□ 第十四章 変化の芽吹き □
早川が次の日の月曜日に出社した午後の三時頃のことだった。関東建設日報の内村から会社に電話が入った。
「ご無沙汰です。今、いいですか?」
「例の件ですか?」
「はい。そうです」
「内村さん、すみません。今、手が離せない事情がありますので、改めて、私の方から電話したいのですが、宜しいでしょうか?」
早川は会社でこの話をしたくなかった。交換手が聞いているかもしれないし、部下が聞き耳立てるかも知れないと思った。内村も事情を察したようである。
「はい。お待ちしております」
社が引けて、早川は社宅から内村に電話した。
「昼間はすみませんでした。会社ではお話ししたくなかったものですから、ああいう言い回しになってしまいました」
「私もそうだろうと直感しました。……早川さん、ようやく動き出しました」
早川は胸が高鳴った。気にしていたことが、いよいよ公になるようである。
「そうですか。第一弾は週刊誌とかおっしゃっていましたが?」
「そうです。今週号の週刊アットプレスで取り上げています」
「そうですか。後程買い求めて読んでみます」
「あとは、四月に、うちの関東建設日報で取り上げます。その後、五月に日本速報新聞が大々的にスクープ記事を掲載する予定になっています」
「しかし、今週号の週刊誌に載りますと、他社が動き出して、スクープ記事にはならないのじゃないですか?」
「いえいえ、そんなことありませんよ。週刊誌の記事内容は、核心部分には触れず、具体性に欠けたものになっています。しかも、この手の裏付け調査は相当な時間が掛かりますし、具体的な裏情報を持っていませんと、動くに動けませんよ。私共も相当な時間が掛かってしまいましたからね」
「警察の動きはあるのですか?」
「ええ、もちろんです。彼らは彼らなりに、長い間捜査を進めていましたからね。五月から六月にかけて、政界の黒幕と関連業者が逮捕される筈です」
「そうですか。それはそれは、ご苦労様でした。大変だったでしょう?」
「国内を揺るがす大事件に発展しかねない事件ですからね。寝食を忘れて没頭した甲斐がありました。早川さんの情報がなかったら、こんな結果は到底得られなかったと思います。ほんとにありがとうございます。改めてお礼申し上げます」
「えっ、私からの情報ですか? ああ、田部井君のことですね。彼女の存在が、内村さんのエンジンを噴射させたのですね」
内村は早川の一貫した態度に驚いた。情報提供を認めなかったのである。実に上手くはぐらかされて、笑うしかなかった。
「あ、そうだ。その事件の中間報告もしておかないといけませんね。お陰様で結婚することになりました」
内村は田部井とのことを事件と言って茶化した。
「オー、そうですか。結婚事件に発展しましたか。田部井君を逮捕して監禁するのですね? それは良かった」
「あはは、そうです。私には勿体ないくらいの女性を紹介していただき逮捕、確保できました。ほんとにありがとうございました」
「で、式はいつ挙げるのですか?」
「それは、具体的にはまだ決まっていません。決まりましたらまた連絡致します」
「それにしても、良かったなあ。田部井君もさぞ喜んだでしょう」
「はい。喜んでくれました。プロポーズした時、私の胸で泣きじゃくりまして、困ってしまいました」
「そうでしたか。詳しいことは分りませんが、いろいろ苦労したようですからね、彼女は」
「いろいろ聞きました。でも、それが彼女の魅力を作り上げていましたから、私としては、むしろ好感を持っていました」
「そうでしたか、いやー、良かった、良かった」
早川は自分のことのように嬉しかった。いつの間にか話題が別な方に向いてしまって、内村は改めて苦笑せざるを得なかった。
「浦上亮子の件はどうなりましたか?」
「ええ、その件ですが、私の範囲外のことですので、私の知り合いの、ある事件記者に依頼しているのですが、まだ完全には裏が取れていないようですね。今のところ、関連性は見当たらないような気がしている、と言っていましたが、内密に調査は続行しているようですので、そのうち白か黒かが出ると思います。もしかしたら、政治家や関連業者の逮捕後に、意外な展開をするかもしれませんがね」
「そうですか、やっぱりガセネタでしたか。残念でした。徒労に終わってしまいそうですね」
「いえ、こういう類の事件は、諦めたその時点で何もかもが終わってしまいます。私たちの心構えとして、決して諦めてはいけないという教訓がございます。地道に調査を続けて行くことが大切なのです。一旦諦めかけた事件が、再びフォーカスされた事件は結構多いのですよ」
「そうですか、大変な労力ですね」
「いえ、これが仕事ですから。……以上、取り敢えずご報告させていただきます。今後のことは、お楽しみということで」
「ですね。ありがとうございます。またのご連絡お待ちしております。頑張ってください」
早川は駅の売店まで車を走らせた。週刊アットプレスは、発売したばかりと見えて山積みされていた。週刊誌とホットコーヒーを買い求めて社宅に引き返した。そして、缶コーヒーを飲みながら週刊誌を手にした。
表紙に贈収賄疑惑に発展か? と小さく見出しされていた。ページをめくった。
贈収賄疑惑に発展か? の記事には疑惑の内容が記されていたが、早川は記事の内容から判断して、内村が言っていたように、具体的な内容に乏しく、いかにも意図的な感じがした。内村は随分前に、第一弾として軽くジャブをかませるという表現をしていたが、正にそんな感じの内容だった。第二弾、三弾を待つより無いようである。
内村との電話を切ってすぐ亜希子に電話した。
「その後、変わったことない?」
「大いにあるわよ。会社が大変な事になってるわよ」
「えっ、倒産でもするの?」
「そうじゃないわよ。まるで変わったしまったと、お父さんが満面笑顔なの」
「だったら、大変なことじゃないじゃない。喜ばしい事なんじゃないの?」
「そうじゃないの。悟さんのことなのよ」
「えっ、俺のこと? 俺のことがそんなに大変なこと?」
「そうなの。悟さんの噂で持ちきりなの。あんな素晴らしい講師見たことないとか、ぞくぞくするような快感を覚えるとか、凄い事になってるわよ」
「あは、アキも大袈裟なことが言えるようになったんだ」
「大袈裟なんかじゃありません。お父さんが言うには、役員や管理職も含めて全社員が、もっと研修の機会を増やして欲しいと陳情にも似た要望が出ているみたいよ」
「へえー、ほんとかよ。でも嬉しい話だねえ」
「悟さん、みんなにどういう研修をしたの? マネージャーとしては知っておく必要があるわよ」
「なるほど。言えてるな。それだったら、お父さんが全部の研修を聞いているから、聞いてみたら? それとも、もう少し研修が残っているから、今度研修室の後ろの方で聞いてみる?」
「私は今の段階では、マネージャーと表立って言えない立場で、部外者だから、そうね、お父さんい聞いてみようかしらね」
「そうだな。でも、良かったじゃない、会社の雰囲気が良い方向に変わったみたいだから」
「お父さんが、最近口癖のように言ってるわよ、悟さんのことを」
「どうせ、悪口だろうよ」
「違うの。あの野郎は凄い男だって。会社に来てくれないかなあ、だってよ」
「あはは、ま、話だけでも嬉しいなあ。……ところで、謙二の話聞いてる?」
「そうそう、そのことも大変って言うか、大きな変化があったのよ」
「謙二から電話があったから、あらかた知っているけど、リコも喜んだろう?」
「それが大変なの。もう上を下への大騒ぎ。嬉しさが渦を巻いて竜巻になったような感じよ」
「あはは、そうか、それは良かった。……四月の二日から謙二もそちらで働くようになったんだってな」
「そうなの。お父さんの喜びようはもう大変よ。まるで少年が夢を語るような顔でお母さんに話したりして、今、有頂天になってるわ」
「そうか、何もかも上手く行きそうだな」
「悟さんの考え通りに事が運んでいることを、実感として感ずるわ。悟さんて、ほんとに凄い人だと改めて惚れ直したわよ」
「ありがとう。頑張った甲斐があったね。嬉しい限りだな。後は、俺と亜希子の人生だけを考えて行けばいいってことだな」
「そうね。私もホッとしてるの。何だか肩の荷が下りたような感じね。悟さん、ありがとう」
「なーに、まだまだ喜ぶのは早いよ。これからが本番だからな。心して掛らないと、いつ何時、ひっくり返されるか分ったもんじゃないからな」
「そうね、でも、悟さんがついているから、私は大船に乗った気持ちでいればいい訳だから、安心ね」
「そうなるように頑張るしかないよな。……ところで、アキ」
「はい?」
「通訳のことは大丈夫だろうね? ほら、専門的なことの学習のことさ」
「ええ、もうバッチリだと思うわ。後は、現地で実際にやって見て、分らないことが出てきたら、その都度学習するしかないわね。私には心強い先生がついているから」
「あは、先生と来たか。……そうかバッチリか。それを聞いて俺も安心したよ」
「心配しなくていいわよ、バッチリやって見せるから」
「アキの能力はよく知っているから心配はしないけど、初めての経験だし、上手く行かないと仕事に支障が出てしまうから、それを心配したんだよ」
「確かにそうね。途中で日本に帰されたりして、恥をかいたりしてね」
「その辺は厳しい会社だから、ないことはないと思っておいた方がいいな」
「そうならないように、頑張りなさいと言いたいのでしょう?」
「そういうことだね。船はもう動き出しているからね。後戻りできないよ」
「はい。良く分りました」
「それと、また、くっ付いたことがあるんだけど、聞いてくれるかなあ」
「ええ、いいわよどんなこと?」
「夜桜を見学しながら、みんなで一杯やりたいなあ、と思って」
「まあ、素敵な考えだこと。いいわねえー。生まれてこの方、夜桜を見ながらお酒を飲むなんて経験ないから、みんな喜ぶと思うわあ」
「今年は俺も謙二も加わるし、大勢だから楽しいと思うよー。それに、渡米したら、それも出来ないだろうしと思って」
「そうよねえ、とってもいい企画ね。私に段取りしなさいってことね?」
「そう。リコと謙二と三人で考えたら?」
「いつがいいの?」
「取り敢えず、研修が四月の二十二日で全て終了する予定だから、その晩はどうかなあ。少し肌寒いかも知れないけど、多分今年の桜は、その頃が見頃だと思うけど」
「でも、次の日は月曜日だし、出社の日でしょう? どうするの? 会社を休むの?」
「そうする。謙二を含めたイベントは、暫らくは望めそうもないから、そちらを優先した。桜は、時を待ってくれないからなあ」
「そう言えばそうね。悟さんて、ほんとに弟さん思いね」
「いや、謙二のことだけじゃないよ。みんなのことがいつも気になっているから、出来ることは、なるだけするようにしようと思ってさ」
「ほんとはこちらが企画して、悟さん出席してくれない? ってぐらいにならなければいけないのにね?」
「あはは、まだまだ俺の方が企画力はありそうだな」
「というより、思いやりの心が桁外れに豊富なのよね、悟さんて」
「それは、アキだってそうだよ。俺はただみんなとワイワイやって、絆を深めて行きたいだけだよ」
「それって、とっても大切なことよね。クリスマスや餅つきやカラオケ大会などの企画を経て、家族が見違えるように変化したから、尚更そう思うの」
「だから、いつも、いつも考えておかないと、なかなか実現しないと思うんだよ」
「そうだわねえー、……で、また仮装するの?」
「あはは、それはもういいだろう。夜桜見物に来ている人達が、俺達の方ばかり見て桜を見てくれないから、桜が可哀想だよ」
「あら、そうだわね。何とまあ優しいこと。桜もきっと喜ぶわよ」
「じゃあ、頼んだよ楽しみにしているからな」
「雨にならなければいいけど」
「アキ達の熱意があれば天気も良くなるさ。大丈夫だよ。万一雨が降っって夜桜が中止になっても、マネージャーの計らいで、研修の打ち上げを祝してとか何とか言って宴を催したらいいじゃん? 桜の枝を花瓶に飾ってさ」
「わー、なるほど。悟さんて、ほんとに凄いわね。どうして、そんなにポンポン発想の転換が出来るのかしらね」
「アキのお蔭だよ」
「えっ、私の? 何で?」
「アキの家族のことを四六時中思っているから、頭にジャンジャン何かがくっ付いて来るんだよ」
「まあ、なんて嬉しいことを、ありがとう、ほんとに、ほんとにありがとう。悟さん、大好き」
「と言うことで、お願いします。大いに楽しもう」
「はい。良く分りました」
「それともう一つ、少し長い話になりそうだけど、いいかな? それとも又にしようか?」
「アキは全然構わないわよ。……どういうこと?」
「うん。これは会社の人から相談受けたんだけど、どう応えたらいいか迷ってるもんだから、知恵を貸して欲しいと思って」
悟は嘘をついた。アキの考えを知りたかったのである。
「あら、私の知恵なんて、ちっとも役に立たないと思うけど、それでも良かったらどうぞ」
「そんな、大したことではないんだけど、女性の立場で考えた場合のことが、さっぱり分らないもんだから」
「あら、女性のことなの?」
「そうなんだよ。電話では理解しにくいかも知れないけど、一応聞いてくれないかなあ」
「ええ、いいわよ、どういうことなの?」
悟は佐知代に話した内容とそっくりな話を、少し脚色して自分と立場を入れ替えて話してみようと考えた。少し後ろめたい気もしたが、アキの考えを引き出そうと思った。
「俺に相談を持ちかけてきた会社の人に、ある相談があったらしいんだよ。だけど、答えに困ってしまって俺に持ってきたんだよ」
「ええ」
「会社の人に相談を持ちかけて来た人は、若い青年で独身らしい。話を分り易くする為にこの青年をXさんとするよ」
「はい」
「Xさんの話では、少し前の話らしいんだけど、知人にAさんというある年配の女性がいて、その人から聞いた話らしいんだけど、AさんにはBさんという一人の女性の友人がいたらしい」
「ええ」
「Aさんの友人のBさんは、たまたまXさんも知っていた人らしかったんだけど、お世辞にも綺麗な人ではなかったらしい」
「Bさんは人妻だったのかしら?」
「いや、独身で付き合っている人も居なかったみたいだね」
「そうなの」
「だけど気さくな人で、心根のとてもいい人だったらしいんだよ。その意味では魅力的な人だったらしいよ」
「ええ」
「ある日、AさんとBさんが喫茶店で雑談していた時、突然、Bさんが泣き出したそうだよ」
「どうしてかしら」
「Aさんがどうしたのと聞いたら、Bさん曰く、一度でいいから、好きな男性に抱かれて死にたい、と、とてもしんみりとした口調で呟くように言ったみたい」
「まあ、……」
「Aさんは、Bさんの告白みたいな突然の話にびっくりしたけど、Bさんのことは知り過ぎるぐらいに知っていたから、人一倍その気持ちが良く分っていた。だから、ついつい貰い泣きしてしまったらしい」
「まあ、何とも切ない話だわねえ」
「女としての魅力は、もうないかも知れないけど、すっかりなくなる前に、この身体を好きな人に思いきり捧げたい。それはもう、ほんとに切実な訴えにも似た話しぶりだったみたいだよ」
「で、どうなったの」
「Aさんは、何とかして彼女の思いを叶えてあげたいと思い、必死になって考えたけど、この手の話は、右から左に簡単にはいかないってこともよく知っていたから、困ってしまって途方に暮れた。……で、Aさんはどうしたと思う?」
「さあ、どうしたかしら、もう諦めるより仕方ないんじゃないかしら?」
「ところが、Xさんにその話を持ってきたらしんだよ」
「あら、まあ、そうなの、で、どうなったの」
「XさんはBさんを知っていて、BさんもXさんに好感をもって接してくれていたことは分っていたけど、Xさんは、それはないよと思ったらしい」
「で、Xさんはどうしたの?」
「もちろん、即座に断ったそうだ。逆立ちしても出来ないと言ったそうだよ。そしたらBさんが、Xさんだったら処女を上げてもいい、と言っていると言うんだよ」
「まあ、その人処女だったの?」
「そうみたいなんだよ。Aさんは必死になって、それこそ、涙ながらにXさんを口説いたけど、Xさんは応じなかった」
「それからどうなったの?」
アキは俄然興味を持った。
「Aさんが、たった一度だけでもいいから、Bさんに女としての幸せを感じさせてあげたいと言うから、女の幸せって? とXさんが問い返したら、Aさんは何と言ったと思う?」
「さあ、分らない」
「好きな人に抱かれることよ。と、あっさり言ったんだって。……で、Xさんが言ったそうだ。経験の浅い青年が、いくらBさんを抱いても、Bさんが満足する筈がないじゃないと、最後には怒って言ってしまったらしいんだよ」
「まあ、真面目な青年だこと」
「はは、……Aさんはとても悲しそうな顔をして、一言、満足するしないの問題じゃないの、あなたには分らないかもしれないけど、女の性って言うのはそうしたものなの。理屈なんてないのよ。……でも、もう諦めるよりないわね、分ったわ。ごめんね」
「そうだったの、Aさんの気持、何となく分るような気がするわ」
「ところが、これには余談があってね、Aさんは知っていながら、Xさんに一言もそれを言わなかったみたい」
「あらそうなの? 何かしら」
「Bさんの身体に、変化が起きていたんだね」
「身体の変化?」
「そう、Bさんに不幸な出来事が進行中だったんだよ」
「えっ、何があったの?」
「癌を患っていたらしいんだよ。Bさんはそれを医者から言われて、さっきの喫茶店での涙になったという訳なんだよ」
「まあ。……それからどうなったの?」
「暫らくしてから、余命幾ばくもないと医者に言われたんだ」
「まあ、可哀想に」
「小さい頃からの友人だったAさんの嘆きようは尋常じゃなかった。深い悲しみに明け暮れた。ある日、病院にBさんを見舞った時、願いを叶えてあげたくて、いろいろ奔走してみたけど駄目だった、ごめんねと言ったら、Bさんは、にっこり笑って言ったそうだよ」
「……」
「女として、たった一つの願いも叶えられないなんて、私ってそういう星の下に生まれてきたのね」
「……」
「それから間もなく、Bさんはこの世を去ってしまったらしい」
アキがシクシク泣いているのが聞こえた。
「どうして、XさんはBさんを抱いてあげなかったのかしら。Xさんしかいなかったんでしょう? 彼女が抱かれてもいいと思っていたのは」
「葬式の時、棺に横たわっているBさんを見て、Xさんはそうしてあげたほうが良かったのかなあと思ったらしい。何故かその顔が切なそうな顔に見えて、今でも、時々思い出して頭から離れないそうなんだよ」
「可哀想」
「手を合わせながら、ごめんなさいと呟いた。理由もなく悲しかったと言っているそうだよ」
「そうだったの」
「その時、AさんがXさんに近づいて来て、せめて、キスしてお別れしてあげたら、って言ったそうだ」
「うんうん。分る。分るわあAさんの気持、で、どうしたの? キスしてあげたの?」
「いや、出来なかったらしい。大勢の前だったこともあるけど、キスする意味が見いだせなかったらしい」
「まあ、呆れた。キスぐらいしてあげれば良かったのに」
「今思うと、そうすればよかったと、Xさんは凄く後悔してるらしい」
「その時、Xさんには好きな彼女でも居たの?」
「好きな彼女がいたらしいよ」
「だからだね。それとも、年配の人だし、美人じゃなかったからなのかなあ」
「いや、そんなの関係ないらしよ。純情無垢の若い青年には、不純に思えたみたいだね。ただそれだけのことらしい」
「でも、Xさんがその気になってBさんを抱いてあげたら、思い残すことがなくなった訳だから、泣いて喜んでくれたかもね。Aさんが言うように、満足するセックスじゃなくても良かったのよ。Xさんに抱かれることに意味があったのよ」
「今頃になって抱いてあげれば良かったと、痛切な後悔の念に駆られるようになったらしい。そこで思い余って会社の人に相談って言うか、その時どうすれば良かったのかを、教えて欲しいと言って来たみたいなんだよな」
「相談も何もないわよ、たとえ彼女がいても抱いてあげるべきよ」
「そうかなあ、Xさんの気持も分らないでもないよなあ。だって、Bさんが死なずにいたら、関係がずっと続いていたと思うんだよね? 彼女が居るのにだよ?」
「Bさんは、そういうことを望むような人じゃないと思う。逢いたくなった時だけでいいから来て頂戴、程度に考えていたと思うわ」
「それだったらいい訳?」
「だって、これはお母さんからも聞いたんだけど、年配の女性にとっては、とても切実な問題らしいわよ。だから、その切実な思いを満たしてあげるだけでいい訳だから、むしろ叶えてあげるべきよ」
「そっかあ、それがアキの答え?」
「そうね。驚いた?」
「うん少なからず驚いている」
「でしょうね。アキもお母さんから聞いていなければ、正反対の考えになっていたかもね」
「年配の人で未婚の女性の共通の考えなのかなあ」
「全部が全部そうとは思わないけど、殆どがそうじゃないかしらね」
「それにしても、Aさんは、どうしてXさんに癌を患っていて、余命幾ばくもない命なんだ、と言うことを言わなかったのかなあ」
「それは言えるわね。言うべきだったかもしれないわね。そしたらXさんも考えを変えたかも知れないわよね」
「そうだよなあ、……だけど、俺がXさんだったらどうするかなあ。Xさんと同じようになってたのじゃないかなあ」
「知ってる人で、多少好意を持ってるような人で、Bさんみたいに切実な思いをしているような人には、その思いを満たしてあげるのも大切なことよ」
「その場合は、アキにかくかく云々でしたと、報告すればいいんだね?」
「バカねぇー、そんなの言う必要ないわよ。言わぬが花よ。聞かぬが花よ。女はそんな話聞いたら、余計な心の負担になるわよ」
「何か、矛盾してるような感じがするよなあ」
「ふふ、矛盾なんかしていません。女ってそういうものなのよ」
「あはは、まるで年配のおばさんが言うようなことを、平気で言うね」
「アキがBさんの立場だったら、同じように思ったと思うわ。他人事じゃないような気がしてね」
「へえー、そうなんだ。とても参考になりました。ありがとう」
「あら、それで解決なの? 会社の人に何というの?」
「いまのアキの意見を取り入れて、抱いてあげれば良かった、と言っておこうかな?」
「ええ、それがいいわ」
「あはは、何だか意外な展開だったなあ」
「で、そのAさんはまだ元気なのかしらね?」
「元気らしい。年に一度ぐらい電話があって、XさんはAさんに会いに行くらしいんだけど、会うといつもその話が出て困っているそうだ」
「Bさんのお墓参りは? されるのかしら」
「Aさんのところに遊びに行った時、Aさんの家族も一緒に連れだって、お参りに行くそうだよ」
「そうなの。いい話ねえー」
「会った時、Aさんに言われそうだよ。今だったら抱いてくれたでしょう? ってね」
「まあ、で、Xさんは何て答えたのかしら?」
「はい、喜んで、と一つ返事したらしい」
「Aさん喜んだでしょうねえ?」
「涙を流しながらXさんに言ったそうだよ。あなたのその言葉を聞いて、天国で彼女もきっと喜んでるわね、と言われてXさんは男泣きしたらしい」
アキが泣いているのが分った。
「あのね? 実は、……似たような話を、お母さんから聞いたような気がするの」
「えっ、そうなの? と言うことは、この手の話って意外と多いのかなあ」
「多いかも知れないわよ」
「そうなんだ。知らなかったなあ」
「お母さんの話では、随分前の話だけど、お母さんの知っている人で、当時五十歳くらいの女性で、とっても綺麗な人だったらしいわよ」
「そっかあ」
「この手の話は、あまり表には出ない話でしょうしね」
「で、その女性はどうなったの?」
「その女性が、お母さんに相談したみたいなの」
「どんな話なの?」
「その女性は、結婚して子供が二人出来たらしいんだけど、二人目の子供が生まれて数年してから、旦那さんが交通事故で亡くなってしまったらしいの」
「えっ、ほんとかよ、可哀想に、まだ若かったんだろうにねえ」
「四十二歳だったみたいよ。それ以来、女手一つで二人の子供を一生懸命になって育て上げて、子供たちも立派な大人に成長したみたい」
「どうして再婚しなかったんだろうか?」
「一つは亡くなった旦那さんに悪いと思ったことと、子供たちが猛烈に反対したらしいの」
「へーー、でも、子供たちも父親がいた方がいいと思うけどなあ」
「余程いいお父さんだったのじゃないかしら。だから子供たちも物心ついて、新しいお父さんを、受け入れる気持ちになれなかったんじゃないかと思うわ」
「なるほどね。分るなあ」
「旦那さんが亡くなってから、生活に追われて、ゆとりがなかったみたいなんだけど、子供たちが社会人になって、県外に就職して家から巣立って行ってホッとしたのはいいんだけど、一人きりになって、急に寂しさが募るようになって、お母さんに相談ということになったみたいね」
「で、どうなったの?」
「相談を受けてお母さんは、お父さんにも話したりして、いろいろ努力したけど、結局思うように行かなかったみたい」
「そっかあ。綺麗な人だったら、居ても良さそうなのにねえ」
「綺麗な女性だからとか、スタイルがいいから、すぐそういう人が現れるとは限らないのね」
「そうかもしれないなあ、それ以外にいろいろあるだろうからなあ」
「その話を聞いてアキは、大分若かったんだけど、何となく女の性みたいなことを感じて、理由もなく、胸が締め付けられるような思いになったのを覚えてるわよ」
「何とも切ない話だねえ。可哀想だねえ。やはり、この手の話はタブーなのかなあ」
「そうじゃないと思う。その話を聞かされて思ったの。複雑なことは置いといて、好きな人と情を重ねることは、たとえ結婚とか何とかいうことじゃなくても、切った張ったの問題に発展しなければ、あってもいいのじゃないかしらと思うようになったのよ」
「……」
「普通だったら、誰も振り向いてもくれないような年配者になってくると、そういう思いが募ってくるのは、誰にでもあるようなことだと思えるの。だから、願いが叶えられずに死んでいくなんて、あまりにも可哀想でしょう? そうは思わない?」
「そうね可哀想とは思うけど、すんなり、そうだねと納得出来ないところもあるよなあ」
「もちろん、その気持ちも分るけど、一方では、そんな女の切ない現実があることも、知っておく必要があるかもよ」
悟は、アキの意外な考え方に驚いた。女性の奥深い心理については、女性自身でないと分らないことなのかもしれないと思うことだった。そして、その時、佐知代のことが頭をよぎった。佐知代の気持を受け入れてやるべきなのだろうか?
三月末になり、C&Tの業務は全て完了した。それを待っていたかのように、浅田香織が早川に退職願を提出した。四月末にて退職したい旨の文言が書いてあった。浅田は、いよいよ友人の中村との結婚準備に入るようである。早川は浅田をねぎらった。そして、退職願を笑顔で受理した。
「田部井君や島田君はどうするんだろうな」
早川は気になって浅田に聞いた。
「彼女らも四月末で退職するようですよ」
「えっ、ほんとかよ。じゃあ、三人の美女が同時に会社からいなくなるのかい?」
「ふふ、美女って嬉しいですわ。……はい。そうなると思います」
「二人とも、もう退職願を出したのかい?」
「先日出したとか聞きました」
「そっかあ、そういうことになったかあ。いやー、良かったなあ、うんうん。良かった良かった」
「みんな早川さんのお蔭です。足を向けて寝られません。ありがとうございました」
「こちらこそありがとう。少し寂しい気がするけど、三人の晴れの門出だからな、そんなこと言っちゃおれないな。二人にもよろしく言っといてくれないかなあ」
「はい。伝えておきます。早川さんもお元気で頑張ってください。……落ち着きましたら、私からお願いしたいことがあります」
「ん? なんだい?」
「いつになるか分りませんが、四家族の合同食事会を計画しようと思っています。その時はよろしくお願い致します」
「そうか。いい計画だなあ。喜んで参加させてもらうよ」
早川は九月一日には渡米する。それまでに連絡があるかどうかは分らないが、そのことは敢えて言わなかった。
「それでは、退職の件宜しくお願い致します」
「よっしゃ、分った。まだ早いかもしれないが、長い間ご苦労だったね。君のお蔭で、助かったことが随分あったからなあ。ほんとにありがとう。元気で頑張るんだよ」
浅田は少しウルウルしてきた。かっては、好きで好きだたまらなかったこの人と、とうとう別れる時が来てしまった。
この人のお蔭で素敵な伴侶に恵まれたが、抱いてきた淡い淡い片思いの恋心は、終生忘れることの出来ない、人生の一ページとなるであろう。
「こちらこそ、ほんとにありがとうございました。……では、失礼致します」
浅田は深々と頭を下げて早川の前から遠ざかって行った。早川は浅田の後姿をじっと見つめていた。
三月三十日の金曜日、早川は、会議室にC&Tのスタッフ全員を招集した。
郷田部長の挨拶があった後、早川自身から、全員の精力的な努力で、予定通り無事業務を終了出来たことに対する感謝の意を述べた。
「皆さん、大変お疲れ様でした、そして、ご苦労様でした。本日をもって、国際設計コンペに関する業務を、ひとまず終了いたします。終了に当りまして、私の方から一言申し述べたいと思います。
C&Tプロジェクトは昨年の十月二十日にスタートしました。途中二名の退職者が出るという、思わぬハプニングもございましたが、本日、無事業務を終了することが出来ました。これもひとえに、皆様方の精力的な業務遂行の熱意の賜物と思っています。この場をお借りしまして厚くお礼申し上げます」
早川は深く頭を下げた。スタッフも全員頭を垂れた。
「私が普段から申し上げている通り、この成果は強い結束力、つまり強固なチームワークから生まれたものと確信しています。一人では小さな力でも、チームの一人一人が知恵を出し合い、議論し、心から納得して作業を進めることの大切さを、学んでいただいたと思っています」
早川の言葉に頷いているものが多かった。
「来月の冒頭には、皆さん方の手で完成させた作品の、プレゼンテーションとヒアリングの模擬が、大会議室で行われるものと思われます。関係者のご意見を経て、修正もしくは変更があるかもしれません。皆さん方は、一応来週から、元の部署に戻っていただきますが、場合によっては、一部の方々は、その修正もしくは変更の作業をしていただく為に、臨時に、再度この部屋に戻って作業をしていただくことになるかもしれません。一応そのつもりでいてください」
全員が頷いた。
「リーダーとして、何か皆様方の労に報いることは出来ないかと、いろいろ思案したのですが、なかなかいい案が思いつきませんでした。通常の業務ですので、業務終了に関して、会社としてのイベント等はないだろうと思います。そこで、場合によっては、会社からのお叱りを覚悟で、独断と偏見により、皆様方一人一人に感謝状を贈ることを思いつきました」
場内がざわめいた。
「社長とか郷田部長名ではなく私の名前で発行しますので、いささかご不満でしょうが、何かの記念にでもなればと、ただ、それだけの思いですので、どうか意のあるところを汲み取っていただき、受け取っていただければ嬉しく思います。但し、金一封は付きません。あは、悪しからず」
みんなから笑いが漏れた。
「それと、もう一つ、これもなかなか会社としてはやっていただけないと思い、勝手にやらして貰おうと思っています」
早川は、横にいる郷田の顔を見ながら微笑みながら言った。
「何かと言いますと、記念写真の撮影です。出来ましたら、部長も入っていただければありがたいのですが」
スタッフから驚きの声が上がった。そして、全員が大きく頷いた。郷田部長も笑って頷いていた。
「何でもそうですが、自分がしてきた足跡を、何らかの形で残しておき、後からそれを見ることで、新たなやる気が起こる時が良くあります。ま、そんな風になればいいが、という思いでいます。幸いに、広報の写真班にお願いしましたら、快諾していただきました。よろしくお願い致します」
一斉に大きな拍手がわき起こった。
「それでは、これから感謝状をお渡しいたします。この感謝状は、以下同文という文言はありません。私が、皆さん方一人一人に、マンツーマンでお話しするような形で、私の気持ちを素直に書いています。ですから、差し障りがあるといけませんので、読み上げません。席に戻ってからじっくりお読みください。何かの時に、この感謝状を読んでいただき、何かを感じていただければ、という思いで書きました。気に入らなければ破いていただき、ゴミ箱に直行ということでも一向に構いません」
笑いが起こった。ゆっくりとした口調で感謝の気持ちを述べながら、早川から一人一人に感謝状が手渡された。受け取った部下は席に戻り、自分に対する早川からのコメントをじっと見て、頷きながら黙読していた。そして、顔を上げて早川の方に視線を送った。
それを見ていた郷田は、早川のきめ細やかな気配りに驚いた。そして、社員のやる気を引き出す、新しいやり方だと痛感した。さらに、こういうアイディアを思いつく早川の柔軟な頭脳に、改めて凄さを見せつけられたような気がした。
郷田も加わった写真撮影も終わり、みんなが席に着いた時、早川が言った。
「部長にお約束いただきたいことがあるのですが、宜しいでしょうか?」
郷田はまた早川が何か企んでいるなと思った。
「俺に出来る事だったら、何でも引き受けるぜ」
「ありがとうございます。みんな聞いたか? 会社で部長が出来ることと言えば、逆に、出来ないことが一つもないと解釈してもいい訳だから、こんな凄い約束はないよな?」
みんな早川を注視した。部長に何の約束を迫ろうとしているのだろう、という目つきである。
「部長、此処に居る全スタッフは、寝食を惜しんで土・日を返上して懸命に頑張ってくれました、そこで、お願いなのですが、その労に報いるためにも、もしも、国際設計コンペで第一位、つまり優勝の栄冠を勝ち取った暁には、記念の撮影と、部長名の感謝状と金一封を贈呈する、一大イベントをやっていただきたいのですが。そういう訳にはいかないでしょうか」
まさか、リーダーがそこまで考えていたとは、場内が驚きでざわついた。リーダー、やるじゃないか。カッコいい。郷田はこの時、早川の作品に対する自信を感じ取った。そして、何と嬉しいことを言ってくれるんだ。そんことは簡単なことだよ。
「分った。約束しよう。多分秋口になると思うが、しかるべく企画を立てて、会社の行事として行うようにしようかな」
会場は割れんばかりの騒ぎになった。もう既に、優勝を勝ち取ったような雰囲気になった。
「あはは、まだ喜ぶのは早いよ、ま、期待して待つことににしよう。部長、ありがとうございます」
早川は、両手で騒ぎを抑えながら、郷田に深々と頭を下げた。早川が最後にみんなを向いた。
「このまま解散するのは芸がないと思います。私が今、何を考えているのか分る人いますか?」
驚くなかれ一斉に手が上がった。
「あれれ、何だか見透かされている感じだなあ。はい、じゃあ、女性で一人頑張ってくれた、浅田君に話して貰おうかな。どうぞ」
「はい。ありがとうございます。C&Tプロジェクトの終了に当り、一人一人感想を述べなさい、と顔に書いてあります」
場内が一斉に大喝采に変わった。早川は苦笑いした。
「あはは、俺も大したことないなあ、完全に見透かされていたんだ、これは、まずいなあ」
これがまた受けた。テーブルを叩きながら笑い転げる者もいた。郷田は、早川の人となりが、全スタッフの心を虜にしている様を目のあたりにして驚愕した。人心を巧みに掌握し、一つの目的を達成する力に変え、そしてそれを、一人一人の感動にフィードバックするということを、いとも簡単にやってのける手腕に、一種の怖さを感じたのである。
「では、浅田君の提案により、一人一人の感想を拝聴したいと思います」
「いえ、私の提案ではありません。リーダーの顔に書いてあるのを言ったまでです」
「だけど、俺は一言もそんなこと言ってないぜ、ただ、同意しただけだよ。だから、君の提案でいいんじゃないか? な、みんな」
スタッフ全員の割れんばかりの拍手が起きた。
「ほら、みんなの意見も俺と同じみたいだぜ。ここに晴れて君の提案になりました。じゃあ、お願いします」
浅田は早川のやり方には、必ず何かがあると思ってはいたが、最後の最後までこの手でやられて、苦笑いするしかなかった。さすがに、私が惚れただけの男だ。ありがとう。
「ただし、感想を述べるって言ったって、ありきたりの感想じゃ芸がないから、このプロジェクトを通して心に決めたというか、決意したことを、必ず一つ入れるって言うのはどうだろうか。そうすることで、もしかしたら、他の人に良い気付きにつながるかもしれないからな。これは俺の提案。賛成の諸君は手を上げてくれる?」
驚くなかれ全員が手を上げた。
「かといって、会社とか部長に対するおべんちゃらは頂けないな、まして俺に対して、歯の浮いたような話はお断りします。いいですね?」
みんな笑みをたたえながら賛同した。
「それと、せっかく感想を述べて貰うんだから、優秀な感想を述べた人には、また、感謝状を上げようと思うけど、どう思う?」
また大きな拍手が起こった。
「じゃあ、審査委員長として、部長になっていただきたいのですが、部長いかがでしょうか」
早川は部長の顔を見ながら言った。
「よっしゃ、分った。俺も何もしないのは芸がないから、少しばかりだけど、金一封を出そうかな」
意外な展開になり、待ってましたとばかりに大喝采となった。早川も思わぬ事態に喜んだ。
「思わぬ部長の計らいで、金一封付の感謝状を贈呈する事になりました。一人だけです。みんな頑張ってな。部長ポイントは何でしょうか?」
「それを言ってしまったら、身も蓋もないような気がするが、さっき、リーダーが言ったように、他の人に感動を与えるような、気付きを感じさせるような、そんな観点から評価しようかな。制限時間はあるのかな?」
「あ、そうですね。三分程度、長くても五分以内に収まるようにしてください」
こうして、一人一人が中央に進み出て熱弁をふるった。郷田には、早川の意図が十分伝わってきた。プロジェクトが終了する訳だから、何もそこまでしなくても、はい、終了ですとしてしまえば済むものを、何処までもやる気を引き出そうという、並々ならぬ根性は、誠に見上げたものである。全員が感想を述べて最優秀賞が選ばれた。そして、早川は業務の終了を宣言した。
思えば、C&T発足直後から社内情報の漏洩問題が起こり、その対処に翻弄された。一時は業務の遂行に、危機的な場面もない訳ではなかったが、郷田部長の強力な後ろ盾もあり、なんとか業務を完了させることが出来た。
早川の業務終了宣言を受けて、スタッフは会議室から退席した。早川は郷田部長の前に進み出て、深く頭を下げて感謝の念を表した。
「早川君、実に良くやってくれた。礼を言うよ。ありがとう」
郷田は、早川の手を握り感謝の意を表した。
「ありがとうございます。部長のお蔭で何とか完了できました。ほんとにありがとうございました」
早川も郷田の手を強く握り返した。
「終わってみてどうだ? 自信のほどは」
「多少の自信はありますが、結果についてはもちろん分りません、プレゼンテーションとヒアリングの模擬を見聞きしていただいて、判断していただくよりないと思います」
「そうだな。ここまで来たら、運を天に任せるよりないかな。それにしても、良く頑張ってくれたな。暫らく休息するといいよ」
「ありがとうございます。プレゼンテーションとヒアリングの模擬は、いつ頃になるでしょうか」
「四月五日に決定した。準備しておいてくれ。必要な機材などがあれば準備させるぞ」
「かしこまりました。部長から褒めていただけるように頑張ります」
「そうだな。頼むわ」
「プレゼンテーションとヒアリングの模擬が終わり、修正等があって、最終的に全てが終了した時点で、暫らく休暇をいただきたいと思います」
「そうしたらいい。四月の中旬には、五月一日付で準備室の辞令が交付される手筈になっている。そうなると、又忙しくなるから、その前に十分休息するといいだろう。結婚式の準備なんかもあるんだろうからな」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、そうさせていただきます」
「田舎から急きょ呼び出して、やっとまた休暇が取れるようになったな、長かったなあ」
「でも、新しい経験もさせていただきましたし、とても充実した日々を過ごすことが出来ました。ありがとうございました」
郷田の安堵にも似た表情が早川に向けられた。その顔は破顔していた。
四月から会社は新年度に入った。
国際設計コンペのプレゼンテーションとヒアリングの模擬を目前に控え、その段取りと説明方法に日夜頭を働かせていた。そんな時、郷田部長から電話が入り、部屋に来るように指示された。急ぎ部長室をノックして部屋に入るなり、部長の声が飛んだ。手には新聞があった。
「やあご苦労さん、ま、コーヒーでも飲んでくれ」
「ありがとうございます」
「準備は整っているのか?」
郷田は、五日に行われるプレゼンテーションとヒアリングの模擬を成功させなければならないと思っていた。
役員の中には、残念ながら、足を引っ張ろうとする奴もいない訳ではなかった。だから、その手から、批判めいた文言が飛び出すことを一番警戒していた。準備は整っているかという言葉の裏には、絶対成功させろよ、という強い意志が込められていた。早川もその辺は察していた。
「はい。大丈夫です。ご心配には及びません」
「そうか、それを聞いて安心した。……ところで、今朝の関東建設日報を見たか?」
「いえ、まだ見ていません。何かありましたか?」
「これを見てくれ」
郷田が新聞を早川の目の前に置いた。早川の目に黒い大きな活字が飛び込んできた。
―― 確認申請疑惑 法の盲点を突く ――
関東建設日報では、二年ほど前から、建築確認申請の実態調査を進めてきたが、一年ほど前からの申請物件に、不審な点があることを突き止めた。
法の盲点を突いた再申請に関わる巧みな手法は、今後、建設業界のみならず、関係省庁の議論を呼びそうである。
過去二年間の建築確認申請の実態を、つぶさに詳細に追跡調査した結果、次のようなことが判明した。尚、具体的な物件名や会社名、地域名は伏せて掲載。
相当な紙面を割いて、細かいデータが記載されていた。早川は少し物足りなさを感じた。だが、もしかしたら、記載されていない、もっと具体的なことは、現段階では記載しないように、警視庁からきつい指示があったのかも知れないと思った。
「例の件ですね」
「どう思う?」
「目に見えないところで、何かがうごめいているような気がしますね」
「君もそう思うか。俺もそう思ってる。ここには出ていないが、例の名古屋の業者は危ないな」
「そうですね。何か政界がらみの、不気味な臭いが漂っていますね」
「あの会社は、やり方が汚いというもっぱらの評判だったからなあ。とうとう、来るとこまで来たかな?」
「そうかもしれませんね。同業者がこういうことでは、業界の恥さらしですね」
「だよな。そこまでして受注する価値を、俺は見いだせないけどなあ。哀れで悲しいことだな」
「そうですね、あってはならないことですね」
「そうだな。……いや、君もこの件は気にしていたようだったから、一応知らせておいた方がいいと思って呼んだのだ」
「ありがとうございます。帰って、じっくり読んでみます」
「じゃあ、五日の件頼むぞ」
「はい。承知いたしました。では、これで」
四月五日の木曜日に関係者が集まって、国際設計コンペのプレゼンテーションとヒアリングの模擬が大会議室で行われた。
中央のテーブルには提出用の分厚い書類と模型が置かれていた。
関係者はまず模型を見て感嘆した。流線型を描いた屋根全面に、緑の芝生が植え込まれ、鮮やかな色彩を奏でていた。南側の窓は太陽に向かって斜めにせり出し、壁には太陽光パネルがデザインされていた。今まで見たこともないようなデザインが、会議室の照明に照らされて燦然と輝きを放っていた。
大会議室の大スクリーンに、次々と映し出される設計図案を見て、場内からどよめきが起こった。早川の細かい説明が関係者の驚きを助長した。今更ながら早川の手腕に場内が圧倒された。
郷田部長は、腕組みをしながらスクリーンを見、早川の話に聞き入っていた。この男の、恐ろしいばかりの研ぎ澄まされた技術力とデザインセンス、誰にも真似できない独特の感覚は、もはや別次元である。その卓越さに、ただただ驚嘆するばかりであった。
一通りプレゼンテーションとヒアリングが終わった段階で、早川は関係者に向かって深く頭を下げた後、ゆっくりとした口調で語った。
「以上で私の説明は終わります。……何か疑問点とか改良すべき点や、私の説明の仕方にアドバイス等がございましたら、一応この場でお聞きしておきたいのですが、ございませんでしょうか?」
誰も発言しなかった。
「締め切りまでまだ少し日にちがございますので、良くご検討いただいて、何かございましたら、私の方までお知らせいただければ助かります。よろしくご協力いただきますようお願い申し上げます。私としましても、プレゼンテーションとヒアリングを通して、審査委員の方々に好印象を与えられるように、本番までに、さらに工夫と研究を重ねて行きたいと思っております。本日はありがとうございました」
こうして、取締役会議を経て、念願の国際設計コンペ用の作品は提出された。後はプレゼンテーションとヒアリングを経て、秋に行われる審査結果の発表を待つばかりである。
結果発表は、おそらく米国で聞くことになるだろうと、早川は一連の作業の終息に胸をなでおろした。
思えば、情報の漏洩というハプニングはあったが、兎にも角にも、無事作品の提出に漕ぎ着けられたことと、技術者としての業務はこれで最後になるのでは、という思いが交錯して複雑な心境でもあった。
さかのぼって、三月最後の週末の金曜日のことである。会議室で郷田部長と別れた後、席に戻った早川は、一つの大きな仕事が終わったと安堵していた。その時、甲斐オーナーから電話が入った。姉である。
「あ、お世話になります。早川です」
「今夜の打ち合わせは? 来れるんですか?」
早川は、交換手に聞かれているのではないかと心配した。この時早川は、甲斐に携帯番号を教えておこうと決心した。
「はい。お伺いする予定ですが」
「分りました。お待ちしております」
甲斐も心得たものである。早川の雰囲気を察知してトーンを変えた。
「何時頃になりそうですか?」
早川はそれとなく聞いた。
「そうね。いろいろ準備があるから、二十時頃でどうかしら」
いろいろな準備とは、食事の支度などかも知れないと思った。
「かしこまりました。お伺い致します」
悟は大きな一仕事を終えた安堵感もあって、今夜は大いに飲みたい心境であった。羽目を外したかった。あれっ、俺は下戸な筈だろう? ま、いけるとこまで行くさ。
甲斐との電話を切って、さて今夜の返事をどうしようと思っていた。亜希子の考えもそれとなく電話で聞いた。亜希子は許すと言ったが、そんなに簡単に割り切れるものではない。悶々としながら、今日までずっと考え続けてきた。
問題は一つである。賞味期限が近いという、佐知代の女としての切ない心を理解し、佐知代の願望を満たしてやるような行動を取っても良いのだろうかと言うことである。佐知代の、他意のない純粋な気持を思うと、いじらしい気もしないでもない。大人として節度のある態度で臨めばいいとも思うが、一旦そういう関係になったら、思わぬ感情が噴出してくる心配がないでもない。そうなったら、姉弟の契りどころではない、何もかもゼロに帰してしまう。まさか、佐知代姉も、そこまではバカではない筈だ。さあどうしたもんだろうか。
悟は、二十時丁度に佐知代の家の玄関に入った。
「まあ、相変わらず時間には正確なのね。……あれっ、何だかお疲れのようね」
「うん。今日はいろいろあってね。少々疲れたかな。だけど、一仕事終えたからホッとしてる」
「一仕事って、例のコンペの業務が終わったの?」
「そうなんだよ。やっと終了した」
「そうなの、それはご苦労さん。さ、上がって頂戴。夕飯の支度は出来ているけど、どうする? シャワーを先にする?」
「いや、お腹が空いてるから、ご飯がいいな。姉さんは?」
「私もそうする。ビール一本つけようか?」
「そうだね、いただきます」
テーブルには、所狭しと料理が並べられていた。
「さ、うんと食べてね。ご飯も遠慮しないでお変わりしてね」
「いただきます」
悟と佐知代は、ビールを飲みながら食事を楽しんだ。
「で、コンペの結果発表はいつ頃なの?」
「秋口だと思う」
「そうなんだ。アメリカで聞くことになりそうね」
「多分そうだね」
「楽しみねぇ、一位になったら世界中の注目の的になるわね」
「会社の名前が一躍有名になるだろうね」
「あら、悟の名前は?」
「あはは、俺の名前なんか出る訳ないじゃん。あくまで、会社のスタッフとして関わっているだけだから」
「そうかしら、悔しいわね。実質は、悟のリーダーのもとに完成したのにねえ」
「そうしたもんだよ世の中は」
「もし、一位になったらどうなるの?」
「それを原案にして、実施設計に入ることになると思う」
「じゃあ、また悟が携わるの?」
「いや、それは担当が違う。原案に忠実に実施設計をする訳だから、俺は、時々アドバイスする程度だな」
「そうなんだ。……どこに建つの?」
「晴海だよ」
「えっ、外国ではないの?」
「コンペには世界中から参加するけど建つのは国内だよ」
「あら、そうなんだ。いつ頃から工事が始まるの?」
「そうだなあ、準備に大分時間が掛かるからなあ、多分、三、四年先だろうね」
「まあそうなの、じゃあ、悟が会社を辞めるころになる可能性もあるのね?」
「そうだね。その可能性もあるね」
「施工も会社がするんでしょ?」
「一応、設計と施工は別になっているけど、多分そうなると思う」
「そうなんだ。一位になるといいわねえー」
「そうだけど、こればっかりは分らないね。あはは、果報は寝て待て。だよ」
「そうね。アメリカで、亜希子さんと横になっている最中に電話が入ったりして」
「あはは、どうしてそういう発想になる訳?」
「だって、寝て待てと言うから、そうなるでしょう?」
「あはは、なるほど。言えてる。あはは、面白い」
「あら、少し元気が出た?」
「そうだね。なんだか、少し疲れがとれたみたいな感じだね」
「ああ、良かった。ご飯お変わりしようか?」
「そうだね。このご飯、なんだかとっても美味しいね。どうしたの?」
「日本一おいしいお米を取り寄せたの。有名なお米よ」
「道理で美味しい筈だ。おしんこと梅干があれば、おかずなんかいらないね」
「そう言わずに食べてよ、残したら可哀想でしょう?」
「姉さんが? それとも料理が?」
「両方よっ」
「あはは、そうかなるほど」
食事が終わり、二人はリビングルームのソファに腰を下ろした。
「姉さんは台所を片付けて来るから、悟はシャワーを浴びてきたら? それとも後にする? だったら、テレビでも見ててね」
「そうだね、食事してすぐじゃ何だから後にしようかな」
佐知代は台所に消えた。悟は、顔はテレビに向いていたが、焦点が定まらなかった。何気なく、ラックに立てかけてあった新聞を広げたが、目に活字を追うだけの気力が備わっていなかった。新聞の番組表を見ながら、チャンネルをやたらと切り替えるだけで、全く見る気はしなかった。そうこうしてる間に佐知代がソファに戻って来た。
「あ、姉さん、俺の携帯の番号、教えてなかったよね」
「そうよ。だって教えてくれと言っても、教えてくれなかったじゃない」
「そうだったね。もう姉さんになったんだから、これからは携帯に電話してくれる?」
「そうね。会社に掛けると必ず交換手が出るからね。……あれって、悟との会話を聞いたり出来るのかしらね」
「もちろん、その気になれば出来るさ。だから、今日、姉さんから掛って来た時は、冷や冷やしたよ。だって、甲斐オーナーのトーンじゃないんだもん」
「フフ、途中でそれを感じた。携帯だったら、そんな心配ないからいいね。もっと早くに教えてくれればいいのに、頑固なんだから、もう」
「あはは、そういうなよ。俺の主義なんだから。じゃあ、この番号だからね。掛けて見て」
「ちょっと待って」
佐知代は携帯を取りに奥に消えて、すぐ戻って来た。
「掛けるわよ。はいっ」
悟の携帯が鳴った。
「じゃあ、姉さんの番号も登録しておきます。……何だか、これで完全にドッキングしたって感じだね」
「そうね、でも、少し物足りないドッキングね。だからまだ完全じゃないわね」
「あれっ、それってどういう意味よ。完全じゃないって。だって、三回も乾杯して姉弟の契りを交わして、携帯番号が分れば完全でしょう?」
「そうね、そういうことにしておきましょう」
「不満そうだね、何か不足でもあるの?」
「うん、ある。でもその内なくなるかも」
「ややこしいなあ」
「そうかしら」
悟は思い切って佐知代に語りかけた。
「姉さん、この前、冷静になって話合おうと言っていたこと覚えてる?」
「ええ、覚えてるわよ」
「今だったら、お酒も飲んでいないし、冷静に語り合えると思うけど」
「まあ、いきなりその話するの? その前に、シャワー浴びてリラックスしてからにしない?」
「そうか、そうだよね。俺も気が利かないねえ。……じゃあ、姉さん先に入って来て」
「何言ってるのよ。男性が先でしょう?」
「えっ、姉さん、それって本気で言ってるの?」
「本気でってどういうこと? 当たり前でしょう?」
「あはは、可笑しい、姉さんも古い人間だねえ」
「ええ、ええ、どうせ、私は古い人間ですよ、でも、何処が古いのか教えてよ」
「だって、男性が先でしょう、って誰が決めたんだよ。それとも、法律に書いてあったっけ?」
「……あれっ、悟はそんなこと全然気にしないの?」
「あはは、今時そんことを言ってる。姉さんもバカだなあ、そんなの気にしてる訳ないじゃん」
「ふふ、姉さんは大昔の女かしらね」
「あはは、もういいから、冗談はそのくらいにして、早く行ってらっしゃい」
「では、お言葉に甘えて、殿行って参ります」
「そちも分りが早いのう、気にいったぞ。丁寧に時間を掛けて、綺麗に洗うんだぞ、良いな?」
「かしこまりました。……ではご免あそばせ」
佐知代がクスクス笑いながら洗面所のほうに消えた。
悟の頭は、まだ霞んでいた。はっきりとした答えが出てこなかった。
こうなったら成行きに任せるしかない。佐代姉も常識を持った女であるし、将来のことを思えば、必然的に納まるところに納まる筈だ。うん。それにしよう。どういう事になるかは分らないが、話し合いの結果によって起る全ての責任は背負っていこう。
佐知代が微笑みながらソファに戻って来た。
「ああ、さっぱりした。さあ、殿も入ってらしたら?」
「そうか、それでは、余も入ってくるかのう」
「あのう、質問があるのですが」
「ウム、何じゃ?」
「余のことは、殿のことでしょう?」
「そうじゃ。それがどうかしたか?」
「殿のことを、中国では何というのかしらね」
「中国? また急に何を考えているのじゃ。……そうじゃのう、……あのな、秦の始皇帝が自分のことを称して、朕と言ったそうだ、そのように理解しているがのう」
「ほほほ、それではチン様、行ってらっしゃい」
「何だか、妙な響きだのう、朕か、分った、……朕もしっかり洗ってくるぞ、……あれっ?」
佐知代は吹き出してしまった。可笑しくて腹を抱えて笑った。ああ、今夜も楽しくなりそう。
それにしてもこの男、底なしに楽しい男だのう。
「姉さん、いつの間に新しいガウンを買ったの?」
悟がシャワーを済ませて、ソファに掛けながら話しかけてきた。濃いブルーのガウンが、悟の身体を一段と引き締まって見せた。
「あら、朕様、もうお上がりになったの? だって、前のはサイズが全然合っていなかったから、買ってきたのよ。まあ、何とカッコいいこと。いい色だったわね。素敵よ。……チン様」
「あはは、参ったなあ。姉さんも一段と綺麗だよ。前からスタイルもいいし綺麗だったけど、最近、急に綺麗になった感じがするけど、どうしたの?」
「フフ、どうしてかしらねぇ、悟と姉弟の契りを結んだからじゃないかなあ」
「あはは、そしたら世の中の女性は、高価な化粧品を使うより、弟になる人を探したほうが手っ取り早いじゃん」
「良く言うわよ。そんなに簡単にはいかないわよ。姉さんだって、どんなに苦労したことか」
「あはは、言えてる。だね」
「ちょっと聞きたいんだけど、姉さんのどこが好きなの? 参考までに教えて」
「また急に話題をかけて来たね。……そうだなあ、まず第一はハートかな」
「ハート? この胸のこと?」
「あはは、違うよ」
「じゃあ、心のこと?」
「そう。優しいし嘘をつかないし、何よりも人を傷つけたくないという心根がいいなあ、それと姉さんといると、安心出来るって言うか、落ち着けるって言うか、そうそう、癒されているんだろうね、きっと」
「まあ、一杯並べてくれて、ありがとう。とっても嬉しいわ」
「自分で考えて当ってると思う?」
「そうね、大体当ってると思うけど、仕事の上で、嘘をつくことはたまにあるわね」
「嘘も方便?」
「そうそう、そんな感じね。でも、悟には絶対ありのままを見て欲しいし、ありのままで、付き合いたいとは思ってる。だから、出来るだけ嘘はつきたくないわね」
「出来るだけって言うことは、たまにはつくってことだよね?」
「そうね。基本的には嘘はつきたくないんだけど、可愛い嘘はあるかも」
「可愛い嘘? なんだか少女みたいだね」
「私の心はいつも少女よ」
「呆れた。良く言うよ」
「何よ失礼ね。身体じゃなくて、心が少女と言っているんだから、いいでしょう?」
「あ、そうか勘違いしてた」
「あら、なお失礼じゃないその言い方」
「姉さんには参ったなあ。ジャンジャン突っ込んでくるんだから」
「じゃあ、私の身体の部分では、どこが好き?」
「もしかしたら、自慢してる?」
「そんなんじゃないわよ。素直じゃないのね? 自慢出来るとこなんてありません」
「じゃあさ、姉さんの裸を見たことないので分らないから、顔で好きなところを言おうか?」
「それでもいい。何だったら、裸になってもいいわよ」
「やっぱり、自慢したいみたいに聞こえるよ」
「フフ、ちょっぴりそんな感じね」
「スタイル抜群っていうのは分ってるから、裸になる必要ないよ。……顔はね、全部好きだね。その愁いを帯びた目でしょう? 鼻筋が通ってて高いし細かく言うと、鼻の穴の形が凄く好きなんだよね。それと、その唇。下唇の少し厚ぼったいところがたまらないね。何とも言えない、いい形をしてるね。セックスアピール満点だね」
「まあ、よく観察しているわねえ、びっくりだわ。とっても嬉しい。顔の全体の形は?」
「それがまたいいんだよなあ。ほんとに、ぞくぞくするような顔立ちだよね。顔の輪郭が卵型で、横顔が何とも言えない美しい形をしているね。日本人には少ないような気がしてるけど、鼻先とあご先の2点を結んだ線よりも、唇が少し引っ込んでいるところが、俺は好きなんだよねえ。それだけのスタイルと美貌だったら、モデルか女優になったら良かったのに。人気が出たと思うけどなあ」
「そこまで言ったら嘘になるわよ、でも、凄く嬉しい」
「誰に似たのかなあ。お父さん似? それともお母さんに似たのかなあ」
「良く言われるんだけど、もう亡くなったけど、多分、お婆さんに似てるかも。凄い美人だったみたいよ」
「そうなんだ隔世遺伝?」
「どうなのかしらね。顔の形とかスタイルって遺伝するのかしらね?」
「さあ、どうだろうか。……ちなみに、姉さんのスリーサイズを教えてよ」
「聞いてどうするの?」
「どうもしないよ、将来、今のサイズが壊れそうなときに、前はこうだったんだよって注意してあげる」
「壊れる? そうね。悟がいつも傍にいたら、もしかしたら、幸せ太りになるかもね。ブクブク太ったりしてね」
「それを、貫禄がついたという人もいるけど、そうなって欲しくないよなあ」
「大丈夫よ。ならないようにするから。身長は166センチ。スリーサイズは、バスト88、ウェスト61、ヒップ89、かな?]
「なかなか均整のとれた身体だね」
「もう少し身長があったら良かったかもね」
「でも、女性のあまり背の高いのも、どうかと思うよ。日本人の身長としては、むしろ高い方じゃないのかなあ。その位がちょうどいいと思うよ」
「そうかしら、ありがとう」
「どうして俺に、私の身体の部分ではどこが好き?って聞いたの?」
「ちょっと聞いてみたかったの。悟の好きなところが多ければ、少しは自信になるでしょう? だから、聞いてみたかったのよ」
「今の姉さんだったら、世界中の男性が、一目惚れすることは間違いないよ。だけど、……」
「あら、だけど何なの? 気になるわねえ」
「身体の美しさには、いずれ限界が来るからね。この前も姉さん言ってたじゃない。否応なく肌の衰えとかが出てくるから悲しいって」
「そうよね。確かにその通りよね」
「だから、俺はもちろん今も言ったように、姉さんの身体の全てが好きだけど、それよりも、心のことを最初に好きだと言ったのは、そういう意味なんだよな。優先順位が一位ということだよな。その方が、姉さんがうんと年をとっても、全然気にならずに、いつまでも付き合えるからね?」
「……」
「おやっ、何か変なこと言った? 俺」
「ううん、違うの。姉さんが一番そうあって欲しいなあと思ってることを、ズバリ言ってくれたから、胸が詰まってしまったの。ありがとう」
「特にスタイルが良くて美しい女性は、優越感に浸ったり、その状態がいつまでも続いて欲しい、なんて思ってるかもしれないけど、そう思っている人ほど、歳をとると、現実の残酷さを味わうことになると思うね。心を磨くことを忘れたツケが回ってくるからね」
「そうよね。気がついた時には、誰も振り向いてくれない、なんてこと良くある話かもね」
「人間は加齢と共に、身体にいろいろな変化が起きて、仕方ないところもあるんだけど、失ってはならないのは崇高な人間愛だと思うんだよね。これさえあれば、全てが解決できそうな気がするんだよね」
「……」
「だから、愛だとか好きだとかと言うのはもちろん大切なことだけど、一時的な感情じゃなくて、普遍的な感性を大事にして、相手を思いやることが、結局は幸せにつながるような気がするんだよ」
「……」
「姉さんが死ぬ時に、俺の手を握って、悟、ありがとう、姉さんはとても幸せだった、と言ってくれるような、そんな人生だったらいいなあと思う」
「……」
「そうなる為には、俺が姉さんの全てを理解し、全てを受け入れて、お互いの心を大切にしながら、共に寄り添いながら生きて行くことが、とっても大事なような気がするんだよね」
佐知代は、悟の切々と語る話にじっと耳を傾けていた。一言一言が胸にジーンと来て、今にも感情が爆発しそうになった。
「悟は、その若さで、どうしてそういう考えに至ったの? 考えられないわ」
「そうだね。姉さんにはまだ話してなかったけど、田舎の親父が事業に失敗して、直接的な事業の失敗ではないんだけど、いずれにしても、会社が倒産してしまって、栄華を欲しいままにしていた家族が、奈落の底に突き落とされたんだよ」
「えっ、本当? そんなことがあったの?」
「うん。余り思い出したくない事なんだけどね。……倒産の憂き目にあって、親父の心は日増しに荒んでいって、働く意欲が全く失われ、当然、収入が閉ざされてしまった。それどころか、借金取りに追いまくられる始末さ。だから、来る日も来る日も極貧の毎日になってしまい、母親が細々と働いたが、そんもの何の足しにもならない、しょうがないから、隣近所に頭を下げてお金を借りて、何とか食いつないでいたんだよ。母親の苦労は、それはそれは、筆舌に尽くしがたい、可哀想なものだったよ」
「……そうだったの」
「そんな惨状を見て、子供心に深い傷を負ってしまったんだよ。……それからだと思う。人間が生きる上で、何が大切なのかということを、書物を見たり、いろんな人に聞いたりして勉強したんだよ。段々と周りの人から、一方では、末恐ろしい子供だと言われながら、一方では、この子は子供らしくないとか可愛くないとか言われ出した。それはそうでしょう。大人が言うようなことを言うようになったんだから、当然そうなるよね」
「……」
「それでも俺は、猛烈に勉強しまくった。これからは、頭脳で勝負する時代だ。そう思って、あらゆる機会をとらえて、徹底的に頭脳を鍛えて来たんだよ」
「……」
「今から思うと、そういうやり方が良かったかどうかは分らない。しかし、心の持ちようによって人は悪にもなるし善にもなる。人の心が、どのように形成されているのかによって、人生に大きな影響を与えていることを知り、もしかしたら、心そのものが、人間の全ての行動を支配しているのではないかと、自分なりに思うようになってきたんだよね。人が生きる上で最も大事にしなければならないのは、心の持ちようだと思うようになったんだよね」
「……」
「栄華を誇っていた時は、立ち代り入れ替わり、おべんちゃら言いながら親父に近づこうとしていた連中が、倒産した途端に手のひらを返したような態度を取ったり、潮が引くように離れて行き、挙句の果ては、ありもしないことを言いふらしたりする」
「……」
「少年は、人の心というものに疑問を持つようになった。と同時に、人間のほんとの心とは一体何なのだ、人間はどういう心を持って人生を歩めばいいかなど、人間の心について、必死になって研究し勉強するようになった」
「……」
「親父は、そういう境遇に立たされながらも、俺に言ったよ。悟、人を決して悪く思ってはいけない、人を決して恨んだり憎んではいけない、と言うんだよ。人様をそのように思うのは、自分の心がちゃんとしていない証拠だと思いなさい。人間としてまだ未熟なんだと思いなさい、と言うんだよ。自分が、人からひどい仕打ちを受けていながら、そう言うんだよ。母親も同じようなことを、何度も何度も俺に向かって諭すんだよ。俺はその時子供心に思ったね。この両親の教えを守り抜いて行こう、と心に誓ったんだよ」
「……」
「だけど、少年時代に受けた心の傷が、俺の身体に染みついていて、両親の教えと、いつも喧嘩するようになってきたんだ。どういうことかと言うと、特に人を平気で傷つけるような行動を取ったり、考えをしている人に対して、親の教えでは、決して悪く思ってはいけないということかもしれないけど、何故か、異常なほどの正義感が頭をもたげて来て、そのような類の人には、オーバーに言うと、肉を切らせて骨を断つみたいな、命をかけて、徹底的に打ち負かそうとするんだよね」
「……」
「姉さんだから言うけど、これはまだ誰にも言ったことないけど、いい例だと思うから、一応話しておこうかな」
「……」
「三月の週刊誌アットプレスには少し出たけど、四月の関東建設日報、五月には大手新聞社の日本速報新聞に、大々的にスクープ記事が載る筈なんだよ。これは実は俺の復讐劇なんだよ」
「えっ、復讐? 怖い」
「あはは、今勤務している会社が、ある会社から理不尽な攻撃を受けて、とても大きな損害を被った事件があったんだよ」
「ヘエー、そうなの? いつ頃の話?」
「実際には随分前からだということが、後になって分ったんだけど、俺が最初に知ったのは、去年の十月から十一月にかけての頃だったかな?」
「ええ」
「その攻撃で、会社は大きな損害を被ってしまった。直接、俺に関係する部署で起きたことだったもんだから、何とか対処しなければ、管理者としての能力を問われることになりかねないと思い、ある計略というか作戦を思いついて、会社に談判して、相手と戦わしてくれと頼み込んだけど許してくれなかった。そこで俺は、友人に紹介して貰った新聞記者に頼んで、復讐に乗り出したんだよ。……と言えば嘘になるな。新聞記者との思惑が一致したから、はからずもそういう結果になったと言った方が正しいね。もちろん極秘にね。俺がそういうことをしていることなんか、もちろん会社は全く知らないことなんだ」
「まあ、まるで映画のストーリーみたいな話ね」
「それ程でもないよ。結論から言うと、政界を揺るがす大疑獄事件に発展しそうなんだよ。当然、うちの会社に攻撃を仕掛けた会社、これは名古屋の会社で、大きな会社なんだけどね、おそらく営業停止か、最悪の場合建設業許可の取り消しなどの処分を受けることになると思う。それにとどまらず、政界と密着した贈収賄事件と絡んでいるから、大変なことになると思う。場合によっては内閣総辞職になるかもね」
「ええーっ、そこまで? それが、悟が仕掛けた復讐の結末なの?」
「そうじゃないよ。以前から警視庁はもちろんのこと、新聞社も水面下で調査を続けていたんだけど、なかなか確証を掴めなかったところに、さっき言った、俺に関係する部署で起きた事案を解決する為に、俺が極秘に調査したデータを、こっそりさっきの新聞記者に渡したんだよ」
「まあ、凄い」
「そしたら、それが凄いニュースソースだったらしくて、急展開となって、一挙に一大事件の全貌に繋がったと記者は言うんだよ」
「まあ、そうなの。じゃあ、四月と五月の新聞を注意してみればいいのね?」
「そういうことだね。……あれっ、何でこういう話になったんだっけ?」
「ほら、姉さんが、その若さでどうしてそういう考えに至ったの? と言ったからじゃない?」
「オー、そうだったね。えらい横道の話をしちゃったなあ」
「でも、聞いてよかった。悟の生き様というか、考え方が良く分ったわ。相当苦労したのね?」
「どうかなあ、苦労したうちに入るのかなあ」
「その割には、お金にあまり執着心がないみたいね?」
「お金の大切さは、身に浸みて分っているつもりだけど、しかし、あればそれに越したことはない程度にしか考えてないよ。お金は人の心までも奪ってしまい、その結果、人を狂わしてしまうなんていうのは、自分でも数多く見聞きしてきたし、事件の裏側に潜む、金にまつわる話なんてザラだからね。だから、分不相応な余計な金は持たない方がいいね。そんな金があったら、恵まれない人に分け与えたほうが、よっぽど喜ばれるよ。お金に溺れると人生に溺れることになると思ってる」
「確かに言えてるわね。お金で人生を棒に振った人の話はごまんとあるからね」
「あ、そうそう、今思い出したけど、田舎を出る時に、母親にきつく言われたことがあるんだよ」
「そう、どんなことかしら」
「お金と酒と女には絶対に気をつけろってね。特に酒と女に溺れたら、自分を見失ってしまうから、くれぐれも気をつけなさいとね」
「まあ、だから下戸なの? ほんとは飲めるのに下戸を装ってるのね?」
「違うよ。下戸は本物であります」
「それに、敢えて今そんな話するってことは、暗に姉さんのことを気をつけなさい、と言っているように聞こえるわね」
「あはは、女に溺れるって言ったじゃん。姉さんは女じゃないじゃん」
「何よ、姉さんだって、れっきたとした女よ」
「あは、むきになってる。そういう意味じゃなくて、ここでいう女じゃないってこと。だって、姉さんじゃん」
「あ、そういうことね、だったら分るわ。……でも、ここでいう女ってどんな人をイメージの女なの?」
「バーやスナックの女で、何かを企んで男に近づいてくる類の女かな」
「なるほど。例えば、金目当てだとか結婚を迫って来るとか?」
「そう、いろいろあると思う。女性は怖い生き物だからねえ」
「あら、そうかしら、ここに優しい女がいるというのに」
「そうですね。例外もあるようですね」
「それにしても、母親がいうところに意味があるわね」
「そうなんだよ。女の立場から女に気をつけろって言うのは、意味深な言葉だと思わない?」
「そうね。核心を突いた言葉ね。凄いお母さんね」
「ま、人間、苦労は買ってでもしなさいと良く言うけど、ほんとだね。苦労の中に物事の真実が隠されているように思えてならないんだよ」
「苦労して生きてきた人には、どことなく魅力的なところがあるけど、悟は正にそうね? 益々惚れそうよ」
「ありがとう。だからねえ、いいことなのか悪い事なのか分らないけど、少年の時の傷を、未だに引きずって生きているんだなあと思うと考えさせられるよね。でも、言えることは、親父が倒産してくれたお蔭で、人の心の本質が分ったようになったし、人の弱さや強さなんかも分るようになったと思えば、むしろ感謝しなければいけないと思ってるんだよ」
「そうね。物は取りようよね」
「それに、もし親父の会社が倒産していなければ、姉さんとは巡り会えなかったことだもんね」
「どうして、どうしてそうなるの?」
「俺は長男だから、跡取り息子だったんだよ」
「お父さんの商売は何だったの?」
「工務店」
「まあ、じゃあ悟が今やっている仕事と同じね?」
「そうだね。今頃は、田舎で工務店の親父でいたかもしれないよね」
「まあ、驚いた。人の生きる道って分らないわねえ、一寸先は闇ね。……じゃあ、こうして悟と会えたってことは奇跡なのかもね」
「そうだよね、そう言ってもいいかもしれないね。だから大事にして行きたいんだよね」
「いい話聞いた。とってもいい勉強になったわ」
「何だか、話があちこち散歩してる感じだね」
「そうね、だからいいのよ。面白いのよ。あら、お酒も飲まずに随分話し込んだわねえ、どうする? お酒飲む?」
「その前に例の話し合いは?」
「ちょびちょび飲んだら、すぐには酔わないから飲みながら話さない?」
「そうだよね、そうしようか。俺も少しは強くなったから大丈夫かもね」
「ちょっと待っててね。とっておきのワインを持って来てあげるね」
佐知代が奥に消えた。暫らくしてワゴンを転がしながら現れた。ワゴンにはグラスとつまみがあり、ボトルは氷と共に器に納まっていた。
「いやー、本格的になってきたね。まるでクラブの雰囲気だね」
「灯りはどうする? 今夜はロウソクじゃなくて天井の灯りを暗くしようか?」
「いいね。調光出来るんだ」
佐知代が調光器を調節して部屋を薄暗くした。
「取り敢えずこの位でいいかしら」
「そうだね。また後で調節しよう」
冷えたワインがグラスに注がれ、つまみがテーブルに置かれた。
「このワインは、とっても美味しいから、ついつい飲んでしまうから気をつけてね。肝心の話が済むまでは加減して飲むのよ」
「分った、で、この前はどの辺りで終わったんだっけ?」
「AさんとBさんの話よ」
「あ、そうか、『俺と姉さんが関係を持つことで、後悔するくらいだったらそれくらいは背負っていくよ。それが罪だと言うなら罪をそっくり背中におぶって生きていくよ。それより姉さんの喜ぶ顔が見たいよ。だから姉さんを亜希子と思って抱けばいいんでしょう?』と言ったような気がするけど、だった?」
「そうよ、で、姉さんが、『悟は事の重大さが分ってないみたいね』と言ったのよね?」
「だったね。そして姉さんは、『一旦関係を持つと一度きりという訳にいかなくなるのよ。そうなると結婚した後も関係を持ちたくなるでしょう?』と言ったよね」
「そう。言ったわね。だってそんな気持ちになるって、ごく普通のことでしょう?」
「そうだよね。最後に姉さんはこう言ったよね。『悟とたとえそういう関係になっても、悟の家庭を壊すなんて気持ちは全然ないし、むしろあなた方二人をいい意味で陰になり日向になって支え続けて行く気持ちには変わりないわよ。少し複雑なことだけど姉さんはやり通せる自信はあるわよ』って」
「そのつもりよ。誓ってもいいわよ」
「姉さんはさ、俺とそう言う関係になりたいと思ってるんだよね?」
悟はワインをぐっと口に注いだ。佐知代は一杯目を終えて、二杯めのワインを口にした。
「はっきり言ってそうよね。出来ればBさんじゃないけど、姉さんの願いを受け入れて欲しいと思ってるわ」
「あれから、いろいろ考えたの?」
「夜も眠れないくらいに考えたわよ。でも、いくら姉さんがそう思っても、ボールは悟の方に投げられているのだから、投げ返されるのを待つより仕方ないでしょう? どちらかと言うと、悟の方に複雑な思いがずっしりとのしかかっているんだもんね」
「そうだね。俺もあれからいろいろ真剣に考えたんだよ。いい加減な気持ちで考える訳にいかない問題だしね。そこで最終的に、懸念として浮上したことを、解決しておかないといけないと思ったんだよ」
「最終的な懸念とは何なの?」
「ざっくばらんに言うね? 今は関係を持つ前だし冷静さもあるから、理性の範囲で語っているけど、一旦関係を持つと、そうもいかなくなるのではと思うんだよね」
「と言うと? 姉さんが悟に狂ってしまって見境がなくなってしまって、最悪の場合、悟の家庭を壊してしまうんじゃないかという心配?」
「いや、姉さんのことだから、そこまではならないと思うけど、ないこともないでしょう?」
「はっきり言ってありません。姉さんは、そんなことをするほど馬鹿じゃないわよ。理性と良識の範囲で行動するつもりよ。誓ってもいいわよ。心配しないで。信じていいわよ。それよりも大事なことが一杯あるからね? 分るでしょう?」
「うん、良く分る。じゃあ、早い話、この前話したBさんの思いと一緒だというの?」
「そうよ。それ以上は望めないでしょう? と言うより望んではいけないことなのよ。悟は私の弟なのよ。その弟を苦しめたりしたくないわよ。絶対にね。それに仕事のこともあるし、そのバランスを取って生きて行かなければならないからね」
悟のワインを飲むペースが段々と速くなってきた。
「姉さん、このワイン、この前のとまた違う味だね」
「そうよ。どうかしら、前のワインと比べて口に合う?」
「うん、凄く美味いワインだね。ついつい手が行ってしまうね」
「だから言ったでしょう? 抑えながら飲みなさいって。……あら、もう顔が赤くなってるわよ。大丈夫?」
「まだ全然平気だよ。俺は、酒屋の前を通っただけでも顔が赤くなるんだから」
「フフ、下戸様のお通りだい」
佐知代は二杯めのワインが残り少なっていた。
「何だかこんな話って嫌だね。自分の心のままに姉さんを抱けないもどかしさがあって、しかも、こういう話をして、お互いが苦しんでるなんてね……」
「でも、私たち二人にとっては、絶対に避けて通れない話だし、お互いの気持ちの確認はしておく必要はあると思うわ。こんな話をするなんてアブノーマルな感じだけど、将来のことも視野に入れたら、今解決しておかなければならない、とっても大切な意思確認だと思うわ、……そうは思わない?」
「確かに姉さんの言う通りだよね。……でねっ? こんな話したら嫌われそうだなあ。幻滅と言われそうだなあ」
「何よ喉に引っ掛かったような言いかたして、この際、何でも語り合った方がいいと思うけど」
「そうだよね、……実はね、……困ったなあ。言うべきかなあ」
「言いたくなかったら無理して言わなくてもいいわよ。……でも、相当苦しんだみたいね。……それはそうよね。苦しまない方がどうかしてるわよね」
「何を言いたいか当ててみて」
「まあ、呆れた、自分から言いかけておいて、姉さんに振るなんておかしな人ねぇ」
「あはは、はい、悟は実におかしいのであります。姫君。……さあ、当てて見てください」
「うーん、そうねえ、この問題で悟にとって一番気に掛ることと言ったら、……やっぱり、亜希子さんのことだわね。愛する亜希子さんの心を絶対に傷つけたくない。……でしょう?」
「分ってるじゃない」
「そんなの当り前じゃない。この前からさんざん言ってきたことでしょう。姉さんが亜希子さんの立場だったら、亜希子さんと同じような考えだと思うわよ」
「どういう考えなの?」
「どんなことがあっても絶対に浮気はダメ」
「あれっ、それって矛盾してない?」
「何処が矛盾なのよ」
「だって、俺が姉さんと関係を持っったら、姉さんから見たら、俺は亜希子と浮気する事にならない?」
「バカねえー、私と悟は結婚していないでしょう? 結婚していなければ、亜希子さんと同じ立場じゃないでしょう? 分る? 言ってること」
「あ、なるほど、そういうことね。良く分った」
「しっかりしてよ、もう。……で、当ってるの?」
「あはは、ブーーでした」
「何ですって、そうじゃないの? じゃあ、何なのよ。いい加減に吐いたら? そしたら、すっきりするわよ。二人で考えれば解決するかもしれないでしょう?」
悟は、ワインを口にしながら佐知代の目を見た。佐知代も残りのワインをぐっと飲み干して空にした。
「実は亜希子に、例のAさんとBさんの話を、少し脚色して話したんだよ」
「まあ、亜希子さんの考えをそれとなく探りたかったのね?」
「あはは、参ったなあ、そうズバリ言われると返答のしようがないじゃない」
「悟も可哀想よね、姉さんの気持を叶えてあげたいばかりに、言わなくてもいいことを敢えて言わなければならないなんて」
「だよね。話し始めるまでは相当苦しかったよね。……ところが、ところがでした」
「勿体ぶっていないで、サッサと言いなさいよ、もう」
「驚くなかれ、亜希子の母親の廻りでも、そっくりなことが何年か前にあったみたいなんだよ」
「えっ、AさんとBさんのようなことがあったというの?」
「そうなんだよ、だからこの手の話って、意外と多いのじゃないかっていう話になってね」
「うんうん、それで?」
「亜希子は何と言ったと思う?」
「さあ、亜希子さんが若い頃の話よねえ。女の気持が分るかしらね」
「亜希子は母親からその話を聞いて、若いながらも、女の性について強烈な思いが全身に刻まれたみたいだよ。『その人の気持ち良く分るって』って言うんだよ」
「へーー、そうなの? 信じられない」
「俺もそう思う。……そして、『世の中には、男には絶対に分らない、女でないと分らないこともあるのよ』って言うんだよ。……どう思う?」
「亜希子さんて凄い人ね。普通だったらそこまでは言えないわよ。益々見直したわ、素晴らしい女性ね」
「えっ、それがどうして素晴らしい女性になる訳?」
「普通の女性だったら、母親からそういうことを聞かされても、心にも留めないでしょう? ふーん、そうなの? でなきゃ、そんなもんなの? で終わるんじゃない?」
「なるほど。それをしっかり受け止めて、心の片隅にしまい込んでいるところが素晴らしいという訳?」
「そういうことよ。彼女はそういう引出しを一杯持っていそうな気がするわね」
「そっかー、さすが、俺が惚れただけのことはあるなあ」
「そこで、おのろけ言ってどうするのよ、……それからどうなったの?」
「それからが傑作なんだよ。『何でBさんを抱いてあげなかったのかしら』と言い出して俺はびっくりしたよ」
「えっ、それってほんとなの? 嘘でしょう」
「嘘なもんかほんとだよ。俺もびっくりして、聞き返したぐらいなんだから」
「まあ、驚いた。中年のおばさんなら言うかもしれないけど、信じられないわ」
「ま、それから、どうしてそう言う気持ちになったのかなど、いろいろ突っ込んで話したんだよ」
「そう、いい会話だったわね」
「そうなんだよ、思わぬ展開になってしまって、彼女も言ってた、『たまにはこういう話をするのも大事よね』って」
「凄い人ね亜希子さんて。ほんとに大した女性だわよ、惚れ直したんじゃない?」
「だね、で、最後に何て言ったと思う? あれは感動ものだったね。心を打たれたね」
「興味あるわね。彼女は何て言ったの?」
悟はワインを口にした。
「俺は彼女にこう言った。『じゃあ、聞くけど、俺がその男性の立場だったらどうするかなあ。その男性と同じようになってたのじゃないかなあ』とね」
「そしたら?」
「こういうんだよ。『知ってる人で、多少好意を持ってるような人で、Bさんみたいに切実な思いをしているような人には、その思いを満たしてあげるのも大切なことよ』だって」
「まあ」
「俺が、『そのような場合は、かくかく云々でしたと報告すればいいんだね?』と言ったんだよ。そしたら彼女何と言ったと思う?」
「うんうん、面白そう。さあ何と言ったのかしらねぇ、楽しみ」
佐知代が核心に近づいていることを察して、身を乗り出してきた。
「あはは、大分興味があるみたいだね」
「当たり前でしょう? 滅多に聞けない話だもの」
「彼女曰く、『バカねぇーそんなの言う必要ないわよ。言わぬが花よ。聞かぬが花よ。そんな話聞いたら余計な心の負担になるわよ』だって」
「まあ、凄い何という人なの」
「さらに、こんなことまで言うんだよ。『好きな人と情を重ねることは、たとえ結婚とか何とかいうことじゃなくても、切った張ったの問題に発展しなければ、あってもいいのじゃないかしらと思うようになったのよ』……とね」
「……」
佐知代が悟の目をじっと見詰めた。
「さらに彼女曰く、『普通だったら、誰も振り向いてもくれないような年配者になってくると、そういう思いが募ってくるのは、誰にでもあるようなことだと思えるの。だから、願いが叶えられずに死んでいくなんて、あまりにも可哀想でしょう? そうは思わない?』……だってさ」
「うーーん、とても信じられない」
「これとは少し前に、別な話題で亜希子と語った時の話なんだけど、最後にこう言ったよ。それを聞いて俺は、彼女の凄さっていうか素晴らしさを肌で感じたね。そして、この女性と、一生を共にすることの喜びが身体中から湧き出た感じがしたね」
「彼女は最後に何と言ったの?」
「こう言った。『亜希子は、最終的に悟さんが亜希子の心を大事にしてくれて、その心に寄り添って生きていてくれたらそれで十分よ。身体は歳を取って、肌が衰えてシワだらけになって醜くなるけど、心はいつまでも歳を取らないでしょう? もちろん、亜希子の身体を、いつまでも抱いて欲しいと思うわよ。でも、それよりも、心をもっと大事にして欲しいわよ』と」
「……」
「そこで、俺は気になっていたことを言った。『……俺は秘密を持つことが嫌なんだよ』とね」
「そしたら?」
「彼女が言うには、『その気持ち良く分るわ。悟さんの素晴らしい考え方よね。……でも、不慮の出来事が起きて、そのことを大好きな人に明らかにすることが、いいのかどうかという問題はまた別だと思う。言わない方がいい場合もあるわよ。いい意味の秘密があってもいいと思うわ』だって、どう思う?」
「……」
「こうも言ったよ。『お互いが、良く相談しながら事を進めていかなければいけないと思うけど、結局は、亜希子は悟さんのことを、悟さんは亜希子のことを思いやりながら、自分の責任で物事に対処していくことも、とても大事な心構えだと思うの。それが、お互いを傷つけないで、いつまでも明るく楽しく暮らせる唯一の方法なような気がしてるわ。……早い話、悟さんにお願いしたいのは、どんなことがあってもいいから、死ぬまでアキに寄り添って生きてさえくれればそれでいいの。全て許してあげる』ってね」
「……」
「そこで俺が突っ込んだ。『……じゃあ聞くけど、例えば俺が浮気しても許すの?』そしたら、『……浮気でしょう? 本気じゃなかったら許してあげる』と、思ってもいない言葉が飛び込んできた」
「まあ、驚きね」
「彼女はさらに続けて言ったんだよ。『その代り、私には絶対に分らないようにして欲しいわね。これは、夫婦が上手くいく為のエチケットよね』と言うから、『ほんとにそう思ってるの? 浮気だよ。亜希子以外の女の人と付き合うってことだよ。セックスするかもしれないんだよ。いいの?』と言ったら、何と言ったと思う?」
「フフ、言って見て」
「驚かないでよ。『ええ、いいわよ。どんなことがあってもいいから、死ぬまで亜希子にぴったり寄り添って生きてさえくれれば、亜希子はそれでいいの。最終的に亜希子の元に戻って来てくれれば、亜希子はそれで十分よ。セックスがすべてじゃないと思ってるわよ。……でも、これは悟さんの為に言っておきますけど、浮気の弾みで、子供だけは絶対に作っちゃだめよ』とね。まあ思ってもいない返事が返ってきたんだよ」
「……」
「俺は少なからずびっくりした。彼女が、そんな考えをしているなんて、思いもよらなかったからね。彼女は最後の最後に、念を押すように俺に言ったよ。『何が一番大事かって、心ほど大事なものはないと思うわ。その大事な心が、私に向いていさえすれば、少々のことは許せると思うわ』とね」
「……」
「どう思う? この話信じられる?」
「悟、その話は口から出まかせでしょう? 自分に都合の良い口実をつくる為に、または、自分を無理に納得させるために作った作り話でしょう? そうに決まってるわよ。亜希子さんがそんなこと言う筈ないわよ」
「違うよ。作り話なんかじゃないよ。ほんとの話だよ。何だったら亜希子に聞いてみたら? そんな話したかって」
「バカねえー、そんなの聞ける訳ないでしょう? でも、それがほんとだったら、亜希子さんて、とても怖い人ね」
「怖い人とは思わないけど、そうだね。頭は切れるし何事にも積極的だし、理解力は抜群だね。ま、大人の女性って感じだね。佐代姉さんも似たようなところがあるけど、ああいう女性はまずいないね」
「顔もスタイルもいいし、言うことないじゃない。だから惚れたんでしょう? 羨ましいわね」
「そうだね。歳は離れているけど、俺には瓜二つの素敵な姉妹がいるようなもんだね。二人とも、理知的で超魅力的で、とても得がたい女性だからなあ、一生大事にしなくっちゃね?」
「二人もいるなんて贅沢だわね、あ~ぁ、私も、もうちょっと若かったらなあ、悔しいなあ」
「何言ってるんだよ、そんなこと今更悔しがっても、時間は戻ってこないんだから仕方ないよ。それより、これからのことを考えたほうが賢明だよ」
「そうよね言えてるわね。……でも思うんだけど、亜希子さんにいろいろ言われて、悟は逆に何もできなくなったんじゃない? いや、しちゃいけないと思うようになったんじゃないの?」
「確かにそれはあるよね。亜希子はそう言うけど、心の奥底では、そうなって欲しくない、と思ってるんじゃないかと思ったら、何だか辛くなってしまうよね」
「大概の恋人や愛人や、ましてやこれから結婚しようとする女性にとっては、そうあって欲しいと思うわよ。当たり前の話だと思う」
「だよね。だけど、彼女がほんとにそういう考えだったら、Bさんのような女性の気持に応えてあげないのは罪だ、みたいなことを言っている訳だから、複雑だよなあ」
「現実的に、Bさんのような女性って滅多にいる訳ではないからね。それに彼女が言っているように、条件付きの女性なら許すと言っている訳だしね?」
「条件付き女性って?」
「うん。誰でも彼でもということではなくて、知ってる人で、多少なりとも好意を持ってるような人で、Bさんみたいに切実な思いをしているような人。それに切った張ったの問題に発展しない人、子供は絶対に作っちゃだめ。と言うことでしょう? 亜希子さんは、そういう条件を備えた人だったら、相手の心情を考えてあげて、むしろ希望を叶えてあげるべきだと言っているのよね?」
「姉さん、まとめるのが上手だねえ。その通りだよね。それが結論だね」
「結論かどうかは、私が決めることじゃないから分らないけど、こうして整理してみると、亜希子さんが言わんとしていることが良く分るわよね。その上で、最終的に亜希子の元に戻って来てくれれば、亜希子はそれで十分よ、心だけは奪われちゃだめよ、……でしょう? 最後には言わぬが花よなんて、……泣かせるわね。ほんとに素晴らしい女性ね、亜希子さんって」
「そうかなあ。早い話、浮気でも何でもしていいわよ。最後には私のところに戻ってらっしゃい、……だろう? 何だか貴男なんかどうでもいいのよ、って言われているような気もするなあ」
「亜希子さんがそう思ってる筈はないわよ。それより、亜希子さんは、ほんとに悟のことを愛していると思う。悟のことを信じ切っているのよ。でなければ、そんなこと言える筈がないもの。そう思わない?」
「そう言われればそうだね。……なるほど」
「良かったね? アキ子さんの愛を再確認出来て。……良い結論になったわね。……満足でしょ?」
「余は大満足じゃ。あははは」
「また始まった。そうと決まったら、今夜は二人のお祝いをしよう。……でも、何だか嬉しくって怖いわ。どうしたら良いかしら?」
「姉さん、まだ全然平気だよね。酔ってないよね?」
「平気よ。飲んだうちに入らないわよ。だって大事な話だからセーブして飲んでたから。……悟は?」
「俺も平気だよ。……じゃあさ、予定してたけど没になった三回目の乾杯を復活させない?」
「えっ、あの口移しの?」
「そう。今だったら出来るよ」
「そうね、何だか少し興奮してるわ姉さん。ドキドキしてきた。ねえ、悟こっち来ない?」
佐知代は手招きした。悟は微笑みながら頷いて佐知代の隣に腰を下ろした。
「で、姉さんはどうしたらいいの?」
「うん、最初に俺に口移しして」
言いながら悟はソファに横になった。佐知代は悟の目を見詰めた。いよいよだという思いが身体中を駆け巡って来て、興奮を抑えられなかった。
「どうするのよ、分らないわ」
「ワインを口に入れて、俺とキスしながら口に入れるだけだよ。簡単じゃん」
「分ったわ。悟、とっても嬉しいわ。でも、念を押すけど、後悔しないわよね」
「大丈夫だよ。他でもない大好きな姉さんとキスするんだから、……姉さんも後悔しないんだね?」
「姉さんは後悔しないわよ、むしろ夢みたいよ」
「姉さん、凄い綺麗だよ。夢の世界にいるみたいだよ」
「……嬉しいわ、……悟、大好きよ…………」
「俺も同じ気持ちだよ。……じゃあ、ワインで乾杯だね」
佐知代はワインをグラスに含み、悟の横に腰を落とした。悟の口に自分の口をつけて、少しずつワインを悟に注いでいった。
「さ、今度は俺の番だね」
悟がゆっくりと起き上がった。代わって佐知代がソファに横になった。悟はワインを口に含み、佐知代の横に腰を落とした。そして、佐知代の唇を唇で塞いでワインをゆっくり注いだ。
佐知代の表情が変わった。アッと小さく言って、思わず悟の手を握った。その拍子に、ワインが佐知代の胸の谷間にこぼれてしまった。ガウンも濡れてしまった。
「あ、ごめん。こぼしてしまった。あ~ぁ、ガウンが濡れてしまった」
「ふふふ、一句詠むわね。……
躍る胸 こぼれて落ちて 流れ行く
愛という名の 絆のしずく
……あはは、やだ、駄作ね」
「あはは、こんな時に良く浮かぶよな。あはは、大したもんだ」
「ふふ、懲りずに、も一つ。
言ってるわ ワイン染まった ゆかた帯
思い焦がして 解けてしまえ
あ~ぁ、これって、意味不明だわね。私って文才がないわねえ。……悲しいなあ」
「あはは、でも、言わんとしていることは何となく分るよ」
「あら、そうなの? だと嬉しいけど」
「これで、無事、三回目の乾杯が滞りなく終了しました。おめでとうございます」
「滞りなくとは、ちょっと違うような気がするけど、ま、いいか。……そうね。おめでとうだわね」
「何をブツブツ言ってるのさ」
「フフ、……シャワー浴びて、ガウンを着替えて来るから、少し待っててね」
こうして姉と弟の契りが完成した。
佐知代は、言い知れない嬉しさがこみ上げてきて、目頭が熱くなった。悟、ありがとう。これからは、悟のことを本当の弟と思って一生大事にするからね。心から誓うわ。今夜のことは、生涯忘れることのできない、私の宝物になりました。
こうなった以上は、私の身も心も含めて、私の所有している全てを悟に捧げます。どうか、遠慮なく受け取ってください。お願いします。いつの日か、このことを書面にしたためて、、悟に渡す日が必ず来ると思います。
悟は、花岡貿易商事(株)改め、(株)TCH Japanの正社員となった弟の謙二と久しぶりに再会し、ハグして喜びを分かち合った。
「どうだ少しは慣れたか?」
「入社してまだ三週間だからな、ぼちぼちってとこかな」
「新体制になって社内の雰囲気はどうだ? 少しは良くなったのかな?」
「少しどころではないよ。激変したと言った方がいいね。社長も大張り切りだよ。みんな兄貴のお蔭だって、凄く喜んでるぜ」
「そうか、それは何よりだったな」
「社内は兄貴のことでもちきりだよ。凄い評判だぜ。いろいろ話聞いたけど、凄まじい研修だったみたいだな」
「それ程でもないよ。まだ、少し甘いかなと思ってるよ」
「相変わらずだな兄貴は」
「そうか、それは良かった。まずは第一段階は順調に滑り出したようだな。……ところで、リコとはうまくいってるのか?」
「楽しくやってるよ。付き合ってみて分ったんだが、ほんとに素晴らしい女性だな、兄貴が俺を脅して、付き合えって言ったのが良く分るよ」
「この野郎、俺がいつお前を脅したよ、……だけど、ほんとに理想的な女性に巡り合うのは、なかなか難しいからなあ」
「だよな。ほんとにそう思うよ。だから、兄貴にはほんとに感謝してるんだよ」
悟は謙二の耳元で囁いた。
「もう、……済んだのか?」
「えっ、何だって? ……あのこと?」
「そう、あれのことさ」
「あはは、良く言うよ。……あはは、お陰様でご馳走になりました」
「そっか、おーー、良かった、良かった。それでこそ俺の弟だ、……あははは、めでたし、めでたしだな」
悟は嬉しそうな顔で、思い切り大きな声で笑った。
「兄貴ったら、もう、呆れたなあ。……参ったなあー」
四月二十二日に、(株)TCH Japanの社員研修がすべて終了した。
一方、環太平洋建設(株)では、C&Tプロジェクトは業務終了を受けて、四月の末日に予定通り解散し、各自また元の部署に戻された。
その前の中旬に、早川は五月一日付の米国支店設立準備室の室長の辞令を受けた。
しかし、その時には既に浅田、田部井、島田の三人の姿を社内で見ることは出来なかった。
早川の周辺の何もかもが変化した。
あちこちで新しい出来事が芽吹き、次第に環境が変わっていくことに、少しばかりの侘しさを感じながらも、夢と希望に満ちた未来への始動を感じ、爽快な気分と充実した気分が身体中を駆け巡った。
これでやっと人生のスタート台に立てたと、新たな歩みに向かって気持ちを奮い立たせるのだった。
五月二十日の友引は、朝から晴れていた。悟と亜希子の結婚式が篠ノ井で行われた。
悟は、結婚式の会場を東京や鹿児島ではなく、あえて篠ノ井でするように心に決めていた。亜希子の晴れ姿を、近所の人達に見て欲しかったのである。
悟の弟の謙二は当然としても、田舎から姉夫婦が駆けつけてくれたが、母親は足腰が弱っている為出席できなかった
「姉さん、遠いところから出席してくれて、ありがとう」
「凄い綺麗な花嫁さんね。びっくりしちゃった。理知的な顔だし、悟、いい嫁さんを見つけたね」
「ありがとう。姉さんに誉めて貰うと、とても嬉しいよ」
「新婚旅行は鹿児島に行くんだって?」
「そうなんだよ。新婚旅行というより、おふくろに嫁さんを見て貰おうと思ってな。ほんとは、姉さんたちと一緒に帰ってもいいと思ったんだけどね」
「バカなこと言うもんじゃないよ、そんなこと言ったら、花嫁さんに叱られるわよ。じゃあ、私たちは一足先に帰って待ってるからね。それにしても素敵な花嫁さんだこと。田舎じゃ大騒ぎになるわよ」
「姉さん、大袈裟だよ」
「あ、それと、さっき謙二から聞いたんだけど、謙二は、花嫁の妹さんと結婚するんだって?」
「そうなんだよ。良かったなあと思ってる」
「兄弟と姉妹が結婚するのね。謙二も一時は、田舎に帰って姉さんの手伝いをしたいなんて言うもんだから、姉さんが叱ったのよ。そんな考えでどうするのよってね。……でも、良かったわ。……ほんとに良かった」
姉の真知子が目にハンカチを当てた。
披露宴での亜希子の花嫁姿は、近所の人達の羨望のまなざしの中、その美しさに驚いていた。亜希子の父親はその姿に号泣した 母親がせっせとハンカチを渡しながら、これもまた涙した。それを見た亜希子は、抑えていた気持ちがどっと溢れ泣き崩れた。悟がそっとハンカチを渡した
妹の真理子は、デジカメを持ち飛びまわっていた。嬉しさが舞い上がっているかのようだった。時々、謙二の方を振り向きながら、にっこりして手を振った。
謙二から会社の業績が急上昇の兆しがあると聞いて、悟は我がことのように嬉しくなった。
君子は、亜希子に駆け寄っては、良かったね、と幾度となく祝福してくれた。
会社からは郷田部長を始め、課長や主任達大勢が出席してくれた。
来賓の挨拶で郷田は、これまでの実績を交えながら、会社を担う期待の星として早川の将来性を高く評価した。
その話を聞いて、亜希子の父は我がことのように喜んだ。
岩田課長は、しきりにグラスを口に運びながら、頷きながらご満悦な様子だった。主任たちも、早川の晴れ姿を羨望のまなざしで見詰めていた。
ホテルのオーナー甲斐佐知代が花束を持って出席してくれた。この時の甲斐は佐代姉ではなく、ホテルオーナーとしての堂々とした振る舞いだった。甲斐に対して、会社関係者が一斉に頭を下げて挨拶した。甲斐は中央テーブルに腰を下ろしている早川に近づき、ビールを注ぎながら囁いた。
「フフ、やったわね、早川さんお幸せにね。彼女を大事にするのよ」
よそ行きの言葉は公衆の面前では仕方ない。
「ありがとうございます。お忙しいのにわざわざ足を運んでいただきまして」
早川も、会社のお客としての挨拶を交わした。
「何言ってんのよ。早川さんには、もっともっとお礼したいと思ってるわよ」
甲斐の言葉には真実味があった ほんとに感謝しているようである。
「花岡さん、おめでとう。良かったわね。とっても綺麗よ。また二人で遊びに来てくださいね。お待ちしています」
早川の隣に座っていた亜希子は、貫禄のあるオーナーに声を掛けられて緊張した。
「ありがとうございます。未熟者ですが、早川共々、これからも宜しくお願いします」
亜希子はもちろん、披露宴会場に来ていた全員が、このオーナーと早川悟の関係について知る由はなかった。
八王子の料理屋の主人が、大きなダンボールに山菜料理の具を入れて駆けつけてくれた。
「良かったらみんなで食べてください。早川さんにはいろいろ世話になりましたから、ほんのお礼代わりです」
「遠い所からすみません。遠慮無くいただきます。みんな喜んでくれると思います」
「早川さん、また来てくださいね。土産話お待ちしております」
「はい。ありがとうございます」
早川も亜希子も緊張気味ではあったが、終始笑顔で来賓を迎えた。
そして、披露宴が終わり、悟と亜希子は、大勢の人に見送られながら東京に向かった。都内のホテルで一泊して、次の日の早朝、羽田に行き空路鹿児島に向かった。母親を訪ねるためである。
新婚旅行は、てっきり海外だろうという大方の予想を裏切った。
当初の計画では、長野発の夜行列車に乗り、名古屋で乗り換えて、二人の奇跡的な出会いを演出してくれたレトロ寝台特急に乗り、鹿児島の地に向かう計画だった。だが、式が五月に早まったことにより断念せざるを得なくなった。この時期、レトロ寝台特急は運行されていなかったのである。
ホテルでは、ゆっくりする時間がなかった。昨夜遅くまで亜希子と会話していた為寝坊しそうになり、慌てて羽田に向かったのである。鹿児島に向かう空路、亜希子の美しい満面の微笑が、悟にはこの上なく嬉しかった。
機内で客室乗務員が持ってきた新聞を手にした。ホテルでは見る暇がなかった。
日本速報新聞の一面に、でかでかと書いてある黒文字の見出しを見て、悟は腰を抜かした。よりもよってこの日に、気にしていた記事が載るとは。
―― 国土開発大臣逮捕 贈収賄疑獄に発展か? ――
警視庁はかねてから、情報に基づき、贈収賄事件として関連の調査を続けていたが、確証が得られたとして逮捕状を取り、昨夜遅く、黒岩国土開発大臣の自宅を家宅捜査のうえ、関係書類を押収すると共に、任意同行を求め逮捕に踏み切った。大臣は大筋で事実を認めている模様。また愛知県警は、名古屋に本社のある東西国土建設(株)、並びに豊橋市の(株)佐藤建設資材の社屋に入り、関連書類の押収と共に、関係者を逮捕した。警視庁によると、東西国土建設(株)は贈賄と確認申請に絡む違法行為、(株)佐藤建設資材は、同じく贈賄による疑いで逮捕された模様である。関係者は大筋で事実を認めている。さらに、別件の殺人事件との関連も浮上するとみられており、政界を舞台にした、史上まれに見る大疑獄事件に発展する可能性が出て来た。また、大臣の逮捕で、内閣の動向が注目されるが、場合によっては、内閣総辞職に発展する可能性も出て来た。
早川はここを見なさいと言って、新聞をアキに渡した。そして、キャビン方向に走り、他社の新聞に目を通したが、関連する記事は掲載されていなかった。
こんな大きな事件が掲載されていないなんて、とても信じられない事である。一社の新聞が小さく報道しているだけで、何処を見ても見当たらなかった。日本速報新聞単独の、大スクープ記事だったのである。周りの乗客も、新聞のトップ記事に、目が釘付けになっていた。
「まあ、凄い事件ね。この記事がどうしたの?」
「我々の業界に関連がある事件だから、アキも見ておいた方がいいと思ってさ」
「そうね、それにしても怖いわね。贈収賄だなんて。そこまでしなくてもいいと思うけど、自業自得だわね」
「そうなんだよな、でも、そうせざるを得ない事情もあったんじゃないかなあ、ま、哀れと言えば哀れだね」
「そうよねえ」
「そこに、別件の事件との関連性も浮上するとみられる、とあるよね? 何だと思う? 別件って」
「……アキが分る訳ないわよ。悟さん何か思い当たる事でもあるの?」
「当ってるかどうかは分らないけど、一つだけあるね」
「えっ、どういうこと?」
「アキにも関係あるし、このことを、二人でホテルで語ったこともあるよ」
「えっ、うっそー、アキに関係あること?……えっ、あの、……あの列車の?」
アキは悟の目を注視した。
「そう。俺の勘に間違いがなければ、あの列車内の死亡事件と関連があるかもよ」
「車掌や浦上亮子とも関連あるのかしら」
「さあ、分らないけど、あると思うなあ」
「まあ、怖い」
「あくまで、当てにならない推測だから、ま、どうなるか楽しみだね」
悟は機内の天井を見つめていた。郷田部長はこの記事を、どういう気持ちで読んでいるだろうかと思った。
掃き溜めに鶴、ということわざがあるが、鹿児島の、小さな小さな町に降り立った亜希子の姿は、まさにそうであった。だが、いかにもみすぼらしい家の中に、一歩足を踏み入れた亜希子の取った行動に悟は驚いた。
姉夫婦とその子供たちを交えて、一段高くなった座敷の、古びた畳に正座していた母親の前に進み出て、亜希子は、両の手の三つ指を着いて深々と頭を下げた。続けて姉夫婦にも頭を下げた。そして、再び母親の方に向き、頭を畳に擦り付け、はっきりした口調で言った。
「亜希子と申します。どうか、よろしくお願い致します」
亜希子の武家の姫もどき挨拶に、母も姉夫婦も、思わず一斉に頭を下げた。つられて、子供たちも同様のしぐさをした。
「こんな田舎に良くおいでくださいました。ありがとう。ほんとにありがとう。こちらこそ、よろしくお願いします」
母の言葉には嬉しさがこもっていた。その目つきは優しさに溢れていた。
と、その時だった。亜希子がいきなり母に抱きついた。そして、激しく泣きじゃくった。
亜希子の取った行動が、どういう気持ちから来ているのかは分らないが、母はこの時、悟の嫁の人となりをはっきりと感じた。そして、この嫁なら、悟もきっと上手く世渡り出来るのではと、ホッとした気分になった。
亜希子は母親から身体を離し、一礼して、悟の座っている隣に戻った。
「こんな所で、何にもおもてなしできませんが、ゆっくりとくつろいでくださいね。遠い所だから、思うようにはいかないと思いますが、良かったら時々遊びに来てくださいね。楽しみにしてお待ちしています」
息子の嫁に向かって、母は、畳に手をついて改めて深く頭を垂れた。母の言葉に、亜希子はにっこり笑って「はい」と大きな声で返事した。
亜希子の人となりからすれば、何となく分らないでもないが、悟は、亜希子が何故、突然、母に抱きついて号泣したのかを、いつの日か聞いておきたいと思った。
悟には、田舎に亜希子を連れていった時の心配ごとが一つだけあった。それは、亜希子が、五右衛門風呂のことをどう思うかということであった。田舎の風呂が五右衛門風呂だということは、随分前に何かの時に話してはおいた。その時、亜希子は興味津々の顔でこう言った。
「まあ、面白そう。私も入ってみたいわあ」
「アキは、実際に見ていないからそう言うんだよ。実際に見たら、多分尻込みすると思うよ」
「アラ、そうなの? どうして?」
「壁には穴が開いていて、外から覗こうと思えば覗けるし。もっとも覗く人はいないけどね。……それに……、ま、説明しにくいから、見てのお楽しみということにしとこうか」
「えっ、風呂場の壁に穴が開いているの? 寒そうね。……でも、何だか楽しそう。山の中の温泉場って感じね」
「あはは、なるほど。ま、アキがどうするか楽しみだね」
最近のことだったが、姉の旦那から、いくらなんでも嫁さんが来るんだったら、壁の穴だけは塞いだ方がいいのじゃないか、と電話があったが、悟はその必要はないと言った。だが、姉の真知子がそのことを案じて、お風呂は、姉さんのところのお風呂にしたらと言った。その時も悟は、いや、亜希子の考えに任そうと言った。
その時がやってきた。五月の末ともなると、南国のこの地はもう初夏に近い。
母に促されて、亜希子は、縁側の突き当りにある風呂場のドアを開け、暫らく中を覗いていた。悟は亜希子がどういう行動に出るか楽しみだった。顔はニタニタ笑っていた。と、その時、またまた亜希子の口から出た言葉に驚いた。
「お母さん、一緒に入ってください」
驚いたのは悟だけではなかった。母親の顔がびっくりした顔になった。全く予期しない亜希子の言葉に、度肝を抜かれた。
「何てことを言うの? 風呂場は狭いし、こんなしわだらけの婆さんじゃ、面白くも何ともないでしょうが」
「いえ、初めてだし、入り方が分らないから、お母さんと一緒に入って教えて欲しいの」
「だったら、悟と入ったらいいじゃない?」
「いいえ、お母さんと入りたい。ねえー、いいでしょう? おねがい」
つい先ほど顔を合わせたばかりである。にもかかわらず、もうすっかり母と娘の会話である。母は悟の顔を見て嬉しそうだったが、
「真知子のところの風呂に入ってきたら? ここより少しは広いし、ゆったり入れるよ」
だが、亜希子は首を横に振った。とうとう、母も観念して、亜希子と一緒に風呂に入った。
およそ想像もつかない亜希子の行動に、悟は少なからず驚いたが、内心、亜希子の人となりに改めて魅力を感じた。母と娘の話し声や笑い声が聞こえてきた。
久しぶりに、母の屈託のない笑い声を聞いて、悟は、少しは親孝行できたかなと思うことだった。亜希子、ありがとう。また一つ、何故、母と風呂に入りたかったのか、聞く楽しみが増えた。
二人は、大阪で行われた君子の結婚式に出席した。ささやかではあったが、素晴らしい結婚式だった
そして、時が流れ、九月一日、悟と亜紀子は、サンフランシスコに飛び立った。
そして程なく、十一月初めのことだった。郷田部長から早川に電話が入った。郷田部長の声が、弾んでいるというより興奮していると言った方が正確である。
「早川君やったぜ。ついにやったぜ。凄いことが起ったぜ」
いつも冷静に話す部長にしては、言葉にならないくらいに興奮していた。早川は、おおよその見当はついていたが、部長が、どんな凄いことが起ったのかも言わずに、ただ興奮していることに、らしくないなと思い苦笑いした。
「コンペで入賞でもしたんですか?」
「バカ言え。入賞したぐらいで、柄にもなくこんなに興奮するかよ。第一位になったんだよ。優勝したんだよ」
「えっ、ほんとですか? そうですか。やりましたね」
「そうなんだよ。ついにやったんだよ。これは正に快挙だよ。これで我が社も、世界に羽ばたける基礎が出来たよ。早川君、ありがとう、ほんとにありがとう」
部長は、電話の受話器を耳に当てたまま、何度も頭を下げて喜びを爆発させていた。およそ信じられない光景である。その様子は、もちろん早川には知る由はないが、何となく、いつもの部長ではないなと可笑しくなってきた。
「そうですか。いやー、気にはしていたんですが、ほんと、良かったですねぇー」
「もう、会社は大変なことになってるぜ。社長の喜びようはなかったなあ。あはは、あんな社長の姿、これまで一度も見たことないよ。会社中が興奮のるつぼだよ。君に見せたかったよ」
「C&Tのスタッフだった連中も喜んだでしょうね?」
「それどころじゃないよ。俺に会議室に来てくれというもんだから、行って見たら全員が待機していてな? まあ、驚いたな。俺も会社勤めは長いけど、あんな経験初めてだったよ」
「えっ、何があったんですか?」
「胴上げされたんだよ。胴上げだぜ? 信じられないだろう?」
「余程嬉しかったのですね。目に見えるようです」
「たった今、胴上げが終わったばかりなんだよ。胴上げされながら君のことを思って、電話した次第だよ」
「そうでしたか、ありがとうございます」
「そこでだな、君との約束を果たしたいんだが」
「約束ですか?」
「何だよ、忘れたのか?」
「さて部長との約束ですか? 何でしたっけ?」
早川はわざと知らない振りをした。
「ほら、三月末の業務終了の時、記念撮影が終わった時に、君が俺に言ったじゃないか。約束してくれと。……覚えてるだろう?」
「ああ、思い出しました。でしたね。……するんですか?」
「するんですかじゃないよ。あの時は、俺の個人的な考えもあって、労に報いてあげようと思ったんだけど、社長の鶴の一声が飛び出して、会場を借りて大々的にやることになったんだよ」
「えっ、ほんとですか。それは嬉しいですねえ。スタッフの連中もきっと大喜びしてくれますよ」
「さっき、社長から聞いたばかりだから、みんなにはまだ言っていないが、それは喜ぶだろうよ。それより、金一封を俺の個人的な懐から出そうと思っていたが、会社が出してくれそうだから大助かりだよ、あははは」
郷田は豪快に笑った。郷田の報酬からすれば、金一封の金額なんか大したことではないと思うが、会社からとなると、同じ金額でも、スタッフの受け取る気持ちの上での重みが違うことは確かである。
「そうですか。部長と社長の顔が目に見えるようです」
「そこでだ、今月の十五日の木曜日にイベントをやることに決まったんだが、君も出席してくれ」
「えっ、私もですか?」
「当たり前だろう? 君が主役じゃないか。君のいないイベントなんて、やらない方がいいよ」
「はい。ありがとうございます。……でも、こちらに着任したばかりですし」
「だからいいんだよ。イベントの重要性を考えたら、今の時点では、そんなのは、どうでもいいことだとは言わないが、まだ、これからが長いんだから。……だろう?」
「はい、ま、そう言われればそうですが。と言うことになりますと、一時帰国しなさいと言うことですね?」
「そういうことだ。十四日にでも日本に着くようにして、十五日にイベントに参加して、十六日は出社して、個々に挨拶でもしたらどうかな? 次の週は、休暇にしたらいいじゃないか、奥さんも田舎に帰りたいだろうからな。そして、二十六日から、又そちらに勤務したらいいじゃないか」
「えっ、家内も一緒に帰ってもいいのですか? それに、そんなに何日も休暇をいただいていいのですか?」
「おー、そうだ。一位になったご褒美だと思えばいいさ。今の俺は、君の要望は、百二十%、いや二百%叶えてあげてもいいと思ってるぞ、あはは。こんな気持のいい気分なんて、一生のうちでも、滅多に味わえない快感だからなあ。あははは」
「とてもありがたいお話です。ありがとうございます。丁度、ホームシックになりかけていたところですので、嫁さんも喜んでくれると思います」
「多分、そんなことだろうと思って、休暇の件は、君よりも奥さんのことを考慮したつもりだけどな」
「ご配慮ありがとうございます。では、お言葉に甘えまして、そのような段取りで計画します。ほんとにありがとうございます」
「なーに、お礼を言わなきゃならないのは俺の方だよ、ほんとにありがとう。じゃあ、帰国を心待ちにしているからな?」
郷田との電話を切って、早川は思わずガッツポーズをした。亜希子も傍で聞いていて、スタッフがいなければ抱きついてしまうところだった。スタッフが早川に駆け寄ってきて、手を握り祝福した。それからが大変だった。ひっきりなしに掛って来るお祝いの電話に、てんてこ舞いになってしまった。
スタッフの計らいで、その夜、ささやかではあったが、お祝いの宴会が催された。
次の日中村純一郎から電話があった。
「おいおい、凄いことをしてくれたなあ。友人として、これ以上嬉しいことはないよ。おめでとう」
「えっ、どうして知ったんだよ。昨日、会社に連絡があったばかりだよ」
「例の内村さんが取り上げてくれたんだよ。今朝の新聞に大々的にな。凄い事になってるぜ」
「えっ、あの関東建設日報の内村さんが、記事にしてくれたと言うのかい?」
「そうなんだよ。普通は会社名だけが記事になるけど、何と、君の実名入りだよ。これで、君の名声も、いよいよ大きくなって行きそうだな」
「あはは、冗談はよしてくれよ」
「それにしても、頑張ったなあ。大したもんだよ。……あ、そうそう、内村さんからも、おめでとうと伝えてくれと、伝言があったぜ」
「そうか。ありがとう。俺の力は大したことないから、スタッフ全員が頑張ってくれたお蔭だと思ってる。……わざわざ電話ありがとう」
「いや、すまん。……わざわざじゃないんだよ。報告しておきたいこともあって、タイミングが丁度だったもんだから」
「えっ、と言うと? と言うことか?」
「そうなんだよ。君のお蔭で、近いうちに式を挙げることになったんだよ」
「ほんとかよ。……そっかあ、……おいおい、何言ってるんだよ、俺のことより、そっちの方がめでたい事じゃないか。イヤー、良かった、良かった。おめでとう」
「君だけは、どうしても式に出席して欲しいんだけど、アメリカじゃなあ、無理かなあ? だろうな」
「そうだなあ、なるべく都合つけるようにはしたいけど、無理かもなあ。彼女によろしく伝えてくれないか、おめでとう、良かったねって」
「うん、分った。じゃあな」
早川は、中村純一郎と浅田香織が、結婚すると知らされて嬉しくなった。
甲斐佐知代から携帯に電話があった。
「悟、やったわね、おめでとう」
早川は慌てた。そばで亜希子が聞いている。
「あ、オーナーいつもお世話になっています。はい、お陰様で、……わざわざお電話ありがとうございます」
早川の話しぶりに、近くにスタッフか亜希子がいることを察して、佐知代はトーンを変えた。
「連絡が遅くなって、ごめんね。今朝聞いたのよ。……それにしても大した男ね。あなたって見上げた男ね。水島も自分のことのように喜んでるわよ」
佐知代は、弟の悟の快挙を我がことのように思い、思い切りお祝いの言葉を言ってあげようと思っていたが、それが出来ないもどかしさを感じた。
「はい。ありがとうございます。水島さんにもよろしくお伝えください」
「日本には帰る予定ないの? 何かお祝いのイベントがあるんじゃないの?」
さすがに、こういうことにかけては察しがいい。
「はい。帰国しなさいと言う命令が出ました」
「えっ、じゃあ、そこを引き上げるの?」
「違いますよ。祝賀パーティーに参加する為の一時帰国ですよ」
「あ、そういうことね。亜希子さんも一緒に帰国するの?」
「その予定です」
「はい。分りました。帰国したら連絡して頂戴ね? 待っています」
「分りました」
環太平洋建設(株)が国際設計コンペで最優秀賞に輝いたニュースは、瞬く間に業界に知れ渡った。
その祝賀パーティーが、ホテルの大会場で盛大に行われた。会社関係はもとより、業界や経済界からも多数の参加があり、お祝いムードが天を突き抜けた。
早川は、一躍時の人となった。これまでの実績から、早川の名声は高かったが、これで、押しも押されぬ、不動の名声を得ることになった。
くしくも、祝賀パーティーの様子がテレビ放映され、早川の挨拶が全国に流された。若きヒーローの誕生に、テレビ局はスポットライトを浴びせ続けた。
サンフランシスコに再び戻った早川は、米国支店設立の為の調査を精力的にこなしていった。
亜希子の通訳士ぶりも板について来て、業務は順調に推移した。併せて、甲斐オーナーからの委託を受けた、ホテル建設の調査も順調にはかどった。
時々、甲斐が顔を出した。その度に悟は佐知代の指定するホテルで、夜遅くまで会話を楽しんだ。
そして、さらに時が流れ、サンフランシスコの街で、一つの命が誕生した。女の子であった。悟と亜紀子は、その子の名を小百合と名づけた
そして、二人は、そのおよそ一年後に帰国した。
早川の帰国で、目覚めたように再び会社はフィーバーした。まさに凱旋帰国であった。帰国と同時に、早川には管理部門の重要ポストが用意されていた。設計の実戦部隊から身を引いた形になり、早川には、いささかなじめないポストであった。
こうして、さらに一年後、早川は亜希子と約束していた予定の行動を起こした。会社に辞職願を提出したのである。
早川の突然の辞職願に、関係者は驚いた。会社にとって、かけがえのない人材が、……将来における期待の星が会社を辞める。その噂が、まさかの言葉と共に、社内を嵐のように吹き荒れた。当然ながら、郷田の驚き様は尋常ではなかった。人一倍期待をかけていた早川が会社を辞する? 青天の霹靂とはこのことを言う。
社内の情報が外部に漏れた事案で、早川は、リーダーとしての責任を口にし、一時は、ポケットに忍ばせていた辞表を差し出そうとして、郷田に制せられた経緯がある。国際設計コンペで一位を取れば、全てが免除されるという約束を、早川は、ものの見事にやってのけた。だから、そのことが原因ではない筈である。
この男には、通常の考えは通用しない、と常日頃から思っていながら、良かれと思って、帰国の際に、通常の考えのもとに重要ポストをあてがった。早川は、管理部門より技術者として働きたいと強く思っていた。郷田はそのことを良く知っていた。にも拘らず、管理部門のポストをあてがってしまった。郷田は早川の退職の原因はこれだと確信した。郷田は、自分の余りにも浅はかな考えを悔いた。もっと、この男の心に添って考えてあげるべきだったと、痛恨の思いが郷田の胸を締め付けた。
会社の重役達、特に郷田は粘り強く悟を説得し続けた。設計部門への復帰や報酬の大幅アップなどのアメをぶら下げた。だが、全社挙げての度重なる説得にも拘わらず、早川が首を縦に振ることはなかった。
早川が会社を辞めるというセンセーショナルな情報が、社内を飛び交うようになって、とうとう、会社が最も恐れていたことが起った。
その情報を聞きつけた若い社員が、早川のもとに再三足を運んだ。会社を辞めないで欲しい、もっと指導して欲しいと訴えてきた。挙句の果てに、自分を連れていってくれ、そして、一緒に仕事をしたい、と懇願するものが多数出てきて早川を困らせた。技術者として高度な技術を身につけ、早川みたいな人生を歩んで行きたい。優秀な人材ほどその願望が強かった。会社が恐れていたのはこのことだった。その度に早川は言った。
「こんな大きな会社にいる幸せをもっと考えた方がいいよ。俺の今後は俺にも分らない。君たちを連れていくことは出来ない。無責任な行動をとる訳にはいかないよ。ここで思い切り頑張ることだな」
こうして、早川は全社員に惜しまれながら円満退職した。
退職する時、会社から思いもかけない提案がなされた。外部の委託設計事務所として、契約を結んでくれというのである。過去にこのような前例はない。会社としては、早川のずば抜けた才能を、みすみすゼロにする訳にはいかなかった。役員会の議案に取り上げられ、特例として、特定の指定建築設計事務所の位置付けで、設計の委託をしようというものである。早川にとっては願ってもないことで快諾した。
さらに、驚いたことが起きた。早川が退職したニュースが業界紙に掲載された。目ざとい会社が、このニュースを見逃す筈がなかった。高待遇で重要ポストを用意するから、是非来てくれと懇願されたり、重役として迎え入れたいなど、ひっきりなしに早川との接触を繰り返してきた。だが、これも早川の意とすることではなかった。あっさりと断った。ならばと、数社の会社から設計の委託契約を結んでくれとの申し出があり、早川はこれには快諾した。
東京の賃貸マンションを借りて暮らし始めて一年余、悟と亜紀子の夫婦は、お互いの夢実現の為の準備に余念がなかった。
悟と亜紀子が、鹿児島中央行きのレトロ寝台特急の列車内で出会ってから4年目の秋、高層マンションのベランダから見る空は、雲一つなく晴れ渡っている。幼い小百合を抱いて、亜希子は悟に寄り添っていた。
「アキ、いよいよ俺たちの出番が来たぜ。俺たち家族の人生の始まりだな」
「第一幕が終了し、いよいよ第二幕の始まりね。これからが本番よね」
「そうだな。第一幕は何とか上手くやってこれたけど、第二幕は波乱があるかもしれないから、心して掛らないとな」
亜希子が大きく頷いた。
母親の顔を見て、小百合があどけない顔でにっこりと笑った。ぱっちりとした瞳の中に秋の空が輝いている。そのつぶらな瞳に母親も笑顔を返した。その顔は喜びに満ち溢れていた。
小百合が父親に抱かれたいと要求してきた。亜希子は微笑みながら小百合を悟に預けた。
悟は小百合を両手で天高く持ち上げた。悟の目の前で小さな足が揺れている。時折、両足を前後にバタつかせながら、娘は嬉しそうな顔をした。
暫くして悟は娘を肩車し、遠くを指差しながら何やら会話し始めた。指先の遠くで、蟻のように小さく見える人や車が、せわしなく動いているのが見える。
「パパ、あれっ」
覚えたての言葉を発しながら、細く小さな娘の手の指差す向こうに、飛行機雲が浮かんでいる。
「あれは、きっと夢を運んでるのかも知れないね。いつかみんなで、あの飛行機雲に乗って、おとぎの国へ行こうか」
もちろん意味なんか分る筈はない。
悟は、この小さな命が夢を追い求めて、大きく羽ばたいてくれることを願った。
「うん」
娘はコックリと頷きながら、父親の胸で、またも両足を前後にバタつかせながら嬉しそうな顔をした。悟は娘を再び母親に預けた。
そして、遙か遠くの大空に向かって背伸びをして、大きく息を吐いた。