□ 第九章 家族の絆 ① □
悟は土曜日の午後三時ころ成田空港に着いた。三時二十五分着のサンフランシスコからの到着便を待った。到着便の待合ホールは混雑していた。国内便と違い国際便は独特の雰囲気がある。もしかしたら、近い将来亜希子と子供連れで、この待合ホールを歩くことになるかもしれないと想像していた。早川が出迎えに来ていることは知らない筈だから、亜希子の両親はさぞびっくりするだろうなと思った。悟は出口を出てくる二人を確認して近づいた。
「お帰りなさい。お疲れ様でした」
亜希子の父誠一郎は、予期しない事態にびっくりした。まさかを確認した。母親の典子も同様に驚いていた。
「オォー、悟か、来てくれたのか、ありがとう。……亜希子は?」
「家で留守番しています。代わりに私が来ました」
「そうか、そうか。嬉しいな、なあ、母さん」
「悟さん、お忙しいのにありがとう。嬉しいわ」
二人とも嬉しい笑顔を振りまいた。
「ありがとうございます。あれっ? お荷物は?」
「荷物? ああ、全部航空便で送っといた。明日には家に着くだろう。便利な世の中だね。身軽で助かるよ」
「家にはこのまま直行ですか?」
「悟はどういう予定だ? 一緒に家まで行ってくれるんだろ?」
勝手に決めつけている。
「はい。そのつもりです。いいですか?」
「いいも何もないよ、お前の家じゃないか。いちいち聞かなくてもいいよ。……じゃあ、行こうか」
とうとうお前の家にされてしまった。
「はい」
三人が家に着いたのは夜の八時過ぎだった。
「よォー、今帰ったぞ」
誠一郎の太い声が奥まで響いた。奥からアキとリコが飛び出してきた。リコは父親よりも悟の顔を見てびっくりした。一言も聞かされていなかった。
「お帰りなさい。お疲れ様」
「悟も一緒だ。悟、さあ上がんなさい」
悟は完全に花岡家の一員になってしまった。我が息子の呼び方が堂にいってきた。
「はい。お邪魔します」
「お父さんお母さん、お風呂にするご飯にする?」
アキがが尋ねた。
「そうだな、風呂から先にしようか。上がってみんなで一杯やろう」
父親の上機嫌な顔を見てアキは、父親は、悟の存在の大きさを感じ始めていると思った。こういう父親の顔を、かって見たことがなかったからである。
「悟も疲れたろう。ゆっくり風呂に入るといいよ」
なんて優しい父親になったのだろう。アキは呆れてしまった。如何に息子を待ち望んでいたかが分る。
両親が帰ってきて、さらに悟まで加わって、夕食は一段と賑やかになった。一人加わるだけで、家族ってこんなにも雰囲気が変わるものなのかと、アキは今までになく楽しい賑わいを見て驚いた。父親の破顔した顔はお酒の量と比例した。陽気になり喋りまくった。
アキもリコも、初めて見る父親の姿に、此処にいるのはほんとにお父さんなの? と言いたくなるくらいの変わり様である。アメリカの土産話など、何処かに置き忘れてしまったかのようである。
「そう言えば真理子、専務から資料受け取ったのか?」
誠一郎の顔は酒で少し赤みがさしていた。
「はい。受け取りました」
「そうか、ちゃんと読んでるのか?」
「読みました」
「そうか、現実は厳しいから、しっかりするんだぞ、いいな?」
「はい」
アキが口を挟んだ。
「お父さん、そのことについてですが、先週から講座を開いています」
「口座? どこの銀行の口座だ、誰の名義で何の為だ?」
「ふふ、お父さん、その口座じゃなくて講義をする講座」
「何だ、その講座かどういう講座だ」
「真理子鍛錬養成講座」
「真理子を鍛錬するための講座ってことか?」
「そうなの。真理子にとっては初めての就職だし、何かと不安なことが多いと思うの」
「ま、そうだろうな」
「社長の娘だからと、色眼鏡で見られないようにしならなければならないでしょう?」
「そうなんだよ。頭の痛いところなんだよな。そうでなくても今いろいろあるからな」
「そこで、悟さんにお願いして養成講座を開いたの」
「お、お、そうか、そうか、それはいいことだ」
悟の名が出た途端に、父親の声のトーンが変わった。アキもリコも目を合わせてクスッと笑った。
「専務からの資料も目を通していただいて、講座は先週から開いてるの。私も聞かせてもらってるんだけど、それはそれは厳しい講座で、ほら、よくあるでしょう? 経済界の著名な先生と言われる人の研修とか講習とか、高い費用払って、あんなのよりはるかに凄い講座よ。何だったらお父さんもお母さんも聞いたほうがいいかも」
「私もかい?」
母親がびっくりして聞いてきた。
「そうよ。そうしたら、悟さんがどういう人なのかが良く分ると思うの。講義の内容というより、お父さんお母さんは、悟さんの人間性を知る絶好のチャンスだと思うけど」
「亜希子、お前はそういうけど、俺はもうとっくに悟の人間性は分ってるつもりだよ。その証拠に今日成田まで足運んでくれたじゃないか」
父親にしてみれば、悟が成田まで出迎えに来てくれたことが、よっぽど嬉しかったとみえる。
「ふふ、そうね、そうよね、……じゃあ、明日の講義は聞かないのね?」
「えっ、明日もやるのか? 何時からだ?」
「悟さんが来てくれた日は毎日やるの。お昼の二時から二時間よ」
「二時間もやるのかよ。本格的だな。そうか、じゃあ明日は日曜日だし、仕事はないから聞かせてもらおうかな」
「じゃあ早川悟先生の講座参加料として、お二人で二十万円頂きます」
アキが笑いながら言った。もちろん冗談である。
「おいおい、身内から金取るのかよ。それにしても高い料金だね」
「ええ、そうよ。それだけ価値のある講座です。決して高くはないと思います」
「そうか。それにしてもありがたいね、第一線で働いている実務者の講義だからな。貴重な講義だな。リコはちゃんと聞いているのか?」
「はい。もうめちゃくちゃ役に立っています。こんな話、私たちだけで聞くのは勿体ないです。役員を含めた、全社員の前でやって貰いたいくらいに思っています」
「そうか。なんだか、いつもの真理子じゃないみたいだな。物の言い方が少し違ってきたな。そうだな、全社員の前でなあ、それもいいかもしれないなあ」
「勘弁してくださいよ。こんな若造が人様の前に立って講義するなんて、バカにされるに決まってますよ」
悟が両手を振った。
「いや、東京と篠ノ井じゃ天と地だ。……分った。検討しよう。真理子、お前もたまにはいいこと言うじゃないか」
「いえ、これも悟兄さんの講義の賜物です」
「そうか。お前もそこまで言えるようになったか、いよいよ楽しみになって来たぞ」
「何が楽しみなのですか?」
リコが父親の意味ありげな言葉尻を捕まえた。
「いやいや、何でもない何でもない。あはは、悟よろしく頼むぞ」
「はい。頑張ってみます」
「ところで、話変わるけど、五階の話はいいのだな、亜希子」
「ええ、先週泊まっていただきました。充分な部屋じゃないですけど、我慢していただくよりないと思いますけど」
「そうだよな、ま、我慢してくれ、なっ、悟」
「そんなこと心配しないでください。毎日じゃありませんし、寝る所があれば充分ですから」
「そうだな、昼間はここでのんびりすればいいからな、すまんけどそうしてくれ」
「分りました。いろいろご心配お掛けしてすみません」
「なーに、我が儘を言っているのはこっちの方だから、ま、悪い奴につかまってしまったと思って、気を悪くしないで付き合ってくれ」
アキは父親がほんとに変わったと思った。我が儘だとか悪い奴だとかを承知した上で悟を動かしているのである。たまげた根性である。この晩の誠一郎は終始上機嫌だった。アキもリコも、家の空気が次第に良い方向に変わっていくのではと期待した。父親がこれまでの態度と明らかに違ってきているのを見て、人間変われば変わるものだと今更ながら驚かされた。
両親は疲れたからと言って早めに寝室に退いた。
「リコどう思う? お父さんのこと」
「びっくりしたわよ、あんなお父さんて初めてよ。今まで見たことないわ」
「リコもそう思ったのね、どういう風の吹き回しかしらね」
「おそらく悟お兄さんがそうさせてるのだと思う。……絶対そうよ」
「そうね、姉さんもそう思う。悟さんの力って凄いのね」
「そうじゃないよ、お父さんにしてみれば、諦めていた息子が出来て息子に甘えているだけだよ。逃げられては困るからな」
「あら、逃げる気でいるの?」
アキが噛みついてきた。
「バカ、親父の気持になったら、意外とそんなものかもしれないよさ。親として息子に対して言うことと、娘に対して言うこととは自ずと違うだろ? いや心の、何と言うかなあ、そうだな、心の色が違うって言うか、今まで言えなかった息子向けの言葉を言いたくなっただけの話さ」
「なるほど、何となく分る気がする」
アキが納得した。
「私も分るような気がする。それを考えたら、お兄さんの存在って益々大きくなるわね」
リコは悟の顔をじっと見詰めて言った。
「そうなの。だから少し心配したことがあるの」
アキが心配そうな顔をした。
「何が心配なの? お姉さん」
「うん。二つある」
「二つもあるの?」
「そう。一つは、来年の五月には私たち式を挙げて、東京で暮らすことになるわよね?」
来年の五月に式を挙げることについては既にリコには伝えていた。二人は水面下で式の段取りをしていたのである。
「そうよね、そうなるわね。……リコ淋しくなるなあ」
「私のことはいいとして、お父さんとしたら、息子が急にいなくなってしまったように思うのではないかという心配ね」
「それはあるわよ絶対」
「そうなると、あのお父さんのことだから、元のお父さんに戻ってしまって、お母さんやリコが、また可哀想な目に遭ってしまうのではという心配があるの」
「あ、なるほどそれってあるかも。……もう一つは?」
「そうならないように、悟さんに養子になれと、そのうち言いだすのではという心配ね」
「その方がリコは嬉しい」
「バカ」
「俺の考えでは、アキの心配は全くないと思う」
「あら、どうしてそう思うの?」
「今のお父さんは、前のお父さんじゃないってことだよ。確かにアキが言うような、そういった心配もない訳ではない。だけど、俺が承知しないってことぐらい百も承知だと思うよ。既にお父さんは、俺の性格を見抜いてると思うんだよ。何せ百戦錬磨のツワモノだからお父さんは。俺が承知しないで、お父さんに食ってかかったら、さっき言ったように、逃げられては困るからそうはならないと思う」
「そっかあ、なるほどね、さっきの逃げるって言ったのはその意味だったのね。さすが思考回路が違うわ」
「何を言ってるんだい。さっきは少しは心配してくれたのかな?」
「少しじゃないわよ、凄く心配したわよ。ふふふ」
「それよりも、お父さん何か企んでるね。俺にはどうも臭うんだよなあ」
「悟さんの嗅覚は天下一品だから、聞いておく必要があるわね」
「何が臭うの?」
「もちろんまだはっきりしたことはわからないけど、多分俺の勘ではリコのことだな」
リコがびっくりした。
「ええぇー、私のこと? お兄さん急にびっくりさせないでよ」
「アキもリコもよく考えてごらん。アキの手紙はいいとして、リコの手紙を読んで、次の日にもう電話があったろ?」
「ええ、ええ、そうでした」
「その時お父さん何と言った? 真理子に専務のところに行って資料を受け取るようにって」
「そうでした。受け取ってきました」
「その時から俺は変な臭いがしていたんだよ。一つは、あのお父さんがそんなに早く、翌日だぜ、電話でわざわざ資料を貰いに行きなさいって言うか? ま、百歩譲って、ま、娘が初めて仕事するんだから、戸惑わないようにという配慮からかも知れない。それは分る。二つ目は、さっきお父さん何と言った? リコに対して。お前もそこまで言えるようになったか、いよいよ楽しみになってきたぞって言ったろ?」
「ええ、ええ、そうでした。リコもおかしいなと思ってました」
「この二つをつなぎ合わせて、俺はさっき確信したのさ。リコのことで何かあるかもってな」
「そうなんだ。お兄さんてやっぱ凄い。凄い洞察力ね。感心するわ」
「リコが感心してどうするのよ。……で、悟さんはどう思うの? どのようになると推察してるの?」
アキは悟の言葉を待った。
「それがさっぱり分らない。そのうち分るようにはなると思うけどな。だから、今後リコもアキも俺もそうだけど、この件については充分に気を配っていたほうがいいと思う。そう思わないか?」
「思う思う。リコにとって悪いことなのかしら」
リコが心配顔になった。
「いや、それはない。お父さんは優しい人だと思うんだよな。ただ娘の前では上手が言えないというか、口下手なだけだと思う。娘の不幸を願う親は一人もいない筈だからな」
「それだといいけど」
「大丈夫だよ。俺さ、さっきのお父さんの語るのを見てて、何かとてつもなく大きなプレゼントを、リコに用意しているんじゃないかなあとも思ったんだよ」
「プレゼント?」
「うん。それが何なのかは今は分らないけど、どうも、そんな風にとれるんだよな。あくまで俺の勘だけどな」
「それだといいけど、少し心配になってきたわ」
「あはは、リコは目の前のことを一つ一つ消化していけばいいんだよ。そしたら天使がニコッと微笑んで、はいリコちゃんプレゼントって言ってくれるかもしれないよ」
「そうですね。そう思って頑張ればいい訳ね」
「そういうこと。……リコ頑張れ」
「はい」
「悟さんてほんとに優しいのね、決して人を落胆させるようなことは言わないのね」
「お姉さんは、そういう悟兄さんが好きなんでしょう?」
「まあ、リコったら、大人をからかって。憎たらしい子ね」
「フフ、赤くなってる。リコも大人ですよ。……ね、お兄さん?」
「あはは、リコにはかなわないな。お姉さんタジタジだよさ」
「あら、もうこんな時間よ、まだ平気?」
アキが時計を見ながら言った。
「お姉さん、お兄さんと一緒に早く五階に上がりたいんじゃない? ……ふふ、顔に書いてある」
「もう、リコったら、怒るわよ。……それは、ごかいでしょ?」
「ふふ、お後がよろしいようで」
三人の話は深夜まで続いた。
次の日の日曜日、養成講座を開く午後二時になったが、悟が黒板があった方がいいと言い出し、会社の会議室でやることになった。会社の会議室でやることで、リコがよりリアルな感覚で、その気になって聞けるのでは、という悟の思いもあった。
アキはもちろんであるが両親も参加した。
「えェー、今日は、ロールプレイングをします」
悟は、ロールプレイング Role-Playing と横書きで黒板に書いた。言葉の意味がリコには分っていなかった。実務経験の全くないリコに対して、この段階でロールプレイングをするのは無謀とも思えた。しかし、悟には別な目的があった。
「ロールプレイングって何ですか?」
「ロールプレイングとは、アメリカで考案されたもので、実際の仕事上の場面を設定して、そこでの役割を演じることで、実務上のポイントを体で覚える為の訓練法だ。実際に演ずることで、社内資料を見て習得したり口で説明を受けるよりも、はるかに効果があり早く習得出来るんだよ」
リコは、悟の言葉や黒板の文字を熱心にノートに書いた。
「演ずるんですか? 役者さんみたいに?」
リコがノートを見ながら尋ねた。
「そうだ。リコは花岡貿易商事の女子社員、花岡真理子の役を、俺は早川悟という名で、社員や上司や重役の役をやる。想定出来る場面を考えながら進めていく。幸いに今日は社長もお見えだから、後で社長も登場していただいて演技して貰います。お父さんよろしいでしょうか?」
「何か面白そうだな。分った」
「リコは? いいかな?」
「はい。でも出来るかしら」
「最初は出来ないと思う。それでいいのだ。出来ないのが当たり前だ。だから、段々上手になってくるから心配しなくてもいいよ。これはあくまで、リコがお父さんの会社に勤め出した時に起こりうる場面を想定してやるから、その気になってやらないと意味がないよ。……いいな?」
「はい。先生よろしくお願いいたします」
父親の誠一郎はしきりに感心していた。なるほど、なるほどと頷くばかりであった。
「大事なことだからもう一度言っておく。リコはこの訓練を通して、実務をスムーズに習得・実践出来るようになるのはもちろんだが、実務で迷わないように悩まないようにするのが目的だよ。まだ社員になったイメージが湧かないかもしれないが、本物の社員になったつもりで真剣に演じるんだよ? いいかな?」
「はい。分りました」
アキも両親も成行きを固唾をのんで見ていた。黒板の前で悟とリコの訓練が始まった。リコがとまどったり言葉に詰まった時、悟が厳しい言葉を投げかけた。そして、こういう場合はこういう具合にしなさいと言いながら、何回も同じ場面が繰り返された。上手くいくようになって初めて次のステップに進んだ。後ろで見ていたアキと母親は、ハラハラして見ていたが父親は満足げであった。訓練が次第に激しくなり、余りの厳しさに、とうとうリコが泣き出した。
「先生、真理子は自信がありません。とても社員にはなれません。ごめんなさい」
アキは、リコの姿があまりにも可哀想に思えた。そこまでしなくてもと思った。
「リコ、このくらいのことで泣いてどうするんだよ。本番はこれからなんだよ。……リコは実務を経験していない訳だから、難しいのは良く分る。だがな、この壁を乗り越えない限り、リコの未来はないんだよ。分るか? ……俺はな、十年先のリコに、花岡貿易商事株式会社の二代目の社長を期待しているんだよ。今日はその第一歩なのだと思っているんだよ。俺の言ってる意味が分るか? ……だからこれくらいの訓練は、歯を食いしばってでも頑張らなきゃならないんだよ」
三週間前、養成講座の話がアキから出た時に、リコは社長を目指したら? とけしかけた経緯がある。父であり社長でもある誠一郎の前で、このことを話すことで、悟は誠一郎の考えをそれとなく伺っておきたかった。
誠一郎は悟の話を聞いて目が点になった。今まで、考えも及ばなかったことが悟の口から飛び出した。真理子が二代目の社長? ……なるほど。この野郎、何でそんな考えが浮かぶんだよ。悟は続けた。
「リコに尋ねるけど、リコはお父さんが好きか?」
泣いているリコに向かって悟は優しく言った。自分のことが出て誠一郎は悟の顔を見た。
「はい。最近とっても好きになりました」
リコはハンカチを顔に当てながら答えた。
「そうか。お父さんが必死になって、そうだよ、家庭や家族を犠牲にしながら、今の会社をここまで育て上げたきたことについては、リコは理解出来るよな?」
「はい」
「十年後のお父さんを想像したことあるか?」
「……ありません」
リコが小さな声で言った。
「十年後も、お父さんは会社の社長をしていると思うか?」
「……分りません。分ることは、お父さんの年齢が七十歳になっているということです」
「だろう? 七十歳を過ぎてまで、お父さんを働かせるつもりかい? いや、お父さんは跡継ぎがいないから、仕方なく他人に会社を譲ろうとまで考えているんだよ? ほんとにそれでいいのだろうか?」
「……」
「俺がほんとは養子になればいいけど、残念ながらそれは出来ない。じゃあ、どうすればいいかと考えた時に、リコが社長を受け継ぐのが一番いい方法だと思ったんだよ」
「……」
「そうしたら、養子縁組をしなくてもいい訳だし、リコは自分の好きな伴侶を探せばいい訳だろ? リコの思いと合致するだろ?」
「はい」
「お父さんには悪いけど、いまどき、跡継ぎがいないから養子縁組なんて古い考えだと思います。この前まで付き合っていたリコの彼も、付き合う前提が違っていた。財産目当てか会社の社長のイス目当てでリコと付き合っていたことが分った。こういうことがまかり通ると、二代目で倒産なんてことになってしまう。現にそういう会社が全国でごまんとあります」
悟は誠一郎に向かって言った。誠一郎はただ聞いて頷くばかりだった。
「……」
「何を言いたいかと言いますと、リコを二代目の社長にすべく、今から準備しておくということです。もちろん、リコがそういう器かどうかは検討する必要がありますが、男でも女でも蛙の子は蛙です。私の見た限り、鍛え方によっては、充分いやそれ以上の器だと思っています」
「……」
「この養成講座を引き受けた時から、リコが社長になるのが一番だと思ったのです。その為の訓練を今からしようと思ったのです。社長の経験のない私が、そんことを言うのは実に滑稽なことだと思います。ですが、とりあえず今は鍛錬養成講座です。これは私にも出来ます。これが終わったら、リコ自らが勉強するか、社長育成講座に切り替えて、お父さん直々に教育していくべきだと思ったのです」
「……」
「リコが社長になり、今のお父さんの年齢になったら、リコは十年計画で、自分の子供に次の社長を引き継いでもらうべく訓練を開始する。こうして、花岡貿易商事株式会社は未来永劫に生き残っていくのです。この会社が潰れてしまっては困る人が一杯いると思うんです。そうならないようにすべきだと思います」
悟は続けた。
「私は、こんな差し出がましいことを言う立場ではないかもしれません。もちろん、良く分っているつもりです。縁あって亜希子と結婚させていただくことになりました。私にとっては、人生の中で最大の喜びをお父さまから頂いたと思っています。快く家族の一員として迎え入れていただきました。人としてこれほど嬉しいことはございません」
切々とした語りに、みんな真剣なまなざしで悟を見つめていた。亜希子は涙があふれてきて、ハンカチを取り出した。悟はさらに続けた。
「せっかく頂いたこの縁を、大切にしたい気持ちで一杯です。リコも私に対して、お兄さん、お兄さんと言って慕ってくれています。私も、こんな可愛い妹が出来たことを凄く嬉しく思っています。私には妹がおりませんので尚更です」
「……」
「その妹が、仕事をしたいのと言い出した時に、お父さんに相談してみたらと言ったのです。お父さんは、きっとリコの願いを叶えてくれる筈だよと言ったのです。お父さんの英断でそうなりました。私もとても嬉しく思いました」
「……」
「私は思ったのです。リコの人生がようやく花開こうとしている、と。人生、生半可なことでは花は開かないってことは充分承知しています。しかし、私の座右の銘は一途一心という言葉なのですが、この一途一心を貫き通せば、必ず事は成就すると信じて疑わないのです。今の段階で、リコに臨むのは無理かもしれません。ですが、無理だ無理だと言っていては拉致があきません。じゃあ、いつからやるのですかとなります。思い立ったが吉日と言います。今からやろうということで、今日があります」
「……」
「長々と喋ってしまいましたが、私の考えは以上です。ですから、少々のことで泣いては困る、もっと強くなれリコ、と言いたい訳。リコ分ってくれたかな? 何か意見があったら言って」
悟はリコに向き直って言った。
「一途一心というのは、どういう意味ですか?」
「それは自分で調べなさい。そうすることで確実に自分の身に付くから」
両親も亜希子も言葉がなかった。悟の並々ならぬ気持ちが伝わってきた。父の誠一郎は唖然としていた。この男は只者ではないと初めて思った。何とも言えない底知れぬパワーみたいなものを感じ、空恐ろしくなった。この男が跡をついでくれたらと思わずにはおれなかった。
「リコ、そういうことだけど、今日はもう終わりにするかな? さっき自信がないと言っていたけど、初めから自信があったらお化けだよ。自信なんて後からついて来るものなんだよ。だから、今はなくてもいいんだよ。恥でも何でもないんだよ。諦めてしまうことが恥じなんだよ。そうは思わないか?」
「はい。そう思います」
「で、続きは、やるのやらないの? ……十年後の社長さん? 決断するのは今しかないよ、どうする? ……俺はどちらでもいいんだよ。これで打ち切りにしてもいいよ。その代り、ここで打ち切りになったら、次回はないと思っていたほうがいいよ」
悟はわざとリコを突き放した。計算ずくである。
「続きをお願いします。頑張ります」
リコがキッとなって答えた。持ち前の負けん気が顔を出した。
「おォーー、そう来なくっちゃ面白くない」
言いながら悟は、後ろの三人に顔を向けて笑った。アキは悟の優しさと、何としても事を成就させるのだという凄まじい魂を感じた。まことに愛すべき男である。
再び悟の訓練が始まった。繰り返し繰り返しこれでもかこれでもかと訓練した。そうして、時間が経つにつれて、次第にリコの表情に笑顔が出て来た。最初の頃はしどろもどろで、言葉にならなかったセリフが、言葉も力強くはきはきしてきて、顔の表情までも明るくなった。演ずることに自信めいたものが出て来て、演技に迷いがなくゆとりが出て来たのである。悟はリコの適応能力を見たかったのである。これが講座の最大の目的だった。予定の時間を大幅に超えようとしていた。
「悟さん、ここいらでお茶にしない? ……ね、お父さん?」
アキはタイミングを見計らって父に言った。アキの言葉に父は我に返った。悟とリコの演技に夢中になっていたのである。
「お、おォーそうだな。……悟、一旦お茶にしようか」
悟がリコの肩に手を回し、後ろの三人の方に足を進めた。父誠一郎は、悟を頼もしそうに見て笑顔を振りまいた。
「いやァー、ご苦労さん。疲れたろう、ま、一服してお茶でも飲もう」
母の典子はリコの頑張りにことのほか喜んでいた。そして、こんな素敵な男性と一緒に暮らす亜希子は、きっと幸せになってくれるだろうと安堵した。
「まだ講座は終わらないの?」
アキがいつまでやるのだろうと心配になり尋ねた。
「そうだね、あともう少しだね。最後は、今の社長と次期社長の演技を見て終わりにしようかね。これは見ものだよ」
「おいおい、参ったなあ。真理子にしてやられたりしてな」
「あら、お父さん自信をもちなさいよ自信を」
リコの言葉にみんな大笑いした。父はそんなリコの言葉に、たまらなく嬉しそうな顔をした。
悟は、どちらかというと両親に顔を向けて語りだした。
「最後に、参考になるいい話をします。ある女社長のお話です。甲斐オーナーと言って、今やホテル業界で、この人を知らないという人はいないだろうと思います。実は亜希子も知っている人です」
両親もリコもアキの方を振り向いた。アキは頷いていた。
「このオーナーは、悟の会社のお得意様です。このオーナーの依頼で、物件の設計を数年前から担当するようになりました。折に触れ、いろいろなことを教えていただきました。何故こんな話を持ち出したかと言いますと、このオーナーの若い時の素顔とリコの素顔が重なるからです」
リコがびっくりしたような顔をした。
「オーナーの言われるには、オーナーのお父さんが、都内で小さなホテルを経営されていたのですが、跡継ぎがいなくて、娘だったオーナーと従業員だった人と強引に結婚させてしまったのです。いわゆる政略的な養子縁組のパターンです。この従業員の方は実直で真面目な方で、現場からのたたき上げで実績を作った方で、オーナーのお父さんに可愛がられていたのですね。娘さんは社長の肩書だったのですが、それは名ばかりで、実際には婿である旦那さんが、専務という肩書で実務を取り仕切っていた訳です」
誠一郎が身を乗り出してきた。
「ところがある時、お客さんとのトラブルが起きて専務の対応のまずさに、娘さん、つまり今のオーナーですね、は激怒してしまったのです。それからというもの娘さんは猛烈に勉強して、とうとう自ら実務を取り仕切るようになったのです。娘さんと旦那さんの決定的な違いは何かと言いますと、視野の広さですね。旦那さんは確かにお父さんに可愛がられて、実務に長けてはいるかもしれませんが、視野が余りにも狭かった。それに引き替え娘さんは、しょっちゅう海外に出て、世界で繁盛しているホテルをつぶさに見て回り、ノウハウを吸収・蓄積していったのです。時間の経過とともに、二人は決定的な瞬間を迎えることになります。そして今、多くの大型ホテルを運営するオーナーになられています。今や、業界に君臨する大御所になられたのです。そのオーナーに私は可愛がられ、物件を手がけてきたという訳です」
誠一郎が何度も首を縦に振り頷いた。
「さっき、リコと素顔が重なると言いましたが、実は、このオーナーは、若い頃は気が弱くて泣き虫だったそうです。お父さんに可愛がられて世間知らずだったのです。箱入り娘を地で行っているようなものです」
リコは初めて聞く話に俄然興味を持った。
「この箱入り娘が、一念奮発して大社長になられています。私はこの話を、いつかリコに話してあげたいと、ずーっと思ってきました。今日念願がかないました。今の時代は昔と違い男も女もありません。いやむしろ、女性の方がきめ細かくて堅実です。男性みたいに、博打を打つようなところがありません。ですから業種によっては、女性の経営者の方が着実に成長する可能性を秘めています。……亜希子は、このオーナーに対して何か印象があるかな」
悟は話を亜希子に振った。
「ええ、私はこのオーナーに初めて会った時、凄いオーラを感じたのね。この辺りでは女だてらにって、女をさげすんだようなことを言う人がいるけど、このオーナーに一度会うといいと思うわ。一言でいうと、ま、近寄りがたい凄さだったわよ」
アキは、初めて悟に逢って、夜を共にしたことを思い出しながら喋った。
「私には、リコはオーナーみたいになれる素地があると思っています。今のリコには、このオーナーと同じように、無限の可能性を秘めた能力を持っていると思います。肝心なことは、このオーナーのように、広い広い視野に立って物事を進めていく能力を、必死になって身につけていくことが出来るかどうかに掛ってると思います。……どうかなリコ、何か意見あるかな?」
悟はリコに顔を向けた。
「あのね? 私そのオーナーに会いたくなりました。会える機会を作ってください」
「会ってどうするつもりなんだ?」
「お姉さんの言っていたオーラを感じてみたいのです。そしたら自分も、オーナーみたいになりたいと思えるようになると思います」
「さすがに我が妹だね。いいこと言ってくれた。よし、分った。すぐという訳にはいかないが、リコが会社勤めに慣れて、お父さんが良しと判断されるまで待って紹介してあげる。但し、オーナーの人を見る目は半端じゃないから、リコが恥をかかないように、自分に磨きをかけることだよ。そうでなかったらオーラを感じるどころか、バカにされてしまうよ。出直してらっしゃい、とね。俺の言ってる意味分るか?」
「はい。良く分ります。自分を徹底的に磨きます。お父さん宜しくお願い致します」
末娘がこんなことを言えるなんて、とても信じられない。誠一郎は嬉しさのあまり思わず泣けてきそうになった。
「よし、分った。お父さんも初心に帰って、真理子と一緒に頑張ろうと思う。ガンバレよ真理子」
「最後の最後になりましたが、悟からお父さんにお願いがございます」
「うん。何だ?」
「国内海外を問わず、お父さんが出張される際には差支えない範囲で、出来得る限り真理子を同伴させて欲しいのです。視野を広める為です。約束していただけますか?」
アキは、悟の常に先を見て語る緻密さに驚いた。しかも、そうなるように計算して仕掛けた訳ではないのに、あたかも、そうであるような風に見えてしまう凄さがある。
「もちろんだよ。願ってもないことだよ。約束する」
「リコ、良かったね。世界中を駆け巡って、リコワールドを作るんだな。イメージ出来るよな?」
「はい。今すぐには無理だと思いますが、徐々にイメージが膨らんでいくように頑張ります」
「よっしゃ。リコの決意を聞いたところでお開きにします。……お疲れさんでした」
こうして、初めてのロールプレイングは終了した。何と、延々四時間も経ってしまった。さすがに悟もリコも疲れてしまった感じだった。だが悟は、リコの高い適応能力を見て、第一段階はクリアできたと確信した。
リコも講座が始まる前の表情と打って変わって、自信に満ち溢れた表情に代わり頼もしくなってきた。
一番喜んだのは父の誠一郎だった。リコの表情に目を細め我が子の成長を喜んだ。アキは、これで花岡家は悟を中心に動いていくと確信した。おそらく父は、事あるごとに悟に相談するに違いないと思うのだった。そう思わせるくらいの養成講座だった。
五人はリビングでくつろいだ。コーヒーを飲みながら雑談した。十八時を過ぎているから悟の帰る時間になっていた。
「いやァーそれにしてもいい講義だったな。亜希子が言うように、二十万円の価値は充分あったな。五十万円払ってもいいくらいだよ」
父の誠一郎は、講義に対する評価をオーバーに表現した。
「でしょう? リコも大分自信がついたみたいだし、お父さん良かったね」
「うん。良かったよ。ほんとに」
「さっきリコも言っていたけど、会社の従業員の人達にも教育していただいたら?」
「そうなんだよ。さっきから講義を聞きながら、この方法はいいなと思っていたんだよ。未だかって、あんなロールプレイングなんてしたことないから、きっと効果があると思うんだよな。会社もそろそろ、本腰を入れて脱皮を図っていかないと、競合他社に追い抜かれてしまうからなあ」
「そうよ。東京仕込みのパワーを、全社員に植え付ける絶好のチャンスだと思うわ。会社にとって、社員教育は最も重要なテーマでしょう?」
アキにはある計算が働いていた。瞬間的に四年後のことがひらめいたのである。少しでも多く独立資金を蓄えておこうと思っていたから、会社から講座料として多額の金をせしめようと考えたのである。
少々ずる賢いかなと思いながらも、背に腹はかえられない心境だった。だから父の説得に懸命だった。
「そうなった場合の費用って、どのくらいに考えておけばいいんだろうかなあ」
アキは待ってましたとばかり父親の顔を見た。
「あのー、……」
悟が言いかけるのをアキが制した。アキは悟が何を言いたいのか分っていた。
「お父さん、これはビジネスよ。悟さんのマネージャーは私だから、私と打ち合わせしてください」
アキは勝手に悟のマネージャーになってしまった。アキは悟の方をチラッと見て含み笑いをした。悟は、アキが何か考えているなと思い、何も言わず成行きを見ていた。
「そうだな、そうするかな。亜希子と打ち合わせすればいいんだな?」
父誠一郎は悟を見て言った。悟はアキが頷いているのを見た。
「はい」
アキの顔がしめたという顔になり、悟の方を見て微笑んだ。
「よし、分った。この際いろいろじっくり考えてみるかな。……悟はもう帰るのか?」
「はい。そろそろお暇します。いろいろお世話になりました。ありがとうございます」
「何言ってるんだ、お礼を言うのはこっちの方だよ。……いや、ほんとにありがとう」
「そう言っていただくと嬉しいです」
「今度はいつ来れるんだい?」
悟はチラッとアキを見てニタッと笑った。
「そうですね。今年は今日が最後と思います。明けてから、新年のご挨拶にお邪魔しようかと思っています」
「今年は田舎に帰るのか?」
「いえ、帰りません。何かとやることがあるものですから」
「年末年始ぐらい、ゆっくり羽を伸ばしたらいいじゃないか。何だったら、年末年始はここの家で過ごしてもいいんだぞ?」
悟は、一応親の許可が下りたことにホッとした。
「そうですね。そういう風になりましたら、よろしくお願いいたします」
「君の弟は確か神戸だとか聞いていたが、帰るのか? 田舎に」
「はい。この前電話がありまして、帰るそうです」
「そうか。年老いたお母さんがいるんじゃ、帰ってあげたほうがいいね。悟には年内に一度くらいは遊びに来て欲しかったけど、ま、仕方がないな」
リコが淋しそうな顔をした。先ほどまでの講座で演じたことがまだ頭にあった。悟との迫真の演技で、悟の目を見つめたり手に触れたり怒られたりしたことで、リコには悟に対する新たな感情が宿ってしまった。
「先生、今日はほんとにありがとうございました」
「あはは、先生はよしてくれよ。お兄さんの方がよっぽど嬉しいよ」
「じゃあ、お兄さん、真理子はもっともっと頑張るから、諦めないで私を鍛えてください。お願いします」
「オォー、いいねぇー。お父さんお聞きになりましたか? 頼もしい二代目が生まれそうですよ」
「そうだな、嬉しい限りだな。後は真理子の婿だな。孫の顔も早くみたいしな」
「何言ってるのよお父さん、それは、亜希子姉さんに言うセリフでしょう?」
「あははは、そうだったな、……で、亜希子達の式はいつ挙げるんだ?」
来たー、ヤバい。まだ親には内緒にしておこうということになっていた。明けてから、新たな気持ちで話そうと思っていたのである。
「お父さん、今そのことでいろいろ二人で相談し合っているの、悟さんの仕事の都合もあるし、なかなか決まらないのよ。もう少し待って」
リコがニタリと笑った。うまいこと嘘ついてる。
「そっか。俺の予定と重なるといけないから、出来るだけ早めにな」
「はい。分りました」
悟が立ち上がった。
「じゃあ、失礼します。良いお年をお迎えください」
「そうか、もう帰るか、そちらも良い年を迎えてくれ。ここには遠慮しないで、いつでも来ていいからな」
「はい。ありがとうございます。……では、みなさん帰ります」
「亜希子と真理子は駅まで送って行くんだろ?」
「はい。そうです」
「お母さん」
誠一郎が母の典子に目くばせした。典子は亜希子を呼んで、連れ立って奥に消えた。
駅までの車の中で、アキが悟に封筒を手渡そうとした。
「何? これ」
「お父さんとお母さんから、ほんの気持ちですって開けてみて」
悟は、封筒の中の分厚い万札を見てびっくりした。
「ダメだよこんなことしちゃ。もう来れなくなるよ」
悟の少しきつい言葉にアキが慌てて言った。
「お母さんが言うにはね、電車賃も相当かかるし、息子へのお小遣いと思って、受け取って欲しんですって」
「今日の講義の料金と思えばいいじゃないお兄さん。受けとっといたら?」
リコが助け舟を出した。
「ダメだね、電車賃なんかは、こう見えても俺は少しは高給取りなんだから、全然ヘイチャラだよ。息子へのお小遣いと言ってくれるのは嬉しいけど、受け取れません。講義の金だというんだったら、こんな他人行儀なことはないよ。やっぱり俺はまだ他人なんだ、あ~あ」
悟は封筒を突っ返した。
「やっぱりねえー、お母さんにそう言ったの、そんなことをしたら、悟さん二度と来なくなるわよって。そしたら、そうかいでもねえー、悟さんも何かとお金がいるだろうし、お前からちゃんと話しておくれですって。そうしてくれなければ、お母さんが叱られるんだよお父さんにって言うの。……だから、一応預かって来ちゃったの。あまり深く考えることないじゃない。受け取ったら?」
「何度も言わせないでくれよ。二度と来なくてもいいのなら受け取るよ。それでいいんだな?」
アキもリコも困ってしまった。悟は言い出したら聞かないことをアキは良く知っていた。
「困ったわねぇー、……どうしよう」
アキがほんとに困ったような顔になった。
「じゃあ、こうしようか、俺もあんまり大人げないことを言ってもなんだから、それに、せっかくの親の好意だし、お母さんやアキ達のこともあるから、俺が受け取ったとしてアキの名義で新しく通帳を作って、……いや、敢えて新しく作らなくてもいいけど、……アキの通帳に入れといたら?」
またまた新発想だ。さすがに切れるね。
「あら、いい案ね。さすがだわ」
「仕方がないだろう。お父さんお母さんには、悟がありがとうございましたって言っていました、と話しといてくれよ。それで、その通帳の金はアキが自由に使えばいいよ、なっ?」
「そういう訳にはいかないわよ。私は毎月お小遣い貰っているんだから」
「それはそれ、これはこれ。俺にもムコ面させてくれよ頼むから」
なるほど、今度はその手で来たか。ほんとにこの男は一筋縄ではいかない男だね、と思いながらアキは、瞬間的にこれもまた四年後の独立資金だと心の中で叫び、新しい通帳を作ることに決めた。そしてニコッと笑った。
「はい。分りました、そのように致します。リコ、解決策が出て良かったね」
「何だか、お兄ちゃん達凄い尊敬しちゃう。いがみ合ってるかと思ったら、心の深い所できっちり温めあってるって言うか、理解し合ってるって言うか、お互いに思いやりの心があって、とっても羨ましいわ」
「ふふ、お褒めいただいてありがとう。これがほんとの大人のお付き合いよね」
「なるほどー、そうなんだ。見習わなくっちゃね」
車が駅に着き二人に見送られて悟は車中の人となった。
最近、毎週水曜日になると、浅田から早川のデスクに電話がある。十二月も中旬になり、クリスマスイブを三日後に控えた水曜日、その日は朝から薄曇りの日で寒かった。九時半ごろ浅田から電話があった。
「美味しいコーヒーお持ちしましょうか?」
「オー、いいねエー、頼む」
浅田が、またクリームのたっぷり入ったコーヒーを持ってきた。
「嬉しいねエー、こんなおいしいコーヒーが飲めるなんて、天国だね」
「あのー、少しお話ししたいのですが、いいですか?」
「お、いいよ。仕事の話か?」
「いえ、違います」
「そうか、うん分った」
浅田はいったん席に戻ってまた電話してきた。声が低かった。
「早川さん、今日の夜は時間取れませんか? 今日は残業ゼロの日だし」
「友誓会か?」
「ええ、そうなんです。特別集まる理由はないのですが、何となく集まろうかということになったのです」
「それだったら、彼とデートしたほうがいいのじゃないのか?」
「それが、揃いも揃って年末で仕事が忙しいそうなんです。で、三人とも空いちゃって」
「俺はあんまり気乗りがしないなあ。おのろけ話を聞かされるのかなわんよ」
「ふふ、実はそれが目的なの。早川さんは紹介した手前、おのろけを聞く義務があると京子が言い出したの」
「あはは、バカ言うなよ。そんな話ってあるかよ。……あははは、可笑しい、……ということは、順調に行ってるって思っていいのだな?」
「はい。京子なんかは、とんとん拍子で進んでるみたいですよ」
「そっか。俺はそれを聞きさえすればいいよ。君たち三人で楽しんでくれ」
「あら、急に冷たくなったのですね」
「あはは、良く言うよ。……それより、今年のイブは特別な夜になりそうだな?」
「はい。三組ともちゃんと予約してあって、舞台は整っています」
「そっか。それは何よりだ。うんうん、結構、結構。……君はもしかしたら、来年の初めにでも会社を辞めることになりそうか?」
「はい。中村さんから何か連絡は入っていませんか?」
「いや、あいつからは今のところ何も連絡してこない」
「そうですか。一応その線で進んでいます」
「ということは、浅田は中村を気に入ってるんだな?」
「ええ、とっても素敵ないい人で、たちまち好きになりました」
「おいおい、社内でおのろけかよ」
「ふふ、すみません。……早川さんはイブは?」
「何にも予定ないよ」
早川は嘘をついた。
「嘘でしょう?」
「ほんとだよ。当分は無理だな社宅で寂しくテレビでも見るさ」
「そうなんだ。私たちだけで楽しんで罰が当たらないかしら」
「あはは、そんなことある訳ないじゃないか。大いに楽しんだらいいじゃないか。独身のイブは今年が最後になるだろう? 来年は子連れのイブになりそうだな」
「あら、ほんとだ。そうなるかもしれませんね。赤ちゃん抱いてイブか。いいかも」
「あはは、……という訳で、せっかくのお誘いだけど、今日は遠慮する。みんなによろしくな」
「そうですか? 残念だわ。……はい。分りました」
女性三人の心が、紹介した男性のそれぞれの心に宿したことはとても喜ばしいことだし、そうなるように懸命になった訳だから、恋のキューピットの役割は果たしたと言っていいだろう。だが、実際にこうなってしまうと、何だか少し寂しい気がしないでもない。クリスマスイブの日の、三組の男女の喜びに満ちた笑顔が目に浮かんできた。……みんな幸せになるんだぞ。……さようなら。
十二月二十二日の夕方は東京は快晴だったが寒かった。悟は仕事を終え、東京駅から新幹線に乗り長野駅に向かった。長野駅までは約二時間の乗車である。途中時々空から雪が降り出した。長野駅で乗り換えて、篠ノ井駅に着いた時は二十一時を回っていた。
駅の灯りで辺りがうっすら雪化粧しているのが見えた。空気がかなり冷え込んでいる。悟は思わずコートの襟を立てた。幸いにアキが車で迎えに来てくれていた。駅近くの駐車場は、数台が雪をかぶっていた。車の中は暖房が利いて暖かかった。悟はドアを開け助手席に身を任せた。二人は抱き合い軽くキスをした。
「出迎えありがとう。雪だな、東京は快晴だったのに」
悟がポツリと言った。アキはエンジンキーを回し。ギヤを入れアクセルを踏んだ。ワイパーが雪を払っている。
「そうね、長野は海に面してないから特に冷え込むのよね。もう冬になったのね。寒かったでしょう?」
「そうだね、……元気だった?」
助手席からアキの顔を覗き込んだ。
「ウフッ、あんまり見ないで。すっぴんだから」
「すっぴんの方がきれいだよ。キスしていい?」
「ダメッ、事故起こすわよ。雪道は結構神経使うんだから」
アキはそれでも嬉しそうだった。片手で悟の手を握った。柔らかく温かい手である。
「その後変わったことない? 花岡家は」
「大有りよ、もう大変なことになってるのよ」
「えっ、何があったの?」
「ふふ、運転中はダメ。後でゆっくりお話ししてあげる」
「分った。俺を迎えに行くと言って家を出た訳?」
悟が尋ねた。
「ううん。ジュースが切れたから、買いに行ってくるって嘘を言って出て来たの」
「この前のリコの手を使ったんだ。リコは怪しまなかった?」
「さあ、そんな様子じゃなかったわよ」
「俺が来ることを、みんなには知らせてあるの?」
「ううん、例のごとく劇団アゴによる驚き芝居の始まりよ」
「お、そうか、それはいいね。楽しみだな。……じゃあさ、何事もなかったようにして、アキが先に家に入り、中から鍵をしてくれる?」
アキは、悟が何を考えているのか察しがついた。意地悪心が動き出したのである。
「で、何分後くらいにインターホン鳴らすの?」
「十分後くらい」
「寒くないかしら」
「まだ暖が残っているから、そのくらいは大丈夫だろう」
寒い夜に、こんな手の込んだことをするなんて。アキは、悟のらしさを思って心で微笑んだ。
悟はいつも言っている。何でもない日常の出来事でも、知恵をだし工夫を凝らすことで、感動を伴った驚きを与えることが出来る。驚きが大きければ大きいほど感動もまた大きくなる。時にそれは、大きな喜びに変わることさえある。そんな日常を常に考えることが大切だと。
アキは、そっと音を立てずに車から降り、家の中に消えた。
門灯が雪をかぶり、辺りを薄っすらと照らしている。花岡誠一郎の表札も雪に半分埋もれていた。南国鹿児島ではおよそ見られない光景である。雪は音もなく静かに降り注いでいた。
悟は、腕時計で十分程度経過したのを確認して、車から出て玄関に向かった。玄関の手前の石畳も植栽も薄っすらと雪をかぶり、地面すれすれに配置された薄明りのスポットライトが、綺麗な風情を浮かび上がらせていた。絵にかいたような雰囲気を醸し出していた。
玄関灯が悟の顔を照らした。手に持っているバッグは三泊四日に膨らんでいた。
最近は、防犯の為にモニター付きのインターホンが当たり前になってはきているが、目の前のインターホンは、まだ当たり前ではなかった。悟はインターホンのボタンを押した。暫らくして声が聞こえてきた。多分こんな夜遅くに誰だろうと思っているに違いない。
「はい? ……どちら様でしょうか?」
丁度インターホンの前にいた母親の典子が受話器を取った。
「夜分すみません。スペースサトルと申します」
「えっ、スペースサトルさん? ……あのー、もう一度お名前お願いします」
傍で聞いていたリコが、受話器を母から取り上げて、ガチャンと元に戻して飛び出して行った。母親のあっけにとられた顔を見て、アキがクスクス笑った。
リコは玄関灯に映っている人影を見ながら、急いで玄関のカギを回した。戸を開けてバッグを抱えて立っている悟に抱きついた。
「お兄さん、……来てくれたの? ……嬉しい」
リコは、両足で何度か飛び上がって喜びを爆発させた。リコの明るく弾んだ声が降る雪に吸い込まれた。リコの顔が玄関灯にくっきり浮かび上がった。すっぴんだった。悟はこの時、アキと違うリコの美しさをみた。意識して見たことがなかったが、改めてみると、ゾクッとするような美しさである。
「こんな雪なのに、……歩いてきたの? ……それにしては濡れてないわね。あ、そうかタクシーで来たんだ。……寒かったでしょう?」
リコは勝手に喋って、悟からバッグを取り上げ、手を引いてリビングルームに足を運んだ。
「お母さんお姉さん、悟兄さんが来てくれたんだよ」
リコの声は弾んで大きかった。
「こんばんは。お言葉に甘えて来てしまいました」
悟は母親の典子の前に進み出て、深く頭を垂れた。
「まあ、いらっしゃい。来て下さったのね。嬉しいわ、……さ、ゆっくりして」
母の顔も嬉しそうだった。急ぎ足で奥に消えた。アキが悟に近づいて来て言った。
「スペースサトル様、お疲れ様でございます。お会い出来て嬉しゅうございます」
リコは、意味ありげなトーンのアキの語りと、悟の顔の表情を見て、またしてもやられたと直感した。だが、素知らぬ顔をしようと思った。だったら、こちらも意地悪してあげる。
「あら、お姉さんジュース買いに行くと言って出たのに、ジュースどうしたの? 買ってこなかったの? それに、いつもより少し時間が掛かったんじゃない?」
アキは来るだろうと思っていた。
「酒屋さんとかコンビニに行ったんだけど、飲みたいのがなかったの」
「何のジュース?」
「アポロジュース」
「えっ、アポロジュース? そんなの聞いたことがない」
どうせ、言い訳の嘘八百を並べてると分っていても、続けざるを得ない。
「そうなの? 最近出たばっかりのジュースだと思っていたのに勘違いかしら」
まあ、ぬけぬけと。
「で、どうしたの? こんな寒空にウロウロしてたの?」
「仕方がないから、駅の自動販売機にないかしらと思って行ったら、あったの」
「えっ、アポロジュースがあったの?」
リコも負けてはいない。ほんとに驚いたふりをした。
「私の勘違いだった、アポロじゃなくて、サトルジュースだった。コインを入れたらスッと出て来たよ。ほらこのジュース」
アキは悟を指差した。
「ま、呆れた。私を騙したのね?」
「ふふ、それにしても、こんな大きなジュースが、よく自動販売機に入れたわねぇー」
リコは、話を巧みにすり替えられ呆れてしまった。姉の方が一枚上手だと認めざるを得なかった。暫らくして、ドタドタと急ぎ足の音が聞こえて、父の誠一郎がリビングルームに入ってきた。悟の顔を見て破顔した。
「お、おォー、悟か、よく来てくれたな。寒かったろう? ……亜希子、何突っ立てるんだ。何か体が温まる飲み物でも出さんか、ったく気が利かないんだから」
父の独壇場が始まった。
「急にお邪魔してすみません」
「何言ってるんだ。お前の家じゃないか。ま、ゆっくりくつろいでくれ。俺はまだ少しやることがあるから」
「ありがとうございます」
「あ、それと折り入って相談があるんだが、明日にでも亜希子を交えて打ち合わせしたいんだが、そのつもりでいてくれ」
「分りました」
「亜希子、五階は悟がゆっくりくつろげる様にしてあるんだろうな? 今夜は雪も降ってるし、悟も一人じゃ淋しいからお前も一緒にいてやれよ。……なっ?」
なんて優しい父親だ。雪が嵐にならなければいいが。アキは内心嬉しかった。悟との夜を公認したようなものである。
「はい。お父さま、今夜からそうさせていただきます」
「ただし、社員には悟られないようにな。いっそのこと、庭の空き地に離れでも作るかなあ」
「お父さんそれは無駄ですよ。一時の間ですから。私のことでしたら心配しないでください」
悟が手を振りながら誠一郎の顔を見た。
「そうか、じゃあ、暫らく不便をかけるが、よろしく頼むな」
「はい、こちらこそよろしくお願い致します」
父誠一郎は、リビングルームを出て奥に消えた。母の典子も一緒に消えた。
「悟さん、お食事は?」
「ありがとう。軽く済ませてきた」
アキは、悟に食事は家でするように前もって言ってあった。にもかかわらず済まして来たという。
「軽く?」
「あんまりお腹が空いてきたから、売店でパンを一個かじってきた」
「そう、じゃあ、今支度するから少し待っててね」
リコはやっぱりと思った。姉の料理の作り方がいつもと違い、どうもおかしいと思っていたのである。この二人のコンビには、言葉には出さなくても、隙間のない愛がお互いの全身に満ち満ちていると感じた。
「リコは最近少し変わったか? 何となくそう見えるね」
悟はリコの目をじっと見つめた。リコも悟の目を見つめ返した。
「ええ、少しは女らしくなったかしら」
「そうだね、大人っぽくなったね。前より大分魅力的になってきたな」
「ほんと? ありがとう。みんなお兄さんのお蔭です。……なんだか、生きて行く自信めいたものを感じています」
「それは何よりだ。ま、まだ始まったばかりだからな、これからだからな」
「はい。一途一心で頑張ります」
「おや、調べたのか?」
「はい。調べました。いい言葉ですね。すっかり気に入りました。リコもお兄さんと同じように、座右の銘にしたいと思います」
「そうだね。いいことだね。その言葉を筆で書いて部屋に掲げておくといいよ」
「はい。そうします。……お兄さん明日も講座あるの?」
「ん? そうだな、リコはやって欲しいと思ってるの?」
「はい。是非お願いします。リコもあれから自分なりに、いろいろ想定して一人でやってみたのですが、やはり一人じゃ上手く行かなくって」
「お姉さんとやったらいいじゃない」
「嫌だあ、お姉さんとは恥ずかしくって出来ない」
「あはは、お姉さんも会社勤めしたことないから無理かもな」
「ええ、だからもう一度ロールプレイングしたいの。復習のつもりで」
「そうだな。うん。やるかな」
「はい。よろしくお願いします」
リコが真剣なまなざしで頭を下げた。段々本物になってきたようである。
「よっしゃ、分った」
アキが料理をダイニングのテーブルに並べた。
「ねえ、今日は三人で一杯やらない?」
アキの提案にリコが手を叩いて賛成した。
「あれっ、リコはお酒いける口なの?」
「いーえ、あんまり飲めませんが、今夜は何だか飲みたい気分です」
「そっか、下戸三人じゃまるで殿様ガエルだな」
悟の言葉にアキが返した。
「何です? 殿様ガエルって」
「ゲコ、ゲコ、ゲコって鳴くだろ?」
三人は悟のダジャレに大笑いした。テーブルにビールが出され乾杯した。悟はアキが作ってくれた料理を上手そうに食べた。
「お兄さんにお聞きしたいことがあるんですが」
「うん? 何?」
「やっぱり、おいしい料理を作ってくれる女性がいいのかしら、男性は」
「俺はそう思う。家に早く帰りたくなると思うよ。それに、手料理って一種の愛情の表現だと思うんだよな」
「愛情の表現? 料理がですか?」
「そう、一生懸命に愛情を込めて作ると、自然と料理の作り方も早くなるし上手になるし、味も美味しく作れるようになる思うんだよな。義務感で作ると、味が逃げて行ってしまうような気がするんだよなあ」
「そうなんだ」
「だから、男性から見たら、料理が上手で美味しかったら、それだけでも幸せになったような気がすると思うよ」
「そっかあ、やっぱりなあ。私も料理の勉強しようかしら。お姉さん教えてくれる?」
「何言ってるのよ。リコだって結構上手に作るじゃない。なんだったら明日の晩は、リコが作って悟兄さんに食べて貰ったら?」
「嫌です。美味しくなくて、お兄さんに嫌われたくないもん」
「ふふ、じゃあ、お姉さんとロールプレイングしようか? お料理講座」
アキが意外な提案をした。
「おォー、アキ、それ、いいじゃん。いいじゃん。料理が上手になるのは、とっても大事なことだから、いいと思うよ」
悟は手を叩いて賛成した。
「リコ、やる?」
「今は会社の仕事のことで頭が一杯だから、落ち着いてからお願いします」
「よっしゃ、任せときなさい。と言いたいところだけど、来年の四月いっぱいまでだよ。いいわね」
「分ってる、分ってる。ああ、来年から忙しくなりそうだわ。大丈夫かしら」
「あは、リコも大分話し方に余裕が出て来たな。頼もしくなってきたな、……なっ? アキ?」
「そうなの、いままで可愛い妹だと思ってたのに、最近は憎たらしい妹になってしまって、ちっとも面白くない」
「あはは、いいことだよ。それだけレベルが上がってきた証拠だからな、……なっ? リコ?」
「その通りです。面白くないとは何事じゃ面白くないとは、言葉を慎みなさい」
リコが胸を張って威張った。
「まあ、憎たらしい」
アキが呆れてしまった。三人は大笑いした。アキとリコの顔がビールでやや赤みを増してきた。二人とも一段と色っぽく美しくなった。
「明後日の段取り出来てるの?」
「イブ?」
「そう」
「ばっちりよ、ね、リコ」
リコが指で丸を書いた。
「お父さんお母さんには内緒なんだろ?」
「モチよ。びっくりさせてやるの。そこで、悟さんにやってもらいたいことがあるの」
「えっ、おいおい、何だよ。また何か二人で企んでるな?」
「そうなの、今言うと面白くないから当日言います」
リコが意地の悪そうな顔をした。
「リコ、その顔なんだよ。意地の悪そうな顔をして」
「ふふふ、当日のお楽しみね。ね、お姉さん?」
「そうね。ちょっとした見ものね。楽しみ~」
深夜近くになった。アキがちょっと用事があると言って席を外した。十五分位してアキが寒そうな格好で戻ってきた。
「悟さんお疲れでしょう? もう休む?」
「いや、もう少し語り合おう、明日は祭日だから会社は休みだろ?」
「そうね。そうだと思います」
「そしたら、遅くまで寝ておれるから、今夜はもっと語ろう、なっ? リコ」
「私は嬉しいけど、少し酔ってきちゃった。眠たくなってきちゃった。……もう寝ます」
リコには、アキがさっき何のために中座したか分っていた。リコはわざと気を利かした。早く二人にさせてあげたかった。
「そっか、じゃあ寝るとするか。明日もあることだし、リコおやすみ。……いい夢見てな」
悟が立ち上がってバッグを手にした。
「はい。じゃあ、また明日。お兄さんおやすみなさい。お姉さんおやすみなさい」
リコは、アキと悟に頭を下げて部屋を出た。後姿が淋しげであった。
アキは一旦自分の部屋に戻り、身支度して戻ってきた。手提げ袋を提げていた。
「さ、行きましょうか」
アキと悟は、勝手口から会社の五階に向かった。
リコは自分の部屋に戻り、窓から会社の五階の灯りがつくのを見た。何故か無性に淋しい思いがした。しかし、今自分の人生の中で与えられたやるべきことは、一途一心で仕事をしマスターすることだ。一時的な感情に惑わされてはいけない。近い将来必ず、必ず自分の思いを果たすのだと心に強く誓った。
飲めない酒を無理して飲み、ベッドに横になった途端に睡魔が襲ってきた。そのまま深い眠りについた。
悟は部屋が暖かいのに気づいた。改めて、アキの心優しい気配りを感じた。
「もう少ししたらお湯が沸くと思うから、お風呂に入ってね。今日は寒いから、ゆっくり湯船に浸かったほうがいいわよ」
「そうだな。ありがとう」
「湯船のお湯は蓋をして残しといてね」
「分った」
アキがテレビをつけた。
「見る?」
「いや、アキと話した方がいいや」
「そうね。最近いい番組がないし、ここはチャンネル数が少ないから、つまらないわね」
アキはテレビのスイッチを切った。
「あのさ、車の中で言っていたことだけど、お父さんが大変だったの、って言ってたじゃない?」
「ああ、そのことね、……もう解決しちゃったわ」
「えっ、どういうことだよ」
「あのね、お父さんたら、今度悟はいつ来るんだ、いつ来るんだって毎日のように言うの」
「へェー、そうなんだ」
「その挙句に、アキ、お前がちゃんとしていないからじゃないか? 悟はいつ来るんだ? もうしつっこく聞くの」
「ほォー、狂ってきたな?」
「そ、そ、そんな感じ。すぐ電話して、今度いつ来るのか聞いておけ、ですって」
「あはは、マネージャーも大変だな」
「何よ、他人事みたいに言って。お父さんを狂わしたの悟さんだからね」
「あはは、俺のせい? そう言われればそうかもな。だけど、毎晩電話してるのに、そのことは一度も言わなかったじゃないか」
「そんなこと悟さんに言う訳ないでしょう? ……狂人にいちいち付き合っておられないわよ」
「言えてる。それにしても、お父さんもお父さんだよなあ、大人げない」
「でしょう? ……そう思うでしょう? ……たまらないわよ」
「で、今日俺が来たから、病気が急に治ったって訳だ」
「そうなの。見たでしょう? あの態度。その上、亜希子今夜は雪も降ってるし、悟も一人じゃ淋しいから、お前も一緒にいてやれよだって。歯の浮いたようなこと言って、開いた口が塞がらないわよ」
「丁度良かったじゃない、お墨付きを貰ったようなもんだよ。あは、これって、アキの作戦だったりして」
「うふふ、してやったりだわ。まったく人騒がせな人なんだから」
「ということは今夜は? 今夜だね?」
「はい。そういうことにさせていただきます」
「何と物分かりの良いお父さんなんだ君のお父さんは」
「悟さん、少しは覚悟しといたほうがいいかもよ、そのうちほんとに、東京に戻れなくなるかもしれないわよ」
「あはは、来週は重症で入院したりしてな」
二人とも愉快に笑った。
「それと、さっきお父さんが、明日相談したいことがあるって言ってたけど、何だろう。……分る?」
「おそらく研修会っていうか、ほら、先週社員のロールプレイングの話が出たでしょう? その件よきっと」
「あ、なるほど。そうかもな。その件はマネージャーに任せてあるから。よろしくな」
「まあ、他人事みたいに。三人で打ち合わせしたいと言ったのは、悟さんに直接確認を取っておきたいのだと思うわ」
「そんな感じだね」
二人は同時に頷いた。
「あ、ちょっと待ってて」
アキが浴室に走った。
「もういいわよ。入ってきたら?」
「アキは?」
「後でさっと浴びるわ」
暫らくして部屋の明かりが消えた。外の雪は相変わらず降り続いていた。
次の日の祭日は、一転快晴になった。アキは朝早く起き、悟から離れて着替えた。すやすやと眠っている悟の額にキスをして、部屋のドアを開けカギをした。エレベーターを降りて外に出た。
辺り一面が雪で真っ白だった。まだ闇がかっている薄明るい中を、昨夜からの雪を踏みしめながら歩き勝手口から家に入った。勝手口のドアを閉める時、いま歩いてきた後を振り返り、降り積もった雪に残る自分の足跡を見て、バレバレだと苦笑いした。
玄関の戸を開け、ポストから新聞を取り出した。雪の上に、新聞配達人の足跡がくっきりと点在していた。リビングルームに新聞を置き自分の部屋に戻った。
悟は七時半ごろ目が覚めた。洗面所に行き髭をそり洗顔した。浴室を見た。浴槽の中がきれいに掃除されていた。布団を押入にしまい込みベッドをソファに戻した。
窓辺に立ち外を眺めた。五階の窓の外は明るかった。空には雲一つなく、昨夜の雪が嘘みたいに思えた。東京で見る雪景色とは色合いが違って見える。なかなか良い風情である。テレビをつけ、八時のニュースを見ていた時携帯が鳴った。
「悟さん起きてる?」
「おはよう。今テレビ見てる」
「おはようさん。こっちにいらして、ご飯よ」
「分った」
「悟、今日も講座するのか?」
食事をしながら誠一郎が尋ねてきた。
「はい、いつもの通り十四時からです」
「今日はどういうテーマだ?」
「先週の復習をします。それが終わりましたら、次のステップに行きます」
「次のステップでは何をするんだ?」
「はい、応用問題を徹底的にやります」
「応用問題? 例えばどういうことだ?」
今にも、箸をおいて喋り続けてしまうような雰囲気になってしまった。いつもは黙々と食べて早めに終わっていた朝食が一変した。
「お父さん達、まず食事を終えてから、ゆっくり語ったらどうなんですか?」
母の典子が、珍しく諭すような口調で口を挟んだ。
「あは、母さんすまん、そうだな、……あはは、すまん」
滅多にない朝食が、誠一郎の気分を高揚させ機嫌が良かった。食事を済ませ、誠一郎と悟はリビングルームのソファに腰を下ろした。
「リコもこちらにいらっしゃい。一緒に聞いておいた方がいいぞ」
悟が台所で手伝っていたリコを呼んだ。
「はい。今行きます」
リコの明るい元気な声が聞こえた。暫らくして、リコは二階の自分の部屋に駆け上がり、ノートを持って戻って来た。そして、ニコニコしながら悟の左横のソファに腰を下ろした。
「お父さん、最近のリコを見てどう思いますか? 何か変化は感じられますか?」
「そうなんだよ。実は俺もそのことを悟に言いたかったんだよ。……あのな、まず一言、人間て、しかも女だよ」
「お父さん、その女だよって言う、偏見したような言い方は良くないと思うのですが。男も女も関係ないと思います。同じ人間です」
「ん? あ、そうか、そうだな。俺もまだ昔人間だな。リコ、すまんな。……えーと、じゃあ、もとい、最近お真理子を見て、人間てこんなにも変わるものかとびっくりしているんだよ」
「どういう風に変わったと思われるんですか?」
「そうだなあ、なんて言うかなあ、もうへなへなした娘ではなくて、立派な大人の女性って言うか、……なんか、俺は表現が下手だなあ」
「いえ、良く分ります。頼りに出来るような人間になった、とおっしゃりたいのでしょう?」
「そ、そうなんだよ。そのうち、頼んだことをキチットやってくれそうな、そんな期待感を抱かせるようになった、って言ったほうがいいかなあ。我が娘として段々頼もしくなってきたのは確かだな」
「リコ、聞いたか? 最高の誉め言葉だぞ。良かったな。リコの努力の賜物だよ」
「はい、ありがとうございます。まだまだ、こんなものでは恥ずかしいですから、一途一心で頑張ります」
「リコは最近、一途一心を良く口にするようになったな」
「昨夜お兄さんに言われて、今朝、筆で書いて部屋に掲げました。そしたら、不思議な気持になりました」
悟がリコの横顔を見た。リコがニッコリして悟を見た。誠一郎もリコの言葉に興味を示した。
「不思議な気持?」
「はい。その四つの文字をジィーと見て、何回も読み返したら、あら不思議身、体中に力が湧いてくるんです。よし、今日も頑張るぞって気持ちになります」
「それをアファーメーションっていうんだよ。……そうか、そうか、それは素晴らしい、……ねえ、お父さん?」
悟が我がことのように喜んだ。リコはアファーメーションとノートに書いた。
「うんだな。悟、今だから言えるけど、俺は大いに反省しなければならないな。こんな娘の能力を、全然無視したって言うか、娘であるという以外に何も考えた事がなかったからなあ。情けない親だな俺は。これで社長をやっているんだから、俺の会社も大したことないよ」
「いえ、親なら誰でも同じような考えだと思います。人材人材と叫びながら灯台下暗し、お膝元に優秀な人材がいるのにそれに気づかない。勿体ない話ですね。心のバリアを取り払わないといけませんよね」
「だな。悟の言う通りだよ」
誠一郎は、リコが日に日に成長していく姿が、嬉しくてたまらないという顔をした。
「お父さん、私を気づかせたのは悟お兄さんですからね、……でしょう?」
「うんうん、その通りだ。この男は大したもんだよ。人の心を変えていくって言うか、気づきを与えてくれるって言うか、俺も気づかされた一人だが、なかなかいないよこんな男は。どこから来ているんだろうなあ、このパワーは」
「お父さん、そんなこと全然ありませんよ。それはちょっと買い被りですよ」
悟が手を振りながら謙遜した。その時、奥からアキと母親がコーヒーを運んできた。
「お前たちもここに掛けろ。一服しよう」
「丁度いいわ、お父さん。お姉さんにも聞いてみたら? お兄さんのこと」
「お、そうだな。亜希子から見た悟はどういう奴だ?」
「まあ、お父さんったら、そんな間抜けで愚かな質問してー、私が惚れた人だもの、それは素晴らしい人に決まってるじゃない。……私に言わせたいの? ……じゃあ、言うわよ。世界中探してもこの男以上の男はいないってこと。……ふふふ、言っちゃった。一度みんなの前で叫びたかったのよねー」
「あはは、亜希子にはかなわないね。食事したばかりなのに、こりゃまたご馳走さまでした」
「美味しかったでしょう?」
一同大笑いになった。
「そうじゃなくてだな、どういう性格の奴だということを聞きたいんだよ」
「お父さん、そんなこと敢えて言うことないでしょう? だって、悟さんの性格に一番魅力に感じているのは、お父さん自身でしょう? ……どうなの? 今まで見て来た男性の中で、悟さん以上の人に会ったことがあるかしら?」
アキは胸を張って威張った。そんな人と会ったことないでしょと言わんばかりである。
「そうだな。多分ないかもな。この若さで、これだけの考えを持った奴はまずいないだろうな。亜希子はいい奴と巡り合ったな。そう言えば、聞いたことなかったけど何処で知り合ったんだ?」
誠一郎がアキを見て言った。
「あら、お話ししたような気がしてたけど、まだだったかしら。そうそう、きっかけについては手紙に書いたような気がするけど、何処で? となるとお話ししていなかったかもね。……あのね? レトロ列車で知り合ったの」
「レトロ列車? 何だ、それ」
「何でもいいの、とにかくレトロ列車の中で出会ったのっ、それ以上聞かないで。悟さんと亜希子の宝物なんだから」
「そっか、分った。それにしても良かったな。そのなんだ、亜希子は、悟に一途一心で尽くすことだな」
「まあ、お父さんまで一途一心を言うなんて、あきれたパクリ方ね」
リコが、その言葉は、軽々しく使って欲しくないと言いたげだった。
「あはは、……あれっ、どこからこんな話になったんだ? 何を話してたんだっけ?」
「大分脱線しましたね。リコの講座です。応用問題のこと」
「おおー、そうだった応用問題? 例えば、どういうことだ? と俺が聞いたんだっけ?」
「そうなんですが、その前にお聞きしたいことがあります」
「うん? 何だ?」
「二つあります。一つは、この前リコが専務から受け取ったという資料のことですが、私もじっくり目を通して見たのですが、あの小冊子は、タイトルが女性社員の心得ってなっていますよね」
「そうだな。それがどうしたんだ?」
「あれはあれで大事なことですし、リコは確かにもうすぐ女子社員には間違いないのですが、もっと別な資料とかはないのですか?」
「別な資料というと?」
「例えば、もっと実務に即した、レベルの高い資料とかですが」
「実務のことか、あることはある。商品仕入れとか価格のことや利益の出し方など、各担当者が知っておかなければならない一通りのことが書いてある資料だ」
「それも今のうちに、リコに渡していただく訳にいかないでしょうか?」
「リコにはまだ少し早いのではないか?」
「いえ、今のリコでしたら大丈夫だと思います。むしろ、なるだけ早く渡しておいた方が、リコの為になるかと思います」
「そうか、悟が言うのであれば月曜日にも用意させようか?」
「是非お願いします。今後の講座の資料にもなりますから助かります」
「悟も勉強するのか?」
「はい。この際ですから、業務について一通り知っておきたいと思います」
「お、そうか、それなら分った。悟と真理子の分の二部用意させるから、真理子、月曜日にお父さんのところに取りに来い」
「はい。分りました、社長」
「お、堂にってきたな」
会話が弾んできた。悟が話を続けた。
「もう一つは、お父さんにお願いなのですが、十年計画を立てて欲しいのです」
「十年計画? 会社のか?」
「いえ、リコのです」
「リコの十年計画? どういうことだ?」
「リコが十年先に確実に社長になれるように、カリキュラムを作るのです」
アキが驚いた。と同時にまた始まったと思った。目標が決まると、それに向かって、とにかく邁進しなければならない癖が身についていた。
「どうすればいいのだ?」
「お父さん自身は、社長とはこうあるべきだ、みたいなものがありますよね?」
「まあな。俺なりに思っていることはあるさ」
「それを、十年のスパンで落とし込んでいくのです。一年毎の達成すべき目標を掲げて、リコがその目標を達成出来るように、いわゆる帝王学を学べるようにしていくのです」
「リコ鍛錬教育十年計画みたいなものだな?」
「みたいじゃなくて、そのものです」
「そうか、なるほど。計画書を作れば目に見えてイメージ出来るから、達成されているかどうかがチェックし易いって訳だな?」
「そういうことなんです。ただ漫然とイメージしていては、やたらと時間が経過するばかりで、効果は薄いと思います。十年なんてあっという間だと思います」
「なるほど、リコはどう思う?」
先ほどから父誠一郎も、真理子のことをリコというようになった。
「私もそういうのがあればイメージし易いですし、はっきりとした目標があれば、それに向かって頑張れると思います」
「アキはどう思うか?」
「ええ、私もリコの言う通りだと思います。さすが我が悟さんですわ。着眼点が違いますね、社長」
「聞くんじゃなかった。またおのろけかよ。……確かにな。会社の役員や従業員に聞かせてやりたいよ、ったく。そんな考えを持った奴は一人もいやしない。情けないね」
「社内教育の問題だと思うわ」
アキが突っぱねたように言った。
「それを言うな。俺のやり方を批判されているようで、すかん」
「ごめんなさい。でも当らずとも遠からずでしょ?」
「あは、悟、お前アキまで教育しやがって、あんまり図星なことを言われると、もう社長やるの嫌になるよ」
誠一郎はふて腐れた顔をした。
「あは、じゃあ、月曜日からリコに社長になってもらいますか?」
「おいおい、悟も図に乗りやがって、……なーに、まだまだ俺の目の黒いうちは譲れない。リコ、悔しかったらお父さんを追い抜け」
「分りました。お父さんにお酒を飲ませて、その隙に社長になります」
「何? どういう意味だ?」
「お父さんはお酒を飲むと目が赤くなるから、その隙に」
これがみんなに受けた。大爆笑になった。リコなかなか言うじゃないか。
「お父さん、今申し上げた二つの件を、是非とも実行してください。お願いします」
悟は真剣なまなざしで誠一郎を見た。
「分った。やろう。いつもながら、いい案を出してくれてありがとう。……助かるよ」
「いーえ、ご理解いただいて嬉しいです」
「また、脱線したな」
「そうですね。応用問題の件ですが、先週やりましたロールプレイングは今日十四時から復習をするのですが、これはあくまで決まったパターンのやり方です。とりあえずリコが、実務に適応出来るかどうかを見たい為にやったものです。実際にはもっと違ったパターンのこと、つまり実務に即したことをやっておく必要があります。今日はそれを徹底的にやろうと思っています。アドリブが大分多くなります」
「悟さんは、またリコの泣き顔が見たいのよね?」
アキが悟の顔を見て笑いながら言った。
「いや、賭けてもいいけど、多分リコはもう泣かないと思う」
「賭ける?」
「いいよ。何を賭ける?」
「オレンジジュース」
アキと悟がほぼ同時に口にした。大笑いとなった。
誠一郎が真面目な顔で口を開いた。
「俺は今思ったんだけど、今の今まで一度たりともこんな風にして家族会議? ……か? ……したことがなかったんだよな」
「そうね、初めてだわね。お父さんにそんな考えがなかったからだと思うけど」
アキが相槌を打った。
「そうなんだよ。俺に聞く耳がなかったからだよな。だけど、こうしてやってみると、会社の役員会議よりもずーっとましな会議だよ」
「きっと悟さんが加わったからよ。……ね、お母さん?」
アキがさっきから黙って聞いている母の典子に話題を振った。
「私には良くわからないけど、悟さんがここに初めてお見えになった時から、家庭の雰囲気が、まるで変わってしまったことは確かよね。みんなの一人一人の気持が手に取るように分るし、伝わってくるのね。これって、家族の絆がだんだん強くなって行ってるってことでしょう? とっても素晴らしいことだと思うの」
悟は、典子の意見を初めて聞いたような気がする。母親らしい、とても意味のある言葉を聞いたような気がした。見ているところはちゃんと見ていると思った。さすがである。誠一郎もアキもリコも、首を縦にして大きく頷いた。
「さすがお母さんね。ちゃんと見てるのね。……ね、おとうさん?」
「お母さんの言う通りだね。確かに悟が来るようになってから、何と言うか、新しい心地よい風が吹いているって言うか、上手く言えないけどそんな感じなんだよな」
「お父さんにも詩的な感覚があったんだ。新しい心地よい風が吹いているなんて普通言えないわよ。文学青年みたい」
リコが冷やかした。
「おいおい、冷やかすなよ、俺にしたら精一杯の形容詞を思いついたんだから」
終始なごやかな会話が続いた。
「で、会議のついでで悪いのだが、昨日言っておいた打ち合わせをこれからしたいのだが、……いいかな?」
誠一郎が話題を切り替えた。
「私とお母さんは、席を外したほうがいいんじゃない?」
リコが気を利かして言った。
「いや、リコはもう社員も同然だし、聞いてて損はないと思うからそのままいなさい。母さんも、たまにはこういうのもいいだろ?」
「はい。元々嫌いじゃありませんから、こういう話聞くのは」
典子が真面目な顔で言った。
「へェー、そうかよ、だったら俺と一緒に仕事すれば良かったな」
「いえ、お話を聞くのが好きなだけです。仕事で怒られ家で怒られたら、生きる場所がないです」
「あはは、生きる場所と来たか、なるほど。今は、母さんの気持が痛いほど分ってるつもりだよ。これからは、生きる場所を一杯作るから仲良くしような?」
「あれっ、お父さん気持ち悪い。お母さんにそんなことが言えるなんて信じられない。……お母さん、いつからなの?」
アキが突っ込んできた。
「フフ、恥ずかしいな、……あのね、アメリカのホテルで生まれて初めて囁かれたの。……生まれて初めてよ。この歳になって、初めて女になったような気分だったわ」
「やったー、お父さん意外とやるじゃん。俄然見直したわ。へえー、とても信じられない。……で、燃えたんだ二人」
そんなこと言うか? リコが誠一郎の顔をしげしげと見て冷やかした。
「コラッ、親をからかう奴があるか。母さんも母さんだよ、何も娘や息子たちの前で、言わなくてもいいことをベラベラ喋ってしまって。あはは、照れるぜよ母さん」
誠一郎の顔が少し赤くなったような気がした。
「だって、女の気持をちっとも理解したことのない人が、夜な夜な愛を囁くなんて、別な人かと思ったくらいだったわよ」
母の典子が娘たちの前で見せた、初めての女らしさだった。アキは、人間て変われば変わるものだとつくづく思った。
「おいおい、もういい加減にしないか、……今日は良く脱線する日だな」
「雪で脱線したんだ。お兄さん東京に戻れなくなるかも」
「おうおう、その方が好都合だよ、アキもっと雪を降らせろ」
「バカねー、二人とも。……もう、お父さんどうしたの? 折り入って相談があるとか打ち合わせしたいとかって何なのよ?」
アキが呆れたような顔をした。誠一郎が急に真面目な顔になった。
「お、そうだったな、これから肝心な話をするから、付き合ってくれ」
「はい」
「あのな、会社も来年は三十周年になるんだよ」
「あ、そうですか。それはめでたいお話ですね」
「俺が三十歳の時、会社勤めを辞めて独立してから、もう三十年経つことになるんだよな。この場所で、小さな小屋みたいな事務所でスタートして、やっとここまで来れたって感じだな」
「いろいろ苦労もあったのでしょうね」
「ま、今思えば、よくぞ頑張って来れたとつくづく思うよ。この業種は競争が激しいし、この田舎の地でどれだけのことが出来るかと、最初は試行錯誤の連続でな、なかなか思うようにいかなかった。蓄えていた金も底を突き、辛い日々が随分長く続いたよ。母さんと結婚してすぐに亜希子が生まれて、母さんはほんとに苦労したと思う」
「……」
母の典子は、当時を思い出し少し涙ぐんだ。アキもリコも初めて聞く話だった。
「順調に行き出した転機があったんですね」
「そうだな。二十年ぐらい前だったなあ、それまでは国内の商社から仕入れて、卸販売業みたいなことをやっていたんだよ。取り扱う品目も雑多だった。何でもやっていたんだが、利益が薄くて、そりゃもうやりくりに大変だった」
「……」
「そこで考えた。こんなことをしていては先が思いやられるとな。いろいろ考えた。そして結論に達したのは、これからの世界はどうなるだろうかと考えた時に、どの国も素晴らしい健康食品が手に入るようになり、医療機器の発達と相まって人間は長生きする。必ず高齢化社会になる。そうなると老人介護が必要になってくる。と考えたんだよ」
「なるほど」
悟が相槌を打った。
「そこで得た結論は、医療用器具、健康機器、福祉機器、介護用品の輸出入及び販売に特化しようということだった」
「それが当たった訳ですね」
「最初は時期尚早という感もあったが、年を追うごとに、ぐんぐん業績が伸びてきた。そうなると、社員を増やして対応しなければならない。スムーズなデリバリーを考えなきゃいけないなど、思わぬことを要求され出して、今度はそちらの方で大変な思いをするようになった」
「嬉しい悲鳴ってやつですね」
「そうなんだよ。だから、社員教育なんてやってられない訳だ。悟やリコに指摘された通りだよ。未だに教育が行き届いていないんだよ」
「ステップアップするには、どうしても避けて通れない問題になってきた訳ですね」
「そうなんだよ。もう一つ階段を上るには、愚痴ばっかり言ってても何の解決にもならない。世界に通用する人材を、今のうちに育成しておかなければならない、と痛切に思うようになってきたんだよな。いや、もう遅いぐらいなんだが、出来るところから、早急に取り掛かろうと思っているのだ」
「それで、来年は丁度節目の三十周年になるから、さらなる飛躍を期して、何かをやろうとお考えなのですね」
悟は、社長誠一郎の事業への必死の取り組みが、今日を築き上げたのだと理解した。と同時に、家庭を犠牲にしなければ、到底なしえなかったことも理解できた。アキもリコも、父親から苦労話を聞いて、父親としての役割をはたしていないと親をなじり、我が儘を言い続けてきた自分を反省し恥じた。
「そうなんだ。来年、どうしてもやっておかなければならない大きなことが二つあるのだ」
「大きなことが二つですか?」
「そうだ、……一つは、関西に進出する」
「えっ、関西にですか?」
「関西に拠点を作って、将来に備える事にしたのだ」
「関西支社を作る、……とかですか?」
「そういうことだな。このことは、随分前から検討してきたんだが、いよいよ実行する段階に来た」
「そうですか。凄いなあ」
悟が感心した。まだ事業意欲は全然衰えていない。むしろ、ますます盛んになってきた感じだ。母親もアキもリコも、ただ聞いているだけだった。
「もう一つは何ですか?」
「社員教育を徹底的にやる。それと、年功序列を廃止して、能力主義に完全に切り替える」
悟はいよいよ本気で考え出したと思った。アキは悟の方を見てニタッとした。
「そこで、登場して貰いたいのが、悟、お前だよ。お前の出番だよ」
「私の出番、……ですか? えっ、分りませんが」
「悟に、我が花岡貿易商事の社員教育担当を命ずる」
アキは来たーと思った。悟は前に聞いてはいたが、誠一郎がそこまで真剣に考えているとは思っていなかった。あるとしてもごく一部の部分で、本格的には、外部の専門の講師に依頼するものとばかり思っていた。
「お父さん、それはごく一部、例えば、リコにしたような、ロールプレイングをするようなことは出来ますが、会社の教育全般に亘るとなると、時間的にも無理がありますし、外部の専門の方に依頼されたほうがいいと思いますが」
「いや、もう決めたことだ。時間的な無理は、考えれば解決出来ることだし、外部に依頼するよりも悟がやってくれた方が、比べ物にならないくらいの効果があると俺は確信したのだ」
「でも……」
「つべこべ言わずに、父親の命令だ従いなさい」
アキはまたもニタッとした。
「悟さん、諦めたほうがいいわよ、お父さんは言い出したら聞かない人だから」
悟は困ったような顔をした。
「時間的なことは、どう考えていますか?」
「例えば、隔週の土曜日に四時間程度づつやる、とかはどうなんだ? それだったら出来るだろう?」
悟は、おやっ、ちゃんと考えていると思った。
「そうですね。それなら出来ますね」
「だろう? そう来なくっちゃ。社員にも休みの土曜日だが、講義を受けるように言うつもりだよ」
「分りました。何とか考えてみます」
悟の言葉に間髪をいれずにアキが口を挟んだ。
「お父さんそれって、悟さんのボランティアじゃないでしょうね?」
「バカ言え。ボランティアなもんか、会社の立派な教育の一環だから、ちゃんと予算組するつもりだ。心配しなくてもいいよ。一人あたりの費用の相談は、この前の話だと、マネージャーの亜希子が窓口になるんだったな?」
アキは、しめたと心の中でほくそ笑んだ。
「そうです。悟さんは何かと忙しい人ですから、細々したことは私が進めていきます」
「そうか、分った。その件は改めて打ち合わせしよう」
アキは「はい」と大きな声で言った。
「教育する社員さんは何人ぐらいなのですか?」
「それは、これから考える。班別にするつもりだが、トータルするとざっと百名にはなるな」
「会社内でやるんですか? 会議室とかで」
「いや、会社の会議室は手狭だから、外部の会場を借りることになると思う」
「期間はいつまでをお考えですか?」
「四月からが新年度だが、今年度内に何回かやって、来年度に何回かやることになるだろうな。具体的な日程は亜希子と詰めておけばいいかな?」
「はいそうですね。マネージャーにお願いします」
「アイ、分った。この件はそれで決まりだな」
これから隔週、ここに足を運ばなければならない。ま、将来の為にも、各社員と面識を持つことは満更悪いことではない。悟はそう思った。
「さてと、悟、関西支社の件だが」
「はい?」
関西支社の件でも俺が絡む訳? それはないでしょう。アキも首をかしげた。
「悟に相談があるんだよ」
「えっ、関西支社設立に関してですか?」
「そうだ。会社としても二年ぐらい前から、進出に関してそれなりにいろいろ調査を進めてきて、やっと進出することに決めたんだよ」
「支社はいつ頃の設立を予定されているのですか?」
「来年の秋だ。多分、十月になると思う。とりあえず事務所はテナントになると思うが、そのうち軌道に乗れば社屋を建てる計画だ」
「そうですか、およそ一年後ですね。で、相談とおっしゃいますと?」
その頃は、アキとアメリカに飛びだっているかもしれないと思った。
「うん。悟の弟、……何と言ったけ」
悟もアキも、弟のことが出てきてびっくりした。
「弟の名前は謙二と言いますが」
「そうそう、その謙二君は確か神戸だったよな」
「はいそうです」
「謙二君の会社はどんな会社だ? たしか、通商会社とか聞いていたが」
「はァー、私も詳しくは知らないのですが、主に画像診断機器とか放射線治療機器とか病院医療情報システムや人工透析機器などを取り扱っている、と以前聞いたことがあります」
「ほォー、そうか、うちと少し似たところがあるな。そこの営業主任だったよな」
「はい。そうです」
「その会社はどんな仕組みになってるか、知ってるか?」
「いえ、そこまではあまり知りません。年明けに東京に出張してくるそうで、その時に会うことになっていますので、聞いておきましょうか?」
「そうか、いや、いい」
「電話があった時に、何の用事で出張するのだと聞いたのですが、商社の担当者に新年の挨拶のために会うとか言ってました。……あ、そうそう、今思い出しましたが、弟の会社は大きく分けて国内の商社関連と直輸出入関連の二部門になっているそうです」
誠一郎の目が、みるみる間に光ってきた。興味津々という顔である。
「ということは、謙二君は商社関連の仕事を担当しているんだろうな。……関西方面には顔が広いのだろうな」
「良くは分りませんが、多分そうだと思います。でもまだ若いですからねぇー、どうでしょうか」
「その会社はどのくらいの規模だ? 従業員数とかは?」
「三百五十名位と聞いています」
「ほォー、ちょっとした会社だな」
悟は、誠一郎が何を考えているのだろう、と思いあぐねていた。
「何か弟のことで」
「いや、何、関西に進出するのに、関西に詳しい謙二君の意見を聞かせてくれたら、ありがたいなと思ったもんだからな」
「ああ、そういうことですか」
「年明けは、いつ頃謙二君と会うことになっているんだ?」
「相手との日程が決まったら連絡があることになっているのですが、新年の挨拶となりますと、多分10日ぐらいじゃないかと思っています」
「一月十日か、リコ、来年の暦あったろ? ちょっと持って来てくれないか?」
リコが新しい年の暦を持ってきた。まだビニール袋に丸く収まったままだった。
「一月十日か、……火曜日だな。その前は成人の日で祭日だ」
誠一郎は、ブツブツ独り言を言いながら暦を見ていた。
「悟、この十日の前は三連休だが、このいずれかに会う可能性が大だな?」
「はい、多分そうなると思っています」
「そうか。じゃあ、謙二君と会う日が決まったら連絡してくれないか」
「はい? どうなさるんですか?」
「俺を謙二君に会わせてくれないか、東京まで行くから」
悟はびっくりした。わざわざ情報収集の為に、東京まで出向いて弟に会いたいと言う。
「それでしたら、弟をここに連れてきましょうか?」
「えっ、ほんとかよ」
「ええ、この前の電話で、結婚することを話しましたら、たいそう喜んでくれたんです。その時に、お前も良かったら長野まで行ってみないか、家族の人達を、一度紹介しておきたいのだがと言いましたら」
「何と言ったんだ、弟さんは」
誠一郎が身を乗り出してきて、悟の次の言葉を待った。
「……そうだな兄貴の嫁さんの家だったら、今後もお付き合いもあることだから、ご挨拶を兼ねて、一度訪問したいなと言っていました」
「ほんとかよ。それはありがたい。是非段取りしてくれよ。な、頼む」
「はい。あいつも何かと忙しい男ですから、上手く段取り出来るかどうか分りませんが、何とか説得してみます」
「そうか、すまんなあ。謙二君は歳はいくつだったけ?」
「二十八歳になります」
「そうか、これからだな。この前、悟が初めてここに来たとき、弟が悩んでいるとか聞いたけど、その後どうなんだ?」
誠一郎はしきりに弟のことを聞いてきた。悟は、何でだろうと理解しかねていた。
「兄の私が言うのもなんですが、弟は社内ではかなり優秀と評判みたいなのですが、いろいろ風当たりが強いみたいですね」
「そうか。良くある話だよな。妬みっていう奴だよ」
「仕事は乗りに乗っているみたいです。大きな仕事を次々に契約しているみたいでした」
「ほォー、それは素晴らしい。頼もしい弟だな」
「私の自慢の弟で、会うのがとても楽しみなんです」
アキは悟の弟思いを肌で感じた。弟のことを、それとなく自慢げに話す悟を、この人はほんとにいい人だと思った。リコは、悟の弟さんだったら、悟兄さんと同じような素敵な男性に違いないと思った。良くは分らないが、父親と似たような仕事をしていることに興味を持った。
「そうか、じゃあ、悟、その件も宜しくな? 悟におんぶに抱っこが最近多くなってきたな。これも運命だと思って諦めるんだな。あはは」
まあ、何と身勝手な言いぐさ、と、思いながら、アキは、もはや父親には悟という人間がいないと、どうにもならなくなっていることを思い、心の底から満足した。
十四時から悟の講座が始まった。先週の復習を終えロールプレイングの応用編も行われた。先週は適応力を知るためだったが、今週は実務に即した殆どアドリブだらけの訓練だった。悟の厳しい訓練にリコはしっかりついてきた。泣くことは一度もなかった。後ろで見ていた誠一郎や母の典子や亜希子はリコの急成長ぶりに目を見張った。訓練の終わる直前に悟は誠一郎に聞いた。
「お父さん、先日お母さんとアメリカに行かれた時、商談は直接されるんですか? それとも通訳士を交えてされるんですか?」
「通訳は、現地の人に頼んでるけどな、どうしてだ?」
「通訳料金ってどのくらいなのですか?」
「そうだな、大体三時間程度で五万円前後といったところかな」
「結構な料金ですね。バカになりませんね」
「そうなんだよ。だけどこればっかりは仕方ないな」
「お父さんはどの程度会話出来るのですか?」
「日常会話はなんとか出来るが、さすがに、専門的な話になると自信がないから、現地の人に通訳を頼んでるんだよ」
「そうですか。でも、ちゃんと正しく通訳してくれてるのですかねェー」
「そう思っているけどな。今までトラブルになったことはないからな」
「でも、それって費用もバカにならないし、微妙なニュアンスの話になると、ほんとに、ちゃんと通訳できているのか疑問ですね」
悟が通訳に対する疑問を投げかけた。悟はリコの方を振り向いて問いかけた。
「リコ、例えば、リコがアメリカに行ったと仮定して、現地の人との交渉の際は、やっぱり現地の人に通訳を頼むのかな? リコだったらどうしたらいいと思う?」
リコは、全くイメージしていない言葉が来て、即座に返事できなかった。暫らくして思い浮かんだことを言った。
「通訳なんか通さずに、出来れば直接交渉出来るようにすべきだと思うわ」
「なるほど。だったらそうすれば?」
「えっ、私が? 直接交渉出来るようにってこと? じゃあ、英会話をマスターしなさいってこと?」
「いいこと言うじゃん。そういうことだね。お父さんと同行する時、リコが相手と直接交渉出来れば、一番喜ぶのは社長であるお父さんだろ? ね、お父さん、そうですよね」
悟は後ろで聞いている誠一郎の顔を見ながら言った。
「そうだよ。そうなれば俺としても心強いね。ありがたいよ。通訳料をリコに支払ってもいいよ。結構するからな通訳料は」
「さあ、どうするリコ? 今すぐという訳にはいかなだろうが、一年後ぐらいだったら、何とかマスター出来るだろう?」
悟が今度はリコに問いかけた。
「お兄さんは英会話出来るのですか?」
「おっと、俺に振ったな? ……痛いところを突かれたな。残念ながら俺は全くダメ、出来ない。だから、もしアメリカに行くようなことになれば、お父さんと同じだね。現地の通訳士を頼まざるを得ないな」
悟の言葉に反応して、母の典子が、アキの方に意味ありげな顔を向けた。そして、何か言ったら? というような素振りをした。アキは母に向かって、人差し指を口の前に立て首を横に振った。その二人の様子を悟は見逃さなかった。母典子とアキの間に、海外出張に関して、二人だけの秘密めいたものがあると睨んだ。悟の話を聞いてアキの考えに火がついた。そうか、そうなんだ、場合によっては、悟さんの会社が通訳料を払ってくれるかもしれない。また通帳にお金が、ウッフッフ、もしかしたら、もしかするぞ。アキは一人ほくそ笑んだ。
「ということは、一年後までに英会話をマスターすればいい訳だ。一途一心で頑張れば出来ないことはないかも……」
リコは自分に言い聞かせるように、小さな声でブツブツ言いだした。
「どうしたリコ、聞こえないぞっ」
「……あ、すみません。リコは英会話をマスターします。必ずやり遂げます」
「そうか、良くぞ言ってくれた。お父さん、良かったですね。それまで、せいぜいリコを現地に連れて行って、生の会話を聞かせてやってください。そうすれば、もっと早く習得出来るかもしれませんから」
「よし、分った。そうする」
誠一郎は嬉しそうだった。
「アキはこの件に関して何か意見はあるかい?」
実は、悟はアメリカに行った時のことを考えていた。今の話をアキが聞いて、どういう反応を示すか興味があった。いや、アキも英会話をマスターしてくれれば助かるのだがと思っていたのである。英会話に記憶力が必要なのかどうかは分らないが、アキの抜群の記憶力があれば英会話なんて簡単に習得出来そうな気がしていた。
「ええ、とてもいいことだと思います。リコが、現地の青い目の実務者とやりあっているのを想像しただけでも痛快だわ。リコにはぜひ頑張って欲しいわ」
アキは自分のことは敢えて言わなかった。時期が来たら、悟をびっくりさせるつもりでいた。一方悟は、アキから何の反応がなかったことに、少しがっかりしたが、ま、仕方がないか程度にしておいた。しかし、先ほどの母親とアキの様子が気になって頭から離れなかった。
「ところで、悟はどうして通訳の話を持ち出したんだ? 普通はそこまで考えが及ばない筈だけどなあ」
「お父さん、どうしてですか? 貿易という商売柄、外国人との交渉は当然あり得ると思って、この話題を持ち出したのです」
「そうか、なるほどな」
「実は、私の弟が似たような会社の営業を担当しているのですが、いつでしたか忘れましたが、こんな話をしていました」
「どんな話だ?」
誠一郎が身を乗り出してきた。
「弟の謙二が言うには、俺が営業実績を上げられる、つまり契約を他の社員よりも多く取れているのは、相手と対等に会話が出来ているからだと思う、……と、こういうのですね。で、私が相手と対等に会話が出来るって、相手は日本人だろ? と言いましたら、笑いながら、もちろん日本人もいるけど、殆どが外人特にアメリカ人だというのです」
「ほォー、それで?」
誠一郎が俄然興味を持ち出した。
「アメリカあたりの商社が、日本に数多くの出先機関を設けているみたいなのです。当然、出先機関ですから、母国のスタッフが日本の関係業者と商談をする訳です」
「というと、謙二君は英会話が出来るってことか?」
「はい。ペラペラみたいです。取扱品目からして、当然、専門的な会話になるそうですが、全然困らないそうです。あるアメリカ人からアメリカで生まれたのか? って言われたことがあるそうです。完全にマスターって言いますか、自分のものにしているのでしょうね」
「それは、凄いな」
「弟が言うには、商談っていうのは、お互いの信頼関係がないとなかなか腹を割って話せない。取り扱う金額も大きいから、よほど信頼出来る相手でないと、契約まで持っていくには並大抵のことではないのだそうです。私も、なるほどそうだなと思いました。これは何も、外国人相手でなくても商売はそうしたものですからね」
「そこで、会話力が物をいっているという訳か」
「そうなんです。同じ商談でも通訳士を介して商談を進めるのと、直接交渉するのとでは、結果はまるで違ってくるというのです。日本流の飲食の接待でも、会話が普通に出来ることの効果は抜群だと言っていましたね」
「なるほどなあ、分るよ。実に良く分る」
「弟は仕事をしている間に、本物の営業力をつけるにはこれしかないと気づき、徹底的に英会話を勉強したそうです。会話力が身に付き始めてから、成績がぐんと上がったと言っています。あの若さで重要なポストを任されているのが良く分ります。ポストなんて、年齢だけで判断してはいけない典型的な例ですね。弟は、次は中国だと言って、今中国語を猛特訓中だそうですよ」
「いやはや、驚いたな、凄いの一言だな。さすが悟の弟だな」
「リコにも、弟みたいになって欲しいなと思ったものですから、この話を持ち出したのです」
「そうか、そうか。ありがとう。いつもながら目の付け所が違うな、なあ、亜希子」
「でしょう? リコ、姉さんも期待してるから、悟さんの弟さんみたいになってね」
アキはリコにやさしく話しかけた。
「私に出来るかしら。全然自信ないけど頑張るしかないわね」
「そうとも。誰でも最初は自信はないものだよ。リコだって、ロールプレイングを始めるころは泣いたぐらいだからな。それがどうだ、今ではお父さんもタジタジになる位になったじゃないか」
「はい。一途一心で頑張ります」
「うんうん。その意気だよ」
「……あのー、……そのー」
リコが何か言いたげだったが、躊躇していた。
「なんだ、リコ何か言いたげだな」
「はい。とんでもなく的外れで、馬鹿げた考えなんですが」
「構わないから、言ってみろ」
悟がリコを促した。
「そんなに凄い弟さんだったら、お父さん、いっそのこと悟兄さんの弟さん、……謙二さんを会社に引き抜いたらどうかなと思ったの」
一同が唖然となった。どこからその発想が生まれるのだ。ところが、誠一郎は何故か頷いていた。そして、リコに聞いた。
「どうして、そう思うんだ?」
「だから、的外れと言ったでしょう? でもね、私みたいな駆け出しを一年もかけて鍛えるよりも、即戦力が今一番必要じゃないかなと思ったの」
悟は、リコの実務的な判断力に目を見張った。確かにそれが出来ればいいが、弟がうんと言う筈がない。誠一郎はリコの顔をじっと見て言った。
「リコ、お前の言うのもごもっともだと思うが、世の中は出来ることと出来ないことがある。よそ様の会社の社員を、いくら悟の弟だからといって、うちの会社に来てくれなんて言える訳がないよ。そのくらいのことは分るだろう?」
「だから、馬鹿げた考えと言ったのです」
「あはは、そうか、ま、一年なんてあっという間だよ、待ってやるから頑張ってみろ。楽しみにしているぞ」
と、いいながら、誠一郎は悟の弟の謙二のことを真剣に考え始めていた。ヘッドハンティングが可能かどうか、悟にも相談しながら実行に移せるか検討することにした。
講座が無事終了しリビングルームに戻った時、アキが悟に私の負けねと言いながら、ジュースをテーブルに置いた。悟はにっこりして、手を目のあたりに上げてVサインを出した。