こんな話をどう思う? 恋愛していた相手と、もし万一別れなければならない事態になったとして、別れた後、街中で偶然会っても、よー、元気かいと言えるような別れ方をしたいよな、という話」
「そんなこと出来るかしら」
「別れなければならなかったのは、さっきから言ってるように、二人の間のいろいろな不一致が原因とは思うんだけど、少なくとも恋愛してる時は、相手を好きで付き合ってた訳だから、その気持ちを大事にしたいということなんだよな」
「……」
「自分とは上手くいかなかったけど、この広い世の中で、しっくりくる人が必ずいると思うんだよな。そんな人と巡り合うことが出来るように、相手の今後の人生に思いを寄せて、ちゃんと話し合って納得し合うってことが、とても大事だと思うよ。そしたら出来ると思うけどなあ」
「早川さんて、どうしてそんなに優しいの? そんな理想的なこと、現実的には難しいと思います」
「だよな、俺の考えは、こうありたいなこうあったらいいなという、あくまで理想的な考えだけどな。フラれてしまって自殺する人もいるくらいだからな。相手によっては、男女を問わず、切った張ったの問題に発展することもあるからな。別れはお互いに、多少の傷を伴うものだから、その傷を自分自身で上手く消化っていうか消し去ることが出来るように、相手に対する思いやりが必要なんじゃないかなあ。一種の人間愛かな」
「別れる時の思いやり?」
「そう。みんな好き好んで、自分の傷を舐めながら生きたくないもんな。人は誰にも、きっと燦然と輝く未来があるんだと信じたいよな。恋愛や結婚の失敗は一時のことと考えて、未来に向かって前向きになれるような、そんな思いやりが大切だと思うんだよな」
「ふーん、でも、とても難しいと思うなあ」
「確かにな。そんなに甘くはないからなあ、世の中は」
「そういうことを、早川さん自身は出来ると思ってるの?」
「そうだな、出来ると思う。その為に、出来るだけそうならないような生き方をしたいよな。心に強くそれを思い続けたら、きっと出来ると思う。俺の場合、うれし涙はハンカチの中に吸い取ってあげられるけど、悲しみの涙は、その人を傷つけてしまったという証しだから、そうならないように、キザな言い方だけど、思いやりのハンカチを相手に渡したいよな」
「そうよね。何事も自分の思い通りにいかないのが常ですものね。そう思えば、一度や二度の失敗に挫けていては、身体がいくらあっても足りないわね。この手に幸せを掴み取るまでは、一心不乱になって頑張ることなのね」
「一途一心って言葉知ってるか?」
「知らないわ。どういう意味?」
「これは俺の座右の銘なんだけど、何事であれ一筋にひた向きに取り組み、愚直なまでに努力を重ねて、信じた道を突き進もうとする気概を意味してるんだよ」
「わあ、いい言葉ねェー」
「だろう? これを朝に夕に念仏みたいに心の中で叫ぶと、今まで話してきたような考えに到達するんだよ」
「へェー、だから早川さんの仕事ぶりもそうなのね。……一途一心」
「人間だから、変な誘惑なんかに負けて、必ずしもそうもいかない時もあるけど、毎日そうなるように努力はしているつもりだけどな」
浅田には、早川の人となりがさらに鮮明に分ったような気がした。この若さで重要なプロジェクトのリーダーになるだけの、凄まじい努力を普段から実行してる話を聞いて、改めて惚れ直したぐらいである。
しかし同時に、この人は私から離れて、だんだんと遠いところに行ってしまいつつあることを直感していた。いや、何としてもこちらを振り向かせてみせるわ、なんて粋がったところで、何か虚しい思いが胸を締め付けるのである。
「この一途一心、私もいただいていいかしら?」
「あは、俺の専売特許じゃないから、気に入ったらそうしたら?」
そろそろ閉店時間が迫ってきたようである。早川が時計を見ているのを見て、浅田は腰を上げた。
「ちょっとごめんね、……お手洗い」
「お、うん、俺も後で行く」
早川はこの店に来る前と違う疲れを感じた。当てにしていた情報は浅田からは聞き出せなかったが、却って良かったのだと自分を納得させた。浅田が椅子に戻ってきた。入れ替わりに手洗いに向かった。
浅田は自分のほんとの気持ちを、とうとう言い出せないまま、今日も終わってしまうことにたまらなく歯がゆい思いだった。
何となくだが、早川とこうして二人っきりで食事が出来るのも、もしかしたら、今日が最後になるのではと思えてならなかった。今までの会話から判断して、早川の自分に対する気持ちが、自分の思っている範囲の外にあるような気がしてならなかった。そう考えると、理由もなく、どうしようもない思いが急速に膨らんできた。最後の晩餐会? まさかっ、……嫌だっ。心の葛藤が始まった。
「さ、じゃそろそろ帰ろうか?」
早川がビジネスバッグに手をかけて、会計伝票を持ち椅子を離れようとした。まだ二,三組の客がいた。
「あ、早川さん、ちょっと待って。……座って」
「ん? 何?」
「これから、どこか飲みに行かない? 何だか飲みたくなったわ」
「これから? もう十一時だよ」
「ええ、分ってるわ。行かない?」
「ごめん。今日は何だかすごく疲れてるんだよ。明日、部長と打ち合わせする書類にも目を通しておかなければならないし、だから、ご免だけど、またの機会があったらその時にしない?」
「またの機会を作って下さるの?」
「うん。仕事の都合次第だけどな。明日の晩もみんなと飲めるから、今夜は勘弁してよ。なっ」
浅田は涙が出そうになった。やっとの思いで首を縦にして頷いた。
「ごめんなさい。疲れているの知っていながら無理言ってしまって」
「ごめん、ごめん。君の気持を反故にしてしまってほんとに悪いね。頼むから気を悪くしないでな」
また、また、何で女が泣けるようなことを言うのよ。あっさり、じゃな、と言えばいいじゃない。
「はい。じゃあ、帰りましょうか?」
「うん。ここで別れよう。……お疲れ様いろいろありがとう、……気をつけてな」
「……おやすみなさい」
「おやすみ。痴漢に気をつけるんだよ」
「あら、心配してくださるんだ」
「当たり前だろ?」
「ふふ、じゃあ、……さようなら」
浅田は精一杯の微笑みを早川に投げた。もう二度と二人きりでは会わない意味のさようならを言った。何故か今夜の心がそうさせた。早川から直接、もう会えないということを告げられた訳でもないのに、自分で勝手に思い込んでいるだけじゃないかと、何度も自分に言い聞かそうとしても、心が逆の言葉を投げかけてくる。しかし、さようならをしなきゃと思えば思うほど、どういう訳か、早川に対する切ない思いが胸を支配し張り裂けそうになった。こんな辛い思いは、もうしたくない。
今のままでも充分満足はしている。社内の数ある女性陣の羨望の眼差しを一身に受けているこんな魅力的な男性を、独り占めしている自分は幸せ者だと何度も思った。
最初の頃はそうでもなかったが、デートを重ねるうちに、早川に対する心の変化を止めることが出来なくなっていく自分に、ああ、もしかしたら、これが恋というものなのだと、生まれて初めて感ずる不思議な感覚を楽しんでいた。
時間の経過は、感覚だけの楽しさを超えることを求めてきた。日ごとに早川に対する切ない思いを、持て余すようになっていった。身体中を駆け巡る恋心は日増しに大きくなり、もはや、どうすることも出来ないくらいになっている。一旦走り出した女心は、誰も止めることは出来ない。止めるのは自分自身でしかない。
女である自分が、女心の怖さを思い知らされる羽目になるなんて。誰が私をこんな女にしたんだ。冷静になって考えた時、ああ、女って怖いとつくづく思った。
早川が自分に好意を持ってくれていることは肌で感じていた。しかし、早川は自分に対していつも同じスタンスだった。同じ課で働く異性の同僚とのデートを楽しんでいるようだった。そしてその域を出ることは一度もなかった。
何回となく重ねるデートで、一度もキスをしたことはない。それどころか、手さえも握ってくれない。ほんとに自分を好いてくれているんだったら……、そんな行動を期待するのが女だ。
暗い映画館で、早川の手が伸びてきて、自分の手をギュッと握りしめることを期待したが、一度もなかった。
公園で暗くなるまで語り合ったことがある。暗くなるにつれてアベックが増えてくる。目の前のベンチでアベックが抱き合いキスをしている。早川は笑いながら自分を促して、噴水のある明るい場所に移動した。
こんなこともあった。それは半年くらい前のことである。
レストランでの食事を済ませた後に、下戸の早川が、珍しくスナックで飲もうと言い出した。ふと早川の顔を見て、今夜はいつもの顔と少し違うなと思った。その日早川に何があったかは知らないが、いつもは自制心の強い人が、その晩に限ってかなり酔ってしまった。
ふらふらと、千鳥足がネオン街を歩いた。深夜になり、道の両側には、連れ込み宿やホテルのネオンが、怪しげな光を放っていた。それでも、自分の期待とは裏腹に肩を抱いてくれるでもなかった。時折、道のど真ん中で私の顔をじーっと見て、……ごめんな、……今夜は、ありがとうな、と何度も何度も言った。とても、とても淋しそうな顔だった。今まで見たことのない早川の淋しげな顔を見て、抱きつきたい衝動に駆られたが、辛うじて思い留まった。あの顔は、今でも忘れらることが出来ない。
とうとう、終電に間に合わなくなってしまった。早川はタクシーを止めて運転手に金を渡し、気をつけてなと言って、後部座席に自分を押し込んだ。左手でドアの閉まるのを制して、首を突っ込んできて、今夜は、ほんとにありがとう。楽しかったよと言って、目の前で二,三度手を振ってドアから手を離した。
車が走り出した。後ろを振り向いても振り向いても、早川は、小さく見えなくなるまでずーっと自分に手を振ってくれていた。何故か無性に泣けてきた。初めてのことだった。運転手が怪訝な顔をした。ごめんんさい。小さく言った。
「さようなら、……また明日な、……気をつけてな」
早川の言葉を背にしながら、浅田は小走りに出口のドアに向かい、振り向かないことを自分に強く言い聞かせた。……外に出た。人混みは、やや少なくなったとはいえ依然として結構な混み具合である。夜空を仰ぎ、理由もなく涙が頬をしたたり落ちるのを、なすがままにしていた。通行人が首をひねりながら通り過ぎて行った。
浅田の思いは手に取るように分っていた。……ごめんな、でもどうする事も出来ないんだよ。これだけは分ってくれ。早川は心のやり場に窮した。会計を済ませ、店の外に出た時はもう浅田の姿はなかった。
早川は次の日いつもより一時間も早く起きた。昨夜のメールチェックの結果をどう解釈したらいいものか、出社の前にもう一度じっくり考察することにした。印刷された三人の受信メール・送信メールの内容をそれぞれじっくりとチェックしていった。
まず野田恵一のPCから印刷した内容に目を通した。この中で気になる項目は以下の点である。
◆桶と樽の狭間と書かれた受信フォルダ
- 桶と樽の狭間とは? → 調べる。
- 差出人がttarimatu@xyz.ab.comとあること。
- → ttarimatuは何だろう。個人名? 会社名?
- → 件名とメッセージ欄は、共にKになっている。このKは何を意味してるのか。
◆Iebatと書かれた受信フォルダ
- フォルダ名のIebatとは?
- 件名とメッセージ欄は、共にSになっている。
このSは何を意味してるのか。
◆ハグレタカと書かれた受信フォルダ
- フォルダ名のハグレタカとは? 何か意味が
あるのか? それとも単なるふざけ文字? - ct-rtakatu=高津良太、ct-iyasuura=安浦一
郎、ct-knoda=野田恵一だから、社内でのメールのやり取りには間違いない。 - 件名とメッセージ欄は、共にRか Iになって
いる。このRとIは何を意味してるのか。
◆送信済アイテムフォルダ
- ttarimatu@xyz.ab.comへの送信履歴はなか
った。 - s1-ctabeiへの送信履歴もなかった。
- 宛先のct-rtakatuには、G1とだけの日もあれ
ば、時々G2やG3と書かれた日が飛び飛びにあった。 - 宛先のct-iyasuuraには、Gaとだけの日もあれ
ば、時々GbやGcと書かれた日もあった。 - これ以外の送信履歴はなかった。
次に高津良太のPCから印刷した内容に目を通した。この中で気になる項目は以下の点である。
◆酒井忠次と書かれたフォルダ
- 酒井忠次をフォルダ名にした理由は? わか
らない。酒井忠次 → 調べる。 - 差出人がhmano@ab.xyz.jpとあること。
- → hmanoは何だろう。個人名のような気はするが。
- → 件名とメッセージ欄は、共にKになっている。このKは何を意味してるのか。
◆田の神様と書かれたフォルダ
- フォルダ名の田の神様とは? → 調べる。
- ct-rtakatu=高津良太、ct-knoda=野田恵一だ
から、高津と野田との社内でのメールのやり取りには間違いない。件名とメッセージ欄は、共に - G1・G2・G3になっている。このG1・G2・G3は何
を意味してるのか。
◆送信済アイテムフォルダ
- hmano@ab.xyz.jpへの送信履歴はなかった。
- 宛先のct-knodaには、Rとだけの日もあれば、時々Rnoと書かれた日もあった。
- これ以外の送信履歴はなかった。
最後に安浦一郎のPCから印刷した内容に目を通した。この中で気になる項目は以下の点である。
◆Ichimegと書かれたフォルダ
- フォルダ名のIchimegトは?
- ct-iyasuura=安浦一郎、ct-knoda=野田恵一
だから、安浦と野田との社内でのメールのやり取りには間違いない。 - 件名とメッセージ欄は、共にGa・Gb・Gcになっ
ている。このGa・Gb・Gcは何を意味してるのか。
◆送信済アイテムフォルダ
- 宛先のct-knodaには、Iとだけの日もあれば、時々Inoと書かれた日もあった。
- これ以外の送信履歴はなかった。
三人のPCら印刷した内容の中で、気になることを整理しても、早川には意味不明なことが多く、すぐには理解出来なかった。通常のメールのやり取りのようにも見え、特に疑わしいと思えるようなものはなかった。
ただ、訳の分らないフォルダ名とメルアドとの関連性や、暗号みたいなメッセージが、どうしても気になって仕方がなかった。そこで、さらに注意深く集中してポイントを絞ってみた。この三人の共通点が見つかれば、意外と早く謎が解けるのではないかと思った。
早川は時計を気にしながら、ノートパソコンの電源を入れた。先日デスクトップ型のWindowsXPからノート型のWindows7に買い替えたばかりである。会社の仕事を持ち込むことを是としない考えもあるが、忙しい毎日で帰宅が遅かった。特に設計コンペの作業に取り組むようになってからは、土・日の休日も返上しなければならないくらいに忙しくなり、帰宅はかなり遅くなっていた。だから最近は、帰宅後にパソコンを操作することは殆どなかった。しかし、それ以前の土・日の休みの日は朝から晩まで、インターネットやいろいろな研究資料のデータ作成に余念がなかった。
■ポイント1【桶と樽の狭間】と【ttarimatu】の関連について
- 桶と樽の違いについて調べたら、次のような
ことが分った。
桶(おけ)に蓋が付いた物が樽(たる)である。例外もあるようだが、基本的に樽(たる)は板目で桶(おけ)は柾目で作るそうである。 - 狭間についても同様に調べた結果、次のよう
に解釈できそうである。
狭間(さま)とは主に城郭の天守の壁面、塀などに開けてある防御用の窓穴の事で、窓穴は丸形・三角形・四角形などがあり、戦闘の際はそこから鉄砲などで攻撃した。矢狭間(やざま)とか鉄砲狭間とか言われていたようである。 - ポイント1で考えられること
- 【桶と樽の狭間】について
桶と樽の間のすきま → 意味不明。
「桶と」と「樽の」を切り離して考えてみる。- 「桶と」と「狭間」をつなげると「桶と狭間」となる。
- 「樽の」と「狭間」をつなげると「樽の狭間」となる。
- 「桶と」の「と」は+の意味がある。つまり何かと何かをくっつけるとも取れる。
- 「樽の」の「樽」は通常は蓋がしてある。つまり考える必要がない?
おやっ、「桶と狭間」の「と」を取ってつなげると? 「桶狭間」になる。えっ、あの桶狭間? お、おォー、これだ。これかもしれない。
- 仮に桶狭間だとすれば、あの織田信長が今川義元を奇襲した桶狭間のことだろうか。だとしたら桶狭間の戦いそのもののことか、桶狭間という地名のことを指すと考えられる。現在もこの桶狭間という名前の地名は存在しているのだろうか。詳しく調べることにした。次のようなことが分った。
桶狭間(おけはざま)は名古屋市緑区の有松町(旧知多郡)と愛知県の豊明市(旧愛知郡)にまたがっている古戦場跡と推定される丘(おけはざま山)のその北側にある手越川の谷間=狭間のこと。桶狭間の戦いで知られる。文献によっては桶廻間とも記されていた。 - そうだとしたら、桶狭間と【ttarimatu】の関連性はどう考えたらいい?
うーん、わからない。とりあえず保留? いや時間がない。今考えよう。- ttarimatuは通常は個人名と考えられるが、t-tarimatu? それともtt-arimatu?
- t-tarimatu=T足松? それともtt-arimatu=TT有松? 足松は名字としては考えられない。有松はあり得るが、TTは?
- 通常名前の場合、TTと書いた場合、田中妙子みたいな、性と名字の頭文字を表す。そうだとしたら有松は何だ?
- 再度調べ直した。
名古屋市緑区の有松町云々とある。えっ? この有松? ちょっと出来過ぎじゃない? いや、今まで名前とばっかり思っていたが、違うの だ、有松という地名なのだ。なるほど。そう考えるとしっくりくる。有松町のTTという人だ。なるほど、そう考えて間違いなさそうである。 - このTTという人物は、野田係長とどういう関係なのか、男性か女性か、どちらも知る由はないが、有松町のTTという人と交流があることは、まず間違いあるまい。
■ポイント2【酒井忠次】と【hmano】の関連について
- 調べた結果次のようなことが分った。
一五六〇年(永禄三年)桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、徳川家康は岡崎城に入城し今川氏真を見限って独立を宣言。一五六五年(永禄八年)三月に吉田城が開城し所属の今川軍と主将小原鎮実は遠江国に撤退した。家康は重臣の酒井忠次を吉田城に入城させ東三河の旗頭となした。そして翌一五六六年(永禄九年)五月には牛久保城(豊川市)に残存勢力を結集していた牧野氏などの土豪なども家康の降伏の勧めに応じて三河国は家康によりほぼ統一された。
関ヶ原の戦いの後、江戸時代に入ると吉田藩が設置され三万石から八万石程度の譜代大名が治めた。版籍奉還直後の明治二年六月(一八六九年)、吉田は豊橋と改名された。 - 酒井 忠次(さかい ただつぐ)は戦国時代か
ら安土桃山時代にかけての三河の武将。徳川氏の家臣。徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ家康第一の功臣として称えられている。永禄七年(一五六四年)には吉田城攻めで戦功を立て戦後吉田城主となっている。これにより忠次は東三河の旗頭として三河東部の諸松平家・国人を統御する役割を与えられる(西三河は石川家成)。一五九〇年(天正一八年)徳川家康が駿府から江戸に遷ると池田輝政が吉田城主(十五万二千石)となり、城の拡張や城下町の形成、吉田川(豊川)への吉田大橋(現在の豊橋)の建設(酒井忠次による土橋から木橋へ)などが行われた。 - ポイント2で考えられること
- 【酒井忠次】について
酒井忠次だけに関連することを抽出すると、- 家康は重臣の酒井忠次を吉田城に入城させ、東三河の旗頭となした。
- 江戸時代に入ると、吉田藩が設置された。
- 版籍奉還直後の明治二年六月(一八六九年)、吉田は豊橋と改名された。
つまり【酒井忠次】というフォルダ=愛知県豊橋市を意味していると考えられる。
- そうなると、豊橋市と【hmano】との関連性について考えれば良いことになる。
- hmanoは単純に名前ではないか。従って、hmano=真野 Hではないか?
- 高津の遠恋の相手は、豊橋市に住む、真野 Hさんと考えて良さそうである。
- 昨夜岩田課長と飲んだ時、課長は、高津の遠恋の相手は愛知県の豊橋だと言ってたが、その裏付けが取れた。
- 【酒井忠次】について
■ポイント3【田の神様】とは?
- 田の神について調べたら次のようなことが分
った。
田の神(たのかみ)は、日本の農耕民の間で稲作の豊凶を見守りあるいは稲作の豊穣をもたらすと信じられてきた神である。農神、百姓神と呼ばれることもある。穀霊神・水神・守護神の諸神の性格も併せもつが、とくに山の神信仰や祖霊信仰との深い関連で知られる農耕神である。 - これは、どう見ても的が外れているとしか考
えられない。 - ポイント3で考えられること
- 【田の神様】は高津良太の受信フォルダである。そのフォルダにある【G1・G2・G3】のメッセージは、野田係長からのメールメッセージある。
- 通常受信フォルダ名は、送信者の名前にすることが多い。そう考えた時、この【田の神様】も、送信者つまり野田係長の名前か名字ということになる。うーん、「田の」「田の神」「田神」「神様」、どう見ても野田係長の名前ではない。これは名前ではなくて別の名前なのかもしれない。
- ……ちょっと待てよ。「田の」? 「田の」? 野田の名前になり得るのはこれしか考えられない。逆さ読みにしたら「の田」? ……これだ。「の田」=「野田」? ……これだ。うん、これに間違いない。……か、そういうことだったのか。なるほどよく考えたもんだ。なるほど、そういう手があったか。何っ? 野田が神様? ……だと? ……おい、やめてくれよ。それとも高津は野田を神様と崇めているのか? なんでだ? まさか金を握らされている? それはないよな。
- 逆さ読みか。なるほど、だとしたら【Iebat】は?【tabei】ではないか。田部井だよ。【Ichimeg】は? 【gemihcI】? いやいやこれは【ichimeg】であろう。megは恵とも取れるから、漢字にすると【ichimeg】は「一恵」だ。逆さ読みにすると「恵一」。……係長の名前ではないか。こん畜生。手間を取らせやがって。
■ポイント4
【桶と樽の狭間】【酒井忠次】にはKという共通文字【Iebat】にはSという文字
- ポイント4で考えられること
- まず【桶と樽の狭間】と【酒井忠次】については、
- 二人の送信者が「K」という同じ文字を使っているということは、二人に共通する暗号か、事前に取り決められたメッセージであると思われる。例えば「山」と言えば「川」みたいな、合言葉とも取れる。
- 送信者は二人とも社外の人間である。しかも、社の人間がパソコンを使って、送信者に頻繁に返信する訳にいかない事情を考えると、何らかの連絡手段と考えられる。
- 勤務中に、業務用以外の携帯電話は使用禁止である。電話は禁止でも、携帯メールは、隠れてしてしまえば、いくらでも可能である。
- 携帯メール? ……もしかして携帯の「K」? そう考えれば、納得がいく。つまり、「K」は受信者と送信者が取り決めたキーワードで、「K」を受信したら、携帯電話かメールをしてくれという意味ではあるまいか。うん、そうに違いない。
- 【Iebat】については、
- これも受信者と送信者が取り決めたキーワードで、「S」を受信したら、携帯電話かメールをしてくれという意味ではあるまいか。うん、そうに違いない。
■ポイント5【R】と【I】の関連について
- ポイント5で考えられること
- 【R】は高津が野田にメールする時だけに使われている。
- 【I】は安浦が野田にメールする時だけに使われている。
- ともに野田に対する返事ではないか。
Rnoの時もあるということは、Rはyesの意味であろう。Iも同様であろう。 - 何らかの野田からのメールに対して、イエスかノーの返事をしていると考えられる。
- 同じフロアにいる者同士だから、こんな面倒なことをしなくても、そっと伝えれば事は済みそうな気がするが、野田という男は、よほど慎重というか、神経質な性格の持ち主なのかもしれない。
■ポイント6【G1・G2・G3】と【Ga・Gb・Gc】の関連について
- ポイント6で考えられること
- 【G1・G2・G3】は野田が高津にメールする時だけに使われている。
- 【Ga・Gb・Gc】は、野田が安浦にメールする時だけに使われている。
- ともに野田からの送信内容である。これまでの考察から判断して【G1・G2・G3】と【Ga・Gb・Gc】には、必ず何らかの共通点がある筈である。
- そういえば、昨日の夜、歌舞伎町で野田と高津が歩いているのを目撃した。もしかしたら、メールで連絡し合っているのでは?
- 昨日の野田の送信記録と受信記録を見てみた。野田は高津に対して「G1」を送信している。これに対して、高津から「R」を受信している。
- 昨夜の場所は新宿の歌舞伎町である。ということは、もしかしたら「G1」は新宿の暗号? 「行こう新宿へ」である。
- G2・G3も同じことで、池袋とか渋谷とかの取り決めに違いない。
- 【Ga・Gb・Gc】は安浦に対する暗号だが、同じ考えでまず間違いいあるまい。つまり、「Ga」も新宿であろう。
- それにしても、よく考えたというか、感心してしまう。
- ハグレタカ → お前はどこではぐれたんだという時のハグレタカ?
- 二つに分解する → ハとグレタカ、ハグとレタカ、ハグレとタカ、ハグレタとカの四つが考えられる。逆読みもあるが、一応置いといて、
- この四つの中で名前を連想出来るのは……ん? ……ある。……高津のタカだ。
- 仮にタカが高津のことを意味するのであれば、ハグレは安浦のことを意味しなければならない。
- ハグレと安浦の関連性? ……ん、何だろう。……分らない。いずれ分るだろう。一応このままにしておこう。
この時まで「ハグレタカ」についての意味がわからず仕舞いだった。このフォルダは、高津と安浦からのメールを格納するためのフォルダである。ということは、常識的に考えれば、二人からのメールであることを表すフォルダ名になっている、と考えたほうが良さそうである。となると、次のようなことが考えられる。
- まず【桶と樽の狭間】と【酒井忠次】については、
最後に、豊橋と有松との地図上の位置関係を調べた。名鉄名古屋本線の名古屋発豊橋行きの電車の途中の停車駅に有松駅があった。
これで昨夜のメールチェックの全ての結果がようやく判明した。
早川は今日の部長との打ち合わせに使える部分を整理して印刷した。時計を見て慌てて身支度をした。社宅を後にして東横線の大倉山駅に向かった。
いつもの出社時間より三十分遅れて出勤した。既に数人のスタッフが席に着いていた。早川のデスクに来て一人一人朝の挨拶を交わした。
早川は一旦窓辺に立っていつものように超高層のビル群を眺めていたが、無性にコーヒーが飲みたくなりデスクに戻った。コーヒーポットの方向に足を向けようとした時、
「おはようございます。いま以心伝心しなかったですか?」
浅田の明るい笑顔が目に飛び込んできた。浅田は、湯気の立っているコーヒーカップを早川のデスクの隅に置いた。
「やあ、おはようさん。昨夜はどうもな、ありがとう。……あは、今コーヒーを飲もうと思っていたところなんだよ。以心伝心って凄いな」
昨夜の話のリプレイなようであった。片手を肩の高さまで上げて小さく言った。浅田も小さく答えた。
「いいえ、こちらこそ、楽しい夜でした。ありがとうございました」
感情を押し殺すことを自分に言い聞かせていたから、冷静に話することが出来た。
「今夜は楽しみにしています」
「うん、そうだな。後で頼むな、例の落ち合う場所の件」
「あ、はい。忘れるとこでした。三人で決めますから昼過ぎに電話します」
「それと、課長から誘われないようにするんだろ?」
「そうそう、それもあったわね。任せといて、三人で知恵だし合って周到に準備します」
「あは、ま、頑張って。……頼みます」
浅田は自分の席に戻ってパソコンを立ち上げた。
早川は、コーヒーを飲みながら、部長との打ち合わせのための資料に目を通した。スケジュール表と今朝印刷したメールチェックのまとめである。
メールチェックの結果は、暗号めいた訳のわからないフォルダ名やメッセージ内容ではあるが、だからと言って、やはり取り立てて言うほどのものはないように思う。メールのやり取り上の、よくある範囲を逸脱しているとは考えにくい。社内の情報が外部に漏洩しているではないか、という問題に関してだけ言っても、特別疑念を感ずるような点は見当たらないと言ってよい。
ただ、気になることが二つある。しかも、この二つがどこかで微妙につながっているような気がする。そんな臭いがするのである。
一つは、野田係長の羽振りのいい行動である。スタッフの大体の給与は知っている。給料だけでは、毎晩のように飲み歩くことが出来るとはとても思えない。どうしてそのようなことが出来るのか。宝くじを当てた? まさか。実家が金持ちだということも考えられる。調べる必要がありそうだが、どうやって調べる? 人事課が各社員の細かいデータは管理している筈だが、データにそんなことまで記載されているのだろうか。プライバシーの問題で閲覧はまず不可能だろう。郷田部長に相談するより手はなさそうである。
もう一つは、野田のパソコンから判明した、有松町に住むTTという名のメルアドの存在。高津のパソコンから判明した、豊橋市に住む真野 Hと思われる名のメルアドの存在。邪推もいいところかもしれないが、いろいろな角度から推理すると、この二人はもしかしたら、同じ名鉄線のそれぞれ有松駅と豊橋駅から同じ会社に通勤しているのでないかと思われる。だからといって、このことが即、社内情報漏洩事案に関する疑念につながるとは思えないが、気になることではある。
十時前に郷田部長から電話が入った。
「はい、早川のデスクです」
「君の今日の予定は昨日の予定表通りだな」
「はい、今のところ変更はございません」
「例の調査の件だが、昨日はまだ届いてなくて、今日の昼過ぎになりそうなんだよ。届いたら検討する時間もあるから、どうだろうか君と吉田君の打ち合わせは四時半だったな」
「はい、その予定ですが」
「すまんが、その時間に吉田君と一緒に来てくれないか」
「はい。かしこまりました、そのように致します」
「ところで、メールチェックは済んだのか」
「はい。昨日終了しました」
「何か変わったことはなかったか?」
「その件で、すぐにでもお知らせしておきたいことがあるのですが」
「そうか、じゃあ、今すぐ来れるか?」
「はい。お伺いします」
「うん、分った」
早川は用意しておいた書類を封筒に入れて、階段を駆け上がった。
「予定が詰まってるから手短に説明してくれるか?」
「はい。これに目を通していただきたいのですが」
早川は封筒から書類を取り出してテーブルの上に置いた。郷田は書類を手に取ってゆっくりと目で追った。
「なるほど良く調べたね。この結果について、君はもう確信をつかんでいるようだな。君なりの見解があるんだろ?」
「はい。ですが、部下を疑うことはとても忍びないことですので、実は弱気になってしまうところも正直あるのですが」
「そうだな。よく分るよ。でもな、事が事だからな」
「ええ、ですから心を鬼にしなければと思ってるところです」
「心を鬼にしたらどうなるのだ? 君の考えを聞いておこう」
「とても残念なことですが、部下の中に、社内の情報を外部に漏洩している者がいるのではないか、という強い疑念を抱いております」
「そうか」
「それに、例の津村という人にまつわる調査の結果と照合しなければ、何とも言えないところがあるのですが」
「うん」
「しかも、これはあくまで私の邪推の域を出ない、的外れな勘に過ぎないかもしれないのですが」
「構わないから言って見たまえ」
「はい。部下とつながってる会社は、おそらく名古屋に本店のある会社だと思っています」
「名古屋? ……うん、それで?」
「会社の名前は、もちろん今の段階では分りませんが」
「名古屋の会社っていうのはどうしてだ? どうしてそう思ったんだ?」
「高津君と遠恋中の女性は豊橋とありますが、名鉄名古屋~豊橋間の定期券は、調べましたら六カ月で十三万四千三百円、月に換算しますと二万二千円程度です。通勤の範囲内だと思ってもいいと思います。豊橋から名古屋の会社に通勤してるのではと思うのです」
「なるほどな」
「そこに書いておきましたが、もう一つの有松駅が名古屋~豊橋間の途中の駅だということです」
「うん」
「そうなりますと、少し面白くなってきます」
「どう面白いのだ?」
「実は、この田部井という女性と社内恋愛中の野田係長のことですが」
「うん」
「最近特に羽振りがいいようですし、毎晩のように飲み歩いてるということです」
「うん」
「実家が資産家かどうかは、一応念のために調べておく必要はあるとは思いますが、場合によっては、調べる必要もないような気がしています」
「どうしてそう思うのだ?」
「その名古屋の会社から、野田係長に金が渡されてると思っています」
「なに? ほんとかよ」
「いえ、もちろんまだ分りません。しかし、ほぼ間違いないと思います。しかも……」
「しかも?」
「この野田係長には名古屋近辺に女がいますね」
「だけど、田部井君と付き合ってるんだろ?」
「ええ、そうです。……俗に言う二股ですね」
「二股?」
「はい、真野Hと言う人のメルアドがそうだと思います。真野Hと言う人が住んでいる所は、愛知県緑区の有松町だと思います。田部井君にはかわいそうな気がしますが、多分そうだと思います。さらに……」
「うん」
「高津君の彼女、豊橋の彼女ですね、これと、野田君の真野Hと言う彼女とは、何らかの接点があると睨んでいます」
「ほー」
「ただし、野田君の彼女は、いま有松町と申し上げましたが、必ずしもそうとは限らないとも思っています。こういうご時世、ネットの世界が非常に進んでいますので、場合によっては、東京と名古屋あるいは他の都市と名古屋ということも考えられますが、いずれにしても、何らかの形で接点があるということも念頭においておく必要があると思います」
「君が強い疑念を持つ前提は、野田君の羽振りのよさだな? つまり、金の出所が前提だということだろ?」
「はい。おっしゃる通りです。それが全ての出発点です。ですから、金の出所に何ら疑う必要のないものでしたら、この疑念は晴れると思います。出来れば、そうあって欲しいと強く思います」
「うん、そうだな、そうあって欲しいな」
「で、部長にご相談があるのですが」
「ん? なんだ?」
「はい。野田君の今の給料から判断して、いくら独身とはいえ、毎晩のように飲み歩けるような状況にあるとはとても考えられません。そこで、社員管理簿の中から、野田君の個人情報について、調べていただく訳にはいかないでしょうか。社員管理簿に、そのような類の情報が記載されているのかどうか、私には知る由はございません。それに私如きが人事部に閲覧を申し出ても、プライバシー保護を理由に許可してくれないと思います。無駄骨になるかもしれないのですが、部長にお願いするしかないかなと思いまして」
「そうか、その個人情報から野田君の資産というか、毎晩のように飲み歩くだけの資金を所有してるか、もしくは親元が資産家なのかどうか、その辺を調べて欲しいというのだな?」
「はい、そうです。その結果次第で疑いも晴れるかもしれませんから、ぜひお願いしたいのですが」
「分った。すぐにでも手を打とう。四時半の打ち合わせまでには調べておくよ」
「ありがとうございます。助かります。お忙しいところをすみません」
「なーに、簡単なことだよ。徒労に終わることを願いたいね」
「はい」
「だけど君、何だかんだ言ったって、最終的には、四時半から打ち合わせするプログラムの網に、魚が飛び込んでくるかどうかだろ?」
「おっしゃる通りです。ですから、社内恋愛の情報調査とかメールチェックなど、敢えてしなくてもよろしかったのですが、知らずしてプログラムの成り行きを見るよりも、知っておいた方が結果はどうであれ納得がいくと思うのです」
「うん、その通りだな。いつも言っての通り、事が事だけに慎重に事を進めるのが何より大事だからな」
「はい。そのように思います」
「いろいろと、業務以外の余計なことまでしなければならない状況だが、コンペの作業の進捗状況はどうなんだ? 大丈夫か?」
「はい。出来るだけ土・日返上で作業しております。その点はご心配に及びません。ご安心ください。来週の結果がどのような形であれ、一応事が解明される訳ですので、さらに作業が順調にいくものと思っております」
「そうか、それを聞いて安心した。大変だろうが頑張ってくれ」
「はい。かしこまりました」
「国際設計コンペで優勝することが君の使命だからな。この使命が達成されれば全てが万々歳になる」
万一社内情報の漏洩事案に、C&T内部のスタッフが関わっていたということが判明した場合、早川は管理者としての責任を追及される。たとえ人選に関わってはいないとはいえ、その責は決して免れることは出来ないだろう。
郷田は、早川がそのような事態に至った時のことを考えて、今この段階で既に辞意もしくは退職を念頭に、強い覚悟で事に臨んでいることを知っていた。早川のその決意を、郷田としては何としても思い留まるようにしなければならなかった。
と同時に、役員であるわが身の責任問題も覚悟しなければならない。理由の如何にかかわらず、それが会社というものである。その時の身の振り方は既に考えている。
しかし、国際設計コンペに優勝すれば、それを口実に、社内の批判をかわすことが出来る。いやむしろ、会社に対する貢献度を考えると、功労者として賛辞の嵐が巻き起こり、そんな問題は消し飛んでしまう筈である。
元々今回のコンペは、従来の国内コンペと違い、当初から相当な困難を覚悟していた。一旦はコンペの参加を断念した経緯もある。準大手の会社が大きく飛躍するには、それなりのリスクを覚悟で、難関を突破することでしか道は開けてこない。名声を得てこそ社会からのゆるぎない信頼が得られ、業績の飛躍的拡大が計れるのである。これこそが経営者としての信念であり、会社経営の根幹をなすものであると強く思っていた。
座して事は成就できない。チャンスがあれば、果敢に挑戦して果実をもぎ取らなければならない。コンペへの参加は、その一つの手段なのである。しかし、今回は余りにも大きなリスクを背負いこんでしまったような気がしないでもなかった。だが、今更後に引く訳にはいかない。一か八かの勝負をするしかないのである。中央突破するのみである。
早川は国際コンペという千載一遇の大チャンスに、自分の腕を試してみたいという強い思いがあった。しかし、腕試しというには、余りにも過酷なハードルを越えなければならない。世界中にひしめく優秀な設計者を相手に、自分が太刀打ち出来るなんて到底考えられない。
コンペは、チーム力の差が勝敗を決すると言っても過言ではない。野球と同じようなものである。ハイレベルの投打の技術力と戦術をバランスよく発揮できたチームのみが、結果的には美酒を味わうことになる。そのチーム力にいささか自信がないのである。自信はないが勝算はある。これだけは、やってみなければ分らない。
およそ下馬評にも上らない弱小チームが、あれよあれよと勝ち進み、勝つことが自信になり、一戦ごとに強くなっていき、ついには、頂点に立つという痛快な話が満更ないことはない。
「はい。C&Tをお引き受けした時から、その使命は私の全身に浸み渡っております。出しゃばった言い方ですみません。出来ましたら、部長と美酒を味わえたら最高だなんて考えております。そうなるように、我が身を投げ打ってでも、一途一心で作業に励みたいと思います。そして、必ず優勝したいと思います」
「期待してるよ。もうここまで来たら、引くに引けないから頑張るしかないな」
「はい。そのように思っております」
「漏洩した社員が存在した場合の話だが、当然、何人か欠員が出るだろうから、その時の補充は考えているから、心配せんでいいからな」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
「補充の人選に、推薦したい人物があれば考えておくように」
「かしこまりました」
「それと、たとえ社内情報を外部に漏洩した社員が存在したとしても、君の管理者としての責任は、設計コンペの結果が出るまでは保留するからそのつもりでな。決して軽はずみな行動はするなよ。いいな」
「はい。かしこまりました」
「じゃあ、頼んだよ。四時半にまたな」
「ありがとうございました」
「あ、そうそう、場合によっては、来てもらう時間が早まる場合もあるから、そのつもりでいてくれ。……じゃあな」
「かしこまりました。……失礼します」
早川は電算課の吉田主任に電話して、部長から話があった旨の連絡をしておいた。部長へ手渡すために、書類をコピーではなく、手書きメモしておくように頼んでおいた。
十三時過ぎに浅田から電話があった。囁くような低い声だった。落ち合う場所の連絡だった。
十五時過ぎに、亜希子から携帯に電話があった。
「昼間ごめんなさい。今大丈夫?」
いつも夜に掛かってくる電話が、珍しく昼間にかかってきた。
「大丈夫だよ。何かあったの?」
「悟さん土曜日と日曜日、時間取れない?」
亜希子は、悟が土曜日も日曜日も返上して仕事に取り組んでいることを知っていた。
「今度の土・日は仕事しないつもりだよ」
「そうなの? 良かった。そちらに行ってもいいかしら?」
「えっ、ほんと?」
「ええ、急いで大事な話があるの。電話では話しが長くなるし、それに暫らくご無沙汰してるから」
「そうか、分った。で、いつ来れるの?」
「明日の夕方くらいにそちらに着くように出ようと思うの。予定入ってる?」
「ちょっと待って」
悟は念のため手帳をめくった。
「えーとね、七時以降なら大丈夫だね」
「嬉しい。今夜連絡しても良かったんですけど」
「うん」
「悟さんに予定が入るといけないと思ったら、いても立っても居れなくなって」
「その方が丁度良かったよ。明日のことはいいんだけど、今夜のことで連絡するつもりだったんだけど、今夜は送別会で遅くなるから電話出来ないなと思ってたところなんだよ」
「あら、そうだったの? 分りました。ああ電話して良かった。飲み過ぎないようにと言っても飲めないか、ふふ」
「だね」
「こちらを出る時電話するね」
「分った。じゃね。電話楽しみに待ってる」
久しぶりの再会である。たまたま今度の土・日を、休養日に空けといて良かったと思った。胸が高鳴るのを覚えた。
十六時二十分になって早川は階段を駆け上がって電算課に向かった。吉田主任が笑顔で迎えてくれた。プログラムについては、元々二人だけで打ち合わせすることになっていたので、吉田主任も用意は出来ていたみたいである。部長も交えての打ち合わせに変更になったことに少し驚いた様子だった。暫らく立ち話をして部長室に入った。吉田主任は初めてのようであった。少し緊張気味である。秘書の林田がニコニコしながらソファに案内し、テーブルに三個のコーヒーを置いた。早川のコーヒー皿には砂糖もミルクもなかった。
「二人ともご苦労さん」
郷田がひも付きの茶色い封筒を脇に抱えて現れた。早川と吉田は起立して深々と頭を垂れた。
「ま、コーヒーでも飲んでくれ」
と言い、茶封筒を横に置きながらソファに腰を下ろした。顔が笑っていた。
「今夜は早川君達の送別会なんだってな」
「はー、転勤になる訳じゃないからと言ったのですが」
「何かと理由をつけて飲みたいのだろうよ。俺も若いころはそうだったからな」
「はー」
「ま、遠いところに行くんだから、思い切り別れを惜しんできた方がいいよ。あはは」
部長のしゃれっ気のある言葉に吊られて、二人も笑った。吉田の緊張感が解けたように見えた。
「早速本題に入ろうか。まず吉田君の方から行こうか」
「はい」
吉田は社内用の封筒を開けて、一通を部長に一通を早川に渡した。早川と打ち合わせした内容の最終確認である。部長も早川も書類にじっくり目を通していった。
吉田は、これまでの早川との打ち合わせの内容について、社内の情報を外部に漏洩させた社員を特定するために作成するプログラムや、私書箱のことについて詳しく説明した。吉田の話を一通り聞いて、郷田が早川に向かっていった。
「早川君どうだ? この内容でいいのか?」
「はい、この通りで結構かと思います」
「そうか、分った。じゃあ、吉田君はご苦労だが、来週の本番に向けてしっかり作業をしてくれ。頼んだよ」
「はい。かしこまりました。良い結果が出るように一生懸命頑張ります」
吉田が立ち上がるのを郷田が制した。
「ま、コーヒーを飲んでからでいいよ」
「はい、いただきます」
「このコーヒーも、みんなが一生懸命働いてくれるからいただけるんだよな。……ありがたいね」
吉田は部長の言葉に、部長の人となりを垣間見たような気がした。
「早川君とは初めてかい?」
「はい。初めて仕事させていただきました」
「そうだよな、設計課と電算課じゃ、一緒に仕事するなんてことはまずないことだからな」
「はい」
「今回みたいなことがあったから、初めて一緒にする羽目になってしまったと言えるな」
「はい」
「だけどこんなことは、二度とあってはならないから最初で最後にしたいよな」
「そのように思います」
「ところで、電算の技術者から見て、早川君と打ち合わせしてどう思った? 早川君は電算については専門じゃないから、打ち合わせがうまくいかなかったのじゃないか?」
「部長、とんでもございません。むしろ、私は何もすることはありませんでした。二,三確認をした程度で、お持ちした書類も、ほとんどが早川主任のメモ書きをそのまま写したようなものです。すみません」
「そうなのか? 早川君」
「いーえ。吉田主任の今の言葉は謙遜そのものです。私は、主任の専門家としての豊富な知識について、素人ながらその凄さに敬服しております。それに、来週の予定を予定通りに実施出来るようになるには、作業する時間が少々足りないのですが、吉田主任の方で、土・日返上で取り組んでいただけるようで、とてもありがたいと思っております」
早川は、吉田主任の努力を、一応部長にも理解しておいて欲しいと思った。郷田は、二人のやり取りに目を細めて頷いていた。
「あい、分った。あとは結果がどう出るかだな」
「はい」
早川と吉田は異口同音に返事した。
「吉田君はご苦労だったね。今日はこれでいいよ。ありがとう」
「ありがとうございました。失礼します」
たった十五分位の時間が、吉田にはやたら長く感じた。部長に深く頭を垂れて部屋を出て行った。
部長は茶封筒を開けて書類を取り出した。
「早川君の勘がぴったり当ったようだな」
早川は内心びっくりした。部長の顔を見つめた。苦味顔だった
「えっ、と、おっしゃいますと?」
「君は東西国土建設という会社知ってるかね?」
「ええ、最近急速に売り上げを伸ばしてる会社と理解しておりますが」
「そうなんだよ、準大手の建設会社だが、今じゃ大手に迫る勢いだね」
「そうですか」
「いろいろ噂のある会社だがね」
「と、おっしゃいますと?」
「やり方が汚いというか狡いというか。政治家との噂もちらほら聞くし、余り評判の良くない会社ではあるな」
「そうですか。いけませんね」
「何処に本社があるか知ってるか?」
「さあ、分りません」
「名古屋だよ」
「そうですか、名古屋ですか」
「例の津村って人は、津村健太郎と言ってな、その会社の重役だったよ」
早川はびっくりした。郷田の顔をじっと見た。
「えっ、ほんとですか。……じゃあ」
「そうなんだよ、どうも君の考えてる通りになりそうだよ。……悪い予感がするな」
「そうでしたか。やっぱり先方さんは部長の立場をよく知っていて、我が社を攪乱させる為に、食事の時わざとそういう話をしたんですね」
「どうも、そう考えたほうが良さそうだな」
「やっぱり、競技委員長とつるんでいたんですね。知り合いだったとか、取引上特に深い関係にあるとか」
「競技委員長の会社の所在地は豊橋にあって、東西国土建設に資材を購入して貰っているようだな」
早川は手帳を胸のポケットから出した。
「東西国土建設とその会社の名前と所在地と電話番号分りませんか?」
「分るよ、どうするのだ?」
「ええ、念のためメモして置きたいのです」
郷田は該当する書類を早川の目の前に置いた。資材会社は(株)佐藤建設資材という会社名になっていた。早川は書類を見ながらメモした。メモしながら悪い予感が脳裏を駆け巡った。
「先ほどの、良からぬ会社だというお話をお聞きして思うのですが、これは、もしかしたら単なる攪乱戦法ではなく、会社にとって、あってはならない事態に発展しかねないですね。つまり、社内の重要な情報が、外部の会社に実際に漏洩されている。しかも、ことによると、今回のコンペの情報だけに限らず、いろいろなj社内情報が相当前から外部に渡されていた、とも考えられますね」
「今それを言おうと思っていたところだが、君が言うように、どうもその方向で考えておいたほうが良さそうだな」
「じゃあ、部長、今朝ほど打ち合わせしたような事態も、頭に入れておいたほうが良さそうですね」
「いやむしろ、君の考えが図星の展開になってきたな」
「まさかとは思いますが、困ったことになりましたね。まずいですね、これは。……どうなさいますか?」
「そうだな。あのな、君からの宿題の件だが」
「宿題ですか?」
「そうだ野田君のことだよ。……前提の話」
「あ、はい。そうですね、どうでしたか? 分りましたか?」
「人事部の社員管理簿を見たんだが……。この野田君の父親は普通のサラリーマンで、生活はそんなに裕福じゃないみたいだよ」
「そうですか、じゃあ、どうして羽振りのいい生活が出来るのでしょうね」
「人事部もそれ以上のことは分らないと言うんだよな」
「カードの自転車操業ですかね?」
「なんだそれ」
「ええ、クレジットカードとかキャッシュカードには借りられる枠が設定されていますが、限度額を何枚かのカードをやりくりして借金しまくることです」
「そんなこと出来るのか?」
「はい、いま若者の間で利用しているみたいですよ。挙句の果ては、自己破産につながっていく、とても危ない借り方なんですけどね」
「うーん、例えそれにしても限界があるだろう? 短期間ならいざ知らず、長続きしないだろう?」
「じゃあ、やっぱり名古屋の会社、つまり東西国土建設から金を受け取ったってことですかね。情報提供の見返りとして」
「うーん、確かなことは分らないし信じたくはないが、その線がどうも浮上してきたと言っていいだろうな」
「困りましたね、……ほんとに困りましたね。何とかして動かせない裏付けを取りたいですね」
「例のプログラムの網にかかる可能性が大きくなってきたな」
「いーえ、部長、したたかな奴らですから、場合によっては、網に掛らないかもしれませんよ」
「お、それもそうだな。必ずアクセスしてくる保証はないからな」
「まず七割の確率でアクセスしてくるとは思いますが、アクセスして来ないことも考えておかなければなりませんね」
「どうする、何か手を考えられるか?」
その時、早川の頭にある考えが浮かんだ。
「部長、まだ少し時間がありますので、私なりに考えてみます」
「そうは言うけど、例えばどんな手だ?」
「相手の懐に飛び込みます」
「懐に飛び込む? 野田君のか? 高津君のか?」
「もちろん、それもありますが、名古屋です」
「おいおい正気かよ。藪蛇ってこともあるぞ」
「一応来週のプログラムの結果を見た上でやりますが、私に考えがあります。外部の会社のことはどうでもいいと思います。目的は、社内の重要な情報を社外に提供し、その見返りに金銭を授受した者がいるとなれば、これは絶対に許す訳にはいきません。それなりの償いをしてもらわなければなりません」
「おいおい、それは俺が言うセリフだろ?」
郷田は笑っていた。
「あ、すみません、あまりの憤りに、つい興奮してしまいまして」
「君の気持は俺だって同じだよ。ほんとに困ったことをしてくれたもんだ」
「部長、まだはっきりと決まった訳ではありませんから、過去形はどうかと」
「あは、そうだな。すまん。今度は俺が興奮したようだな。あはは」
「いずれにしましても、来週まで待ちましょう。網に魚が掛るのを期待しましょう」
「そうだな、仕方がないな、その時の状況で次の手を考えるかな」
「そうですね。吉田主任のプログラムに期待しましょう」
「だな、分った。ご苦労だった。最後まで気を落とさずに頑張ってくれ」
「何ですか、モヤモヤしていたものが段々と明るくなってファイトが湧いてきました。……これで失礼します」
「うん、いろいろありがとう。……じゃな」
早川は部長室を後にした。途中秘書の林田に、コーヒーが美味しかった旨のお礼を言った。林田がニコニコして頭を下げた。