□ 第五章 疑惑 ② □
設計一課の歓迎会や送別会、昇進祝いなどの行事は、大抵は座敷での宴会が多かった。しかし今夜の送別会は会社の近くのホテルで行われた。
会場の入り口のドアは開け放たれていた。幹事の若林がその入り口付近に立っていた。小さな紙袋を持ち、会場に来た社員に、中の紙切れを引くように促していた。紙にはテーブルの番号が書かれていた。くじで席を決めようという訳である。総勢約三十名が六つの円形テーブルに着いた。
こじんまりした会場の床は無地の赤いじゅうたんが敷き詰められ、壁はうすい若草色の唐草模様が幅広の縦じまのラインで囲まれている。心地よいリズム感がある。天井にはモダンなシャンデリアが場内を明るく照らしていた。演芸用の舞台はなくシンプルな会場である。円形のテーブルにはうすい枯れ草色のクロスがかぶせられている。テーブルの中央にテーブル番号のプレートが立てかけられている。
C&Tに配属になった早川、石川、桑原それに浅田の四人と課長は、予め席が決められていた。会場全体のほぼ中央付近のテーブルである。
テーブル番号の書かれた小さな紙片を確認しながら、それぞれ円形テーブルに腰を下ろしたものの、不慣れな顔で落ち着かない様子の者もいた。なんで、こんな所にしたんだという声が漏れてきた。いつもの会場が取れなかったのじゃないか。これじゃ酔えないなあ。まさかワインが出てくるんじゃないだろうな。
女性からは、座敷よりもいいわね、セクハラまがいのことがやりにくそうだからね、などとあちこちから小さな声が交錯した。それを察した芸能部長の若林が開会の挨拶で言った。
「大変お待たせしました。これから送別会を執り行いますが、その前に一言申し上げます。いつもの会場が塞がっていたことも確かにあるのですが、この会場にしましたのは、それが理由ではありません。ご存じだとは思いますが当ホテルは我社が数年前に……」
若林の横に立っていたホテルの支配人が、若林に向かって指を三本立てていた。
「あ、失礼しました、三年前に施工させていただいたホテルでございます。早川リーダーのもとに、我々が設計した渾身のホテルでございます。今でも色褪せてはいませんが、当時としては、かなり斬新なホテルということで、マスコミの大きな話題となりました。
私どもの親愛なる同胞でありました、早川主任をリーダーとするC&Tの面々の労をねぎらい送り出すには、最適な会場だと思いまして当ホテルにさせていただきました。当ホテルにさせていただいた理由がもう一つございます。当ホテルのホテル名はご存知ですよね。そうです、ホテル・コーラルタウンです。コーラルタウンのイニシャルは、C・Tです。偶然ではありますがC&Tなのです。これで納得いただけたでしょうか。料金についても、支配人様の温かいご配慮をいただきまして、破格の予算で行うことが出来るようになりました。何卒ご理解賜りますようよろしくお願いいたします」
大きな拍手が沸き起こった。幹事もなかなかやるじゃないかという声が漏れ聞こえた。
「さらに本日は特別に、横にいらっしゃる当ホテルの松田支配人様にお越しいただいております。是非ともご挨拶をさせてくださいという強いご要望がございましたので、これからお言葉を頂戴いたします。尚、私から申し上げても良かったのですが、本日の送別会の超目玉サービスがございます。直接支配人様からお聞きください。それでは支配人様宜しくお願い致します」
支配人は深々と頭を下げた。
「高いところから失礼いたします。ただ今、幹事の若林様からご紹介いただきました、当ホテルの支配人を務めさせていただいています松田正人と申します。本日は当ホテルをご利用いただきまして、誠にありがとうございます。また、日頃は当ホテルをご愛顧いただきお礼申し上げます。若林様から、座敷の宴会場はないかとのお問合せをいただいたのでございますが、あいにく宴会場は全て予約で一杯でした。やり繰り致しまして、何とかこの会場を確保できました。ご希望に添えず申し訳ないと思っているところでございます」
今まで不満顔の面々も、支配人の話を聞き、首を小さく縦に振り頷いていた。
「さて、私の方からどうしてもご挨拶させていただきたいと思いましたのは、当ホテルを手掛けていただいた皆様に一言お礼をと思い、若林様にお願いとなった次第でございます。私の願いを受け入れていただき感謝致しております。ありがとうございます」
支配人は低調に頭を下げた。
「当ホテルは先ほどもお話がございましたが、三年前の春にオープンしました。皆様もご存じのことと思いますが、当ホテルは斬新で卓越したデザイン、従来にない機能性と快適さはもちろんですが、全体のレイアウトがとても考えられないと、経済界や専門家たちの絶賛を博しました。記憶に新しいところでございます。このセンセーショナルな話題は、当時の業界紙をはじめマスコミを大いに賑わし、同業者でさえも度肝を抜かされ、いまだに語り草になっています。
早川様には開業から今日まで、度々当ホテルまでわざわざ足を運んで頂き、いろいろな角度から助言をいただいて参りました。お陰様で業績もとても順調に推移いたしております。客室の予約は半年先まで満室の状態が続いております。お聞きしたところによりますと、早川様はご自分の手掛けられた物件を定期的に訪問されて、実情がどうなっているかなどをつぶさに調査されているとの由、実に頭の下がる思いでございます。
何事にも熱心で、一つ一つに丁寧で、飾らない威張らない、まさに実直そのもののお人柄に、私個人としましても、とても尊敬の出来る方だと思っています。今では大ファンになりました」
場内がシーンと静まり返り支配人の話に聞き入っていた。
「競争の激しいホテル業界、ましてやこの新宿地区は特に激戦区でございます。そういう状況の中にありまして、当ホテルが、他のホテルを抜きん出て業績を伸ばすことが出来ていますのも、岩田課長様をはじめとする皆様方のご努力のお蔭と、心より深く思っておる次第でございます。ありがとうございます。この場をお借りしまして、厚く御礼申し上げます」
支配人は深々と頭を垂れた。
「本日は、そのような当ホテルに対する皆様方のご恩に報いるべく、とっておきのサービスをご用意いたしました。二つございます。一つは地方にお住いの皆様方のご親族様が、当ホテルをご利用いただいた場合は、超破格値でお泊りいただけるようにしたいと思っております」
場内がざわついた。同時に拍手が起こった。
「その件につきましては、成りすましをされても困りますので、一応、幹事の若林様を通していただければと思います。よろしくお願いします」
またも拍手が起こった。若林が両手で制した。
「えー、二つ目でございますが、本日の宴会は、お酒でもジュースでも、飲み物は全て飲み放題の大出血サービスをさせて頂きたいと思います」
ウォーという大歓声が上がった。割れんばかりの拍手が場内を渦巻いた。騒然となった。若林が再び両手で制した。
「ビール、お酒、焼酎、ウィスキー、ワイン、ジュース類など、当ホテルにございます飲み物に限りますが、何でも結構ですのでお申し付けください。中には何十万もするお酒もございますが構いません。こんなことを申し上げるのもなんですが、皆様方がどんなにお飲みになっても痛くも痒くもございません。皆様のお蔭で、大いに儲けさせていただいております。ですので安心していただいて、遠慮なさらずに、心行くまでお飲みいただき、そしてごゆっくりとご歓談お遊びくださいませ。私どもの担当の者が、精一杯のおもてなしをさせていただきます」
担当のバンケット係たちが一斉に頭を下げた。こういう場合、何故か心がうきうきするものである。顔、顔、顔が喜色一色である。
「実はずっと以前から、何らかの形でお礼をと考えておりましたのですが、図らずも本日、このようなことが出来ますことを心より喜んでおります。
……最後になりますが、少しばかり営業のお話で恐縮ですがお許しください。……今後このような宴会を催される際には、是非共当ホテルをご利用いただきますよう心よりお願い申し上げます。早めにご予約いただければ、座敷の宴会場も確保できますので、よろしければそちらの方も宜しくお願い致します。本日はほんとにありがとうございました」
支配人は深々と頭を下げた。同時に、再び割れんばかりの拍手と歓声が場内を埋め尽くした。静かになるのを待って若林が後を受け継いだ。
「えーー、それでは、続きまして、課長のお言葉をいただきたいと思います。課長お願いします」
岩田課長がほぼ中央のテーブルの椅子をずらして横に立った。
「今、飲み放題と聞いて心臓と胃がパクパクしています。ですから私の下手な話はほどほどにします。若林君の顔にもそう書いてあります」
場内の笑いを誘った。
「えー、実を言うと私の心は泣きじゃくっております。長い間一緒に仕事をしてきた四人が別なところに配属になり、私の心が淋しいよー、と泣いているのであります」
ほとんどが頷いていた。
「しかし、これも会社の命によるところですので致し方ありません。幸いにも、四人に会おうと思えば、エレベータを利用する程でもありません、階段を数十段駆け上がれば会うことが出来ます。四名の方も階段を数十段駆け降りれば私たちに会うことが出来ます。降りる方が簡単ですので、是非足を運んでください。お待ちしています。
さて、四名の方には、一課に在任中はほんとにありがとうございました。改めてお礼申し上げます。早川主任はリーダーとして、他の三名もスタッフとして、現在C&Tで大活躍されております。一課からこのような優秀なスタッフが選ばれたことに対し、課の長としてこれほど嬉しいことはありません。会社の一大プロジェクトですので、その労も大変なことだろうと推察いたしますが、健康に気をつけて、大願成就出来るよう心からお祈り申し上げます。頑張ってください。
今日はある意味淋しく、ある意味めでたい日でもあります。無礼講で大いに飲み、大いに語り合いましょう。私からは以上です。……ありがとう」
いつもの宴会の雰囲気と違った。課長の話に、場内がしんみりするのは極めて異例のことである。
「それではお待たせしました。早川リーダーからお言葉を頂戴いたします」
早川が岩田の席の隣に立ちあがった。場内の顔が一斉に早川に向けられた。早川は石川係長、桑原、浅田の三人を促し岩田の後ろ側に立たせた。
「みなさん、こんばんは」
早川は深々と頭を下げた。後ろに並んだ三人も頭を下げた。
「本日は私共の為に、かくも盛大な送別会を催していただき、ほんとにありがとうございます。まずもってお礼申し上げます。ご存じの通りC&Tが発足いたしまして、さほど時間は立っていないのでありますが、日増しに、お世話になった皆様のことが思い出され、淋しい思いをしております。課長からもお話しがございましたが、可能な時で結構ですので、是非五階まで遊びに来てください。お願いいたします」
早川の心遣いが優しかった。
「さて、先ほど、支配人様から過分なお言葉を頂戴して恐縮しております。浅学菲才な私としましては、何事も皆様方のご協力があってこその賜物と日頃より強く思っております。どうかこれからも、後ろに並んでいるスタッフ共々、温かい目で見ていただきますよう、心からお願い申し上げます」
早川の謙遜さは相変わらずである。
「先ほど、支配人様が飲み放題だとおっしゃいました。東京都内のこれほどの高級ホテルで飲み放題ですよみなさん。こんなことは、一生に一度あるかないかですよ、みなさん。私は、今日ほど下戸であることを悔やんだことはありません」
場内が一斉に爆笑した。
「支配人様は、どれだけ飲んでも、痛くも痒くもありませんとおっしゃいました。ならば、一課の意地にかけても、此処の酒蔵を空にしましょう。そしたら、支配人様に他のお客様から苦情が殺到するのは必定です。一度は支配人様の困った顔を見たいものですね」
場内の視線が、一斉に支配人に向けられた。支配人は終始笑顔だった。支配人は早川の話しぶりに、心底酔いしれていた。
「少し余計なことを申し上げたような気がします。……最後に、私ごとで恐縮ですが、私はご存じなように、呆れ返るほどの下戸でございます。顔が赤くなり目がウサギ眼になりましたら、交通信号の赤と同じです。止まれです。大阪ではこれをアカンといいます。お後がよろしいようですのでこれで失礼します。ありがとうございました」
拍手が暫らく鳴りやまなかった。幹事の若林も自ら手を叩き、鳴りやむのを待っていた。そして、バンケット係に手で合図した。各テーブルの各人のコップにビールが行き渡った。
「それでは大変お待たせしました、これから、乾杯の音頭と参ります。乾杯の音頭は、いつもは副幹事の立花君か係長にお願いしておりますが、本日は先ほどから嬉しいハプニング続きですので、乾杯の音頭も嬉しいハプニングといきましょう。本日は私の独断と偏見によりまして、素晴らしい方にお願いしてあります。……それでは登場していただきましょう。いまや、一課の可憐な花の一人です。イニシャルC・Tの田部井千鶴さん、どうぞ」
一斉に驚きの声が上がった。岩田も意外という顔である。乾杯の音頭を取るのに、女性が登場するのは初めてである。興味津々の顔が、ゆっくりと歩を進める田部井に注がれた。
口には二本のバラの花をくわえ、大きな睫毛に濃い頬紅、今にもフラメンコを踊り出すような出で立ちで、しゃなりしゃなりと登場したのである。課長の後ろでくるりと顔を正面に向けた。その格好に場内が唖然となった。その様をチラッと見て田部井は、口にくわえていた薔薇の花をやおら手に取り一礼した。
「皆さんお疲れさまです。C・Tの田部井でございます。あらC・Tと申しましてもC&Tではございません。私のイニシャルでございます。千鶴・田部井の頭文字でございます。……悪しからず」
何だか今夜の宴会は何が起こるか分らない。そんな予感がする。若林が芸能部長と言われる所以である。巧みにC&Tを意識して演出している。
「ご指名により、乾杯の音頭を取らせてもらいます。ふふ、初めてですので、どうなるか分りませんよ。責任は持てませんよ」
田部井は既に悦にスイッチが入っていた。会場はどうなるかと気をもむ者もいた。
「それでは行きますよ。C&Tに配属になった早川主任、石川係長、桑原さん、そして紅一点浅田女史様、今までお疲れさまでした。新天地でもしっかり頑張ってください。もうお会いすることもないでしょうが、……ふふ、間違えました」
会場がどっと沸いた。面白い。ヤジが飛び出しそうな雰囲気になった。
「もとい、またお会いすることもあるでしょうから、その時はひとつ、よろしく」
何という乾杯の音頭だ。だが面白い。ヤレヤレ、もっと喋ろ、語れ。田部井は目の前の浅田にウインクした。浅田は笑いをこらえているようだった。
「せっかくこういう格好で出てきましたので、乾杯の前に謎掛け問答といきたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
場内はもう完全に田部井ペースである。やんやの拍手とヤジで盛り上がってきた。ヤレ、ヤレーとはやし立てた。
「ありがとうございます。お言葉に甘えまして……、あら、ふふ、もとい、……ヤジに甘えまして、……それでは第一問です。……ここに二本のバラがございますが、このバラと掛けてなんと解きますか? 整った方は手を挙げてください」
なかなか手が上がらない。暫らく間があって島田京子が手を挙げた。
「あら、島田さんが整ったようでございます。……はい、島田さん、どうぞ」
「課長のハートと解きます」
終始ニコニコして雰囲気を楽しんでいた課長が、自分のことが出てきて驚いてみせた。思わず立ってしまい、右手の人差し指を自分の胸に向けてコレッ? と島田を見た。
「イェーイ、課長のハートと解きますと来ました。……その心は?」
田部井が手に持っていた薔薇の花の一本を、島田の立っているテーブルに投げたが届かなかった。床に落ちたバラを、近くの者が広い島田に渡した。島田は、そのバラを課長の方に向けた。そしてウィンクした。
「課がバラバラにならないように、いつも優しいハートで私たちを見つめていてくださいます」
島田の精一杯のおべんちゃらである。だが場内からは、歯の浮くようなおべんちゃらと思いつつも、言い得て妙という感じの雰囲気になった。間をおいて大きな拍手に変わった。岩田課長は、立ったまま破顔になり拍手した。余程嬉しかったと見えて、何度も手を振った。それを見てまた場内が沸きかえった。
「もう一丁行きたいのですが、よろしいでしょうか?」
大きな拍手が田部井に送られた。
「ありがとうございます。それでは第二問です。……私のこの大きな睫毛と掛けて何と解きますか? ……はい整った方は手を挙げてください」
目をつぶって、顔を天上に向けたり腕組みをしたりしていたが、なかなか手が上がらない。暫らく間があって浅田香織が手をあげた。
「あら、来賓の浅田さんが整ったようでございます。……はい、浅田さん、どうぞ」
「課長と美空ひばりの相々傘と解きます」
課長と美空ひばりの相々傘だって? 突拍子のない答えだな。課長は座ったばかりだったが、またも自分のことが出てきて驚いた。再び立ってしまった。そこに副幹事の立花が、あらかじめ用意していた番傘を持ってきて、課長に手渡したからたまらない。課長は思わずさっと番傘を開いた。あでやかな朱色に白い花柄模様が浮き彫りになっていた。すかさず、同じテーブルの横に立っていた浅田が、傘の中に入り課長と相々傘となった。田部井は、手に持っていた残りの薔薇の花を浅田に渡した。浅田はそのバラを課長の胸ポケットに差した。そして、課長の腕に自分の腕をからませ見上げてくすっと笑った。課長の顔は上気していた。大いに照れていた。場内の喝采とヤジは最高潮に達した。すかさず田部井が言った。
「イェーイ、イェーイ、課長と美空ひばりの相々傘と解きますと来ました。……その心は?」
浅田は腕を離して、課長の目を指差さして言った。
「課の全員が課長の睫毛で憩っています。……みんなとっても幸せで、愛燦燦でーす」
愛燦燦の歌詞からとってきたようだが、そのことを知ってるとか知らないとかは問題ではない。答えになってるかどうか、そんなことはどうでもいい。相々傘もどうでもよい。取って付けたような浅田のよいしょも、この際いいではないか。何よりもこの粋な演出を誉めてあげよう。アッパレなるかな女性達よ。浅田が答え終わって、さっと自分の席に戻った。上機嫌の課長の顔が、もう少しいてほしいと、未練たらたらの顔になった。またもヤジと笑いが沸き起こった。もうすでに会場全体がお祭り気分である。
と、その時、「アンコール」と叫ぶ者がいた。それにつられて、アンコールの大合唱になった。余程面白かったのだろう。乾杯の音頭でアンコール? 聞いたことがない。えっ、おいおい、乾杯の音頭はどこへ行ったんだ。課長の持っていた番傘を受け取りに来ていた副幹事の立花が言った。
「えーー、ただいま前代未聞のアルコール、あれ、うつってしまった、……、もとい、……アンコールの声が上がりました。田部井さん、どうなさいますか?」
「ここで引き下がっては、女がすたるというものでしょう。……ねェー、諸君」
そうだそうだの大合唱である。もはや、これからどうなっていくのか、神のみぞ知る展開になってきた。一滴の酒も入ってないのに、よくやれたものだと感心しきりである。田部井に、こんなひょうきんなところがあったなんて信じられない。と、誰かが呟いたが大合唱にかき消された。
「それじゃ、田部井さん引き続きお願いします」
「あまり長引きますと、待機していらっしゃる当ホテルの美女様達に悪いですし、何より、飲み放題の時間が短くなってしまってはいけません。これで最後にします。それでは最後の謎掛けです。……私のこの美しい顔にくっついている濃い頬紅と掛けてなんと解きますか? ……はい整った方は手を挙げてください。女性ばかりじゃつまらないですから、今度は男性陣の出番を期待します。……さあ、考えてください」
さすがに、もう考える者はなかった。誰が答えるんだと、お互いの顔を見合わせる始末である。だから、なかなか手が上がらない。暫らくたって幹事の若林が手をあげた。
「おや、幹事長さんが整ったようでございます。……さすがですね。はい、若林様、……どうぞ」
「こうなったら、とことん課長で行きましょうか?」
若林はみんなに同意を求めた。大きな拍手が同意を示した。
「ありがとうございます。それではお答えします。田部井さんの美しい顔の濃い頬紅と掛けて」
「ふふふ、あら、私の美しい顔? ……おっと、ここは強調するところね、……私の美しい顔の、……濃い頬紅と掛けて?」
田部井が割り込んできた。場内のくすくす笑いが聞こえる。
「課長の豊かなお腹と解きます」
田部井は来た来たと言わんばかりに、自ら今にも吹き出しそうになっていた。
「イェーイ、イェーイ、イェーイ、課長の豊かな胸、……もとい、課長の豊かなお腹と解きますと来ました。……その心は?」
「お腹の両脇に大きな頬紅を塗って、課長の腹芸を見たいと思います。今夜はハプニングのオンパレードです。……どうですか、みなさん?」
まるで答えになっていない。そんなのどうでも良かった。若林の緊急動議に、全員立ち上がって拍手しながら賛成した。
「はい。これで全会一致を見ましたので、課長は決議に従い、後で腹芸を実行してください。よろしいでしょうか?」
このお祭り気分に、完全に乗せられてしまった課長の顔は、喜色満面である。こうなったら、何でもやってやるという顔である。
「分った。全会一致ならありがたく引き受けましょう。……誰が俺の腹に紅を塗ってくれるんだ? 田部井君か?」
課長は田部井の顔を見て言った。期待の顔である。
「残念ですが課長、それは規則により、この議長つまり若林の役目となっております」
会場の盛り上がりは、このやり取りと、立て続けのハプニングに圧倒された。もうハチャメチャな展開になってきた。
「記録係は、ただいまの課長のご発言を記録しておいてください。はい、では田部井さん続きを」
浅田と島田と田部井は、さっきからじっと課長の顔を見ていた。若林に促されて田部井は我に返った。
「大変お待たせしました。先ほどから、コップの中でボーフラが泳ぎだしました。急ぎましょう。それでは、全員起立してください。よろしいでしょうか、両足を少し開いてしっかりと地面、……もとい、床に密着させて、腰は少し落とし加減にして安定させてください。但し、腰痛の方はその限りではありません」
大爆笑が起こった。だけど何で腰を落とさなければならないんだ? ……ああ、面白い。
「片手は腰に、片手はコップを持って、天井に着くぐらいに上げましょう」
天井に着く訳ないだろう。
「揃いましたか? それでは行きますよー。飲み放題です。今夜はハチャメチャに楽しくやりましょう。……皆さんの益々のご活躍を祈念して……乾杯!」
こんな楽しい乾杯の音頭は初めてだ。今までにない大きな声と歓声が、場内いっぱいに響き渡った。同時に、大きな拍手が田部井に向けて発せられた。田部井は一礼して、わざと胸を前に突き出し、頭を後ろにそらして左手を腰に当て、右手を目のあたりに上げVサインをし、大きな睫毛のついた眼をパチパチさせながらかっ歩して席に戻った。その様子が可笑しく、さらに大きな拍手喝采が起り、暫らく鳴りやまなかった。拍手は幹事の若林と副幹事の立花にも送られた。
全員が着席した。若林の雰囲気作りは大成功だった。拍手喝采が鳴りやむのを待って、若林がやおら言い出した。
「リプレイをご希望の方は、ビールを一気に飲み干していただき、立ってVサインをしてください」
驚くなかれ、全員が乾杯用のビールを一気に飲み干し、そして、一人残らず起立してVサインをした。
「それでは空になったコップに、またビールをなみなみと注いでください」
言われた通りにした。
「いきましたか? それでは、それぞれテーブルの中央を向いてください。先ほどと同じようにコップを高く上げてください」
リプレイというから、田部井のパフォーマンスが、もう一度見られるかと思ったが当てが外れた。しかし全員の顔が笑っている。いかにも楽しそうである。
「それでは行きますよ。ありったけの大きな声でお願いします。C&Tの皆さんのますますのご活躍を祈念して、……乾杯」
「かんぱーい」
乾杯を二度もやるなんて、これまた前代未聞である。楽しかったら、何度やってもいいじゃないか。
「閉会の挨拶も、楽しいハプニングを用意していますのでお楽しみに。但し、場合によっては中止になることがございます。……それでは、あとはご自由にご歓談ください。尚この宴会は、九時で終了となりますので、よろしくお願いいたします。ありがとうございました」
もう一度大きな拍手が若林に向けられた。
竹の高級割り箸が、パチパチという小さな音を発した。いよいよ宴会の始まりである。次々に料理が運ばれ、いろいろな種類の酒やジュースが各テーブルに並べられた。早川はこの時、浅田の言っていた作戦のことを考えていた。課長を酔い潰す作戦である。浅田は自信たっぷりに、私に考えがあるわと言った。浅田、田部井、島田、それに若林も交えた、巧みな仕掛けが、今進行中であるのではと思った。
支配人の計らいとはいえ、飲み放題とは考えたものだ。酒の量に限界があっては、作戦もおぼつかなくなる可能性がある。飲み放題なら、とことんやれる。二時間という時間帯の中で、乾杯までの時間を出来るだけ引き延ばして、飲み放題出来る時間を短くして、焦りの心境にさせるという作戦のようである。焦りの心が、短時間にアルコールを体内に注ぎ込んでしまおうと命令する。呑兵衛独特の心理を利用した、高等作戦と言っていいかもしれない。浅ましいとは言わないが、人間の心を巧みについた手とも言える。
短時間に体内に注ぎ込まれたアルコールは、容赦なく脳の麻痺を促し続ける。ビール、お酒、焼酎、それにワインを代わる代わる体内に入れたらどうなるかは明らかである。どんな酒豪でもひとたまりもない。さてさて、どういう作戦が展開されるやら実に楽しみである。
かの課長は終始上機嫌である。明らかにいつもよりペースが速い。テーブルには、課長の右隣に早川、左隣に石川係長、その隣に浅田、さらにその隣に桑原の順に座っている。だから、早川の右隣は桑原である。席と席の間には、それぞれ背もたれのない椅子、スツールが置いてある。通常は設けない空席である。充分に歓談出来るようにという若林の計らいである。石川係長がしきりに課長にビールを注いでいた。
宴会も中盤に差し掛かった。一通り腹ごしらえが済むと、人の動きに徐々に乱れが生じ始めた。テーブルを離れて、他のテーブルで談笑しながら酒を酌み交わす。そしてまた次のテーブルへと移動する。テーブルには、まさにありとあらゆる酒とジュース類が座っていた。
早川のところにも、立ち代り入れ替わり社員が挨拶に来た。下戸をよく知っている社員たちは、ジュースやウーロン茶を持ってきた。技術的なことや物の考え方など、早川に随分教えられた連中ばかりである。離れることへの哀愁が、どうしても付きまとってしまう。だが逆に早川は、若いスタッフに対し激励を投げかけて頑張るように促した。
「課長、そろそろ好きな焼酎にしましょうか?」
石川がご機嫌を伺っている。
「バカ言うなよ、焼酎はいつでも飲めるよ。ブランデーかジョニ黒が飲みたいなあ」
普段クラブなどでしか飲めない酒を飲みたかった。
「オンザロックでいいですか?」
「そうだな頼むわ」
石川はバンケット係のところに足を運び、ジョニ黒のオンザロックを課長席まで届けるように頼んだ。まさか、これが合図だった訳ではあるまいが、それとも、偶然が重なったのかも知れないが、若林が課長の横の空き席に座りこんだ。
「課長、今日はお疲れ様です。ま、一杯どうぞ」
若林はビールをコップに注いだ。
「おーー、幹事長か、いやァー、今日ほど愉快な日はないね。君の段取りの仕方は凄いね、見直したよ」
課長は一気に飲み干し、若林に返した。
「ありがとうございます。さ、どうぞ、それと課長、腹芸の方お願いしますよ、みんな期待していますから」
若林は空いたコップにビールを注いだ。
「おお、そうだったな、分ってるよ。やるよ、やるよ」
「その時間になりましたら、お呼びしますからお願します」
若林は席を離れた。ジョニ黒のオンザロックが到着した。茶褐色の液体を舐めるように口に注いだ。
「いやー、たまらんねこの味。旨いね」
田部井がワインボトルを手にして、課長の右隣のスツールに座った。早川の左隣である。
「おおー、田部井君。君の乾杯の音頭世界一だったよ。乾杯の音頭はあれでなくちゃだめだな。野郎どもも見習わなくちゃだめだな」
「ありがとうございます。課長、おいしいワインをお持ちしたんですけど、お飲みになります?」
田部井は化粧直ししていて、乾杯の時の顔は微塵もない。ほろ酔い気分の頬ほんのりの美人の顔を見て、ワインを拒む理由はない。
「おー、いただこう。……ありがとう」
田部井は持ってきたワイングラスに、なみなみとワインを注いだ。課長はグラスを手に持ち、グルグル液体をかき回して香りを嗅いだ。そして一口飲んで言った。
「うーん、美味しいなあ、これ何という銘柄?」
「私も良く分らないのですが、進められて飲んでみたら、とっても美味しかったものですから、課長にどうかと思いまして、お持ちしました」
「そうか、そういう心遣いが実に嬉しいねえ。いやいや、ありがとう」
「課長、もう少し傍にいていいですか?」
「おーー、いいとも、いいとも。隣の早川君にもすすめたらどうかね?」
「でも、主任さんは、もう目がウサギ眼ですよ。アカンのでしょう?」
早川の方を振り向いて、田部井は意味ありげに笑った。早川は右手でグラスに蓋をした。
「せっかくの美人のお酌を断るなんていけませんね。……私はもういけないんです」
早川のダジャレが受けてしまった。大笑いとなった。岩田課長はジョニ黒とワインを変わりばんこに飲み始めた。すこし酔いが回って来始めた感じである。
「課長、もう少しいかがですか?」
田部井が課長に勧めた。課長はグラスを開けた。そしてまた、田部井のボトルからワインが並々と注ぎこまれた。すぐそばで見ていた早川は、この田部井らの作戦が徐々に功を奏していることを実感した。課長の左隣に男性社員が来てビールを注いでいった。この時、同じテーブルの浅田は、島田の席でチラッチラッと課長の方に視線を動かしながら談笑していた。田部井が課長の隣の席から離れるのを確認して島田が足を運んだ。早川に会釈して隣に座った。
「課長さん、今日はお疲れ様です。腹芸をご披露していただけるなんて、とっても楽しみですわ」
その気もないくせに、よくもしゃあしゃあと言えたもんだ。
「おいおい、そんなに期待するなよ。若い頃は良くやったけど、もう歳だからなどうなることやら」
「何をお召し上がりになります? 美味しいお酒もありますよ。飲み放題っていいですわね。何でも味わえて」
「だよなァー、毎回こうありたいねェー。ところで、お酒はどこのお酒かい?」
この課長は、根っからの酒飲みである。飲み放題といわれた上に、課の若い子に勧められて嫌とは言わないところがエライ。
「新潟の大吟醸酒ですよ、とっても美味しいですよ」
「君もいける口かい?」
「どちらかと言いますと、やはりお酒がいいですね。少しくらいならいけますが、今日はもう大分いただきましたから」
「そうか、じゃあ、そのお酒を頼んでくれないか」
「お冷になさいますか? それとも熱燗にしましょうか? 熱燗の方が美味しいみたいですよ」
「そうか、じゃあ、熱燗で頼むわ」
「はい。すぐ持ってまいります」
島田が入り口付近に退いた。
「早川君、いろいろありがとう。考えてみれば、こうして美味しいお酒が飲めるのも、君のお蔭だよな。ありがたいことだな。……うん」
岩田課長がしんみりとした口調で話しかけてきた。
「何をおっしゃいます。全て課長の人徳の賜物ですよ。私こそ、いろいろ可愛がっていただきありがとうございました。今後も宜しくお願い致します」
「だけど、……やっぱり淋しいなあ」
「課長、……ま、一杯行きましょう」
ビールを注ぎながら早川は、課長の淋しげな顔を見て、今夜はこの人と最後まで付き合ってやろうかと思ったりもした。管理職ゆえの孤独感は早川も同じ思いである。
島田が新潟産の大吟醸酒を熱燗にして持ってきた。
「お待たせしました。はい」
「ありがとう、じゃあ、戴くかな」
岩田はぐっと口に注いだ。
「いやー、こりゃまた旨いねぇー。極楽だね」
「もう一杯持ってきましょうか?」
「うん、いいねえ、そうしてくれるか?」
課長の前には、ビール、ジョニ黒、ワイン、熱燗が並んでいた。より取り見取りである。代わる代わる口に注ぐ度におかわりが来た。大分酔いが回ってきたことが分る。島田が熱燗のおかわりを置いて席を離れた。
「課長焼酎じゃないんですか?」
右隣に社員がきた。
「バカ者。こんな高級ホテルで焼酎なんか飲めるか」
「いえ、課長、これはあの有名な幻の焼酎ですよ」
「なんだと、幻の焼酎だと?」
「はい。森伊蔵です。まず滅多に口にすることは出来ません」
「なに? ほんとかよ」
「ほんとです。ほんとは一人占めしたいくらいです」
「バカ言うな。それは許さん、すぐ持ってきてくれ」
「生で飲まれます? おいしいですよ」
「それはそうだろう、お湯割りや水割りじゃ勿体ないだろう?」
これがいけなかった。最悪である。
早川は用を足しに席を立った。宴たけなわとは、まさに今のこの様子をいうのであろう。みんな、残り少ない時間を飲み放題と格闘していた。用を済ませてドアを開いて会場に入った、その時、若林に呼び止められた。早川は、テーブルに陣取っていた連中に会釈して、若林の隣に座った。この席からは課長の席が真正面に見える。
「主任いや失礼、リーダー、お疲れ様です」
「いやあ、ご苦労さん、大変だね宴会を取り仕切るのは」
「いえいえ、こんなことをするのは嫌いじゃありませんから」
「宴会の場の盛り上がりを、あそこまで段取りするとは、若林君の力量を改めて思い知らされたよ」
「あは、お褒めいただいて、ありがとうございます」
「見事なもんだね。特に支配人のあの言葉、身に染みたよ」
「ですね。名演説でした」
「それに、田部井君の演出たまげたよ。彼女にあんなキャラがあったなんてねえ、とても考えられないよ」
「実は、私も驚いているんです。乾杯の音頭は、やはり慣例からいって男性だろうと思っていたのですが、これから考えを改めなければいけませんね」
「そのようだね。それにしても、やるねェー彼女。感服の一言だね」
「私も驚きました」
「どうして彼女にしたの?」
「いえ実は、島田君から話があってですね、乾杯の音頭はいつもつまらないから、たまには面白くしませんか? と持ちかけられたんですよ」
「そうなんだ、島田君からねェー。……うん。それで?」
「ええ、私は宴会の度に、場を盛り上げるには、どんなことをしたらいいかなあとか、誰にやってもらおうかなあとか、いろいろ考えてるんですよ」
「さすが芸能部長だな」
「あは、それで、たまたま今回島田君の提案を聞いて面白いかもと思って乗ったんですよ。乾杯の音頭は、いつも男性ばかりでやっていますし、型通りでちっとも面白くないでしょう? たまには女性もいいかもと思いまして」
「島田君から、乾杯の音頭を田部井君に、という話が提案されたという訳だ」
「そうなんです。最初、田部井君? と思ったのですが、段取りの打ち合わせしてる間に、なかなか面白そうだなと思いまして、思い切って彼女にしてもらうことになった、という訳です」
「それが、バカ受けの大喝采となった」
「そうなんですよ。私もびっくりしました。あそこまでとは、想像だにしませんでしたよ」
「謎掛け問答も、全然答えが出ないことを予想して、予め誰にしようかと順番を決めていたんだ」
「おっしゃる通りです。場が盛り上がりさえすれば、答えなんかどうでもいいのです」
「課長を主役にしようというのも、田部井君の提案?」
「そうなんです。いつも世話になっている課長を主役にすることで、課長もきっと喜んで貰える筈だし、場が盛り上がるんじゃないかって言うんです」
「思った通りの展開になった訳だ」
「いやー、それ以上でしたよ。こういう予定で行くから番傘とか小道具を用意しておいてくれと言われた時は、何をやらかすんだと思ったくらいですから」
「病み付きになりそうだね。乾杯の音頭は、これから彼女にしてもらおうと?」
「ところが、彼女から今回限りですからね、と強く言われましたよ」
「そう、ところが、これ以上ない幹事冥利を味わってしまった芸能部長としては、未練たらたら?」
「そ、そうなんですよ。第一みんなも、この面白味を味わった訳ですから、先が思いやられますよ。かえって困ったことになってしまったと思ったりもしています」
「あはは、だけど大丈夫さ、何とかなるさ」
「そうあって欲しいですね」
「田部井君みたいな人を彼女にしたら、さぞ面白いだろうね。今日みたいな恰好でデートでもされたらたまらないけどね、あはは」
「彼女には既にれっきとした彼がいますよ」
「へェー、この中に彼がいたりしてな」
早川はわざと目の前で談笑中の社員を見ながら言った。内心では、全然思いもかけない田部井の彼の話が出て、少し興味を覚えた。ゴシップに関する情報収集は、もう出尽くした感もあるし、社内データの漏洩者は、最終的にはプログラムが割り出してくれる筈だということもあり、送別会での情報収集は諦めていた。それより宴会を楽しもうと考えていたのである。
「いえ、いえ、リーダーのお膝元ですよ」
「えっ、お膝元? C&T?」
早川はわざととぼけた。
「ええ、そうです」
「ほんとかよ。灯台下暗しとはこのことだな。俺はそういうことには無頓着だからな。あはは」
「誰だと思います?」
「そんなの分る訳ないだろ? 問題を起こさない限り、社内恋愛は自由だからな。深く静かに進行中ってとこだろ?」
ここは一番、全く知らん存ぜぬふりをすることだ。
「それが、少しばかり問題があるかもしれませんよ」
「どう問題があるんだ? たかが恋愛だろ? あんな可愛い子を泣かしたとか?」
「いえ、そんなことじゃないんです」
急に若林の声が小さくなった。課長の席では、浅田が何やら課長と話し込んでいた。遠目に見ても課長は明らかに酔っていた。しかもそれは、かなりなもののように見えた。
「それがですね、もっぱらの噂なんですが、新宿とか渋谷とか池袋界隈を、毎晩のように飲み歩いているんですよ」
「誰なんだよそいつは」
他の者は、二人の会話は気にしていない様子だった。若林はさらに小さな声で言った。
「野田係長です」
「そうか、彼は呑兵衛だからなあ、ま、仕事に影響がなければいいんじゃないかな」
「しかし、ま、私よりは給料はいい筈ですが、それにしても、毎晩のように飲み歩くなんて、とても出来る筈がないと思うんですよ」
全く同感である。
「実家が資産家かなんかなんだろうよ。よくある話じゃないか」
「いえ、実家の親父さんは、普通のサラリーマンだそうです」
「親父さんは普通のサラリーマンでも、代々受け継いだ資産が別にあるとか考えられないか?」
「それもないみたいですよ」
「じゃあ、まさかカードの使いまわしか?」
「いえ、それもないみたいです」
「だったらツケで飲んで、給料日に少しづつ返してるんだろうよ、きっと」
「あのー、少し気になる話を小耳にはさんですが」
「うん?」
「高津君のことですが」
「お、今度は高津君のことか?」
「ええ、調べたほうがいいと思いますよ」
「どうしてだ? 何を調べるんだ?」
「高津君から野田係長に金が回ってるという話です」
意外な情報である。なるほど、考えられないことはない。ある意味、盲点を突いた有力な情報である。だが、今ここでは問題にするべきではない。
「あはは、若林君、それは考え過ぎだよ。単なる噂だよ、だって、高津君の家だって裕福とは思えないけどなあ」
「そうなんですよ。やっぱり噂話ですかね」
「そうに決まってるよ。……それにしても、田部井君が野田君と付き合っていたとはなあ、驚いたね、羨ましいなあ、あんな綺麗な子とねぇー」
早川はわざと話題を変えた。
「リーダーはどうなんですか? 浮いた話を全然聞かないんですけど」
「やめてくれよ。今の俺の状態で、彼女なんか作れると思ってるのかい?」
「それもそうですね、それどころじゃないでしょうね。リーダーも考えてみますと可哀想な人ですね」
「おいおい、話をそっちに持っていくのかよ。俺だって男だから、恋の一つや二つしたいよさ、だけど、今はその話は禁句だね」
「ですね。失礼しました」
「どうでもいいことだけど、芸能部長の君には、この類の話は、いろいろ飛び込んでくるんだろうね」
早川は、もはや新しい興味のある情報は出ないだろうと思いっていたが、それとなく探りを入れてみた。
「そうですね、いろいろ聞いていますが、みんな純で真面目な話ばっかりですよ。さっきの話を除いては」
「そうか、君はどうなんだね、モテるんだろ?」
「アハ、私なんかどうしようもないですよ、モテなくて」
「付き合ってる人はいないのか?」
「いませんよ。残念ながら」
「そっかあ、合コンなんかやってるんだろ?」
「ハー、ま、時々はお誘いがあるんですが、余り気乗りがしなくて」
「どうしてだ?」
「合コンに来るような人は、どうもしっくりこないんですよね。理由はないんですけど」
「うんうん。何となく分るような気がするなあ」
「リーダー、いい子がいたら紹介してくださいよ。リーダーの目に叶った子なら安心ですからね」
「おいおい、当のこの俺がもたもたしてるのに、紹介も何もないもんだよ」
「ですかね、残念ですね」
「ま、気には掛けとくよ。だけど当てにしないでな」
「よろしくお願いします」
「それはいいけど、そろそろお開きじゃないのか?」
「そうですね。リーダーは、この後予定はあるんですか? 良かったら、我々と二次会に行きませんか?」
「悪いけど課長に誘われてるんだよ。ごめんな、それとも課長も誘う?」
「いえ、課長も一緒じゃあ、ちっとも楽しくないですよ」
「あはは、そうかもな、俺もそう思うんだけど、俺の立場じゃ断れなくてな、せっかくのお誘いだけど、すまんな、みんなによろしく頼むわ」
その時、若林がニタリと笑ったのを早川は見逃さなかった。
若林は急いで岩田課長のところに走った。そして、ふらふらと足元のおぼつかない課長を、別室に連れていった。
副幹事の立花が口を開いた。
「えーー、宴たけなわのところすみません。もうそろそろ、お開きの時間なのですが、その前に、最後の嬉しいハプニングをご披露していただきたいと思います」
もうすでにフラフラの者もいれば、顔を真っ赤にしてまだ飲み足りない様子の者がいる。最後の出し物がなんであるかはみんな知っている。一段と大きな声で立花が言った。
「大変お待たせしました。準備が整ったようです。先ほど議決をいただきました、課長の腹芸をご披露していただきます。すみませんが、テーブルを動かしていただいて、課長が思う存分動けるようなスペースを作ってください」
それぞれのテーブルが移動し、真ん中にスペースが出来た。
「それでは、お願いします。課長どうぞ」
若林に連れられて課長が現れた。でっぷりとした腹のへその両サイドに、二つの大きな朱色の丸が塗られていた。女子社員は、何かグロテスクなものを見るみたいな素振りで目をそらした。かなりのへべれけ状態である。誰が見ても、これでは腹芸は無理だと思った。立花の合図で音楽が鳴りだした。課長は腹を突きだして腰を振りだした。やんやの喝采が音楽と共に鳴り響いた。暫らくの間、静かでゆったりしたリズムが繰り返されていた。課長の息遣いがだんだん大きくなり苦しそうである。音楽が一転して激しく、そして早くなってきた。課長の顔は、今までにない必死さになり、すごい形相と化した。その瞬間、課長の大きな身体が、赤いじゅうたんの上によろよろと沈んだ。仰向けになったでっぷり腹に描かれた二つの大きな朱色の丸が、激しい息づかいと一緒になって踊っていた。暫らくして、若林の合図で数人で課長を起し別室に運んだ。
早川は、何か恐ろしい光景を見たような気がした。課長の腹芸は過去に何回か見ている。似たような光景はないことはなかった。しかし、今回の場合は、裏に隠された計画的な女の執念を、まざまざと見せつけられたような気がして、何とも言えない思いが頭に宿った。
宴会は関東一本締めで終了した。かってないほどの盛り上がりで、みんなの顔には満足感が溢れていた。後から聞いた話だが、結局課長は、暫らくホテルに残り、支配人の世話になってしまった。そして、タクシーで家路に向かったという。
早川は、若林に誘われて二次会に行ったが、途中で抜け出して、浅田と約束した喫茶店に足を運んだ。
既に十時を回っていた。落ち合う場所の喫茶店に到着し、店のドアを開いて中に入った。静かな曲のクラシック音楽が耳に入った。席は七割ほどの客で埋まっていた。しかし、浅田らの姿はなかった。場所を間違えたかなと思い、ワイシャツのポケットからメモ書きを見た。やはりこの店に間違いない。彼女らも遅れてくるみたいだ。なかなか抜け出せないでいると見える。と、その時、ウェイトレスが早川の方に近づいて来て言った。
「間違ったらごめんなさい。早川さんでいらっしゃいますか?」
「はい、そうですが」
「こちらへどうぞ、皆さんお待ちかねです」
二階に通ずる奥の階段を上り、左手の個室に案内された。ドアの前でウェイトレスは、丁寧に頭を下げて右手を広げてここですと教えてくれた。
「どうもありがとう」
ウェイトレスが階下に降りた。なるほど、ここは新宿のど真ん中である、他の社員がこの店に来ないとも限らない。二階の個室なら、万一他の社員がこの茶店に来ても、四人が落ち合っていることはまず分らないであろう。さすがよく考えている。早川は右手で静かにドアを開けた。早川がドアを開けると同時に、三人は腰を上げて早川に一礼した。
「やあ、ごめん、ごめん、遅くなってしまって」
円形の茶褐色のやや大きなテーブルには、椅子が八席ほどあった。早川は空いてる席に腰を下ろした。ドア付近に浅田が座り、反時計回りに田部井、島田の順に座った。空いている席には、それぞれバッグなどが置かれていた。
「大分待たせてしまったかな?」
「いえ、私たちは予定の五分前に着きました。……抜け出すの大変でしたでしょう?」
浅田が気遣った。上司に対する言葉づかいである。テーブルには何もなかった。まだ注文してなかったみたいである。
「いや、そうでもなかったんだけど、ここの場所を探すのに少し戸惑ってしまって、ごめん」
「それじゃあ、ここは初めてだったんですね」
田部井がニコニコしながら話しかけてきた。
「そうなんだよ、お酒のせいでもないと思うけど、なかなか見つからなくて、もしかしたら方向音痴かなあ」
三人がクスクス笑った。
「何になさいますか。私たちは一応決めていますけど」
「そうか、じゃね、ミルクティーを貰おうかなあ」
「分りました」
奥に座っていた島田が立った。壁掛けの電話まで足を運び受話器を外して注文した。部屋は小さいが、語るには良い雰囲気の部屋である。喫茶店にこんな部屋があるなんて結構しゃれている。
「いい場所探したね。なかなかいいじゃん」
「でしょう? 三人でよく利用するんです」
浅田が答えた。
「あ、そうなんだ。語るにはいい部屋だね」
田部井と島田は、会社を離れて早川と飲食を共にするのは初めてである。二人にとっては憧れの人であった。二人の目は早川に集中して動いた。
「早川リーダー、今日はご苦労様でした」
島田が微笑みながら口を開いた。
「やだねェー、会社を離れてまで、リーダーとか主任だとかは止めにしない?」
島田は少し驚いた。この人は少し違う。
「じゃあ、何てお呼びすればよろしいでしょうか?」
「だから肩書はいらないよ。君でも、さんでも、呼び捨てでもいいよ」
「悟さんでもいいですか?」
田部井が意地悪そうに突っ込んできた。早川は田部井の目に視線を移した。
「えっ、……うん、ま、……いいか、……オーケー、オーケー」
三人が早川の慌てぶりにクスクス笑った。早川も照れくさそうに笑った。
「じゃあ、改めて早川さん、今日はお疲れ様でした」
「それは俺が言うセリフだよ。三人とも今日はお疲れ様でした。いやァー、それにしても田部井君」
「はい?」
「君にあんなキャラがあるなんて、とても信じられないよ。凄かったねェー、ほんとに驚いたよ」
「いやだ。恥ずかしい。穴があったら入りたいです。もう開き直ってやりました。必死でした。もっとも、あんな格好してたから、やれたのかもしれません。まともな顔じゃあ、とても出来なかったと思います」
「いやァー、とても素晴らしかった。それに二人の間髪を入れないあの問答、恐れ入りました」
早川は島田と浅田を指差した後、頭をテーブルに着くぐらいにして下げた。そして続けた。
「まるで舞台を見てるみたいだったよ。あれってリハーサルした訳?」
早川は浅田の顔を見ていった。浅田は顔に笑みをたたえていた。
「いーえ、予め筋書きについては一応打ち合わせはしましたが、全部アドリブです」
「君と課長の相々傘、あれ良かったねぇー。あれをアドリブでやれるなんて、凄いね。課長のあの顔見た?」
「ええ、見てました」
「課長のあんな顔始めてみたよ、何とも嬉しそうな顔してさ。鼻の下長ーくしてさ」
「ふふふ、でしたね、ああ、面白かった」
「あれがアドリブかァー、へェー、そうなんだ。君たち劇団四季にでも入ったら? 女優になれるよ」
「女優ですか?」
島田が目をむいた。
「そうさ、舞台女優。きっと似合うと思うよ。石川五右衛門もやれるかも」
四人は爆笑した。その時、ドアがノックされて、ウェートレスが注文したドリンクを持ってきた。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう」
浅田が代表して答えた。田部井が早川の顔をじっと見て言った。
「劇団四季じゃなくて、劇団京千香はどうですか?」
「京千香? 何それ」
「ええ、京子でしょ? 千鶴でしょ? 香織でしょ? 頭文字を取ったの」
「おー、なるほどね。いいねェー。何だか、とてもいい香りがしてきたみたい」
「ふふふ、面白い。……座長は早川君、君がやりたまえ」
田部井がふざけて言った。テーブルに片肘を付き、顎を突き出し、人差し指は早川に向けられていた。
「俺が座長? あはは、いいねェー、それいただき」
四人はまたも爆笑した。
「女優でなければ、トリオロス花嫁は?」
早川はふざけた。
「トリオロス花嫁ですか?」
今度は浅田が突っ込んできた。
「うん、三人で漫才師になるんだよ」
「やだァー、まるで三人とも、お嫁にいけないみたいな名前ね」
島田が笑い転げた。
「おっと、そう取ったか、ロスアンゼルスの花嫁のイメージだったんだけど」
「あら、上手く逃げましたね」
「あはは、この三人にはかなわないね。もう降参だよ」
初めて飲食を共にする田部井と島田は、早川の飾らないフランクで機知に富んだ会話に酔いしれた。噂にたがわぬ魅力に改めて感じ入っていた。
「若林君も感心してたよ。凄いって。やる前に今回限りって言ったんだってね」
早川は田部井に顔を向けた。
「ええ、目的があってやった訳ですので、もう二度とはやれません」
「そう言うけど、みんなはもうあきれ返るほど笑い転げていたからねェー、あの快感が体に染み付いてしまったから、またやってくれと言うと思うよ、きっと」
「でもやりません。ピエロはもう嫌です。美貌が台無しです」
「あははは、言えてる。でも俺は、新しい魅力を感じたよ田部井君に」
「そうですか? 嬉しい、じゃあ、またやろうかしら」
「まあ、ちーちゃんたら現金なんだからー」
島田が呆れた顔をした。
「嘘よっ、誰がやるもんですか。でも、早川さんに、どうしてもやれって言われたら、やろうかなー」
田部井は早川に顔を向けながら、茶目っ気たっぷりに笑った。
「まっ、あきれた」
今度は浅田が呆れた顔になった。
「ま、三人の力で、名うての酒豪をギャフンと言わせた訳だから大したもんだよ。ギネス級だね」
「自信があった訳ではないし、初めはどうなるかと思ってはいたけど、何とか目的は達成できたわね」
浅田は、田部井と島田の顔を見て同意を求めた。二人は首を縦に振った。してやったりと満足そのものの顔である。
「こうして、ここで語れるのも、そのお蔭だよね。だけど、少し恐ろしさを感じたよ」
「恐ろしさですか?」
「うん、結果オーライなんだけど、課長が床に仰向けにひっくり返った時の様子を見て、何だか可哀想になってね」
「それは全く同じ思いです」
浅田が真面目そうな顔になった。
「俺はそれを見てて、君たち女性の、何と言えばいいかなあ、執念ていうか意地っていうか、目的達成の為なら手段を選ばないっていうか、そんなのを感じて少し怖くなったんだよね」
「女って、いざとなったら怖いですよー、女を甘くみたらいけないですよ」
島田が少し笑いながら言った。
「そうだな、ほんとにそう思ったよ。……ま、人間には男女を問わず、そういうことは誰にも多少なりともあるとは思うけど、そうならないようにしなくっちゃな」
話がしんみりしてきた。それを察して浅田が、田部井に顔を向けて目で合図した。頃合いが来たようである。浅田が切り出した。
「早川さん、そろそろ例の相談したいんですけど」
早川は、いつこの話が切り出されるかと待っていた。
「うん、いま浅田君から話が出たけど、田部井君、何か相談ていうか、悩み事があるんだって?」
田部井は幾分緊張の面持ちになった。
「浅田さんから、どこまでお聞きになっていますか」
「いや、中身については全然聞いてないよ。……な、浅田君」
「そうなの。一言も話してないわ。早川さんが、四人で集まった時でいいじゃないかっておっしゃて」
「そう」
「その上で、四人で話し合えば、いい知恵が浮かぶんじゃないかっておっしゃって」
「ありがとう。でもプライベートな話だから、早川さんに迷惑ではないかしら」
早川が手を顔のところまで上げて言った。
「田部井君、迷惑と思うんだったら話をしてはいけないと思うよ。君たち三人で共有してる悩みを、三人では解決できそうもないんだな、と思ったもんだから、解決出来るかどうかは別にして、浅田君が言ったような話をしたんだよ」
「ええ」
「ということは、どういう悩みなのかは知らないけど、少なくとも、この場にいる俺に迷惑だと思うってことは、心の共有が出来ないってことと同じだろ?」
「……」
「だったら、下手に話さないほうがいいと思うんだよな。俺は、浅田さんに言った時から覚悟を決めたんだよ。もちろん、どこまで悩みが解決出来るかは、今の段階では全く分からないことだけど、四人が一つ心にならない限り、解決はまず無理だと思うよ。そう思わないか?」
「ええ、確かにそうですね。そのようにおっしゃっていただいて、とても嬉しく思います」
田部井は今にも泣きそうな顔をした。これがほんとの田部井の顔だと思った。
「ちょっといい? 俺の考えを少し言っておきたいんだけど」
「あ、はいお聞きします」
「君たちは、親に内緒にしてきた秘密のことってなかった?」
「あります」
三人が異口同音に言った。
「友人関係もそうだと思うんだよね。いくら親だからとか友人だからといって、何もかも話す必要はないと思うんだよな」
「ええ、そう思います」
田部井が答えた。
「親だから友人だから何でも話さなければならないなんて、そんな窮屈な考え方がかえって関係を壊してしまうと思うんだよな。だから、友達にすらも話せない自分だけの秘密は、あって当然だし当たり前だと思うんだよ。その方が関係がスムースに行くと思うんだ」
「ええ」
「何を言いたいかというと、例えば、悩みを共有しようと思えば徹底的に共有して、友達の悩みを自分の悩みとして受け止める。共有したくないことは、徹底して共有しない。これが友人関係を上手くいかせる考え方だと言いたい訳」
「ええ」
「それともう一つ、友人だからこそ、大人としての節度を保ちながら、相手を尊重し尊敬し、決して無理な我が儘は言わない。相手の心に寄り添う気持ちでお付き合いすることが、とても大事だし長続きする秘訣だと思うんだよな」
「ええ」
「今までは三人で何でも話し合ってきたと思うけど、今日からは、この俺も交えた四人で、共有出来ることについては何でも話し合っていこうと、心底そういう気持ちにならない限り、話を持ち出してはいけないし聞いてもいけないと思う。だから、これ以上話は先に進まないと思うけど、どうなの? もし、それが出来ないようだったら、話題を変えようよ」
浅田が目を閉じて考えていた。早川の言うのはもっともである。いや、田部井の気持を思いやる優しさが溢れていると思った。早川が生半可な気持ちで此処に来たんじゃないということを強く感じた。田部井の顔を見た。田部井は浅田に目で語った。このままずるずる、時間だけが経過していってしまうのはもう嫌だ。いい加減終止符を打ちたい。島田は話の成り行きが、どうなるだろうと気をもんでいた。
「正直に言いますね、実は、浅田さんから今日の話を聞いて、夜も眠れないくらいに随分悩みました。ことは自分自身の悩みだし、三人の間では、迷惑とかの考えは全然出てこないんですけど、早川さんにお話しすることは、そうでなくてもお忙しい方なのに、しかも、今とっても大事なお仕事をされているでしょう? それを思ったら、とても辛くなったのです。しかも、満更早川さんに関係のないことじゃないだけに、躊躇してしまうんです。だから、もしかしたら、ご迷惑にならないかと思って、さっきみたいな言い方をしたんです」
田部井は感詰まって、目から涙があふれ出してきた。バッグからハンカチを取り出した。
「ごめんなさい」
「俺に関係してるってことは、場合によっては後で聞くとして、いま田部井君が話したことは、二人とも自分のこととして受け止めている訳だね」
「ええ、そうです」
浅田と島田が同時に答えた。
「そっか、じゃあ、もう一つ聞くけど、いま田部井君の話した田部井君本人の悩みを、この四人で共有することに賛成するかどうかはどうなの? 共有してもいいと思ってるの?」
三人はそれぞれに顔を向け合った。
「とても大事なことだから慎重に考えてな。一旦田部井君の口から出てしまったら、取り消しがきかないからね、その辺をよく考えて、じっくり考えたほうがいいよ」
暫らくして島田が手を挙げた。
「私は共有して欲しいと思います」
「どうしてそう思うの?」
「早川さんのことを、心の底から信頼出来ると思うからです」
「ありがとう」
「浅田君はどうなの?」
「……私も共有して欲しいと思います」
「どうしてそう思うの?」
「田部井さんの悩みを解決出来るのは、早川さん以外には居ないと思うからです。いえ、それだけではありません。今後のことも考えて、この四人が一つのチームになって、何事も相談し合いながら生きていけたら、最高だなあと正直に思うからです」
「最後に田部井君に聞くけど、君の今抱えている悩みを、この四人の共通の悩みとして受け止めて欲しいと、心の底から思いますか?」
田部井はまた泣き出した。
「私の為に、ほんとにすみません。ありがとうございます。……はい、出来ましたら、皆さんの心に寄り沿っていけるんでしたら、これ以上の喜びはありません」
早川は、三人の女性の目を一人一人見て言った。
「良く分りました。取り敢えずの問題として、田部井君の涙を無駄にしない為に、知恵を出し合うことを誓える人は、はい、……ほんとは赤穂浪士、……あは、赤穂浪士って、もう古いかな? ……ま、いいや、……赤穂浪士みたいに血判状といきたいところだが、これで我慢してください。私の手の上に手を重ねてください」
早川は、やや前のめりになりながら、テーブルの中央付近に右手を置いた。早川の意外な行動に三人は戸惑った。誓いが立てられないことではない。早川の手に触れることにである。田部井が浅田に目で合図した。浅田は待ってましたとばかりに、早川の手の甲に自分の手を重ねた。続いて島田の手最後に田部井の手が添えられた。
「よっしゃ、これで、この四人は一心同体です。一つのチームとして行動しましょう」
「はい」
「ここは茶店だけど、ビール置いてあるんだろ? 島田君、ビール一本頼んで。記念の乾杯しよう、……どうかな?」
「いいですね。記念の乾杯。……乾杯の音頭は、C・Tの田部井千鶴女史です。イェーイ」
浅田が思い切り大きな声で騒いだ。
「もう勘弁してよ」
四人はどっと笑った。田部井の顔に笑いが戻ったことに、早川はほっとした。間もなくビールが届いた。
乾杯の後、早川は腕時計を見ながら浅田に聞いた。
「ここは何時まで?」
「十二時までです」
早川は田部井の顔を見た。
「時間の制約もあるから、それじゃ田部井君、悩みってどんなことなの? 君の話せる範囲でいいから。仕事のことで悩んでるのかな?」
早川はわざととぼけて話のきっかけを作った。
「私からお話ししようか?」
浅田が田部井の顔を見ながら言った。
「ううん、さっきまでそうして貰おうと思っていたけど、やはり自分のことだから自分で言うわ」
浅田は大きく頷いた。
「仕事の話ではないのです。すみません。私の恋愛関係の話なんです」
「えっ、恋愛関係かい? 参ったなあ相談に乗れるかなあ」
「はい、早川さんにも関係あることでもありますから、多分大丈夫です」
「おいおい、勝手に大丈夫だというなよ、それは俺が判断することだから」
この人は何て話し方が柔軟なんだろう。もう惚れてしまいそう。
「そうですね」
「で、俺に関係があるってどういうこと?」
「……」
「どうした? 言いにくそうだね、さっきも言ったけど、言いたくなかったら言わなくてもいいんだよ」
「……いえ、やっぱり、ちょっとだけ言いにくいですね。でも言いますね。実は、私の交際相手はC&Tの……」
「C&Tの?」
「ええ、野田係長です」
予想通りの言葉が返ってきた。
「おお、野田君か、うんそれで?」
「野田係長のことをどう思いますか?」
「そんなこと俺に聞くなよ、付き合ってる君が一番知ってる筈だろ?」
「いえ、そういう意味じゃないんです。早川さんはC&Tのリーダーとして、彼のことをどう思ってらっしゃるのかと思いまして」
「彼は元設計二課の係長だろ? C&Tが結成されたのはごく最近だから、彼のことについては、まだはっきりとは掴みきれていないところがあるんだよなあ」
「あ、そうかもしれませんね」
「野田君について聞くけど、彼とはもう長いのかい?」
「はい、一年と二、三か月ぐらいになります」
「もう一つ聞くけど、彼と結婚したいと思ってるのかな?」
「……」
「まずかったかな、ごめん」
「いえ、いいのです。付き合い始めのころに、彼からそのような話がありました」
「彼から結婚を匂わすような話が出た訳だな?」
「はい。私はそう受け止めて付き合ってきました」
「君ほどの人が、こうして悩みとして打ち明けてるってことは、そういう状況だったにも拘らず、今はそうではなくなってしまった。深刻な事態だという訳かな?」
「おっしゃる通りです」
田部井は、泣きたいのを必死になってこらえているようだった。
「そうか、もっと詳しく話してくれるかな? ……あくまで君の話せる範囲でいいから」
「はい、もう何もかも打ち明けます。その方が私もすっきりしますから」
浅田が大きく頷いた。その方がいいよと言いたげであった。
「うん」
「思い切って言います。……彼には、……私以外に付き合ってる女性がいるんです」
「えっ、じゃ何か? ……言葉は悪いけど二股掛けてるってこと?」
「ええ、そうです」
「ちょっと待てよ、それって確かな話かよ。……女の感です、何て言うんじゃないだろうね。君はどうしてそれを知ったんだ?」
「携帯メールです」
「彼の携帯メールを見たということ?」
「ええ。意図的に見た訳じゃないんですが、偶然何かの弾みで見てしまったのです。それに」
「それに?」
「デートの時、食事中や歩いてる時に、携帯のベルが鳴って、私に隠れるようにして電話することが多くなったのです」
「それはいつごろから?」
「付き合い始めて半年後くらいからかしら」
「でも、それって、男友達ってことないのかい?」
「いえ、女性です」
「メールの文面からそう思ったんだな? 女性と」
「そうです。愛してるとか書いてありました。送信メールも見たのですが、やはり愛してると書いてありました」
「それを見て、君はどう思った?」
「もう、どうしようもない気持ちになりました。騙されたと思いました」
「……そうか、……で、相手のメルアドは分ってるのかな?」
「私はバカですね、そんな知恵が浮かばなくって、……悔しい」
「酷なことを聞くかもしれないけど、それでも付き合って来たんだな?」
「……そうです。なんとかして、こちらに振り向かせようと必死でした」
相手に別な新しい女が出来たにも拘わらず、こちらを向いて欲しいという、涙ぐましい気持ちが胸に突き刺さる。早川は、女心の切なさってこういうものかもしれないと思った
「必死でした? ……ということは今は?」
田部井は早川の鋭さに驚いた。この時、結果はどうでもいいから、早川にすべてを預けようと強く思った。
「ええ、もう、……半分は諦めています。……段々、どうでもよくなってきました」
「おいおい、それじゃ相談にならないだろう。……よし、諦めたのならそれでいいとして、何か別なことを考えているんだな?」
この早川という男は、どこまで人の心が読めるんだろうか。怖いくらいである。
「ええ、……この世から抹殺して欲しいのです」
「おいおい、穏やかじゃないな。君の気持は良く分るよ。悔しんだろ?」
「はい。殺してやりたいくらい悔しいです」
「ところで、彼のことで、もう少し聞いておきたいことがあるんだけど、いいかな?」
「ええ、知ってることは何でもお話しします」
浅田はまたも大きく頷いた。この際、何もかも洗いざらい吐き出した方がすっきりするよ、と言いたげである。
「ちょっと小耳に挟んだんだけど、彼は金回りがいいみたいだね。彼の実家はお金持ちなのかな?」
「いいえ、そうじゃないと思います」
「だけど、毎晩のように飲み歩いてるって聞いてるよ。その辺はどうなんだい?」
「ええ、そのようです」
「そのようですって、何となくそうじゃないかな、って思ってるってこと?」
「はい」
「じゃあ、曖昧だな。……例えばさ、君と食事する時、何て言ったらいいかなあ、分不相応な食事を注文したり、飲み屋に行った時、高級なウィスキーをキープしたりとかなかった?」
「ええ、それはありました。私も、随分お金持ちなんだなあ、と思った時がありました」
「支払いは現金? カード?」
「現金でした。カードを使ったところは見たことありません」
「飲み屋も現金?」
「はい、そうでしたね大抵」
「大抵というと?」
「たまにはツケにしていました」
「そうか、なるほどね。……彼の給料は大体分るよな」
「はい。分ります」
「彼の給料で、そんな分不相応な食事とか、高級ウィスキーをキープするとか、普通出来ないだろう? おかしいと思わなかったのかい?」
「思いました。一度彼に聞いたことがあります」
「何を?」
「高い給料でもないのに、どうしてそんなことが出来るの? って」
「彼はどう答えた?」
「なーに、金は天下の回り物さ、と何だか妙な笑い顔でうそぶいていました」
「……君はそれを聞いて、正直どう思った?」
「この人何か悪いことでもしてるんじゃないかって、ちょっとだけ思ったことがあります」
「付き合ってる彼のことを、あんまり悪く思いたくなかったんだろ?」
「おっしゃる通りです。でも、今こうして冷静になって考えると、やっぱり相当おかしいですよね」
「話を変えるけど、彼と付き合っている飲み仲間のことだけど、知っている範囲でいいんだけど、思い当たる人いるかい?」
「あの人は飲むのが好きっていうか、……アル中ではないと思うんですけど、とにかくお酒が好きですね。ですから飲み仲間が何人かいたようです」
「たとえば誰?」
「安浦さんとか田崎さんとかですかね」
安浦も田崎もどうでもよかった。
「他には思い当たる人いない?」
「……そうですね、設計二課長とか人事課長とかですかねェー」
「人事課長って? 何課の課長?」
「一課の保坂課長です」
早川は、まさかこの二人の課長が、データ漏洩事件に絡んでいるとは思えなかった。設計二課長の松岡は元々野田の直属の上司だから、ありうる話だが、人事部の一課というと、昇進や降格を統括している部署である。もし、この二人が絡んでいるとすると、これはもはや疑獄である。とても考えられないが、調べる必要はありそうだ。
「そうか、結構いるんだな。呑兵衛たちの世界は分らないなあ。あはは」
早川はわざと大声で笑った。その時、田部井が膝を打った。急に思い出したことがあるみたいである。
「……あ、私ってバカだなあ。肝心なことを忘れてたわ」
田部井は独り言を言って、早川に顔を向けた。
「うん?」
「いま思い出しました。高津さんとは頻繁に飲み歩いているみたいでした」
高津は、元設計二課で野田係長の直属の部下だった。
「なるほど、……ところで、食事とか飲みに行く時、君はいつも野田君と二人っきりだったのかい?」
浅田は、早川の田部井に対する、まるで刑事が容疑者に対して詰問しているような、鋭い質問を繰り返す場面を目のあたりに見て、背筋が寒くなってきた。やはり、この早川という男は只者ではないと思った。およそ思いもつかない筋書きに添って、次から次と疑問点を洗い出していく巧みさは、どこから来るのだろうか。
田部井は、早川の質問を受ける前は、野田に対する未練がない訳ではなかった。しかし、早川からの矢継ぎ早の質問に答えてる間に、まるで嘘みたいにそれが消えていった。不思議な感覚だった。これで、はっきりと別れられると確信した。そう思うと気分がすっきりした。
「ええ、大抵はそうでしたが、たまに他の男の人も一緒の時がありました」
「誰だったか覚えてる?」
「ええ、覚えています。高津さんとは何度かありましたね。……それと確か二回ほどでしたけど、会社とは関係のない人と一緒に食事したことがありますね」
早川は、初めて外部の人間の情報がもたらされたことに、もしかしたらと思った。
「じゃあ、まず高津君のことから聞こうかな? 高津君も一緒だったというのは、食事? それともスナックか何か?」
「食事の時もありましたし、食事の後スナックにも生きました」
「そういう時の話題って、どんな話するのかな?」
早川の質問は実に細かくなってきた。
「そうですね、いろいろです。仕事の話もありましたけど、大概は取り留めのない芸能人の話とか競馬の話とか」
「競馬?」
「ええ、二人とも競馬に大分ご熱心でしたよ」
「君も競馬場に行ったことあるの?」
「いえ、それは一度もありません。私、賭け事は嫌いですから」
「競馬場は府中?」
「府中ですか? さあ、私には分りません。一度だけ、二人の会話の中で、東京競馬場っていうのを聞いたことはありますけど」
「分った」
東京競馬場は府中にある。
「あのー、中京競馬場って知っていますか?」
「えっ、中京競馬場の話が出たのかい?」
「ええ、中京と聞いて、ああ名古屋方面だとは思いましたが」
「うん、それで?」
「二人で行ったみたいですよ。二人とも、何でも大分損したとかなんとか言って、新幹線代も出なかったとぼやいてました」
「そうか、中京競馬場かなるほどなぁー」
「何か気に掛かることでもあるのですか?」
「いや、競馬好きって、何処へでも行くんだなあと思ってさ」
「ふふ、ですね」
「その他に、三人で飲んだり食ったりしている時のことで、何か思い当たるっていうか、おやっと思うようなことなかった? どんな小さなことでもいいんだけど」
「……」
「いや、急な話だから、思い出せないよな。ま、思い出したら言って」
目をつぶって考えていた田部井が目を開いて言った。
「……今思い出したことがあります」
「ん?」
「彼が高津さんに、ニタニタしながら、たまには豊橋に行ってるのかって、小さな声で話しているのが聞こえたことがあります」
「豊橋? あ、そう。豊橋って愛知県だよな。親戚の人でもいるのかな?」
「さァー、どうでしょうか」
「他にはない?」
「……そう言えば、こんなこともありました」
「うん」
「今月はいつ頃になりそうだ、って囁いていました」
「いつ頃にって?」
「はい。私には何のことかさっぱり意味が分りませんでしたから、気にも留めなかったのですが、何か感じます?」
「いや、分らないなあ」
早川には察しがついていたが、とぼけて言った。それより、田部井の記憶力の良さに感心していた。
「今思い出せるのは、それくらいです」
「ありがとう。で、三人で飲み食いした時、食事代とか飲み代は誰が払った?」
「そういえば、高津さんと一緒の時は高津さんが支払ってましたね。せめて割り勘なら分りますけど、部下に支払わせるなんて、おかしいなとその時は思ったんです」
「なるほどね」
「さっき、会社に関係のない人が一緒の時もあった、と言ったよな」
「ええ」
「その人は、会社の取引先の人? それとも友達とか?」
「えーと、……あ、そうそう名刺いただきましたから、……ちょっと待ってください。……もしかしたら、捨ててしまったかしら」
おいおい、捨てないでくれよ頼むから。田部井はバッグの中を探っていた。名刺? 悪人は軽はずみには名刺を渡さない筈だが、野田の恋人ということで気を許した? もしかしたら、もしかするぞ。
「あ、ありました。……彼の高校の同級生ですね。私、裏にメモしてたみたいです」
何だよ同級生かよ。当てが外れた。それなら捨ててもいいよ。田部井が名刺をバッグにしまおうとした。早川は、念の為にと思って慌てて言った。
「ちょっと、その名刺見せてもらってもいいかなあ?」
「ええ、どうぞ」
名刺を見てドキッとした。それなら捨ててもいいよは、取り消しっ。
会社名が(株)佐藤建設資材。営業主任 中条幸一。所在地が愛知県豊橋市とある。どこかで聞いたような会社名である。……ちょっと待てよ。確かにこの会社名は何処かで聞いたか見ている。早川は思い出せない自分が歯がゆかった。
内ポケットから手帳を出して、パラパラとめくった。昨日の日付欄に部長との打ち合わせとある。そこに、いま手にしている名刺の会社名と同じ名前の会社名がメモされている。早川は、やっと核心に近づきつつあることを実感した。
「田部井君、悪いけどこの名刺、暫らく預かっててもいいかな? 後日返すから」
「ええ、私には不要のものですから、差し上げてもいいですよ」
「そうか、ありがとう。……今一度確認なんだが、この名刺の人物は、間違いなく野田君の高校の同級生なんだな?」
早川は名刺の裏を見ながら言った。日付までメモされていた。
「はい。そのように紹介されましたから、まず間違いありません。それに女性が、仕事以外で名刺をいただくなんてまずありませんから、はっきりと覚えています」
田部井ははっきりとした口調で答えた。
「君も名刺を渡したの?」
「いいえ。名刺は持ち歩きませんから」
「そうか、分った。他に思い当たることはない?」
「……今すぐには思い出せません」
今までの曖昧な形が鮮明になってきた。早川の脳にスイッチが入った。ターゲットを野田と高津に絞った。
「そうか分った。その件は俺が預かった。その代り、軽率な行動は絶対慎むように、いいな?」
早川は田部井の顔を凝視しながら強い口調で言った。田部井はその眼力に圧倒された。
「はい。分りました」
「それと、ここ暫らくは、彼に対しては、今まで通りに振る舞ってください。いいかな?」
「分りました。何か考えてることがあるように思えますが」
「それは、今は言えない。とにかく、暫らくは言った通りにしてくれないか? 出来るかな?」
「分りました。そのようにします」
早川は三人の一人一人の顔を目で追って言った。
「それと、賢い三人には、もちろん分ってくれているとは思うけど、口が裂けても他言無用だよ、いいな? 友達の田部井君を、もうこれ以上絶対傷つけてはいけない。我々で田部井君を守ってやるんだ。分ったな?」
早川は三人に念を押した。田部井の目から、また涙が溢れ出した。
「田部井君、もう泣かなくてもいいよ。今の君には無理かもしれないけど明るくいこうよ」
「はい、もう泣きません。強くなります」
田部井の目は、涙の連続で少し腫れていた。ハンカチで一気に拭いた。
「うんうん、その調子だ。人生は長い。君はさっきバラの花を口にくわえていたじゃないか」
「はい」
「可愛い田部井の口にくわえたバラと掛けて何と解く?」
「可愛い田部井は分りますけど、他は分りません」
田部井が笑いを誘った。
「この三人の美しい女性の、今後の人生と解きます」
「イェーイ、会社随一のイケメンから、この三人の美しい女性の、今後の人生と解きます。……と来ました。その心は?」
突然島田が乗ってきた。
「あはは、乗せやがって、この」
「その心は?」
「バラ色の人生を目指しましょう」
ちゃんとした謎掛け問答からは、随分と離れた回答のような気もするが、言わんとしていることは良く分る。ま、いいや。でも何という人だ。アドリブにしては出来過ぎでしょう? 三人の顔が急に輝いた。
「田部井君は、例えば、彼とデートしたことなんかは、手帳とか日記に書いてるの? 日付とか時間とか」
「ええ、京ちゃん、あ、すみません島田さんのことです、に、いつも言われていますけど、これでも私、メモ魔と言われているんです。身の回りで起こったことは残さずメモする癖があります」
島田が同調して言った。
「そうなんですよ。この人のメモ魔はちょっと異常かも。とにかく、どんな小さなことでもメモしてしまうんです。呆れ返るほどです」
「ほー、そうなんだ。じゃあ、今夜の乾杯の音頭は、もしかしたら、一ページに書ききれないね」
「もうー、早川さんたらまた思い出させてー」
「あはは、じゃあ、もう一つ頼みたいことがあるんだけどなあ」
「はい。何でしょうか?」
「田部井君には辛いことかも知れないけど、彼のことで知っているすべてをメモして欲しんだよ。デートした日付と、出来ればレストランとかスナックなどの名前や場所を入れてください。但し、ホテルに行ったなんてことは書かなくていいからな。そこまで俺が知る必要がないから。飲んだり食ったりしたことだけでもいいから。誰と一緒だったとかも書いてくれるとありがたいけどな」
田部井は早川の言ってる内容を、すらすらと手帳に書き始めた。手馴れている。さすがメモ魔だ。田部井の記憶力の良さは、おそらくここから来ている。間違いない。
「それと、携帯とかPCのメールの、着信記録もメモしてくれるとありがたいね。今君が思ってることで差支えない範囲で、どんな小さなことでもいいから、彼のことを何でも書いてください」
「いつまでにまとめておけばいいですか?」
「出来れば、出来るだけ早い方がいいけどなあ」
「分りました。メモは浅田さんに渡しておきます」
「そうだな、それと田部井君」
「はい?」
「メモは自宅のパソコンで作るのか?」
「はい。そのつもりです。何か?」
「いや、それだったらいい。会社でメモを作る場合、絶対にパソコンで作ってはいけないよ、全て手書きにしてください。コピーも駄目です。知らないかな? コピーしたら、その記録が機械に必ず残っていることを?」
三人とも知らなかった。
「だから、用が済んだら私の方でシュレッダーするから、心配しないでいいからな」
やることが大胆かと思いきや、実に慎重である。それに、相手のことをここまで思いやれる人を、今まで聞いたことがない。
早川は内ポットから手帳を出した。
「それから、来週の今日、そう、来週の木曜日の八時に、ここでまた会えると嬉しいんだけどな。どうかな? 予定入ってないかな?」
三人はそれぞれバッグから手帳を取り出して予定を確認した。
「大丈夫です」
三人が異口同音に返事した。
「そうか、ありがたい。よし、じゃあ、浅田君ごめんだけど、この部屋を予約しておいてくれないか? あ、そうだ、先客があるといけないから、いま確認しておこう」
浅田がドアを開けて階下に走った。そして間もなく帰ってきた。
「予約できました。メモしといて来週の木曜日の二十時から二時間」
「ご苦労さん。その日、とても大事な話が出来ると思うから、必ず足を運んでください」
「分りました」
「これで、田部井君の件は済んだね」
三人は手帳にメモしながら嬉しそうに笑った。浅田は、早川のてきぱきとした指示と自信に満ちた考え方に、やっぱり相談してよかったと胸をなでおろした。
「田部井君のことで最後の最後になったけど、まず、田部井君にはいろいろな質問をさせてもらった。さぞ辛かったろうと思う。でも、真実を知るためには、止むを得ないことと理解して欲しいと思います」
「はい。そのように理解しています」
「そうか、ありがとう。それともう一度確認しておくけど、みんなの意見や質問に対する答えや、田部井君から出されるメモや私独自で調査した内容を総合して、私がこれから行おうとしていることについては、いまは言えないけど、いずれ、はっきりとした結果が出ます。そこでまず、要の田部井君に聞きたいんだけど、結果がどうであれ、出た結果については、何にも言わずに全て受け入れることが出来ますか?」
「……」
「酷な言い方になるかもしれないけど、彼を諦め切れますか?」
早川は田部井の目をじっと見つめた。田部井も見つめ返した。もう、とうに心は決めている。
「はい。きっぱりと諦めます。むしろ、どうしてもっと早くそうしなかったのかと後悔しています」
「その上での話だが、私の予想では、結果は田部井君にとって決して悪い結果にはなりません。むしろ、田部井君がたった今思ってる、その思いが叶えられると思っています。その辺は私を信用して欲しい」
「……」
「はっきりと見えていない結果について、このような言い方をするのは、ほんとに忍びないけど、俺のこの提案を受け入れることが出来ないようだったら、この話は振出しに戻ります」
田部井は、早川の出そうとしている結果については、今までの早川の質問などから大方の予想はついていた。この人なら、必ずやってくれるという確信めいたものがあった。
問題は自分自身のことである。今までの全てを、ほんとに断ち切って再出発が出来るのか、心の整理がつくのかどうかを問われているような気がした。このままずるずる引きずっても何も残らない。残るのは後悔と憎しみである。
今こうして、早川に質問攻めされて初めて分かったことが随分あった。
見ても見ないふりをする、悪いことと思っても、何故か心が受け入れてしまう。どこかで自分を誤魔化しているが、それを認めようとしない、いや認めたくないという、もう一人の自分がいる。
恋という名の病院に入院させられ、結婚剤という名の、甘い甘い注射を打たれて、身も心も麻痺させられてしまう。麻痺させられた患者は、世の中の全ての事が良く思える。全てが心地良くなる。ああー、私は今幸せとなるのである。
こんな言い方も出来る。恋という文字の中には、自分を完全に見失わせてしまう魔物が住んでいる。その魔物は、いつも自分を夢見心地にする薬を注射し続けているのである。この恋という麻薬が、身体全身に行き渡った時、人は全てを失うのである。赤い色が、容易に青に見えてしまうのである。
こんな言い方もある。人の心に潜む邪心を、邪心と認識できている間はまだ救いがあるが、邪心と認識できなくなり、当たり前と思うようになって、人は歯車が狂い始める。そしてついには、全てが見えなくなってしまう。奈落の底に沈んでしまうのである。
「はい。全てを受け入れます。もう覚悟は出来ています」
「ありがとう。島田君? 受け入れますか? 友達を救いたいと思いますか?」
「はい。そう思います。田部井さんは、私にとってかけがえのない親友です。ですから、一日でも早く立ち直って、元の田部井さんに戻って欲しいと思います。是非救ってください。お願いします」
「よく言ってくれました。浅田君は?」
「私も同じです。今日ここで心で誓ったことは、とても大きな財産だと思います。ですから、たとえ結果がどうなろうと、四人が結束すれば、必ず未来は開けると信じられるようになりました」
「とてもいい意見だね。嬉しいよ。よくある話の一つだけど、何かの結果が出た為に、友情が壊れ傷つき大切なものを失ってしまったなんてこともあるから、そうならないように固い絆を持つことが大事だと思います。そうすれば逆に、人生の中で、もっともっと大きな喜びを味わうことが出来るようになると信じます」
三人は早川の言葉に勇気づけられた。
「じゃあ、田部井君いいかな? そういうことで」
「私の為に、みんなに心配かけてごめんなさい。ありがとうございます」
田部井は立って深々とお頭を下げた。
「なーに、構わんよ。みんな友達じゃないか。こんな時の友達だよ。きっと君の思いは叶えられる。そう思って前へ進もう」
早川ならやってくれそうだ、という確信めいたものが女性三人の胸に降りてきた。
「他に意見とかないかな?」
早川が浅田と島田の方を向いて言った。
「はい。あります」
「おおー、島田君嬉しそうじゃないか、何かいいことでもあったのか?」
「はい。私の悩みも聞いてください」
「えっ、君にもあるのかい? ……嘘だろう?」
早川はとっさに浅田の顔を見た。浅田は笑っていた。
「いえ、ほんとです。でも急ぎませんから、今日のところはいいです。みんなお疲れでしょうから」
「だな、時間も時間だから来週にしようか?」
「ですね、ありがとうございます」
「浅田君は? ……もういいかな?」
「はい、お聞きしたいことがあったんですが、もう遅くなりましたから、またの機会にお願いします」
「はい、了解。じゃ俺は失礼するけど、君たちは?」
「はいもう少しいます」
「そっか、じゃあな。今日はありがとう。楽しみがまた増えたよ。ありがたいなあ」
人の悩みを楽しみに変換するプログラムをお持ちなようですね。
「じゃあ、明日。……気をつけて帰ってな」
三人は立ちあがって一礼した。ドアノブに手を掛けようとした時、早川が振り返った。
「おっと、さっきから脳を散歩してる奴がいてさ、今思い出した。この四人の会の名前は必要ないかな?……どうかな?」
「あった方がいいと思います。みんなで考えておきます」
浅田が代表で答えた。
「それと、言わずもがなだと思うけど、社内では決して友達顔をしないで欲しい。今までどおりに振る舞ってください。いいかな?」
「はい。分っています」
異口同音に答えが返ってきた。
「だな、……ありがとう、……じゃあな」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
早川はドアを開けて階下に降りた。電話を借りてスナック藤に電話した。行って直接話そうと思ったが時間が遅くなってしまった。これから行ったら、かなり遅くなりそうである。明日の晩は亜希子と逢うことになってる。優先順位という言葉は、こんな時の為にあるんだ。
「あ、ママすみません。早川です」
「あら、早川さん、この間はありがとうございました。今夜は送別会だったのでしょう? お待ちしておりましてよ」
「それがママ、申し訳ない。課長がダウンしてしまいました。今夜はいけなくなりました」
「あらまあ、あの酒豪さんもダウンすることあるんですね」
「当てにしていらっしゃるんじゃないかと思い電話しました。この埋め合わせは、いずれ出来ると思いますので、よろしくお願いします」
「まあ、律義な方ね。分りました。……あ、ちょっと待って下さる?」
「はい」
「……早川さんこんばんは、涼子です」
「おー、涼子ちゃん、ごめんな、そういうことだから、またいつか」
「はい。楽しみにお待ちしています」
早川は会計を済ませ外に出た。
次の金曜日の朝、早川は朝礼が終わるのを待って、部長秘書の林田に電話を入れた。
「部長秘書の林田のデスクです」
「早川です。おはようございます」
「おはようございます」
「部長にお会いしたいんですが、ご都合を聞いていただけませんか?」
「お急ぎでしょうか?」
「はい。出来ましたら」
「どういうご用件でしょうか?」
「新しい情報とおっしゃっていただければ、お分かりになると思います」
「分りました。そのままで少しお待ちください」
「はい。すみません」
暫らくして返事が返ってきた。
「十時から一時間程度でしたら、というご返事でしたが、いかがなさいますか?」
「ありがとうございます。それでは十時にお願いします」
「はい。お伝えしておきます」
「ありがとう」
早川は短時間で話が済むように、昨日までに新しく知り得た気になる情報の中で、部長に報告してない分をまとめてメモしておいた。部長に手渡す分も作成した。
◇野田恵一(C&T係長)に関する事
- 元設計二課の係長だった
- 田部井とは一年と二、三ヶ月くらい前からの付き合い
- 田部井とは結婚を前提の付き合いと言っていた
- 田部井と付き合い始めてから半年ぐらいしてから、田部井以外の女性と付き合い始めた
- 実家は裕福ではない
- 分不相応の飲食(高級料理、高級ウィスキーなどのキープ)
- 飲食代の支払いは殆ど現金払い。クレジットは使わない
- 金は天下の回りものさ、とうそぶく
- 飲み仲間
→高津、安浦、田崎、松岡(設計二課長)、保坂(人事一課長) - 高津とよく一緒に飲食した
- その時の飲食代は全て高津が支払っていた
- 競馬が好きで、高津と競馬場に良く足を運んで
いた - 高津と二人で中京競馬場に行った話をしていた
- 高津に、たまには豊橋に行っているのかと尋ね
ていた - 高津に、今月いつ頃になりそうか、と囁いてい
た - 社外の人物と二回ほど飲食を共にしたことがあ
る - 高校の同級生で、愛知県豊橋市の佐藤建設資材
に勤務の営業主任 中条幸一の名刺をもらった。
◇高津良太(C&T社員)に関する事
- 元設計二課の社員で野田係長の部下だった
- 野田係長とよく飲食を共にした
- 野田係長の恋人田部井千鶴も同席の時があった
- その時の飲食代は全て高津が支払っていた
- 競馬が好きで野田係長と競馬場に良く行った
- 野田係長と二人で中京競馬場に行ったことが
ある
◇松岡課長と保坂課長について
- 念のため調査を入れる
◇ドタキャン物件の件
- 念のため調べておく
続けて、この際、名古屋関連のことを整理しておこうと考えた。昨日までに知り得たことを中心に、独自に推理してみた。
- 東西国土建設の役員津村健太郎は、関東地区
での大幅な業績アップを図る目的で、関東地区で実績の高いライバル会社の環太平洋建設との競合に勝利するために、次のような策略を計画した。 - 表沙汰になると会社の体面を傷つける結果になりかねない。従って自らは表に出ない方法で策略を実行する。
- 建設資材納入実績三位の佐藤建設資材が、資材納入のさらなる上積みをしきりに願い出ていることに着目する。
- 建設資材の東西国土建設への納入を大幅に増大する旨の確約を条件に、取引先の佐藤建設資材に次のような指示を出す。
- 環太平洋建設の受注予定リストの入手。
- 環太平洋建設が進めている国際設計コンペに関するデータ並びに進行状況の入手。
- 上記に関する環太平洋建設建設部の人事を含んだ組織図の入手。
- 上記に掛る費用は一切佐藤建設資材が負担する事。
- 全国建遊会のゴルフコンペに参加する。
- 競技委員長の佐藤建設資材の社長に環太平洋建設の郷田徳三郎と同じ組になるように依頼する。
- 環太平洋建設の動揺を誘い攪乱させることを目的に、食事の時国際設計コンペの話を故意に持ち出す。
- 佐藤建設資材は、東西国土建設担当の営業主任
の中条幸一が、環太平洋建設建設部設計二課の野田恵一と高校の同級生であることを知る。 - そこで中条に事の仔細を説明し、野田に接近す
るよう指示する。 - 中条は社内における他の班との実績比較で後れ
を取っていた。同級生に対して、反社会的な行為を求めることに、強い後ろめたさを感じていたが、背に腹は代えられない、悪いと思いつつも、この指示を絶好の機会ととらえた。 - 東西国土建設からの指示を完遂するため
の費用は、当面、月百万円程度とする。 - 中条は高校の時は野田とはそれほど親しくはな
かった。しかし同窓会の席で、飲食し名刺交換してから、まんざら異業種ではないという思いから、割合親しく歓談するようになった。 - 中条は出張でちょくちょく上京するから、暇な
ときにでも会って食事でもしないかと誘いをかけた。 - 以来、中条と野田は頻繁に飲食を共にすること
になった。 - 暫らくして、時々高津も交えて飲食するように
なった。 - 恋人の田部井という女性も同席して、二回ほど
飲食を共にした。野田の恋人という安心感から名刺を差し出した。 - 資材納入の為の営業ということにしておいてく
れという中条の言葉を野田は信じた。 - その理由で、飲食代は全て中条が持った。会社
持ちだから大丈夫だよ、という中条の言葉に野田は疑念を持たなかった。むしろ、接待されてる感覚になり、中条との飲食を楽しむようになっていった。 - 中条との高級料亭や高級クラブでの分不相応な
遊びを重ねるうちに、野田と高津は徐々に我を失っていった。 - そんなある日、中条は高額の見返り費用を用
意してる旨の話を交えて、野田にこっそり打診してみたが、最初色よい返事ではなかった。 - 中条はそれでも度々東京に足を運び、野田と飲
食を共にした。 - 野田は安給料の身である。自腹で飲食するには
限界がある。体に染みついてきた、高級料亭や高級クラブの何とも言えない心地よさと雰囲気が嫌でも脳をくすぶる。 - 野田はある日、あろうことか、部下の高津にこ
の話を持ちかけた。 - 自分にしっかりした信念を持っている人間は、
そんな誘惑に乗ってはならないと、強い拒否感が生まれるものである。だが、部下の立場は実に弱いものである。この話に乗れば、高級料亭や高級クラブでの遊びが出来ると、言葉巧みに話しかける野田にとうとう陥落してしまった。高津とて、しばしば同席した高級料亭や高級クラブでの遊びの悦楽が、体に染みついている。 - 会社にばれたら大変なことになる、という高津
の心配は一笑された。絶対大丈夫だよ。俺が責任を持つとか何とか言われれば、そうかなと思ってしまうほどの人間のレベルといってもいい。 - ある日野田は、上京してきた中条との食事の席
で、表立っては動けないが部下の高津が動くから、という話を持ち出した。このことは既に高津も了解済みだと言う。 - 中条は、それでは一度東京では何だから、目立
たない名古屋で、ちゃんとした打ち合わせをしないかと持ちかけた。中京競馬場もあるし。 - 野田と高津は一つ返事で応じた。
- 名古屋での食事を兼ねた会合の席で、中条の同
僚という一人の女性を紹介された。女性はhmanoと名乗った。 - 会合で取り込められた内容は、以下のようなも
のであった - 野田と高津は、環太平洋建設の受注予定リスト、国際設計コンペに関するデータ並びに進行状況、建設部の人事を含んだ組織図を定期的に提出する。
- 情報提供の見返りに、二人に月当たり百万円を与える
- 但し、提供される情報が、期待したものを下回る場合は減額もあり得るものとする。
- 案分は二人の話し合いで決定する。
- 情報提供料はhmanoから高津に直接手渡すことにする。
- 即日実施することとする。
- この会合で決定されたことについては、各人守秘義務を負うこととする。
- 特殊な事情や変更等が生じた場合は協議して決定する。
- 以来、野田は管理職という立場を利用して、
情報の収集に余念がなかった。 - その結果、時間の経過とともに、佐藤建設資材
はもとより東西国土建設に大きな成果をもたらした。 - hmanoは、当初現金の手渡し役ではあっ
たが、次第に高津と深い仲になっていった。 - hmanoは、名古屋での定期会合後の飲食
の時、東西国土建設勤務で友人のTTを野田に紹介した。今から半年程度前のことである。 - 野田はTTの魅力に取りつかれ、次第にのめ
り込んでいった。 - 野田は新宿、渋谷、池袋あたりで、豪遊する
ようになり、天下を取ったような気分を謳歌した。
係長という立場は厳しい管理下に置かれ、表立っては行動できないから、そんなことはとても無理だという。この時までは野田も、冷静で強い罪悪感が勝っていた。
ざっとこんなものであろう。
十時きっかりに部長室に入った。
「秘書から新しい情報と聞いたが、何か分ったことでもあったのか?」
「はい、昨日濃い情報を入手出来ました」
早川は、メモした用紙を部長の目の前に置いた。早川は特に気になることを中心に、詳しく説明した。
「そうか、益々ゆゆしき事態になりそうだな。困ったことだな」
郷田部長は沈痛な顔をした。
「そこで部長には申し訳ないのですが、お願いしたいことがございます」
「大体君の言わんとしてることは予想出来るよ」
「来週プログラムが作動しますと、それなりの成果は出ると思いますが、その前にどうしてもやっておいた方がいいと思いまして」
「うん、何だね?」
「私は、社内の情報を外部に漏洩している社員は、二人に絞れると思っています」
「野田君と高津君かね?」
「おっしゃる通りです。そこで裏を取るために、この二人の徹底した素行調査をお願いしたいのですが」
「うむ、その必要が出て来たようだな」
「相当な素行調査費用を会社に負担していただくのは、ほんとに申し訳ないと思います。私が走り回ってもいいかなとは思ったのですが、大事な業務をこれ以上停滞させる訳にもいきません。昨夜いろいろ考えまして、ここは、部長にお願いするしかないと思いました。何とかお願い出来ないものでしょうか」
早川は必死になって部長に語りかけた。
「素行調査をしたら、必ず物的証拠が出てくると確信しているんだな?」
「はい。そう思っています」
「分った。二人を処分するにしても、何となく怪しいだけでは処分できないからな。確固たる物的証拠が欲しいな」
「そうです。お願いできますでしょうか?」
「分った。これは本来会社がやらなければことだからな。費用なんてどうってことないよ。こうなったら、とことん調査して貰おう。早速今日からでも行動しよう。……それにしてもよく調べたな」
「いえ、もっと調べられればいいのですが、なかなか思うようにいかず、申し訳ありません」
「いやいや、もう答えが出たも同然だよ」
「ありがとうございます」
「このメモ書きは、預かっておいてもいいんだな?」
「はい。どうぞ。別に同じものを作ってありますから」
「予定が詰まっているから時間がない。他に何かあるか? あるんだったら手短に頼む」
「もう一つ、これはまさかとは思うのですが、あり得ない話ではないと思いまして」
「うん」
「また、私の立場からこのようなお話をさせていただくのは、どうかとは思いますが」
「うん、構わないから言ってみたまえ」
「単刀直入に申しあげます。これはあくまで念のためなのですが、設計二課の松岡課長と、人事一課の保坂課長の調査もお願いしたいのです」
「なに? それはまたどうしてだ?」
寝耳に水とはこのことである。郷田は飛び上がらんばかりにびっくりした。そして早川に鋭い視線を向けた。二人は管理職だぞ、こともあろうに二人を調査せいだと?
「はい。メモにも書いておきましたが、特に野田君が、頻繁にこの二人の課長と、飲食を共にしている節がございます」
「なるほど」
「一連の疑惑の渦中の野田君との関連ですので、念のために、調査しておいた方がいいのではと思いました。私からはそれ以上申し上げられません。後は部長のご判断にお任せします」
「うーん。なるほどな臭いな。出来れば嗅ぎたくはない臭いだな。……だけどそうなったら社内が大変なことになるぞ」
「まさに疑獄ですね。そうならないように祈るばかりです」
「正直、君はどう思ってるんだ、この二人は白か? それとも黒か?」
「松岡課長は、元々野田君の上司ですので、飲食を共にするのは、ま、あり得るかなと思います。ですが、情報収集の要を握っているのは課長ですので、金の力で飲食をしながら、巧みに受注予定リストなどの情報を手に入れようと図ったと思います。ですから、黒に近い灰色だと思います。保坂課長は、昇進・降格を担当する課長です。考えが間違いであって欲しいのですが、野田君は金を使って、課長にご機嫌を伺っていると思われます。ですから真っ黒だと思います」
「確信があるみたいだな」
「いえ、確信はございませんが、これまでの状況判断からそう思ったまでです」
「分った。気は進まないが、二人の調査も徹底させよう。考えようによっては、社内浄化のいい機会かもしれないな」
「ご無理言いましてすみません。これ以上は、私には手に負えません」
「いや、ほんとに良くやってくれているよ。来週の木曜日に、例のプログラムが動くんだったよな」
「はい。そうです」
「今話に出た四人の調査結果は、都内の優秀な探偵事務所に依頼するが、そうだなあ、早くても一週間はかかると思うんだよな、そうなると、その結果と来週の木曜日のプログラムの結果と、この前のゴルフ関連の調査結果とを照らし合わせて、決定的な結論を導き出せそうだな」
「そのように思います」
「よし分った、それ以降の社内のことについては俺がやろう。君を呼び出すことがあると思うから、いつでも応ぜられるように準備しておいてくれ」
「かしこまりました」
郷田は早川のメモを改めて見つめていた。指で行を追っている。
「この最後のドタキャン物件の件とあるが、これは?」
「はい、設計一課の岩田課長からお聞きしたのですが、設計三課で、契約寸前の物件が他社に取られてしまったそうです。似たようなことが他にもあるのではないかと思いまして」
「そういうことは、この業界ではよくある話だが、何か思うことがあってのことだな」
「はい。私が直接聞いた物件についてはこれから調べますが、何となく臭うものですから、調べておいた方がいいのではと思いまして」
「なるほど」
「私の方で、しかるべき所でまとめて調べますので、分る範囲でよろしいのですが、そのようなことがあった場合の、いつ頃の案件で、建設場所はどこで、建物種別や発注者、つまり施主の名前などの情報を知りたいのです」
「各課長から聞けばいいのだな?」
「そうです。意外とあるのではと思います。それと先ほど申し上げましたが、既に岩田課長とこの話題をしています。ですので何かと都合がありますので、その辺は臭わないようにお願いしたいのですが」
「よし、分った」
「部長からそのリストをいただけましたら、すぐに調べて参ります。後日ご報告いたします」
「分った。大至急やろう。今日の午後からでも課長を呼んで指示するかな。明日の夕方か遅くとも月曜日にはリストを作成しておこう」
「ありがとうございます」
「君の考えを聞いておきたいことがあるんだがな」
「はい。何でしょうか」
「この野田君の同級生という(株)佐藤建設資材に勤務の営業主任 中条幸一とあるが、この者と東西国土建設との絡みはどう思えばいいのだ?」
早川は郷田の鋭い感覚に驚いた。核心をついている。
「もう既にお気づきだとは思いますが、私がこれまで調べたことを中心に推理しますと、このようになると思います」
早川は内ポケットから別なメモ書きを出し、部長に渡した。早川の差し出したメモを見て郷田は驚愕した。そして、早川の目をじっと睨みつけた。
「あくまで私の推理です。見当はずれなところもあるかとは思いますが、当らずとも遠からずと思っています」
「……」
「二人は巧みに仕組まれた罠に、まんまと嵌ってしまった、としか言いようがありません。誠に残念至極な思いでいます」
「……」
「今にして思いますと、部長のゴルフ場での食事の会話で気になることがあるとおっしゃった、そのことが、正に今具体的で鮮明な形に見えてきたような気がします。お世辞ととられてしまいますと困るのですが、部長の勘の鋭さに敬服致しております」
「いやいや、俺はまだまだ未熟だな。役員の資格なんかないぜ。こんなに長きに亘って社内の情報が漏れていたとはなあ。いい笑いものだな」
「ですが、この時点で解明できたことを良しとすべきだと思います。これをいい教訓に、社内体制を抜本的に改めて、今後こういうことが起らないような、盤石で強固なシステムを構築しておくべきだと思います」
「……うん、全くその通りだな。ほんとにいい勉強をさせてもらったよ。ぬるま湯につかった俺に、痛烈な冷水をぶっ掛けられたような気がするよ」
「……」
「いや、ありがとう。ほんとにありがとう。君のお蔭で目が覚めたよ」
「部長とんでもございません。まだまだ、これからですから」
「そうだな、これからがほんとの戦いだな」
「はい。来週から再来週にかけてが正念場と思っています」
「君のその神がかった信念は、薩摩の武士って感じだな。凄まじい気迫だな。恐ろしいぐらいだぜ」
「部長おだてないでくださいよ。どうせやるなら、とことんやるのが私の信条ですから、ただそれだけのことです。失敗したら、またやり直せばいいや、みたいなところがありますから、私には」
「社内が浄化されたら、もう社内情報が外部に漏洩されることはないだろうから、社外のことは問題にはならないと思うが、例の名古屋関連のことは、君としてはどう考えているんだ?」
「結果が出るまでは分りませんが、もし黒と出た場合は、少なからず我が社に損害を与えた訳ですので、そのままという訳にはいかないと思います」
「というと? 復讐でも考えているのか?」
「復讐とまでは思っておりませんが、それなりの代償は払ってもらおうと思っています。もちろん部長から許可をいただければの話ですが」
早川はこれまで一連の調査を通して、もし結果が予想した通りになった時のことを考えていた。確かに、絶対やってはいけないことをしてしまった二人は、弁解の余地はない。しかし、色仕掛けで二人に近づき金を握らせるなど、人の心の一番弱い部分に付け込んで、ライバル会社の情報を盗もうとする卑劣なやり方を、断じて許しておく訳にはいかない。それ相応の罰を受けてもらわなければならない。早川の心は、早い段階から今度の社内情報漏洩事案の最終ステージをそこに置いていた。
「早川君」
「はい?」
「君の気持は良く分っているつもりだ。君に言われるまでもなく、俺のはらわたは煮えくり返っているよ」
「はい」
「だがな、早川君。復讐とか代償は払ってもらうなどということは止めておけ」
「……」
「君がやらなくても、そんな会社がいつまでも生き延びていられるほど、世の中は甘くないよ。追っ付けおかしくなるに決まってる」
「はい」
「こんな大事な時期に、そいつらの為に、時間を割くなんて愚行は止めといたほうが良い。設計コンペの方に精力を注いだほうが良いと思うけどな」
「……はい」
「コンペに優勝することで、相手の鼻をへし折り、苦い思いをさせるのも手だろ?」
早川はその通りだと思った。自分の浅はかさを痛感した。思い上がった考えだった。
「いいか? これは部長としての命令だ。相手への復讐はコンペで優勝することで達成出来る。それ以外の方法は一切考えてはならない。……いいな?」
郷田は早川がどのような行動を起こして、どういう方法で復讐という目的を達成するかは大体予測できた。この男なら目的は達成するだろう。しかし、それは一つの手段に過ぎない。方法はいろいろある、ということを早川に分って欲しかったのだ。
「部長、良く分りました。浅はかでした。思い上がった考えでした。申し訳ございません」
「君には仕事以外のことで、散々苦労を掛けてしまって、すまないと思ってる」
「とんでもございません。力不足を痛感いたしております」
「俺の頼みを聞いてくれ。この一件が解決したら、すぐにでも本業に専念してくれ。そして、必ずコンペで優勝してくれ」
郷田は頭を下げた。沈痛な表情である。部下に頭を下げるなければならない辛さは、二度と味わいたくない。
「あ、部長、頭を上げてください。……かしこまりました。そのように致します」
郷田は、早川のこれまでの凄まじいばかりの調査力、行動力、そして高い分析力が、社内情報漏洩事案の、早期の解決に繋がったと思っていた。おそらく、早川なしでは、この結果は決して導き出せなかった筈だ。実に頼もしい青年である。
早川は、これで、社内情報漏洩事案は一件落着と思った。後は全て部長に任せておけばいいと思った。それも来週一杯でケリがつく。再来週からは何もかもが正常に戻る。これでまた、設計コンペに向けて精力的に作業出来ると思った。少し遠回りはしたが、これまで以上に充実した仕事が出来そうだと喜びをかみしめていた。
早川は部長室から出たその足で、二階の設計室に向かった。設計室のドアを開け岩田課長の席を見た。課長の席は空いていた。一課の面々が一斉に早川を見た。早川はみんなに軽く会釈した。田部井も島田も知らぬ顔をしている。若林が熱心に仕事をしていた。近づいて肩を叩いた。
「あ、リーダー、おはようございます」
「おはよう。昨夜はありがとう」
「いいえ、こちらこそ、いろいろありがとうございました」
「最高に盛り上がったね」
「ええ、みんなの評判も上々です。お陰様で私もいい顔が出来ました」
「うん。良かった、良かった」
「また、やりましょう」
「おいおい、今度はどこに飛ばすんだい」
「あはは、これは失礼しました」
「みんなに、一人一人お礼言いたいけど、出来そうもないから、悪いけど、君からよろしく言っておいてくれないかなあ」
「はい。分りました。相変わらず律儀ですね」
「いや、みんながいて俺がいる訳だからさ。……ところで課長は? 誰かと打ち合わせ?」
「違うんですよ」
若林は右手を枕にした。
「えっ、じゃあ、二日酔いで欠勤?」
「さっき、係長に電話があったみたいです。重病みたいな声だったそうですよ」
「天罰だな。いくらただ酒だからといって、あんなにがぶ飲みしたら、誰だっていかれるよさ。焼酎を生で飲むんだよ。信じられないよ」
「全くですね。呑兵衛はあれだから始末が悪いですね」
「うん、言えてる。……そっかあ、じゃあごめんだけど、よろしく言っといてくれる?」
「はい。分りました」
夕刻になり悟は亜希子を駅まで迎えに行った。亜希子とは毎晩のように電話で話してはいたが、逢うのはあの時以来である。
「食事まだでしょう?」
悟は、久しぶりに逢う亜希子の顔を見ながら言った。
「ええ、一緒に食べたいと思って」
「うん。ありがたいね」
二人は駅近くのレストランに入った。夕食時のレストランはかなり混んでいた。
「遠いところを大変だったね。……疲れてない?」
「ううん、大丈夫よ。悟さんこそ、仕事帰りだし疲れてない?」
「昨日から、亜希子に逢えるんだと思って、その一日の長いこと長いこと、それで疲れたよ」
「ふふふ、ありがとう、逢えて嬉しいわ」
「久しぶりだからね」
二人は食事を済ませてコーヒーを頼んだ。どちらともなく目と目を見詰めた。亜希子は悟に逢えた喜びに浸っている様子だった。しかも気のせいかこれまでになく弾んでいる。
「何かいいことでもあったの?」
悟は亜希子に尋ねた。
「どうして?」
「顔に書いてあるから」
「うふふ、私ってダメね。すぐ顔に出るから」
「その方が、何を考えてるか分らないより、分り易くっていいよ」
「まあ、お褒めに預かりまして、ありがとう」
亜希子はくすくす笑った。
「あはは、そう言う自分もすぐ顔に出るかもね」
「ううん、悟さんは分らない時があるわ」
「えっ、そうかなあ」
「ええ、何となくだけど。でも、叩いたら音が出るからその時分るわ」
「ははは、また太鼓にされちゃったね」
「ふふふ」
「で、いいことって何なの?」
「聞きたい?」
「うん聞きたい。……何なの?」
「二つあるの」
「ほォー、二つもいいことがあるんだ」
「そうなの。一つはね?」
「うん」
「君ちゃんのこと」
「君ちゃん? 君ちゃんがどうしたの?」
「聞いて驚かないでね。結婚するの」
「えっ、結婚?」
悟は思わず大きな声を上げた。廻りの客がこちらを見た。
「ふふ、だから言ったでしょう。驚かないでって」
亜希子は、顔を早川に近づけて、そっと囁いた。
「そうか、君子さんがねえ。それはいい話だね」
「そうなの。君ちゃん、ここまで来るまでに、いろいろあったからね」
「そうなんだ。じゃあ、嬉しいだろうね」
「それはもう大変だったわ。この前女子高の同窓会があってね」
「ああ、この前電話で言ってたね」
「そうそう、その時、君ちゃん嬉しくって大はしゃぎだったわ」
「そうか、それは良かった」
早川はしみじみ言った。レトロ列車や展望レストランやスナックでの君子の様子を思い出していた。
「で、式はいつなの?」
「ほんとはね、君ちゃん達はほとんど同棲に近かったから、いまさら式なんてって言ってたのね」
「うん」
「でも、やっぱりけじめだからって、結局式を挙げることになったの」
「そう」
「式はね、来年の六月だそうよ」
「そうなんだ。ジューンブライドだね。六月の花嫁は幸せになれるっていうからね。……まだ少し間があるね」
「ええ、でね、悟さんにも出席して欲しいんですって」
「えっ、俺も?」
「ええ、二人で出席してって聞かないの。ねえ、お願い。出席してあげて」
「そうだよね。考えて見たら、アキに逢えたのも君ちゃんのお蔭だもんね」
「そうよ。アキの一番の親友の目出度い日ですもの。大いに祝ってあげて欲しいの」
「そうだね、あんまり付き合いのない俺にまで出席して欲しいなんて、ありがたい話だね」
「ええ、ほんとよ。……あ、そうそう、それとね」
「うん」
「新婦のお友達ということで、スピーチして欲しいんですって」
「えっ、それは勘弁してよ。だって君子さんのこと良く知らないじゃない」
「そうね、悟さんだと、新郎がヤキモチ妬くかもしれないしね」
「それはないと思うけど、とにかくそれは勘弁して。アキから良く言っといて。ねっ」
「ええ、分ったわ。じゃあ、出席だけはオーケーね」
「うん、喜んで」
「私も嬉しいわ。悟さんと一緒出来るから」
「で、二つ目の良い事って?」
悟は身を乗り出して催促した。
「二つ目はね、悟さんとも関係あること」
「俺に?」
「そうよ。でもこんな場所では言いたくないわね」
「そうか、じゃあ、その話は後でゆっくり聞くとして、一昨日言ってた大事な話って言うのは?」
「ええ、それも後でゆっくりお話しするわ」
「そうだね」
早川は珈琲カップを口に当てた。
「そうか、君ちゃんがねえ、結婚かあ、嬉しいだろうなあ」
悟は改めてしみじみと呟いた。
「子供が一杯欲しいんですって」
「人生苦あれば楽ありだね。いや、ほんと幸せになって欲しいよね」
「ええ、君ちゃんは意外と家庭的だから、上手くやって行けると思うわ」
「そうあって欲しいね。いやあ、良い話だね」
悟は自分のことのように喜んだ。亜希子は、悟がことのほか喜んでくれたことが嬉しかった。
「悟さんにそんなに喜んでもらって、アキも来た甲斐があったわ」
「でもアキは少し寂しくなるね。君ちゃんと今までみたいに自由に会えなくなるから」
「そうね、しかも大阪でしょう。仕方ないわね。でも私には、悟さんが傍にいて下さるから」
「うん。それにしても良い話だ」
二人はレストランを後にした。
「ホテル予約してあるの?」
悟は携帯を取り出しながら亜希子に尋ねた。もし予約してなければ、携帯から予約しようと思っていた。
「ええ、予約してあってよ」
「そうか、じゃあ、この辺をブラブラしようか」
二人がホテルの部屋に入ったのは十時を少し廻っていた。ドアが閉まるか閉まらないうちに、二人は強く抱き合った。
「逢いたかったわ。とっても逢いたかったの」
亜希子が悟の首に両手を巻きつけながら言った。
「俺だって同じだよ。最近は仕事も手につかないくらいだよ」
「逢えて嬉しいわ、……悟さん愛してるわ」
「愛してるよ、……亜希子」
暫らくの間二人は、無言のまま抱き合っていた。
シャワーを浴び浴衣に着替えて、冷蔵庫のビールをコップに注ぎ乾杯した。亜希子は一段と美しくなっているように見えた。濡れた髪をアップし、あらわに見える細い首筋は、妖艶の美しさである。久しぶりに逢う亜希子に、悟は抑えきれない衝動を持て余していた。
「ああ、美味しい。もう一杯頂戴っ」
亜希子がビールを要求した。
「ほォー、いけるね、どうぞどうぞ。ほんと、湯上りの一杯は何とも言えないね」
「ええ、あんまり飲めない私でも、美味しくいただけるわ」
「仕事柄、棟上式とか落成式に良く出席するけど……」
「ええ」
「必ずお酒が出るじゃない?」
「そうでしょうね」
「俺は飲めないから、ああいう式典は苦手でね」
「立場上、出席しない訳いかないでしょうしね」
「そうなんだよね。でも、アキと飲むビールは格別でいくらでもいけそうだね」
「悟さんて、ほんとに酔っ払ったらどうなるのかしら」
「さあね、……自分にも分らないね、どうなるか。……そうそう、今思い出したけど」
「ええ」
「今の会社に入社した時、……もうだいぶ古い話だけど、歓迎会があって」
「ええ」
「その時、先輩達に嫌というほど飲まされてね」
「ええ」
「新入社員のくせに、俺の酒が飲めないのか、なんて脅されたもんだから」
「ふふふ」
「笑い事じゃないよ、もうきつくてきつくて」
「それで、どうなったの?」
「おしっこをしたくなったから、トイレに行った訳」
「ええ」
「確か、ズボンのチャックを下ろしたところまでは覚えているんだけど」
「えっ、どうしたの? 後は覚えてないと言うの?」
「気がついてみたら、先輩の家に寝てた訳ね」
「まあ、驚いたでしょう?」
「それがまた傑作でさ」
「ええ、どうしたの?」
「実は先輩の奥さんだったんだけど、女の人が、俺の額に乗せてくれていた冷たいタオルを、取り替えようとした時と……」
「ええ」
「俺が目を覚ました時とが殆ど同時だった訳」
「ええ、ええ」
亜希子は、興味ありげに身を乗り出してきた。
「その時は、先輩の奥さんとは知らなかった訳だよね」
「ええ、それでどうしたの?」
「俺のすぐ目の前に、その女の人の顔があって」
「それで?」
「うん。酔った勢いで、女の人とホテルにでも入ったのかと勘違いした訳。……内心、しまったと思って」
「ふふふ、それでどうしたの?」
「廻りを良く見れば、すぐ状況が飲みこめた筈なのに」
「そうね」
「頭が朦朧としていたし、訳が分らない状態だったからね」
「ええ」
「慌てて顔をそむけて飛び起きて、土下座して謝った訳。すみません。許してくださいってね」
「ふふふ、面白いわ」
「そしたら、先輩と奥さんが、タタミを叩いて大笑いしてね。もう、恥ずかしかったよ」
「うふふふ、とっても面白いお話ね」
「後で聞いたんだけど、チャックは、不思議とちゃんと閉じてあったみたいだけどね」
「それは幸いね。もし開いてたら、それこそ大変だったわね」
「暫らくは、社内でもこの話でもちきりでね。何処へ行っても、この話ばっかり」
「一躍有名になったりして?」
「そうなんだよ。あれには参ったね」
「今夜もそうなるといいわね」
「えっ、どうして?」
「そしたらアキが、その奥様の変わりをしてあげるわ」
「アキに土下座して、すみません。お許しくださいって言うの?」
「ふふ、そうね」
「あははは、勘弁してよ。もうこりごりだよ」
「悟さんの弱点が見つかったって感じね」
「うん。弱点かもね。でもそれ以来、お酒飲んでも、絶対飲まれないようにしてるけどね」
「そうは言っても、雰囲気や付き合いによっては、飲まざるを得ない時ってあるでしょう?」
「そうなんだよね。特に建設業界は飲むのが派手っていうか、飲まない奴は悪みたいな雰囲気があるからね。口には出さなくても、俺の酒が飲めないのかなんて、そんな風潮があるから、どうしても無理するんだよね」
「で、ついついお酒に酔い潰れてしまって、意識が朦朧となってしまう訳ね?」
「ほら、聞いたことない? 極度に泥酔して、道路の真ん中で寝てしまって、車に引かれて死んでしまったなんて話」
「そうそう、たまに新聞なんかに載ったりするわね。北国では凍死なんてこともあるみたいね」
「幸い、車に引かれないにしても、次の朝起きて、道路に寝ていたことなんか全く思い出せないから始末が悪い」
「ある瞬間から意識っていうか記憶が、ぷっつり吹っ飛んでしまうのかしら」
「きっと、そうなんだろうね。さっきの話の続きだけど、自分もどうしてこうなったのか、さっぱり分らなかったからなあ。先輩に聞いて、ああだったこうだったと説明されても、さっぱり記憶にないから恐ろしいよね」
「だけど、実際にお酒を飲んで、極度に泥酔して意識が朦朧となって、朝起きて見たらホテルのベッドに寝ていて、隣に女の人がいたなんてことあるのかしら」
「その話良く聞くよね。だけど、どういう経緯でそういう風になったかが、記憶に全くないから困ってしまうよね」
「まあ、……じゃあ、エッチしたことも覚えていない訳ね?」
「多分そうだと思う。だから、エッチしたかどうかは、状況証拠でしか分らないかもね」
「状況証拠って?」
「下着を着ていなかったとか、シーツが濡れていたとか」
「なるほど、だけど、エッチしたという意識や記憶がない訳だから、そういう場合どうなるのかしら」
「どうなるって言うと?」
「女の人がエッチしたと主張したら? したことになるのかしら」
「あはは、どうだろう、男性の方はエッチした記憶がない訳だから、いくら主張されてもねえ、……難しい問題だね」
「ふふ、面白い、身体の中から、証拠の液体を取り出すしかないわね」
「あはは、出来る訳ないじゃん。……あはは、それは出来ない」
「でも、そういう事って意外とありそうね。男性に限らず、最近の女性だったらありそうね」
「うん、ありそうだね、……ちょっと質問してもいいかな?」
「ええ、いいわよ」
「もし万一俺がそういう具合になったら、アキは俺を許す?」
「なったらって、アキに一部始終を報告する訳?」
「言うべきでしょう?」
「さあどうかしら、言う美徳と、言わない美徳があるんじゃない?」
「えっ、どういうこと? 言わなくてもいいってこと? それとも、言うべきじゃないってこと?」
「アキの気持は、そういう話は聞きたくないってことよ。もちろん、泥酔して意識が吹っ飛んでしまって、成行き上そうなってしまったという事ではなくて、意図的だったのなら、とても許せない問題だと思うけど、自分の記憶にないようなことをどう説明するの? 実はかくかく云々で、隣に女の人がいたんだよっていうの? エッチしたかどうかさっぱり記憶にない、って言うの?」
「そう言うより仕方ないよね?」
「それだったら、言わないほうがましよ。アキの心に、余計な思いが生まれてしまうでしょう?」
「それはそうだね。正直に言うことで、アキの心を傷つけてしまうようなことは、むしろ言わないで欲しいと言うこと?」
「そうよ、アキは最終的に、悟さんがアキの心を大事にしてくれて、その心に寄り添って生きていてくれたら、それで充分よ。身体は歳を取って肌が衰えてシワだらけになって醜くなるけど、心はいつまでも歳を取らないでしょう? だから、もちろん、アキの身体をいつまでも抱いて欲しいと思うわよ? でも、それよりも心をもっと大事にして欲しいわよ」
「それは、言われなくても良く分っているつもりだけどね。……秘密を持つことになるんじゃないかと思って、それが嫌なんだよね」
「その気持ち良く分るわ。悟さんの素晴らしい考え方よね。……でも不慮の出来事が起きて、そのことを大好きな人に明らかにすることが、いいのかどうかという問題はまた別だと思う。言わない方がいい場合もあるわよ。いい意味の秘密があってもいいと思うわ」
「……」
「今は男女間の話だけど、二人で生活すれば、これから、いろんなことが一杯出てくるでしょう? 会社や仕事のこととか子供のこととか、親や子、親戚、挙げたら切りがないくらい一杯あるわよ」
「だね、確かに」
「だから、もちろんお互いが、良く相談しながら事を進めていかなければいけないと思うけど、結局はアキは悟さんのことを、悟さんはアキのことを思いやりながら、自分の責任で物事に対処していくことも、とても大事な心構えだと思うの。それがお互いを傷つけないで、いつまでも明るく楽しく暮らせる唯一の方法なような気がしてるわ」
「なるほど、アキって凄く包容力があるんだね? 驚いたよ」
「ふふ、変な質問するからこんな話になったのよ。……早い話、悟さんにお願いしたいのは、さっきも言ったように、どんなことがあってもいいから、死ぬまでアキに寄り添って生きてさえくれれば、それでいいの。全て許してあげる」
「全て許すって良く言うよね。……じゃあ、聞くけど、例えば俺が浮気しても許すの?」
「浮気でしょう? 本気じゃなかったら許してあげる」
「えっ、何だって? 期待外れの言葉が返ってきた」
「えっ、なんて言って欲しかったの?」
「絶対ダメって言うかと思った。少しがっかりかな」
「ふふふ、だから言ったでしょう? 本気じゃなかったらって。その代り、私には絶対に分らないようにして欲しいわね。これは、夫婦が上手くいく為のエチケットよね」
「ほんとにそう思ってるの? 浮気だよ。アキ以外の女の人と付き合うってことだよ。セックスするかもしれないんだよ。いいの?」
「ええ、いいわよ、今さっき言ったように、悟さんの身の回りでどんなことがあってもいいから、死ぬまでアキにぴったり寄り添って生きてさえくれれば、アキはそれでいいの。最終的にアキの元に戻って来てくれれば、アキはそれで充分よ。セックスがすべてじゃないと思ってるわよ」
アキの意外な発言に、悟は少なからず驚いた。信じられなかった。
「そう開き直ったような言い方をされると、却って何にも出来ないかもね」
「ふふ、そう思う? だったらそれが正解かもね。でも、これは悟さんの為に言っておきますけど、浮気の弾みで、子供だけは絶対に作っちゃだめよ」
「あちゃー、そこまで言うの? あはは、なるほど、アキは凄いね。びっくりしたなもう」
「悟さんはそんな軽はずみなことはしない、という思いもあって言ったのよ。でも、人間何があるか分らないから、万一そういう事になってもいいわよと言いたかったの」
「重要なのは、身体ではなくて心だということだね? 心まで奪われたら絶対ダメだと言いたい訳だね?」
「まさにその通りよね。でしょう? 何が一番大事かって、心ほど大事なものはないと思うわ。その大事な心が、私に向いていさえすれば、少々のことは許せると思うわ」
「なるほど、そう言われればそうだね。本質を突いているね」
アキの考えは意外と当たっているかもしれない。浮気しちゃダメだとか強く言われると、男は却ってするものだと言うことを思っているのかも知れない。アキの人生観を改めて見たような気がした。
「どうして、こんな話になったんだっけ?」
「悟さんは、ほんとに酔っ払ったらどうなるのかしら、とアキが言ったからじゃなかった?」
「お、そうだよ、何だか変な話になっちゃったなあ」
「じゃあ、今度はアキからも質問してもいい?」
「あ、うん。いいよ、何?」
「アキが、さっきの悟さんみたいになったら、許してくれる?」
「えっ、……えっ、気がついてみたら横に男の人がいた? おいおい、良く言うよ」
「ふふ、万一そうなったらどうする?」
「アキはそんなことにはならないと思うけど、万に一つそうなったら絶対に許せない。うん。許す訳にはいかない。すぐ離婚だな。……あれっ、俺の心、狭いかなあ」
「それが正解よ。その辺はよく心得ていますから、ご心配には及びません」
「もちろん全く心配はしていないけど、ああびっくりした。……でも、これって男のエゴかなあ」
「違うわよ。当たり前の話よ。女は逆にそう言われれば嬉しいものよ。……うん、許してあげると言われたら、愛が冷めている証拠と受け取って、多くの女性は多分がっかりする筈だわ」
「何だか、またまた変な話になってしまったなあ」
「ふふふ、そうでもないわよ。たまにはこういう話もいいかも」
「だね」
久しぶりの会話は夜がふけるまで続いた。亜希子も悟も酔いが廻り赤い顔になった。
「さっきの話しの続きは明日にしようか?」
「ええ、二番目のいい話のこと?」
「そうそう、今夜は遅いし明日にしよう」
「そうね。今夜は夜明けまで飲みましょう?」
「おいおい、大丈夫かよ?」
「ふふ、冗談よ、……ねえ……」
「うん」
二人はそのまま横になった。
次の土曜日の朝は、あいにくの雨で少し肌寒かった。ほとんど夜明け近くまで起きていた二人は、目覚めが昼近くになってしまった。
「何処か行きたい所ある?」
悟は亜希子に尋ねた。
「この雨ですもの、何処も行けないわね」
「晴だったら、ディズニーランドでも行こうと思ってたけど、またにするかな」
「いいわねディズニーランド。行って見たいわ」
「行く?」
「ううん、この雨じゃあ、おそらく楽しくないわね。今度来た時連れてって?」
「そうだよね、で、どうする? 何だったら、車取りに帰ってもいいけど」
「ううん、傍にいて」
「今夜もこのホテル?」
「そうよ」
「じゃあ、この辺でのんびりするかな?」
「ええ、その方が嬉しいわ」
ホテルの正面に地下鉄の入り口があった。ほとんど雨に濡れずに地下への階段を降りると飲食街があった。二人は朝昼兼用の食事を済ませ、珈琲専門店に入った。昼時にしては、さほどお客は居なかった。コーヒーの香りがツーンと鼻をつく。店内は、広い割りには天井が低い。壁に掛かった絵画が、薄明るいライトに照らされていた。クラシック音楽が静かに奏でられ、店内のムードをかもし出していた。二人は奥の隅のテーブルに腰を下ろした。
「静かだね」
「ええ、これから賑やかになるのかしら」
「最近の珈琲専門店は、客の入りが少ないみたいだね」
「今流行りの外食産業に押されてるのかしら」
「そうかもしれないね。こんな一等地で、たったこれだけの客じゃ、大変だろうね」
頼んでおいた珈琲が来た。
「あのね、昨日の続きね」
「ああ二つ目のいい話、俺にも関係あるって言ってたことだね」
「そうなの。何だと思う?」
「さあ、何だろう。俺にとっていい話? それともアキにとっていい話?」
「ええ、二人にとっていい話よ」
「なんだろう。まさか、アキのお父さんとの仲が良くなったとか?」
「それは今のところないわね。……でも近い」
「近い? お父さんのこと?」
「そうなの。……あのね」
「うん」
「父が今度、長期の出張に出るの」
「長期って? どのくらい?」
「三週間よ」
「へぇーー、それはまた長いね。いつから?」
「再来週の週末からですって」
「また急な話だね」
「しかもね、今度は母も一緒なの」
「へぇーー、夫婦揃って出張? 長期に家空ける訳?」
「そうなの、でも、長野の本社は、代わりの人がいるから安心らしいの」
「それがどうして嬉しいの? 却って大変じゃない?」
「ううん、長期出張が嬉しいって訳じゃないのよ。父の出張は良くあることだから」
「あ、そうなの? じゃあ、何なの?」
「あのね、悟さんに電話した前の晩にね」
「と言うと、水曜日の日?」
「そう、その晩に、アキね」
「うん」
「出張前がいいと思って、勇気を出して、思い切って父に相談してみたの」
「何を相談したの?」
「悟さんのこと」
「えっ、ほんと? また思い切ったことしたね。……爆弾落ちなかった?」
悟は、八王子のホテルで亜希子の口から出た、作戦のことを思い出していた。
「もちろん、覚悟決めて相談て言うか話したのね」
「で、どうだったの? お父さんの反応は」
悟は、亜希子がまさかこんなに早く、自分のことを父親に話すとは思ってなかっただけに、亜希子の大胆な行動に驚いた。
「ええ、最初びっくりしてたわ」
「それはそうだろうね。寝耳に水ってやつだから」
「そうよね、で、もうてっきり怒られると思ってたから、内心ビクビクだったのね」
「うんうん。で、どうなったの?」
「好きな人出来たの、って言った訳ね。そしたら意外にも怒らないの」
「へぇー、どういう風の吹き回しかねえ」
「父は寂しそうだったわ。……それでね」
「うん」
「父がね、そいつは、どんな奴だって言うのね」
「何て答えたの?」
「ええ、アキが思ってることや、感じてることや、悟さんの仕事のことなんかを正直に話したの」
「うん」
「そしたらね、そうか、出張から帰ったら、そいつを連れて来いですって」
「怖そうだね、行ったら、いきなりぶん殴られたりしてね」
「ううん、そんなんじゃないみたい。父はそういう言い方しか出来ない人だから」
「そうだといいけどなあ」
「大丈夫よ。その時は例の作戦でいくから」
「この前の話の?」
「そうそう、だから大丈夫。……いい話でしょう?」
「そっかあ。俺のこと話したんだ」
「まずかった?」
「いや、遅かれ早かれ、いずれはこうなるんだったら、早い方がいいけどね」
「でしょう? 私も、いつまでも悶々としたくなかったの」
「よくお父さんに話してくれたね。勇気がいったね」
「ええ、最悪の場合の覚悟は出来てたから言えたのかも」
悟は亜希子の突進力に驚いた。
「最悪の場合は、どうするつもりだったの?」
「ほんとに家を飛び出すつもりだったの」
「うん」
「父はそれを察したみたい。そうされると困るのよね。父は世間体があるから」
「亜希子は強いね。……驚いたよ」
「それが出来たのも、悟さんのお蔭よ。一人だったら、おそらく出来なかったと思うわ」
「お父さんの気持ちを思うと、可哀想な気もするけどね」
「ええ、でもこれは、亜希子の人生のことでもある訳でしょう?」
「もちろんそうだけど、お父さんにしてみたら、後継者のことは心配の種だろうからね」
「ええ、そのことも話に出たわ。父はしみじみ話してたわ」
「そうか、辛かったろうね」
「でね、真理子の話になってね」
「妹さんの? 妹さんに養子をということ?」
「ええ、それで私、猛烈に怒ったの。子供だからって親の道具じゃないわよって」
「アキは怒ると怖そうだね」
「ふふふ」
「それにしても、思いきったことを言ったね? 怒られたでしょう」
「ううん、そしたらね、お前の言うのも一理あるって、呟くように言うの」
「へぇー、想像も出来ないね」
「でしょう? この時アキね、父親が歳を取ったって感じたの」
「うん」
「今までは聞く耳がなくて、自分の思うようにならないと、手がつけられなかったの」
「うん」
「一代で築き上げてきた会社だから、身内に後を継がせたかったらしいのね」
「それはそうだね。当然な考えだよ」
「ええ、でも最後に父がぽつりと言ったの。親は、子供達が幸せになることが一番嬉しいことだって」
「うん」
「そしてね、会社を継がせることが、一番幸せと思ってこれまで来たけど、そうでもないなって」
「うん」
「それを聞いて私、父に悪いことしたんじゃないかって、泣けてきたの。そしてね」
「うん」
「泣きながら、お父さん我がまま言ってごめんなさい、って言ったらね」
亜希子はその時のことを思い出したのか、少し目が潤んできた。
「うん」
「いや、お父さんが悪かった。会社の後継ぎは、今の重役達に任せればいいさ、って言うの」
「そう」
「父の顔が、可哀想なくらい急に老けて見えてきてね。父のほんとの姿を見た気がしたの」
亜希子の目から涙が溢れた。悟は、亜希子にハンカチを渡しながら言った。
「ふーーん、そうだったのか。それにしても、信じられないくらいの急変だね」
「そうよね、なりふりかまわず事業に専念してきた父だから」
「うん」
「後継者のことでは、ここ数年間ずっと悩んできたみたい」
「そうだったのか」
「ええ、でね、おまえと真理子には、これまで父親らしきことを一度もした事ないから」
「うん」
「その罪滅ぼしに、会社は他人に譲って、これからは家庭サービスでもするか、だって」
「ふーん、そう」
「そして、最後にね」
「うん」
「息子が出来なかったのが、俺の一生の不覚だったって言ったの」
「うーーん。お父さんの痛恨の叫びだね」
「そしてね」
「うん」
「俺も余生を母さんと楽しく暮らしたいから、おまえ達も仲良く好きなようにしていいぞ、ですって」
「ほォー、えらい変り様だね」
「ええ、どう思う?」
「まともに取れば良い話だけど、まさか、お父さんの一世一代の大芝居じゃないだろうね」
「ええ、余りの変わり様だったからアキもね、ちょっとおかしいとは思ったの。それでね」
「うん」
「真理子も母も同席させたの」
「うんうん」
「そしたら父は、少し慌てたみたいだったのね」
「うんうん」
「で、私が言ったの。この話、お母さんもご存知なのって」
「そしたら?」
「前の晩に、夫婦でじっくり話し合ったらしいの」
「へぇーー、じゃ本物じゃない?」
「ええ、母もとっても喜んだみたい。長い間神経すり減らして来たから、父には」
「そうだろうね。お母さんが一番苦労したろうね」
「ええ、夫婦で結論出したみたいよ。お金も貯えたから、これからは母さんと人生を楽しむかって」
「うん」
「母はそれを聞いて、嬉し涙が止まらなかったわ」
「そうか、そうか、良かったね。で、妹さんの反応は?」
「それが傑作なの」
「えっ、何かあったの?」
「妹の真理子も、そんな父の変り様が、信じられないみたいだったの」
「それはそうだよ。誰だって信じられないさ」
「でね、妹が父に向かって言ったの。お父さん、それほんとなの? って」
「うんうん」
「そしたら父は笑いながら、こんな父の笑顔見たことなかったんだけどね」
「うん」
「こう言ったの。そうだ。ほんとの話しだ。お前達にも厳しく当って、悪かったと思ってるって」
「うん」
「そしたら、これからが面白いの」
「へぇーー、どうしたの?」
「真理子がね」
「うん」
「お父さん、私、養子縁組の話、乗ってもいいわよ、ですって」
「ほんと?」
「私、びっくりしちゃって。だって、私以上に嫌がってたからね、妹は」
「うん」
「そしたらね、父が一瞬驚いて、妹の顔を見た後母の顔を見たの」
「うんうん」
悟は成り行きに興味を持った。
「そしたら、母が首を横に振って、もういいじゃない、と言うような顔をしたの」
「うん」
「前の晩に、相当突っ込んで話し込んだみたいね。父も笑顔で頷いて言ったの」
「うん」
「真理子、ありがとう。だけどな、お前達にはもう、母さんみたいな苦労はさせたくないからな……」
亜希子がまた涙ぐんだ。
「苦労は母さん一人でたくさんだよ。って父が言ったら妹がね」
「うん」
「お姉さんはおそらく無理だと思ってたから、私が何とかしようと思ってたのに、って言うのよ」
「驚いたね、ほんとにそう思ってたの?」
「ええ、妹には彼がいるのね。その彼に、それとなくその話してたみたいなの」
「えっ、ほんと?」
「ええ、で、妹が父にその話ししたらね」
「うんうん」
「父がね、そうか、そうだったのか。……だが、その話はもういいよ。諦めてくれと言うと」
「うん」
「妹がね、せっかく彼もその気になってるのに、って怒ったように言ったの」
「うん」
「そしたら父が、妹に諭すように、こう言うの」
「うん」
「いいか真理子、彼に言いなさい。その話は都合により、中止になりましたってな」
「そしたら妹さんなんて答えたの?」
「ええ、黙ってたわ。がっかりしたみたいだったわ」
「そうか」
「父は続けてこう言ったの。この話をして、彼の真理子に対する態度が変らなかったら本物だ」
「さすがだね、お父さん」
「ええ、長くなったけど、そういうことでした。いい話でしょう?」
「とってもいい話だね。……だけど、お父さんをそういう気にさせたのは何だろうね」
「分らないけど、おそらく、会社のことが原因じゃないかしら」
「と言うと?」
「会社が大きくなり過ぎて、役員間でいろいろあるらしいのね」
「よくあることだよね」
「ええ、だからここで、婿養子を後継者に据えても、苦労するばっかりだと思ったのかもしれないわね」
「そうかもね。苦労はお父さんが一番良く知ってる筈だもんね」
「ええ、それで潔く身を引こうと思ったのかも」
「うんうん。名誉や金や地位ばかりが人生じゃないからね」
「ええ」
「そうなると、お父さんが偉くいい人に思えてくるね」
「ふふ、まだ分らないわね。悟さんの言ってた、一世一代の父の大芝居かもしれないし」
「おいおい、信用してないの? お父さんを」
「信用してるわ。でも、父はしたたかだから最後まで分らないわよ」
「脅さないでよ」
「うふふ、冗談よ。多分大丈夫と思うわ。もう安心だと思うわ」
「じゃあ、例の作戦は使わなくて済んだってことだね」
「下駄を履くまでは分らないけど、今のところはそんな感じね」
「ふゥー、良かったよ。……うん。良い話だ」
悟は胸でくすぶっていた物が取れたような感じがした。
「アキの努力に感謝します」
「あらまあ、他人行儀ね。全て悟さんのお蔭です。悟さんの力が私に乗り移ったのかも」
「ははは、いや良かった、……うんうん、良かったなあ」
「ねえ、もう一つ大事な話があるの」
「うんうん、その為に来たんだもんね」
「でもないわ、悟さんに逢いたかったのが一番よ」
「ありがとう。嬉しいよ。とっても」
「だって、悟さんのいない毎日って、ガス灯みたいでボーっとした感じよ」
「俺だって同じだよ。張り合いがないって言うか、身体中から力が抜けたみたいだよ」
「本を読んでても食事してても、頭の中にいつも悟さんがいて、逢いたくて逢いたくて……」
「仕事中にアキが出てきて、ボーっとする時があってね」
「ええ」
「部下に、最近主任はおかしいですよ、って言われたりしてね」
「大丈夫? 仕事」
亜希子は半分笑いながら尋ねた。
「大丈夫じゃないよ。仕事なんかもうどうでもいいよ」
「あらまあ、いけないこと。切れ者で通ってる悟さんらしくないわね」
「おいおい、他人事みたいに良く言えたもんだよ」
「ふふふ、病気になりそう?」
「そうそう、もう完全に病気だね」
「アキは、入院患者みたいだわ。重症よ。どうしてくださるの?」
「傍にいたら、甘い蜂蜜入りの注射を打ってあげられるのにね」
「じゃあ、今夜も打ってくださる?」
亜希子は顔を赤くして言った。
「今夜は大きな注射器で打ってあげる」
「うふふ、すぐ退院できそうね」
二人がクスクス笑った。
「ところで、大事な話しって?」
「ふふ、忘れるところだったわ」
「あはは、大丈夫?」
「いえ、大丈夫じゃありません」
「これは、やっぱり重症だ」
二人はまたクスクス笑った。
「あのね、大事な話しってね」
「うん」
「来週の土、日に長野に来れない?」
「えっ、どうして?」
「ええ、再来週、長期出張に出発するでしょう? 両親が」
「そう言ってたね、さっき」
「出張前に、両親と妹に会って欲しいの」
「その方がいいの?」
「父は、出張から帰ったら、そいつを連れて来いと言ってたけど」
「さっきの話ね」
「ええ」
「アキが考えて、来週の方がタイミング的にいい訳だね」
「そう思うの。さっき話したような訳だし、出張から帰った後だと、三週間後でしょう?」
「ちょっと長すぎるね」
「でしょう? アキ待てないわ。それに万一、出張中に父の気が変わらないとも限らないし」
「なるほど、それもそうだね。……いいタイミングかもね」
「ええ、父は驚くかもしれないけど、構わないわよ」
「うん」
「悟さんのスケジュール大丈夫?」
「それならそれで、段取りするから大丈夫」
「えっ、じゃ来てくださるのね? いいの?」
「そうしよう。……善は急げっていうからね」
「わァー、嬉しいわ天にも昇る心地よ」
「でも、そうなると、ちょっと緊張するね」
「ううん、もう大丈夫。私が上手く話しておくから」
「うん。任せるよ。それに、妹さんにも会っておきたいしね」
「ええ、じゃあ決まりね、……悟さんありがとう」
「何だか嬉しくて怖いね」
「ええ、いよいよって感じよ」
「うん。いよいよだね」
たまに聞こえる珈琲メーカーの音が、客の来店を知らせてくれる。二人の、特に亜希子を悩まし続けた父との問題が、ようやく溶けて行きそうな感じである。晴れ晴れとした二人の表情がそれを物語っていた。
コーヒー専門店を出た二人は、一旦地下街を出てみたが、雨は相変わらずしとしと降っていた。仕方なくまた引き返し、地下街から地下鉄に乗った。途中で傘を買い青山に出た。特に行きたい所がある訳ではなかった。雨の青山は風情があっていい。二人はただ何となくブラブラ歩いた。カラフルな傘が舗道に満開である。亜希子がブティックの前で足を止めた。
「また目の保養?」
「そうよ、さすが青山ね、この前と随分違うわね」
亜希子は、八王子のブティックのことを言っているらしかった。
「そうだね、なかなかのものだね。何か買いたいものでもあるの?」
「ううん、ただ見たいだけ、付き合って」
と言って亜希子は、傘を折りたたみ傘入れに入れた。
「はい。喜んでお付き合いしましょう」
「ふふ、飽きたら言って、すぐ出るから」
「いいえ、お気の済むまで、ごゆっくりどうぞ。俺も勉強させてもらいます」
「ありがとう。将来きっとお役に立ててよ」
亜希子は意味ありげに言った。二人は手をつなぎゆっくりと店内を見て廻った。時折亜希子が店員を呼びいろいろ質問をした。早川はもっぱら店内の雰囲気や照明やレイアウトに目がいった。
店舗の場合は当然ながら客の入りが大事な要素となる。色彩や照明や陳列の仕方や機具、レイアウトや客の動線がキーポイントとなる。売れ筋商品を何処に置くのか、どう飾り付けるのかも大事ではあるが、高級過ぎてもいけないし普通過ぎてもいけない。客が入りやすい店づくりが最も重要である。店員の接客態度やプライスのつけ方やBGMをどうするか。たかが店舗されど店舗。一歩誤ると店の存在は、あっという間に消滅してしまう。一等地の店には、一等地の店の悩みが尽きないのである。悟は仕事柄そんなことを思いながらじっくりと観察した。
それを見ていた亜希子が言った。
「悟さん興味ありそうね」
「いや、もしお客さんの要望があった時のことを考えて、いろいろ勉強中です」
「ふふ、設計技師やめて、こんな店でも経営したら?」
「あははは、とても無理だね。それに俺から設計の仕事をとったら、丘に上がった河童みたいなもんだよ」
「そうかしら、その技術を活かせるような気がするわ。店舗設計って素人じゃ難しいんでしょう?」
「そうだよね、商品が売れないと、それこそ大変だからね」
「そうね」
「それに、良い設計が出来ても、運用とか経営はまた別な能力が必要だからね」
「ええ、それもそうね」
「資金だって馬鹿にならないし、とても無理だね。俺はしがない設計技師で充分満足しています」
「ふふ、ご謙遜ね。私はそうは思ってなくてよ」
「どう思ってるの?」
「そうねえ、名選手名監督になる」
「あはは、それを言うんなら逆だよ。名選手必ずしも名監督にあらず」
「必ずしもでしょう? と言うことは、必ずなる選手もいるってことでしょう?」
「アキの屁理屈にはかなわないね」
「屁理屈じゃありませんっ」
「ははは、そういうことにしておきましょうかね」
「もう勉強終わりました?」
「うん。もう充分だね。そっちは?」
「お待たせしました。出ましょう」
二人はそれから赤坂と原宿の街をのんびり散歩した。亜希子は悟の腕に腕を絡ませ終始笑顔満面であった。いつしか雨がやんできた。途中で夕食を済ませ、ホテルに帰り着いた時には二十時半を廻っていた。
「アキ、ごめん。ちょっと夕刊買いに行ってくるから、先にシャワー浴びててくれる?」
このホテルは夕刊のサービスはなかった。
「ええ、いいわ。でも私が買ってくるわ。悟さん先にシャワー浴びたら?」
「いや、ちょっと、ほかにも買いたいのがあるから、自分で行ってくる」
悟はそのままドアを開けて外に出た。二十分ほどして、悟が手提げ袋を持って帰ってきた。
「長かったわね。夕刊、このホテルになかったの?」
亜希子はシャワーを浴び、髪の手入れをしながら言った。
「いや、夕刊だけじゃなかったから」
袋をテーブルの下に置き、悟はシャワー室に消えた。悟はある決心をしていた。シャワーを浴びながらそのことを考えていた。
「あァー、気持ち良かった」
悟がシャワー室から出て来た。同時に亜希子が寄り添ってきた。二人は窓辺に立って都心の夜の灯りを眺めた。
「亜希子」
悟は亜希子の眼を見て話しかけた。
「ええ、なあに?」
「二つだけお願いがあるんだけど聞いてくれる?」
「ええ、いいわよ。何なの?」
「一つ目のお願いは、……えーとね」
悟はドア近くのクロークに掛けてあった服まで足を運び、ポケットから包みを取りだした。そして今度はテーブルの下の紙袋から紙包みを取り出した。悟はその二つの包みを亜希子の前に差し出して、
「貰ってくれる?」
亜希子は驚いた様子で、
「私にプレゼント?」
「もっと早くにと思ったけど、今日になってしまった」
「まあ嬉しい。何でしょう。開けてもいい?」
「たいした物じゃないけどね」
亜希子は嬉しそうに包みを解いた。一つの包みからバラの花が出てきた。もう一つの包みからはネックレスが出てきた。
「わァー嬉しい。ありがとう、……ありがとう。……わァー、どうしよう」
亜希子は言いながら悟の胸に飛び込んできた。亜希子の甘い香りが悟の脳を刺激した。
「喜んでもらって嬉しいよ。掛けてあげようか?」
「ええ、お願い掛けて」
悟は浴衣の亜希子の後ろに手を廻しネックレスを掛けてやった。亜希子は鏡の前に立ち、自分の胸に掛けられたネックレスを見た。
「悟さん、ありがとう。……亜希子、幸せよ。……ありがとう」
亜希子はよっぽど嬉しかったと見えて、飛び上がらんばかりの喜び様であった。
「似合うよ。一段と綺麗に見えるよ」
「ほんと? うれしいっ」
亜希子は悟に抱きつきキスを求めてきた。早川は強く抱きしめてキスした。バラの花はテーブルに置かれた。
「それと、もう一つのお願いがあるんだけど」
悟は亜希子の唇を指で押さえながら言った。
「ええ、今度は何かしら?」
「その前に、これ」
悟はテーブルの下の紙袋からワインとつまみを取り出し、嬉しげにそれを亜希子に見せた。
「まあ素敵。……買い物ってこのことだったの?」
「どう、いいでしょう? 今日はアキと重要な儀式をしようと思ってね」
悟はグラスにワインを注いで、まず亜希子に渡した。慌てて亜希子が悟のグラスに注いだ。
「儀式? さてどういう儀式かしら」
亜希子はネックレスを握り締めながら、ワクワクしたような素振りを見せた。
「儀式だからご挨拶があるの?」
二人はグラスを一旦テーブルに置いた。
「ご挨拶ほどではないけど、俺にとってはとても大事なお願いです」
「何かしら」
「照れるけど、思いきって言うね」
「ええ」
「あのね、田舎の母親に、俺たちの子供を見せに行きたいのですが、承知していただけるでしょうか」
悟は緊張した面持ちで、亜希子の目をじっと見て話した。亜希子の顔がパッと明るくなった。そして言葉を失った。
「……」
「……」
暫らくして、亜希子が早川の顔をじっと見て、いきなり抱きついてきた。
「悟のバカ、バカ、バカ」
早川の胸を拳で叩きながら激しく泣いた。悟は亜希子の髪をやさしく撫でながら、成すがままになっていた。悟のプロポーズに、亜希子の胸に溢れんばかりの喜びが突き上げてきた。悟は来週、自分の父親にも会うようになっているし、二人は深く愛し合っている。結婚については語らずとも、もはや時間の問題ではあったが、改めてプロポーズされると、その嬉しさは格別なものがある。目に一杯の涙を見せながら、亜希子は悟の眼を見て微笑んだ。
「ありがとう、……ありがとう。……悟さん愛してるわ」
「じあ、ゃ乾杯しようか」
悟は洗面所からタオルを持って来て、亜希子に渡しながら言った。亜希子は嬉しそうにそれを受け取り涙を拭いた。二人は、テーブルに置いてあったワインの入ったグラスを高く上げ乾杯した。
「何かと苦労掛けると思うけど、俺はもう、亜希子なしでは生きて行けそうもないんだよ」
「私もよ。悟さんと一緒なら、どんな苦労も乗り越えられそうよ」
「ありがとう、……亜希子を世界一幸せにしてあげるから」
「嬉しいわ。私どんなことがあっても、悟さんについて行くわ」
亜希子はいつもの笑顔に戻った。
「亜希子との付き合いはまだ短いから、一緒になってから我が侭が出たり」
「ええ」
「誤解があったりするかもしれないけど、話しあっっていけば分り合えると思う」
「そうね。亜希子も同じ考えよ。私も完璧な人間じゃないし、悟さんを悩ますかもよ」
「それはお互い様だよ。他人同士が好きあって、同じ屋根の下で暮らす訳だから」
「ええ」
「それに、それぞれの親や兄弟や親戚の事もあるから、それなりに大変だよね」
悟は空になった亜希子のグラスにワインを注いだ。
「そうだわね。ところで、悟さんのお母さんお元気なの?」
「まだ元気だけど、何といっても田舎だし、寂しく暮らしてるみたいだよ」
「そうなの」
「だから、亜希子と俺の子供を早く見せに行って、元気づけてあげたくてね」
「悟さん親孝行ね」
「いや、小さい時から、母の苦労が身にしみて分ってるからね。母の喜ぶ顔が見たいだけだよ」
「そうだわね。どうして母親ばかりが苦労するのかしら」
亜希子は、自分の母の姿を思い浮かべて言った。
「時代が時代だったからね。仕方のない面もあるけど、男の勝手が過ぎたというか」
「ええ」
「我が侭が過ぎたというか、女性を蔑視する傾向が強かったからね」
「悟さんはどうなるのかしら」
「心配なの?」
「ふふ、そうじゃないけど、なんとなくね」
「そうなる原因の一つに、女性が家庭に引っ込みすぎる点もあると思うんだ」
「どうして?」
「男は外で仕事してる。つまり、社会との接点をいつも持っている訳でしょ?」
「そうね」
亜希子が悟のグラスにワインを注いだ。
「女性は家庭内で家事をし料理を作り、主人の帰りを待つ。だんだん社会との接点が薄くなる」
「ええ」
「もちろん、そういう人ばかりではないし、必ずしもそれが悪いとは言えないけど」
「ええ」
「そうなると、確実に社会性を失う。社会性を失うと、見えるものが見えなくなってくる」
「ええ」
「当然家庭内での話題と価値観に変化が生じてきて、さっき言ったようなことになってしまう」
「そうね。そういうことも言えるわね」
「もちろん、アキがそういうふうになるとは思ってはいないけど」
「ええ」
「俺は、出来ればアキにも、好きな仕事をして貰いたいと思ってるんだよ」
「ええ」
「アキの能力を、家庭内だけに留めておくのは勿体ないもんね。それに、いつまでも若若しくいて欲しいしね」
「家で悟さんの帰りを待つアキでなくてもいいの?」
「もちろん、その方が嬉しいけど、いつも同じ価値観を持って人生を歩む為だったら、それはなくてもいいと思う」
「悟さんが帰った時、アキが居なくてもいいの?」
「それは居た方が嬉しいけど、逆を考えてごらん」
「悟さんが家庭に居て、アキが働くということ?」
「例えばの話しだけどね。そうなったらアキは嬉しい?」
「うーーん、どうかしら想像できないわ」
「だよね。ただね、女性には、重大な問題が横たわっているからね」
「どういうこと?」
「子供のことさ」
「あ、そうね」
「子供をほったらかしにして仕事は出来ないでしょ?」
「もちろん、それだけは出来ないし、したくないわね」
「仕事と家事と子供の世話とを同時にこなすって、それはとても大変なことだからね」
「それを私にしなさいってこと?」
亜希子はニヤニヤしながら尋ねた。
「そう、はは、いや冗談だよ」
「私だったら出来てよ」
「ほォー、嬉しいねえ、何か考えでもあるの?」
「ええ、あるわよ。まだ悟さんには秘密にしてることが」
「えっ、おいおい二人の間に秘密はなしにしようよ」
「うふふ、その秘密にしてることが実現すれば、悟さんの思った通りになるわ」
「ほんと?」
「ええ、ほんとよ。聞きたい?」
「もちろん聞きたいに決まってるよ」
亜希子は、この事を悟に話すことをこれまでためらってきた。父の事や悟との結婚のことが、未解決だと出来ないことであった。それらのことが見通しのついた今、話しても良いと思っていた。
「お話しする前にちょっと待って」
亜希子はバッグから小さな箱を取り出し、
「はい」
と言って悟に渡した。
「えっ、何これ、もしかしてプレゼント?」
「ふふ、そうよ。悟さんに先を越されてしまって、渡すタイミングをなくしちゃった」
「あはは、そうだったの。悪いことしたね」
「ううん、却って良かったの。アキにとって、今日は一番嬉しい日になったから」
「開けてもいい?」
「ええ、開けて見て、気に入ってもらうと嬉しいけど」
悟は嬉しそうに箱の中身を開けた。
「おォーー、これはいいや。……ありがとう」
腕時計であった。
「いろいろ考えたけど。二人で一緒に時を刻めて行けたらいいなあ、と思って」
「うんうん」
「ありふれてるけど、それにしたの」
「いやァー、嬉しいなあ。何よりも嬉しいよ」
悟は自分の腕に時計をはめて見た。
「今日たった今から、この時計は二人の番人だね」
「気に入ってもらって嬉しいわ」
「亜希子、ありがとう大事にするよ。アキと思ってね」
「嬉しいわ。今まで持っていた時計はどうするの?」
「そうだねぇー」
「毎日、二つはめて会社に行ったら?」
亜希子は意地悪っぽく言った。
「あははは、まさか。そうだね、安物とはいえ、捨てるのももったいないから、一応持っておこうかな」
「そうね、それがいいわね」
ワインが二人を程よい心地にさせた。亜希子が、忘れていたかのようにBGMのスイッチを入れた。
「ねぇー、……」
亜希子が甘えたような声になった。
「うん」
「さっきの秘密のお話し」
「うんうん」
「明日じゃダメ?」
「ちょっと待って」
悟はグラスを空にし、代わりに水を注いだ。
「可哀想だからね」
悟はバラの花をコップにさした。
「綺麗ね」
亜希子は、さっき悟に掛けてもらったネックレスをはずしながら言った。
「でもアキの方がもっと綺麗だよ」
「ほんと? 嬉しいィー」
バラの花が、二人を祝福するかのように、艶やかな色彩を放っていた。
次の日の日曜日、二人は新宿に向かった。駅の南口を降りて右に曲がった。今朝食事をしながら亜希子が、悟の会社が何処にあるのか尋ねてきた。長野に帰る前に見てみたいというのである。
「そのうちと思ってたけど、今日行ってみようか」
「ほんと?」
「この前、ほら八王子に行くとき」
「ええ」
「例のジャズ喫茶から車で行ったでしょ?」
「ええ」
「その時、会社の前を通ったんだよ」
「そうなの? どうして教えてくれなかったの?」
「あの時は、アキを初めて自分の車に乗せたでしょ?」
「ええ」
「だから、そんな余裕がなかったんだよ。胸がドキドキで」
「ふふ」
「それに、何処に行こうか、とばっかり考えていたからね。それどころじゃなかったんだよ」
「じゃあ、今日ちゃんと案内して」
「今日は落ちついて案内出来るよ」
「うふふ、ありがとう楽しみだわ」
超高層ビル群が見えてきた。
「ほら、あのビルがそうだよ」
悟は勤務先の会社の社屋を指さして言った。
「あのエメラルドグリーンのタイルが貼ってある、あのビル?」
「そうそう」
「あそこの何階にいるの?」
「普段は二階だけど、今はコンペの作業で五階にいる」
「そうなの、あそこね?」
亜希子は、二階のあたりを指で指して言った。
「あの大きな窓があるでしょ?」
「ええ」
「あそこから毎朝、ほら、あそこの高層ビルを眺めるのが日課なんだよ」
悟は高層ビルを指差して説明した。
「そうなんだ。あんなビル設計したいんでしょ?」
「おや、良く分ったね」
「ふふ、顔に書いてあるわよ。あれよりでかいビルを設計してやるぞう、ってね」
「あははは、お見通しだね。参ったなあ」
「うふふ」
「あそこの喫茶店で休憩しようか」
「この前のジャズ喫茶はここから近いの?」
亜希子は、悟との運命を開いてくれた想い出のデート場所に、もう一度行ってみたかった。
「ああ、コルトレーンね。南口を過ぎてすぐだよ、そこがいい?」
「なんだか、もう一度行ってみたい気分よ」
「だね。俺もそう思うけど、でも、あそこは知っての通り、音がうるさいくらいでしょう?」
「それはそうね」
「大事な話をじっくり話し合うには不向きなような気がするよ」
「そうだわね」
「それに、今度からいつでも逢える訳だし、ほんとにジャズを聴きたい時に行く所だと思うよ」
「そうね、そうだわね。今度連れてってくれる?」
「喜んで」
二人は、新宿駅の方に引き返す途中の、角の喫茶店に入った。
「コーヒーでいい?」
悟は、案内されたテーブルの椅子に腰を下ろしながら言った。
「ええ、いいわ」
注文を待っていた店員に言った。
「コーヒー二つ。俺はブラックでね」
店の客の入りは少なかった。昼時には少しまだ時間があった。
「さあ、昨日の秘密の話聞こうか」
「ほんとに聞きたい?」
「もう、もったいぶって、早く聞かせてよ」
悟は亜希子をせかした。
「その前に質問してもいい?」
「うん。何?」
「悟さん、今の会社にずーっといる気?」
「えっ、また藪から棒に、何で?」
「ふふ、答えてどうなの? いる気なの?」
「そんなこと考えたこともないなあ。でも、いずれは自分の腕を試したいという気はあるけどね」
「それは、いつ頃なの?」
「うーーん。どうせやるんだったら若いうちがいいからね。早くて三、四年後くらいかな、はっきりしないけどね」
「どうして三、四年後なの」
「なんとなくね。だけど、それがどうかしたの?」
「独立して腕を振るってみたくない?」
「出来ればそうしたいのは山々だけどね」
「何か心配なことでもあるの?」
「今は会社というバックがあるから、思いきった仕事が出来るけど」
「ええ」
「独立して一人になったら、そうもいかないと思うよ。世の中そう甘くないもんね」
「悟さん一人なの?」
「あっ、ごめん、そんな意味じゃなかったんだよ。もちろん、アキと一緒だけどさ」
「うふふ、正直ね。もしもね、もしもよ、会社を辞めて独立するとしたら、何処で仕事したいの? 郷里?」
「いや、郷里の鹿児島では仕事にならないよ。人のつながりもあるし、やっぱり此処東京だろうね」
「そう」
「なんで? このことが、秘密の話と関係あるの?」
「大いにあるわよ。私の考えが実現すればね」
「そう」
「昨日私が言った、仕事と家事と子供の世話、……それと」
「それと?」
「女としてのお勤めが、極めて順調に行くので~す」
亜希子はやや照れながら微笑んで言った。
「へぇーー、一石四鳥って訳?」
「そうよ。悟さんが私だったらどうする?」
「うーーん。思いつかないね。さっき、会社を辞めて独立することと関係あるって言ってたから」
「いいとこ突いてるわ。……もう少し」
「……」
「分らない?」
「ちょっと待って。……それはアキが仕事をしたいということと関係ある?」
「さすが、悟さん察しがいい」
「えっ、……ちょっと待って」
悟は腕組みし目を閉じて考えた。
「ふふふ、見えてきたでしょ?」
「もしかしたら、アキの考えている仕事というのは、会社勤めじゃないね」
悟は目を閉じたまま、亜希子を指差しながら言った。
「良く分ったわね」
「そうでないと、一石四鳥にはならないからね」
「鋭いわね。もう答えたも同然ね」
「でも、今一はっきり見えないんだよなあ」
「あのね?」
「うん」
「アキとね悟さんが、一緒に仕事するの」
「えっ、というと、アキが俺の手伝いをするってこと?」
「うーーん。それもいいけど、ちょっと違うわ」
「さて、何だろう」
「あのね、アキも悟さんも、それぞれ好きな仕事をするの」
「うん、それで?」
「これからが大事なのね」
「うんうん」
悟は俄然興味を持った。身を乗り出して亜希子の口元を見た。
「二人とも同じ場所で仕事するの」
「えっ、……うん、……で?」
「同じ場所といっても、別々な場所ね」
「ん? 言ってる意味が分らないけど?」
「ふふふ、設計技師でしょう?」
悟はまたも腕組みして、目を閉じて考えた。
「えっ、まさか、店あるいは事務所を、同じ建物内に壁を隔てて構えるってこと?」
「もう分ったみたいね」
「そうか、それだったら一石四鳥は可能かもね」
「隣同士だったら、いつも悟さんといられるし、仕事はそれぞれ思い通りに出来るし、でしょ?」
「なるほど、……うん。そうだね」
「ね、いい案でしょう?」
「でも、資金がねー。とりあえず、家賃ぐらいは何とかなるにしても、……開業資金がねぇー。……とても無理だね」
「悟さん、その気になったの?」
「えっ、誘導尋問に掛かったみたいだね」
「うふふ」
「そうか、そういう手があったか。……うん。なるほど、……いい案だね」
「でしょう? 納得した?」
「だけど、やっぱり、……資金がねえー。多少の蓄えはあるけど、とても足りないよ。……やっぱり、まず無理だね」
「資金はこれから二人で貯えたらいいでしょう?」
「ははは、アキは簡単に言うねぇー。そんなに早く貯められる訳ないじゃない」
「でも三、四年後でしょう?」
「あれっ、もう決めちゃってる」
「ふふ 悟さん、アメリカに出張するとか言ってたでしょ?」
「そう。まだ正式に話はないけど、行くとすれば、あと一年後くらいだけどね」
「アメリカの滞在期間は二年間ぐらい、と言ってたでしょ?」
「多分、一年半位で済むと思うけどね」
「ということは、アメリカから帰ってくるのは、最長で、ざっと三年後になるわね」
「そうなるね」
「そのお仕事が済んで、一年くらいしたら身を引かない?」
「退職するってこと?」
「ええ、さっきの話しを実現する為にね。だって、さっきも悟さん、もし独立するなら、早くて三、四年後くらいかなあ、なんて言ってたじゃない」
「アバウトだけどね」
「アメリカから帰ってきてから一年後ということは、丁度今から四年後くらいになるじゃない?」
「そっかー、そうなるね。アキは計算が早いね」
「ふふ、おだてても駄目よ。だから、一応時間的にはたっぷりあるでしょう?」
「……だね」
「それに」
「うん」
「今から四年後ということは、神のお恵みがあれば、私たちの子供も三歳くらいにはなってるでしょ?」
「えっ、そんなことまで考えているの?」
「女ってね、いろいろ考えるのよね。……ま、聞いて。そしたら、赤ちゃんを抱えて右往左往するより、少しは楽だと思うの」
「うーーん。なるほどねぇー。……そっか、なるほどねぇー」
悟はしきりに感心していた。
「だから、もちろん、上手くいくかどうか分らないけど、思いを達成する為の開業までの時間的余裕は、たっぷりとあることになるでしょう?」
「そうか、その方法だと、そうだね、時間はたっぷりあるね。上手く行けば、実現も不可能じゃないかもね」
悟は亜希子の考えた案が、現実味を帯びてきたように思えた。いつかは独立したいという気持ちを長い間持ち続けてきただけに、亜希子との結婚を契機に、それを実現してもいいような気になってきた。この厳しい現実を考えると、独立しても上手く行くという自信は、今のところ全くないが、じっくり考えて、周到な準備をすれば何とかなりそうな気もする。それに、亜希子という心強い伴侶もいる。二人でやれば、何とかなるかもしれない。
「ところで、亜希子さん」
「ん? どうしたのよ、さん、だなんて。でも満更でもないわね」
「あは、なんとなく言って見たかっただけ。亜希子さんの考えてる仕事って何なの? もうそろそろ教えてくれてもいいと思うけどなあ。決めてるんでしょ?」
「そう来ると思ったわ。もちろん決めてるわ。何だと思う」
「多分、ブティックだね」
「えっ、どうして分ったの?」
「だって、東京に来た時アキが立ち寄った店は、ブティックしかないじゃない? だから」
「あら、今度はアキになったのね。やっぱりこっちの方がいいかな」
「茶化さないのっ」
「さすが、勘がいいわね」
「それに、しきりに店内を見廻したり、俺には勉強しておいて損はないわよ、なんて言ってたし」
「うふふ、そうなの。実は私今まで内緒にしてたけど、もう随分前からやりたいと思ってたの」
「そうだったんだ。アキにぴったりの仕事かもね」
「ありがとう。賛成して下さるの?」
「賛成も何もないよ。思い切ってやってみたらいいよ」
「悟さんも手伝ってくださる?」
「こうなったら何でも引きうけるよ」
「わァー嬉しい。勇気百倍だわ」
「たったの百倍?」
「ふふ、じゃ一万倍」
「たったの一万倍?」
「欲張りね」
二人はくすくす笑った。
さっきから、亜希子と話しながら、悟の頭の中で、亜希子が言った独立の話がグルグルと渦巻いていた。暫らくして、早川は妙に真面目な顔で言った。
「亜希子」
「はい」
「その秘密の案、共有しようか」
「えっ、ほんと? ほんとなの?」
「うん。大真面目だ。実はさっきからどうしようかと、いろいろ思案しながらアキと話していたんだけど」
「ええ」
「まだ何となくだけど、アキとなら、やって行けそうな気になってきたんだよね」
「わァー嬉しい、ほんとよね? 本気にしていいのね?」
「こういう事って、おそらく一生に一度の、とても重要な決断だと思うんだよね」
「そうよね」
「いい加減な気持ちで行動すると、とんでもない結末になってしまい、家族は路頭に迷ってしまうし、周りの他人様にも、多大な迷惑を掛けてしまうことになり兼ねないからね」
「……」
「だから、そうならないようにする為に、事は慎重に運ばなくてはならないと思うんだよね」
「ええ」
「で、俺はたった今、アキとこの話を共有しようと決めた。……その代わり条件がある」
「条件?」
「そう」
「まあ、怖そう。何なの? その条件って」
「二つある」
「ええ、一つ目は?」
「一年以内に結婚式を挙げること」
悟の急な思いがけない話に、亜希子の顔が変った。
「えっ、ほんと? そんなに早く結婚して下さるの?」
「そうと決まれば、この案を実現する為には、何もかも急がなくてはいけない」
悟一流の、目的達成の為のプログラムが動き出したようである。
「ええ」
「二つ目はね」
「ええ」
亜希子はもう、悟の気持ちに完全に乗せられようとしている自分の気持ちが心地良かった。
「アキもアメリカに同行すること。俺を単身にしないこと」
亜希子は悟の言葉に大きな愛を感じた。いよいよ船が岸を離れようとしている。引き返すことの出来ない旅が始まろうとしている。この人ならきっと、大海原を見事に渡り切ってしまうに違いない。この人ならきっと、大きな夢を実現するに違いない。そして、大輪の花を亜希子に捧げてくれるに違いない。亜希子は、果てしなく広がる大海原の波が、自分の胸に押し寄せてくるのを感じた。同時に、悟のこの大きな愛に、自分もしっかり応えて行かなくてはならないと思った。
「この二つの条件を飲み込めない場合は、さっきの案は却下する」
「ふふふ、悟さんて面白いわね」
「えっ、……どうして?」
「だって、二つともアキが一番願ってたことですもの。それを条件に出すなんて。ふふふ」
夕方になり、亜希子を見送る時間になった。駅のホームに人は少なく静かであった。
「アキ」
「はい。なあに?」
「道中気をつけて帰るんだよ。着いたら連絡してな」
「ええ、そうするわ。来週楽しみにしてるわね」
「駅まで迎えに来てくれるんだろ?」
「もちろんよ。妹と一緒に迎えに行くわ」
「えっ、妹さんも?」
「いいでしょ? 家で固苦しい挨拶するよりも、先に会ってたほうが気が楽よ」
「それもそうだね。分った。じゃあ、頼むわ。それとお父さんへの根回しもね」
「ふふっ、心配そうね。任せといて」
亜希子は屈託なく笑い、胸を叩いて見せた。
「頼もしいね。……あ、ちょっと待って」
長野までの道中読むようにと、悟は駅の売店で週刊誌を買い亜希子に渡した。悟はついでに夕刊を買った。夕刊を手にして、何気なく見たトップ記事の見出しを見て驚いた。
「アキ、ちょっとこれ見て」
悟は亜希子に新聞を見せた。亜希子が絶句した。
「まあ、なんてことなの?」
「驚いたね。やっぱり怪しいと思ったよ」
「悟さんの推理が当ったわね」
「いや俺はただ、何となく怪しいと思っただけだよ」
「それにしても……」
亜希子は夕刊の記事を凝視した
ファッション界の期待の星浦上亮子殺害される。見出しの字の大きさが事件の大きさを物語っていた。続いて記事は以下のような内容であった。
浦上亮子の死体が、ニューヨークのホテルの一室で発見された。死体の傍に睡眠薬が散乱していた為、ニューヨーク市警は自殺の線で捜査をしていたが、不審な点が多いため捜査本部を設け、自殺と他殺の両面から内密に捜査をしていたが、ニューヨーク在住の、三十八歳の日本人男性を特定し、任意同行を求め、取調べた結果犯行を自供。 とあった。自供によると、その男性は、浦上との人間関係のもつれから、咄嗟の犯行に及んだとある。また、余罪があるらしいとの情報から、その線でも追求中とのことだった。
「この余罪というのは、レトロ列車での事かしら」
亜希子が怖そうにして悟に尋ねた
「うーーん、どうだろうか、いずれ追求されるかもしれないね」
「この人間関係のもつれって何かしら」
「多分浦上亮子は、この男と付き合ってたんじゃないのかな」
「ええ」
「その関係に、何らかのことで、変化が起こったのかもしれないね」
「浦上亮子が振られたとか?」
「うん、それもあるかもしれないけど、おそらく逆だね」
「浦上亮子が男を振ったってこと?」
「うん。その線だろうね。なにしろ浦上は、売れっ子のファッションデザイナーだからね」
「そうね、そうかもしれないわね。ああ、コワッ」
「ははは、我々には縁遠い話だよ。良くある話の一つさ」
「そうね。そうだわね」
列車が滑り込んできた
ホームでの別れの時には、亜希子はいつも泣いたものである。だが、今日初めて、悟は亜希子の美しい笑顔を見た。亜希子の満面の笑顔を見て、悟は込み上げる充実感に酔いしれていた。