この物語は正義感に満ちた一人の男の物語です
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◇ 第11章 岐路

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□ 第十一章 岐路 □

 環太平洋建設内では朝礼時の社長による年頭の訓示があった。
 早川は、年頭から猛烈な勢いでC&Tの部下達を陣頭指揮した。予定の三月末までの作業完了をめざし、提出に必要な設計図書作成や関連書類作成、模型作成などを精力的にこなしていった。いよいよ国際設計コンペティションに向かっての正念場を迎えつつあったが、幸いにして、作業は思った以上に順調に推移して行った。部下達の目的達成に向けての熱意が日増しに高まり、時に夜を徹して作業が行われることもあった。
 担当者毎の作業の進捗状況を管理している早川は、遅れが生じた担当者には付っきりで指導し、全体のバランスを保った。その結果、日を追って具体的な建物の形がくっきりと表れるにつれ、各スタッフの自信となり、さらに熱気は高まって行った。早川がかねてより徹底している、チームワークの果実が今まさに結実しようとしていた。
 早川は、プレゼンテーション及び審査委員会委員によるヒアリングに対する準備にも余念がなかった。設計図書はもちろんのことだが、このプレゼンテーションとヒアリングは、過去の経験から絶対に手を抜いてはならない重要性な審査と位置付けていた。
 三月末までに作業を完了し、郷田部長をはじめとする社内の検討委員会による審査を経て、しかるべき国際設計コンペティション委員会に正式に関連図書類が提出される手筈になっていた。何としても最優秀賞の栄誉に浴したい。優勝の二文字を勝ち取るのだ。環太平洋建設(株)のC&Tの実力を世界に示し世界中にその名声を轟かすのだ。

 そんなある日の木曜日、早川は思うことがあって、関東建設日報の内村に電話し面会を求めた。関東建設日報の近くの喫茶店で顔を合わせた。
「今年も宜しくお願い致します」
 二人とも型通りの新年の挨拶もそこそこに本論に入った。
「お忙しいのに急なお願いですみません」
「いえいえ、年頭は割合暇ですから気にしないでください」
「そうおっしゃっていただくと気が楽になります。ありがとうございます」
「年頭から、何か気になることがおありのようですね」
「いえ、気になる程のことではないのですが、私の頭に巣食っている疑惑を受っとっていただけないかと思いまして」
「そうですか。何か先日来からのことと関連がありそうですね」
「関連があるかどうかは分らないのですが、ここはプロにお任せした方がいいのではと思いまして」
「私が出来ることでしたら、何なりと協力させていただきます」
「いえ、協力いただくという類の物ではありません。ただ、こういう疑惑がありそうだがどうでしょうか? ということだけです」
「つまり、早川さんの脳の中の疑惑を、私が単純に引き継げばいいということですね?」
「はい。おっしゃる通りです。話の内容によっては、引き継げないってこともあるでしょうけど」
「分りました。お伺いします」
「これは、あくまで私の邪推の域を出ない、余りに馬鹿げた内容かもしれませんが、宜しいでしょうか?」
「はい。お伺いします」
 内村はこれまでの経験から、早川の言う邪推は邪推でないことを知っていた。
「内村さんは、寝台特急ハヤブサのトイレ中で起きた、死亡事故のことをご存知ですか?」
「えっ、知りません。それは、いつ頃のことですか?」
「去年の九月十日のことですが」
「それがどうかしたのですか?」
「どうも腑に落ちないものですから、一応聞いていただこうと思いまして」
「詳しく話していただけませんか?」
 早川は、レトロ寝台特急ハヤブサのトイレ内で起きた死亡事故について、詳しく話した。そして、どうして不審に思ったかも話した。
「早川さんとしては、この事故と先般来からのデータ漏洩事案とを、関連付けようとされていますね?」
「はい。そうです。的外れかもしれませんが、どこに関連付けようとしているかと申しますと、……国土開発省です」
「えっ、何ですって?」
 内村は早川の言葉に唖然とした顔になった。この男は、何を言っているのだという顔である。
「あはは、ですから的外れかもと言ったのです」
「何か根拠でもあるんですか?」
「鉄道会社の管轄省庁は国土開発省ですよね?」
「ええ、確かにそうですが、それが何か?」
「トイレの密室で起きた死亡事故を、私は殺人事件とみているのです」
「えっ、殺人事件? えっ、……えっ」
 内村はまたも目をむいた。
「トイレの中で死んだ身元が、誰なのかは分りませんが、多分高級官僚じゃないかと思います」
「国土開発省のですか?」
「ええ、多分そうです。間違いないと思います」
「ええーっ、もしそれがほんとでしたら、マスコミが大々的に報ずると思いますが?」
「それが報じられなかった。……だから怪しいと思うのです」
「なるほど、ですけど、トイレの密室での死亡事故でしょう? 外からカギが掛っている状態だったのでしょう? どうやって殺せるのですか?」
「車掌とサングラスの女、つまり浦上亮子がグルだとしたら可能でしょう?」
「あ、なるほどそうですね。……うんうん、なるほど。……でも、そんな事あり得ますかねぇー」
「いわば変死でしょう? 死体解剖したかどうかは分りませんが、どうも解剖せずに片づけられた可能性があります。おかしいと思いませんか? 上から何らかの圧力みたいなものがあったのではと思うんです」
「うーん、なるほど。そう言われてみればそうですね」
「それに、浦上亮子はニューヨークのホテルで変死していますよね」
「でかでかと載っていましたね」
「何か臭いませんか?」
「そう言われれば、……臭いますね」
「背後に黒いものが、見え隠れしているようでならないのですよ」
「で、私に調べてくれということですね?」
「いえ、調べるかどうかは、内村さんの判断にお任せします。私はあくまで疑惑をお知らせしたまでです」
「はい」
「ここに、パソコンで作ったメモに整理してみました。見ていただけますか?」
 早川は活字によるメモ書きを内ポケットから取り出し、内村の前に出した。メモは次のように書いてあった。

  • 二〇一一年九月十日、レトロ寝台特急ハヤブサ(季節運行列車)のトイレ内で中年の男性が死亡した。
  • 発表によると、死亡推定時刻は未明の一時から二時半の間とある。(列車の時刻表から判断すると名古屋発二十三時四十五分~神戸着二時四十二分の間に死亡したと思われる)
  • 夜明け近くになって、トイレが長時間閉まったままで開かないことに疑問を持った乗客が車掌に連絡をとった。(列車が広島駅を過ぎたあたり)
  • 連絡を受けた車掌はトイレの合鍵で開錠し死体を確認し一一〇番と一一九番に連絡をとった。
  • 次の岩国駅で、あらかじめ待機していた警察官二人と刑事が三人それに救急隊員が列車に乗り込んできた。
  • 現場の確認・検証そして聞き込みが一斉に行われた。
  • 死亡推定時刻内の未明の二時半頃、死亡していたトイレ近くでサングラスを掛けた女がいた。
  • サングラスの女は熊本駅で下車、年配の男が出迎えていた。
  • サングラスの女は人気ファッションデザイナー浦上亮子と思われる。
  • 二〇一一年十一月十二日、浦上亮子の死体がニューヨークのホテルの一室で発見された。ニューヨーク在住の三十八歳の日本人男性が犯行を自供。
  • 以上の経過から考えられる疑問並びに不明点
    • トイレ内で死亡した人物は誰なのか?
    • 死亡原因は何だったのか?
    • 死体の解剖は行われたのか。行われたとしたらその結果は? 行われなかったとしたら、何故行われなかったのか?
    • 死体の解剖が行われたかどうかを確認して、もし解剖が行われてなく死亡原因を心臓麻痺と発表されたとしたら、明らかに疑問点が残る。
    • その疑問は、殺人事件と置き換えることが出来ないか?
    • 車掌のプロフィールと職歴は?
    • ファッションデザイナー浦上亮子のプロフィールと経歴は?
    • 車掌と浦上亮子の接点はあるか?
    • ファッションデザイナー浦上亮子は、何故死亡推定時刻にトイレ近くに立っていたのか?
    • 浦上亮子は、何故列車内で逃げるように身を隠したのか?
    • 今を時めく売れっ子のファッションデザイナー浦上亮子は、何故新幹線とか飛行機を利用しなかったのか?
    • 浦上亮子は何故熊本駅で下車したのか?
    • 浦上亮子を熊本駅で出迎えた年配の男は誰なのか?
    • ニューヨーク在住の三十八歳の日本人男性のプロフィールと経歴は?
    • ニューヨーク市警はこの男性に余罪があるとしているがそれは何なのか?
  • 推察
    • トイレ内で死亡した人物は、国土運輸省の高級官僚ではないか。
    • 死亡した国土運輸省の高級官僚は、政界の贈収賄事件に絡む何らかの情報を得ていたのではないか。
    • 贈収賄事件の主犯格は、この高級官僚によって事実を発表される危険を察知した。
    • そこで、贈収賄事件の主犯格は、国土運輸省の管轄である鉄道会社の一部の者に、高級官僚の殺害を内密に指示した。
    • 殺害を内密に指示出来る立場の人物は、地位と権力を思い通りに利用出来る人物であると思われる、従って人物の候補者は自ずと絞られてくる。
    • 二〇一一年九月十日の東京発鹿児島中央着の季節運行列車レトロ寝台特急ハヤブサに、その国土運輸省の高級官僚が乗車する情報を得て殺害に及んだ。殺害方法は未定。
    • 車掌と浦上亮子それに熊本駅で浦上亮子を出迎えた年配の男は、この事件に何ならかの関わりがあると思われる。
    • さらに、ニューヨーク在住の三十八歳の日本人男性も、この事件に絡んでいるように思われる。

 メモをジッと見ていた内村は、読み終わって早川の顔を見詰めた。
「これは、お預かりしてもよろしいでしょうか?」
「はい。よろしかったらどうぞ」
「ありがとうございます。またまた凄い情報ですね」
「だといいのですが。無駄骨に終わる可能性もありますが、思いもよらない大事件に発展する可能性もあります」
「なるほど、確かに」
「この手のソースは、内村さんには直接関係のないことかもしれませんが、お知り合いの記者さんにでもお知らせしたら、それなりのことが出てくるような気がしているのですが」
「このお話が、早川の思っている通りだと一大スクープになりますよ」
「いえいえ、とんでもないガセネタかもしれませんがね」
「これとデータ漏洩事案との絡みは? ありそうですか?」
「分りません。ないかもしれません」
「……」
「ですが、贈収賄の関連や国土開発省との接点を考えますと、満更ないこともないような気もしますが」
「……」
「敢えて想像を巡らせれば、データ漏洩事案は名古屋の業者が絡んでいました。私の勝手な邪推かもしれませんが、この業者と国土開発省との贈収賄事件に発展するのではと思っています」
 内村はもう驚かなかった。さじを投げだした感じだった。内村は先日、早川から情報提供して貰った資料を基に関連調査を進めている段階であり、近いうちに週刊誌により第一弾が破裂する予定になっていた。
「……」
「国土開発省という舞台の緞帳の裏で踊らされている高級官僚の、金と色恋にまつわる物語が繰り広げられているような気がしています」
 内村はもう早川に言う気力をなくしていた。ただただ、早川の口元と目をジッと見続けているだけだった。
「早川さん、良く分りました。そのお話しお預かり致します」
「ガセネタに邪推まで加えて、よくもまあ御託を並べたものだとお思いでしょうに、嫌な顔をせずに聞いていただいて、ありがとうございました。私の頭に巣食っていた疑惑が、内村さんに転送されてすっきりしました」
 内村は、早川をほんとに怖い人だと改めて思った。およそ想像もつかないことを、あたかも目の前の現実のことだと思わせるまでに、理路整然と納得がいくように理論付けて行くのである。誰も気づかない小さな出来事にすら焦点を当てて、疑問を解明しようとする姿勢には驚くばかりである。プロを自認する内村でさえも、その推理に納得せざるを得ないから怖いのである。
「確かに私の頭の中に転送されインプットされました。実に貴重な情報をいただきありがとうございました」
「後は私には関わりのないことですので、ここいらで中和剤を入れましょうか?」
「ご紹介いただいた女性のことですね?」
「はい。そうです。もう私の出る幕ではないのですが、田部井君のことです。……どうですか、その後進展はありましたか? 少し気になっているものですから」
「その件では、いろいろお気遣いいただき、ほんとにありがとうございました。お陰様で近いうちに結論を出そうかと考えております」
「プロポーズ?」
「はい。そうです。彼女と、いろいろなことをトコトン語りました。実に素晴らしい女性です。私には勿体ないくらいです」
「そうでしたか。それは良かった。……うん、良かったなあ。田部井もきっと喜ぶでしょうね。……そうですか。ああ、良かった、良かった」
 早川は我がことのように喜んだ。
「早川さんには何とお礼を言っていいものやら、ほんとにありがとうございました。彼女を幸せにすることで、早川さんへの恩に報いたいと考えております」
「おー、おー、良くぞ言ってくれました。最高の言葉です。……それを聞いて安心しました」
「最終決定しましたら、改めてご連絡致します」
「いやあー、ありがとうございます。……良かったなあ」
 早川は安堵した。

 篠ノ井での第一回社員研修を、明後日に控えた日のことだった。社宅に帰って、いつものように集合郵便受けの中を見て胸がときめいた。ほとんど忘れかけていて、そのうち来るだろうと思っていた亜希子からの手紙が入っていた。気にしていた、待ちに待った亜希子の告白文である。早川はヤッターと心で叫んだ。急いで階段を駆け上がり、玄関のドアを開けて着替えもそこそこに封筒を見た。
 黒い達筆の筆文字が鮮やかだった。表と裏をじっくりとみてゆっくりと封を切った。そして薄いピンク色の便箋を抜き出した。便箋は五枚だった。一枚目の中央には、”親愛なる悟さんへ 心を込めて”と筆文字で書かれていた。二枚目以降は万年筆で書かれていた。くっきりした黒い文字で次のように記述されていた。

 愛する悟さんへ

 遅くなってごめんなさい。でも遅くなったのにはちゃんとした理由があります。理由は簡単です。悟さんに対して告白することがないからです。亜希子の心は悟さんで満タンです。亜希子は悟さんとお付き合いを始めてから、殆ど毎日のようにお話してきました。東京でお話ししたり篠ノ井でお話ししたり、電話でも毎晩のようにお話ししてきました。ですから、改めて告白することなんか一行もございません。フフ、がっかり?
 悟さんとの会話を通して私の心はいつも踊っています。とても楽しいのです。そしていつも幸せを実感しています。悟さんと私の運命を、誰が演出してくれたのだろうかと思う時があります。昨年の九月十日、私は友人の君子と長野駅から特急で名古屋駅に向かいました。そして、二十三時四十五分発の鹿児島中央行きのレトロ寝台特急ハヤブサに乗り換えて、奇跡という名の運命と出会うことになります。

 私が何故旅を思い立ったのかは、もうご存知ですよね。動機は単純そのものでした。毎日毎日、来る日も来る日も、希望の持てない日々でした。悶々とした気分から少しでも解放されたい、ただそれだけの理由からでした。今思いますと、これが運命の序章だったのですね。博多に行くのには新幹線でも良かったのです。実際に長野駅で切符を買う時、君子と相談して名古屋からは新幹線にしようかという話もありました。でも、この際じっくり旅を楽しみたいという私の意見に、君子も快く賛成してくれたのです。その意味では、私は君子に感謝しなければなりません。
 レトロ寝台特急ハヤブサの乗客となり寝台席に着いた時、上の段の乗客が悟さんだなんて、もちろん知る由はありません。深夜近い乗車でしたので、すぐ寝台に横になったのです。そして次の朝、私と君子が談笑していた時、上の段のカーテンがサッと音を立てて開き、髪はバサバサで髭面のお世辞にもよい顔とは言えない青年の顔が、ニョキッと表れました。思わず上の方を向いた時、その青年とチラッと目線が合ってしまいました。私が悟さんを生まれて初めて見た瞬間でした。私はその瞬間を未だに鮮明に覚えています。可能なら、この瞬間を鮮明なまま画像にして保存しておきたいくらいです。

 こうして、私と悟さんとの出会いが、私の人生を大きく変えたのです。これを運命と呼ばずして、何と呼べばいいのでしょうか。これは完全に、神が用意し仕組んだ運命という舞台の幕開きだと思いました。そして今、私はもう悟さんなしでは生きて行けない女になってしまいました。人を好きになり、心の底から人を愛することの喜びを知りました。そして、誰よりも深く愛されているという感動の嵐が、今も私の胸で渦巻いています。

 愛は尊いと思います。愛は力だと思います。そして何よりも、愛は身震いするほどの切なさを与えてくれます。この切なさが、愛する人の心に寄り添い、優しくなれる気持を高揚させてくれます。人が人として生まれて、これ以上の喜びがあるでしょうか? 贅沢という言葉は、この喜びのことを言っているのではないのでしょうか?

 今手紙を書きながら、初めてお逢いした日の八王子のホテルでの夜を思い出しています。その時の心境を詩にしてみました。

 あなたに逢って
   あなたに触れて
     ほんとの愛と
       切ない心を知りました

 悟さんの心の広さや大きさや情熱が、私を含めて私の廻りを激変させました。父も母もリコも全てが変わってしまったのです。悟さんが通り過ぎた後ろには、爽やかで明るい空気がいつも漂っています。その空気に触れて、家族が人生のあるべき本当の姿を感じ取り、知らず知らずのうちに目に見えて変化していく様は、まさに驚嘆の一言です。

 悟さん、ほんとにありがとう。言い尽くせないくらいの感謝の気持ちで一杯です。ありがとう。
 廻りを激変化させていく悟さんの力は、一体何処から来ているのだろうかと考えた事があります。私なりに考えて、答えはたった一つだという事が分りました。その答えとは愛なのですね。本物の愛なのですね。深く深く、広い広い、人間愛なのですね。

 最後になりましたが告白いたします。
 私、花岡亜希子は早川悟さんのことが大好きです。心から愛しています。悟さんが思っているこれからの人生に、私が寄り添って生きて行けるように、心を込めて努力しようと思っています。
 私は、死ぬまで悟さんと幸せな日々を送りたいと熱望しています。
 長い人生には、予期しないいろいろなことが待ち受けていると思います。しかしどんな苦しいことでも、悟さんとのどんな意見の食い違いも、必ず克服しようと心に誓っています。
 これからの人生に於いて、私から悟さんに、希望と言いますかお願いがあります。それは、悟さんは、自分の思っている道を、思った通りに突き進んで行って欲しいということです。たった一度の人生を、悟さんらしく大きくそして天高く羽ばたいて欲しいということです。
 私は悟さんの傍で、影となり日なたとなって支え続けて行ければと思っています。

 冒頭に手紙を出すのが遅くなった理由を書きましたが、理由になっていませんね。これからほんとの理由を書きます。
 昨年から今年にかけて、リコの養成講座に始まりクリスマス・イブや餅つきや初詣などを経て、お正月にはカラオケ兼リコの就職祝いをしました。 その時点で、告白文をしたためた手紙を出す約束でしたが、せっかくのことだからと、思い考えることがあって暫らくほっておきました。
 年明けには、悟さんの弟の謙二さんがお見えになりました。弟さんの登場で、また別の新しい風を予感させてくれました。とても魅力的な青年で、とっても爽やかな印象を持ちました。そして、悟さんから完成青写真のメモをいただきました。
 実は、その完成青写真を部屋で改めてじっくり見て、私は震えが止まりませんでした。メモ書きを見ながら私は泣いてしまいました。随分長いこと涙が止まりませんでした。
 遠い将来を見据えて、とてつもなく凄いことを、あたかも何でもないような風に書いてあることに、度肝を抜かれました。しかも、書かれている内容は、殆どが父の会社の事と私とリコのことばかりです。
 花岡家の家族の一人一人が将来に亘って幸せになるには、このようにすれば良いかという、言わば幸せになる為の処方箋が書いてありました。私の涙は喜びの涙です。嬉しさの涙です。感動の涙です。どんなことがあっても、悟さんについて行こうという決意の涙です。
 悟さんが今一番気にしているのは、リコのことだと思います。私は、会社でのリコの様子を悟さんにお伝えすることが出来るまで、手紙を書くのを控えようと思いました。告白文ですので、ほんとは悟さんに対する私の今の心境、思いを告白するだけで良いと思ったのですが、やはり、リコのことも書いておくべきだと思って、今日になってしまいました。

 さて、リコの件ですが、今度お見えになった時に分ることなのですが、今お伝えしておきます。リコは新しい社会へ素晴らしいスタートが切れたと思っています。
 父や会社の人達の話を小耳に挟んだのですが、周囲がリコに対して思っていたことが、見事に覆ったようです。つまり、会社の人達は、実務経験のないリコに対して、一歩下がった見方と言いますか、どうせ社長の娘だ、やることや考え方は、たかだか知れているだろうぐらいに思っていたみたいです。このことは以前悟さんも指摘していましたが、正にその通りだったのです。
 ところが、リコの勤務ぶりを見、発言を聞くに及んで社員さんたちはただ驚くばかりだそうです。勤務し始めてまだ日が浅いのに、今では、さすが社長の娘さんだ、やることや言うことが違うともっぱらの評判のようです。
 家にいる時のリコの様子を見ても、自信に満ち溢れていて輝いて見えます。まるで別人です。私もとても嬉しく、ホッとして今胸をなでおろしているところです。
 このことは電話でお話ししてもいいことなのですが、こうして、手紙でお知らせした方が、悟さんもきっと喜んでくださるのではと思いこのようにしました。という訳で手紙を出すのが遅くなってしまいました。でも、遅くなったお蔭でいいお話が出来ました。でしょ?

 告白文にしては、何だかちぐはぐになったような気がします。悟さんの思っていたイメージと違ったかもしれませんが……。亜希子の心の内をありのままに素直に書いたつもりです。

 また一つ感謝しなければならないことが出来ました。それは、このような告白文を書くことで、心の整理や今置かれて状況が鮮明になってくることです。
 多分、悟さんはそのことは計算ずくでしょうが、亜希子にとっては、願ってもない良い経験をさせていただいたと思っています。とてもありがたいことだと思うことでした。
 言い尽くせないありがとうの言葉を添えて筆を置きます。

心から愛しています。 亜希子

 便箋四枚にびっしりと書かれた文字を、悟は何回も何回も目で追った。亜希子の気持が素直に書いてあり嬉しく思った。会話やメールと違い、手紙の持つ何とも言えない深い味わいに心から感動した。遅くなった理由も大いに納得するもので、亜希子らしさが滲み出ていた。悟は便箋を封筒にしまい込みながら、一生をかけて亜希子を大事にして行こうと、改めて心に誓うのだった。亜希子ありがとう。
 ふと、八王子のホテルでの夜の事が鮮やかに蘇ってきた。生まれて初めて経験する感動の夜だった。悟の心に亜希子に対する返句が浮かんだ。

 うぶなお前の柔肌に
   ほんのり染まりし 切なき色香
     吐息乱れて 宙に舞う

 夜遅く気にしていた弟からの電話が入った。
「兄貴、元気かい?」
「おー、謙二か待っていたぞ」
「この前からいろいろありがとう、……あれから、ずっと考え続けていたんだよ」
「そうか、だろうな。うんうん、分るよ。人生の岐路に立たされたお前の気持は、手に取るように分るよ。相当悩んだんだろ?」
「ま、そうだよな。寝ても覚めても考え込んでしまったよ。あはは、こんな経験初めてだった」
「だろうなあ。分るよ」
「で、まず兄貴にお礼を言わなくっちゃと思ってる」
「何だよ、兄弟じゃないか、お礼だなんて水臭いことは言いっこなしにしようぜ」
「いや、どうしても言いたいんだよ。言わなくっちゃ俺の気持が納まらないんだよ」
「あは、何だよ、じゃあ、気持ちが納まるようにしろよ」
「俺は、兄貴という人を兄弟に持って、ほんとに幸せもんだと思ってる。ありがとう。そのことを言いたかったんだよ」
「あはは、それはそっくりそのまま謙二に返すよ。俺も謙二みたいな弟を持って鼻が高いよ。俺の誇りだよ。だけど改まって何だよ」
「いや、俺のことをほんとに心配してくれてるし、将来のことについても、ちゃんと親身になって考えてくれているから、こんな有難いことはないと思ってさ」
「バカ、何言ってるんだよ。兄として当たり前の事じゃないか」
「そういうけど兄貴、世間では、そういう兄弟は皆無と言っていい程少ないみたいだぜ」
「世間は世間さ。俺と謙二の間では当たり前のことだよ。いつも言ってるじゃないか、兄とか弟の前に、一人の人間としてまず相手を尊重するべきだと」
「うん」
「その上で、血の通った兄弟としての絆を大切にして行こうぜ、とな?」
「最近特に身に浸みて兄貴のことをありがたいと思ったもんだから、どうしても言っておきたかったんだよ」
「そうか。ありがとう。最高の喜びだな」
「だってそうだろ? もし兄貴がいなかったら今の俺はないと思うんだよ」
「そんなことがあるもんか。お前はお前で立派にやっているじゃないか」
「いや、今思うと俺がやってきた一つ一つは、全て兄貴の触発によるものだということが良く分ったんだよ」
「おいおい、まるで俺が、お前にああしろこうしろと言って来たように聞こえるぜ」
「兄貴自身にはそういう気持ちはないだろうし、俺の方もそう言われた覚えはないけど、何故か結果的にそうなっているから、兄貴って凄いなと思うんだよ」
「お前も相当屁理屈やだな。……そうか、分った。その話はそのくらいにして、俺に言うことがあるんだろ?」
「あ、そうなんだよ、で、考えに考え、悩みに悩んで俺なりに結論を出したから、遅くなったけど、兄貴に言おうと思って」
「オーー、そうか、そうか。良く決断してくれたな。……と言ういい方でいいんだろ? えっ?」
 謙二はこの時、このまますんなり事が運んでは面白くないと思って、意地悪を思いついた。
「兄貴、ごめん。今までの話、なかったことにしてくれないかなあ」
「えっ、謙二、お前今何と言った? なかったことにだと?」
 悟は、思ってもいなかったことが謙二の口から出て驚いた。まさか。ほんとかよ。
「そうなんだよ、兄貴には悪いと思うんだけど、どうしても今の会社を辞める気にはならないんだよ」
「……、そうか、……、そうか、……ま、仕方がないな、謙二が決めたことを、いくら俺が兄貴だからって、どうのこうのと言うことは出来ないからな。……、お前の人生だからな。……うん。残念だけど仕方がないか……」
 悟はいかにも残念そうな口ぶりだった。
「兄貴、分ってくれた?」
「うん。分った。お前が相当考えた挙句の結論だから尊重しよう。……よし、この件の話は終わりにしよう」
 謙二は頃合いとみて語りかけた。
「そこで、兄貴にお願いがあるんだけどなあ」
「俺にお願い? 何だよ」
「今、俺が言ったことを、冗談という言葉に置き換えて貰って、リコの電話番号を教えてくれないかなあ」
 悟はしてやられたと思った。と同時に、やはり俺の弟だと大きく頷いた。
「この野郎、俺をからかいやがって、あはは、……お前もほんとに俺に似て来たな」
「オー、その言葉を待っていました。最高の誉め言葉ですぞ兄貴」
「バーカ、びっくりしたぜ、ったくもう」
「だけど、選択肢の一つだった訳だから、兄貴の想定内だったんだろ? そんなに驚くことないんじゃないか?」
「そう言われればそうだが、俺のお前に対する思い込みが強すぎたと一瞬思ってしまって、反省しようと思ったんだよ」
「その強い兄貴の思い込みに、俺がノーという訳ないじゃないか」
「いや、それは違う。俺の思い込みと、お前の人生は全く別物だからな。思い込んだからって、その通りにはいかないことぐらい分ってるさ」
「たまにはちょっと意地悪したくなってさ。……ああ、面白かった」
「あははは、このバカ。……だけど、良く決断したな。思い切ったな」
「自分でもそう思ってる。……それにしても悩んだなあ。苦しかったよ。ほんとに」
「そうか、そうか。うんうん、良かった、良かった」
 悟はこの上ない喜びが全身を駆け巡った。
「今からリコの携帯の番号を言うから控えてくれ」
「ヤッター、運命のテレフォンナンバーだな、何だか緊張するな」
「お前の分身になるかもしれない番号だから大事にしろよ」
「そうだな。この世で親元に次いで大事な番号になりそうだな」
 悟は謙二にリコの携帯番号を告げた。
「兄貴、ありがとう。恩にきるよ」
「何言ってるんだよ。当然のことだ。……ところで、今の会社はいつ辞めるんだ?」
「時期についてはまだ決めていない。取り敢えず辞めることは決めた。それだけ。……後は、篠ノ井の社長から具体的に話があってからだな」
「ということは、お前が会社に辞めるって宣言するのは、もう少し先になるってことだな?」
「そういうことだな。何もかもはっきりしてから会社には切り出すつもりだよ」
「うん、それがいいな。……分った。……ところで、明後日の土曜日から例の社員研修が始まるけど、どうする? 来れるか?」
「いや、それは無理だな。例の篠ノ井の社長に出す報告書を書かなければならないから」
「そうだな。それを書き終えるまでは無理だな」
「そういうことになりそうだな」
「報告書は少しは進んでいるのか?」
「時間がないから、今急ピッチで取り組んでいる」
「その後、篠ノ井の社長からの連絡は? まだだろ?」
「ない、ま、そのうちあるだろう」
「だな。タイミングを計っているのだろう」
「そうかもな」
「謙二にとっては、いよいよ激動の年の始まりが来たようだな。心して掛れよ」
「うん。分ってる。……兄貴、今夜はありがとう。……この辺で……また電話する」
「よっしゃ。分った。……じゃあな」
 悟はフッと胸をなでおろした。

 花岡貿易商事(株)の社長花岡誠一郎の要請により社員研修が始まった。講師は早川悟である。研修は隔週の土曜日に行われる。土曜日は本来は休日であるが、特別研修の日ということで全社員が出社を命じられた。研修そのものは十四時から四時間掛けて、会社近くの研修会場で行われる手筈になっていた。
 第一回の研修が始まる当日九時からの朝礼時に、社長の誠一郎は全社員の前で講師を務める早川悟を紹介した。実は誠一郎は、以前、社員の前で、娘の亜希子の彼が家に出入りするから、そのつもりでいてくれとは言っていたが、亜希子の彼が講師の早川とは言っていなかった。早川は頻繁に家に出入りしているから、もしかしたら、一部の社員が早川の顔を見ているかもしれない。たとえそうであっても、早川と亜希子のことは、一切明らかにしないという約束を早川と交わしていた。あくまで社員研修である。研修の目的を達成するためにも、変な色眼鏡で見られたり思われたくないという配慮からである。
「えー、今日は土曜日で本来は休日のところ出社いただいて恐縮に思います。……ありがとう」
 社長誠一郎の話しぶりを聞いて、役員も社員も少なからず驚いた。これまでの威圧的な話しぶりが影をひそめ、優しい口調になったのである。しかも社長の口から、ありがとうなんて言葉が口から出るなんてとても信じられない。
「かねてより話している通り、我社の将来にとって来年度ほど重要な年はありません。名実ともに業界に君臨する会社となる為には、役員をはじめ社員みんなの頑張りがなくては達成出来ません。来年度の事業計画も、近々役員会で決定される運びにはなっておりますが、その事業計画を、百%達成する為の極めて重要なことがあります。それは、会社全体の能力の底上げです。競合他社に打ち勝つ為には、もはや避けて通れない我が社の命題となってきました」
 役員も社員の誰もが社長は変わったと思った。優しい話しぶりの中に、会社の将来に対する並々ならぬ決意が込められていた。威圧的に話されるよりも、優しい話し方の方が耳にストレートで入り込み、より威厳を持って迫ってくるから不思議である。傍で聞いていた早川も心の中で大きく頷いていた。後部で聞いていた真理子も同じ思いだった。いよいよ始まるという期待感が胸いっぱいに広がった。
「そこで主だった社員の研修をすることと致しました。ローテーションを組んで順次行ってまいります。本日十四時から四時間かけて第一回目の研修が行われますが、その研修を担当して下さる講師をご紹介します」
 一斉に早川の方に顔が向いた。何? こんな若造が社員教育の講師? ふざけるな。役員の中にはそんな思いを顔に出している者もいた。
「ここにいらっしゃる早川悟先生に、社員研修の講師を担当していただけるようになりました。早川先生は、現在、東京の某大手の会社のリーダーとして大活躍されています。関東界隈では早川先生の名前はつとに有名です。皆さんはご存じないかもしれませんが、今では、次代のホープとして、経済界から大いに期待を掛けられている方です」
 おいおい、そこまで言うか? 嘘ではないかもしれないが、少々オーバーではありませんか? 早川は苦笑いした。
「ある会合の時、その話を聞いた私は、考えることがあって、昨年の暮れのことですが、先生に面会を申し出ました。そして、社員研修の話をさせていただきました。大変忙しい先生ですし、篠ノ井というこんな田舎までは足を運んで下さらないだろうと思っていました。ところが、先生は快く引き受けてくださいました」
 全員の顔が少し変わった。そして微笑んでいる早川の顔に注視した。
「早川先生をご覧になって、こんな若造がと思われている方もあるかもしれません。実は私も最初にお会いした時そう思ったのですが、考えを変えざるを得ないことになると思います。私が余計なことを言うよりも、講義を受ければ自ずと分ることですので、私の話はこのくらいにして、早速、早川先生のお話をお聞きしたいと思います。先生よろしくお願い致します」
 誠一郎に先生呼ばわりされて、早川はくすぐったい気持ちだった。中央に進み出て口を開いた。
「みなさん、おはようございます。ただ今ご紹介いただきました、早川悟と申します」
 早川の第一声にみんな聞き耳を立てていた。
「社長さんには過分なご紹介をいただき恐縮しております。ご覧の通り、まだ全身に未熟を背負っている若造にございます。ご期待に応えられるような、充分なことが出来るかどうか自信はありませんが、精一杯務めさせていただきます。どうかみなさん、よろしくお願い申し上げます」
 早川は深々と頭を下げた。早川の謙虚でそつのない語り口に、何故か一同が頷いていた。
「さて、本日からの研修について、少しばかりお話をさせていただきます」
 誠一郎も真理子もいよいよ来たと思った。早川劇場の開演である。
「いきなりで誠に恐縮ですが、三つほどお聞きしておきたいことがございます。一つ目は、皆さんは会社の事をどのように考えていらっしゃいますか? ということです。二つ目は、何の為にと言いますか、何を目的に会社に勤務していらっしゃいますか? ということです。もう一つは、会社に何を望みますか? また改善して欲しいことがありますか? ありましたら書いてください。……以上の三点です」
 早川が、最初に三つの質問を投げかけたのには大きな意味があった。社員全員の土壌に意識という種を蒔きたかったのである。会社の事だから、似たようなことはしているとは思うが、今行うことに意味があった。一同は隣同士で顔を合わせて、何を言い出すのだと言わんばかりであった。
「今から用紙をお渡し致します。役員の方管理職の方も含めて、ここにお集まりの全員の方に一枚づつ手渡ししてください。余った用紙はお返しください」
 役員と管理職の中には、明らかに異議を申し立てたいような顔をした者がいた。何で俺達までしなければならないのだという顔である。早川はビジネスバッグの中から茶封筒を出し、その中から分厚い用紙の束を取り出して、一番近くに立っていた二人の社員に「左右にお配りください。お願いします」と言って渡した。
「用紙の中に、今私が申し上げた三つの質問が記載されています。研修の始まるまでにはまだ大分時間がありますので、それまでにご自分の率直な考えを書いておいてください。私が目を通す時間も必要ですので、遅くとも十三時までに、全員の分をどなたか回収していただけないでしょうか? 社長、どなたがよろしいでしょうか?」
 早川は誠一郎の方を向いた。
「総務課の馬場君、君が回収して先生に渡してくれ、いいですか?」
「はい。分りました」
 用紙が全員に行き渡ったのを確認して早川が口を開いた。
「いきなり宿題まがいのことを出しましたが、これには重要な意味があります。その意味につきましては、研修の場で詳しくご説明いたします。お手元の用紙に書かれた質問の内容について、何かご質問はありませんか?」
 早川は全員を見渡しながら言った。暫らく待ったが、誰も手を上げなかった。早川が口を開こうとしたその時、最後部の女性が手を上げた。真理子である。
「はい、後ろの女性の方、どうぞ」
「一つ目の質問の、会社とは、当然我社のことと理解してよろしいのでしょうか?」
「実にいい質問ですね。私はわざと会社とだけ書きました。一般的な会社というとらえ方もあるからです。ここに書いてある会社とは、いま女性の方が言われた通りです。花岡貿易商事株式会社のことです。お間違いのないようにお願いいたします。ついでに申しますが、二つ目と三つ目も同じです。申し上げるまでもございませんね。質問された方、どうもありがとうございます。……他にはいらっしゃいませんか?」
 誰も手を上げなかった。
「いらっしゃらないようですので、私から一言申し上げます。質問にお答えする時は、思ったままを素直な気持ちで書いてください。書いた内容につきましては責任を持ってください。つまり自己責任で書いてください。いい加減な気持ちで書きますと、研修の時、みんなの前で恥を掻くことにもなりかねませんので、心して書いてください」
 一同に緊張が走った。今までの研修と違うと思った。
「尚、質問の項目全てを書き終えましたら、一番上の所属と氏名欄の記入漏れがないかを確認して、ご自分の保管用としてコピーして研修会場にご持参ください。原本は馬場さんに渡してください。お分かりいただけたでしょうか?」
 早川は場内を見渡した。全員頷いたようだった。
「もう一度、先ほどの質問事項も含めまして、ここまでのことで何か質問はございませんか?」
 最前列の中年の男性が手を上げた。
「はい、どうぞ。所属とお名前を述べてください」
 質問するのに、いちいち所属と名前を言うのかよ。何でだよ。
「事務課の後藤と申します。私は研修生には選ばれていないのですが、同じように、質問事項に書いて提出しなければならないのですか?」
「ご質問ありがとうございます。……はい。提出してください。……私から後藤さんに質問いいですか?」
 後藤社員は質問しなければ良かったと一瞬思った。逆に質問されるなんて思いもしなかった。
「はい、……」
「後藤さんはこの三つの質問のことについて、普段考えた事がありますか?」
 後藤社員は、改めて手にした用紙に書かれていることを読み返した。
「いえ、一度も真剣に考えた事はありません」
「真剣にとおっしゃいましたが、何となくは考えた事がある、と理解してもいいですか?」
 言葉の揚げ足を取るようなことを聞いて何になるというのだ。
「……はい、……そうですね」
 後藤社員は自信なさそうに小さな声で答えた。早川は微笑んでいた。
「後藤さんは入社されて何年になりますか?」
「二十五年になります」
「そうですか。大ベテランでいらっしゃいますね。後藤さんみたいなベテランの方が、一度も真剣に考えた事がないとおっしゃいました。間違っていたらごめんなさい。多分、後藤さんみたいな方は、他にも結構いらっしゃるのではないかと思われます。……みなさん胸に手を当てて良く考えて見てください。そして、研修に参加するしないは別にして、ご自分で後藤さんと同じだと思われる方は、すみませんが、手を上げていただいてもいいですか?」
 成行きが面白くなってきた。かなり大勢の社員から手が上がった。それを見て早川は、後藤社員の方を振り向いて言った。
「後藤さん、ほら、見てくださいよ。仲間が一杯いらっしゃいますよ。安心しましたね」
 後藤社員は、早川を上目遣いに見て頷きながら少し微笑んだ。
「研修に参加されない後藤さんに、なぜ提出をお願いしたかと言いますと、書かれている質問について社員である以上、一度ぐらいは考えてもいいのではないですか? という気持ちが込められています。……質問を変えてみます。……後藤さん?」
「はい?」
「今お手元の用紙に書いてある質問に答えるのは嫌だなあと思いますか? 今の気持を正直に答えていただければ嬉しいのですが」
「いえ、今先生に言われまして、自分の怠慢を恥じています。こういう極めて基本的なことも考えていないようでは、社員として失格だと思います。気づきをいただいて、とても嬉しく思います。これを機会に真剣に考えたいと思います。ありがとうございました」
「ありがとうございます。後藤さん、ついでにもう一ついいですか?」
「はい。どうぞ」
 後藤の顔と声が変わって来た。
「今回、後藤さんは研修のメンバーから漏れましたが、機会を与えられたら、研修を受けたいと思いますか?」
「はい。是非共お願い致します。大分年齢は重ねてきましたが、初心に立ち返り、自分を鍛え直したい気持ちになりました。是非お願いします」
「あはは、メンバーを選ぶのは私ではありませんので、そう言われましても困りますが、社長もお聞きになっていますので考慮していただけるのではないでしょうか。……えー、後藤さん、ありがとうございました。気を悪くなさらないでくださいね。お願いします」
 後藤社員は恐縮していた。場内は完全に早川のペースになってきた。
「せっかくですから、参考までにお聞きします。……メンバーに漏れた方で、研修にどうしても参加したい方はいらっしゃいますか? ご希望の方は挙手してください」
 多くの手が上がった。
「ありがとうございます。大分多くの方が研修を受けたいという意思表示をされましたが、選考を担当された方はどなたか分りませんが、参考にしていただければと思います」
 多くの社員が研修を受けたいという。これはどう意味に捉えたらいいのだろうか? 問題は社員の気持と正面に向き合い、社員の持って生まれた能力を引き出そうとしない会社にあるのではないですか?
「では、次に移ります。研修の効果を高めるために、研修は二十名ずつのローテーションで行われます。本日は第一班です。もう既に出席者は決まっているかと思いますが、申し訳ありませんが、本日出席される第一班の方々は手を上げてください」
 バラバラに手が上がった。
「ありがとうございます。それでは、手を上げた二十名の方、前に出て来ていただいて整列をお願い致します」
 全員が、何でそんなことまでしなければならないのだと言わんばかりである。
「なぜ前に出ていただいたかと言いますと、物事を鮮明にしたいからです。曖昧のままにしたくないからです。この二十名の顔を良く見ておいてください。と申しましても、日頃からの同僚ですので何を今更とお思いでしょうが、そうでしょうか? よーく見てください。緊張されていますよね。日頃の顔と違うんじゃありませんか?」
 なるほど、そう言われれば少し違って見える。だけど、それがどうしたというのだ。人前に出れば大なり小なり誰もが緊張するではないか。
「それでは、少し実験してみましょうか?」
 早川がいきなり思わぬことを言い出した。
「はい、それでは、右から五番目の方、……そう、貴方です。……なかなかのイケメンですね。さ、どうぞ真ん中に」
 この言葉に場内の緊張が解けた。笑いが起こった。これから何が始まるのだろうと興味津々になってきた。
「お名前を伺ってもいいですか? ついでに年齢もお願いします」
「加藤と申します。三十五歳です」
「ありがとうございます。じゃあ、加藤さんには、まな板の鯉になっていただきます。最初は何ごとも上手くいきません。最初からうまくいく人はお化けです」
 場内が和んだ。
「では、加藤さん、三分間スピーチをお願いします。テーマは我が人生観です。……では、どうぞ」
 何? いきなり三分間スピーチ? 我が人生観? 止めてくれよ。そんな物出来る訳ないだろう?
「えっ? 三分間スピーチですか?」
 当の加藤社員は完全に我を失っていた。言葉が出てこない。我が人生観? そんなこと、一度も考えた事ないよという顔だった。
「どうしました? 加藤さんには人生観はないのですか? まさか、あるでしょう? 難しく考える必要はありませんよ」
 そう言われても、言葉が出てこないんだよ。誰か助けてくれよ。早川は幕を引いた。
「はい、加藤さん、ありがとうございました。もう宜しいですよ。元の所に戻っていいですよ」
「…………」
 結局、加藤社員は、真ん中に進み出て来たものの、一言も喋ることなく元の所に戻った。
「私も意地悪ですね。加藤さん、すみませんでした。悪意があってやった訳ではありませんから、勘弁してください」
 早川は加藤社員に頭を下げた。その様子に、全員がこの講師は少し違うなと思い始めた。
「皆さんの中で、三分間スピーチ出来る方いらっしゃいますか? テーマは我が人生観です」
 早川は場内を見渡し、手が上がるのを待った。だが期待は裏切られた。早川は加藤社員を振り返った。
「加藤さん、良かったですね。加藤さんだけじゃなくて全員の方が同じでした」
「……」
 加藤社員は幾分救われたような顔をして微笑んだ。
「皆さん、何故私が加藤さんに意地悪をしたか、ということを言わなければなりませんよね? もちろん、加藤さんじゃなく誰でも良かったのですが、 何を言いたかったのかと申しますと、皆様方一人一人の人生に限らず、会社の業務上でも、思わぬ展開に遭遇することが良くあります」
 何人かが大きく頷いた。
「その時、即座に空気を呼んで対処していかなければなりません。対処の仕方によっては、大きな契約を失うことになるかもしれませんし、その逆もあります。そう思いませんか?」
 またも何人かが大きく頷いた。
「皆さんが即座に前に出てスピーチ出来なかったのは、その心構えが出来ていなかったからだと思います。もちろん、今日家に帰って考えれば話せなことはない筈です。明日の朝指名されたら、ちゃんとスピーチしよう。……これじゃ、遅いのです。仕事になりません。……でしょう?」
 一同が沈黙した。納得せざるを得なかった。
「実験を通して、如何に普段の心構えが大事か、ということを分っていただきたかったのです」
 全員が納得顔になった。
「じゃあ、ここで大分時間も経過しましたが、今までの経験を踏まえて、三分間スピーチ出来る方を私がご紹介しましょう。この際ですから、テーマは何でもいいことにします」
 またまた、思ってもいない展開になってきた。誰だろう。
「すみません、後藤さん? お願いできますか? 時間を測っていますので、時間内にお願いします」
 早川は真理子の次に質問した後藤の名を告げた。後藤社員はびっくりしたような顔をした。だがすぐ心の準備は出来たようである。後藤社員は早川と社長に一礼して中央に進んだ。
「えー、突然ご指名を受けまして、胸が右往左往しております。テーマは何でも良いということでしたので、私の今の気持をまとめて率直にお話ししたいと思います」
 全員が後藤社員を注視した。
「私は研修のメンバーから外された人間です。正直言いまして、何故外されたのかという疑問は湧きませんでした。研修を受けるということは、何かが足りないから受けるのだとか、もっと学ぶ必要がある人だけが研修を受けるのだ、など今思いますと、実にくだらない独りよがりの考えになっていたと思います」
 全員の耳が後藤社員のスピーチに向かって開いていた。
「先ほどの先生とのやり取りを経験させていただいて、心の中がパニックになりました。俺は今まで何を考えていたんだ、社内ではベテランと言われて、いい気になっている自分が、いざとなると、何にも分っていないということに気づいたのです。先ほども申しましたが、これは私の怠慢の何物でもありません。実に恥ずべきことです」
 後藤君、何も君だけじゃないよ。俺だって同じだよ。そんな心の叫びが聞こえそうな雰囲気になった。
「今まで何回となく、講習や研修を受けてきました。ですが、一つとして自分の物になっていなかったような気がします。いえ、講師の先生方や会社の事を、どうのこうのと言っているのではありません。自分の問題なのです。自分が何かを吸収して、仕事や、場合によっては、自分の人生に役立てようという強い気持ちに欠けていたのです。会社の仕事は、私ほどの年齢なりますと、そつなくこなしていけます。ですが、その先がないのです。その先の一段高いステップにまではいけないのです。……私は、早川先生だったら、一段高いステップまで導いて下さるのではと強く思いました。ですから、是非研修を受けさせてくださいと申し上げたのです」
「後藤さん、まだ語り足りない様子ですが、すみません、時間となりました。ありがとうございました」
 後藤社員が再び早川と社長に一礼して引き下がった。同時に盛大な拍手が湧き起った。早川が後藤社員に微笑みかけた。
「……後藤さん、今のお気持ちは?」
「はい。感激しています。初めての経験でした。実にスカッとした気分になっています。機会を与えていただいて、ほんとに、ありがとうございました」
 後藤社員は深々と頭を下げた。
「実に立派なスピーチでした。正直、大丈夫かなあと思っていましたが、分り易くてハキハキしたお話でした。お見事でした。自信たっぷりの後藤さんが輝いて見えますよ。これからも頑張ってくださいね?」
「はい。ありがとうございます。頑張ります」
「これは、社長に対しての私からの提案なのですが、この三分間スピーチを、毎日の朝礼時に行っていただけたらと思います。人様の前で自分の考えを述べることは、自分を顧みる絶好の機会を与えてくれますし、お、そうか、あいつはこんな考えをしているのかなど、新しい発見があります。そのことが個人はもちろんですが、会社の発展に、少なからず寄与するものと思っています。是非とも検討願えればと思います」
 誠一郎は大きく頷いていた。悟、お前って奴はほんとに大した奴だなという顔であった。
「えー、時間をあまり取りますと、先ほどの三つの質問の答えを書く時間がなくなりますので、この辺にしたいと思います。……最後に、私の行う研修がどういうものなのかを、実際になって戸惑いがあるといけませんので、今申し上げておきます。通常の研修は、一方通行の場合が多いと思います。つまり、講師が話すことを、ただ聞いておけばよかったと思います。せいぜい、大事だなと思うことをメモする程度だと思います。私の行う研修は違います。全員参加型の研修です。研修のローテーションの中に組み込まれた方々全員に参加していただきます。研修に出席しているのだから、参加しているのではないか何を改まって、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、参加の意味が全く違います。ま、このことは、今ここでは申し上げません。研修の場でお分かりになります」
 一同は全員参加という言葉を聞いて緊張した。
「敢えて申し上げておきますが、私の行う研修はとても厳しいと覚悟してください。極めて過酷な状況に追い込まれ、心身ともに疲れ果て、付いて来れない人が続出すると思われます」
 おいおい、ほんとかよ。脅さないでくれよ。でも、この男やりそう。何だか怖くなってきた。
「世間からは、あいつは鬼だとか蛇だとか言われています。これが私の代名詞です。始める前からこんなことを言うのもなんですが、一応宣言しておきます。本日から行う研修は、まさに修羅場の研修と覚悟しておいてください」
 悟の次々に繰り出す言葉に一同が驚いた。みんな真剣な顔になってきた。
「脱落者には手は差し伸べません。自分の力で這い上がってください。這い上がれなかった人は、この会社での未来はないと思ってください。何処の会社もそうですし、皆さん方もご存じの通り、会社はボランティアもしくは慈善事業を運営し、経営している訳ではありませんよね」
 全員が悟の話にじっと聞き入っていた。
「皆さん方のお蔭で会社が成り立っています。その会社が皆さん方の家族の生活を支援しています。ですよね? ですが、ニワトリが先か卵が先かの話ではないのです。会社には、はっきりとした目的があります。その目的を達成するために目標を掲げます。何処でもやっている当たり前のことです」
 場内が静かになり悟の低く太い声が響き渡った。
「……ここまでお話すれば、研修の意図するところが見えて来たのではないでしょうか。敵には勝たなければなりません。敵は内部ではありません。外部です。内部のくだらないことに終始していますと、会社は潰れるのではありません。他社に潰されるのです。この違いはお分かりになりますよね? 外部と戦い、勝利することで天下が見えてきます。天下は取れなくてもいいのです。見えさえすれば、二の手三の手はいくらでも講ずることが可能です」
「……」
「えー、時間を大分喰ってしまいました。私の話はこの辺に致します。後は研修の場でじっくりやりましょう。……最後に一つだけ聞いてください」
 一同が悟の顔をみた。
「研修会場に入る時の心構えについてですが、会場のドアを開け、一歩会場に足を踏み入れた瞬間から、肩書を外して一人のビジネスマンとして参加してください。会場では、全てさん付けで呼んでください。それから、男性女性の区分もありません。さらに年齢も関係ございません。よろしいでしょうか? ……そんなの嫌だと言われる方は、今のうちに手を上げてください。考慮致します」
 考慮するという言葉で、手を上げる者がいるのではと思ったが、役員を含め管理職からも手が上がらなかった。
「はい。全員了解したと理解致します。それでは研修会場でお会いしましょう。私の話は以上です。ご清聴ありがとうございました」
 悟は深く頭を下げて下がった。場内にざわめきが起こった。そして割れんばかりの拍手が場内を覆った。ただならぬことが展開しそうで、みんな不安げな顔になった。そして、この研修後の社内態勢が、これまで常識とされていたことが、大転回するのじゃないかという期待と不安が交錯した。
 誠一郎は、悟の話に何度も大きく頷いていた。それを見ていた役員や管理職は、社長の思惑を計りかねていた。だが、もしかしたら、会社が大きく舵を切りそうだということの認識を持ち始めていた。真理子は一人痛快な気分に酔いしれていた。悟兄さんはやっぱり凄い。早く家に帰って亜希子に話したかった。悟の挨拶が終わって、誠一郎が中央に立った。
「早川先生ありがとうございました。……えー、次回の研修日は再来週です。第二班の二十名になりますが、今朝みたいな朝礼は行いません。各自、直接会場に行ってください。くれぐれも時間に遅れないようにしてください。先生からの要望で、時間になりましたらドアが閉まり、それ以降の入場は出来ません。そのまま家に帰っていただくことになります。尚、当日出席が出来ない方は、総務課の方に早めに連絡してください。メンバーの入れ替えを行います。えーと、それから昨日の朝礼で申した通り、本日は土曜日にも拘らず、朝から出勤していただいた労に報いるために、全員の昼食の弁当を会社で負担します」
 会社が弁当を支給するなんて信じられない事である。場内が一斉にウォーとなった。何だか違う会社にいるみたいだぜ。 総務課の馬場課長の音頭で朝礼が終了した。

 早川悟は、誠一郎の案内で社長室に入った。社長は満足この上ないという顔であった。
「いやー、悟ご苦労さん。さすがだったな感服したよ」
「ありがとうございます。あんな具合で良かったでしょうか?」
「良かったどころじゃないよ、社員たちの顔を見たかい? あんな顔を見たの初めてだよ」
「役員さんも真剣な顔をしていましたね」
「そうなんだよ、いやー、うちの役員も戦々恐々の心境じゃないかな」
「あはは、そうかも知れませんね。でも役員の方々は、研修のメンバーにはなっていませんから、教育のしようがありませんけどね」
「そうなんだよ。だけど、なんとか彼らも教育する方法はないものかなあ、と考えているところだよ」
「いえ、その必要はないと思います」
「必要ない? どうしてだよ。一番に教育したいぐらいだぜ」
「時間は多少掛るかもしれませんが、変わらざるを得なくなると思います」
「変わらざるを得なくなる? どうしてそう思うのだ?」
「これから行われる研修等を経て、社員の質が飛躍的に上がると思います。そうなりますと、管理職や役員はウカウカ出来なくなります。管理職でございますとか役員でございますと威張っている類の人は、相手にされなくなりますし、自ずと自己改革をせざるを得ないと思います。自己改革のできない人は、社員から突き上げられてしまって立場を失うことになります」
「なるほどなあ、そこまで行くといいなあ。理想だな」
「必ずそうなります。安心してください」
「管理職は分るとしても、役員にまでも三つの質問の答えを書けなんて良くも思いついたな、……大胆だな」
「社長、思いついた訳ではありません。当然のことです」
「そうは言うけど、彼らには彼らなりのプライドがあるだろう?」
「社長らしくない言葉ですね。プライドに報酬を払っているんですか? そうじゃないと思います。彼らとて、れっきとした会社の構成員です。肩書があるからと言って、目的を失ってはいけないと思うんです。構成員であるからには、それらしいことはしていただかないと、会社はもちませんよ」
「理屈は分るんだが、なかなか出来ないもんだぜ。それにしても、三つの質問の答えを書けなんて、……あはは、痛快だなあ」
「全社員に対して私が出した三つの質問と、似たようなことを、過去に実施されたことはなかったのですか?」
「いや、全くない。三つの質問は、社員が勤務する上で常に考えておかなければならない、言わば基本的なことなのになあ。あは、恥ずかしい限りだよ。ったく」
「でも、入社試験などで似たような問題を出題したり、面接のとき尋ねたりしますよね」
「いや、それすらもないな」
「そうですか。私としましては、例え過去に似たようなことを実施されていても良いと思っていました。三つの質問は、社長が今おっしゃったように、社員たる者の、最も基本的な考え方について尋ねています。社員研修ですから、その辺のところを改めて意識しながら進めていくのも、いいのじゃないかと思って、あのようにした訳です」
「いやいや、理にかなったやり方だと思う」
「どんな回答が寄せられるか楽しみですね。特に管理職や役員の考え方が分りますからね」
「だけど、文章なんてどうでも表現出来るだろう? 自分のほんとの考えじゃないのに、さもそうであるように、社長の俺が喜ぶような、歯の浮いたような美辞麗句を並べたりしてな」
「確かにそうですね。それは見抜かなければなりませんね。簡単に見抜けますよ」
「どうやって見抜くんだよ」
「書いた本人と、書いた内容についてマンツーマンでとことん議論するのです。徹底的にですね。そしたら、本心が見えてきますよ。議論の仕方がまずいと見抜けませんが」
「議論の仕方? なるほど、分るような気がする」
「でも、今まで全然知る由もなかったことが、曲がりなりにも分る訳ですから、楽しみは楽しみですね」
「そうだよな。楽しみだなあ。……で、回答の仕方によっては、何か考えているのか?」
「いえ、それは社長が考えることですよ。私がタッチする問題ではありません。私はあくまで、研修用のアンケート資料にと思ったまでです」
「そう言うなよ。悟なりに何か考えることがあるんだろう?」
「仮に私が社長だったら、ということで意見を述べていいですか?」
「ぜひ聞かせてくれ」
「この質問の狙いは、問題意識を持っているかどうかなのですね」
「うん」
「会社に勤務していて、ただ漫然と与えられた仕事だけをこなすだけの社員は、これからの企業には必要ないと思います。役員や管理職を含めた社員すべての構成員が、会社を良くするには、会社が利益を上げていくには、自己の能力を高めていくにはなど、問題意識を持って積極的に能動的に自己啓発に努めなければ、会社のレベルは一向に上がりません」
「うん。同感だな」
「じゃあ、どうやって高めて行くかなのですが、社長や役員や管理職が、どんなに声を大にして叱咤しても、事態は改善されません」
「どうしてだろうな?」
「一人一人の問題意識が希薄だからです。それと会社に夢が持てないからです。さらには、あんな人が役員だなんて、あんな人が管理職かよ、といったような類の考えを持っている社員がいたら、かなり要注意ですね。その社員が要注意という訳ではないのです。会社の土壌の問題なのです。おそらく、どの社員も、思っていても声には出さないでしょう。変に目をつけられても困りますからね」
「……」
「ですが、その声が大切なのです。そんな声をジャンジャン吸い上げるべきなのですね。江戸時代に徳川吉宗が設置したような、目安箱を社内に設けるのです。ややもすると、臭いものには蓋をする式で、うやむやにしてしまいがちですが、時間が経つにつれて、この、うやむやが、とんでもないことを引き起こすきっかけになる場合があります。会社にとっては、非常に危険なシグナルなのです。赤信号が点滅しているのに、その原因を探ろうとしないか事なかれ主義かですね」
「なるほど」
「目に見えない所で、危険が蔓延し始めているにも拘らず、それを察知するアンテナを持ち合わせていない。ですから対処の仕方を知らないか、知っていても後手後手になってしまう。……ま、こんなことが考えられます」
「今の話聞いていると、やっぱり社員の前に、役員や管理職の研修した方がいいように思うがなあ」
「いえ、社長、先ほども申し上げましたように、その必要はございません。第一線で活躍する社員の質が飛躍的に上がれば、業績もそれにつれて良くなります。そうなりますと、管理職や役員はいい気分になります。自分の手柄だと錯覚してしまいます」
「当然そうなるよな。それで?」
「管理職や役員の仕事は、的確な指示と命令です。しかし、業務上の指示と命令を的確に行うには、それなりの状況把握能力と見識が要求されます。高度な教育を受けた社員と、そうではない管理職や役員の間には、自ずとそのずれが生じ、その結果、時間が経つにつれて、上司の指示・命令に対して疑念や失望、場合によっては反抗心が芽生えてきます。それでも上司かよ、という組織上あってはならない軋轢が生じ始めます」
「なるほど」
「その結果は悲惨です。社員が、管理職を管理職として認めたくないと思うようになりますと、矛先が会社に向いてきます。こんなぐうたらな管理職を、なんで管理職にするんだという不満がくすぶります。その結果、場合によっては、仕事に対する意欲や向上心が損なわれ、業績が落ちてきます」
「うん。あり得る話だな」
「業績が落ちると管理職の立場が危うくなります。責任問題になります。その原因を探っていくと、どうも管理職の、管理職としての能力に問題があることが分るようになります。当然その管理職は、人事上の降格の対象になります」
「うん。そうだな」
「今現在、社長のところでは、このような問題はありませんか? 思い当たるようなことはありませんか?」
「大いにある話だよ。実のところ、俺の悩みになっているんだよ」
「手は打っているんですか?」
「いや、打てないと言った方がいいかな」
「えっ、どうしてですか? 社長ですらも手が打てないのですか?」
「そうなんだよ。役員間に、いろいろな意見の食い違いがあってな」
「私には、とても信じられませんが」
「そうだと思う。俺の力がないばっかりに、困ったことになっているんだよ」
「そうでしたか。言葉は悪いですが、土壌が腐りきっているようですね」
「そう言われても仕方ないくらいの体たらくだな」
「それでよく業績が上がっていますね」
「いや実は、悟だから言っておくが、このまま行ったらもうすぐ危険水域に突入だな」
 悟はびっくりした。一度は聞いておこうと思っていたことだが、会社の業績が思わしくないという。
「えっ、社長、他人事みたいに聞こえますが。……役員さん達は、そのことは分っているんでしょう? 問題意識としてとらえているのですか?」
「分っているとは思うが、何とかしようという機運もないし、問題意識が希薄だから始末が悪いんだよ。困ったもんだ」
「困ったもんだと言ってる間にも会社が傾きかけている訳でしょ? 銀行が手を引いたらどうするんですか? それこそ万歳ですよ。早く手を打たないといけませんよ」
「そうなんだよ。だから悟に研修を頼んで、まず意識改革をして貰おうと思ったんだよ」
「社長、少しお尋ねしたいことがあるんですが」
「何だね?」
「会社の株の持ち株比率はどうなっているんですか?」
「こんな小さな会社の事だよ。俺が百%保有しているさ」
「ついでにお伺いします。役員への就任は何が根拠になっているんですか? 年功とか実績とかですか?」
「当然それもあるけど、俺の判断一つだよ。おい君は新年度から専務だ、とか役員だとか、こんな具合だ」
 悟は驚いた。えっ、嘘でしょう? あいた口が塞がらない。
「……分りました。……もう一ついいですか?」
「何だね?」
「組合はあるのですか?」
「今のところはない」
「だったら社長、何も悩むことないと思うのですが。社長の思った通りにされたらいいじゃないですか」
「そう言うけど、長年しみついた垢はなかなか取れないよ。俺には経営手腕がないってことを証明しているようなもんだな」
「社長は暮れに、業務拡張と能力主義への転換をするとかおっしゃってましたよね」
「言った。俺の考えでは、悟が言うように、このままでは、それこそ重大な局面を迎えることになる。そうなる前に、心を鬼にしてでも方向転換をしなければと思っているんだよ」
「なるほど。今日からの研修を皮切りに、思い切った舵取りをしたいとおっしゃる訳ですね?」
「そういうことだな。その上で、悟の弟の謙二が来てくれると、願ったり叶ったりという風に思ってるんだよ」
「よーく分りました。社長、心配には及びません。社長の夢を実現しようじゃありませんか」
「そうは言うけど、言うは易し行うは難しと言うぜ?」
「社長がそういう弱気でどうするんですか? 社長が、苦労に苦労して築き上げた会社じゃありませんか。初心に帰って頑張れば何とかなりますよ。一番憂慮すべきことは、社長自身がさじを投げ出すことですよ。真理子にバトンタッチするまでは、死に物狂いで頑張る必要がありますよ。でしょう?」
「この前から、悟には教えられることばっかりだなあ。ほんとにそうだよな、俺が気弱じゃ先に行きたくてもいけないよな」
「そうですよ。まだ老け込む歳ではありませんよ。真理子を含めた若い連中が、期待し頼りにしている訳ですから」
「よし、分った。何だか元気が出て来たな。……悟、ありがとう」
 誠一郎は、悟の目を見詰めた後頭を下げた。悟に促されて、誠一郎は新たな決意をした。

「ところで、悟が考えている今回の研修の狙いはずばり何だ?」
「一言で言いますと、人材の発掘です」
「人材の発掘? どういうことだ?」
「真の人材の発掘です。つまり花岡貿易商事(株)に必要な人材を、今の社員、管理職、役員の中から、改めて選び直すことです」
「と言うことは、裏を返せば、不適格な人材は会社を辞めてもらい、新たに優秀な人材を募集するということか?」
「はい。正にその通りです。大幅な新陳代謝を断行して、花岡貿易商事(株)、出来ればこの際、会社名も新しくした方がいいような気もしますが、ま、言わば新しく生まれ変わる会社の、人材を発掘しようというものです。この機会を逃したら、永久に改革は断行し難くなります」
「なるほど。この機会をとらえて、何もかも一挙にやろうという訳だな?」
「そうです。創立三十周年を記念して、社名を変更し、会社の新たな綱領を掲げ、優秀な新たな人材で再出発を図るのです」
「……」
「そして、競合他社に勝利して、未来に対して盤石な体制を整えるのです」
「……」
「あれっ、社長、私、言いすぎましたか? ごめんなさい。つい調子に乗ったみたいですね」
「悟、ちょっと頼みがあるんだがな」
「はい。何でしょう」
「明日から俺に代わって社長になってくれよ」
「あはは、社長冗談がきついですよ。私はそんな器ではございません」
「いや、本来はだよ? 今悟が言ったことは、全て俺が考えなければならない事だろう? それを何で悟から言われなければならないんだ?」
「すみません。研修の狙いは何だを言われたものですから、つい余計なことまで喋ってしまいました。他意はございません」
「いや、いいんだよ。俺が言いたいことは、何で俺がそういうことを思いつかないのか、ということだよ。俺って、ほとほとバカだな」
「あははは、社長、岡目八目っていうじゃありませんか、当事者よりも物事がよく見えるものですよ」
「いや、違うな、これはもう頭脳だな。頭脳の善し悪しだな」
「社長、あと十年です。真理子にバトンタッチする時、ニコッと笑えるようにしたいものですね」
「だな。そうでなかったら真理子に笑われるからな。それだけは嫌だな」
「社長、そういう訳ですので、回答の内容や研修での成績如何によりましては、非情な手段を講ぜざるを得ないことを念頭に置いておいた方がいいと思いますが」
「うーん。いざとなると辛いよなあ。仮にもこれまで会社に尽くしてくれたんだからなあ」
「でも、その尽くしてくれたことに対しては、充分な報酬を与えてきたのじゃありませんか? 違います?」
「それはそうだけどな。でもなあ……」
「社長の気持は良く分ります。ですが、会社が倒産してしまっては、元も子もなくなってしまいます。社員の家族を含め多くの方々が路頭に迷うことになります。これだけは避けなければなりません。ここは一つ、心を鬼にするよりないと思います」
「だな……、そうだな……」
 誠一郎は、自分に自分を促すような素振りをした。

「社長、気になることがあるのですが」
「まだあるのか?」
「はい。能力主義の件ですが」
「おー、何だ?」
「社員や管理職、場合によっては役員も含めて、能力の基準と言いますか、具体的に能力を推し量る基準みたいなものはあるのですか?」
「いや、まだ考えていない。ちょっと考えて見たのだが、意外と難しいものだな?」
「そうですか。でも、来年度からとなりますと、もう時間がないですよ」
「そうなんだよ。少し焦っているんだが、何か知恵はないかね」
「業務に直結することですから、私には知恵は持ち合わせていませんが、弟の謙二だったら、良い案を出してくれるかもしれませんよ」
「おー、そうだな。それがいいや。そうしよう。相談してみるか」
「話は変わりますけど、亜希子から、神戸の件で何か持ちかけられませんでしたか?」
「うん。あった。……そうだな、来週の土曜日にでも、真理子を連れて謙二を訪ねてみるとするかな」
「その時、今の話もしてみたらどうですか?」
「そうだな。なるほど。そうしよう。……なるほど。……うんうん」
 誠一郎は俄然明るい表情になった。

「社長、研修の様子を傍聴されますか?」
「そうよなあ、傍聴したい気もあるが、俺がいることで、変に委縮してもなあ。悟はどう思っているんだ?」
「社長には、まず研修の始まる前と最後に、ご挨拶をお願いしようかと思っています。本日十四時からの社長は、今までの社長と違うのだということを見せつけるのです。そして、四時間もの間、きついかも知れませんが、最後まで傍聴していただきたいのです。会社の歴史的な幕開きですから」
「そうだな。今までは役員たちに任せていたが、これからは俺が陣頭指揮して会社を引っ張って行くかな?」
「そうですよ。言葉は悪いですが、社長という肩書にあぐらをかいているようでは、事態は一向に改善されないと思います。千載一遇の大チャンスととらえて、変革を実行すべきです。新生会社が軌道に乗ってくれば、後はしかるべき人に任せればいいのです。それまでの間です」
「そうだな。この当たり前のことをやってこなかったツケが、今頃ずしりと重くのしかかっているからなあ。何としてもこれを取り払わなければならない」
「そう思います」
「毎回そうするんだな?」
「後ろの方で傍聴するのに抵抗があれば考慮しますが」
「考慮? 何か方法があるのか?」
「隣の部屋で傍聴出来るようには出来ますが、音声だけになります」
「なるほどな。だが、こうなったら、顔の表情とか素振りなんかも見ておきたいし、いい機会だから、この際全社員の考えを聞いておくのもいいかもしれないな。やっぱり、後ろの方で聞いておこうかな? いいんだろ?」
「もちろんです。音声だけでは判断できない微妙なことが良く分りますから、その方がいいと思います」
「そうか。じゃあそうしよう」
「役員の傍聴についてはどうお考えですか?」
「役員か、そうだなあ、悟の研修の凄さを見せたい気もするが、やっぱり出席しない方がいいと思うなあ」
「どうしてそう思われるのですか?」
「振り出しに戻したいからだよ。悟の話を聞いて、今の役員も、もう一度白紙に戻して、考え直した方がいいと思うようになったんだよ。そうなると、むしろ傍聴して変な考えになっても良くないからな。この際、全てを白紙にしたいんだよ。……悟はどう思う?」
「同感です。新生会社の役員は、白紙に戻して、改めて任命することにした方がいいと思います。もちろん、再任も視野に入れても構いませんが、あくまで新しい体制に叶った人材を登用する、という姿勢を貫き通す必要があります」
「そうだな。そうしよう。役員の出席はしないことにしよう」
「はい。分りました。じゃあ、そういうことでよろしくお願いいたします」
「うん。よろしく頼むわ」

 昼になり仕出し弁当が全社員に配られた。誠一郎と悟も同じ弁当を食べた。十三時になり、社長室のドアがノックされて馬場課長が顔を出した。悟に会釈して、社長の前で深く頭を下げた。片手に分厚い茶封筒があった。
「用紙を回収して参りました」
 茶封筒を社長に差し出そうとした時、社長の雷が落ちた。
「馬場君、何か勘違いしていないか?」
 馬場課長は事情が呑み込めない様子だった。それを見て悟はニタニタしていた。
「あのな? この用紙は、誰からの指示で渡されたのだ?」
「早川先生です」
「だったら、俺じゃなかろう? 先生に手渡すべきだろう? それぐらいのことが分らずして良く課長をやってるな」
「申し訳ございません」
 馬場課長は大いに慌てた。くびすを返して、頭を深く下げながら悟に茶封筒を渡した。
「ありがとうございます。ご苦労様でした」
 馬場課長は、再び社長に頭を下げた後部屋を出て行った。
「悟こんな具合だよ、ったく話にならないよ」
 悟は茶封筒を社長に渡した。
「とりあえず今日出席の二十名を重点的に見てみましょうか。読み終わったら、一枚ずつ私に回してください」
「俺は後でじっくり見るから、悟から先に見たらどうなんだ?」
「社長、それは困ります。社長もその気になって見てください。お願いします」
 言われて誠一郎は、今日出席する二十名の分をじっくり目で追った。そして、読み終わって悟に渡した。悟もそれぞれの質問に対する回答を、ゆっくりと目で追いながら読んで行った。

 十四時からの研修が始まった。
「えー、これから第一回社員研修を行います。……一同起立」
 総務課の馬場課長が音頭を取った。出席の二十名の社員の顔は緊張していた。
「礼、……着席。……それでは、社長から訓示を頂戴致します」
 社長が中央に進み出た。厳しい顔だった。社員は今まで感じたことのない威厳を感じた。
「えー、ご苦労さん。我が社は、本年創立三十周年の節目を迎えました。四月からは新しい期に入ります。来期はいろいろな企画を実行する予定です。今日から始まる研修も、前倒ししてその企画の一環として行われます。会社は皆さんの力で成り立っています。皆さんの一人一人の能力の結集が会社を支えております。ですから、個々の能力を高めることで会社のレベルも上がってきます。会社のレベルが上がれば業績が向上します。業績が上がればみなさん方への報酬も上げることが出来ます。この研修を通して、個々の能力を高めていただきたいと思っています。期待しています。頑張ってください」
 社長誠一郎の訓示は極めて簡単だった。それでも研修生は、社長の話しぶりを、これまでと違って感じた。威圧的な語り口がなくなった分、これまでにない威厳を感じた。
「えー、それでは早速、早川先生お願い致します」
 馬場課長が早川の方を向いた。早川は社長に一礼して中央に立った。馬場課長は社長の指示で退出するよう命ぜられた。
「まず、研修を始める前に、皆さんにお願いがあります」
 悟は柔らかな表情で語り始めた。
「今日の研修の内容は他言無用でお願いします。お分かりですよね? もう一度言います。これから始まる研修の内容については一切極秘にお願いします。皆さんが会社に戻りますと、他の社員の方たちが訊いて来るでしょう。どんな事をやったんだよとか、社長からどんな話があったんだとかです。そんな時同じ同僚ですから、話したくなるのは良く分りますが、絶対に話してはなりません。適当に誤魔化してください。今からこう言うのもなんですが、もし研修の内容を他言した場合、しかるべき対応を取らさせていただきます。他言したかどうか分る筈がない、と思っている方がおられましたら、どうぞ他言してください。その代り責任は取っていただきます」
 言い方は優しいが、冒頭から何やら厳しい。誰しも緊張が漂い始めた。
「この研修は、極めて重要な意味のある研修として会社は位置づけています。その辺を良くご理解いただきたいと思っています。お分かりいただけたでしょうか? お分かりの方は、申し訳ありませんが起立お願い致します」
 おいおい、手を上げれば分りそうなものを、起立かよ。全員が起立した。
「ありがとうございます。これで、私と皆さん方との間に契約が成立したことになります。重ねて申し上げます。契約違反は絶対になさらないでください」
 のっけからこれだから、相当覚悟して臨まないと、とんでもないことになりそうだ。
「それでは始めましょう。まず、一人ずつ自己紹介をお願いします。はい、あなたから前に出てお話しください。当然のことですが、所属とお名前それと入社して何年になるかもお話しください。その他のことについては、自由にお話しして構いません」
 集まった二十名の自己紹介から始まり、最初の一人が前に進み出た。
「営業二課の安藤と言います。入社して八年になります。よろしくお願い致します。……」
 最初に指名されて、かなり緊張しているようである。安藤社員の言葉が詰まってしまった。
「安藤さんそれだけですか? 終わりですか?」
「……」
「じゃあ、安藤さん一旦席に戻ってください。いいですか、自己紹介とは、どういう意味を持っているのかご存知ですか? はい、あなた答えてください」
 早川は目の前の社員を指差した。指を差された社員は慌てた。
「……」
「どうしましたか? 答えられないのですか?」
「いえ、……自分の事を、みんなに分ってもらう為です」
「そうですね。じゃあ、お聞きします。自分の事とは、どういう事を指すのですか?」
「先生がおっしゃった所属と名前、キャリア等です」
「等とはの等について、もう少し詳しく言えますか?」
 ああ言えばこう言う、なんだよ人の言葉の揚げ足を取りやがって。
「……」
「安藤さんも、そこの所で詰まってしまいましたね。入社して八年、営業二課の安藤ですなんて、誰でも知っていることでしょう? それだけでは自己紹介にはなりませんよ」
 突然、早川の語気が荒くなった。一斉に驚いた。誠一郎はいよいよ来たなと一人ほくそ笑んだ。
「じゃあ、どうすればいいですか? 三分間だけ時間を上げますから良く考えてください」
 会場がしーんと静まり返った。三分間があっという間に過ぎた。
「自己紹介したい方は挙手してください」
 早川は場内を見渡した。列の真ん中あたりの社員が手を上げた。
「はい、あなた、どうぞ前に」
 社員は緊張しながら前に進み出た。
「営業三課の溝口です。入社して十年になります」
 早川は溝口社員の三つの質問の回答を見ていた。
「営業という仕事は、最初私には不向きだと思っていましたが、先輩方の良きアドバイスをいただきながら、何とかここまでやって来れました。ですが、正直なところ、今壁にぶち当たっています。自分の性格は、自分で言うのもなんですが頑張り屋だと思っています。でも、どんなに頑張っても明日の自分を見つけることが出来ないのです。何とか飛躍したいと思っても駄目なんです。ですから、この研修を通して何かを得たいと思っています。よろしくお願い致します」
 早川の拍手が全員の拍手を誘った。
「溝口さんありがとう。暫らくそのままいてください」
 早川は溝口社員の顔を見ながら、回答した三つの質問について語り始めた。
「溝口さん、あなたの考えを聞かせてください。今、私の手元には、朝礼の時にお渡しした三つの質問の回答書があります。この内容について、ここにお集まりの皆さんの前で明らかにしてもいいですか?」
 溝口社員の顔が、あきらかに困惑の表情に変わった。
「まさか、研修の場で自分の書いた内容について明らかになるなんて、考えていませんでしたから少し時間をください」
「私が、何故あなたの書いた回答の内容を明らかしたいのか、質問したくありませんか?」
「あ、そうですね、それが先ですね。それによっては、すぐ返事できますね」
 早川と溝口社員とのやり取りを、全員が興味深げに見ていた。
「いいところに気がついていただきました。それでは、私が、何故溝口さんの書いた回答の内容を明らかにしたいのかを申し上げます。答えは一つです。溝口さんを裸にしたいからです」
 みんな一様に驚いた。
「あは、何もここで服を脱いで、全裸になって貰おうなどとは思っていません。それも一興かもしれませんが、女性の方の了解が必要です」
 この言葉で場内の雰囲気が一変した。この講師は、なかなかユニークで面白そうだ。
「裸の意味は、溝口さんの心に着飾った考えを、一度全て捨てて貰いたいのです。心を全裸にして貰いたいのです。長年に亘ってしみ付いた垢を洗い流して欲しいからです。先ほど溝口さんは、明日の自分を見つけることが出来ない、とおっしゃいましたね? その原因は何だと思いますか?」
「……分れば、苦労しません」
「ですよね。答えは心にしみ付いた垢が原因なのです。邪魔しているのです。この垢を取り除かない限り未来はありません。飛躍できません。何となくお分かりになりませんか?」
「……そうですね。そう言われれば何となく」
「人様の前で、自分を裸にすることはとても勇気のいることです。でも、その裸の姿から、新しい自分を発見出来るのです。未来に向かっての自分を見出すことが出来るのです。溝口さんの裸になった姿を見て、みんなが温かい支援をしてくれます」
 みんなが頷き始めた。
「ついでに、溝口さんにもう一つ質問します。……溝口さんは、回答書をみんなお前で明らかにすることで、何か失うことがありますか?」
「……いえ、それはないと思います。あくまで、会社に対して、今自分が思っていることを正直に書きました。その中には、批判めいたことも書きましたが、会社の事を思ってのことですので、意のある人でしたら良く理解していただけると思っています。ですから、明らかにされても、失うものはございません」
「良く分りました。最後にもう一つ質問します。……溝口さんはこの会社が好きですか? これからも、この会社でずっと働き続けたいですか?」
「……先生、どうしてそんな質問をされるのですか? この場で、嫌いだなんて言える訳ないじゃないですか」
 場内が笑いになった。だよなあ。言える訳ないよなあ。
「じゃあ、嫌いということですね?」
 早川が鋭く突っ込んだ。場内にまた緊張が走った。
「いえ、嫌いという訳ではありませんが……」
「じゃあ、この会社でずっと働き続けたいですか、という質問に対してはどうですか?」
「はい。出来ればそう願いたいです」
「意地悪な質問をします。溝口さんは、何かの理由で会社を首になったらどうしますか?」
 場内が騒然となった。会社を首になる話が研修の場で出るなんて、なくはないかも知れないが。
「……止むを得ませんから、別な会社に就職します」
「そうですか、分りました。じゃあ、ここで溝口さんの考えをまとめてみます。会社は好きではないが、出来ればずっとこの会社で働きたい。万一何かの理由で首になったら、他の会社を探して就職する。……ですね?」
「……好き嫌いの問題は、少しニュアンスが違いますが、ま、そうですね」
「ここで、皆さんの意見を聞きたいと思います。溝口さんの考えに、何か意見はありませんか?」
 みんなが真剣な表情になってきた。悟は続けた。
「大事なことを言っておきます。意見は、どんな場合でも尊重されなければなりません。それと、幸いにと言いますか不幸にもと言いますか、ここには管理職の方とか役員の方はいらっしゃいません。後ろで聞いていただいている社長には、会社の事を思って発言する訳ですから、寛容の心で聞いてくださいとお願いし、OKの約束をいただいています。ですから遠慮はいりません。今皆さん方が思っていることを正直に意見してください。発言内容について、とやかく言うつもりはありません。むしろ、意見を言わない人の方が問題だと思っています」
 数人が手を上げた。いよいよ悟のペースになってきた。
「お、たくさん手が上がりましたね。……えーと、じゃあ、あなた、どうぞ、意見を述べる時は必ず所属とお名前と入社歴をお願いします」
「溝口さんと同じ営業三課の竹内と申します。入社十一年目になります。ですから、溝口さんとは一年先輩に当たります」
「はい、じゃあ、どうぞ意見を述べてください」
「先ほど溝口さんも言っていましたが、私の知る限り、彼はとても頑張り屋さんです。ところが、どんなに頑張っても、正しく評価されない会社の土壌があるのではないでしょうか。それが不満で、心にもない嫌いだとかという言い方をしたと思います」
「はい、ありがとう。今度、……はい、あなたお願いします」
「営業一課の田辺と申します。入社歴八年です。後輩の私が言うのもなんですが、首になったら、他の会社に就職するとか言われましたが、このご時世では、なかなか就職は出来ないとは申しませんが、思うようにはいかないと思います。家族が路頭に迷ってしまいます。溝口先輩はとても優秀だと聞いております。ですから私たち後輩は、溝口先輩の指導を、もっともっと仰ぎたいとみんなして語っています。私には、先輩が会社を好きじゃないなんて、とても信じられません」
 この後輩の意見に、溝口社員の様子がおかしくなった。今にも泣きそうになったのである。悟の考えていることが、少しずつ結果として表れてきた。溝口社員は既に裸にされつつあった。
「貴重な意見ありがとう。時間の制約もありますので、この件はこの辺にしておきましょう。……さて、振出しに戻りますが、溝口さん、今までのやり取りを聞いていてどうですか? 三つの質問の回答を、皆さんに明らかにするのには、まだ躊躇がありますか?」
 早川の進行の仕方に、後ろで聞いている誠一郎は大きく頷いていた。二十名のそれぞれも、ある種の期待感が芽生え始めていた。
「いえ、ありません。むしろ明らかにしていただいて、それに対して、いろいろな意見を聞きたいと思うようになりました。私はみんなの前で裸になりたいです。そして再出発したくなりました」
 もはや、完全に早川のペースになってきた。
「今、溝口さんからこのような発言がありましたが、ついでに皆さんにもお聞きします。一人一人自己紹介をしながら、今まで溝口さんと交わしてきたようなやり取りをしていきたいのですが、その際、三つの質問の回答を、みんなの前で明らかにしても良い、と思われる方は手を上げてください」
 ものの見事に全員が手を上げた。
「全員が賛同してくれましたね。ありがとう。それでは、みなさんから承諾をいただきましたので、溝口さんいいですか? 行きますよ」
「はい。先生宜しくお願い致します」
「溝口さんのパンツが何色なのかが分る時が参りました。では、心して見ていきましょう」
 場内が大爆笑になった。溝口社員も楽しそうだった。
「では、一通りざっと紹介しておきます。一つ目の質問の、皆さんは会社の事をどのように考えていらっしゃいますか? という質問に溝口さんは、とても将来性のある会社だと思います。と書いてあります。二つ目の、何を目的に会社に勤務していらっしゃいますか? という質問には、自分を高めて、もっと高い報酬をいただいて、家族を幸せにしたいです。と書いてあります。もう一つの、会社に何を望みますか? また改善して欲しいことがありますか? という質問には、たくさんのことが書いてあります。これは、一番最後に、全員のデータとしてまとめて発表することにします」
 全員が、納得した顔で早川に聞き入っていた。
「じゃあ、一番目の溝口さんの回答について何か意見はありますか?」
 手を上げる者が多くなり、会場が一気に盛り上がって行った。喧々諤々の議論が場内に響き渡った。早川が望んでいた通りの展開になり、内心ホッとしていた。誠一郎も期待以上の盛り上がりに、改めて早川の手腕に驚いた。こうして、二十名の自己紹介が終了した。
 終了した時の場内の雰囲気は、もはや始まる頃の雰囲気とは全く違っていた。

 十五分間の休憩を挟んで、いよいよ本番である。社長の要請で、二人一組になってロールプレイングをやることになっていた。最初は早川と社員がやり、引き続いて、ランダムな組み合わせによるロールプレイングが開始された。
 ところが、前もって聞かされていない上に、全員初めての体験で、全く様にならない有様だった。次第に早川の声が大きくなり、檄が飛び始め、訓練が厳しくなって行った。早川の顔が鬼の面に化し、凄い形相になってきた。初めは高を括っていた社員も、次第に根を上げるようになってきた。女性社員の中には、泣き出す者も出てきて場内は一転した。
 もう、恥も外聞もない。自分をさらけ出すしかなかった。それでも、早川の鞭はしなり続けた。これでもかこれでもかというしごきに、みんな完全に参ってしまった。
「何も、目新しいことをやっている訳ではないだろう。普段みんながやっている、ごく普通の会社の場面を、何でこなすことが出来ないのだ。それでも、俺は入社歴八年だと? 十年だと? 笑わすな。何をやってきたんだ。これしきの事で降参するようでは、先が思いやられるぞ」
 早川の言葉は完全に上から目線になっていた。目は吊り上り、らんらんとなってきた。
 訓練は何回も場面を変えながら、繰り返し繰り返し行われた。そして、時間を追うごとに次第に効果が表れ始めた。一人一人が自信をもち始めた。蚊の鳴くような声が次第に大きくなり、場内に響き渡るようになった。そうなると不思議なもので、次々とアドリブが出始め、一段と白熱した演技が展開された。演ずることに面白味を感ずるようになった。
 早川は自己紹介の段階から、早川独自のデータ表に各人の採点をつけていた。頃合いを見て早川が切り出した。
「さて、時間も迫ってきたから、最後にもう一度、一人ずつ私とやりましょう。今度は上司と部下のやり取りの場面です。私が上司になります。今、噂の何でお前が上司なんだよ、お前なんか早く首になったらいいんだよ、と言う声が聞こえてきそうな、そんな悪徳上司です」
 場内から、どっと笑いと拍手が湧き起った。みんな満足そうである。どういう展開になるか、楽しみと期待感が渦巻いた。ところがみんなの考えは甘かった。いくら悪徳上司とは言え、会社の組織上の上司である。権威の前ではみんな弱かった。一言も反抗できなかった。いや、理論的に対抗できなかったのである。一人が手を上げて質問した。
「先生、先生みたいな上司でしたら、どんなに悪態をつかれても納得いくのですが、低レベルの悪態には、ほとほと困ってしまいます」
 みんな面白がって手を叩く者もいた。
「それは違うと思うな」
「どうしてですか?」
「そういう低レベルな上司を作り上げているのは、あなた方自身だよ、だから、あなた方のほうに問題があるんだよ」
 早川はぴしゃりと言った。みんな首をひねりながら、納得がいかない風だった。
「いいですか、上司、例えば主任としましょう。その主任は、会社の人事的な計らいで主任という命を受けて、みんなに対して指示し命令を出します。ところが、その指示・命令が的確でない場合、みんなはその主任に対して、疑問符は投げ掛けますが、ただ、思っているだけではありませんか?」
 みんな静まり返った。そう言われればそうだな。
「意見具申したことがありますか? その指示・命令は、こういう意味で間違っています、的が外れていますと指摘した上で、心をつくして議論したことがありますか? いいですか? 私的な悩みについて議論しようという訳ではないのですよ。会社の事で議論しようということですよ。上司と議論することで上司に気づきを与え、いい意味で、刺激を与えることも必要だと思いますよ」
 みんな黙っていた。
「見たところ、誰も議論していないようですね。上司には逆らえないということですかね? それか、議論したところで、どうせ聞く耳がないのだから、時間の無駄だと思っていませんか? よしんば、まともに議論した結果、改めるに憚ること勿れと言って、考えを変えてくれれば良いが、それすらもない。そんな風に思っていませんか?」
 みんなの視線が早川に集中した。
「そもそも、そこが間違いです。ロールプレイングを始める前のあなた方はどうでしたか? 間違いだらけで、自信を失った迷える子羊でしたよ。それがどうですか? 訓練を経た今じゃ、みんなの顔がとても輝いて見えますよ。自信たっぷりの顔になっていますよ」
 みんなは一様に嬉しげな顔になった。
「私から見たらまだまだですが、一応第一段階は良しとしましょう。……話を戻しますと、主任も同じことです。皆さんとの丁々発止の議論する訓練が足りていないのです。もちろん主任の側にも問題はあると思いますが、その前に全てが核心に触れようとせず、やれ上司だからとか、やれ理解がないとか、くだらない理屈をつけて、真剣になって語ろうとしない。あいまいなままで事を片付けている。それが積もり積もって、ああ、俺はこの会社が嫌になってしまったなんて、私に言わしたら、それこそ低レベルの考えに至ってしまう。誠に情けない話です」
 早川のもっともな話に全員が頷いた。
「この会社が良くなることを望まない人は、一人もいないと思います。そうですよね?」
 全員が首を縦に振った。
「だったら、やることは一つです。何ですか? 溝口さん、答えられますよね」
「はい。自信をもってお答え致します。それは誠心誠意業務に励んで成果を上げて、上司に有無を言わせない自分になることです」
「そうですね。名回答でした。上司の事なんかほっとくのです。自分のことにもっと神経を使うべきです。そうは言っても、日々のことですから皆さんの気持が分らない訳ではありません。実は、今日の研修を通して分ったことがあります。極めて重要なことです。それは何だと思いますか? 私が感じたことです。当てずっぽでもいいですから、意見を言って見てください。それでは最初に登場していただいた安藤さん、どうですか?」
「はい。先ほどは失礼いたしました。……社内の風通しが悪い為に、会社にとって良いと思うことを意見具申するのですが、どこかで淀んでしまって実行に移されないどころか、その件について議論すら行われない為に、社内に不満が鬱積している。……ということですか?」
 早川が拍手した。つられてみんなも拍手した。というより、今の社内の病巣について、代表して言ってくれたことに対する賛同の拍手でもあった。
「おや? 安藤さん、さっきの安藤さんと、今の安藤さんは別人みたいですね。見事なご意見でした。私の考えとほぼ同じです。皆さん、もう一度拍手しませんか?」
 またも大きな拍手が起こった。
「それでは、最後になりましたが、会社の風通しを良くするにはどうしたらいいか、みんな知恵を出し合ってください。この件と関連があるのが、実は私から出した、三つの質問の三番目の、会社に何を望みますか? また改善して欲しいことがありますか? です。そこで新たに宿題を出します」
 もう、一人として異議を唱える者はなかった。この男は、本気で会社を変える腹だと誰しも思った。この男の言うことは信じられると思った。
「いいですか? これから私が言うことをよーく聞いてください。必要ならノートにメモしてください。今日出していただいた、三番目の質問に対する答えだけを、改めて出し直してください。何故出し直すのかと言いますと、今日の研修を通して、考えが変わったという人もいるでしょうし、もっといい案が浮かんだ方もいらっしゃるかもしれないからです。宿題は、今言いましたように、三番目の質問の出し直しをする時に、会社の風通しを良くするには、どうすればいいかも含めた形にしてください。知恵を絞っていただいて、意見としてまとめて提出してください」
 一人が手を上げて質問した。
「書く時の心構えみたいなのがありますか」
「書くときの心構えですが、美辞麗句は一切必要ありません。会社を良くするにはこうすべきだ、みたいなことを思った通りに赤裸々に書いてください。 社内のある人物について批判したい場合は、具体的に名前を挙げて批判しても構いません。但し、書いた内容には責任を持ってください。事実に基づいて書いてください。想像で書いてはいけません。当然のことですが、事実無根なことについて、感情に走ってしまい人を誹謗中傷するようなことは厳に慎んでください」
「提出した書類についての取り扱いはどうなりますか?」
「とてもいい質問ですね。……出していただいた個々の内容は、永久に極秘扱いされます。他に漏れることは一切ありません。安心してください。お約束します。ここにいらっしゃる方々の中には、一人もおられないと思いますが、私が今申し上げたことが信用できない場合は、どうぞ、適当に美辞麗句を並べるなり、適当に書き綴ってください。何か、ご意見なり質問はありませんか?」
「個々の内容は極秘扱いされるのは分りますが、意見を集約しデータ化して、それについて、みんなで議論する、とかはないのですか」
「いい質問ですね。良かったら、所属とお名前を教えて貰ってもいいですか?」
「営業一課の中野と申します」
 悟は手元の書類にメモした。
「中野さんは、意見を集約しデータ化して、それについて、みんなで議論した方がいいというお考えですか?」
「はい。そうです。せっかくみんなが知恵を出し合って出した意見とか案ですから、そのままにしておくのは勿体ないと思います」
「具体的にどうしたらいいと思いますか? 何か考えがありますか?」
「いえ、具体的には思い浮かびませんが」
「中野さんは、KJ法というのをご存知ですか?」
「KJ法ですか? いえ、存じません」
「どなたか、KJ法についてご存じの方はいらっしゃいませんか?」
 悟が全員を見渡した。一人中央付近から手が上がった。
「おー、いらっしゃいましたね。じゃあ、分る範囲で結構ですので、説明していただけますか?」
「はい、営業二課の金井と申します。……えー、KJ法は、文化人類学者で東京工業大学名誉教授の川喜田二郎先生が考案された、ということしか知りません。ただ、それだけしか分りません。具体的なことは何一つ分りません」
「ありがとうございます。じゃあ、金井さんは実際には体験されたことはない、と理解していいですね?」
「はい。……ですが、とても優れた手法だと聞いていますので、機会があれば、是非一度体験したいと思っています」
「今、中野さんと金井さんから、実にいい意見が出ました。話が少し横道にそれますが、丁度いいタイミングですので、次回の研修についてお話ししておきます。良かったらメモしてください」
 みんなの目が悟の口元に集中した。一言一句漏らさないという姿勢である。
「次回の研修は、一班の方々は、えーと、今の予定では三月三十一日ですが、年度末に当たりますので、場合によっては、四月十四日になるかもしれませんが、前半の二時間を、中野さんからも意見が出ましたが、宿題の意見を集約しデータ化して、それについてみんなで議論します。後半の二時間は、金井さんも是非共体験したいとおっしゃる、KJ法がどういうものなのか実際に体験したいと思います。一日に二つのことをやるのは時間的に無理だと思いますが、途中になった場合はまた考えましょう」
 三月とか四月とか言わず、明日でもやって欲しい。みんなの思いは、そんな感じになって来ていた。
「話が横道にそれてしまいました。元に戻しましょう。宿題について他に質問はありませんか?」
「タイトルみたいなものはありますか?」
「タイトルは、そうですね、会社の風通しを良くするための改善案としましょう。……よろしいですか? 他に何か意見はありませんか?」
「宿題は、いつまでに、誰に提出すればいいのですか?」
「宿題はA4の用紙に書いてください。用紙の一番上の左に所属名と氏名と入社歴を書いてください。書き終えましたら封筒に入れてください。封筒は糊付けして封をしてください。裏に所属と名前を書いてください。ここまではいいですね? 封をすることを忘れないように」
「縦書きでも横書きでもいいですか?」
「横書きに統一しましょう。……他にはありませんか?」
「……」
「じゃあ、期限は来週の水曜日です。その封筒を水曜日までの必着で、社長宛に郵送してください。郵送ですよ。お間違いのないように。郵送ですから、当然表に会社の住所と会社名と社長名を書いてくださいね。、遅くとも、火曜日までに近くのポストに投函すれば、水曜日には着くと思います。切手は事務課の方で用意してありますので、そちらで受け取ってください。中三日ありますのでじっくり考えて、いい案や意見を出してください。会社にいながら、会社の社長あてに郵送するなんて、馬鹿げているとお考えの方もいらっしゃるかも知れませんが、皆さん方の一つ一つの意見が、いかに重要かということです。そのように理解してください」
 悟は噛み砕くように細かく説明した。えっ、何だって? 郵送? 考えたな悟。誠一郎はしきりに感心していた。社員達も一様に驚いた。封をして、馬場課長にでも提出するものとばっかり思っていたが、見事に外れた。何もかもが初めてで新鮮だった。
「それでは、本日の研修はこれで終了いたします。最後に、みなさんと取り交わしました約束事は必ず遵守してください。安藤さん最後を締めくくってください。私との約束事って何でしたか?」
「研修の内容については、絶対に他言無用ということでした」
「ありがとうございます。くれぐれもよろしくお願い致します。……それでは、私はこれにて失礼します。ほんとにありがとうございました」
 期せずして大きな拍手が起こり、暫らく鳴りやまなかった。みんな充実感が漂っていた。社長が中央に進み出て口を開いた。
「長時間ご苦労でした。本日の研修はこれで終了とします。解散してください」
 四時間に及ぶ社員研修は成功裡に終了した。

 悟を交えた花岡家の夕食は盛り上がった。食後、リビングルームに席を移しても語らいは続いた。
「いやー、今日の研修を数年前にやっていたらなあ。……うーん。聞きしに勝る研修だったな。まさに、ギネス級の研修だったよ」
 誠一郎がべた褒めした。
「あはは、お父さん勘弁してくださいよ。いくらなんでも、それは褒め過ぎですよ。何か研修の内容がひどくて、皮肉を言われているような感じがします」
 悟は照れながら言った。
「お兄さん、お父さんの言ったことは、褒め過ぎではないような気がします。研修が終わった十八時過ぎに、みんな会社に戻って来ましたが、何だか知りませんけど、みんな興奮していましたよ。いつまでもざわついていて、家に帰ろうとしないの」
 リコが会社での様子を語り始めた。
「みんな、何て言ってたの?」
 アキが口を挟んだ。
「ただ凄い凄いの連発で、あんな経験初めてだとか、何回でも受けたいだとか、もう大変な騒ぎようだったわよ。……でもね? 研修の内容については誰も一言も喋らないの」
「そうなんだ。かん口令が敷かれたんだ」
 アキが悟の顔をチラッと見ながら言った。そこに父親の誠一郎が割り込んだ。
「後から受ける研修生に配慮してのことだよ。実によく考えていると、ほんとに感心したよ」
「そう、じゃあ、これからの会社期待できそうね」
 アキが喜びながら誠一郎の顔を見た。
「そうなんだよ。飛躍的に社員のレベルが上がるのは間違いないだろうから、明るい未来が開けそうな感じがしてきたよ。あれを見て、俺のハートに新しい別な火がついた感じがした」
「新しい別な火? どんな火なの?」
「何というか、初心に帰って、もう一度やり直そうと痛切に思ったな。今の会社の精神を引き継ぎながら、今までと違う全く新しいエキスを注入して、次代に引き継げる会社を作ろうと強く思ったよ。説明がつかないくらいの、腹の底から湧きあがってくる不思議な力を感じたよ」
「まあ、良かったこと。残り火に灯油を注いだ感じなんだ」
「おいおい、残り火とは何だよ。……だけど、うん。そんな感じではあるな」
「お父さんのそんな顔って素敵。実業界に君臨するボスって感じで、頼もしいわ」
 リコが、誠一郎に満面の笑顔を振り向けた。
「リコには面子にかけても笑わられたくないからな。それどころか、お父さん、ありがとうと言って、俺にひざまづいて泣かせてみたい心境だな」
「ふふ、そうなるように期待してるわ。おとうさん、ありがとう。リコはとっても嬉しいです」
「ところで、悟、今日の研修を見ていて、さらに思いを強くしたんだが、やっぱり管理職と役員も研修できないかなあ。悟はその必要がないと言っていたが、どうも気になるんだよなあ」
 誠一郎は、午前中にさんざん話し合ったにも拘らず、再び管理職と役員の研修の話をぶり返してきた。
「そうですか。じゃあ、こうしましょうか。一通り予定の社員の研修が終わった後、暫らく様子を見て、その時点で、社長の気持ちが変わらなければ検討することにしましょうか?」
「なるほど、その考えもあるが、それだと大分先になるだろう? 遅いよなあ。明日からでも始めたいくらいなんだけどなあ。駄目だろうか」
「えっ、そんなに早くですか? 困りましたねえー。それもですが、管理職と役員の方々は、年配の方が多いですから、私がやることに抵抗があるような気がするんですが。他の講師の方がいいような気がしますが」
「いや、他のくだらない講師に頼むぐらいだったらやらない方がいいよ。悟の心配は分るが、現に年配のこの俺が、悟の研修を見聞きして感動している訳だから、管理職と役員だって同じさ。気にしなくていいさ」
「困りましたねえー」
「隔週になっている日程を、毎週にはできないかい?」
「それは、ちょっと無理だと思います。国際コンペの追い込みに入っていますから、そちらに精力を注ぎこまないといけません。四月以降でしたら可能だと思いますが」
「そっかあー。年度内に一回か二回ぐらい出来ないかなあ。出来る方向で日程を検討してくれないかなあ、頼むわ」
「そうですか。じゃあ前向きに考えて見ます。……でも、社員と同じカリキュラムって訳にはいきませんから、資料作成等の準備に時間が掛かりますよ。すぐって訳にはいきませんよ」
「そうだな。後は悟に任せるからその方向で頼むわ、なっ」
「分りました。検討して、後日マネージャーから連絡させます」
「それと、これも今朝の朝礼の時思ったのだが、研修生に選ばれなかった社員も含めて、この際、全社員に研修を受けさせようと思うんだよ。みんな受けたがっていたろう?」
「そうでしたね。全員と思っていいでしょうね」
「大変だろうけど、それも併せて検討してくれないかなあ。この際、何もかも徹底的にやりたくなったんだよ」
「分りました。それも併せて検討致します。後日マネージャーから連絡させます」
 アキは先ほどからの父と悟の会話を聞いていて、ほくそ笑んでいた。またまた資金が転がり込んできた。
「悟さんとよく打ち合わせして、お父さんに連絡します」
 アキは父親に顔を向けた。
「そうか。ありがとう。助かる」
「そうなりますとお父さん、役員さんは何人ですか?」
「俺を除いて五人だな」
「えっ、規模から見たら多くありませんか?」
「確かに多いな。せいぜい二人でいいな」
「ですね。どうしてこうなったのですか?」
「会社法で決められていたこともあるが、長年の成行き上そうなってしまったんだよ」
「そうですか。じゃあ専務、常務のほかに三人の平役員ってことですね?」
「そういうことだな。平の三人は不要だな」
「新会社法ですと、社長一人でもいいんでしょう?」
「そうだな」
「少し差し出がましいことを申しますが、宜しいでしょうか?」
「役員に関することだな? 言いたいことは分ってるよ。取り敢えず新年度から、役員を俺だけにしたらどうだということだろう? つまり、今の役員の肩書を一旦外して、部長クラスに配転出来ないかということだろ?」
「えっ、どうして分ったのですか?」
「お前が社長一人でもいいんでしょう? という言った時、俺には、そうした方がいいですよと聞こえたんだよ。そういうことだろ?」
「はい。そうです。さすが読みが深いですね」
「お前のお蔭だよ。悟と付き合ってると、いろいろ鍛えられるよ。だから最近、悟の言う言葉の裏の意味を考える癖がついてしまったんだよ。こいつは、何を言わんとしているんだとな」
「あ、そうですか。ありがとうございます。ですが、今の役員の肩書を一旦外して、部長クラスに配転なんて、とても出来ないような気がしているんですが、……難しいでしょう?」
「うん、急なことだ、確かに難しいと思う。だが、新年度からどうしてもそうしたいのだよ。何かいい方法ないかなあ」
「社長は、例えばどう持っていくお考えなんですか?」
 悟は、お父さんといういい方は、何となく良くないと判断した。
「今の会社の実情を話して、理解して貰うよりないだろうとは思っているけどな」
「それが一番いい方法だと思いますが、肩書を外されるということは、事実上の降格になりますから、かなりの抵抗があると思うのですが」
「そこなんだよ。だが、背に腹は代えられないからな。何とか分って貰うより手はないな」
「そうですね。実情を分ってもらうしかないと思います。最悪の事態だけは避けたいのだ、ということをしっかり伝えれば、分って貰えると思いますが」
「倒産したら、それこそみんな路頭に迷うことになるから、ここは我慢してくれと言うしかないな」
「管理職も同じようなことをするのか、という質問が出たら、どう説明されるのですか?」
「今、組織図を抜本的に見直しているし、業務拡張のこともあるから、最も効率的な組織にするために、全体を洗い直していくよりないなと思っているところだ。それに伴い、部門の廃止や拡充等があるから、その辺を良く説明して理解して貰うよ」
「それがいいと思います。何だか、組織が全体にスリムになって、すっきりしそうですね」
「会社組織の頭でっかちは非効率的だから、出来るだけスリム化した方がいいよな」
「同感です。能力主義で効率主義に徹しないと、これからの会社は身が持たなくなります。何と言っても、人に金がかかりますからね。経費節減の徹底を図りながら、優秀な人材には惜しみなく金をつぎ込み、業績を上げていくことが、今一番求められているのではないでしょうか」
「その通りだな。要は理屈だけでは飯は食えないから、徹底出来るかどうかにかかっているな」
「社長、一応そういうことになったとしたら、研修の件ですが、役員はゼロになりますから必要ないでしょうし、管理職も変動がありますから、新年度に入ってからの方がいいのではないですか? 経費の節減にもなりますが」
「それも考えない訳ではないが、今、彼らに一番欠けているというか、一番身につけて貰わなければ困ることは、管理者として云々ではなくて、会社に対する基本姿勢だと思うんだよ。悟が言うように、基本的なことが分らずに、どうして社員の管理が出来るのだ、ということを俺は問いたいのだよ」
「おっしゃるとおりですね」
「だから、その辺に重点を置いた研修は、どうしても必要だと思うんだよ。新陣容になったら、それはそれでまた改めて考えるとして、取り敢えず、その辺の精神を今の連中に叩きこんでおきたいんだよ」
「なるほど。良く分りました。年度内の研修だけでは心もとないですが、出来たら管理者としての能力をデータ化して、今後の組織の再編に生かしていけたらいいですね」
「さすがにいいことを言ってくれるなあ。そうなんだよ。研修のもう一つの狙いはそういうことなんだよ。曖昧な判断ではなくて、しっかりした根拠に基づいたデータを示すことで、相手に納得して貰うこともだが、何よりも生きた組織にする為の原動力になるからな。大事なデータだよな。今まで、そういうデータがないのがおかしいくらいだと思うが、いい機会だから、これからは、そういう感覚で会社を運営していく必要がある、と痛切に思っているんだよ」
「それでは、管理職と役員の研修は、そういう観点から進めて行けばいいですね?」
「そうだな」
「年度内に一回ずつしかできないと思いますが、それでよろしいでしょうか?」
「やむを得ないな。やらないよりいいとしよう」
「本年度はこの管理職と役員の各一回で打ち切り、来年度からの件は、改めてということでよろしいでしょうか?」
「そうだな。状況を見てから改めて考えよう」
「役員は五名ですから、この際、管理職と一緒に研修というのはまずいですか? やっぱり、まずいですかね?」
「気持ちは分るが、それはまずかろう。やっぱり、別々にしてくれ」
「会場はどうします? 社の会議室にしますか?」
「いや、それも今日の会場で行うことにしよう。身も心も隔離した方が効果的だろう」
「分りました。その線で検討致しますが、日程を大幅に変更したいのですが」
「構わないが、どういう風にしたいのだ?」
「隔週土曜日に行うことで組んでいたのですが、少しまずいのでは、と思うことが出てきました」
「何か気がかりなことでもあるのか?」
「五月二十日に結婚式をここで行いますので、私と亜希子のことが公になってしまいます。別にそのことは良いのですが、研修生が、変な色眼鏡で見てしまうのではないかと思うのです。それだけは避けた方がいいと思いまして。……どう思いますか?」
「なるほどな。それはそうだな。その変な色眼鏡の為に、研修の効果が薄れてもまずいしな」
「どっちみち分ってしまうことなのですが、それまでに研修を終わっておけば、初期の目的は達成出来るのではと思います」
「そう言うけど、なーんだ、そういうことだったのかと、後々社員の士気に影響はないだろうか?」
「それは心配していません。研修を受けた後は、各人の考え方の質が上がっていますので、そんなことで士気が下がるとは考えられません。何かの機会に、社長からも私からも、経緯について、ちゃんと説明すれば、みんな納得してくれると思います」
「なるほどな。……ということは、ゴールデンウィークまでに一通り終えておきたい、と、こういうことだな」
「はい。そうです」
「亜希子との打ち合わせでは、研修は各班二回ずつになっていたようだが?」
「そうですが、ほんとは三回ずつやりたかったのですが、少し無理かなと判断しまして、取り敢えずそうしました」
「三回目は、どういう内容にしたかったのだ?」
「一回、二回の研修を終えますと各人の考え方に大きな変化が出てきます。それを踏まえて、さらに突っ込んだ内容の研修にしようかと思っていました」
「それも大事な研修になりそうだな。……そうか、出来そうもないんだな。仕方ないな」
「今日のお話で、管理職や役員や、今回洩れた他の社員の研修のことを考えますと、大幅な日程変更をせざるを得ないと思います」
「そうだろうな。大体どうなりそうだ?」
「隔週ではなくてほぼ毎週になります。しかも、日曜日もやりたいのですが構いませんか?」
「ほぼ毎週か。日曜日もなあ、……うん。それはみんなを説得しよう。今日の雰囲気だと、毎日でも受けたい雰囲気だったから大丈夫だろう。……それより、そういう強行スケジュールじゃ、悟、お前の身体が心配だが大丈夫か? それに、国際コンペの作業日程に狂いが生じないか?」
「身体のことは自信があります。国際コンペの作業日程は、順調すぎるぐらいなペースで進んでいますので、何とかなると思います」
「そうか」
「米国行きなどの件もありますので、勤務先の社内事情を考慮して、結婚式を挙げた後の日程に、ゆとりを持たせておきたいのです」
「そうか、だな。分った」
「近いうちに、米国行きのはっきりした日程を決めて貰うように、会社に働き掛けてみますので、それが決まり次第、具体的なことをお話し出来るようになると思います」
「それによっては、各班三回目の研修の日程も組めるかもしれない、と思っていてもいいのだな?」
「おっしゃる通りです。出来れば三回まで研修しますと、私の思っている理想の形になりますから」
「そうか良く分った」
「新たな日程表を作成して、マネージャーのアキに渡しておきますので、社員に指示伝達をお願いしたいのですが」
「よっしゃ、分った。頼むわ」
 アキは研修日程が大幅に変更になって、悟とほぼ毎週の土・日に逢えることは、とても嬉しいことだが、やはり、身体のことが心配だった。そうでなくても、国際コンペの作業も追い込みにかかる時期だし、毎日神経をすり減らす筈である。ほんとに大丈夫だろうかと気を揉んだ。
「管理職は全部で何人ですか?」
「……うーんと、……おい、リコ、お前の入社の時、会社の組織図を渡したろう? あれをちょっと持ってきなさい」
「はい」
 リコは自分お部屋に駆け上がって、机の中から組織図を取り出し、急いで降りて父親に渡した。
「リコ、月曜日でも総務課から貰えばいいから、これは悟に渡してもいいだろ?」
「はい、構いませんが、総務課には何と言えばいいですか?」
「お、そうだな。分った。俺の部屋に来い。俺が持っているのを渡すから」
「はい。分りました」
 悟は誠一郎から組織図を受け取って、暫らく眺めていた。
「十四名ですね。それと、研修から洩れた社員の人数は何人ですか?」
「えーと、何人ぐらいいるかなあ、全社員は俺を含めて百六十三名だから、それから役員と管理職を除くと百四十三名だな、だから、四十三名になるな」
「今朝の朝礼の時も、そのくらいの数の手が上がりましたね。二十名+二十三名の二班が、新しく追加されることになりますね」
「そうなるな」
「余談ですが、業務拡張になる部門の件は、検討中と理解していいですね?」
「そうだな、その件は状況を見ながら判断しようと思ってる」
「分りました、ありがとうございました」

「それと悟、ちょっと相談なんだが、いいかな?」
「はい?」
「後日話そうとは思っていたんだが、役員の話が出たから今言っておこうかな」
「さて、何でしょうか?」
「会社の役員になってくれないかなと思ってるんだよ。もちろん外部役員だがな」
 アキはまたまたニタリとした。役員報酬が転がり込んでくる。
「えっ、私がですか?」
「そうだよ」
「せっかくのお話ですが、それは無理です。私の会社の規則違反になります。特殊な場合を除いて、他の会社からの報酬は、一切受けてはならないとなっております。たとえ無報酬でも、二股かけることは禁じられています。研修会をして報酬をいただくことも、どうかなと思ってるくらいなんですよ。法的に身内になれば別でしょうけど、今の段階では気になっているんです。この研修は身内で行う研修で、特殊な場合に該当すると、自分に無理矢理言い聞かせているのです」
「そうか、なるほど。そういう規則があるのか。それじゃあ無理だな」
 アキは当てが外れて、少しがっかりした。
「はい。……ですが、四年後でしたら喜んでお受けいたします」
 悟が、突然四年後と言い出したことにアキは驚いた。今? 何故?
「何? 四年後? どういうことだ」
 アキはその時、悟の決心を見た。この人は、もう四年後に向かってタイムスケジュールが既に完成されているのだと強く思った。父親には結婚式を挙げて、暫らくしてから話そうということになっていたが、むしろ、今の段階の方がいいと判断したようである。悟の強い信念がそうさせたのである。
「アキと決めた人生設計に基づいています」
「人生設計? ということは、察するに、お前は四年後に退職して独立するつもりなのか?」
「はい。お察しの通りです。もう少し後に、ちゃんとお話ししようとは思っていたのですが、たまたま今、お父さんから役員の話が出ましたし、みなさんが居る前の方がいいですからね。しかもこういうことは、なるだけ早い方が良いと思いますし、いい機会だと思ってお話しました。ですから、会社を離れれば、お父さんの今のお話は可能となります」
「うーん。そうか、なるほどな。アキは、この話は知っているのだな?」
「実は、私の方からそうしてくれとお願いしました」
 アキが父親に顔を向けた。
「何? お前から持ちかけた? それはまたどうしてだ?」
 今度は誠一郎が驚いた。あろうことか、嫁になるアキから独立を働きかけたという。
「私なりにいろいろ考えることがあって、悟さんに相談して、とことん話し合いました。その結果、そういうことになりました。悟さんも心から賛同していただいています」
「そうか。そういうことになっていたのか。……悟、今のアキの言ったことに間違いないのだな?」
「はい。間違いありません。いろいろ問題も出てくるかもしれませんが、二人で力を合わせて、精一杯歩もうと誓い合いました」
「そうか、そうだったのか。……道理でな。なるほどなあ……」
 誠一郎は、アキに顔を向けながら呟くように言った。アキは、父親に魂胆がばれたと思った。
「お父さん、道理でなあって、何か思うことがあるのですか?」
 アキは、先に言われる前に切り出した。
「いや、分った。何も言うな。……だが、これだけは言っておく。悟の晴れの門出は、アキ、お前の門出でもある訳だろう?」
「はい。もちろんそうです」
「それさえ分ればいいよ。俺も全面的に応援するから、思い切ってやれ。中途半端なことはやるな、いいな?」
 アキは、涙が出るくらいに嬉しかった。この父親からの言葉を引き出すために、悟さんは、このタイミングを選んだのだとさえ思った。何という周到さなんだ。抱きついて、あなたの胸で思い切り泣きたい。
「お父さん、ありがとうございます。……この件につきましては、しかるべき時に、改めてご相談したいと思います。その時は、よろしくお願い致します」
 悟は丁重に頭を下げた。
「そうだな。分った」
 リコは先程からことの成り行きを見ていて、感じたことがあった。それは、悟と亜希子の絆のことだった。この二人の絆の強さに圧倒されたのだった。この二人だけが持つ、深くて広い、温かい愛を改めて思い知らされたのだった。

 食後のコーヒーを飲みながら、悟はアキの顔をチラッと見た後、誠一郎に言った。
「お父さん、神戸の件をリコに……」
「オオー、そうだったな、……リコ、来週の土曜日に神戸に行くから、そのつもりでな」
 リコの顔がパッと明るくなった。
「はい。分りました。謙二さんとの打ち合わせですか?」
「そうだ。それと、今朝の悟との打ち合わせで、新しく相談しておきたいことが出来たから、その用事もある」
「日帰りですか?」
「そうだ。朝早く出て夜帰る」
「何か準備しておくことがございますか?」
「いや、特にないが、謙二に聞きたいことでもあるのなら、時間を消耗しないように、質問事項をまとめておいた方がいいぞ」
「はい。そうします」
 リコは、もう嬉しくてたまらないようだった。実は昨日の夜、謙二からリコに電話が入っていた。謙二から正式に付き合いを申し込まれたのである。そのことは、まだ姉の亜紀子にも悟にも話してなかった。暫らくは、自分だけの宝物にしておこうと思ったのである。でも、早く知らせておきたい気もして複雑な心境だった。
 父親と母親がリビングルームを出て、三人きりになった時悟が切り出した。
「リコ、えーと、お、そうそう、一昨日の晩にな?」
「ええ」
「謙二から電話があったんだよ。その時にリコの電話番号を教えておいたから、そのうち電話が掛ってくると思うから、そのつもりでな」
「はい。……分りました……」
 アキは、リコがもじもじしている様子を見逃さなかった。
「リコ、もしかしたら、謙二さんからもう電話があったんじゃないの?」
「……」
「どうしたの? あったのね?」
「イヤだー、もう少し宝物にしておこうと思ったのに」
「と言うことは、やっぱり、……あったのね?」
「ええ、……」
「ほんと? 良かったじゃない。どうして黙ってたの?」
「だって、あんまり嬉しくって、暫らくの間一人占めしておきたかったの」
 リコの顔は真っ赤になっていた。嬉しさがはじけていた。
「その気持ち、分る。……うん、良く分るわ。……そう、……電話あったんだ。そうなんだ。……良かったねえー、……リコ」
 アキは我がことのように喜びリコの顔を見続けた。
「嬉しくって嬉しくって、昨夜は一睡も出来なかったの。だから、ほら目が少し腫れているでしょう?」
 確かに良く見ると、リコの目が腫れていた。リコの純粋な心がいじらしい程だった。アキはリコ以上に嬉しかった。良かった、良かったと心の中で何度も叫んだ。
「そうか。じゃあ、来週の土曜日は謙二と初デートだな。頑張れよ」
 悟は、リコの喜びにあふれた顔を見ながら微笑んだ。
「私、どうしよう。困ったわぁー」
「ふふ、ほんと、困ったわねえー、……悟さんどうする?」
「おいおい、どうして俺に聞くんだよ。……そうだなあ、この前も一度ここで逢っている訳だから、ま、自然体でいいんじゃないの? 気取らずに、自分のありのままを見て貰った方がいいよ。謙二は物事をまともに見るタイプだから、却って、普段着の姿のほうがいいんじゃないかなあ」
「はい。分りました。そうします。でもどうしよう。……メチャクチャ嬉しいー」
「あはは、それにしても、あいつ、もう少し後だろうと思っていたのに、早かったなあ」
「悟さん、謙二さんといろいろ突っ込んだ話したんでしょう?」
 アキが悟の顔を見ながら微笑んだ。
「そうなんだよ。帰りの新幹線でもそうだったし、電話でも相当突っ込んで話したんだよ。……それにしても、最終的に良い判断をしてくれたよな、あいつ」
「お兄さん、ほんとにありがとう。……私、どうしよう。……お兄さんのこと、益々好きになってしまった。……抱きついてキスしたいぐらいよ」
「あはは、おいおい、姉さんの前で良くも言えたもんだな。言う相手を間違ってないかい?」
「ふふ、ですね。すみません」
 リコはぺこりと頭を下げた。
「ふふ、これでリコの人生も、本格的な歩みが始まったて訳ね。……願いが叶って、ほんとに良かったわね悟さん?」
「ほんとだな。これで何も思い残すことはないな」
「あら、やだー、死ぬ前の人が言うようなこと言って」
 三人は大きな声で笑った。

「アキ、ちょっと今、お父さんに会って話したいことがあるんだけど、付き合ってくれないかなあ」
 悟は、謙二がリコに電話して来たことで、いよいよ誠一郎の出番が来たと判断した。
「えっ、どうしたの? お父さん達、今さっきこの部屋を出たばかりでしょう? どうして、さっきお話ししなかったの?」
「たった今、ガチガチの旬になったんだよ」
「あら、そうなの? お父さんのお部屋に行くのね?」
「そうなんだよ。まずいかなあ」
「明日じゃ駄目なの?」
「明日でもいいけど、別な俺が、どうしても今だと言って聞かないんだよ」
「そう、別な悟さんも困った人ねえ。まだ寝てはいないと思うけど、……じゃあ、取り敢えず行って見ましょうか?」
 二人は父と母の部屋に足を運んだ。アキがノックした。
「誰だ?」
「亜希子です。お父さん、少しお話があるの入ってもいい?」
「おーー、構わん。はいれ」
 アキと悟が中に入った、悟は、父親たちの部屋に入るのは初めてである。
「おー、悟も一緒か。どうした、二人揃って俺たちの邪魔をしに来たのか?」
「ええ、そうです。お邪魔だった?」
「大いに邪魔だな。あはは、と言いたいところだが、可愛い子供たちが来たんじゃあ、そうも言えないだろう。あはは」
 誠一郎は何故か上機嫌だった。
「あのね、お父さん。悟さんが、お父さんにお話ししたいことがあるんですって」
「お、そうか、何だ?」
「はい。謙二のことですが、例の件、もう話を進めても良い段階に来ました。それをお伝えしたかったのです」
「えっ、例の件て、あの、……ヘッドか?」
「はい。そうです。たった今から、いつでもいいと思います」
「ほんとかよ。……えっ、ほんとにほんとなんだな? ……間違いないな?」
 誠一郎の驚きが顔に現れた。目が大きく開き口が半開きになり、信じられないような顔をした。
「はい。ほんとにほんとです。いよいよ、お父さんの出番が来ました」
「そうか。悟ありがとう。ほんとにお前のやることは早くて的確だな。イヤー、何とお礼を言っていいか、いやいや、ありがとう」
 誠一郎の顔が破顔した。悟の両手を掴んで喜びを表した。嬉しくてたまらない様子が伝わってきた。
「悟さん、ヘッドって何なの?」
 アキが質問してきた。
「そうだなあ、お父さんとお母さんのことだな」
 悟はニタニタしていた。アキが怪訝そうな顔をした。誠一郎も意味が呑み込めないでいた。
「えっ、どういうことなの? ……お父さん分る?」
「いや、俺にも分らない、悟、どういうことだ? お前のことだ、また何かくっ付いて来たな?」
「あはは、くっ付いてくる類の物ではありませんが、ピッタリだなと思いまして」
「ピッタリだ? さて……」
「お父さんのHとおかあさんのHで、合せてダブルHってとこですね」
 誠一郎は暫らく考えて、悟の言っている意味が飲みこめたようである。
「この野郎、とんでもない奴だな。あはは、うんうん、言えてるか? おい、母さん分るか? どっちかというと、母さんのことだな」
「あら、私のこと? 何でしょう」
「ねえねえ、どういうことなの? 悟さん教えてよ」
 アキはまだ意味が分っていなかった。
「ヘッドって、ヘッドハンティングのことだからイニシャルはH・H、……だろ? だから、お父さんもお母さんもHだから、そうなるだろう?」
「あははは、面白い、……ああ、ほんとだ、面白い。……悟さん、頭いいーっ、……ほんとだ。ピッタリだ」
「コラ、何が可笑しい、……ほら、母さん何か言えよ」
「ふふ、ほんと、ピッタリだわ。悟は賢いわね、ふふふ、……ねえ、Hなお父さん?」
 アキも悟も吹き出してしまった。
「明日でも良かったのですが、どうしても、今夜お伝えしておいた方が良いと思いまして、お休みのところをすみません」
「何言ってるんだよ。俺に今夜は眠るな、ということを言いに来たようなもんだよ。いや、ほんとに眠れそうもないよ。おい、母さんどうするよ」
「あら、眠れないの? ふふ、じゃあ、……うふっ、私も起きててあげる。……ああ、今夜はうんと甘えちゃおうかしら」
「おいおい、何を勘違いしてるんだよ。……あはは、……うん、そうだな。それもいいな、あははは」
「あら、お父さん達、何よ、すぐ、話がそちらの方に行くんだから、やっぱり、ドエッチだ、この二人。ふふ、……ねえ、悟さん?」
 アキは悟の方をじっと見つめた。
「おいおい、何をぬかすアキ、お前の顔に書いてあるぞ、早く横になりたいとな。あははは、……ざまあみろ」
「呆れた、せっかく、いい話持って来てあげたのに、もうー」
「じゃあ、お後がよろしいようで。引き上げようか?」
 悟がアキの顔を覗き込んだ。
「そうね。そうしましょう。じゃあ、お父さんお母さん、お邪魔しました。ゆっくりとお楽しみあそばせ」
「悟、ありがとう。ほんとにありがとう、……今夜は、じっくりアキを可愛がってくれ」
「コラ、お父さんったら。もう知らないっ」
「あはは、顔が赤くなってるぜ、……じゃあな、おやすみ」
 アキも悟も呆れ返って部屋を出た。
「ヘッドハンティングって何なの」
 アキが悟に尋ねた。
「謙二を引き抜くことさ」
「えっ、……えっ、もうそこまで話が進んでるの?」
「例の幸せの青い鳥も、いよいよ終盤に差し掛かってきたな」
「そうなんだ。凄いスピードね」
「いいことは早い方がいいからな。……いよいよって感じだな」
「大きな扉が、音を立てて開きだしたって感じね。ワクワクするわね」
「そうだよな。もうひと押しだな」
「でも、謙二さんを会社に引き抜くことは、リコはまだ知らないんでしょう?」
「そうなんだよ。今そのことを考えていたんだが、どうしたもんかなあ、今すぐ知らした方がいいかなあ、……アキどう思う?」
「そうねえ、難しいわね。タイミングがねえ」
「そうなんだよ。下手に知らせてもなあ、……こうしようか。当分黙っておこうか、そして、またリコを驚かそうか?」
「……なるほど名案かも」
「多分、お父さんのことだから、来週の土曜日に、神戸に行って謙二に会った時に、その話を持ち出すと思うんだよな」
「あら、そうだわね。リコも同席しているでしょうしね」
「だから、秘密にしておくのも、それまでだな。逆にリコから、謙二さんね、うちの会社に入社するんですってよ、なんて言ってきたりしてな」
「あら、面白いわね。知らない振りして、大袈裟に驚いてあげましょうか」
「あはは、そんな感じになるかなあ。……それも一興かもな。……うん、だな。どうなるか分らないけど、取り敢えずそっとしておこうかな」
「そうですね」

 次の日の日曜日、悟は研修日程について考えた。新たに管理職と役員、それに、今回の研修からはずされていた社員も研修することになってしまった。結局、社長を除く、在籍する全ての社員が対象になったことになる。一般社員については予定通りでいいが、管理職と役員については一般社員と同じカリキュラムという訳にはいかない。当然のことだが、一般社員に求めるあるべき姿と、管理職や役員に求めるあるべき姿は自ずと違う。従って、管理職は管理職用の役員は役員用の、それぞれの研修内容にしなくてはならない。資料作りはいいとして、日程を組み直して、マネージャーのアキに知らせておく必要があった。あれこれ考えて以下のような日程にした。
(研修会日程予定 二〇一二年一月二十二日現在)

  • 第一回 1班一回目(二十名)一月二十一日(土)
  • 第二回 2班一回目(二十名)二月四日(土)
  • 第三回 3班一回目(二十名)二月十八日(土)
  • 第四回 管理職(十四名)二月十九日(日)
  • 第五回 4班一回目(二十名)二月二十五日(土)
  • 第六回 取締役(五名)二月二十六日(日)
  • 第七回 5班一回目(二十名)三月三日(土)
  • 第八回 6班一回目(二十名)三月四日(日)
  • 第九回 7班一回目(二十三名)三月十七日(土)
  • 第十回 1班二回目(二十名)三月十八日(日)
  • 第十一回 2班二回目(二十名)四月七日(土)
  • 第十二回 3班二回目(二十名)四月八日(日)
  • 第十三回 4班二回目(二十名)四月十四日(土)
  • 第十四回 5班二回目(二十名)四月十五日(日)
  • 第十五回 6班二回目(二十名)四月二十一日(土)
  • 第十六回 7班二回目(二十三名)四月二十二日(日)

 この日程表をアキに渡した。アキは、日程表をジッと見ながら悟に顔を向けた。
「悟さん、これ、かなりのハードスケジュールだわね。身体のことがとても心配だわ。大丈夫なの?」
「なーに、平気さ。とにかく、やっておかなければならないことは、先延ばし出来ないからな。頑張るしかないよ。お父さんも最近特に熱が入ってきたから、ここは一挙に行った方がいいと思っているんだよ」
「悟さんには、いつも四年先のことが頭の中にあるのね?」
「そうだよ。アキとの夢を実現するためには、可能をむしり取ってでも、あらゆる努力をしないとな。お蔭で、お父さんにも一応報告出来たし、その上、応援するとおっしゃっていただいたから、勇気百倍だよ。ここは、疲れたなんて言っておれないよ。これを乗り越えれば、幸せの青い鳥に近づくから、何としても頑張るんだ。アキにも毎週のように逢えるし、願ったり叶ったりだな」
「リコも謙二さんも喜ぶわね」
「そうなんだよ。いつもそのことも頭の中にあって、新しく生まれ変わる会社が、一日も早く軌道に乗るようにしたいんだよ」
「悟さんて、何でも前向きに考える癖がついているのね。私はせいぜい、精のつく料理を作るわね」
「うん。頼むわ。ま、見ててご覧。あっと驚く世界が出現するから」
「ほんとに、楽しみになってきたわ」
「この日程表で行きますからと、お父さんに伝えてくれないかな。……なっ、マネージャーさん?」
「ふふ、はい。かしこまりました。……早川先生?」
「あはは、そう来たか」

 二月末の管理職と役員の研修が終わる頃には、花岡貿易商事(株)の社内の雰囲気が大きく変わって来た。研修室のドアを開けて、中に入った途端に肩書が取り除かれ、一社員として研修を受けることを要求されて、管理職も役員も、大いに自尊心を傷つけられた格好になった。肩書が、人格をも変えてしまうなんて考えられない事ではあるが、実のところ、肩書を自分の拠り所としてきた人間には、とても耐えがたいことなのである。甚だ以てバカバカしい限りではあるが、現実はそうなのである。

 管理職にも役員にも、社員と同様の研修内容を強いた。
 その上で、管理職には社員管理と業績の向上についてや、責任の所在の認識、さらには売上高の確保は当然であるが、売上高よりも、利益額の確保がそれ以上に大事だということを講義した。至極当然なことである。管理職たる者、社員ととことん議論することを旨とすべし。社員の能力を百%いやそれ以上引出し、業績向上に必死になってつなげていく心構えがなくてはならない。肩書にあぐらをかいているようでは、お先真っ暗である。率先垂範して社員の模範となるべきである。

 管理職に対する早川の講義は、社員に対してよりも厳しかった。音を上げる者が出て来た時、早川の痛烈な檄が飛んだ。
「言っちゃあ悪いですが、よくもまあ、私は管理職でございますと言えますね。もう一度、社員からやり直した方がいいと思いますよ」
 言われた管理職は何も返す言葉がなかった。早川はさらに続けた。
「いいですか? 全部の方とは申しませんが、皆さん方が、社員にどのように見られているかご存知ですか? そのようなことを、一時でも考えた事がありますか?」
 管理職の目は早川に注がれ続けていた。早川はさらに続けた。
「皆さん方が管理職に昇進出来たのは、少なくとも、その時点の実績や勤務態度が、そこそこ良かったからだと思います。会社も、管理職として将来を大きく期待しながらの昇進だったと思います。ところが管理職になった途端、何か大事なことを置き去りにしてきませんでしたか? 時が流れ、ほんとは、もっとしなければならないことがあったにも拘らず、それを怠って来ませんでしたか?」
 頷いて首を縦に振るものが出て来た。
「会社は常に動いています。競合他社との激しい戦いを、毎日のように余儀なくされています。そんな中、ぬくぬくとあぐらをかいて、努力を怠って来ませんでしたか?」
 全員が無言のまま聞き入っていた。
「そんなことでいいのでしょうか? 会社が潰れてしまっては、元も子もなくなってしまうことは、皆さんが一番ご存じの筈ですよね。会社が倒産したというイメージを思い描いたことがありますか? ある方は手を上げて見てください」
 一人として手を上げる者はいなかった。
「それでは、質問を変えます。会社は盤石で、倒産なんかする筈はない、とお考えの方手を上げて見てください」
 数人が手を上げた。
「手を上げた人は、感覚が鈍いか、甘っちょろい考えの人ですね。会社は盤石で、倒産しないとどうして言えるのですか? 何か根拠がありますか? あったら言って見てください。はい、あなた、どうぞ」
 早川は手の上がった目の前の管理職を指差した。
「……」
「答えられないのに、どうして手を上げたのですか? 根拠のない思い込みだったのですか? それとも、会社はそうあって欲しい、という願望が手を上げさせたのですか? 手を上げたり発言する時は、確信に基づいていないと、単なる遊びになってしまいますよ。良識すらも疑われてしまいますよ。物事には必ず根拠があります。その根拠を直視しないで判断したりした場合、全く架空の話にすり替わってしまいます。気をつけた方がいいと思います。私の考えは間違っていますか?」
「いえ、確かにその通りだと思いました。反省しています」
「私が、何故こんなことを言うかと言いますと、そう言った意識、つまり会社は盤石なのだろうか、売り上げが減ったのはどうしてだろうか、などの問題意識を持ち合わせていないことが問題なのです。花岡貿易商事(株)が倒産する、なんてことを言っているのではありません。そう言った意識を常に持って、そうならないように、業務に邁進する心構えが如何に大事か、ということを申し上げているのです。分りますよね?」
「はい。良く分ります」
「手を上げなかった人にお聞きします。会社は盤石ではない。もしかすると、倒産するかもしれないとお考えなのですか?……はい、では、あなたお願いします」
 早川は手をあげなかった右端の管理職を指差した。
「いえ、倒産するとまでは思いませんが、盤石という程のことはない、と何となくそのように思いましたから、手を上げませんでした」
「もっと細かく説明していただけませんか? 何故倒産するとまでは思っていないのか、何故盤石という程のことはないと思われたのか、何となくという言葉は勘の類ですから、こういう場合、通用しないと思うのですが、いかがでしょうか?」
「……」
 問われた管理職は、早川の理詰めの質問に言葉を失い、何も答えることが出来なかった。
「いいですか? 何を言いたいかと言いますと、物事を勘や曖昧な感覚で判断、もしくは進行させてはいけないということです。会社は常に数値で物事を測り、語らなければいけないと思います。この件は後で徹底的にやっていきます」
 当たり前のことを当たり前に言っているのだが、説得力があるから不思議である。
「常日頃、業務を遂行する中で、このような意識を持って仕事するのと、そうでないのとでは、業績に大きな差が出て来てしまう、ということを理解し考えて欲しいのです」
 うなだれて聞いているものが増えてきた。
「ここまでで、何か質問はありませんか?」
 誰も手を上げなかった。
「いらっしゃらないようですので、私から質問させていただきます」
 場内が緊張した。これまでの雰囲気から、誰に何を質問されるか分らないからである。
「それでは、あなたお願いします。立ってください。所属とお名前を忘れないように」
「福祉機器販売課の内田と申します。課長職を拝命しております」
「それでは、内田さんに質問します。課の成績は、ノルマを達成していますか?」
 ノルマ達成の話が飛び出すとは思ってもいなかった。
「いえ、残念ながら達成出来ていません」
「どうしてですか? どうして達成出来ていないのですか? ノルマは、自己申告だとか聞いておりますが」
「……」
「自己申告した数字が高すぎたのですか?」
「いえ、そうは思っていません。過去の実績から割り出した数字です」
「でも結果は達成していないのでしょう? 原因は何だと思っていますか?」
「……」
「困りましたねえ、達成できていない原因を発表できないなんて、私にはとても考えられませんが」
「……」
「じゃあ、質問を変えます。本年度の期首、つまり昨年の四月から先月までの、毎月の売上高と利益額と、それぞれの達成率を述べてください」
 おいおい、勘弁してくれよ。手元に資料を持ち合わせていないから言えないよ。
「これも答えられませんか? 手元に資料がないからですか?」
「はい」
 内田課長は蚊の鳴くような声になった。
「それでは、昨年の四月から先月までの、毎月ではなくて、合計の売上高と利益額と達成率については答えられますか?」
「……」
「えっ、内田さん、これすらも答えられないのですか?」
「……」
「内田さん、たった三つのデータの数字、しかもこれって、内田さんにとっては、とても大事な基本的な数字でしょう? それを、この場で発表できないなんて、良く管理職が勤まりますね。それとも、私の質問が無理難題な質問でしたかね」
「いえ、すみません」
「内田さん、勘違いしないでくださいね。謝るのは、私にではなく自分にでしょう? 私は思うのですが、十ヶ月間の三つのデータを記憶していないなんて、とても信じられません。……それでは他の方、答えられる人は手を上げてください」
 一人も手が上がらなかった。
「とても残念なことです。自分の仕事を、サボタージュしていると言われても仕方がありませんね。……では、内田さん、質問を変えます」
 内田課長の顔は青ざめていた。これほどまでに叩きのめされた経験が過去にない。屈辱の連続である。その様子を見て早川が声を掛けた。
「私は、内田さんに個人的な恨みも何もありません。その辺は誤解しないでくださいね」
 内田課長は少し微笑んで頷いた。そんなことは言われなくても分ってるよ。
「ここにいらっしゃる全員が、内田さんと同じだということが分りました。それでは、再び質問します。内田さん、その十ヵ月間のうちノルマを達成出来た月は何回ありましたか?」
「三回です」
「えっ、たったの三回ですか? 社長や担当の重役さんに、こっぴどくやられましたね?」
「はい。お察しの通りです」
「悔しくありませんか?」
「……」
「悔しくなかったら管理職失格ですね。自分で申告した数字を、クリア出来ないことほど恥なことはないと思いますが、いかがですか?」
「……」
「でしょう? それとも、恥だという感覚すらもないと思っていいのですか? その三回の月をおっしゃってください」
「えーと、六月と……」
「これも答えられませんか? 情けないですね。内田さん、悪いですが、辞表を用意された方がいいと思います」
 あまりにも厳しい言い方に、場内が静まり返った。
「今は内田さんとお話ししていますが、全員の方に申しあげているのです。そのつもりで聞いてください」
 全員頷いた。
「会社は、あなたに何を求めているかご存知ですよね。会社が管理職の方々に求めていることは、いろいろあります。その中で、今はノルマ達成のことをお話ししています。会社が求めていることに対して、自己申告に基づくノルマが、七ヵ月も達成されていません。内田さん、あなたはこの事実をどう考えていらっしゃるのですか? 参考までにお答えいただけないでしょうか?」
「申し訳ないと思っています」
「責任の取り方は、どのように考えていらっしゃいますか?」
 早川先生は本丸に入ってきた。
「……」
「責任を取らずに、報酬だけはちゃんと戴く。その中には、管理職手当も含まれているのではないですか? 給料泥棒のそしりは免れませんよね。そして、ただ月日が流れるのを黙って見ているのですか? それでは、社員に対してけじめがつかないと思うのですが」
「……」
「社長や重役さんに怒られても、その場をしのげばいいと考えてはいませんよね。もし、そうだとしたら何をか言わんやということになります」
「そこまでは考えていません。自分の力のなさを痛感しております」
「もう一度言いますが、責任をどう取るつもりですか? 管理職を辞しますか? それとも減俸処分を甘んじて受けますか?」
 早川の痛烈な言葉に、場内が唖然となった。そこまで言うかという雰囲気だった。
「内田さん、ありがとうございました。お座りください。……お座りになる前に、言いたいことがございましたら、どうぞ、おっしゃってください」
「先生、ありがとうございました。今私は、脳天を打たれたような、強いショックを受けております。先生のご指摘の通りです。私は管理職を辞職したいと思います。減法処分も甘んじて受けます。私は、許されることなら、もう一度一から出直し、自分を鍛え直したいと、強く自分に言い聞かせました。ほんとにありがとうございました」
 この内田課長の言葉に全員が驚いた。まさかと思った。
「内田さん、ありがとうございます。もうお座りください。……皆さん、お聞きになりましたか? 内田さんの心境はお分かりになりますよね。察してあげてください。とても勇気のある方だと思います。ですが、これは内田さんだけの話ではありません。ですよね? 皆さん方個々の問題なのです」
 全員頷いていた。内田課長だけではないのである。
「そこで皆さんにお尋ねします。この十ヵ月間の間、全てのノルマを達成された方いらっしゃいますか?」
 一人として手は上がらなかった。
「それでは、半分の五ヵ月間以上は達成できたという方、いらっしゃいますか?」
 一人だけが手を上げた。
「手を上げた方、それは何か月間ですか?」
「介護用品販売課の田辺と申します。課長職です。……お答えします。ノルマを達成出来た月数は六ヶ月です」
「ついでで申し訳ないのですが、内田さんと全く同じ質問をしたいのですが、よろしいですか?」
「はい」
「本年度の期首、つまり昨年の四月から先月までの、毎月の売上高と利益額と、それぞれの達成率を述べてください」
「私も手元に資料を持ち合わせていませんので、答えることが出来ません」
「やはり、内田さんと同じですね。この件に関して、何か思うことがございますか? ありましたら、おっしゃってください」
「今とても反省しています。先生の言われるように、私達の仕事の一つに数値管理というものがあると思います。会社は売り上げや利益がなくては成り立ちません。ノルマは会社が生き延びていく為の、最小限の達成目標だと理解しているのですが、ただ理解しているだけで、管理者として、それを意識して仕事をしていたとは、とても思えません。大いに恥ずべきことだと思います」
「責任の取り方についてはどう思いますか?」
「私も管理者失格だと言わざるを得ません。一旦管理職を返上した上で、会社とお話し合いをさせていただいて、再チャレンジする機会を与えられましたら、もう一度初心に帰り、誠心誠意頑張りたいと思います」
「ありがとうございました。皆さん方の中で、ノルマを達成した月数の一番多い方からのお話です。このお話は、実に重みがあります。参考までにお伺いしておきます。田辺さんと同じだとお考えの方手を上げてください」
 全員が手を上げた。
「ここにいらっしゃる、管理職全員の方が同じ考えだということが分りました。ありがとうございました。それでは、またお話を続けます」

 早川は、全員が大いに反省し、再出発を望んでいることを確認し、後ろで聞き入っている誠一郎に目で合図した。誠一郎も早川の意図することが分り、今後のことがスムーズに行くと確信した。
「会社の社員である限りは、管理職であろうとなかろうと、会社から報酬を受け取っているのですから、会社に対して満額の成果を示すこと、つまり会社に要求されたノルマを達成等を実績としてあげること、これが、全社員の決定的な責任なのです。当たり前の話です。まして管理職ともなりますと尚更です。その為には、社員として強く意識し続けて行かなければならないことが、数多くありますよと、いうことを申し上げたかったのです」
 会場がシーンとなって、早川の声だけが響き渡った。後ろで聞いていた誠一郎は、一人頷きながら、自分に対して言われているような気になっていた。何もかもが甘いことを再認識させられた。
「これに関連しまして、ある参考になる話をご披露します。これは私の知っている会社の、ある課長の話です。その課長が勤務する会社の規模は、そこそこ大きい会社です。その課長は、業務課の課長さんなのですが、なんと、仕入先とお得意先の、全ての電話番号を記憶されているのです。ざっと三百カ所の電話番号です。皆さん信じられますか? 三百ですよ、三百」
 みんなそんなことが出来る訳がない、と誰もが思った。顔に書いてあった。
「ですよね、そんなこと嘘に決まっていますよね。ところが、私はその課長に実際にお会いして驚きました。私は失礼だとは思いながらも、事実を確かめたくなりました。そこで、仕入先とお得意先の名簿をお借りして、その課長の前で、会社名をランダムに読み上げました。そうしましたら、私が読み上げた全ての会社の電話番号と、その課長が空で言われた番号が全て一致したのです。私は驚きました。俄かには信じられませんでした。ほんとにびっくりしました」
 みんな、ほんとかよという顔である。
「私は、この課長は天才だと思いました。ほら、良くあるじゃありませんか、テレビなんかで、記憶の天才だとか何とか、その類の人だと思ったのですね」
 みんな頷いていた。
「ところが違うのです。ごくごく普通の課長でした。で、私は質問しました。どうして、三百もの電話番号を、空で言えるくらいに記憶する必要があるのかということと、どうやったら覚えられるかということをです。課長は、私に何と答えたと思いますか? 少し考えて見てください」
 管理職全員が目をつぶり考え込んでいた。
「時間もありませんから答えを言います。……実は、この課長の答えを聞いて、私は人間の能力の凄いことを知りました。と言うよりも仕事への取り組み姿勢と言いますか、仕事の進め方の凄さと言った方がいいかもしれません。その課長は笑いながらこう言いました。どうして記憶する必要があるかと言いますと、自分の仕事の効率が格段に良くなるからです。ただ、それだけのことです、と、いとも簡単に言われました。いちいち電話帳のリストを見ながら相手に電話するのと、記憶した番号で電話するのとでは、時間的な差がそんなにないように思われがちだが、実は相当の差になると言われました。実際に私もやって見ましたが、確かにトータルしますと、かなりの差が出ることが分りました。その差の余った分を、他の仕事に振り向けられるとおっしゃるのです。私は脳天をぶち抜かれたような感じがしました。どうやったら覚えられるかとの質問には、このようにおっしゃいました。三百という数字に驚いてはいけません。記憶するのは一個だけです。その一個を積み重ねて行けば、いつかは三百になります。何でもないように、余りにもあっさり簡単に言われるものですから、私が、でも、会社名と電話番号を一致させて、掛けたい会社の電話番号が、すぐに出て来るとはとても考えられませんが、と言ったのです。そしたら、それはあなたが仕事に熱中していないからです、とあっさり笑われました。私は、もう、ふらふらとなり熱中症になりそうでしたよ。あはは、……皆さんこの話どう思いますか?」
 早川のダジャレが笑いを誘ったが、みんな、いまだに信じられない様子だった。一人が手を上げた。
「私たちから見たら凄いことでも、その課長は何でもないと言われる。このギャップが、業績の差に表れるのかもしれませんね」
「オーー、いいことを言われますね。私も全く同じように思いました。その課長は、仕事に熱中するという言葉を使われましたが、自分の仕事を、ただ身を焦がして、こなしていけば良いということではなくて、そこに創意と工夫をプラスして、結果として効率が上がらなければ、熱中したことにならないと私は受け止めたのです。今、業績の差に表れるのかもしれませんと言われましたが、ほんとにそうだと思います。会社に勤務する基本姿勢を教えていただいたような気がしています。参考にしていただければと思います」
 知らされて分ることがあるとすれば、それは、己の働く者としての恥であって、至らなさの確認の何物でもないということだろう。そして、上には上が、ごまんといるということである。

「最後に、いいことをお教えします。皆さん方が管理職として、堂々と胸を張って業務に邁進することが出来る方法です。それは、とりもなおさず課の業績を伸ばす方法ということですね。聞きたくありませんか? 内田さんどうですか?」
「是非教えてください。お願いします。みんなも同じ気持ちだと思います」
 内田の言葉にみんなが頷いた。
「その前に、またまた質問したいのですが、各課には、会社からノルマを与えられていると思います。このノルマは、皆さん方からの自己申告に基づいて決定されていることが分っています。会社から与えられたノルマを、達成している課が一つもないということも分りました」
 全員が頷いた。
「ノルマが、どういう意味を持っていることについては、皆さん方は充分に理解していると思いますから、ここでは敢えて申し上げません。がしかし、会社が目標としているノルマを達成出来なければ、会社自体がどういう立場に置かれてしまう、という認識はお持ちですか? 田辺さんどうですか?」
「経営上、重大な局面を迎えることもあるかと思います」
「重大な局面とは、具体的にどんなことが考えられますか?」
「取引先との取引に、少なからずマイナスのイメージを持たれてしまいます。その結果、最悪の場合、商品の仕入れを拒否され、販売に支障をきたしてしまうことも考えられます」
「他には考えられませんか?」
「会社の財務内容などが悪くなりますと、銀行が手を引いてしまうきっかけを作ってしまう危険性が出てきます」
「とてもいい意見が出ましたね。その通りですね。その結果、倒産の憂き目に遭遇することも当然考えられます。ノルマを達成できていない状態が続きますと、会社はどうなるかということは、もう想像できますね。ノルマとは、単なる社内の数字遊びではないということですね。会社運営上、実に重要な要素になっていることがお分かり頂けたと思います」
 早川の噛み砕くような説明に全員が大きく頷いた。
「さて、横道にそれてしまいましたが、課の業績を伸ばす方法についてお話しします。その件について一つだけ質問があります。こんどは内田さん、何度もすみません、いいでしょうか?」
「はい」
 内田は、早川から質問されることを、ありがたいと感ずるようになっていた。
「部下に対してノルマを与えていますか? 与えているとしたら、具体的に、どういう方法で数値をはじき出しているのかを、教えていただけますか?」
「はい。当然ノルマは与えています。社員からの自己申告の合計数値と、会社からの数値を照らし合わせて調整しています」
「社員から自己申告された数値は、その社員の能力から判断して妥当かどうかは、チェックされているのですね?」
 早川の突込みが鋭くなってきた。
「いえ、あくまで自己申告された数値を、その社員の達成目標としております」
「ということは、社員の能力から判断して、妥当な数値をはじき出しているということではなくて、社員からの申告を鵜呑みにしていると理解してもいいですか?」
 なるほど、考え方にずれが生じて来たようである。
「はい。そのように理解していただいていいと思います」
「こういう考えはどうでしょうか。ある社員はもっと出来るんだけど、後で文句言われるのも癪だから、達成し易い数値を出そう。またある社員は、努力目標とか何とか言って、あるいは、課内でいい顔をしたいとか見栄を張りたいとか、くだらない考えの元に、出来もしない、明らかに能力以上の高い数値を申告した、なんてことは考えられませんか?」
「そんなことは考えたこともございません。……が、言われてみますと、ないこともないような気がしますね」
「そうですか。仮にそうなりますと、自己申告の信憑性に疑問が生じますね」
「そうですね。当てにできない数値ということになりますね」
「その当てにできない数値を真に受けて、当てにしているということでしょう?」
「そうですね。もはや、何の意味も持たない単なる数値遊びですね」
「そういう状態で、課の運営がなされているとしたらゾッとしませんか?」
「その意味のない数値に踊らされて、あぐらをかいている自分がいる訳ですから、何をか言わんやですね。管理職として恥ずかしい限りですね」
「そうなりますね。では、そうならないようにするには、どうしたら良いかということになりますね」
「何か方法があるようですね。是非教えてください」
「答えは一つです。それは、社員と対話することです。とことん対話することです。ノルマについて、徹底的に議論することです。やっていますか?」
「いえ、していません。対話や議論の目的は、社員の持っている何かを引き出そうとすることですか?」
「その通りです。社員の持っている能力を正確に引き出すのです。単なるノルマの話をするのじゃありません。社員がどういう人生観で、どういう考えで仕事しているのか、本人にとって適正な仕事になっているのか、仕事に対して不満はないかなど、私が朝礼の時お渡しした、三つの質問に対する回答書を参考にしてもいいと思いますが、要はそういうことを徹底的に語り尽くすのです」
「そうしますと、何かが起こるのですね?」
「そうです。社員の考えが不思議と劇的に変化します。一度試していただければ分ります。劇的に変化しますと、仕事に対する意識が根底から変わってきます。仕事にやる気が出てきます。そうしますと、仕事に自信が出来るようになって、成績が上がってきます」
「なるほど」
「その引き出された各社員の能力を元に、ノルマを決定するのです。もちろん努力目標も設定します」
「……」
「課の成績は、構成員である各社員の頑張りの集大成ですよね? 言葉を変えますと、各社員の頑張りが目に見えて変化することで、ノルマなんか簡単にクリア出来るようになり、当然、課の業績も毎月ノルマ達成ということになります」
「そんなに簡単にはいかないと思うのですが」
「管理職である内田さん自身が、簡単にはいかないと思えば簡単にはいきません。出来ると思えば出来ます。ここで肝心なのは、社員と対話したり議論したりするレベルが問われるということです。対話や議論の仕方やレベルによっては逆効果となり、社員から失望されないとも限りません。そうなりますと、やる気どころか、投げやりな仕事になってしまい、目標とは程遠い結果となるのは明らかです」
「私たち管理職の質が問われているということですね?」
「正にその通りですね。管理職の最も重要な任務の一つに、社員にどうやってやる気を出させるか、ということがあると思います。その任務を全う出来ないと思われる人は、職を辞することも考えなければならないことを私は強調したいのです。将来のことは分りませんが、今現在、ノルマを達成できていない方は、管理職としての責任を果たしていないということですので、身の振り方は、会社に言われる前に、自ら決めなければならないくらいの、とても重要なことだと私は考えています」
 早川の話している内容が、理にかなった現実的な話として、とても分かり易く納得出来ることに、全員が一様に感動していた。
「最後になりましたが、会社が求める物はたった一つです。売上高と利益額です。それを達成するのは、他でもない皆さん方の力です。力は傍観していては与えられません。力を得る唯一の方法は、社員に心から信頼されることです。その信頼の中からしか、とてつもないパワーは決して生まれて来ないということを知るべきです。よろしいでしょうか。今胸に手を当てて、自分は、部下の一人一人に、心から信頼されているだろうかと問い掛けて見てください」
 早川の切々と語る管理職のあるべき姿を聞いて、みんな沈黙した。そして、自分の明日とダブらせるのだった。
「みなさん、会社の為とは決して申しません。自分の人生が、より豊かで充実したものになる為に、将来の自分や家族が輝いておれるように、今を磨いてください。そしたら、きっと理想に近い形が、必ず出現すると思います。努力した人には、何人も勝利することは出来ません。……これで私の講義は終了とさせていただきます。ご清聴ほんとにありがとうございました。……頑張ってください」
 全員総立ちとなり拍手が暫らく鳴りやまなかった。
 こうして管理職の研修は、一人一人が丸裸にされた妙な感覚を味わいながら、それでいて、満足そうな顔と、これまで体験したことのない充実感を漂わせながら終了した。

 役員の研修は荒れた。早川は始めるにあたって、役員のあるべき姿に言及した。管理職をどう管理監督しているか、会社運営にどのように関わっているか、大所高所からの物事を判断をしているか、俺は役員だと威張っていないか、もしそうだとしたら今時通用しないですよ、などなど基本的なことをやんわりと講義した。

 研修室内では、肩書が一切通用しないことに対して不満のようだった。特に専務は、非常に厳しい顔を早川に向けた。早川はそれを見て取った。たった五人の会場はガランとしていた。社長の誠一郎は、一番楽しみにしていた研修が始まり、興味深そうに眺めていた。
「これからみなさんに、一人ずつ、少しばかり質問をさせていただきます。ではまず、はい、あなた、立ってください。お名前と年齢を教えてください」
 早川は専務を指名した。
「桜木です。五十五歳です。お見知りおきを」
 桜木専務は、少々頭に血が上っているようであった。いくら講師とは言え、こんな若造に、立ってくださいと命令されたくはなかった。だが、後ろで聞いている社長の手前、先生にへりくだった。
「こちらこそ、よろしくお願い致します。では、質問させていただきます。桜木さんは、社の現状をどのように思っていますか?」
「順風満帆だと思っています」
「そうですか。どのように順風満帆なのですか? 教えてください」
「どのようにって、順調そのものだから、それしか言えませんが」
「では、順風満帆を数字で示していただけますか?」
「数字でですか? どういう意味ですか?」
「会話の意味が通じないようですね」
 早川の口調が厳しくなった。
「……」
「本年度の一月末までの、総売上高と利益率と利益額、目標に対する達成率と営業利益と経常利益を発表してください」
 早川から、経営上の指標の話が出て来るとは思いもよらなかった。桜木専務は窮した。
「……資料が手元にないから発表できませんが」
「そうですか。資料を見なければ言えないなんて、私にはとても信じられません。今申し上げた指標は、会社経営の基本中の基本です。これを頭に入れて経営するのではないのですか? 違いますか? 桜木さん、もう一度お聞きします。違いますか? 私の言うことが間違っていますか?」
「いえ、その通りだと思います」
「だったら、どうして答えられないのですか? 職務を放棄されているのですか?」
 職務放棄と言われて、桜木はむっとした。
「職務放棄している気持はさらさらありませんが」
「桜木さんは、失礼ですが肩書は何だったのですか?」
 過去形で言われてさらに頭にきた。
「専務です」
「そうですか。何も専務と言われても仕方ありませんね」
 この言葉に桜木専務が切れた。
「先生黙って聞いていれば何ですか? 何も専務なんて失礼千万です。訂正してください」
「それでは、申し上げます。先ほどの、経営上の基本中の基本の数字を言えないということが、会社に対して失礼だとは思いませんか?」
 桜木専務の顔が曇った。何も言えなかった。
「専務ともあろうお方が、経営上の基本中の基本の数字をすらすらと言えないなんて、恥ずかしいと思いませんか? いやしくも、会社のナンバー2でしょう? 数字は、資料に掲載されれば終わりなのですか? 対策を練るのが役員の仕事じゃないのですか? だから、何にも専務と申し上げたのです。申し開きがあるのでしたら、私ととことん議論しませんか?」
 早川の凄みの利いた話ぶりに、桜木は完全に押し黙ってしまった。
「では、もう一つ質問します」
 桜木は、今度はどんな質問が出て来るのか気になった。というよりも、恥の上塗りをしたくない心境だった。
「会社の損益分岐点のことについて説明してください」
「……」
 損益分岐点については知らない訳ではなかったが、説明するだけの具体的知識を持ち合わせていなかった。
「説明できないようですね。他の方で説明出来る方いらっしゃいますか?」
 誰も手を上げなかった。
「桜木さん、すみませんがもう一つお答え願えますか?」
 桜木はもう完全に自分を失っていた。
「はい? 何でしょうか?」
「桜木さんは、私の質問攻めに少々頭に来ていませんか。正直にお話し願えませんか?」
「……はい。確かにその通りです」
「どうして、そのようなお気持ちになるのですか? 私が若造だからですか?」
「いえ、そんなつもりはありませんが」
「専務というメンツがあるからですか? 他の役員の手前、恥を掻きたくないからですか?」
「……」
「図星のようですね。……桜木さん、最後にもう一つだけ質問させてください。よろしいでしょうか?」
「はい。お手柔にお願いします」
 専務の白旗に近い受け答えに笑いが起こった。
「もしもの話ですが、もしも、桜木さんが会社を首になったらどうされますか?」
 早川のこの言葉に、桜木は愕然とした顔をした。目がらんらんとなり、今にも早川に飛びかからんばかりの形相になった。
「……」
「いえ、首にならなくてもいいのです。会社が倒産したら同じようなことですよね」
「会社は倒産なんかしません」
「そうですか? 言いきれますか? その根拠は何ですか?」
「……」
 誠一郎は、早川と桜木専務とのやり取りに固唾をのんでみていた。
「お答えいただけませんか? 倒産しないという根拠を」
 桜木はもはや降参の状態だった。言えなった。
「桜木さん、ごめんなさい。私は、桜木さんをいじめるつもりは毛頭ございません。……しかし、どうですか? ご自分でお考えになって、ご自分のことを今のままでいいと思いますか? 正直にお答えいただけませんか?」
 桜木の態度が急変した。自分の考え方の間違いに気づいたようである。
「先生、申し訳ありません。年甲斐もなく感情が昂ぶってしまいました。と同時に、自分の情けなさを恥じております。専務という肩書が、何の意味もないということを思い知らされました。この会場に入ったら、肩書を捨てて、さん付けにしますと言われた先生の真意が、今ようやく理解できました」
「そうでしたか。ありがとうございます。とても、嬉しいお言葉です」
「もう少し言わせてください。先ほど先生が仮の話として、首になったらとか会社が倒産したらと言われて、一瞬ですが、恐ろしい気持ちになりました。この年齢では再就職はまず出来ないでしょうから、家族が完全に路頭に迷うことは目に見えています。しかも、会社の運営の仕方によっては、満更ないことはないと思いますと、背筋が寒くなってきました」
「桜木さん、本音を語っていただきまして、ありがとうございます。今おっしゃった通りです。何故私がこのようなことを申し上げるかと言いますと、過去に、このような事例を多く見てきているからです。誠に悲惨な状況に陥ってしまった家族を見てきているからなのです。それはそれは、言葉には言い表せないくらい気の毒な状況を目のあたりにして、会社のあり方について考えざるを得ないのです」
「……」
「そうでなくても、このご時世です。会社経営は、これからますます厳しさを増していくと思われます。競合他社が何を仕掛けてくるか分りません。社内で、ああでもないこうでもないと揉めている暇はありません。社長を中心に、一枚岩になって戦っていきませんと潰されてしまいます」
「……」
「聞くところによりますと、来年度からは会社も大きく舵を切り、新たな会社を目指して再出発されるようですが、この機会をとらえて、初心に帰り、みんなで力を合わせて盛り立てていくようにされたらいいかと思います」
 全員が大きく頷いていた。早川の言わんとしている切なる気持が理解されたようである。
「まだまだ、社員さんたちの研修は続いて行きますが、研修では私は心を鬼にしてきました。これからもそうするつもりです。この会社が良くなって、皆さん方全員が幸せになって欲しいのです。その為には、人生の中で、今の会社とせっかく縁を持った訳ですので、この縁を大切にして、精一杯努力して、会社と運命を共にするぐらいの気持で働くことが、何よりも望ましいと思うのです」
「……」
「働く場所のない人達がごまんといることを思えば、働けることこそ天国なのです。その天国で、命を懸けて仕事をする。何とも尊い姿ではありませんか。家族の為にも、頑張ることが如何に大切なことなのかを、ほんとに真剣になって考えて欲しいのです」
「……」
「社長がどういう新しい方針を出されるか分りませんが、肩書とか余計な邪心を捨てて、社長の方針の元、みなさん方が、ありったけの情熱と知恵を出し合って、業界のトップ企業になることを、心からそして切なる思いで願っております」
 全員総立ちになり、会場に大きな拍手が起こった。それを見て、誠一郎は涙が出るくらいに嬉しかった。悟、ほんとにありがとう。

 役員の研修が終わったあたりから、会社が急変した。役員間の感情のしこりが解かれ明るくなった。何よりも議論が活発に行われるようになり、風通しが少しづつ良くなって行った。社員の喜んでいる顔がそのことを物語っている。

 国際設計コンペに出品するための、C&Tのスタッフによる作業が急ピッチに進められていた。二月の末になり、いよいよ最後の追い込みである。三月末完了を目標に進めてきた作業も、どうやら目途が立ってきた。四月初めに上層部の関係者に説明し、役員会の討議を経て承認となり応募出品となる。
 郷田部長から電話があった。
「早川君、どうだ順調に行っているのか?」
「あ、部長、……はい。お陰様で順調に推移しております」
「そうか、それは何よりだ。続けて頑張ってくれ」
「ありがとうございます。……あのー、部長ついでで申し訳ございませんが、進捗状況について、具体的にご報告に上がりたいのですが」
「そうか。丁度いいや、今からだったら少し時間はあるが、どうするかな?」
「ご無理を言いましてすみません。ありがとうございます。今すぐそちらに参りますが宜しいでしょうか?」
「うん。そうしてくれ」
 早川は部長室に飛んだ。作業の進捗状況についての報告は口実であって、別な要件を抱えていた。部長室には既にコーヒーがテーブルに置かれていた。
「毎日ご苦労だな。ま、ゆっくりしてコーヒーでも飲んでくれ」
「ありがとうございます。いただきます」
「期限が押し迫ってきたな。順調なようで安心したよ」
「部長の計らいで増員していただきましたので、作業が思った以上に早く進展しています」
「そうか、そうか、で、今後の予定についても、話せる段階に来ているのか?」
「はい。一応三月末で各種提出書類、設計図書、模型など全てが完了する予定です」
「何だって? 三月末に? それはまた早いな」
「はい。ご心配には及びません。決して手は抜いてはおりません。むしろ、当初よりもはるかに良い設計に仕上がりつつあります」
「そうか。早く見たいものだなあ」
「そこでご相談なのですが」
「ん? 何だ?」
「四月の初めに関係者の方々にお集まりいただいて、実際の形に即して、プレゼンテーションとヒアリングと模擬訓練をしておいた方がいいと思うのですが」
「なるほど。そうだな」
「その上で、役員会にて討議されたほうが、みなさんの理解も得られ易いと思います。さらに、場合によりましては、図面の修正を指示されてもいいように、時間的な余裕もとっておきたいのです」
「だから、四月の初めが良いということだな?」
「おっしゃる通りです。この際、万全を期した方がいいと思いまして」
「その通りだな。分った。日程は追って連絡しよう。模擬訓練も本番も、君がプレゼンテーションを担当するのだな?」
「はい。私でよろしければ、そのように準備をしたいと思っています」
「何を言うんだ。君以外には考えられないよ」
「ありがとうございます」
「模擬訓練のヒアリングはどうするのだ?」
「部長が審査委員になったつもりで、ヒアリングされたらどうでしょうか」
「そうか。そうだな。俺がするか。……分った、そうしよう」
「実は、設計図書の内容ももちろんとても大事ですが、意外と見逃してはならないのが、このプレゼンテーションとヒアリングだと思っています。審査委員に好印象を与えるのも、このプレゼンテーションとヒアリングに掛っていると言っても過言ではないと思います」
「なるほど。俺が審査委員だったら図面や模型もさることながら、プレゼンテーションとヒアリングを通して熱っぽく説明されたら、より理解が深まるし印象が良いだろうな。その意味では確かに重要だな」
「そうなんです。過去の例から見てもその重要性は証明されています。他社がどの程度重要視しているかは分りませんが、意外と盲点なような気もします。図面等では読み切れない点も強調できますし」
「例えばどういう点だ?」
「経済的なことです。実際に建てるとなりますと、一番の問題は予算組つまり工事費のことです。出来る限りローコストで出来ることが望ましいと思います」
「他には何かあるかな?」
「エコロジーの問題です。地球環境に優しい建物づくりは、もはや時代の要請でもありますから、その辺をきっちりクリアしたものになってるかどうかは、審査委員の興味のあるところだろうと思います」
「今回の作品は、それらを充分に考慮したものになっている、ということだな?」
「おっしゃる通りです。絶対の自信をもっております」
「最優秀賞、つまり優勝出来そうか?」
 郷田は一番気になっている肝心要の質問をしてきた。
「多少の自信はありますが、こればっかりは何とも分りません。何しろ、世界中の技術者が競い合うコンペですので、どうなるのか読めません」
「そうか、ま、精一杯のことをやって運を天に任せるよりないな」
「女神が微笑んでくれれば良いのですが」
「だな。それを祈るしかないな」
「最後まで気を抜かずに頑張ります」
「ご苦労だが、そうしてくれ」
「そのようなことで、事実上の作業は三月一杯で終了しますし、四月からの日程も完了しますと、全てが終了となります。C&Tは解散ということになろうかと思います。一応ご報告とさせていただきます」
 早川は、暗に部長の考えを米国行きの方に振り向かせたかった。
「よし、分った。いろいろなことがあった上に、君には長いことほんとに苦労掛けたな。改めて礼を言うよ。無事作品の提出が終わったらゆっくり休むといいよ」
「また、田舎に帰ってもよろしいでしょうか?」
「そうだな。急に呼び出したりした罰は償わなきゃならないだろうな」

「部長、ついでで誠に申し訳ないのですが、少しご相談したいことがあるのですが、聞いていただけないでしょうか」
 早川は後日でもいいかなと思っていたが、今の方が良いタイミングなような気がした。
「相談? 君にしては珍しいな? 仕事の事か? それとも私的なことか?」
「はい。両方です」
「ほーー、俺に出来る事だったら相談に乗るよ。何でも話しなさい」
 郷田の目は優しくなっていた。この男の為だったら何でもしてやろうと思っていた。
「ありがとうございます。それでは遠慮なく申し上げます」
「うん」
「お尋ねしたいのですが、米国支店設立準備室の話は、どのようになっているのでしょうか」
「その件は、君には近々話そうかと思っていたところだ。一応先日の役員会議で決定している」
 早川は少々驚いた。意外と早く決定したのだと思った。
「人選はお済なのでしょうか?」
「済んでいる」
「以前のお話では、私の名前が挙がっておりましたが、その後どうなりましたでしょうか?」
「君を外す訳にはいかないよ。君に同行する人選に戸惑っていた訳だ」
「そうですか。分りました」
「何か不満なことでもあるのか?」
「とんでもございません。……いよいよ、当分の間実務から遠ざかるかと思いますと、少々寂しくなりまして」
「なるほどな。そうだろうな。その気持ちも分らないでもないな。俺も同じような経験があるからな」
「あ、そうですよね。部長の現役時代のことはお聞きしました。かなり凄い人だったと聞いております」
「あの頃は仕事が好きで好きでなあ、ほんとに夢中だったなあ。だから、君が言うように、第一線から退くようになった時の気持は、今でも忘れられないよ。相当悩んだもんだよ」
「結局、管理の道を選ばれたんですね」
「選んだというより、会社が有無を言わせなかった、と言った方がいいだろうな」
「それだけ、前途洋々の優秀な人材だった訳ですね、部長は」
「あはは、それ程でもないよ。その頃の俺と今の君を比べたら、月とスッポンだよ。君の優秀さは、比べるのもおこがましい感じだな」
「部長、それは褒めすぎですよ。勘弁してくださいよ」
「いや、ほんとのことを言っているつもりだよ。ほんとに君は立派だ」
「ありがとうございます。ついその気になるタイプですから、余りおだてないでください」
 早川は、いかにも気恥ずかしい素振りを見せながら頭を掻いた。
「あ、それで、米国へはいつからの出発になるのですか?」
「九月一日に出発して貰うことになった。C&Tが解散になり次第、準備室を立ち上げる。五月一日付で辞令を出すから、君はその室長として渡米に備えてくれ」
「先発隊はいつごろ帰国するんですか?」
「先発隊は七月末に帰国させるから、渡米までに引き継ぎを終えておいてくれ」
 早川は気になっていた出発の日が分り、内心ホッとした。
「かしこまりました。ありがとうございます。……つかぬ事をお伺いしたいのですが」
「何だね?」
「経験がないものですから要領を得ないのですが、現地での業務遂行上、現地の人達との交渉事があると思うのですが、通訳に関してはどのようになっているのでしょうか?」
 早川は、亜希子を通訳士として採用して貰うように、働きかけてみようと思っていた。
「今も先発隊が業務を遂行しているが、現地で通訳士を調達している筈だよ」
「それは単発ですか? お抱えなのですか?」
「単発だといろいろ支障があるから、年間契約で取り決めている筈だよ。どうしてだ? 何か考えることがあるのか?」
 郷田は早川の質問には、必ず何かを含んでいることを経験上知っていた。
「具体的なことは、どの部署に聞けば分かるのでしょうか?」
「総務部の田畑部長の指示で、業務課の中間課長が担当している筈だがな」
「分りました。ありがとうございます」
 早川は一旦話題を切り替えた。
「あ、部長、それからもう一つは私的なことで、一応ご報告とお願です。……えーと、私は近いうちに結婚することになりました」
 郷田は少なからず驚いた。この青年にふさわしい女性を、いつか紹介してやろうと思い、気に留めていたのである。
「おいおい、ほんとかよ。また急な話だな」
「はい。いろいろありまして、急に決まりました。と申しますか、急に決めざるを得なくなったのです」
「それはまたどうしてだ」
「米国行きの件があったからです」
「おーー、そうか。二年後では遅いということか? それとも、一緒に連れて行きたかったのか?」
「その両方です。米国滞在は長期間になりますので、落ち着いて仕事に集中するには、それがいいかなと思いまして」
「それはそうだな。その方がいいな。……で、式はいつ挙げるんだ?」
「五月二十日です」
「そうか。どこで挙げるのだ? 鹿児島か?」
「長野県の篠ノ井という所です」
「ほー、嫁さんの里か?」
「はい。そうです。そこで、遠いところで申し訳ないのですが、部長にも是非出席していただけないかと思いまして」
「そうか、分った。君の晴れの門出だ。喜んで出席させてもらうよ」
「ありがとうございます。厚かましいですが、来賓のご挨拶もお願いしたいのですが」
「よっしゃ。引き受けよう。……それにしても、この前まではそんな素振りは全然なかったようだが」
「国際設計コンペの目途も立ちましたし、早い方が何かといいかと思いまして」
「そうだな、いやー、おめでとう。君も益々仕事に専念できそうだな」
「ありがとうございます。追って結婚式の招待状を送らせていただきますので、よろしくお願い致します」
「よっしゃ。了解した」
「部長、ご相談ついでに、もう一つ宜しいでしょうか?」
 早川は、亜希子の通訳士としての会社との契約の話に関して、部長の協力を取り付けておこうと思った。
「今日はまた盛りだくさんだな。……今度は何だ?」
「あのー、……申し上げにくいのですが」
「構わん。言って見ろ」
「それでは申し上げます。先ほど通訳士の件をお話しさせていただいたのですが、通訳士は身内ではダメなのでしょうか?」
「ほー、君の身内に通訳の出来る人がいるのか?」
「実は、私の嫁になってくれる、名前を亜希子と言いますが、彼女が通訳士の仕事が出来ます」
「えっ、ほんとかよ、……凄いじゃないか。驚いたなあ。才媛を嫁にするんだ。……君らしいな、……で、何か免許でも持っているのか?」
「はい。一応通訳案内士の試験に合格して、通訳案内士登録証を持っております。通訳案内士は、観光旅行者を案内するのが目的なようですが、私たちの実務にも充分役立つのではと思っています」
「ほんとかよ。あの試験は相当な難関なんだろう?」
「そのように聞いております」
「実際に会話しているところを聞いたことがあるのか?」
「はい。ある貿易会社の社員とやり取りしていましたが、私が言うのもなんですが、かなり流暢な会話でした」
「だが、専門的なことがあるからなあ。建設業の専門的なことは理解しているのか? 会話が出来るのかな?」
「その点は大丈夫です。かなり前から学習していますので、無理なくこなせると思います」
「ほんとかよ。それだったら願ったり叶ったりだよ。現地の通訳士を頼むより、嫁さんだったら、何かと好都合じゃないか」
「私としても現地の人を通訳士としてお願いするよりも、業務がかなりスムースに運び、思うようにはかどるのではと思っています」
「うんうん、それはそうだ。で、どうせ通訳士と契約するんだったら、君の嫁さん、えーと、亜希子さんか? と契約してくれと言いたいのだな?」
「はい。そうです。、会社として差支えなければ、そうしていただければ助かりますし、彼女も張り合いが出来るのではと思ったものですから」
「夫婦で業務を遂行していくのは日本では珍しいが、アメリカあたりでは、何をするでも夫婦同伴が当たり前になっているから、むしろ、いいのじゃないかな。君が仕事で外に出ている間、異国の社宅で寂しく君の帰りを待つのも辛かろうしなあ。しかも新婚ほやほやだしな」
「最初は単身赴任も考えたのですが、新婚早々から単身赴任では、彼女が余りにも可哀想だと思いました」
「それはそうだし、第一そんな状態では気になって、君も仕事に身が入らないだろう? それじゃ、会社としても困るよ」
「そこで、彼女を通訳士として採用していただければ、願ったり叶ったりだと思った次第です」
「そうだな。むしろ会社として願ってもない話だ。……で、俺に、総務の田畑部長に、前もって話をしておいてくれということだな?」
「はい。ほんとに勝手なお願いで申し訳ありません。よろしくお願い致します」
 早川は部長に深々と頭を下げた。
「よっしゃ、分った。場合によっては、通訳案内士登録証のコピーを提出して貰うことになるかもしれないから、準備しておいた方がいいと思うよ。それと、総務の方から実際に会話出来るかどうか、テストすることを要求するかもしれないから、これも併せて準備しておいた方がいいかもな」
「承知いたしました。準備しておきます。それと部長、この件はC&Tが解散になるまで、出来ましたら、伏せておいていただければありがたいのですが」
「そうか、分った。総務部の田畑部長にもその旨伝えておこう」
「ありがとうございます」
「相談事はそれだけか?」
「もう一ついいですか?」
「まだ、あるのかよ」
「はい。もし今の件を了承していただいたらの話なのですが、渡米までの間、今の社宅に置かしてもらえないでしょうか?」
「お、そうか。五月に結婚して、渡米までの間都内のマンションを借りるのは、如何にも勿体ない話だからなあ。なるほど、さすが考えたな。渡米までの間は単身で生活して、嫁さんは、えーと、何処だったけ、お、そうそう篠ノ井に置いておくのだな?」
「おっしゃる通りです。会社の規約を破ることになりますので、無理かもしれませんが」
「いや、短期間ということもあるし事情が事情だし、会社の業務を遂行する為に止むを得ずやることだから、特例として認めてくれると思うよ」
「ありがとうございます。重ね重ねすみません。よろしく取り計らっていただければ助かります」
「なーに、構わんさ。君にはさんざん無理をして貰ったからな。これくらいのことはしてやらないとな。……何もかも良く分った。俺が何とかするから心配には及ばない。それよりC&Tの業務に集中して作業してくれ」
「はい。かしこまりました。よろしくお願い致します」
 早川は、思っていた通りの展開になりそうで、ホッと胸をなでおろした。

夕方業務課の中間課長から電話があった。
「田畑部長から指示があったのだが、何か相談事があるんだって?」
 相変わらず郷田部長の行動は素早い。早速総務の田畑部長に話をしてくれたようである。
「あ、お忙しいところを課長すみません。そうなんです。渡米の件に絡んで、相談に乗っていただきたいことがございまして」
「うん聞いている。通訳士の件だろう?」
「はい。そうです」
「今だったら時間取れるけど来るかい?」
「はい。よろしくお願い致します」
「じゃあ、応接間の方に直接来てくれ」
「かしこまりました」
 早川は業務課の応接間に走った。暫らくして、中間課長が姿を見せた。早川は立ち上がって頭を下げた。
「お忙しいところ、突然お邪魔してすみません」
「なーに、構わんさ。俺も君とは一度話がしてみたかったのだ」
 早川は怪訝な顔をした。
「あはは、そんな顔するなよ。君に憧れるのは、何も女性ばかりだけではないよ。男性だって、君のオーラに直接触れてみたい奴が結構いるんだぜ」
「課長、いきなりおだてないでくださいよ」
「いや、ほんとだよ。正直言って、俺もそうしたかったが、課も違うし会う機会なんてないからなあ。計らずも、こうして会うことが出来て喜んでいるんだよ」
「困りましたねえ、きっと、がっかりなさいますよ。何だ大したことないじゃないかとね」
「あはは、ま、俺としてはありがたいと思ってる」
「ありがとうございます。ところで、話はどの程度お聞きしていますか?」
「田畑部長の話では、何でも君の嫁さんになる人が、通訳士の免許を持っているから、今回は現地の通訳士に頼まずに、君の嫁さんになる人と通訳の委託契約をするようにとのことだった」
「可能でしょうか?」
「可能も何も、そうしろということだったよ」
「えっ、ほんとですか? 通訳案内士登録証のコピーの提出とか会話のテストなんてしないのですか?」
「いや、その話は今のところない。しかし、私の立場上必要性は感じているから、その件は部長と話し合ってみることにしようかな。それに、君程の人が惚れた細君も拝まして貰いたいしな」
「あはは、課長、きっとがっかりされますから、見ない方がいいですよ」
「そう言われれば見たくなるのが人情というものだよ。益々会いたくなったなあ」
「あはは、参りましたね。でも、一応可能性はあると思っていてもいいのですね?」
「いや、異例なことだけど決定と思っていいと思うよ」
「そうですか。ありがとうございます。それと、何か言われませんでしたか?」
「あ、そうそう、この話は、C&Tが解散になるまで誰にも言うなと、かん口令が出された」
「かん口令などと大袈裟なことではないのですが、今の仕事は、社運を賭けているところがあるものですから、出来るだけそっとしておいてもらった方が、今のところは何かと良いのではと思いまして」
「うん。俺もそう思う。だから、部長と俺しか知らないことになっているから、心配ないよ」
「重ね重ねありがとうございます。助かります」
「なーに、構わんさ」
「ついでに、お聞きしたいことがあるのですが」
「分ってるよ。委託契約料のことだろう?」
「はい。参考までにお聞かせ願えればと思っています」
「通訳士の委託契約料は、年間契約の月割計算になっているんだよ」
「はい」
「通常現地の通訳士に委託する場合の相場は、日本円にして一日四万五千円~五万円程度だけど、いわゆる、お抱え契約形式の委託契約の場合は、四万円でお願いしているんだよ」
「でも、業務上毎日通訳士が必要という訳ではないでしょうから、必要に応じて、時間単位で依頼した方が安上がりなのではないですか?」
「そう思うだろう? それが違うんだよ。大概の場合交通費とか宿泊料などの経費は別になっているから、これがバカにならないんだよ。だから何もかも含めて、年間契約したほうが安上がりになるんだよ」
「なるほど。そうですか」
「今現在、会社が現地の通訳士に払っている年間の委託料は、九百万円で済んでいるんだよ」
「へー、そんなにもなるんですか。凄いですね」
「いや、それでも安くして貰っている方だと思う。他の会社で聞いたことがあるんだが、1千万円を超えている会社がザラにあるそうだよ」
「そうですか。ま、誰でも彼でも出来る仕事ではないことは確かですけどね」
「君の細君の場合も同じようになると思うが、この件に関して何か意見はあるかな? あれば一応聞いておくが」
「いえ、何も分りませんのでお任せ致します。提出すべき書類等があるのでしたら、教えていただければ準備します」
「分った。最終決定された時に、改めて細部について打ち合わせということになると思うから、その時まで待って貰うことになると思う」
「かしこまりました。何卒よろしくお願い致します」
「それにしても、君の細君になる人は大したもんだな。通訳が出来るなんて凄いことだよ」
「私も最近聞いて知ったばかりなのです。驚いています」
「専門的なことは大丈夫なのかな?」
「はい。万一のことを考えて、秘かに訓練して参りましたから、まず大丈夫です。何でしたら、先ほど申し上げたテストということで、その辺をヒヤリングされたらいいと思いますが」
「そうだな。必要ならそうするが、君がそう言うんだったら大丈夫だろう。なにしろ、君が準備室の室長なんだからな」
「あ、その件はもう話があったのですか?」
「いやいや、内密に聞き出したことだ。君に同行するスタッフも決まっているそうだぜ」
「実際の名前は聞いておりませんが、決まったということだけは聞いております」
 この課長は、立場上かなりの情報通なのではと思えた。
「君は社内の噂を聞いたことがあるかい? 噂っていうものは、本人には意外と知らされていない場合が多いからなあ」
「えっ、私のことでですか?」
「そうだよ。君の噂だよ。凄いことになっているぜ」
「えっ、ほんとですか。どうせ悪い噂でしょうけど、しかし噂になるような悪いことはした覚えはないのですが」
 早川は、自分が噂になっていることは知らなかった。どういう噂だろう。
「あはは、君は噂にたがわぬ人物だな。みんなが惚れる筈だ」
「惚れる? じゃあ、いい話なのですか?」
「いい話どころか、我々にしたら、とんでもなく凄い話だよ。聞きたいかい?」
「はい。是非お願いします」
「断っておくが、あくまで噂だからな。事実じゃないからな」
「もちろん、そのつもりです。第一、社内で、私のことで、良い話なんてあろう筈はありませんから」
「君は、米国支店設立準備室のことをどう思っているんだい?」
「あくまで支店設立の前段階の現地調査が主目的ですので、設立後の運営が上手くいくかどうかだとか、設計施工上の問題、特に現地の下請業者の質がどうだとか、やることは一杯ありますが、それらをつぶさに調査した上で、経営上の参考資料になるべく、報告書を作成するのが私の仕事と心得ています」
「そうした場合、実際の支店運営は誰がしたほうが一番いいと思う?」
「それは、私の関知することではないと思います。ですから、何ともお答えのしようがありませんが」
「そのことが、実は噂になっているんだよ。……君がなるのではとな」
「あはは、課長、冗談はよしてくださいよ。それは噂ではなくデマに等しいですよ」
「いや、満更そうでもないと思うよ。俺も妥当な線だと思っているけどなあ」
「そんな馬鹿な人事をするような会社じゃないと思いますが」
「そうかい? これまでも準備室の室長が、そのまま支店長になった例は多くあるだろう?」
「課長よく考えてみてくださいよ。私は支店管理も経験ないどころか、この若造の技術者が支店運営が出来る訳ないじゃありませんか。誰が考えたってそう思いますよ」
「いやいや、単純にそう思えないところに君の凄さがあるんだよ。君を見ていると、時々、年齢って何だろうと思う時があるんだよ。俺なんか、だいぶ歳を取ってきているけど、なんていうかなあ、俺と君とは、人種が違うんじゃないかと、錯覚することがあるんだよな」
「あはは、課長オーバーですよ。私はごく普通の青年ですよ。私がまるでスーパーマンみたいに聞こえますよ」
「そうそう、君は正にスーパーマンだな。うんうん。君は正にスーパーマンだよ」
「あはは、参ったな。勘弁してくださいよ。課長も課長ですよ。そんなデマを持ち出すなんて」
「あはは、やはり、君は只者ではないな。会話の中身が、普通の奴と何処となく違うんだよなあ。説明がつかないんだけど、やはり、どこか違うんだよなあ」
「あはは、まるで今度は、お化けみたいな言い方ですね」
「そうそう、君はお化けだな。うんうん。君は間違いなく、……お化けそのものだよ」
「あはは、スーパーマンにされたり、お化けにされたり、課長って面白い人ですね。好きになりました。……あははは、ああ、面白い」
「受けたみたいだな。良かった、良かった」
 早川は笑いながら待てよと思った。そう言えば、考えた事はないが米国支店の責任者には誰がなるのだろう。

 早川はその夜亜希子に電話して、結婚後渡米まで社宅で暮らすことの了解が得られたことと、通訳士として会社と委託契約出来そうだという事を伝えた。
「まあ、凄い。嬉しいわ。良く会社を説得出来たわね。さすがね」
「あはは、普段の行いがいいから、ご褒美を貰ったんだよ」
「そうね、そうかも。でも、良かったわあ嬉しい」
「通訳士の委託料いくらだと思う? マネージャーさん?」
「さあ、安くしてくれと言われたんじゃない?」
「思っていたよりも多かったよ。実際にどうなるかはわからないけど、年俸九百万円だってよ」
「えっ、えっ、ほんと? 凄いわねえ、……まあ、凄い。私に対する凄いプレッシャーだわね」
「そうだよ。首にならないように頑張らなくっちゃな」
「分ったわ。頑張る」

  二〇一二年はうるう年である。だから二月の暦には29という数字が書き込まれている。その二十九日の夜弟の謙二から電話が入った。
「兄貴、今日は大事なことを連絡したいのだが、いいかな?」
「お、そうか何か進展があったみたいだな」
「うん、あった、あった、大ありだよ」
「そうか。聞かして貰おうかな」
 悟は謙二からの電話を心待ちにしていた。
「取り敢えず、決まったことから話すから聞いてくれ」
「分った。何だか知らんが、気持ちが弾んでいるようだな」
「あは、分るかい? 先月末に篠ノ井の社長とリコが神戸に来たから、その話をしようかな?」
「うん。聞きたいな」
「社長の口からいろんな話が出たよ」
「ほーー、どんな話だ?」
「四月一日から花岡貿易商事(株)に入社してくれというんだよ」
「予想通りだな」
「その件は俺も心で決めていたことだし、遅かれ早かれそうなるだろうとは思っていたから、平常心でおられた。だから、前向きに話が出来たのだが、……」
「何か気になることでもあったのか?」
「社長から、これは完全な引き抜き、つまり、ヘッドハンティングに匹敵するからということで、引き抜きの条件というか待遇についての話があった」
「ほーー、社長は新年度からの計画には、謙二は絶対に外せないと言っていたからなあ。で、どんな話だったんだ?」
「驚いたよ。支度金として、一千万円、年俸一千万円でどうだと言うんだよ」
「何っ、ほんとかよ。嘘だろう? 何かの聞き違いじゃないのか?」
「いや、ほんとは支度金を三千万円ぐらいと考えていたが、準備できないから、取り敢えず一千万円で考えてくれと言うのだ」
「へーー、社長もまた思い切ったなあ。凄いな。必死なんだよ社長も」
「いまの俺の年俸を聞かれたから、五百万円ぐらいですと言ったら、じゃあ、年俸は倍の一千万円でどうだと言うんだよ」
「で、お前は何と言ったんだ」
「もちろん、断ったよ」
「えっ、断ったのか、どうしてだよ」
「そんな分不相応な待遇は、受ける訳いきませんと言ったんだ」
「社長はびっくりしたろう?」
「そうなんだよ、俺の顔をジッと見てたよ。そしたら、それじゃ俺の気が済まないから、そうしてくれ、と、どうしても聞かないんだよ」
「それはそうだろう、一度出したものを引っ込める訳にはいかないだろう?」
「そうだと思う。だが、俺としては気が進まないから、受け取る条件を出したんだ」
「お、そうか。どういう条件だ」
「三つ出した。三つの条件を一つでも呑み込めない場合は、この話はなかったことにしてください、と前置きしておいた」
「三つもか? どういう条件だ?」
「新しい計画を実行するのに、会社も何かと金がかかるから、極力経費は抑えた方がいいと思ったんだよ」
「なるほど、言えてるな。お前らしいな」
「そこで、条件の一つは、支度金は出世払いにしてくださいと言った」
「出世払い?」
「そう。社長の会社に入社して、私の担当する部門が、通期で予定の売上高の百五十%の売上達成と、なお且つ、二十%の粗利益を達成できた暁には、喜んで支度金を受け取りますと言った。その代り、達成出来なかった場合は受け取れませんと言った」
「社長は何と言った?」
「目を白黒させていたよ。お前はバカかと言わんばかりだった。その条件が呑み込めないようでしたら、私は社長にご厄介になる訳にはいきませんとはっきり言った」
「そうなると、社長も呑まざるを得ないだろう」
「うん。しぶしぶ呑んでくれた」
「二番目の条件は何だ?」
「年俸の一千万円はとてもありがたいですが、分不相応ですから、取り敢えず今の年俸の五百万程度にしていただいて、これも、先ほどの売上高と利益率を無事達成できた場合のみ、差額をボーナス査定に加味していただく、ということでどうでしょうかと言った。次の期からは、もちろん達成したらの条件付きですが、一千万円は高すぎますから、八百万円程度でどうでしょうかと言った」
「うんうん。いい案だな。社長は喜んだろう?」
「ところが、そうじゃないんだよ。お前は何と欲のない奴だ。それじゃあ俺の気が済まないから、これだけは呑んでくれと言われたから、また言ってやった」
「何と言ったんだ? またバカなことを言ったんじゃないだろうな?」
「そのバカなことを言った。社長、こんな訳のわからない若造に、そんな法外な年俸を提示するような会社には行きたくありません」
「うん」
「社長、いいですか? 来年度は会社も重要な局面を迎えるから、出来るだけ固定費を抑えたいんだよ。すまんが、こういう条件で呑んでくれないかと、今、私が言ったような内容で何故お話しされないのですか? とな。余計なことを言ったような気がしたんだけどな」
「それに対して社長は何と言った?」
「俺の顔をしげしげと見て、ほんとにそれでいいのか? と言うんだよ。そこで俺がまた言ったんだよ」
「ああ、またお前の悪い癖が始まった」
「何言ってるんだよ。みんな兄貴の教えじゃないか」
「これだからなあ、ったく、で、今度は何を言ったんだ」
「社長、私はそういう人間です。高く評価していただくのは実にありがたいことですが、私はまだ社長の会社での実績はゼロです。ゼロの人間に高い金をつぎ込むのは邪道です。それより、私は先ほど私が申し上げた、実績を作ることの楽しみを与えてくださることに喜びを感じているのです、とな」
「まともじゃないか。社長喜んだろう?」
「いや、それは分らないが、じっと俺の顔を見続けて、一言ポツリと言ったよ」
「へー、何と言ったんだ社長は」
「お前ら兄弟は分らん。異次元の人間だな。恐ろしく欲のない人間だな、……だってよ」
「それでお前の条件を社長は呑んだのか?」
「うん。分ったの一言だった。呆れて何にも言えないようだったぜ」
「あはは、そうだろうな。で、三つ目は?」
「俺にとっては、実を言うとこの三つ目が一番大事なことだったんだよ」
「仕事に対する評価や金よりも大事なものか、何だろうな」
 悟にはおおよその察しはついていたが、わざととぼけて見せた。
「これも、兄貴と同じだな」
「俺と同じ? 何だよ」
「回りくどいことは嫌だから、単刀直入にズバリ言った」
「うんうん。その方が気分がすっきりするからな。何と言ったんだ」
「真理子さんとの結婚を許してくださいと言った」
 おいおい、お前はほんとにバカだな。物事にはタイミングっていうものがあるだろう。
「おいおい、えっ、えっ、謙二、いくらなんでも、それはちょっと早すぎるんじゃないのか?」
「早い遅いの定義は俺にはないのだよ。思い立った時が俺の時なんだよ。どうせリコとの結婚を望むんだったら、時間の問題ではなく事実の確認だよ」
「そう言うけど、リコが傍にいたんだろう?」
「うん、いたよ。だから、却って好都合だと思ってな」
「まさか、この条件が飲めないようだったら、この話は諦めてください何て言ったんじゃないだろうな」
「言った。一言一句、全くその通りに話した」
「あちゃー、やってくれるよ。で、社長とリコの様子はどうだった?」
「リコの態度がおかしかったよ。……面白かった」
「えっ、どういうことだよ」
「リコと俺は、電話で何回か話していたから、リコの気持は分っていたんだ。リコからも言われていたんだ。親を説得してくれって」
 そうか、謙二とリコは、もうそこまで話が進んでいたのか、と、悟は内心ホッとした。
「それからどうなった」
「リコは俺の顔をチラッと見た後、社長の顔を見てオドオドしていたよ。社長が雷を落とすんじゃないかと、心配そうな顔をしていた」
「それはそうだろ。場合によっては、何もかもがご破算になりかねないからな。お前は、仕事とリコを天秤にかけるつもりなのか、なんて言ってな」
「ところが、社長の顔が、柔和な嬉しそうな顔になったんだよ。そしてこう言うんだよ。謙二、お前のバカさ加減には呆れ果てていたが、リコを選んだことには、国宝級の賛辞を贈るぞだってさ」
「あははは、面白い、あはは、これは愉快な話だな、あははは」
 悟は思い切り笑った。笑いながら、謙二のことは、これで何もかもが上手く行くと確信した。
「ということで、三つの条件を全て呑んで貰った」
「社長が条件を全て呑んだというより、謙二そのものを呑みこんでしまった、と言ったほうが良いようだな」
「おー、そう言う考え方も出来るな、正にそんな感じだな。うん。それで俺は満足じゃぞえ、あははは」
「リコは喜んだろう?」
「それが傑作でさ、日帰りの予定でいたらしいけど、急きょ泊まることになって、その晩は三人で夜明けまで飲み明かしたよ」
「おー、おー、そうかそうか、じゃあ、リコを初めて抱いたんだな?」
「おいおい、兄貴とは違うぜ」
「何だよ、そう言うことになると、俺とは違うと言うのか?」
「当たり前だよ、親と一緒の時は、そんなこと出来る訳ないだろう? 親の目を盗んで、手を握ったりキスはしたけど、その程度だ」
「そこまでいけば充分だよ。楽しみは後でだな。あはは、リコの様子はどうだった? 喜んでたか?」
「うん、まあな。何か、キスした時泣いていた」
「そうか、感極まって泣いたんだろう」
「うん。そうかも知れないが、後日、涙の訳を聞こうとは思ってる」
「そうか、そうか。それは良かったなあ。うんうん。良かった、良かった」
 悟は我がことのように喜んだ。嬉しさが込み上げてきた。もう知っているかもしれないが、亜希子に知らせてあげたかった。
「それで、今日会社に辞表を出して、いろいろあったけど一応承諾して貰った」
「成績のいいお前のことだから、会社は、お前を引き止めるのに必死だったんじゃないか?」
「必死どころじゃないよ。上を下への大騒ぎになって、直属の上司なんかは、寝耳に水の顔をして青ざめていたよ」
「それはそうだろう。何と言っても、ドル箱がいなくなれば上司の将来に響くからなあ」
「会社からは、やれ給料を上げるからとか、近い将来のポストのことも考えるからとか、いろいろな飴をぶら下げてきたよ」
「そうか、大変だったな」
「大変だったのは、それだけじゃないんだよ」
「他にもあるのか?」
「うん。俺と一緒に仕事をしてる同僚が、辞めてどうするんだとか、何処に行くんだとか、騒がしいったらありゃしない」
「そうか、だろうな」
「中には、一緒に連れていってくれって、聞かない奴がいて困ったよ」
「なるほどなあ。……優秀な奴がいるのかい?」
「うん、そうだなあ、即戦力で優秀な奴って言うか、成績もそうだが、考え方が優れている奴で、将来性のある奴が四、五人はいるな」
「そうか。篠ノ井の会社に引き抜いたらいいじゃないか。どうせお前の担当する部門は、業務拡張で全く新しい部門だから人材は必要だろう?」
「……」
「どうした。考えていなかったのか?」
「兄貴っていつも思うけど、先の先を見ているんだな?」
「それは、お前だって同じだろう?」
「いや、兄貴程じゃないよ。今の話も、全く考えに浮かばなかった。言われてみればそうだよな。今の会社に弓を引くようなことは出来ないが、個々人の人生はまた別だからなあ。少し考慮に入れといた方がいいかなあ」
「連れていってくれと言うことは、会社の事は別にして、お前と仕事をしたいという、人間的な要素も含まれているんじゃないのか?」
「うん。そうかもしれない。一度じっくり話して見るかなあ」
「本人の為にもそうしてあげた方がいいと思うよ。一人でも多くの人が幸せになるように努力した方がいいよ」
「うん、だな。分った。頭に入れておくとするか」
「だな。社長も喜ぶよさ。……で、いつ辞めるんだ?」
「三月末で今の会社を辞めて、四月二日から花岡貿易で働くことになった」
「じゃあ、三月末の週末に引っ越しするのか?」
「そういうことになりそうだな。社宅も用意してくれるそうだ。これには、また面白い話があるんだよ」
「うん」
「真理子とどうせ結婚するんだったら、社長の家に住み込んだらどうだと言い出すんだよ」
「あはは、社長らしいなあ。真理子は喜んだんじゃないか?」
「そんな感じだったけど、結婚してからならいいですが、それまでは、そういう訳にはいきませんと断った」
「当然だな。社員としてのけじめがつかないからな」
「ということで、篠ノ井にお世話になることになった」
「そうか。……いよいよ謙二号の船出だな。お祝いをしなくっちゃな。四月以降だったら篠ノ井で会えるな?」
「そうだな。身が引き締まる思いだよ。兄貴、これからも宜しくな」
「分った。これまで以上に頑張らなきゃな。リコを幸せにしろよ。いいな? そうでなかったら承知しないからな」
「言われなくても分ってるよ。任せときな、世界一幸せにしてみせるから」
「よっしゃ。その言葉を忘れるな。それにしても嬉しい話だなあ。謙二、ありがとう。俺もホッとしたよ。頑張れよ」
「兄貴のお蔭でこういうことになって、なんて言っていいのか、ほんとに嬉しい限りだよ。俺の人生に明るい未来が点灯した感じだよ。新しい会社の業績の向上を計り、盤石にして行くことが兄貴に対する恩返しだと思ってる」
「いいこと言うじゃないか。そういう具合になるように祈ってるよ」
「ありがとう。……じゃあ、取り敢えずそういうことで報告しておきます」
「分った。……謙二そうなると、俺から社長に言うより、お前から言った方がいいと思うことがあるんだがな」
「そうかい? どんなことかな?」
「今から言うから、手帳にでもメモしてくれるかな?」
「分った。ちょっと待ってな。……どうぞ」
 悟は次のようなことを謙二に告げた。

  • 三月初旬~中旬に、業務拡張に伴う社内体制の刷新についての発表を行う。
  • 社名を(株)TCH Japanに変更する(Trading Company Hanaoka Japan)。
  • 取扱品目に画像診断機器、放射線治療機器、病院医療情報システム、人工透析機器等の販売を追加。
  • 年功序列廃止し、能力主義による評価基準の制定を行う。これに伴う給与規定の改定を行う。
  • 全役員並びに管理職の洗い直しを行い、当分役員は置かない。
  • 部課長制にして、管理職の責任を明確に明文化する
  • 肩書での呼び名を廃止して、全て、さん付けで呼ぶようにする。
  • 報酬は、月給制は維持するが年俸制を基準にする。
  • 昇格・降格の基準を明確にしておく。
  • 努力し業績向上に寄与した者に報いられるような組織を構築する。
  • 対話や議論を通して物事を決定していくプロセスを重要視する。
  • 風通しの良い社内雰囲気を作る。

「これは社員研修を通して感じたことや、俺自身の提案もあるが、あくまで、独断と偏見による思いつきだから、後は謙二の方でよく検討して、社長と打ち合わせしたらいいと思う」
「良く考えているなあ。俺も何となく考えてはいたが、ここまでは思いつかなかったなあ」
「後はお前の仕事だ」
「ありがとう。助かるよ。社長も喜ぶんじゃないかな」
「そうだといいがな。ま、出来ることと出来ないことが当然あるから、どうするかは社長の腹一つだが、いくらこういうことを掲げても、実態が伴わないと、それこそ絵に描いた餅になってしまうから、その辺は慎重に考えた方がいいと思うよ」
「だよな。俺の考えも含めて、社長とよく打ち合わせしてみるよ」
「それと、花岡貿易は新体制に伴って、新部門のスタッフを募集しなければならないと思うから、この際さっき俺が言った、今の神戸の会社の連中でお前と一緒に働きたいという奴がいたら、その辺も考えに入れておけよ。即戦力のある貴重な人材は、そう簡単には見つからないからな」
「だよな。三月末までに、引き抜く場合の待遇面を社長とよく相談して、その線に沿って俺が思っている奴に、一人一人当たってみることにする」
「うん、だな。かと言って、今まで世話になった会社だし、お前を育ててくれた会社という事を忘れてはいけないぜ。その辺を良く考えて行動しろよ。立つ鳥跡を濁さずって言葉もあるからな」
「確かにそうだな。慎重に運ぶ必要があるな。分った」
「それと、リコとお前のことで、考えていることがあるんだよ。これもぜひ実現して欲しいと思ってることなんだけど、メモしてくれるかな?」
「分った。どんなことだい?」
 悟は次のようなことを謙二に語った。
 亜希子に渡してある、幸せの青い鳥のメモの中から抜粋したものである。

  • 花岡真理子の今後のことについて
    • 一般事務や経理、受付、国際電話、英語の書類作成、外国人の来客対応、海外出張等々、必要なすべての業務を一通り経験させる。
    • 三年後の二〇一五年に社長秘書となる。
    • 六年後の二〇一八年に常務取締役に就任。
    • 九年後の二〇二一年に専務取締役に就任。
    • 十年後の二〇二二年に代表取締役社長に就任。現社長の花岡誠一郎は第一線から退き名誉会長に就任。
    • 花岡真理子は一年~二年以内に通訳案内士試験に合格し、登録を完了しておくこと。
    • 花岡真理子は三年以内に秘書技能検定試験の一級に合格しておくこと。
    • 花岡真理子は三年以内に医療秘書技能検定の一級に合格しておくこと。
    • その他、必要に応じて、法律で定められている資格試験等を受験、業務に支障がないようにしておくのはもちろん、よりレベルの高い業務遂行が出来るように励むこと。
  • 早川謙二の今後について
    • 入社後については社長一任。
    • 頃合いを見て花岡真理子と結婚する。

「一応、現時点で考えた事だから、後は謙二なりに考えて進めたらいいと思う」
「へーー、そこまで考えているのか凄いなあ」
「何事も目標を持っておかないと、上手くいくことも上手くいかなくなることがあるからな。それにこうしておくと、いつでもチェック機能が働くから何かといいだろう?」
「確かにな。ありがとう。とてもありがたいよ。後は社長とリコと俺の三人で、いろいろ打ち合わせしてみるよ」
「だな。頑張るんだぞ。……じゃあな、篠ノ井で会おう」
「分った。ありがとう。……じゃあ、またな」

 悟は、花岡貿易商事(株)の今後に思いを馳せた。
 四月末までに予定していた全ての社員研修会が終了すれば、新しい舞台装置が整ったことになる。後は社長を主役にして、リコと謙二が中心になって役を演ずればよいと思った。そして十年後には観客が総立ちになり、カーテンコールが鳴り止まない会社に成長してくれることを祈った。
 悟はこれで、安心して亜希子との人生を歩んで行けると確信した。

 


第11章 岐路
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