この物語は正義感に満ちた一人の男の物語です
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◇ 第12章 理性喪失

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□ 第十二章 理性喪失 □

 三月に入った金曜日の夕方、甲斐オーナーから電話が入った。
「早川さん、ご無沙汰」
「あ、オーナーいつもお世話になっております。こちらこそご無沙汰です。お元気でしたか?」
「元気、元気、すこぶる元気よ」
「あはは、何か、特殊なドリンク剤でも飲んでいらっしゃるのではないですか?」
「そうよ。最近人気のエッチケイエスというドリンク剤よ。知ってる?」
「いえ知りません。初めて聞く商品名ですね」
「今バカ売れですってよ。一度飲んだらいいと思うわ」
「そうですか。駅の売店か何かで買って飲んで見ます」
「ふふ、非売品みたいよ。だから注文しないと手に入らないみたい」
「ということは、オーナーは、まとめ買いされているということですか?」
「そうなの、まとめ買いね。誰にも渡したくないわ。一人占めしたいの」
「あはは、欲張りですね」
「そうよ。私って凄い欲張りなのよ。知らなかった?」
 何か、オーナーの意味ありげな話しぶりに、早川は思案をめぐらした。
「強情だとは思っていましたが、強欲だとは知りませんでした」
「こんな従順な女性に対して、強情とは何よ強情とは」
「あはは、すみません。ついほんとのことを言ってしまいました」
「まあ、憎たらしい人ね」
「でも、元気そうで何よりです。ご商売のほうも相変わらず順調そうですね」
「お陰様で、今のところは上手いこと行ってるわね。……余談が長くなったけど、今日はお礼を言いたかったの」
「さて、何でしょうか。……さては、もしかしたら……」
「そう、そのもしかしたらよ。でも、……私から言うべきことじゃないのよ。今、代わるからね」
「はい」
「水島です。ご無沙汰しております」
「オーー、水島さん。こちらこそご無沙汰です。お元気そうですね」
「ええ、もう、元気一杯です。私も、エッチケイエスというドリンク剤を飲んでいますから」
「そうですか。そんなに元気になるんですか。余程そのドリンク剤は強烈みたいですね」
「強烈どころか、このお蔭で何もかもが上手くいくんですね。ドリンク剤というより魔法の水って感じですね」
「魔法の水ですか。ま、いずれにしても元気で何よりです。……その、もしかしたらの話を聞かしてくださいよ」
「それでは、ご報告させていただきます。私水島は、早川さんのお蔭で、島田京子氏と結婚することになりました。ありがとうございましたっ」
 水島は、野球の応援団長が言うような、大きな声で叫んだ。
「オオー、そうでしたか。それは、それは、おめでとうございます。良かったですね」
「はい。嬉しくて仕方ありません。ほんとにありがとうございました」
「そうでしたか。良かった、良かった。オーナーも喜んでくれたでしょう?」
「はい。こんなオーナーの顔、今まで見たことございません。えびす顔って、このことを言うのですね。お見せしたいくらいです」
「あはは、拝みたいですね。それにしても良かった。……うん、良かったですねえー」
 早川は何回も良かったを繰り返した。
「このお礼は改めてさせていただきます。……オーナーに代わります」
 水島は何故か、早々と甲斐オーナーに変わってしまった。
「早川さん、ほんとにありがとう。そういう訳で、私を悩まし続けていた難問題が解決できました。……で、今日電話したのは、そのお礼も兼ねて今夜ご馳走しようかと思ったの。都合はどうかしら?」
 丁度良かった。渡米の日程が具体的になったことで、早川は、甲斐オーナーに今後のことを話しておかなければならないと思っていた。
「ありがとうございます。オーナーのえびす顔が拝めそうですね。それでは、お言葉に甘えてご馳走になります」
「ありがとう、じゃあ、例の所で今夜七時にどうかしら」
「赤坂の野菊ですか?」
「そう」
「はい。分りました。お伺いいたします。水島さんもご一緒ですね?」
「もちろんよ。じゃあ待ってるわね」

 赤坂の料亭野菊に約束の時間の五分前に着き、部屋に案内されていた時には、既に甲斐オーナーと水島はテーブルについていた。
「あ、すみません。遅くなりました」
「あら、相変わらず時間には厳しいのね。丁度だわ。こちらが早く来すぎたのよ。早川さんを待たせる訳にはいかないと思ったの。さ、そちらにお座りになって」
 甲斐は床の間側の上座を指差した。早川は躊躇したが言葉に甘えた。
「ありがとうございます。それでは、ご無礼してご指示に従います」
 早川は少しはにかみながら甲斐の顔を見た。
「あら、今夜は随分素直ね。嬉しいわ」
「押し問答していては時間の無駄ですし、どうせ強情なオーナーの命令には背けませんから、今夜は素直に従います」
「ふふ、大分丸くなってきたわね」
「上座から、オーナーのえびす顔を見るのも乙なものですね」
「ふふふ、でしょう? こんな顔滅多に拝めませんよ。……あら、水島、何をボケーっとしているのよ。今夜はあなたの為に設けたのよ」
 甲斐は横に座っている水島を見て言った。
「あ、すみません。オーナーと早川さんの絶妙な会話にはいつも感心させられます。つい聞き惚れていました」
「何よ言い訳して、もう呆れた」
「早川さん、こんばんは。ご無沙汰です。この度は、ほんとにありがとうございました」
 水島は座布団を外し、畳に頭をつけて挨拶した。
「水島さん、水臭い挨拶は抜きにしてくださいよ。いえいえ、私も少しはお役にたてたかとホッとしています。でも、良かったですね」
「はい。オーナーがいらっしゃらなければ、早川さんに抱きついて泣きたいくらいです」
「あら、そうなの? じゃあ、私洗面所に行ってくるから、その間に抱きついたら?」
 甲斐は、わざと襖を開けて部屋から出るふりをした。
「あはは、ああ、面白い。あはは、オーナーもやりますねえ、そういうオーナー好きですねえ、いいですねえ」
「おや、受けたみたいね。早川さんが好きになってくださるんだったら何回でもやるわよ。それとも、水島に抱きつかれるの嫌でしょう? 一緒に洗面所に行きましょうか?」
 これには水島も早川も可笑しくなって、大きな声で笑った。
「洗面所に行って何をするんですか?」
 水島がからかってきた。
「決まってるわよ。ねえ早川さん?」
 甲斐は早川の顔を見ながら意味ありげな目付きをした。
「あはは、ですね。決まってますね」
 早川も変な相槌を打ってしまった。その二人のおかしな様子を見て水島が笑った。
「オーナーと早川さんて恋人同士みたいですね」
「みたいとは何よみたいとは。恋人である証拠を見せてあげるわよ。……ほら、今、まだ三ヶ月よ」
 甲斐は水島の方を振り向いて、お腹をさするように促した。水島は甲斐の顔をジッと見て吹き出してしまった。それを見ていた早川も、テーブルを叩きながらまた大声で笑い出した。
「あははは、オーナー、あははは、これは愉快だ傑作だ、あははは」
「受けたようね。お後がよろしいようで」
 甲斐は、自分でも可笑しくなったのか笑い転げた。その時、仲居が入って来て、注文してあったと思える料理と、ビール二本がテーブルに並べられた。
「さ、早川さん、どうぞコップ取って。今夜は、水島を大いに祝ってあげましょう」
「そうですね。いただきます」
 言いながら甲斐と水島のコップにビールを注いだ。甲斐の音頭で乾杯を済ませ思い思いに箸を取った。
「水島さん、改めておめでとうございます。良かったですね」
「はい。ほんとに嬉しくて嬉しくて、これまでの人生の中で一番嬉しい出来事でした」
 水島は頭を掻きながら、照れくさそうに早川の顔を見た。そこに甲斐が割り込んできた。
「早川さん聞いて。……この水島ね、最近仕事が手につかないらしく、毎日ボケーっとしているのよ。気持ちは分るけど、私少し反省してるのよ」
「えっ、反省ですか、どういうことですか」
「わざわざ早川さんの手を煩わして、女性を紹介して貰ったことをよ」
「じゃあ、紹介しないほうが良かったってことですか?」
「そう、この水島には、出来過ぎた女性だったわね。何処にでもいるような、もう少しレベルの低い女性の方が良かったみたい。そしたら、仕事が手に付かないなんてことにはならなかったと思うわ」
 水島は終始ニヤニヤしていた。
「あはは、オーナー、それは女性に失礼ですよ。女性に、レベルの高い低いなんてありませんよ」
「そうかしら、でも、紹介してくれた女性、……島田さんて言ったわね、……とても素敵な女性ね。今に見ててごらん、水島はきっと尻に敷かれるわよ」
「あはは、オーナー、もう既に尻に敷かれています。何とも言えないいい気分です」
 水島が照れて言った。
「まあ、言うことに事欠いて、それっておのろけ?」
「すみません」
「なるほど。そうかもしれませんね。水島さん、彼女だったら、尻に敷かれるぐらいが丁度いいと思いますよ、何もかも上手くいくと思いますよ」
「早川さんもそう思いますか? 私はとても満足しています。とても心地よい感じがしてるんですよ」
「あれも、いつも彼女が上なの?」
 甲斐がニタニタしながら水島を見た。
「えっ、あれって何ですか?」
 水島はとぼけてみせた。
「もう、いい。ったくバカバカしくなってきたわ、ねえ、早川さん」
 甲斐は早川に視線を向けた。
「あはは、そんなことは、聞くだけ野暮ってもんですよ」
「それもそうね」
「……それにしても良かったなあ、めでたし、めでたしですね。彼女も喜んだでしょう?」
 早川が水島の顔を覗き込んだ。
「はい。私に抱きついて来て嬉しそうでした」
「プロポーズは何と言ったのですか?」
「言わなくてはいけませんか? なんだか照れますね。特にオーナーの前では」
「あら、どうしてよ。そう言われれば益々聞きたいわね」
 甲斐が突っ込んできた。
「無理にとは言いませんが、私も聞きたいもんですね」
 早川の言葉に、水島は意を決したみたいだった。
「では、白状します。……甲斐オーナーの家族になってくれませんか? ……こう言いました」
 甲斐は目を白黒させた。
「あんた、バカじゃないの? そんなプロポーズの仕方ってないわよ。ねえ、早川さん」
「いえ、素晴らしいプロポーズですよ。さすが水島さんだ。夫婦でオーナーを支えて行こうと言いたかったのでしょう?」
「さすが読みが深いですね。正に言われる通りです。だって、彼女がその気になってくれないと、私の仕事が上手く行く筈がありませんもんね。私の仕事は、どんな時にも、オーナーを陰になり日向になって、支え続けていくことですから、その決意を彼女に求めたのです」
 甲斐が、水島の顔をしげしげと見つめ凝視した。
「泣かせるようなことを言ってくれるじゃない。そうだったの嬉しいわね。……当分の間、ボケーっとして仕事が手につかなくてもいいわよ、許してあげる」
 水島とは早川は大声で笑った。
「そのプロポーズに、彼女は何と返事したのですか?」
 早川の水島に対する問いに、甲斐も興味を示した。
「私が正治さんの傍にいるだけで、会社の為になるのでしたら、喜んでお供します。よろしくお願いします。……って言ってくれました」
「やっぱり出来過ぎた女性ね。今時、そんなこと言える女性なんていなくてよ、分ってる?」
「はい。実に嬉しかったですねえー。一生大事にして行こうと思いましたね。で、その場で、彼女にそのことを誓いましたよ」
 水島は、嬉しさを噛み締めるようにして満面笑顔で語った。
「そうでしたか。そんな誓いを立てるだけの価値のある女性だと思います。……オーナー、良かったですね。心強い女性が現れて」
「ほんとね。正直ホッとしてるの。ほんとに良かったわ。……後は水島が頑張るだけよね」
「はい。素敵な女性と結婚出来る訳ですので、オーナーや早川さんに笑われないように一生懸命にやるだけです」
「何言ってるのよ、私や早川さんのことはどうでもいいのよ。彼女にがっかりさせないようにすることよ。そうでないと、彼女のことだからすぐ三下り半よ。ねえ早川さん?」
「ですね。そうなるとは思えませんが、あり得ない話ではないですね。もし、万一そうなったら、オーナーは、水島さんと縁を切らなければならなくなりますね。ねえ、オーナー?」
「もちろん、そうなるわね。あんな素敵な女性が三下り半を下すということは、私の家族として続けて行く価値のない人だということだから、答えは自ずとそうなるわね」
「今から脅さないでくださいよ。そうならないように頑張りますから」
「あは、万一そうなったら、交代したらいいことですよ」
「交代ですか?」
「そうです。彼女をマネージャーにして、水島さんは家庭に引っ込んで主夫をする。……いい案でしょう? ね、オーナー?」
「さすが早川さんね。その手もあるわね。第一線を退いて水島が主夫か、うんうん、いいかも」
「もう勘弁してくださいよ。二人して私をいじめて」
 下戸の二人を相手にして、甲斐は一人で手酌してビールを飲んでいた。
「水島さん、改めてこんな話をするのも何ですが、誓っていただきたいことがあるのですが」
 早川が改まったような顔で水島を見た。
「えっ、改まって何でしょうか?」
「ご紹介させていただいた手前もありますが、私が一番望んでいることがあるんです」
「はい」
「それは、彼女が世界で一番幸せになってくれることなのです。ですから、水島さんの口から、任せてくれと言っていただきたいのです」
 水島は早川の顔をじっと見つめた。早川の人に対する優しさがジーンと胸に突き刺さった。
「はい。誓います。心配には及びません。彼女、島田京子を世界一の幸せ者にしてご覧に入れます」
「ありがとうございました。これで私も安心しました」
 三人は終始なごやな会話で弾み、時間の経過とともに食も進んで行った。
 早川は、甲斐に結婚式の日取りのことと、渡米の話を切り出したかったが、今の段階では、水島には知られたくないと思った。水島が知ることで、それが島田に伝わり、社内の話題になることを嫌ったからである。そう思っていた矢先に、タイミング良く、水島が用を足してくると言って部屋を出て行った。
「オーナー、いい機会ですので、少しお話したいことがあるのですが」
 甲斐は、水島が席を外した途端に早川が切り出してきたことに、早川の意図を感じ取った。
 水島には、別な要件で早川と打ち合わせがあるから、予め一通りお祝いが済んだら、早めに退席することになるからと伝えてあった。
「そう。分ったわ」
 水島が席に戻って来た時、甲斐が真面目な顔で水島の方を向いた。
「今夜は早川さんにお祝いして貰って良かったわね。分っているとは思うけど、早川さんの気持を無駄にしない事ね」
「はい。オーナー、良く分っているつもりです。私の第二の人生ですから、一生懸命に務めさせていただきます。今まで以上に叱咤してください。今後ともよろしくお願い致します」
「こちらこそよろしくね。期待してるわよ」
「早川さん、ほんとにいろいろありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します」
 水島は、場の雰囲気を察したと見えて、丁重な挨拶をして頭を下げた。
「水島さん、ま、人生一筋縄ではいかないと思いますが、困難な場面になりましたら、彼女ととことん語り合えば、きっと解決出来ると思います。私の知る限り、彼女は、困難を乗り越えていくだけの能力を持ち合わせているように思います。私も大いに期待しています。頑張ってくださいね」
「心強いお言葉ほんとにありがとうございます。……結婚式に出席していただきたいと思っているのですが、予定してもよろしいでしょうか」
 しまった、そうか、それがあったか。
「結婚式はいつですか?」
「まだ、はっきり決めてはいないのですが、出来るだけ早くとは思っています。多分、秋口になると思います」
「式は何処で挙げるんですか?」
「はい。都内になると思います」
「そうですか。決まりましたらお知らせください。出来るだけ出席させていただきます」
 早川は即答を避けて出来るだけ、という曖昧な言葉で返事した。
「早川さんが出席していただければ、彼女も喜んでくれると思いますので、是非お願い致します」
「はい。分りました。日程もありますので、決まりましたらお知らせください」
「分りました。……それでは、私は所用がありますので、これにて失礼致します。今夜は、ありがとうございました」
 水島は座布団を外し、甲斐と早川に一礼して部屋を後にした。

「話って何なの?」
「その前に、オーナーから何かお話があるのではないですか? そんな感じがするのですが」
「えっ、どうして分ったの? 隅に置けないわねえ」
「もう、大分長い付き合いをさせていただいていますので、顔に書いてあることが分るようになりました」
「そう、あなたってほんとに素敵な男ね。あなたと結婚したいわ」
「あはは、またまた始まった。……まさか、離婚して女として寂しい、なんてことを言いたい訳じゃないでしょうね」
「あら、早川さんてそんな会話が出来るの? 見直したわ」
「これでも男ですからね」
「離婚して、女として寂しいなんてないわよ。結婚していた時も心はいつも一人だったし、前の主人とは、夜もなかったからね。もう、身体が慣れっこになっているわ」
「再婚するつもりはないのですか?」
「そうね、ないこともないけど、正直言って、もうコリゴリってところもあるわね。歳も歳だしねえー。私のことをよく理解してくれて、時々逢瀬を重ねてくれる素敵な男性だったらいいわね。そんな男性いないかしら」
「何をおっしゃいます、まだまだお若いですよ。恋愛の一つや二つ出来る年齢ですよ。むしろ今、女として一番魅力的なのではないですか? オーナーみたいな魅力的な女性は、男性は引く手あまただと思いますけどねえ。ほんとに、オーナーは素敵で魅力的な女性です」
「ふふ、お世辞でも嬉しいわね。じゃあ、ずばり聞くけど、早川さんに彼女がいなかったら、私を抱きたいと思う?」
 早川は意外な展開に返事に窮した。甲斐は意地悪を楽しんでいるようだった。
「とんでもありませんよ。いくら私がオーナーを好きでも、会社のお客様を抱くなんて出来ませんよ。会社を首になってしまいます」
「あは、上手く逃げたわね。野暮な質問だったわね。……という訳で心配には及びません」
「話が横道にそれたようですね。……仕事の話なんでしょう?」
「そうよ、ほら、この前話していたこと、……憶えてる?」
「麻布の件ですか?」
「それもあるけど」
「私がオーナーのパートナーになる話ですか?」
「そうなの。まず、それからお聞きしたいわね。検討してくれてるの?」
「その件ですが、この前オーナーから尋ねられた、私の夢と合わせてお答えしたいと思いますが、宜しいでしょうか?」
「えっ、ほんとなの? 嬉しいわねえー」
「さて、何処からお話しした方がいいかなあ。……そうですね、まずお尋ねしたいのですが」
「うん、何?」
「五月二十日は何か予定が入っていますか?」
「五月二十日? ちょっと待ってね」
 甲斐はバッグを開けて中から手帳を取り出した。黒皮の手帳である。
「日曜日ね。今のところ予定は入ってないわよ。この日がどうかしたの?」
「その日に式を挙げることにしました」
「えっ、何ですって? 花岡さんとの結婚式の事よね? 決まったのね?」
 甲斐は早川の目を見詰めた。
「はい。そうです」
「ほんとう? ウァー驚いた。そう。……良かったわねえー。あなたって、ほんとに人を驚かすのが得意ね、……ああ、もうびっくりよ。……でも、とうとうやったわね、良かったわ。うん。ほんとに良かった」
 甲斐は我がことのように嬉しさを連発した。破顔であった。
「ありがとうございます」
「何処で挙げるの? 都内でしょう?」
「いえ、長野県の篠ノ井と言うところです」
「花岡さんの里?」
「そうです。嫁さんの姿を、地元の人に見ていただきたいと思いまして」
「……早川さん、……あなたってほんとに優しい方なのね。……それって、女としては最高の喜びよ」
「ですかね? だといいのですが」
「うーん。さすがに考えることが違うわね」
「そうですかね。誰でも考えそうなことだと思いますが」
「あなたの会社は都内にあるし、あなたも長いこと東京周辺で生活して来た訳だから、誰でも思うわよ。式は都内で挙げるとね」
「そうかもしれませんね。……ということで、少し遠い所で挙げますが、是非出席いただきたいと思いまして」
「もちろんよ。予定が入ってたら、キャンセルしてでも出席させて貰うわよ」
「ありがとうございます。是非お願い致します」
 早川は甲斐に頭を下げた。

「……それと、これは、オーナーにとっては、必ずしも良い話ではないかもしれませんが」
 早川は話題を変えた。
「ええ、何かしら、あんまり悪い話は聞きたくないけど」
「会社から内示を受けたことなのですが、先日お話ししていた、国際設計コンペの業務が四月末で終了致します」
「そう、四月末ね」
 甲斐は手帳に書き込んだ。
「そして、五月一日付で米国支店設立準備室の、室長を任じられることになりました」
 甲斐の顔色が変わった。
「ちょっと待って。その話、全然聞いていなかったわよね? 私に隠していたの?」
「いえ、隠してはいません。急に決まったのです」
 早川は後ろめたい気持ちもあったが、以前から話があったことについては嘘をついた。
「そう、そうなの。……じゃあ、もう設計業務から離れてしまうの?」
「そうなりますね」
「やっぱり、思っていた通りだわ。あなたは、だんだん第一線から遠のいて、管理部門に行くのよね、この前話した通りの心配ごとになって来たわね」
 甲斐の心配そうな顔を見て、早川は何も返事が出来なかった。
「……社命ですから、断ることは出来ませんし、仕方がないのです」
 早川は甲斐の顔色をうかがいながら申し訳なさそうに言った。
「うん、ま、分ったわ。最後まで話を聞いてからいろいろ考えましょう。……で、後のスケジュールはどうなっているの?」
「五月一日付で米国支店設立準備室に配属になった後、九月一日に渡米します」
 甲斐は仰天した。まさか、渡米とは考えも及ばなかった。
「ちょっと待ってよ。そう簡単に言わないでよ。……渡米? どういうことなの」
「米国支店を設立するのには、現地のいろいろな情報などを得る必要があります。その為の調査をする目的で渡米します」
「会社がアメリカに進出する訳ね?」
「そうです。いよいよ会社も、グローバルな視点から世界に羽ばたこうと考えているようです」
「さすが大きな会社は違うわね。……それは分ったけど、調査期間てどのくらいなの?」
「二年間です。九月に立って、二年後の九月に帰国する予定です」
 甲斐の顔色が消えた。我が耳を疑った。青天の霹靂である。寝耳に水である。
「ええーっ。……二年間も? その間、早川さんは国内にいないという訳? ……そうなの?」
「はい。そういうことになります」
「……」
 甲斐は手帳に何やら書き込みながら黙りこくってしまった。
「帰国は調査次第では多少早まるかもしれませんが、今のところはその予定です」
「なんていうことなの? まさかそういうことになるなんて、……想像だにしていなかったわ。……国際設計コンペの業務が終了したら、また元の部署に戻るとばっかり思ってたわよ」
「……」
「もう、お先真っ暗になってしまったじゃない。……ああ、どうしよう。早川さんのいない計画の遂行なんて、何の意味も持たないわよ。……困ったなあ」
「オーナー……」
「早川さん、オーナーって呼ぶの止めにしない? 甲斐さんて呼んで頂戴?」
「あ、でも、何だか失礼じゃないですか?」
「肩書なんかは何の意味もないでしょう? ちゃんとした苗字があるんだから、せめて二人きりの時は、名字で読んで欲しいわ」
「分りました。これからそうさせていただきます。すみません甲斐さん、……なんか言いづらいですね」
「うんうん。いい響き。……何ですか? 早川さん?」
 甲斐は嬉しそうな顔で早川を見つめて言った。

「私も、……甲斐さん、……の気持は良く分ります。起きてしまったことは仕方ありませんので、私が甲斐さんのパートナーになる話を、私の夢と交えてお話をさせていただいた後に、二人でじっくり考えることにしませんか?」
「……そうね。それしか方法ないわね。二人で考えれば、いい知恵が浮かぶかもしれないわね。……で、あなたの夢って?」
「はい。まず、帰国して一年後に会社を辞めます」
 これも甲斐をびっくりさせた。
「早川さん、あなた私にまた嘘をついていたでしょう?」
「いえ、嘘なんかついていません」
「じゃあ、どうして帰国して一年後となるのよ。米国行きは、もしかしたら随分前から決まっていたんじゃないの?」
 早川は甲斐の勘の鋭さに驚いた。
「どうしてですか? 近いうちに話をさせていただこうとは思っていたのですが、前々から四年後に会社を辞めて独立したいと思っていたところに、会社から急に米国行きの話があって、二年後に帰国するとなると、そういうことになりはしませんか?」
 早川は苦しい言い訳をした。
「あ、なるほど。そうなるわね。ま、信じることにするわ。……でも、あなた程の人を、会社がそう易々と辞めさせる筈はないと思うけど?」
「いえ、もう決めたことですから」
「米国支店の支店長になんてことにはならないの?」
「あはは、それはありませんよ。ありっこないですよ」
「だけど、もしそういう命令が下ったらどうするの?」
「はっきりお断りします。誰が何と言おうと、私の心は動きません」
「そう、で、辞めてどうするの?」
「都内に設計事務所を開設したいと思っています」
「それは、花岡さんも承知なの?」
「はい。実は彼女からの提案でもあるのです」
「えっ、花岡さんが、会社を辞めて独立したらって言ったの?」
「はい、そうです。最初、私は躊躇したのですが、いい機会かもしれないと思って、彼女ととことん話して決めました。その後に、甲斐さんから、会社を辞めてパートナーになってくれと言われたのです」
「へーー、そうだったんだ。じゃあ、私がパートナーの話をしたときには、その計画は出来上がっていたという訳ね?」
「はい。事情があって、その時には申し上げられなかったのです。ですから、そう遠くない日にと言う言葉遣いになったのです」
「そっかー、そういうことだったのかあ。なるほどねえ。それが、早川さんの当面の夢っていうか計画なのね」
「他にもありますが、一応そういうことです」
「他の話は後日にでもじっくり聞くとして、……なるほどね、そういうことね」
 甲斐は自分に言い聞かせるようにして、何度も首を縦に振った。
「先方の家族も大賛成してくれましたし、何かと支援して貰えるようです」
「花岡さんのお父さんて、何をしていらっしゃるの?」
「貿易会社の社長です」
「えっ、ほんと? 凄いわねえ」
「いえ、田舎の小さな会社ですので、大したことはありません」
「そう。……じゃあ、会社を辞めた時点で、私のパートナーになっていただけるということね?」
「はい。それでよろしければ、私を甲斐さんのパートナーにしてください。是非お願い致します」
「念押ししてくどいようだけど、それって、正式なパートナー宣言と受け止めてもいいってことよね?」
「はい。そうです。私が甲斐さんに対するパートナー宣言です」
 甲斐は、この上ない安堵の顔をして、嬉しい表情を早川に向けた。
「早川さん、ありがとう、……ありがとう。……その話は私のほうからお願したことだから、私にとっては、とても嬉しいことだし、願ったり叶ったりなんだけど、……でもねえ、……四年後なのよねえ。少し時間が掛かり過ぎるわねえ」
「すみません。タイムマシーンでもあればすぐにでも実現したいのですが、そういう訳にもいきませんから、お待ちいただくよりないと思います」
「そうね。一応全て分ったわ」
「麻布の件はどうするのですか?」
「どうしたら良いと思う?」
「他の方にお願いするしかないと思いますが」
「そんな話を聞くために尋ねてるんじゃないわよ。……分った。この話は没にする」
「えっ、でも銀行筋とか関係者と話を進めて来たんでしょう?」
「そうよ。でも、建設すればいいってもんじゃないでしょう? くだらないホテルを建てて、運営に四苦八苦した挙句に、大赤字だなんてなるぐらいだったら、中止したほうが得っていうものよ。でしょう?」
「それはそうですけど、計画が頓挫する訳ですから、変な風評は立ちませんか?」
「風評を気にするような女に見えて? ふふ、現実的に無理なことまでしてホテル業はしたくないわよ。結果は全て他でもない自分に振りかかって来るのよ? でしょう?」
「さすが甲斐さんだ。見直しましたよ」
「何を言ってるの、こうなったのもあなたの精でしょう? 少しは責任を感じなさいよ」
 甲斐は笑いながら早川の目を見た。言いながら、早川がパートナー宣言してくれたことに、この上ない嬉しさを隠しきれな様子だった。
「大いに感じています。申し訳ありません」

「それより、今、いいことが閃いたんだけど聞きたい?」
「良いことなら是非お聞きしたいですね」
「仮の話だけど、会社から米国支店の支店長を命ぜられたら、受けてみたら?」
「えっ、どうしてですか? そういうことには逆立ちしてもならないと思いますが」
「前々から話そうと思って、言いそびれていたことがあるのよ」
「米国支店の件と関係があるのですか?」
「大いにあるわね。実はね、来年か再来年になると思うけど、アメリカに進出しようと思ってるの」
 早川は飛び上がらんばかりにびっくりした。そして、甲斐の顔を暫らく見つめていた。甲斐は、何をビックリするのよとでも言いたげに、涼しげな顔をしていた。
「えっ、いま何とおっしゃいました? アメリカですか?」
「そうよ。土地の取得も大体目途が立ってきたし、銀行筋や関係者の了解も取り付けられる目途が立ったの」
「ほんとですか? へーー、凄いですね。この間甲斐さんの将来の夢として、世界中にエルコンG・ホテルを建設していきたいとおっしゃっていましたが、いよいよやるのですか? 第一弾ですね? どこに建てるんですか?」
「カルフォルニア州のサンフランシスコよ」
 早川はまたもびっくりした。まさか、偶然にしては出来過ぎである。
「どうしたの? びっくりしたような顔をして」
「会社の米国支店もサンフランシスコに設立する予定なのです。ですから」
「あら、そうなの? 偶然ね? それだったらなおさら好都合じゃない? 支店長になって、いや支店長じゃなくても、設計スタッフとなって初仕事にしたら? どういい案でしょう?」
「だから、支店長じゃないにしても、米国支店に残ったらと言われるのですね? そのように会社に働きかけたら、とおっしゃりたいのですね?」
「そうよ、満更悪い話じゃないでしょう?」
「とても悪い話ですね。それは、会社はとても喜ぶでしょうけど、私の心は、どんなことがあっても変わりません。残念でした。……先ほども言いましたが、会社がどう言おうと、気持ちを変える気はありません。……愛する恋人との約束を破る訳にはいきません」
「そうなんだ。あなた方は凄く固い絆で結ばれているのね。羨ましいわ。……普通の人だったら、飛び上がらんばかりのいい話なのに、あなたにはちっとも通じないのね?」
「すみません、目先のことに一喜一憂したくないのです。自分の描いた夢を破られたくないのです。自分の気持をクルクル変えたくないのです。分って欲しいのですが」
「あなたの性格は、分り過ぎるぐらい分っているつもりよ。その魅力に引かれて、いや、あなたのその魅力に引き廻されていることに快感を覚えているくらいなのよ」
「ありがとうございます」
「麻布の件もアメリカの件も、あなたに頼むとすれば、四年間待ちなさいと言いたいのね?」
「そうです。申し訳ありません」
 早川は頭を下げた。
「こういう提案はどうなの? 多分、これも駄目と言われそうな気がするけど、駄目元で言うわね」
「はい。何でしょうか?」
「会社も支店を設立する為に、あなた程の優秀な人材を当てて、長期間に亘って事前の調査をする訳よね」
「優秀は当っていませんが、そうなりますね」
「ということは、私がアメリカにホテルを建設する為の事前調査も大事なことよね?」
 早川は、甲斐が何を言わんとしているのかが読めた。
「事前調査はとても大事なことと思います。事前調査がいい加減ですと、後々の運営に重大な影響を及ぼしかねない、と考えておかなければならないと思います」
「でしょう? 私もそう思うの。建設した後の事よりも大事だとさえ思ってるわよ」
「甲斐さんは、先ほど来年か再来年とおっしゃいましたが、その事前調査は、どうするつもりだったのですか?」
「あなたにお願いするつもりだったわよ。だから、明日にでも会社を辞められないか、と言った記憶があるけど?」
 そうだったのだ。早川は何もかもが見えてきた。早川のこれからのスケジュールを聞いて、甲斐は急きょ話を変えたのだ。
「あ、なるほどですね、そういうことだったのですね。良く分りました。甲斐さんの言いたいことが分ってきました」
「さすが私のパートナーね、呑み込みが早い」
「私が米国にいる間に、その事前調査をしてくれと言うことですね?」
「もちろん、その費用は相応に出すわよ。でもねえ、多分、無理だわね。会社の就業規則に反するのじゃないかしら?」
「そうですね、まず無理ですね。勤務中にアルバイトするのはご法度になっていますから」
「そうよねえ。せっかく早川さんがアメリカの、しかも同じサンフランシスコにいるというのにねえ。……動きが取れないなんて残念至極だわね。……何とかならないかしらね。……だって、早川さんが会社を辞めてから、現地に飛んで事前調査をするとなると、それこそ、建設が大幅に遅れてしまうでしょう?」
 甲斐の切実な気持ちが伝わってきた。確かに甲斐の言う通りである。だが、どうすることも出来ない。……その時、ふと早川の脳に何かがくっ付いて来た。
「可能性があるとすれば、一つだけありますね」
 早川は甲斐の目にウィンクした。
「えっ、ほんと? どうするの?」
「私の嫁さんに調査させます」
「えっ、何ですって? 花岡さんに? ……そうか、花岡さんも行くのよね、……だわね。当たり前の話よね」
 甲斐の頭の中には、花岡亜希子の米国でのイメージは存在していなかった。
「私自身、結婚したばかりという状況ですので、米国に単身で行きたくなかったこともあるのですが、幸いなことに、現地の通訳士として行くことに決定しましたので、連れていくことが出来るのです」
「えっ、何ですって? 花岡さんが通訳士でついて行く? ほんとなの?」
「はい。会社も承諾して、近い内に通訳士として委託契約する運びになっています」
「凄い。まあ、何とも凄すぎるわね」
 甲斐は信じられないという顔をした。
「ほら、二人で八王子に来ていただいた時があったでしょう? その時、花岡さんが通訳士の仕事が出来ることを、早川さんは知っていたの?」
「いえ、ごく最近知ったのですよ。私もびっくりしましたよ」
「そう、道理でねえ。女の勘でどこか違う人だとは思っていたけど、……それにしても凄いことよね」
「私は、英会話はからっきしダメなものですから、会社は、いつものように現地の通訳士にお願いする予定だったみたいですが、私がその話をしましたら、会社としても願ったり叶ったりと言ってくれましてね、そういうことになりました」
「そうだったの、何だかあなた方は、どこか別な世界の人達に思えて来たわ。早川さんとしても新婚ほやほやだし、願ったり叶ったりという結果になった訳ね」
「そうなんですが、何しろ専門的な分野でしょう?」
「確かにそうよね、大丈夫なの? ちゃんと通訳出来るの?」
「大丈夫です。随分前から、と言うより私と付き合い始めてすぐに、技術的なことも含めて、建設業の専門的な勉強を猛烈にしたそうです」
「信じられない。ほんとう?」
「仕事の上で、私の為になることはないかと、彼女なりにいろいろ考えてくれたみたいです。その結果、通訳士の免許を持っていることを考えて、役立つような場面が来るかどうかは分らないけど、建設業の専門的な勉強をしておけば、少しは役に立つのではと思ったみたいです。それが、図らずもこういうことになって、本人も大変喜んでいます」
 早川は少し脚色して話した。
「へーー、早川さんへの愛がそうさせたのね。……凄い話ねぇー、いやいや、素晴らしい話だわね」
「もちろん、プランニングしたり図面を引いたりすることは出来ませんが、私の指示で動くことで、そこそこ信憑性のある事前調査が出来るのではと思っています。私が言うのもなんですが、彼女には、そういうことをこなすだけの能力は持っているような気がしています。……あはは、おのろけと取られては困りますけど」
「分るわ。そうね。彼女なら大丈夫かもね、早川さんが傍にいるんですもの、チェッカーマンが傍にいるんですものね」
「そうです。部下もおりますから、私が表立って直接は動けませんが、彼女なら大丈夫だと思います」
「でも、通訳士としての仕事もあるのでしょう? そんな時間取れるのかしら」
「彼女は年間契約している、言って見れば、非常勤の契約社員です。毎日仕事がある訳ではありませんから、結構時間的にもゆとりはあると思っています。しかも、社員ではありませんから、社員規程に抵触することはありません」
「なるほど、考えたわね。土・日はお休みなんでしょ?」
「はい、そうなんですよ。ですから、あんまり大きな声では言えませんが、土・日の休みの日に観光を兼ねて、こっそりと、私も彼女の随行員に化けて同行したりして。……でも、やっぱり少し後ろめたい感じはしますけどね」
「なるほど。とてもいい案ね。そうしましょう。これ以上のいい案はないわ」
「もう少し良く考える必要があるかもしれませんが、出来るとすればそれしかないと思います」
「事前調査の委託契約をするとしたら、彼女の名前でする訳ね?」
「そうなりますね。……構いませんか?」
「一向に構わないわよ。むしろその方がいいと思うわ。上がってくる報告書の、作成者の名前が彼女の名前でも、実際は早川さんが作った報告書だもの、これ以上いい案はないわ、さすが考える次元が違うわね。ありがとう、……早速契約してくれない?」
「一応彼女の了解を得ないといけませんので、良く打ち合わせしてみます。多分、引き受けてくれるとは思うのですが、後日ご返事します」
「分ったわ。これで少し前に進めそうね。嬉しいわあ。……で、委託契約料は、国内じゃないし外国は初めてのことだし、それこそ、通訳士の料金も含めなければいけないわね。……どうしようかしら」
「私に聞かれても分りませんから、甲斐さんにお任せします」
「ありがとう。じゃあ、事前調査費用と通訳料をプラスして、年間委託契約と言うことで、料金をはじき出せばいいかしらね」
「お任せします」
「相場的なこともあるでしょうから、良く調べてみるわ。この件は、後日連絡と言うことでいいかしら?」
「はい。お任せします」

「ああ、良かった。これですっきりした。事前調査を済ませた上で、早川さんが会社を辞めるタイミングを見計らって、独立した設計事務所で設計して貰えばいいことよね?」
「そういうスケジュールでよろしければ、ありがたいですが、……」
「設計事務所の名前とか所員の数とかはもう決めてるの?」
「四年先の話ですよ。決めてる訳ないじゃないですか」
「早川さんのことだから、もうてっきり決まっていると思ったのよ。……そうよね。おいおい考えれば良いことですものね」
「よろしくお願い致します。……ところで、設計はいいとして、施工はどうなさるつもりですか?」
「あら、その件はいつもの通り早川さん一任だわ。でしょう? ……あ、そうか、国内じゃないから、そういう訳にはいかないのか」
「初期の段階は何かと情報不足で、現地の業者の能力がしっかりと読めませんので、どうでしょうか、もちろん、何社かは見積もりは取りますが、環太平洋建設(株)に施工させるということは?」
「あ、なるほど、その頃はもう支店が出来て実働してる訳よね。これまでも早川さんの設計で施工して来たんだし、早川さんが会社にいないだけの話で、実態はこれまでと何ら変わらない訳よね。……うんうん、その線で行きましょう。その方が私も安心出来るし。……それに決めましょう」
「建設地が太平洋の向こう側というだけで、何だか、アメリカじゃなく国内で仕事するような変な感覚になりますね」
「そうね。私としては、願ってもない展開になりそうで、とても嬉しいわ。……ありがとう」
「もう一度お聞きします。麻布の件はどうなさるつもりですか?」
「さっきも言ったように、やっぱり諦めるわ」
「優先順位の一番は、アメリカですね?」
「麻布は、それが済んでからゆっくり考えることにするわ。その頃は、早川さんは私の身内みたいなもんだから、二人でじっくり考えてからにしません?」
「そうですね。甲斐さんの思い通りにされたらいいですよ。私は縁の下の力になれれば本望です。こうなったら、私はパートナーとして、甲斐さんにとことんついて行きますよ。迷惑ですかね?」
「早川さん、その言葉ほんとなの? 本気にして良いの? 本音で言ってるの?」
「但し、実際の行動は四年後からになりますが、気持ちは今でもそう思っています」
「……ほんと? ほんとにほんと?」
 甲斐は、早川の目をじっと見つめて言った。その目は早川の次の言葉を待っていた。
「私は甲斐さんが大好きですから、何もかも信じて、ついて行きたい気持ちになっています」
 甲斐の顔がみるみる間に変わって来た。長いこと待ち望んでいた言葉が、早川の口から飛び出してきた。とても信じられないと思った。だが、早川の目を見て本物だと思い、何故か泣けてきそうになった。
「私を信じて、ほんとに一緒に人生を歩んでくださるのね? 信じていいのね?」
「私みたいなもので良かったら、死ぬまで可愛がってください」
 甲斐は、再び信じられない言葉が、早川の口から発せられたことに驚き、嬉しさで震えが止まらなった。早川はそれを見て、甲斐の気持が痛いほど分った。 この時、甲斐の心に、何か言い知れない思いが宿り全身を覆った。それは、今まで感じたことのない、親愛の情を伴った、切なくて 狂おしいばかりの愛おしい感覚だった。

「早川さん?」
「はい?」
「私からお願いがあるの。聞いてくれる?」
「どうしたんですか急に改まって、何でもお聞きしますよ」
「さっきは、オーナーと呼ぶのを止めて、甲斐さんと呼んで欲しいとお願いして、そうして貰ったけど、たった今から、二人きりの時は佐知代さんとか佐知代姉さんでもいいわよ、……そう呼んでくれない?」
「えっ、急にまた何ですか? でも、それじゃあ、あんまりですよ。困ります」
「ダメ? フフ、これは私の業務命令よ。……ねっ、お願い呼んで」
「ええーっ、ほんとですか? ……でもですねえー。会社のお客さんに対して、逆立ちしてもそんなこと出来ませんよ」
「そんなの関係ないのっ、いいから呼んで、ね、お願い、呼んで欲しいの。……あ、そうだわ、佐知代さんも何だか親しみが湧かないから、いっそのこと、私には弟がいないから、私の弟になって欲しいの。……そうだわ。それがいい。佐知代姉さんと呼んでくれない?」
 早川は、流石にこれには驚いた。勝手に弟にしてしまったのである。
「姉と弟になるんですか? 杯を交わすのですか? 甲斐さんと身内になるのですか?」
 早川は立て続けに口走った。
「あ、そうね、……そうそう。そうしない? 私も早川さんのことをサトルと呼ぶから、ねっ? いいでしょう?」
 話が思わぬ方向に行ってしまった。どうしたもんか。会社のお客さんと、例え仮か義理とは言え、姉と弟になるなんて前代未聞だろう。どうしてそういう発想になるのだ、困ったなあ。
「……」
「何をグズグズしているのよ。何か不満でもあるの?」
「いえ、不満とか何とかいう類の物ではないと思います。余りにも唐突なお話ですから、あはは、正直困っていますよ」
「じゃあ、私が会社のお客でなかったらいいと言う訳?」
「そうですね。こんな素敵で魅力的な女性が姉さんだったら最高ですけどね」
 早川は、つい言ってはいけなことを言ったような気がした。
「じゃあ、会社のお客になるの止めにするわ」
「えっ、それじゃ私が困ります。会社に怒られます」
「だって、今現在私が発注している仕事はないし、この前岩田課長に話した麻布の件も、さっきの話で、取り敢えず凍結したから、好都合でしょう?」
「今後ずっと、会社とは縁を切るんですか?」
「そうよ。だったら、私の弟になってくれるんでしょう? どうなの?」
「これからの仕事は、何処に頼むんですか?」
「それは秘密」
 甲斐はわざと早川に意地悪を言った。
「えっ、それだったら、弟になる訳にはいきませんよ。そうおっしゃらずに、今まで通り、会社とお付き合いしてくださいよ。お願いします」
 早川は両手をついて頭を下げた。
「じゃあ、言うわ。これからの仕事は、弟の悟にお願いするつもりよ」
「あちゃー、もう弟にしちゃってる。……ちょっと、……ちょっと待ってくださいよ」
「いや、待てないわ。今、返事して。ねっ、いいでしょう?」
「お尋ねしますが、どうして、弟でなければならないのですか?」
「理由なんかないわよ。あるとすれば、私はあなたが好きだし、かと言って、恋人には永久にできない訳だし、せめて仕事の上で、あなたと二人で世界中にホテルを建設していきたいの。その為には、あなたと一心同体の関係になりたいの。堅苦しい肩書は抜きにして、おいお前の関係になりたいの。そうなるには姉と弟の関係になった方が一番いいでしょう? こんな話って、あり得ない話だとは充分分っているわよ。でも、こういう関係って、あってもいいでしょう?」
「それだったら、何も姉と弟の関係じゃなくても、例えば、先ほど言われたように、甲斐さんとか呼んでも同じ事じゃないですか? そういう呼び方だったら、二人だけの時にも公の時にも呼べますし、気持ちの上で一心同体だったらいいのでしょう?」
「あなたって屁理屈屋ね。確かにそうよ。そんなこと言われなくても重々分っているわよ。……私の気持がそうして欲しいと言ってるのよっ」
「だってさっきは、二人きりの時は甲斐さんと呼んでくれない? ともおっしゃってたじゃないですか」
「たった今、気が変わったのよ」
「勝手に気を変えないでくださいよ。あくまで会社のお客様ですから、百歩譲って、甲斐さんとお呼びするのはいいとしても、佐知代さんとか、まして佐知代姉さんとお呼びする訳にはいかないですよ」
「……どうしてもだめなのね? これだけ私がお願しても駄目なのね?」
 甲斐は必死だった。引き下がれない思いだった。それ程、早川に対する強い強い思いが沸騰していたのである。
 甲斐にとっての夢は、世界中にホテルを建設して行くことである。もはやそれは、生涯の生き甲斐と言っても良かった。だが、それを成就するには、早川と言う男の存在抜きには語れない。自分の夢実現に向かって、喜びも悲しみも、全てこの男と分かち合いたい、と強烈に思い始めたのである。だから、中途半端な関係ではなく、将来に亘り、絶対に揺るぎない関係を構築しておきたいのである。その為には、身内になることが一番の近道である。養子縁組とまではいかないが、姉と弟の関係になることで、強い信頼で結ばれた絆を確立したかったのである。
「ごめんなさい。……勘弁してください。お願いします」
「分ったわよ。強情ねえ私以上だわ。……じゃあ、どうすればその気になってくれるの?」
「甲斐さん、その話は土台無理な話ですよ。何だか、堂々巡りみたいな気もしますが、どうして、そういう考えになったのですか?」
「さっきあなたは、私は甲斐さんが大好きですから、何もかも信じて、ついて行きたい気持ちになっています、と言ったわよね?」
「そうですね。言いました」
「そして、私みたいなもので良かったら、死ぬまで可愛がってくださいとも言ったわよね?」
 早川は話が段々甲斐のペースになりつつあることを感じた。
「あれは嘘だったの? その場しのぎの言葉だったの?」
「いえ、本心から言いました。ほんとです。……今でも、いや将来に亘ってこの気持ちは変わらないと思います」
「何で私を泣かせるようなことを言うの? それだったら、私の気持に寄り添ってくれても罰は当たらないと思うけど、……でしょう?」
「そう言われればそうですが」
「あなたの口からその話が出た時、私は震えが止まらなかったのよ。見てたでしょう?」
 甲斐は、今にも泣きそうになってきた。必死になって懇願してきた。
「甲斐さんお気持ちは、痛いほど良く分りました」
「だったら、私の弟になってもいいじゃないの? 同じことでしょう?」
 何か勘違いをしていませんか? 絶対に同じことではないと言いたかったが、何故か言えなかった。暫らく二人とも無言が続いた。
「ちなみに、佐知代姉さんと呼んでみて」
 甲斐は微笑みながら、早川の目を見て言った。
「佐知代姉さん」
「うーん。……とってもいい感じよ。良い響きだわ。やっぱりそう呼ばれたいなあ。随分と親しみが湧くのね」
 こんな大事なことを、勝手に決めないでください。
「いーえ、そう呼ばなくても、私は充分親しみを感じていますよ」
「あら、そうなの? ありがとう」
「もう勝手にしてください」
 またも無言が続いた。甲斐は、早川のコップに残りのビールを注ぎ込んだ。
「あ、ありがとうございます。そう言えば、今夜は全然飲んでいなかったですね」
「フフ、話に夢中だったわね、サトル」
「あはは、ドサクサに紛れて言いましたね? でも、甲斐さんからそう呼ばれると、不思議な気持ちになりますね」
「でしょう? ほんとの弟になった気分でしょう?」
「ですね。不思議ですね。以前から親しみを感じていたからでしょうかね?」
「きっとそうよ、……あ、そうそう、早川さんにはお姉さんはいるの?」
「はい。居ます。鹿児島の田舎で農業をしています」
「そうなんだ。姉が二人いると思えばいいじゃない? ……ねっ?」

 早川はこの時ふと、訳もなく甲斐の気持に応えてあげようかと思った。これほどまでに自分のことを理解し気にかけてくれ人は、後にも先にもこの人だけである。
 これまでは、会社のお客さんという位置付けを頑なに貫いてきたが、良く考えて見れば、将来のことが流動的になってきた今、必死になって懇願してくるこの人の思いをむげに断るのも、相手の心を傷つけはしないまでも悲しませてしまうことになる。
 姉弟といっても、仮の姿であり、一歩入っても義理の関係じゃないか。法的な根拠は全くないのである。言って見れば、遊び心の関係と言ってもいい。それより、会社を辞めて独立した後の、この人の支えが、どれだけ心強いものかは言わずとも知れている。せっかく好意を持って話しかけてくる実にありがたい話じゃないか、喜んで受けるべきかもしれない。
「どうしたの黙ってしまって、私、変なこと言ったかしら?」
「いえ、そうではありません。……そうですね。仕事の上での姉と弟が、夢を実現していくなんて、あってもいい話ですよね。何も変なこだわりを持つ必要はないですよね」
「でしょう? お互いが切磋琢磨して頑張っていくの。いい話じゃない?」
「……すみません、もう少し時間ください。……洗面所でも行ってきませんか?」
「フフ、一人になりたいのね。分ったわ、……じゃあ、少し席を外すから考えてね」
 甲斐は部屋を出て行った。
 早川は一人になり、いろいろ思いを巡らした。
 甲斐オーナーの意図が、いまいち理解できなかった。気持は分らないでもないが、何も仮の姿とは言え、姉弟にならなくてもと思った。意図があるとすれば……、何だろう。
 思い浮かばなかった。早川は目を閉じてじっと考えて見たが、答えが浮かんでこなかった。困ったことである。

 甲斐オーナーが会社と縁を切ることは、遅かれ早かれないことはないような気がする。理由は、何も会社と付き合う義理はないからである。理由はいくらでも作れる。オーナーは、二人きりの時だけ姉と思ってくれと言っていた。ということは、単なる個人的な感傷で言っているに過ぎない。
 公の場では、今まで通りの呼び方をすればいいことになる。そうなると、限られた時間や場面しかそういうことにはならない。……しかし、それだったら、なおさら姉弟になる意味は薄れてくる。だけど、あれだけの人がそう言うのは余程の事だろう。

 ……だけど、そうだ、こんなことは考えられないだろうか。父親を亡くし離婚して、仕事の上では、がむしゃらに必死になって頑張ることは出来ても、ふと自分一人になった時に、言いようもない寂しさが襲ってくるのかも知れない。心の底から話せる人がいないのかも知れない。ああでもないこうでもないと、他愛のない世間話をしてくれる人がいないのだ。……そうか、そうなんだ。……なるほどな。
 これからの人生を、仕事で羽ばたいて行くのはいいが、ぽっかりと空いた、私的な心の穴を埋めて欲しいのだ。腹を割って悩みを聞いてくれる人がいないのだ。日常の心の拠り所を、この早川に求めることで、より良い仕事に向かって邁進出来る、と考えているのかも知れない。そう思うと、外見では判断できない心の弱さを、自分に対して露呈しているようなものだ。その辺を理解してあげる必要があるのかも知れない。
 姉弟の契りを交わした後、実際にどんな風になるのかは皆目見当がつかないが、オーナーが気が済むのなら、希望に沿って考えてあげるのもいいと思えてきた。

 甲斐が、襖を開けて部屋に入ってきた。その眼が、腫れぼったくなっていることに気づき、早川はびっくりした。
「どうしたんですか? 洗面所で泣いていたのですか?」
「……」
「どうしたんですか? 良かったら話してください」
「ごめんね。何か、あなたに、無理なことばっかり言っているような気になって、……私って駄目な女ねえ、……つくづく自分が嫌になってしまって泣けてきたの。……ごめんなさい」
 甲斐は頭を垂れてうなだれた。早川は、こんなオーナーの姿を初めて見た。あの気丈夫な女経営者はどこに消えたのだ。ここにいるのは、ただ弱弱しい普通の女性じゃないか。これがオーナーの本来の姿なのだと思った。
「サチヨ姉さん、そんなことでは駄目じゃないですか、悟は、そんな弱々しい姉さんは見たくありません」
 早川の言葉に、甲斐は顔をサッと上げて早川の目を見た。信じられない顔をしていた。
「今、何と言ったの、……もう一度言って」
「サチヨ姉さん」
 それを聞いて甲斐は、席を立って早川の傍に歩み寄って来て、早川の膝に崩れ落ちた。
「決心してくれたの? サトルと呼んでいいのね? ……いいのね?」
「はい。姉さん。契りはどうすればいいですか?」
 早川はもう成行きに任そうと思った。甲斐の気の済むようにしてあげようと思った。
「契り? 姉弟の契りの事よね?」
「そうです。お姉さんの気の済むようにしてください。弟になる訳ですから、どんなことでも受け入れます」
「ほんと? ほんとなのね?」
「ほんとです。コップで乾杯すればいいのですか? 杯を交わすのでしょう?」
「そうよ。悟、これから姉さんの言うことを良く聞くのよ。姉さんの言うことに従うのよ。これから死ぬまで姉と弟となるのよ。その契りを交わすのよ。いいわね?」
 甲斐は完全に姉のような口調に変わって来た。
「はい。姉さんいいですよ」
「嬉しい。こんな嬉しいことってあっていいのかしら。……悟、ありがとう。天にも昇る気持ちよ」
 何だか変な雰囲気になってきたが、悟は腹を決めていた。良識ある甲斐の気持を信じ従うよりなかった。
「目を閉じて、私の話を聞いてくれる?」
「はい」
 早川は正座して目を閉じた。
「これだけは信じてね。決して変な考えじゃないからね。悟の姉として、共に生きて行きたいという決意と受け止めてね。……いいわね?」
 早川はある予感はしていたが、信じて従うよりないと思った。
「分りました」
「今どんなことを考えているの?」
「どうしてこういう具合になるのだろうと思っています」
「フフ、そうよね、良く分るわ。私っていけない女ね、ふふふ、可笑しい」
 そこまで分っているんだったら、どうして人を悩ますのですか? もう。
「いえ、いけない人ではありません。お姉さんはとっても素敵な人です。尊敬しています」
「ほんと? ありがとう。……あのね、良く聞いてね。……一人娘の私は、父親が死んだ時、将来の自分が怖くなったの。父親が元気な時は思ってもみなかったことが急に頭をもたげてきたの。この頼りのない夫とこれからの人生を歩んで行くのかと思ったら、何故かとても不安になり、理由もなく恐くなったの」
「……」
「父親の後を引き継いだ後、ほんとにやっていけるだろうかと相当悩んだわよ。あなたに巡り合うまでは、それはそれは苦しみの連続だったのよ。一時ホテル業を諦めて、会社を精算しようかしらとも思ったくらいよ」
「……」
「そこに、あなたが彗星のように私の前に現れたの。あなたに設計監理して貰ったホテルは、暫らくの間はそれ程でもなかったけど、日を追うごとに業績が伸び出して来てびっくりしたのね。それがたまたま一つのホテルだけだったら、何とも思わなかったと思うけど、ことごとくそういうことになったでしょう? その時から、あなたは私の天使になったの。アラ、天使って女性だったかしら、どっちでもいいわね、いずれにしても、早川さんは、私のかけがえのない人になったの」
「……」
「この人と一緒に仕事が出来ればどんなにかいいだろう、と、ずーっと思って来たの。ほんと言うとね、今夜のような気持って随分前からあったのよ。でも仕事の間柄とは言え赤の他人には変わりないのだから、姉と弟の関係になるなんて、バカさ加減もいい加減にしろ、なんて言われても仕方がないことだけど、一方では、何よあってもいいことでしょう? と開き直った気持ちもあったの」
「……」
「結婚だって同じことだと思ったの。赤の他人同士が一緒になり、ただ役所に届けさえすれば法的に夫婦として認められる。養子縁組だって他人同士の結びつきでしょう? 形は同じことよね?」
「……」
「赤の他人が、姉と弟になるのに何処に不合理があるの? 役所に届ける制度がないだけじゃないのと思ったの。勝手な屁理屈とは分っているのよ。でも、二人が同意しさえすれば、そういう形ってあってもいいじゃない? 同性婚を認めている国もあるのよ。他人様が、どうのこうのと言う筋合いのものではないと思うの。二人だけの秘密を貫き通していけばいいだけの話じゃない。……でしょう?」
「……」
「あら、どうしたの黙りこくって」
「お姉さんて、屁理屈を、あたかも屁理屈でないように思わせるのが、とても上手ですね」
「ふふふ、参った?」
「ですね。降参です。……お姉さんの気持がとても良く分ったような気がします。……そうとなれば、さあ、お姉さん姉弟の契りを結びましょうよ」
 早川は目を開けて甲斐の目を見詰めた。
「じゃあ、これから契りの儀式をしましょう。ビールでいいわね? それとも、ワインか何かの方がいい?」
「形にこだわらなくてもいいと思います。……ビールでいいですよ、……あれっ、ビールが全然ないですよ」
「私が全部飲んでしまったみたいね。……あ、そうか、……じゃあさ、儀式は私の家でしない? この前も来てくれなかったし、丁度いいじゃない?」
「そうですね。いい案ですね。もう旦那さんもいないことだし、一度はお姉さんの家も見ておきたいし、……うん。いいですね」
 早川は成行きに任せることにした。
「そうよ。身内になる訳だから、あなたの家でもある訳だから。こんな所で儀式するよりいいと思わない? それこそ記念になるわよ」
 身内? あはそれは飛躍のし過ぎでしょう。気持ちはありがたいが、それは言い過ぎですよ、お姉さん。
「そうですね。じゃあ、引き上げましょうか?」

 二人は料亭野菊を引き上げて、松濤の佐知代の家に入った。悟は初めての訪問である。松濤地区は都内でも、昔から豪邸が立ち並んでいることで有名な所である。佐知代の家も、門灯に照らされた門構えやその奥の家の佇まいを見ても、かなりの豪邸のようである。広いリビングルームに通されてソファに腰を下ろした。
「悟、身体が少し汗ばんでいるから、ちょっとシャワー浴びて来ていいかしら」
「でも、酔ってから風呂に入ったら良くないですよ。倒れてしまうかもしれませんよ」
「ビール二本も飲んでいないのよ。酔ったうちに入らないわよ。……じゃあ、少し待っててね、すぐだから。テレビでも見てて」
 佐知代はテレビのスイッチを入れて、リモコンをテーブルに置いた。そして、さっさと足を遠ざけて行った。悟はテレビを見ながら、それとなく周囲を見回した。部屋は綺麗に片づけられていた。豪華な調度品ではあるが、きらびやかという程ではなかった。インテリアに工夫がされ落ち着いた雰囲気である。
 間もなく、佐知代が片手にワインを手に持って現れた。薄い紫色のナイトガウンに着替えていた。妖艶を絵にかいたような何とも美しい姿である。この人が、今日から姉になるのだと思うと理由もなく嬉しくなった。
「あら、そうだわ、私って気が利かないわねえ、自分のことしか考えないんだからもう、ごめんね。……ね、悟もシャワーを浴びてらっしゃい。汗を流してらっしゃい。あなたは殆ど飲んでいないから大丈夫よ」
 思ってもいない言葉が飛び出してびっくりした。
「いえ、社宅で浴びますから、いいです。遠慮します」
「これから儀式をするのよ。綺麗な身体でした方がいいでしょう? それに、社宅もいいけど、ここでシャワー浴びても一緒のことじゃない?」
「でも、いきなりそう言われても困ります。やっぱり遠慮します」
「強情ねえ。姉さんだけが風呂上りで、悟がその格好じゃ釣り合いが取れないでしょう? 姉さんの命令よ。グズグズ言わずにはいってらっしゃい」
 もう完全に姉と弟である。顔は優しく笑っているが、やたらと姉貴風を吹かして威張っている。今後が思いやられる。そんな気がしないでもない。姉と弟の契りを結ぶのを止めようかなあ。
「参ったなあ。姉さんって意外と強引ですね?」
「何を言ってるのよ、そうでも言わなきゃ、ああでもないこうでもないと言って、グズグズするだけでしょう? 赤坂の野菊では、シャワー浴びてからなんて出来ないけど、わざわざここに帰ってきたんだから、一風呂浴びてやるのも乙じゃない? それに、お風呂上りの一杯って美味しいじゃない? どうせ飲むんだったらその方がいいでしょう? 悟、早く入ってらっしゃい」
 なるほどそうか、呑兵衛の考えそうなことだが、確かに言えてる。ここはひとつ姉貴の言うとおりにするか。
「分りました。では遠慮なく」
 悟は佐知代の案内で浴室に向かった。広い洗面所には、大きな鏡とカウンター付の舶来の洗面器が埋め込まれていた。その奥が浴室のようである。明々とした照明が眩しかった。佐知代と悟の姿が鏡に映しだされた。一瞬、佐知代が悟の顔を鏡の奥で見た。悟はにっこり笑って返した。
「ここに新しい下着とガウンを置いておくから、これを着てね。脱いだスーツや下着はここに置いて。後で片づけておくから。帰るとき着替えたらいいでしょ?」
「えっ、新しい下着って、これどうしたんですか?」
「ふふ、誤解しないでね。前の旦那の買い溜めよ。だから新品よ。サイズが合うかどうかも分からないし、色柄も気に入らないかもしれないけど、ま、新しい方が気持ちいいでしょ?」
「では、遠慮なくそうします」
「あら、素直ね。……じゃあね。ゆっくり入って来ていいわよ。あ、それとも、少し肌寒いから湯船にお湯を落とす?」
「いえ、シャワーだけでいいです」
「そう、じゃあ、脱いで」
 佐知代は笑いながら意地悪した。目の前で脱げと言うのである。
「あはは、ダメですよ。部屋に戻ってください」
 佐知代は笑いながら洗面所を出てドアを閉めた。何だか、思わぬ方向になってしまったと思いながら、悟は浴室に入った。
 佐知代は明日は特別な用事もないという思いと、今夜は思い切り飲みたいという思いがあって、明朝の会社に出かける時間をフリーにしておきたかった。運転手の自宅に電話して、明朝はタクシーで会社に行くと伝えた。こういうことは良くあることである。運転手は一つ返事で指示に従った。
 暫らくして、薄グレイのガウンに身を包んだ悟がリビングルームに入り、佐知代と反対側のソファに腰を下ろした。テーブルにはワインとグラスが用意されていた。
「おや、意外と似合うじゃない? でも、そのガウンは背丈が短いし少し小さかったかしらね、窮屈そうだわね。ふふ、でも、お似合いよ」
 佐知代は嬉しそうな顔をした。
「何だか照れますね。……でも、お姉さんの湯上りの顔、凄く綺麗ですね。化粧している顔より、今のすっぴんの方がいい感じですね。その方が私は好きです。見直しました。……ほんと、綺麗です」
 悟は素直に佐知代の美しさに感嘆した。
 女の本物の美しさは、化粧した顔よりも、何も化粧していない、いわゆるスッピンの状態を持って語られるべきである。何をおいてもスッピンの美しさに勝るものはない。それは、顔の形だけをとらえて語るのは正確ではない。可愛いとか可憐だとか理知的とか表現する時の顔の属性も含めて、白く透明感のある肌がもたらす、女性ならではの美しさも相まって語らなければならないのである。
 そう思いながら、悟は改めて佐知代の顔を見て、唸りたくなるほどの美しさに驚いた。上気した湯上りの顔は、絶世の美女と表現してもいいと思った。
「ありがとう。惚れてくれる?」
「その理知的な美貌とスタイルには、とうに惚れていますよ」
「さらに惚れ直してくれたの?」
「そうです。ほんとに惚れ惚れする美しさですね。今までは、化粧した姉さんしか見ていませんでしたが、こうしてすっぴんの顔を見て、その美しさに改めて驚いています。女性は何故化粧するのだろうとさえ思うくらいです」
「褒めるのが上手ね。すっぴんの、シワだらけのこんなババアをつかまえて良く言うわよ」
「あはは、素直じゃないなあ、ったく。人が本気になって言ってあげてるのに。それはないでしょう?」
「そうよね。でもね、忠告しておくけど、女は褒められるとすぐその気になって、何をするか分らないわよ」
「オー、コワ、襲われそうだ」
「そうよ。油断大敵よ。覚悟しておきなさいよ」
「何だか変な感じになってきましたね」
「フフ、そうかしら」
「……でも、スタイルも抜群だけど、美しい顔ですねえー、……床の間に飾っておきたいくらいですね。しかし、神が与えたこの美しさも、六十歳とか七十歳になったら台無しになってしまうのでしょうねえ。勿体ないなあ、……今のうちに、その美しさを写真に収めて、永久保存しておいた方がいいとさえ思いますよ」
 佐知代は悟の言葉に敏感に反応した。パッと明るい顔をして、にっこり笑い何かを思いついたような顔をした。
「悟、ちょっと待ってて」
 佐知代は、奥に引っ込んだかと思うとすぐ引き返してきた。デジカメを片手に持っていた。
「ねえ、酔わないうちに写真撮らない? 日付も出るようにしてあるから、……いいじゃない?」
「おおー、さすがいいところに気がつきましたね」
 二人は、代わる代わるデジカメのシャッターを押した。自動シャッターでツーショットも撮った。佐知代は、終始嬉しい顔で少女のように振る舞った。
「結婚式の写真は撮ったけど、それ以外に、男の人とツーショットだなんて初めてだわ。……超うれしい、ふふふ」
「姉さんのアルバムを見たくなったなあ。あるんでしょう?」
 悟は何故か、佐知代の若い頃の写真を見てみたい欲望に駆られた。
「もちろんあるわよ。見る? でも、少し恥ずかしいわね」
 佐知代は悟の提案に嬉しくなった。
「見たいですね。……見せてください」
 佐知代が再び奥に引っ込んで、アルバムを片手にして引き返してきた。佐知代は悟の横に座った。佐知代の香水の香りが悟の鼻を刺激した。家族で撮った写真もあった。佐知代の若い頃の写真を見て、悟はしきりに首を縦に振り頷いた。
「どうしたの? そんなに頷いて」
「お姉さんは、お母さん似ですね。……お母さんも綺麗な人だったんですねえー」
「そうね、小さい頃から良く言われたわね。良く似てると」
「これが結婚したころの写真ですか?」
 悟は写真を佐知代の方にずらしながら言った。
「そうね、これは、丁度三十歳になったころの誕生日の写真よね。この後に結婚したのよね」
「そっかー、なるほどね。美しいなあ、……これじゃ専務も嬉しかったろうなあ」
「何言ってるのよ。もうそんな話しないで、……思い出したくもないわ」
「あはは、そうかもしれませんね。……それにしても、いい目の保養をさせて貰いました。ありがとうございました」
 悟は一通り見終わってアルバムを閉じた。佐知代がアルバムを持って奥に引っ込んだ。そして、テーブルを挟んで悟の反対側に腰を下ろした。
「……それにしても、ガウンを着ながら姉弟の契りを結ぶなんて、思いもよりませんでした。……そう思いません?」
「そうね。私も想像していなかったわ。でも、いい感じね。リラックスできて気に入ったわ」
「ですね。いい感じですね。凄い贅沢な感じです。美しい女性と夜を共にするなんて最高ですね。……ねっ、姉さん」
「コラッ、私を誘っているの? その手は喰わないわよ」
「あはは、言葉を間違えたようですね。そんなつもりじゃありません」
「ワインにしたけど、……それとも、何か飲みたいものある?」
 佐知代が悟の目を見て言った。
「こんな下戸に、希望なんてある訳ないじゃないですか。……敢えて言えば、オレンジジュースがいいですね」
「バカ、何言ってるのよ。空気の読めない人ねぇー、ったく、つまらない。……ワインでいいわね?」
「そうですね。雰囲気も変わりましたから、ワインがいいかもしれませんね」
「でも、今夜は下戸を返上するつもりはないの?」
「いえ、下戸はどこまで行っても下戸ですから、ま、行けるとこまで行きます」
「あら、頼もしいわね。嬉しいわ。何だったら泊まっていってもいいのよ」
「はい。そういう事態になりましたらそうさせていただきます」
「ほんと? 遠慮しなくてもいいのよ。姉の家だと思っていいからね」
「分りました」
 佐知代はワイングラスを用意して、いかにも高級そうな赤ワインを、テーブルの上に置いた。
「ただ注ぐだけでは面白くないわね」
「そうですね、じゃあ、こうしませんか?」
「ん? どうするの?」
「まず、灯りを小さくしませんか? ロウソクがあればもっと雰囲気が出ますね」
「なるほど、そうね。いいところに気がつくわね。さすが我が弟だわ」
 佐知代は既にルンルン気分になっている。奥の方からロウソクを数本持ってきて、テーブルの上に置き火をつけた。天井の照明が落とされて、ゆらゆらと揺れるロウソクの灯りが雰囲気を一気に盛り上げた。
「まあ、いい雰囲気だこと。まるでクリスマス気分ね」
 佐知代は少女のように振る舞い喜んだ。
「ほんとですね。遅すぎたクリスマスですね」
 悟は、篠ノ井での楽しいクリスマスイブのことが思い出されてきた。
「あの提案があるんだけど」
 佐知代が何故か手を上げた。
「えっ、何の提案でか? 乾杯の方法についてですか?」
「そう。普通にやっても面白くも何ともないから、せっかくの姉と弟になる契りだから、何か思い出に残るようなやり方をしない?」
「何か考えているようですね?」
「うん。ロウソクでぐんと雰囲気も盛り上がってきたから三回乾杯しない?」
「えっ、乾杯を三回もするんですか?」
「そう。神前の結婚式に見られる固めの儀式として三々九度をやるじゃない? 姉と弟の契りだから似たようなもんじゃない?」
「なるほど、そうですね。ということは、グラスにワインを注いで一気に口に入れるのではなくて、一つのグラスでお互いに三回に分けてワインを飲むということですね?」
「それは結婚式なんかの三々九度のことよね。そうじゃないの。それだったら、私の言う三回の乾杯にならないじゃない」
「あ、そうか。ですね。……と言うと? ……どうするのですか?」
「一回目と、二回目は悟の考えた乾杯の仕方で姉さんが乾杯の音頭を取る。一回目が終わったら、二人で楽しい会話をして、それから、頃合いを見て二回目をやるの」
「なるほど楽しそうですね、……三回目は?」
「そうね、三回目は私が考えた乾杯の方法でやりたいんだけど、今まだ思いつかないから、会話しながら考えるわ」
「なるほど。いい考えですね。それで行きましょう」
「思い出に残る強烈な乾杯にしたいわね」
「強烈な乾杯? いいですねえー、そうしましょう」

「じゃあ、早速一回目の乾杯をしましょう。……やって」
「まず、私がお姉さんのグラスにワインを注ぎます。お姉さんも同じように私のグラスに注いでください。飲み干しますので最初は少しにしてください」
 二個のグラスに赤いワインが少量注がれた。
「お姉さんのグラスに注がれたワインを、私の体内の血液と思ってください」
 血液と聞いて、佐知代がびっくりして悟の目をじっと見つめた。ロウソクの灯りでゆらゆらと揺れる悟の顔は微笑んでいた。
「悟の血液型は何型なの?」
「O型です。……姉さんは?」
「A型よ」
「O型は誰にでも輸血出来るし、A型からO型への輸血もOKですね。万事上手く行きそうですね」
「そうだわね。……そちらは私の血液ね」
「そうです。では、最初はそのまま乾杯しましょう。一気に飲み干します。お姉さん、音頭をお願いします」
「はい。……今夜から、悟は佐知代の弟に、佐知代は悟の姉になります。二人はお互いの心を尊重し、切磋琢磨して協力し合い、死ぬまで一心同体で行動することを誓います。……ここに誓いの乾杯をします。……かんぱい」
「かんぱい」
 佐知代も悟もグラスを取り液体を体内に注いだ。とろけるような味が、まろやかな香りと共に喉を潤した。何とも言えない旨さである。
「ああ、これで、悟は三分の一だけ私の弟になったのね」
「そうか。まだ三分の一だけなんだ。なるほど面白いですね」

「悟に聞きたいことがあるんだけど、聞いてもいい?」
「お手柔らかにお願いします」
「悟はさ、結婚のことどう思ってる?」
「いきなり超真面目な問題ですね」
「うん、だって、この前離婚したばかりだから、いろいろ考えさせられるのよ」
「あ、そうか、そうかもしれませんね」
「私の場合、好きでもない人と、親に強引に結婚させられてしまった、という思いが強いから尚更よ。結婚って、どういうことだろうって思うことがあるの。この気持って、分らないかも知れないわね悟には」
「そうですね。経験した人しか分らないことかもしれませんね」
「悟は、結婚って何の為にすると思っているの?」
「何の為にですか? と言うより、この人と一生を共に暮らしていきたい。この人と家族を作っていきたい。まだいろいろあると思うのですが、そういった願望を満たしたいと思うからじゃないですか?」
「じゃあ、私の場合はどうなの?」
 佐知代はグラスを口にした。悟もつられてワインを口に注いだ。
「……それは、……旦那さんはそう思って結婚されたのではないでしょうか」
「そうかしら。私とか旦那の願望ではなくて、父が自分の願望を満たしたい為に、有無を言わせない方法で二人を結婚させたと思うの」
「お父さんから言われた時、抵抗があったんでしょう?」
「もちろんよ。とても嫌だったし、凄く抵抗があったわよ」
 佐知代はまたもグラスを口にした。
「じゃあ、どうして反対しなかったのですか? 自分の考えを貫き通さなかったのですか?」
「それが出来るくらいなら苦労しないわよ。娘の立場なんてその程度のものよ」
「そうかなあ。今の姉さんを見てると、とても信じられませんね」
「そうかもね。今でこそ気丈夫にしているけど、その時は気の弱い、どちらかというと従順な女だったのよ」
「さっきアルバムを見ていた時の話だと、結婚したのは三十歳の時だったということですね?」
「そうね。丁度三十歳だったわね」
「女の三十歳前後は、結婚に対して心が揺れ動くというからなあ」
「別に私の心が揺れ動いていたから、父の説得に応じて結婚した訳じゃないわよ」
「お父さんにしてみれば、自分の息子のように可愛がったいた専務と我が娘を、どうしても一緒にさせたかったのでしょうね?」
「そうね。そうだと思う」
「それにしても、好きでもない惚れてもいない人と結婚するなんて、江戸時代の政略結婚ならともかく、私には理解できませんね」
「そうよね。理解しなさいと言う方がおかしいわよね」
「まだ見合いの方が納得いきますよね」
「そうよね」
「で、結婚せざるを得なくなって結婚した。ほら、良く聞く話ですけど、結婚する前は好きじゃなかったけど、結婚してから段々好きになって来たとか、そういう感じだったのですか?」
 悟のグラスが空になっているのを見て、佐知代がワインをグラスに注いだ。悟はそのグラスを口に持っていった。
「バカ言いなさい。結婚してから益々嫌いになったわよ」
「あちゃー、これはヤバい。……でも、新婚初夜は受け入れたんでしょう?」
「何でそこでそんな話になるのよ」
「あはは、参考までに聞いておきたいと思いまして」
「結婚式場で三々九度の杯を口に持っていった時、私は理由もなく泣きそうになったんだけど、はっきりと意識したというか自分に言い聞かせたの。何もかも諦めようとね。自分の人生は、こういう星の下に生まれて来たのだと思ったの。だから、親の悲しい顔を見たくなかったし、自分のほんとの気持を心の奥底にしまい込んで、この人と生きて行こうと思ったの。とても辛くて悔しかったけど、その時は仕方がないと思っていたの」
「そっかー、だから、嫌いだったけど、彼を受け入れざるを得なかったという訳だ」
「そうね。そういうことになるわね」
 佐知代はグラスを手にして口に持っていった。悟もワインを口に注いだ。
「彼は上手だった?」
「何が? 接客のこと? 下手だったわよ。だから、私が表舞台に出ざるを得なくなったのよ」
「そのことではなくて、夜の営みのこと」
「コラッ、どうしてそんなことまで聞くのよ、ったくもう。上手いか下手かは考えたこともないわよ」
「あ、そうなんだ。妊娠はしなかったのですか?」
「この人の子供は、絶対に生みたくないと思ったから、それなりに対処したわよ。この話もういいでしょ?」
「はい。参考になりました。でも、毎日嫌だ嫌だと思いながら暮らしたり夜を共にするなんて、……辛いでしょうねえ」
「辛いなんてもんじゃないわよ。……だから、段々と言うより、早い段階で、口実を作って外に出歩くようになったのよ」
「そうなんだ。分るなあその心境。でも、そのお蔭で仕事の本質を見つけることが出来たなんて、あったりしてですね?」
「そうなのよ。その意味では、元の旦那には感謝しなければいけないわね」
「そうでしたか。それを契機に、従順で大人しい女性が目覚めて、ホテル業界に君臨する程になったという訳ですね?」
「君臨という程ではないけど、あなたのお蔭もあって、今日まで何とか来れたのよ」
「で、離婚した今の心境はどうなのですか? やはり、離婚した方が良かったと思っているんですか?」
「心底そう思ってる。気持ちがすっきりして、今まで以上に仕事に邁進出来るわね。……でもねえ……」
「ん? 何か悩み事でも?」
「悩みではないけど、仕事はお蔭様で順調だからいいけど、仕事だけするのもねえ、心が満たされないというか、そう思う時があるのよ」
「なるほど。結婚とか離婚とは関係なく、一人身の心境ですね?」
「そうだわね。一人の女が生きていく上で、心が満たされないことほど残酷なことはないのよ、分るかしら?」
「分らないことはありませんが、……だったら、再婚したらいいじゃないですか」
「再婚したら、心が満たされる保証でもあるっていうの? 考えが甘いわよ」
「あれっ、怒られてしまった。でも、一つの選択肢ではあるでしょう?」
「だから、聞いているんじゃない。結婚のことどう思うって」
「あ、そういうことですね、なるほど、……でも、結婚しないという選択肢もあると思いますけど」
「そんなことは分ってるわよ。ったく。話の核心がぼけて来たわね」
「すみません」
 佐知代は、グラスを持って液体をくるくる回した。そして口に入れた。

「じゃあ、少し質問を変えるね」
「はい」
「婚姻制度についてどう思う?」
「えっ、婚姻制度ですか? どうしたんですか? 結婚とか婚姻とかにやたらと拘りますね」
「拘ってる訳ではないけど、婚姻制度の意義って言うか、役割って結構あると思わない?」
「そうですね。日本の場合は多くの法律が、婚姻を基準に考えられていると思うんです」
「例えばどんなこと?」
「つまり、結婚しているかどうかで家族があるかどうかで、いろいろな基準とか仕組みを設けていますね。例えば、遺産相続なんかがそうですね」
「あ、なるほど。相続人が誰かと言う問題は重要なことよね」
「問題になるのは、法定相続人の認定でしょうね。そもそも、法定相続人という時の法定は、婚姻届を出しているかどうかなど、つまり細かいことは別にして、法的に認められた個人なのかどうか、ということが基準に語られている訳でしょう?」
「そうよね、良く分らないけどそうだと思う」
「ですから、お妾さんの子供とか、不倫相手との間に出来た子供とかが、相続人になり得るかどうか、という問題になってしまうのですよね?」
「子どもの側から見たら、そんなの関係なく平等に扱って欲しいと思うけど、今のところ、法的にそのようにはなっていない、ってことが問題だってことよね」
「そうだと思います。男女が暮らしを共にする形には、いろいろありますからね。同棲や事実上結婚しているけど籍にいれていないとか、そう言った場合、出来た子供は可哀想ですね。国の制度が認めていない形で存在する場合、否応なしに税制面など、いろいろな不利益を受けることになりますからね」
「そうねえ、でも、国の秩序を守るためには、ある意味必要と言う意見もあるのよね」
「そのようですね。しかし、よく考えたら、時代というのは移り変わって行きますから、法律もその時代背景に合わせて、常に軌道修正する必要もあると思いますけどね。もし婚姻制度や刑法などの法律がなければ、社会が大混乱するでしょうから、なおさら真剣に考えなくてはならない、時代の要請なのかもしれませんね」
「大概の国で一夫一婦制を敷いてるでしょう? この制度があるから社会の秩序が保たれているのかしら」
「必ずしもそうとは思いませんが、一面はあると思いますね」
「必ずしもと言うと?」
「一夫多妻を認めている国が、まだあるでしょう? そんな国でも、それなりに秩序は保たれているように思うのですが」
「あ、そうそう、そのことで、今思い出したことがある」
「どんなことですか?」
「ある国に行った時、地元の女性に聞いたことがあるの。一夫多妻の場合、一人の旦那さんは、大勢の奥様達と生活を共にしているわよね?」
「あまり良くは知りませんが、そういうイメージですね」
「奥様達は、焼もちを焼いたり、旦那の取り合いっこはしないのかと思わない?」
「なるほど、あり得る話ですね。興味ありますね」
「でしょう? で、そんな質問したら、笑われてしまったわよ」
「えっ、どうしてですか?」
「そういう状態が普通のことだから、そう言った意識は全く起らないんだって、考えた事もないんだって、……信じられる?」
「いや、そうかも知れませんね。私たちが勝手にバリアを設けているだけですもんね。国全体の社会の秩序を保つために、ガチガチの法律を作って、その為に、ある意味自由を奪われている側面があると思います。実は、そのことが生まれた時から脳に叩き込まれて、つまり洗脳されて、一つのバリアを作っていると思うんですよ。だから、当たり前のことと思い、全く疑問とは思わなくなっている、ということではないでしょうか」
「そうかも。……話を続けるね? 私はその女性に、さらに馬鹿げた質問してみたの」
「はい」
「そういう状態に置かれて、女として幸せなのかしらと聞いてみたの。何と答えが返ってきたと思う?」
「我々が考えている幸せの尺度と、その人らの尺度が違うかもしれませんね」
「そう思うわ。とっても幸せよ、ってにっこり笑って言うの。ほんとに幸せそうだったわよ」
「なるほどなあ」
「逆に言われたわよ。あなたは幸せですかって。その時、何かグサッと胸を刺されたような気分になったわ」
「そっかー、一夫多妻を実行している人には、浮気とか愛人とか内縁の妻とか不倫だとか言う言葉自体が存在しないんだ。……そうですよね」
「さあ、はっきりとは分からないけど、そうかもしれないわね」
「江戸時代の大奥もそうだったのかなあ」
「大奥は少し違ったんじゃない?」
「でも、一人の殿様に、正室のほかに多くの側室がいたのでしょう? 似たようなものでしょう」
「そうね。実際は分らないけど、映画などでは大奥で骨肉の醜い争いもあったようだから、大変だったのじゃないかしら」
「そうですね。本や映画などでは、正室と側室の争いとか側室どうしの争いとか、男の子を生んだ側室が威張ったりとか、いろいろあったようですね」
「女の争いは、醜いし、凄まじい争いに発展しやすいから怖いわね」
「でも、どうしてそういう争いに発展すのでしょうね? 殿様を一人占めしたいのですかね?」
「自分だけを抱いてほしい、という欲望じゃないかしらね。きっとそうよ」
「なるほど。どうして自分だけなのですかね。次に回ってくるのを待てばいいのに」
「多分、殿さまとフィーリングが合う女性と、そうでもない女性が当然いると思うの。だから必然的に、フィーリングの合う女性を多く抱きたがるのだと思う。それを見て、他の側室達が焼もち焼いたりするのよ、きっと」
「あはは、いかにも人間的ですね。殿はいいですね。自分とフィーリングが合う女性だけと、何人でも何回でも夜を共にすることが出来るんですから」
「そうよね。そういう世界も悪くはないわね。特に殿方にはね。浮気とか不倫とかの概念がない世界だから、……いいわねえ」
「その時代の、それなりの法律めいたものはあったのでしょうから、例えば、お世継ぎのルールなんかがあったから、争いが絶えなかっとか考えられますね」
「いくら社会の秩序の為とは言え、男と女のことを、法律ががんじがらめにしている感じもしないでもないわね。いつの時代も同じなのかもね」
「そうか、一夫多妻かあ。いいなあ、でも身体が持たないなあ。とても自信ないなあ」
 悟が笑いながら佐知代の顔を見ながら言った。
「あはは、何を言ってるのよ、いっそのことそんな国に行って見たら?」
「あはは、いいかも。一度は経験してみたいですね。……でも逆に、一妻多夫なんて国ないのかなあ」
「そうね、余り聞いたことないわね」
「女王蜂がそうですね。……あれっ、違うかな? 働き蜂は、女王の夫たちではないんだろうか」
「フフ、私も女王蜂になろうかしら。……いいかも。男性を一杯はべらかしてみたいわ」
「あはは、うんうん絵になるかも。お勧めします」
「ふふふ、もう少し若かったらなあ」
「またそこに戻る」
「歳は取りたくないわね」
「そうなると、一夫一婦制度っていうのも問題ありですね」
「そうよね。男も女も婚姻届を出しさえすれば、鬼の首を取ったように、自分の固有のものとして、しがみついて行くようになるのよね」
「でもそれって、婚姻届を出す時点では、大概の場合ルンルン気分だから、そんなことまでは頭にないと思いますよ」
「それはそうよね。時間が経つにつれ、子供が出来たりして、家族に変化が訪れてくると、次第に頭をもたげてくることなのかもしれないわね。いわゆる妻とか夫としての権利を主張してくる訳よね」
「奥さんの場合もあると思うけど、例えば、旦那が浮気をしたり不倫したりすると尚更ですね。それが発覚すると大変なことになる」
「場合によっては地獄絵になるわね」
「自分以外の人に、これが目に入らぬかと印籠を見せる訳ですね。だから、夫が浮気するのは絶対に認めない妻と、浮気相手の女と夫を含めて、その逆もあると思うのですが、骨肉の争いに発展していく」
「こういう制度がなかったら、そんなことにはならないかしら」
「多少はあるでしょうけど、大袈裟なことにはならないような気がしますね」
「旦那が多少の浮気をしても、最終的には自分のところに帰ってくると思っていれば、波風も立たないような気がするけど、そうもいかない訳よね」
「そんな女性は滅多に居ないと思います。自分以外の女性を抱いている旦那をイメージしただけでも、逆上するのは必定でしょうね」
「これも、一夫一婦制の婚姻という社会通念があるからだと思うわ。そんな制度がなかったら、そこまでにはならないような気がするわ」
「でも、そういう制度があるからこそ、社会の秩序がある意味保たれているとしたら、それはそれで、とても意義のあることですよね」
「それはもちろんそうだけど、考えようによっては、逆に複雑な問題を提起しているわよね」
「そうかもしれませんね。……そうなると、だからって言う訳じゃないけど、現代の結婚って何だろう。考えさせられるなあ」
「でしょう? 振出しに戻ったわね」
「そのようですね」

「話題を変えよう。……人生の中のセックスのこと、……どう思う?」
 佐知代が、ニタニタしながらワインを口に入れた。悟もそうした。
「話が大分飛びましたね。酔ってきたんじゃないですか?」
「フフ、誰かさんじゃあるまいし、まだ飲んでいるうちに入らないわよ」
「人生の中のセックスのことって、例えば具体的にどういうことですか?」
「長い人生の中で、セックスの持つ割合って言うか、意味って言うか、重要度って言うか、それは何割ぐらいなのかしらね?」
「えっ、割合ですか? なるほどそう言われてみれば、確かに大事なテーマの一つではありますね」
「例えば、結婚して子供が一人いたとして、夫婦の間のセックスの重要度は何割だと思う?」
「考えた事ないですね、そんなこと。子供がいるということは、旦那は仕事に忙しくなる年齢だし、奥さんは子供の世話に追われる」
「そうよね」
「そうなると、夜の営みも段々と疎遠にならざるを得ない。分り易く一週間に二回だとすると月に計八回か、そうなると、計算式は八割る三十は約二十七%かあ。なるほど、そんなもんかも知れないなあ。歳を取ってくれば率も段々下がってくる訳だ」
「ふふふ、酔っているのに、良くそういう計算をするわね。悟らしいと言えば悟らしいけど、呆れたわ」
「あはは、だって分り易いでしょう? 重要度とは少し離れているような気がするけど、……答えは二十%から三十%程度ですね」
「じゃあ、残りの七十%から八十%は何なの?」
「生活するために消耗される時間ですよ。こちらの方が、はるかに重要だということですよ」
「何で時間なのよ。夜の営みは八回であって八日じゃないでしょう? それを言うんだったら、最初から時間で計算すべきでしょう?」
「なるほど。言えてますね。データに信憑性がないと、こうおっしゃりたい訳ですね?」
「そうよ。計算し直して」
「じゃあですね、夜の営みを一回あたり二時間として、いや前後を入れて三時間としましょう」
 佐知代は、悟の超真面目になって計算している姿を見て、今にも吹き出しそうになっていた。
「フフ、三時間ね」
「えっ、短いかなあ。それとも長い?」
「お好きなように」
  佐知代は、グラスを持って液体をくるくる回しながら、笑いながら成行きを楽しんでいた。悟はワインを口にしながらしきりに考えていた。
「えーと、計算をし直します。三時間X八回は二四時間。あ、丁度一日になった。……えっ、とすると? たったこれだけ? 三十分の一だ。……少ない。えっ、三%?」
「時間的にはそうなるってことね。でも、重要度からいったらもっと高くなる筈よね?」
「そうですね。そう思うけど、計算できませんね」
「でしょうね。だったら、およその勘でどの位だと思う?」
「こうしてよく考えて見ると、せいぜい二十%から三十%ですかね?」
「人生に於けるセックスの重要度は、せいぜい二十%から三十%だということね」
「会社で言う、二対八の法則に当てはまりますね」
「二対八の法則って?」
「優秀な二割の社員が、全体の売り上げを賄っているということです」
「八割は無駄社員? じゃあ辞めさせたらいいじゃない? 人件費が浮くわよ」
「そういう意味ではないのです。八割の人も必要悪なのです」
「あら、そうなの? ……そんな話はいいから、……その法則で言うと、二割の夜の営みが、生活全体の重要さを支配してるということなの?」
「あ、なるほど、そういうとらえ方も出来ますね。でも、この場合はちょっと違うような気がしますね」
「一面当ってるような気がするわよ。だって、その二割を浮気に使ったら、家庭が崩壊するかもしれなでしょう? つまり、生活全体に影響を与えて、最悪の場合壊れてしまう。……ということにならないかしら?」
「それは飛躍のし過ぎでしょう。変なこじつけですよ。だって姉さんの離婚の原因は、旦那さんが浮気したことではないでしょう?」
「何で、そこで私の離婚問題が出てくるのよ。関係ないでしょ?」
「大いに関係ありですよ。だって、セックス以外のことが原因な訳ですから、八割の部分がいかに大事かってことですよ。その意味では、セックスなんてさほど重要でなないということになりません? でも、言っていながら変な感じだなあ」
「あはは、じゃあ、八割の部分をしっかり守っていれば、セックスなんてどうでもいいってことね?」
「そうなりますね。何だか変にこじつけて、屁理屈を言っているような気がするなあ。……少し違うような気もしないでもないですが、……うーん、でもそうなりますね」
「どうしてセックスするのかしら」
「あれっ、どうしたんですか? 急に真面目な顔をして」
「知りたいのよ、……知りたくない?」
「なるほど、そう来たか。……それでは独断と偏見でお答えします。人間はどうしてセックスするのか。答えは二つありますね」
「二つね。何かしら」
「一つは、これは動物でも言えると思うのですが、子孫を残したいという本能的な部分ですね、もう一つは、これは多分動物にはないと思うのですが、セックスがもたらす快楽ですね。……しかしながら、セックスは気持ちいい、つまり、セックスは快楽を味わえるということを知った途端に、人間は狂い始めたのです」
 佐知代は、真面目そうに語る悟の仕草を見て可笑しくなった。
「なるほど。だから、みんなセックスしたがるのね? 悟の説だと、今の人間は狂っているということね」
「はい。そうです。セックスすることが、苦い薬を飲むように、いつも苦痛を伴うようだと、子孫を残す為だったら我慢出来るけど、それ以上の欲求は生まれなかったと思います」
「なるほど、そうかもね」
「全てがそうだとは言いませんが、快楽を味わえることが元凶なのです。快楽を味わえるセックスへの願望が元で、醜い争いが始まるようになったという一面は見逃せませんね」
「ちょっと聞くけど、セックスって、そんなに気持ちいいものなの? 快楽なのかしら?」
「あれっ、思ってもいないような質問ですね。姉さんはセックスの経験は、前の旦那さんだけですか?」
「そうよ。私って意外と堅いのよ」
「へえー、じゃあ処女を捧げた人になる訳ですね?」
「悔しいけどそうなるわね。思い出したくもないわ」
「嫌だ嫌だと思いながらセックスしていたということは、気持ちいいとか快楽とは程遠いものだったのですか?」
「そうよ、むしろ苦痛だったわね」
「そうかあ、じゃあ、セックスに対してトラウマになってるんですか?」
「いや、それはないわよ。たまたまそうだったと言うだけの話で、女は女だから、心から好きな人だったら、きっと快楽を味わえると思ってるわよ」
「でしょうねえ。ああ良かった。セックスは、やっぱり心でするものだと言いたい訳ですね?」
「そうよ。心底惚れた人だったら、経験ないけど、きっと最高の快楽を味わえるんじゃないかしら。死ぬまでの間に、一度は経験したいわねそんな快楽を」
 佐知代の目が悟を誘うような目に変化した。悟はグラスを口に当てた。
「好きだからセックスしたくなるのよね?」
「一般的にはそうだと思いますが、例外もありますね」
「例外? 例えば?」
「犯罪になるようなことですよ」
「あ、そうね、レイプとか?」
「そうですね」
「もう一つの例として、好きでもないけど、特に男性の場合は、性のはけ口として考える場合もありますよね。女性もあるのかも知れませんが。 若い男性が、ソープランドに足を運ぶのもその一つでしょう?」
「悟は、そんな所に行ったことあるの?」
「大分前ですが、飲んだ後、そういう話になって誘われたのですが、どうも、自分が許容出来る範囲になかったものですから断りました。ですから、そういう所が、どういう風になっているのかさっぱり分りません」
「そんなの分らなくて上出来よ」
「ですね。同感です」
「男の人って、嫌いな女性でもセックス出来るのかしら」
「さっきの話は例外として、一般的には、人によりそれぞれではないでしょうか」
「悟はどうなの?」
「私は無理ですね。やはり、ある程度好きな人でないとその気になりませんね。女性の場合はどうなんですか?」
「私の場合は絶対だめね。女の人は大概そうじゃないかしらね」
「そうでもないと思いますよ。だって、姉さんだって、嫌いだったのに結婚したという理由で許したんでしょう?」
「また私の話? そう言われればそうよね。言い訳できないわね」
「でしょう? それに目的を達成する為には、平気でセックスする人は多いように思いますよ。そう言った意味では、女性の方がセックスにはルーズなのではと思ったりもします」
「目的を達成するって?」
「財産目当てだとか、いろいろありますよね」
「なるほどね。そう言われればそうよね。女の方が、むしろ男性よりもその傾向が強いかも知れないわね」
「男って意外と単純なところがありますが、女は執念深くて、男の弱みに付け込むのが上手いと思います。これは女性特有の本能なのでしょうね」
「男の弱みってどういうこと?」
「これもいろいろあると思うのですが、例えば特に独身の男性の場合、好みの女性だったら、いつでも誰とでもセックスしたいと思っていることです。そこを女性に付け込まれてしまう、というパターンですね。全ての男性に当てはまる、ということではありませんがね」
「えっ、じゃあ、悟もそう思っているの?」
「私の場合は、理性が強すぎてそこまではいきません。……今は彼女がいますし」
「そうね、そうだわね」
「でも、過去に経験したことがあるのですが、酔ってしまうと理性が失われてしまい、本能が顔を出す時は確かにありますね」
「それは、誰にでもあるんじゃない? 女でもあるような気がするわ。酔った勢いでというより、酔うと雰囲気を大事にしたくなる。確かに理性が働くなくなり独特の快感を得て、この雰囲気がずっと続いて欲しいという欲望に変わるのよね。まして、好きな彼が傍にいたら尚更よね。……そう言った意味では理性を失うって怖いことよね」
「確かに言えますね。犯罪を犯した人たちは、大概そうじゃないでしょうかね。瞬間的に理性を失って、してはいけないことをしてしまった」
「そうね、そうだわねきっと。だから、いつもは、後悔を理性が抑え込んでくれてるのよね」
「なるほど。いいことを言いますね。全くその通りですね。……お酒には気をつけなければいけませんね。特に私みたいに下戸は尚更ですね」
「ふふ、でも気心知れた人だったら、たまにはそういう事になっても、別に罰は当たらないわよ」
「えっ、そうですかねえ。じゃあ、酔っぱらって意識朦朧となると、次の日起きた時に、昨日のことがさっぱり思い出せないというか、記憶が飛んでしまったなんて良く聞くじゃないですか。いわゆる記憶喪失の状態ですよね?」
「そうね。私もあるわよ」
「えっ、姉さんもあるんですか?」
「も、っていうと悟も経験あるの?」
「はい。一度ありました。新入社員の歓迎会の時、先輩たちに強引に飲まされて、気がついた時は、先輩のところで朝まで寝ていました。前日何があったのか、さっぱり思い出せなかったですね」
「へーー、そんな経験があったんだ」
「でも、姉さんの場合は、お酒は相当行ける方ですから、余程のことがないと、意識が朦朧なんてならないのじゃないですか?」
「一度だけあるわよ。ほら、離婚のことでいろいろあった時があったでしょう? そんな時あったのね。あの時は飲まずにおれなかったのよ」
「なるほど」
「悟の場合は、目が覚めた時はどこだったの?」
「それが傑作なんですよ」
「どんなこと?」
「朝、目が覚めた時、女の人の顔が眼の前にあったんですよ。私はしまったと思いました。酔っぱらった勢いで、女の人を口説いて抱いてしまったと思ったのです。だって、寝床が敷いてあって、目の前に女性がいたらそう思うでしょう?」
「ふふ、そうよね。びっくり仰天ってとこ?」
「廻りを良く見れば、すぐ状況が飲みこめた筈なのに、私はもうてっきりそう思ったもんですから、飛び起きて女の人の前で土下座して、畳に頭をこすり付けて謝りましたよ。すみません。許してくださいって」
「あはは、面白い、……で、どうなったの?」
「そしたら、女の人が畳を叩いて大笑いしたんですよ。そしたら、それを見ていた先輩も大笑いしてました。……先輩の家だったのです」
「あはは、面白い話ね。前の夜のこと全然覚えてなかったの?」
「そうなんですよ。先輩が、こうだったよとかああだったよとか言うのですが、全く思い出せないのですよ。怖くなりましたね」
「そんな話、良くある話よね。多分、意識が朦朧となって、脳が制御不能に陥って、その結果、記憶が飛んでしまうんでしょうよね、きっと」
「そんな状態の時、ほんとに知らない人とホテルに行って抱いたら、罪になるんですかね? だって、抱いたという記憶が全くない訳ですからねえ」
「そうねえ、難しい問題かもね。言えることは、実際は意識があったのにも拘らず、故意に、さもそういう状態だったと思わせる手もある訳だから、立証するのは難しいわね」
「あ、なるほどなあ。ほんとにそういう状態で、記憶になくても主張出来ないんだ。なるほどなあ。そうかもですね。結局は深酒しないで、そういう風にならないようにしなければならないということですね?」
「そういうことね。悟は下戸なのだから尚更気をつけなくっちゃね」
「そのようですね。……さっき姉さんは、気心知れた人だったら、たまにはそういう事になっても別に罰は当たらないわよ、と言いましたよね?」
「そうね。言ったわね」
「それって、どういう意味ですか?」
「深く考えなくていいのよ。知り合い、例えば、彼女と付き合い始めの頃、酒に酔ってしまって意識朦朧になって、成行き上彼女をホテルに連れていって、抱いてしまったなんてあるでしょう?」
「ああ、そうですね。充分あり得る話ですね。……なるほど」
「それだったら、別に罰は当たらないでしょう? という事よ。……そう思わない」
「ですね。……例えばこういう場合はどう考えたらいいでしょうね。……えーと、好きな彼女がいる場合で、何かの弾みで、別な人とそのような状態になったら、彼女に何と言ったらいいのでしょうね?」
「全然記憶にないのよね?」
「ええ、まあそうですね。でも目が覚めた時、女の人が実際には傍にいたとしたら」
「たとえ女の人が傍にいても、キスとかセックスをした覚えがないのだったら、敢えて言う必要ないんじゃないかしらね。何か罪の意識があると言いたいの?」
「分らないから聞いているんです。……だけど、やっぱり目が覚めた時に女の人が傍にいたら、どう見てもセックスしたと思いますよね」
「それは分らないわよ。女の人はどうなの? はっきりとセックスしたと言ってる訳?」
「例えばの話ですから、何とも答えようがありませんが、そうだとしたら、立証されたことになりますよね」
「どうやって立証するの? 悟の精液を取り出して、これがあなたの精液よって言う訳?」
「あはは、なるほど。すぐ病院にでも行って、取り出せるものだったら別ですが、普通の場合は、それは不可能ですね」
「でしょう? 結局二人が、はっきりした意識の上で行った行為しか、認めようがないと思うけどなあ」
「ですね、……という事は、彼女に敢えて言う必要がないというより、言う根拠が失われているという事ですね? 少しこじつけみたいな気がするけど」
「こじつけでも何でもないわよ、それは、女の人と一緒にいたという事を、言うかどうかは別にして、記憶にないことは言いようがないってことよ。そうは思わない」
「ですねえ。何だかややこしいですね」
「フフ、自分でややこしくしてるんじゃない。女の人によっては、いくらまともに言ったって、信用される場合とそうじゃない場合があるし、余計な思いをすることになりかねないから、言わない方がいい場合もあるのよ。バカ正直に言うのも何だと思うわ。多少の秘密があった方がいいくらいだわよ」
「そうかなあ、そうは思いたくないなあ」
「そんなこと、ガチガチに考えていたら疲れるでしょう? 人生が。少しはフリーにしておく部分もないと、人生つまらなくなってくるわよ。言わない美徳っていうのもあるのよ」
「それはそうですね。……なるほど。そういう考えもあるんですね。こういうこと言えませんか? 理性の為に、ほんとの楽しみを奪われた」
「なるほど。確かに言えてるわね。時と場合によるけど、誰にも言いたくない秘密の楽しみがあるって、思っただけでも心が満たされるような気がするわね」
「おーー、そうですね。秘密の楽しみかあ、……いい響きですね。あはは、まるで不倫の響きですね」
「フフフ、面白い。経験したみたいな言い方ね」
「あはは、不倫の経験はありません」

 佐知代が思い出したように言った。
「では、ここいらで二回目の乾杯しない?」
「あ、そうですね」
「こんどはどうするの?」
「そうですね、……では、次はグラスを交換します。そちらのグラスをこちらに、こちらのグラスをお姉さんの方に」
 言いながら悟はグラスを交換した。交換したグラスをそれぞれ百八十度回転させた。だから悟の側のグラスの手前側は佐知代が口をつけたことになる。佐知代はスッピンになっていたから、口紅は付いていなかった。
「それでは、またグラスに血液を注ぎます。まず、私がお姉さんのグラスにワインを注ぎます。これは私の血液と思ってくださいね。お姉さんも同じように私のグラスに血液を注いでください。今度は普通の量にしてください」
 二個のグラスに赤いワインが注がれた。
「あのさ、ワインが血液だと思うと、何だか訳もなくゾクゾクするわね。ほんとにそう思ってしまいそうで、凄く生々しい感じがする」
「姉と弟になるってことは、ある意味とても生々しいことですからね。今、凄いことをしようとしているのですよ」
「そうよね、これって、よく考えたら凄いことよね。こんなことを実際にする人っているのかしらね」
「軽い冗談タッチでする人はいるでしょうけど、死ぬまでの人生を賭けて姉弟になるなんて人は、多分、いないでしょうね。お互いが、余程信頼し合い尊敬し合った仲でないと、そんなことは出来っこないでしょうよ」
「そうよね。世界で悟と私だけかもね?」
「そうかもしれませんね。大好きな姉さんだから出来ることです」
「私も同じよ。好きで信頼出来る悟だからその気になれるのよね」
「では、これから二回目の乾杯の儀式を行います。立ってください。そして右手でグラスを持ったまま、私の腕をお姉さんの腕に、お姉さんの腕を私の腕に絡ませてお互いに腕を組みます。組みながらワインを飲みます。……お姉さんいいですか?」
「いいわよ。……悟ちょっと待って。……何だか胸がドキドキ、パクパクして、いつもの自分じゃないみたい」
「あはは、大丈夫ですか? これから杯を交わします。お姉さんの血液が私の体内に入ります、私の血液がお姉さんの体内に入って行きます。これで二人は事実上とはいきませんが、姉と弟になったことになります。でもまだ三分の二ですけど」
「……」
 佐知代は無言であった。佐知代は酒を飲んでも、あまり顔に出ないタイプである。しかも、あまり飲んでいないこの段階だから、酒で顔が赤くなっているとは考えにくいが、どういう訳か佐知代の顔に赤みがさしている。少し興奮しているようである。幾分緊張気味でもある。目はじっと悟の目を見詰めたままだった。いよいよ待望の弟が出来る。佐知代はこの弟を、一生大事にして生きて行こうと心に誓った。
「私の血液を、さっき私が口をつけたグラスに注ぎました。お姉さんの血液を、さっきお姉さんが口をつけたグラスに注ぎました。グラスを回転させてありますから、グラスを口に付けることで、間接キスしたことになります。……お姉さん、それではグラスを右手で持ってください」
 佐知代は、おもむろにグラスを右手に持った。そして、悟の右腕に自分の右腕を絡ませた。自分の口元には、悟が口をつけ悟が注いでくれた血液が赤々と揺れていた。佐知代の白く長い指が、ロウソクの灯りに揺れて印象的である。運命の瞬間である。
「それでは、いただきましょう。……お姉さん、また音頭をお願いします」
 この弟は何という弟だ。可愛くてしょうがない。いっそ抱きすくめたい衝動に駆られた。
「悟、ありがとう。いいお姉さんになるように努力するからね、これから死ぬまで宜しくね」
「佐知代姉さん、ほんとにありがとうございます。こんな至らない弟ですが、可愛がってくださいね。悪いことをしたら、どしどし叱ってくださいね。悟はお姉さんが大好きです。これからも宜しくお願い致します」
 悟の言葉を聞いて、いよいよ胸が激しくこみ上げてきた。そして、乾杯する前にとうとう泣き出してしまった。
「お姉さんどうしたんですか?」
 悟は腕をほどき、グラスを一旦テーブルの上に置いた。そして、慰めようと思い佐知代の肩に手を掛けた。その時、佐知代が激しく悟に抱きついてきた。両手を悟のガウンの下に滑らせて、悟を強く抱きしめた。ナイトガウンからはみ出しそうになっている佐知代の豊かな胸が大きく揺れた。湯上りのほのかな香水の香りが悟を刺激した。悟の方に向けた佐知代の顔は、涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。すっぴんの顔を目と鼻の先に見てほんとに美しい人だと思った。涙でぬれた顔を手で拭いてあげた。可愛い、あどけない少女に見えた。思わず、抱きしめたい衝動に駆られたが思い留まった。佐知代は、悟の唇に自分の唇を今にも重ねるようにして語った。
「悟、ありがとう、……ありがとう。こんな嬉しことないわ。このままジッとしてて、ねっ、お願い」
「はい。気のすむまで思い通りにしてください」
 悟も、姉となる佐知代のこれまでの心の苦しみを理解し、少しでも慰めてあげられればと思った。思わず佐知代を強く抱きしめた。佐知代がうっと呻いた。
「これからは、どんな小さなことでもいいですから、何でも話してください。悩みのクズは、話すことで消えますからね。せっかくの美貌とスタイルが悩みで歪んではもったいないですよ。いいですね? 佐知代姉さん」
 悟の言葉を聞いて佐知代は、悟の胸でさらに大きな声で泣きじゃくった。そして、顔を悟の方に向けて、はにかみながら大きく頷いた。その仕草はまるでうら若き少女のようでもあった。泣き顔が実に美しかった。悟に抱かれることで、過去の何もかもが溶け出して、消えていくような感じがしたのかもしれない。
「悟、ごめんね。ありがとう。もういいわ。フフ、泣いてすっきりしたわ、ほんとにありがとう。……姉さんね、悟が大好きよ」
 佐知代は努めて明るく笑った。
「では、やり直します。グラスを持って腕組みしましょう。……はい、では、カンパイ」
「カンパイ」
 腕組みをしたまま、二人はグラスを口に当て液体を飲みこんだ。悟が腕組みを解こうとしても、佐知代が首を振った。
「このままで、もう少し、ねっ?」
 姉の佐知代は弟の悟に甘えていた。恐らく、こんな気持ちになるのは、生まれて初めての事だろう。悟の顔をじっと見つめながら、これまで見たことのない優しく美しい佐知代の顔を見て、悟は、この姉にも、早くいい人を見つけてあげた方がいいなと思った。

「姉さん続けて三回目の乾杯といくんですか?」
「そうしたいんだけど、……さっきからいろいろ考えていたんだけど、……あのね、無理なお願い聞いてくれる?」
 佐知代は、もはや胸の高鳴りを抑えきれなかった、姉と弟の契りを完全なものにしたい衝動に駆られた。
「無理と言っておきながら、尚お願いするのですか?」
「是非お願いします」
「あは、困ったお嬢様ですね」
「お嬢様はよしてよ。くすぐったいわよ」
「無理なお願って何でしょうか?」
「今、乾杯を二回したのよね?」
「そうですね」
「あと一回で終りよね?」
「そうですね。それで完璧な契りになるということですか?」
「そうなの、……その前に約束して、どんなことでも受け入れるって」
「ええーっ、どんなことでもですか? さてどんなことだろう」
「フフ、私のお願いだもの、しかも乾杯だし、大したことじゃないわよ」
「いや、その顔はそうでもないような顔ですよ」
「どんな顔に見えるの?」
 佐知代は悟の唇に小指を当てた。何か衝動が爆発しそうな感じだった。
「その顔は、弟とエッチしなければ、完全な契りを結んだことにならない、なんて考えているんでしょう?」
「あはは、大当たりよ、……してくれる?」
「あはは、出来る訳ないでしょう? お姉さんのバカ」
「あはは、そうよね。出来っこないわね。でも顔にはそう書いてあっても、考えていることは違うわよ」
「そうですか? 何だろう」
「だから、大したことないから約束して、ねっ?」
「困った人ですねえ、まるで、駄々をこねる少女って感じですね」
「フフ、姉さんね、今、少女に変身してるの」
「あはは、勝手に何にでもなるんだから。……えーとね、はい。分りました。約束します」
 悟は佐知代の要求は、もう一度乾杯してくれ程度に軽く考えていた。これが甘かった。
「ほんとね? 何でも受けてくれるのね?」
「ま、お姉さんですから、言うことは聞かなくちゃいけないでしょう?」
「そう来なくっちゃ面白くないわよ。……フフ、ついにヤッター」
 佐知代はあどけない仕草で、片手を上に上げて喜んだ。悟は変な予感がした。
「何ですか?お願って」
「ほんとにいいのね?」
「はい。武士に二言はありません」
「じゃあ、私のお願いを言います。……少し変わった乾杯の仕方だけど、……言うわよ、いいですか?」
「あはは、前置きが長いですね。いいですよどうぞ」
「……グラスで乾杯じゃなくて、口で乾杯するの」
「えっ、グラスじゃなくて口で? はて、どういう意味ですか?」
「……思い切って言うわね。……ワインを私に口移ししてください。これで完全に私は、あなたの姉になることが出来ます」
 なになに? 口移し? それはいくら何でもないでしょう。だけどよくそんなこと思いついたもんだ。感心している場合か?
「何ですって? ワインを口移しですって? そんな乾杯の仕方ってないでしょう? 姉さん、……それは、ちょっといくらなんでも、……」
「ダメ? 出来ないの? そう、やっぱりね。武士にも二言があるんだ。……がっかり」
「あはは、口を付けずに、つまりキスをしないで、悟の口からお姉さんの口の中にワインを注いでもいいってことですね?」
「そうなの。そしたら完全でしょう?」
「姉さんも悟に同じことをするんですね?」
「そうよ。そうでなければ意味がないでしょう? グラスにワインが入っている場合は、グラスに口をつけないと飲めないでしょう? 口にワインが入ってたら、口に口をつけないと飲めないでしょう? ……口をつけるのに拘っているんでしょう? 唇を重ねたくない訳よね?」
「……ま、そうですね。……口を付けずにワインを注ぐなんて、……そんな器用なこと出来るかなあ、自信ないなあ。……どうしたもんかなあ、……困ったなあ」
 悟はいかにも困ったような顔になった。
「それくらいのことで、何を拘っているのよ、何を躊躇するのよ。花岡さんに申し訳ないと思っているんでしょう?」
「そうです。彼女に悪いなと思って」
「そうね。気持ちは分るけど、ベッドの上でのキスじゃないでしょう? 乾杯のキスぐらいで、悪いと思うのはおかしいわよ。エッチする訳じゃないんだから」
「あはは、また変な屁理屈が始まった。その気にさせるのが上手ですねえ、さすが年季が入ってる」
「コラッ、年寄扱いするな、ったくもう、……ということは、その気になったの? ふふふ、楽しい」
 佐知代は会話を楽しんでいるようだった。
「いえ、少し考えさせてください。その話は後にしませんか?」
「ったくもう。あなたって、仕事はスーパーマンだけど、こういう話になると煮え切らないのね」
「あはは、困りましたね」
「だから、無理なお願いと言ったの。……でも、考えて見たらやっぱり無理なお願よね、諦めるわ。……あーァ、残念。これで完全な姉と弟になれると思ったのに」
 佐知代は諦めたような顔をして悟の腰に回していた両手を緩めた。悟は、この際佐知代の誘いに乗ってもいいと思った。佐知代の巧みな誘いとは分ってはいたが、姉と弟の契りの一環として、やってもいいと思い始めていた。確かに変わってはいるけど、一つの乾杯の方法と思えばいいことだ。亜希子に、この話をしたらなんと言うだろうか? もう絶交よと言うだろうか? もう結婚したくありませんというだろうか? それとも、佐知代姉との、永遠の秘密にしておけばいいことなのだろうか?

「お姉さんて、ほんとに綺麗ですね。惚れ惚れします」
「あら、そんなこと言ったら、花岡さんに叱られてよ」
「あはは、そんなことはありませんよ。綺麗な人に綺麗というのは、ごく自然のことですよ」
「それは男の人の言うセリフよ、女はそうは取らないわよ。気をつけた方がいいわよ」
「じゃあ、何と言えばいいのですか? ただ黙ってるんですか?」
「あら、そう言われればそうだわね。綺麗な花を見て、黙って通り過ぎていくより、一言綺麗と言われれば、花だって嬉しいわよね」
「でしょう?」
「うん。言えてるわね。……どうも、お褒めいただいてありがとう。……こう言えばいいのね」
「そうじゃ。そなたは、いつも考えすぎる癖があるようじゃのう。今宵は少しは賢くなったようじゃのう、姫君」
 肩ひじを張って威張りながら、ワイングラスを片手にしながら、悟の得意の言いまわしが出た。
「ふふふ、堂にいってるわね。……面白い。こんな気分になったの初めて。何もかもが新鮮で楽しいわ。ね、今夜はずっと一緒にいてくれない?」
 悟はとっさに時計を見た。見ながら迷いが出て来た。どうしたものか。このまま帰るべきだろう。
「ふふふ、迷っているのね。いいわよ。悟の気の済むようにしたらいいわよ。姉さんは、今夜だけはいて欲しいけど、悟の思った通りにしていいわよ。……好きにして」
 そう言われると益々迷ってしまう。姉の家にいる訳だから、何も気にすることはないと思いながら、どこか引っかかるものがある。こういう時は、帰ることにした方がいい。
「やっぱり、今日は初めてのことですから、もう少ししたら帰ります」
 悟はソファに座り直して、今夜はいつもより少し多いな、と思いながらワインを口にした。
「じゃあ、思い切り飲みましょう。今夜は下戸返上ね。……このワインはね、この前の八王子の時のワインより高級なのよ」
「道理でほんとに美味しいですね。大丈夫かなあ、こんなに飲んで。後は知りませんよ」
「知りませんて、帰るんでしょう? 程々にした方がいいわよ。タクシーの中でグーグーよね、きっと」
「そうかも知れませんね。良くやることですから慣れています」
 滅多にないことを悟は誇張して話した。
「あら、そうなの? それで良く社宅に帰り着くわね」
「そうなんですよ。不思議とちゃんと着いてしまうんですよ」
「そんなものかもしれないわね。ま、帰るまではまだ時間があるから、自分の家にいると思って、眠くなったら寝たらいいじゃない。仮眠して、それから帰ってもいいじゃない? 気楽にしてていいわよ」
「姉さんが狼になったりして」
「ふふふ、その心配はご無用よ。弟の契りを破られる方が私には辛いことだもの。……でも、ちょっぴり、ないことはないけど」
「あはは、クワバラクワバラ、早いとこ帰るとしましょうかね、今夜は」
 何だか妙な感覚である。
「悟の好きにしていいわよ」

「ちょっと質問してもいいですか」
「いいけど、あのさ、もう姉弟になったんだから、よそ行きの言葉使い止めにしない?」
「でも、まだ完全な契りではないです。まだ三分の二しかなっていません……」
「そうだったわね。でも、悟はほんとに私のことをお姉さんと思ってるの?」
「はい。思っていますよ」
「だったら、二人っきりの時は、もっと姉と弟の言葉使いにして頂戴っ」
「あれ、初怒られだ。お姉さんて怒ると怖い感じ」
「フフ、そうよ、今頃分ったの? 怖いわよ、覚悟しておきなさい」
「分ったよ、分ったからそう怒らないでよ。……こんな感じ?」
「そうそう、そんな感じ、……ぐっと親しみが湧くでしょう?」
「そうだね、姉さん」
「フフ、それでよし、で、聞きたいことって何よ」
 佐知代の言葉使いが完全に変わってしまった。
「うん。あのね? 姉さんって、どんな人が好きなの?」
「何よいきなり。どうしてそんなこと聞くのよ?」
「ただ何といなく聞きたかったんだよ。教えてよ」
 悟も言い方を変えた。
「教えてどうするのよ。何か魂胆があるな?」
「あはは、大有りだよ。うんうん、大有り」
「誰かを私にくっ付けようという魂胆でしょう? その手には乗らないわよ」
「あはは、もうバレバレだ。……でも、いいじゃない、教えてくれたって、ねっ、お姉さん?」
「まあ、困った人ねえ。私が好きな人ねぇ、一言では言えないわね。ほんとに自分が惚れて、人生を共に歩んで行きたいと思えるような人は、多分、現れないと思う」
「あれ、そうなの? どうしてそう思うの? じゃあ、聞くけど、今好きな人はいないの?」
「一人だけいいなと思う人はいるけど、高値の花よね。とても無理だわ。……あ、そうだわ。居る、居る。素晴らしい恋人が居る。この恋人となら心中してもいいわ」
「穏やかじゃないなあ。誰よ、姉さんのハートをくすぐって離さないのは」
「フフ、聞きたい?」
「うん。聞きたい」
「会社に居るのよね」
「へーー、じゃあ、もう付き合ってるの? 社内恋愛?」
「そうよ、毎日付き合ってるわよ」
「じゃあ、何で結婚しないの? ……あ、そうか、この前離婚したばかりだから、時間を稼いでるんだ」
「フフ、そうよ。分った?」
「分った。で、その高値の花っていう人も社内に居るの?」
「いや、その人は身近に居る人だけど、もう諦めた」
「そうなんだ。何で諦めたの? アタックすればいいじゃない。姉さんのスタイルと美貌、それに、時々ゾクゾクっとするような色気を感ずるような人だから、その人もなびくんじゃないの?」
「それは甘いわね。しかも、この歳では振り向いてはくれないわよ」
「そうかなあ、で、一度くらいは真剣になってアタックしてみたの?」
「その気になった時もチラッとあったけど、とても無理だと思って諦めたの」
「それとも、フラれるのが怖いから、まだだとか?」
「うん、それもあるわね。……それに聞いた話だけど、最近、彼女が出来て近々結婚するみたいなの」
「あっ、そうなんだ。それじゃ、諦めざるを得ないよね」
「そうなの、分った? ……もういいでしょ? その話。辛くなるから」
「あ、そっかあー、ごめん、気がつかなかった。……それにしても誰だろうなあ、こんな素敵な人の心をウキウキさせるような人って、一度お目にかかりたいものだなあ」
「誰だか知りたい?」
「知りたい。教えてよ」
「……でも、……うん、やっぱり止めておくわ。言わぬが花って言葉もあるから」
「分った。……じゃあ、今付き合っている社内の恋人と、頃合いを見て結婚するんだね?」
「そうね、そうなると、悟のお兄さんということになるわね」
「お、おー、そういうことになるんだ。じゃあ、そのうち紹介してよ。弟だから知っててもいいでしょう?」
 悟はワイングラスを口にしながら言った。少しずつ酔いが回ってきているのが分っていた。スナックなどと違い、姉の家ということもあって緊張感から解放されて、しかもワインの旨さも手伝っているようである。
「分ったわ。そのうちね。……必ず紹介するわ」
「……そっかー、恋人が居たのか、知らなかった。でも、居て当然だよなあ、姉さんには」
 佐知代は終始ニタニタしていた。会話を心から楽しんでいるようだった。こんなことは今まで経験したことがなかった。もちろん仕事のことが最優先ではあるが、この雰囲気、この心の安らぎ、この会話が欲しいために、悟を弟にしたかった、と言っても決して過言ではない。

「お腹空かない? 何か作るわね」
 佐知代は、人の為に料理を作る喜びを味わったことがなかった。
「あ、姉さんもうすぐしたら帰るし、もう遅いから構わないで、……姉さんも疲れているでしょう?」
「大丈夫よ、心配しないで。悟と初めての夜だし、美味しいの作るわね? 何か食べたいものある?」
「いや、特にないけど軽いのがいいかな」
「分った。ちょっと待っててね。テレビでも見ててね」
「ありがとう」
 佐知代は台所に向かった。向かいながら無性に泣けてきた。心から泣けてきた。こんな涙もあったのだと思った。豪華なシステムキッチンのカウンターに両手をついて肩を震わせた。
 嬉しさと説明のつかない切なさと、今まで味わったことのない感動が、佐知代の胸を激しく揺さぶり、どうするることも出来ない自分がいた。これが幸せということなのかしらと一瞬思った。この思いを大事にして行かなければ、と、泣きながら思うことだった。
 悟はこうなってしまったことに、いささかの後悔もなかった。あり得ない事態になったが、これはこれで、一つの新しい形と思えばいいことである。
 こうなってしまったからには、佐知代という姉が、仕事の上で、トコトン腕を発揮出来るように協力していかなければならない、と強く思った。
 もちろんこうなってしまったことを、亜希子にはちゃんと話しておかなければならない。その上で、いつの日か亜希子と一緒にこの家を訪れて、三人で談笑出来ればと思った。そうすれば、きっと佐知代姉も喜んでくれる筈である。
「さ、出来たわよ。口に合うかどうか分らないけど召し上がれ。私も小腹が空いたからいただくわね」
 佐知代がテーブルに料理を運んできた。一皿には、生めかぶとあさりとグリーンピースが溶き卵に混在していた。もう一皿には、ニラともやしの炒め物だった。 さらにもう一皿には、スモークサーモンと大根のわさび風味サラダがあった。
「オオー、お姉さん料理が得意なんだ。短時間に出来るなんて凄いじゃない」
「時間を褒めてどうするのよ。問題は味でしょう? 食べてみて」
 悟は料理に手を付けた。思ってもいなかった美味しい味にびっくりした。さすがホテル業をやっているだけのことはある。
「お姉さん、……美味しい、……お姉さん凄い。料理がこんなに得意だなんて、とても信じられない」
「あら、どうしてよ。どうして信じられないのよ」
「ごめんなさい。だって、いつも仕事でてんてこ舞いの人って、多くな場合、料理は苦手ではないのかなあ」
「ということは、料理を作ると言ったけど、どうせロクなものは出てこないだろうと思っていたのね?」
「あ、正直なところ、そこまではなくても、それに近い感じで思っていた。……いやー、参ったなあ、俺の……あれっ、俺って言っちゃった」
「ふふ、僕とか私というより、俺と言った方がいいわよ、姉さんはその方が好きよ」
「あ、そうなの? じゃあ、これからそう言うからね?」
「うん、いいわよ」
「姉さん、この味、俺の好きな味付けだよ、嬉しいなあ。これだったら、毎晩お邪魔しようかなあ」
 悟の軽い冗談のつもりで言った言葉が、佐知代の新たな思いに火をつけてしまった。
「ありがとう。気にいってくれたみたいね。とっても嬉しいわ。……いいわよ。毎晩来て。いや、私からもお願いするわ、……ほんとに毎晩来ない? 何だったら、社宅を引き払って、此処から会社に通ってもいいわよ」
 ああ、そうなるの? 言わなければ良かった。
「社宅を引き払うのはまずいけど、いつも夕食は、たまにはレストランもあるけど、殆どが店屋物かコンビニの弁当なんだよね。味気ないものばっかり食べているから、姉さんが作った料理を食べると、まるで別世界に来たみたいな感じだね。いいなあこの感じ」
 こうなったら仕方がない、どうなるか分らないが話は続けなきゃ。
「冗談抜きで、毎晩とはいかないでしょうけど、どうなの? 時々来ない?」
「だって、姉さんは忙しいから、遅い時が多いんじゃないの?」
「そうね。今までは家に帰って来ても一人でつまらないから、何だかんだと好き勝手に理由をつけて、時間を潰していたのよ。悟が来るとなれば、出来るだけ早く帰るようにするから、ほんとに来ない? いや絶対来て欲しいなあ、そして、今夜みたいにいろいろお話ししたいなあ。二人のこれからの夢を語るのもいいじゃない? 美味しいのを一杯作るから、お酒を飲みながら夜を楽しまない? ねっ? そうしよう?」
 佐知代は段々その気になってきた、というよりも強い願望に変わった。言い出したら聞かないところがある。
「じゃあ、こうしない? 姉さんが早く帰れる日に俺に電話して貰って、俺の都合が良かったら此処にお邪魔するってどうかな?」
「それでもいいけど、悟が此処に居るとなれば、余程のことがない限り、夜遅く帰ることにはならないから、先に此処に来ておけばいいじゃない?」
「外泊することなんかないの?」
「会社の慰安旅行や業界の行事などで、一泊するなんてこともあったりするけど、滅多にないし、そんな時は、前もって悟に連絡しておけばいいでしょ?」
「恋人とホテルに泊まるなんてないの?」
「ふふふ、あると思う?」
「あって当然だよ? それとも、まだそこまでの付き合いじゃないの?」
「さあ、どうかしら。ふふ、想像に任せるわ」
「あはは、そうか言いたくないんだ。……まてよ、……おっと俺は何を考えているんだ。バカだなあ、……姉さんの恋人が、此処に来ることもあるんだよなあ。……あ、そうだよ。あはは、姉さんゴメン。ここに来るの止めにする」
 悟は頭を掻きながら、佐知代の顔を見て言った。佐知代は大いに慌てた。思わぬ方向に話が展開してきた。
「大丈夫よ。心配しなくてもいいわよ」
「姉さんはそうかも知れないけど、恋人の立場も考えるべきでしょう? 彼が尋ねて来た時、俺がいたら何と思うと思う? 姉さんと俺が変な関係だって思われてしまうじゃない?」
「何を言ってるのよ、恋人に、悟のことを弟だって言っとけばいいことでしょ? ふふふ」
 佐知代は、含み笑いをしながら悟との会話を楽しんでいた。
「そんなの信じる訳ないじゃん。今まで全然話してなかったのに、急に言ったら誰だって怪しむに決まってるよ」
「ふふふ、それとも、いっそのこと、変な関係になってしまう?」
 佐知代はだんだん面白くなってきた。持ち前の意地悪心が動き出した。
「あはは、姉さんが分らなくなってきた。……やっぱりここに来るのは、今夜みたいに、二人で飲みに行った帰りにでも寄ることにする」
 悟はワインを口にしながら佐知代に顔を向けた。
「あのね? 恋人は絶対に此処には来ないのよ。というより来れないの。……だったら、いいじゃない?」
「……えっ、どういうこと? 深い仲になれば、そういうことってあり得るじゃん? それとも、……あ、そうか、恋人の家に行くのか、そうか、……だよなあ」
「フフ何を一人でブツブツ言っているのよ。バカねえー」
「いや、決めた。ここに来るのはやっぱり止める。料理が食べられないのは残念だけど、……うん。その方が賢明だな。……姉さん、俺そうするわ」
「だから、恋人は絶対に来ないし来れないのよ。今さっきも言ったでしょう? 分らない人ねぇー」
「いや、例えそうでも、俺がいるばかりに、姉さんと恋人の関係がおかしくなるのだけは、絶対に避けなければならない。……うんうん。どう考えても止めておいたほうが良さそうだ。……残念だけど、そうします」
 悟は残りかけのワインを一気に口に注いだ。佐知代もつられてグイとグラスを傾けた。空になったグラスが再びワインで満たされた。
「今夜は大分いけそうね。どういう風の吹き回しかしら」
「お姉さんとの会話が楽しいのもあるけど、こんな美味しい料理だと、何だかワインもグイグイいける感じ。……ああ、いい気持ち」
 佐知代は酒には強い。酔って頬ほんのりとした顔からは熟れた色香が発散され、益々妖艶になっていた。だが、悟は大分酔いが回ってきたようだった。顔から首筋まで真赤になっていた。
「さっきの話の続きは?」
「だから、ここに来るのは、今夜みたいな時だけにする」
「あら、そうなの? つまらないわね。恋人は絶対に来ないと言っているのに」
 佐知代は、悟が一旦心に決めたことを覆すとは思えなかった。だから、少々困ってしまった。何としても、此処にちょくちょく足を運んで欲しいと思った。悟と、出来るだけ多く一緒の時間を刻んで行きたかった。それは色恋を抜きにした、人間としての息抜き空間をエンジョイしたかったのである。
 この歳になるまで経験したことのない新鮮な感覚が、今、身体中を駆け巡っている。目の前のこの若者と、時間を共有したい強い思いがあった。
 この人は、近い将来遠いところに行ってしまう。家庭を持ってしまえば、今のこの願いは完全に断たれてしまう。それはそれで仕方がないことである。だから、せめてそうなるまでの間、この家に来て談笑したいのである。
「何故そう言い切れるの? 今までも恋人はここに来たことはないの?」
「ないわよ。これからもないわよ。何故そう言い切れるかって? だって、恋人には足がないもの」
「車を持っていないってこと? だったら、タクシーで来ればいいじゃん」
「その足じゃないの。歩く足のこと」
 悟は訳が分からなくなってきた。首をひねった。
「歩く足? ということは人間の足がない? ……姉さん、俺、酔っぱらったみたいだよ。姉さんの言っていることが分らなくなってきた」
「ふふふ、もっと飲んだら? そしたら頭がしゃきっとするわよ」
「あはは、もう勘弁して。……人間の足がない? ……人間の足がない? えっ? まさか」
「フフフ、またブツブツが始まった」
 と、その時、突然悟が叫んだ。
「姉さん分ったよ。うん、分った。足がないのはお化けだから、空を飛んでここに来るんだ。……ね、そうでしょ?」
「悟は何だか今日は可笑しいね。お化けが空を飛んで此処にきて、姉さんを抱くの?」
「そうそう、きっとそうだよ、だって、足はなくても、あれは付いているんでしょう?」
 佐知代は大きな声で笑い転げてしまった。何と楽しい夜なんだろう。永遠に続いてほしいわ。癖になりそうよ。
「長くて特大のが付いているわよ。見せたいわ、あはは、ああ、可笑しい」
 佐知代は、今にも吹き出しそうになっていた。
「あちゃー、じゃあ、お姉さんは、一晩中キャーキャー言って、喜びを爆発させているんだ。……いいなあ」
 佐知代は可笑しくて、お腹を抱えて、たまらずソファに倒れ込んでしまった。そして悟を見上げて、今度はテーブルを叩いて笑った。これまた少女のしぐさである。
「あはは、可笑しい、悟、……あはは、面白い。……もっと続けて」
「そうか、真ん中の足はでかくて長いのが付いているんだ。だったら杖があれば、もしかしたら歩けるかもなあ」

 悟の独り言のような言葉を聞いて、佐知代は、さらに大きな声を出して吹き出してしまった。もう、たまらないという仕草である。たまりかねて、ソファから転げ落ちるようにして、口に手を当て、大きな声で笑いながら台所の方に走り出した。そして、キッチンのカウンターに両腕をついて、暫らく笑いの興奮が収まるのを待った。
 こんなに大きな声で笑ったのは、生まれて初めての経験だった。何とも不思議な感覚が身体中を支配した。
 今日は泣いたり笑ったり、なんと楽しい夜なのだ。ああ、こういう世界もあるんだ。新しい発見である。
 ふと、気配を感じて後ろを振り向いた。悟がニコニコ笑って立っていた。少しびっくりしながら悟の方に振り向き、思い切り抱きついた。その勢いで悟が少しふらついた。そして、佐知代は今度は激しく泣き出した。情緒が不安定になっている。
「姉さん、今夜は楽しいね。笑ったり泣いたり忙しい日だったね」
 佐知代は悟の言葉に異常に反応した。悟の胸を激しくたたいて泣きじゃくった。悟はなすがままにしていた。
「悟、ごめんね、姉さん、今夜はおかしいわ。自分じゃないみたい。……すっごく楽しいの。こんなの初めてよ。……もう少しいいでしょう? お願いだからもう少し傍にいて、ねっ?」
 悟の目に懇願した。悟は、佐知代の目から流れ落ちる涙を手で拭いた。
「姉さんが気の済むまで付き合うつもりだよ。何と言っても今日は、二人にとって大切な記念日だからね」
「あら、記念日? いいわね。何の記念日なの?」
 抱き合った手に力を込めて、佐知代は悟を見上げながら、悟の唇に小指を当てた。
「ソファに戻ろうか? そこで考えよう」
「いや、もう少しこのままでいて、ねっ、お願い」
「分った。でも、俺はもうフラフラなんだよ。自分の言ってることが、時々理解不能な感じなんだよ。酔っぱらったみたい。だけど気持ちいい。フワーとした感じで、宇宙をさまようってこんな感じなんだろうね、きっと。とても気持ちいいよ。こんなの初めてかも」
「でも、まだしっかりしてるみたいよ。……じゃあ、ソファに戻って飲み直しましょう。……ああ、今夜は楽しいわ、ふふ」
 二人は、ふらふらしながらソファに戻って来て腰を下ろした。まだロウソクはゆらゆらと揺れたままだった。天井の灯りは欲しくなかった。今夜はこのままの方がいい。
「今夜は何の記念日?」
 佐知代は、悟のグラスにワインを注ぎながら言った。悟はグラスを取りまた口に含んだ。
「そうだなあ、姉さんは何か思い浮かばない? 考えてよ」
「そうねえ、悟と佐知代が一心同体になった日でしょう?」
「あはは、そう言うと、まるで、初夜を済ました夫婦みたいだね」
「あら、そうね。そうありたいけど、それは絶対無理だから、……えーとね、心と心が結びついた日でもあるのよね?」
「そうだね、……姉さん、ちょっとタンマ。……今夜はこのままにしておいて、次の機会までに考えておくことにしようか? ……だって、もう頭が朦朧としてきたから考えたくないよ」
「そうね。じゃあ、次回ということにしましょう。……それはいいとして、さっきの続きの話」
「えっ、何だったけ?」
「恋人が此処に来る話」
 悟は少し考え込んでいた。容易に思い出せないようであった。
「ああ、真ん中の足の長くてでかい人ね。姉さんを狂わせた人だね。その話は終わったんでしょ?」
「ふふふ、終わっていません。それから恋人はどうしたの?」
 佐知代は悟の話の余韻を楽しもうとしていた。
「えっ、続き? えーとね、シャワーを済ませて、ネグリジェに着替えた姉さんの姿は、身震いするほど妖艶そのもので美しかった。ベッドに仰向けになったお姉さんの横になった恋人は、姉さんの服を脱がし始めました。……あれヤバイ。話が段々横道にそれてH曲線を描き始めたぞ。やっぱり俺は酔ってる、自己制御不能になって来たぞ。……ヤバイ、……はい、話はここまでです」
 悟はかなり酔ってきていた。自分で何を言っているのか分らない様子だった。身体が終始横に揺れていた。揺れながら、手振りを交えて話をするようになった。
「ふふ、楽しみにしていたのに残念ね。……でも、今の話、大分横道にそれすぎていない?」
「だから止めました」
「そのことじゃなくて、足がないこと」
「そうかなあ、だって、足がないと姉さんが言ったんだよ?」
「姉さんは何も、人間の足とは一言も言ってないわよ。悟が勝手に人間の足にしたんじゃない」
「えっ、そうだっけ? だって、恋人って言ってたよね? だったら人間でしょう?」
「あらそうかしら。人間じゃなくても、恋人っていう時があるんじゃない?」
「もう、ややこしいなあ、だったら、途中でストップ掛けたらいいじゃない。姉さんも意地悪だなあ」
「だって、悟の話が面白くて可笑しくて可笑しくて、ついずるずると聞き惚れてしまったの」
「人間でなきゃあ、じゃあ物体か、……足のない物体? さて、何だろうか。……会社に居る足のない物体? ……」
「さて、何でしょう」
 この時、悟はハッとした。朦朧とした制御不能の脳ではあったが、初めて佐知代にからかわれていることに気がついた。虚ろな目で佐知代の目をじっと見つめて言った。良く見ると、佐知代姉もかなり酔っているように見えた。
「姉さん、悟をからかっているでしょう?」
「ふふ、分ったみたいね。でも、からかってなんかいないわよ。真面目よ」
「そうか、さっきから何だかおかしいと思っていたんだよなあ。俺としたことが、気付くのが遅いよ。それにしても、姉さんの会話は巧みで、誤魔化され放しだったなあ。……ああ、参った、参った」
「で、答えは何なの?」
「仕事、仕事が恋人でしょう? 道理で彼とか人とか言わずに、恋人で押し通していたもんなあ。……君は偉い」
 悟は佐知代の鼻を指でつついた。
「あはは、ということでした」
「何だよ、じゃあ、ほんとの人間の恋人は居ないということじゃない」
「ばれてしまったね。そうよ残念だけどおりません」
「そっかあ、それは淋しいね。女盛りのお姉さんだからなあ、いつまでも一人って良くないよなあ、何とかしなくっちゃ」
「ありがとう。でも、これも神様から私に与えられた人生なのよ。運命なのよ甘んじて受けとめていくしかないわよ」
「そうは言うけど、やっぱり良くないよ。……再婚のことを真剣に考えて見たら?」
「もう、四十八歳よ私。嫌という程嫌な思いをしてきたからねえ。今更という気がしているのよ。結婚がすべてじゃないでしょう?」
「それは俺も同感だね。それは良く分る。……だけど、女として淋しくない?」
「淋しくないといえば嘘になるわね。たまに来て、私を抱いてくれる人がいたらいいと思うわあ」
「じゃあ、そういう彼氏を見つけたらいいじゃない」
「バカねぇー、そんなに簡単にはいかないわよ。純粋な気持ちで付き合うなんて出来ないわよ。私がそういう気持ちでも、相手が必ずしもそうは思わないでしょう?」
「どういうこと?」
「人間だれしも心が変わっていくものよ。最初はそんな気持はなくても、心が変な具合に変化して行くのよ」
「誰しもと言ったけど、俺は姉さんに対する気持ちは変わらないよ」
「そうね。悟はそうだと思う。だから、姉さんが惚れたんだから」
「あ、そうか。だけど、俺が姉さんといわゆる恋人関係になったら、もしかしたら変わるかもしれないと思ってるの?」
「いや、そうなっても悟は絶対変わらないような気がしている。何だったら試してみる?」
「あは、残念でした。少し遅かったようですね」
「フフ、そうね。……もう憎たらしい」
 佐知代がワインを口にした。つられて悟も一口飲みこんだ。
「変わっていくって、例えばどういうこと?」
「金目当てで付き合うとか、価値のある楽しい会話をする訳でもなし、単なるセックスだけに終始するとかよね。そんなの私は嫌なの。……分るでしょう?」
「そうだね。たとえ結婚とまではいかなくても、姉さんの心に寄り添って、何もかも人間として愛してくれなければ、付き合う意味がないものね」
「でしょう? そういう考えを捨ててまで付き合う気はないわよ。 ほんとに人生の喜びを感じるような付き合いをしたいものね。この歳になると尚更よ。結婚して歳を取ってきて、奥さんの顔にシワが出来たり肌が衰えてくるのは、仕方がないことだものね。だから、旦那としては諦めらめもつくけど、この歳になってからの男女の付き合いは、女の価値を、身体だけで語るのは邪道だと自分では思っていても、男が求める物は、また違うところにあるものなのよ。少しでもそうならないようにと思い、女として一生懸命磨きは掛けるにしても、どうしても限界があるわよ。だから悟が言うように、人間的なものに惚れて、心と心を寄せ合って、ほんとに喜びが感じられる人でないと、第一長続きしないわよ。……そう思わない?」
「姉さんの言う通りだね。俺もそう思う」
「そういうことで、もう、新たに再婚するとか男が欲しいなんて、思わないことにしたの」
「そうなんだ、……でも、少し寂しい話だね?」
 悟は、佐知代の目をじっと見詰めながら少し微笑んだ。
「だから、せめて悟を弟として愛し、これからの人生を歩むことで、今よりもより良い人生が築けるんじゃないかと思ったの。もちろん、仕事のことが大きいんだけど、人間としての幸せを、心の拠り所を悟に求めたのよね」
「ありがとう。俺はもう、姉さんの心の傍で人生を全うしようと決めているから、俺のことは好きにしていいよ」
「ありがとう。こんな話をすることで、悟のことを益々好きになりそうよ」
「嬉しいね。ありがとう、姉さん」
「腹を割って、こういう話が出来るって、とてもいいことよね。もう少し前に、こんな話が出来る人がいたら、私も変わったかもしれないと思うわ」
「思い立ったが吉日というから、これからの人生だけを考えて生きて行こうよ。過去を振り返ったって、参考にはなっても何の得にもならないよ」
「そうね。確かにそうだわね、……」
 二人は、どちらともなくワイングラスを手に取り口に当てた。

「あ、そうそう、話が少しそれるけど、随分前から一度聞いてみたいと思っていたことがあるの。聞いてもいいかしら」
「何だか怖いなあ、何なりとどうぞ」
「私のこと好きだと言ってくれたわよね?」
「はい。大好きです」
「質問だけど、もしも、もしもの話よ、仮にあなたが、今、花岡さんと付き合ってなければ、私と付き合ってもいいと考えてたの?」
「……」
「あら、困ったみたいね。いいのよ。答えられなければそれで」
「いや、多分、姉さんが許せば、今夜、姉さんを抱くことになったと思う。そして、それこそ完全に結ばれたいと思ったと思う。それぐらい姉さんのことが好きだったよ。出来ることなら、結婚してもいいと思ってたからね」
「ほんと? ほんとにそう思っていたの?」
「ほんとだよ。確かに歳の差はあるけど、俺は余りそんなことは気にする方じゃないから、二人でよく話し合えば、何とか上手くやっていけると思ってた。しかし、悟にとっては姉さんは高値の花だった。今を時めくホテル業界のオーナーが、一介の設計士に振り向く筈がない。バカにされるに決まっていると思ってた。だから、諦めていたんだ」
 悟は新宿の歌舞伎町で、浅田とレストランでの食事を済ませた後に、珍しくスナックに足を運んだことを思い出しながら話した。
 その晩は、誰かととことん飲まずにはおれなかった。下戸を返上して、無理して飲んだため、かなり酔ってしまった。ふらふらと千鳥足がネオン街を歩いた。浅田には悪かったが、オーナーへの熱い思いを諦め、断ち切った日のことであった。
「そう、そうだったの。……何とも皮肉ね。……今、白状するけど、私があなたと仕事の上で付き合い始めてから、一年くらいたってから、あなたのことが凄く気になりだしたのね。そして、段々好きになって、男と女として付き合いたいと思い始めたの。結婚してもいいとさえ思ったの。もちろん、その頃はまだ旦那がいたから出来なかったけど、実はそれもあって、旦那と離婚しようと決意したの。だけど、あなたとの歳の差のことが頭から離れられずに、言い出すことが出来なかったの。所詮は無理な話なんだと、自分に言い聞かせていたの。おかしなものよね。そう思えば思う程、あなたに対する思いが募ってしまうの。愚かな考えだとは分かっていても、どうしてもあなたのことが諦めきれなかったの。
 言い出せないまま月日が過ぎていくことに、何だかとっても虚しい気持ちになり、悶々とした日々を送っていたの。そんな時よ、あなたが八王子に花岡さんを連れてきたのは。
 何という残酷。私にはそうとしか思えなかったの。あなたの前では、何でもないような素振りをしておきながら、私は胸が張り裂けそうな気持になったいたのよ。駄目かもしれないけど、思っていることを告白しておけば良かったと、とても後悔したの。でも、もう後の祭りだったわ。その後のことはお分かりよね」
「……」
 悟は、切々と語る佐知代の気持が痛いほど分った。
 そうだったんだ。時の女神は、この二人の願いを認めなかったのだ。そして、二人に新しい生き方を与えたのだ。
「いつかは言わなければと思っていたから、今すっきりした気持ちよ。ごめんね。悟を悩ますようなことを言ってしまったわね」
「いや、姉さん、却って俺もすっきりしたよ。今思うと俺のことだから、もし姉さんがその時、つまり、まだ彼女と付き合ってない時に、俺に心の内を打ち明けてくれたら、今頃はベッドの中で人生を語っていたかもね」
 悟はワインをぐっと口に入れた。佐知代も同じようにグラスを傾けた。いくら強いと言っても、さすがに佐知代も酔いが回ってきた。
「そうね、これも運命よね。仕方ないわよね。……私が今こんな話をしたからといって、気にすることはないのよ。今まで通りでいいのよ。分っているわね?」
 佐知代は諭すようにして悟の目を見た。佐知代の眼は潤んでいた。
 時よあなたは、何という残酷な仕打ちを私に与えたのよ? たまらず、悲しい思いで一杯になった。
 目の前に心の底から惚れた男がいるのに、もう、遠い遠い人になってしまった。これも人生だと、敢えて自分に言い聞かせては見たものの、たった今、目の前にいる男から、自分を心から好いていてくれたことを知らされて、運命の残酷さを改めて思い知らされたのである。
「分ってるよ、姉さん。これからは姉と弟という道を、神が与えてくれたのだと思って、それに従っていくよりないよ。……ねっ?」
「そうよね。一緒に暮らすことは出来なくても、いつも傍にはいてくれる訳だから、それを幸せと思って暮らしていくことだわね」
「それにしても、どうして今になって、そういう質問をしたかったのかなあ」
「気持ちをすっきりさせたかったのよ。それと悟の気持も確かめておきたかったの」
「俺は、姉さんが好きなことは今も変わらないし、これからもずっと変わらないよ」
「慰めてくれてありがとう。嬉しいわ、……でも、そんなこと聞く方もバカよね。バカだと思いながら聞いてみたかったの。ごめんね。もう済んだことよね」
 佐知代は、またも泣き出しそうになった。とても淋しそうな顔になった。そして、もう少し早く、悟を好きだと思い始めた頃に、告白しておけば良かったと、痛切な後悔の念に駆られた。
「そうだね。姉さん、何もかも忘れよう。そして、新しい門出に向かって、今夜は大いに飲もうぜ」
「ふふ、下戸のくせに大ぼら吹いて、……おかしい」
「大ぼらなもんか。さあ姉さんも飲んで。……姉さんのこれからの人生に乾杯」
 悟はグラスを高く上げて佐知代に促した。
「かんぱい。……姉さんも大分酔ってきたわよ。久しぶりだわこんなに酔ったの」
「いいじゃないの。姉さん、明日は何か予定でも入ってるの?」
「ううん。何にもないわよ。ゆっくり出かければいいの。いつもは運転手が迎えに来るけど、悟がシャワー浴びている時に連絡して、明日はタクシーで行くから直接会社に向かうように言っておいた。……悟は?」
「明日は会社はお休みでーす」
 悟は、ふらふらしながら、姉の顔の前に顔を近づけて笑った。佐知代の香水の香りがツーンと鼻を刺激した。
「じゃあ、今夜はここに泊まっていけば? ねっ、もう少し、そうだわ夜明けまで飲まない? 明日の朝、美味しい朝食作るから食べて行けば? 姉さんと一緒に家を出よう。……ねっ?」
 佐知代はテーブル越しに悟の顔を両手で挟み、自分の鼻に悟の鼻をくっ付けながら言った。
「それはまずいよ。俺はいいとしても、夜明けまで飲んでは、姉さんが明日きついよ」
「あら、気遣ってくれるの? ありがとう」
「弟が姉貴を心配するのは当たり前でしょう? ねっ、お姉さん」
 悟の目が段々虚ろになってきた。だが、身体はまだしっかりしていた。
「ねえ、悟、こっちに来ない? 姉さんの傍に来て欲しいの。悟の声をもっと身近で聞きたいわ」
 悟は佐知代の顔を見て頷いた。嬉しい顔になった。テーブルを挟んでの会話が遠くに感じ始めていた。
「俺もそう思ってたんだ。ありがとう。じゃあ、そうするよ」
 悟はふらふらしながら立ち上がって、佐知代の右横に少し離れて座った。
「何よ、もっとこっちに来て。はい、グラスを取ってゆっくり飲みましょう」
「いやー、このワインほんとに美味しいね。もう大分飲んでしまったね」
「もっと飲んで。何本でもあるから」
「あはは、下戸にそんなこと言っていいの? 責任とってね」
「あはは、大丈夫よ。ちゃんと責任取るから。安心して飲んで」
「姉さん、ほんとにありがとう。姉さんの優しさに触れると俺泣けてくる」
「何言ってるのよ。頼もしい悟が泣いてどうするのよ。泣くのは姉さんだけで充分よ」
「俺だって泣きたい時ぐらいあるよ。でも、泣く場所がないんだよね? 姉さんの胸で泣くんだったら、たまにはいいかなと思って、……あははは、冗談だよ、冗談」
「気持ちは良く分るわよ。そういう気持ちになったら、いつでも言ってね。胸を貸してあげるから」
「……」
「どうしたの? もうダメ? ダウンしたの?」
「いや、まだ大丈夫。姉さんは?」
「大分酔ってきたわね、これ以上飲むと、感情を抑えられなくなるから、……もう寝る?」
「いや、もう少し傍にいて、いいでしょう?」
 悟は佐知代の顔に、ふらふらしながら顔をくっ付けてきた。
「まだ少しはいいわね。でも、悟は大分酔ってるよ。もう限界じゃない? もう横になったら?」
「姉さんと一緒に寝るの?」
「バカねぇー、そんなこと出来る訳ないでしょう? 旦那が寝てたベッドルームがあるから、そこで寝て」
「うん分った。……姉さん聞きたいことがあるんだけど」
「何よ、酔っ払いさん?」
「今でも俺のこと好き?」
「何よ急に。好きに決まってるじゃないのよ。だから、姉弟の契りを結んだんでしょ?」
 佐知代も相当酔っていた。悟の手を握りながら、自分の顔を悟の顔にくっつけた。またも香水の香りが悟の鼻を強く刺激した。
「お、いい香りだ、……でも、さっき完全じゃないと言ったじゃない」
「ああ、そのこと、それはそうね。姉さんが思っているように出来なかったからね」
「ワインの口移しでしょう?」
「そう、……でも、もういいわよ。嫌なことを無理矢理しても意味がないから」
 佐知代は言いながら、もしかしたら、という期待感がない訳ではなかった。だが、泥酔している悟の様子を見て、半ば諦めてはいた。

「いや、してもいいと思ってたんだよ」
「えっ、ほんとに? ……ほんと? 嘘じゃないわよね?」
「ほんとだよ。完全合体したい」
「合体? なによそれ、エッチするってこと?」
「あはは、違うよ。三回の乾杯を完成させることでーす」
「ああ、びっくりした。本気かと思ったわよ」
「あは、残念でした」
 悟は顔を佐知代の顔に近づけて言った。完全にダウン寸前だった。
 その時だった。突然佐知代の腕が悟の首に巻きついた。
「悟、ごめんね、姉さんもう抑えきれないの」
 と言って、いきなり佐知代は悟の唇に自分の唇を重ねた。悟は朦朧としていて何が起こったのか分っていなかった。突然なことで、悟は本能的に一瞬後ろに下がって唇を離そうとしたが、佐知代がそれを許さなかった。
 悟の顔は真っ赤になっていた。ろれつが回らないほどではないが、少々へばっていた。目が虚ろだった。佐知代の目が赤々として悟を凝視していた。佐知代がようやく唇を離した。
「姉さん、……姉さんどうしたの急に、ダメだよ。約束が違うでしょう?」
 悟は自分で何を言っているのか分っていなかった。佐知代は、両手を悟の首に巻きついたままにっこりした。
「ごめんね、ありがとう。とっても美味しかったわよ。こんなの初めて。……嬉しい」
 悟は、ふらふらしながら、何が起こっているのかも感知できなかった。ほんとに泥酔していた。朦朧として、殆ど失神状態に近かった。既に物事を意識出来る状態ではなかった。佐知代は、微笑みながら悟の口を見詰めていた。
「でも、可哀想だから止めるね。悟ありがとう」
 佐知代が悟から離れようとした。その時、悟の両腕が佐知代の身体を強く抱きしめて、ソファの上に押し倒した。佐知代はうっと呻き、悟の目をジッと見た。
「姉さん目を閉じて」
 佐知代はびっくりした。まさかと思った。鼓動が激しくなってきた。胸が締め付けられるような期待感が膨らんだ。言われるままに目を閉じた。
「姉さん、悟のこと好き?」
「ええ、大好きよ。死ぬほど好きよ。悟は?」
「悟も、姉さんのこと大好きだよ。ごめん、俺、狼になってもいい?」
 悟の思いがけない言葉に、佐知代は目を閉じたままにっこりと頷いた。悟は再び佐知代を強く抱き、額にキスをした。そして、唇に唇を重ねた。意識のはるか遠くで自分は何をしているんだと、微かに罪の意識を感じながら、ただ本能のままに動いている自分が居た。
「ごめん、俺、大分酔ってるね。……ごめんね、……ねえさん」
「でも、まだしっかりしてるみたいよ。……じゃあ、座り直して飲み直しましょう。……ああ、今夜は楽しいわ、ふふ」
「とうとう、してはいけないことをしてしまったね」
 悟は、殆どおぼろな感覚で、自嘲気味な顔で佐知代に話した。
「私がいけないのよ。ごめんなさい。……ほんとに初めてだったわ。凄い興奮してしまった」
 悟の脳は完全に麻痺していた。感覚が死んでいた。
「……」
「怒ってるの?」
 佐知代が心配そうに悟の顔を覗き込んだ。
「いーえ、姉さんを怒る訳ないでしょう?」
 悟は自分が言っている言葉が、エコーのように遠くに聞こえたような気がした。
「ふふ、じゃあ飲み直しましょう。さ、飲んで」
 佐知代は悟にグラスを手渡しした。悟は無意識にグラスを口にした。
「美味しい。……あはは、いい記念日ですね」
「ねえ、三回目の乾杯しない? 今だったら出来るでしょう?」
「あ、そうね、しましょう、しましょう、どうするんだったっけ?」
「ワインを口移しするのよ、……出来る?」
「あ、そうだったねオーケーです。どちらが先にするの? 姉さん?」
「そうね私からしようかしらね」
 言いながら佐知代はまた興奮してきた。胸が張り裂けそうな気分である。
「じゃあ、新しいワインいや血液だったわね。入れるからそれ飲み干して」
 悟も佐知代も残っていたワインをぐっと飲み干した。二個のコップにワインが並々と注がれた。
「じゃあ、いい? 悟ソファに横になって」
 悟は言われるままにソファに仰向けになった。目を閉じて口を半開きにして、佐知代の口が触れるのを待った。
「さ、これで完全に二人は身内になるのよ。いいわね? 姉と弟になるのよ。後悔しないわよね? 分ったわね」
「うん、分った。運命の瞬間だね」
「そうね、……じゃあ、いいわね?」
「うん」
 佐知代はワインを口に含み悟の唇に自分の唇をそっと優しく重ねた。そして、床に腰を落とし半身になって、ワインを悟の口の中に注いだ。
「はい、今度は姉さんが仰向けになって」
 悟は、ワインを口に含み、仰向けになった佐知代の口に注いだ。
「フフ、悟、ありがとう。姉さんとっても嬉しいわ」
「はい。これで完全に合体しました。姉と弟になりました」
 悟の虚ろな目を見ながら、佐知代の顔は喜びにあふれていた。そして、とうとう、抑えきれない欲望が理性を超えてしまった。
「ねっ、悟、寝室に行かない? いいでしょ?」
 悟の耳には佐知代の声が遠くで聞こえた。意識が完全に失われて失神寸前である。
「うん」
 悟は言葉にならない言葉で頷いた。二人は、抱き合いながらふらふらと歩きだした。佐知代は、奥にある自分の寝室が遠くに感じた。
 二人は手前の元旦那の寝室のドアを開け、足をふらつかせながら、同時にベッドに崩れて横たわった。
「お姉さん、ありがとう」
 悟は自分が何を言っているのか分らなかった。ただ何となく、夢の世界にいるような漠然とした感覚だった。
「ありがとう。記念日にふさわしい夜にしたいわね」

 佐知代の思惑とは裏腹に、悟はベッドに仰向けになった途端、意識がなくなり、死んだように眠ってしまった。
 かなりの泥酔状態が、自意識を遙か遠くに置き去りにし、全ての感覚を停止させたのである。

 
 


第12章 理性喪失
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