□ 第三章 再会 □
あれ以来、花岡亜希子からは連絡がなかった。おそらく、会社勤務の都合上、休暇が思うように取れないのかもしれない、と早川は思った。亜希子との時間はたっぷり取れるような手筈は出来ている。早く逢いたい、逢っていろいろ話しをしたいと思っていた。
今日は土曜の休日。早川は朝から久しぶりに社宅でのんびりしていた。窓から漏れる日差しは夏ほどは強くなく、開け放たれた窓から吹き込む柔らかな風が心地良かった。遠くで子供達が遊んでいるのが見える。
今の子供達は、まして都会で生まれた子供達は可哀想な気がする。公園とか空き地とかの、狭く決められた場所でしか遊べない。早川は田舎の野山が恋しく思い出された。野山や川や海で、日が暮れるまで我を忘れて遊んだものだ。たまに家に帰るのが遅くなり、母親にひどく叱られたりもした。懐かしい。
早川はベッドに腹ばいになり、好きなジャズを聞きながら本を読んだ。時々仰向けになり、天井を眺めながらこれからの事を考えた。特にコンペの件は余程上手く事を運ばないといけない。郷田部長や岩田課長に迷惑が掛かってはいけないし、会社として失敗が許されないだけに頭の痛い難題である。
電話が鳴った。早川はもしかしたらという期待を持って受話器を上げた。
「はい、早川ですが」
「おはようございます。遠藤です」
君子からの電話であった。この社宅の電話番号も、亜希子から聞いたのだろうと思った。
「やあ、遠藤さん。おはようございます。この間はどうも」
「こちらこそ、すっかり酔ったみたいで二日酔いでしたわ。ご迷惑掛けたみたいね」
「とんでもありません。とても楽しかったです」
「私もお蔭様で楽しませていただきましたわ。ところで、亜希子とは連絡ついたんでしょ?」
亜希子は、早川から電話が来たことを、君子には話してないらしい。
「はい、次の日に電話しました。お蔭様で久しぶりにお話が出来ました」
「まあ、亜希子ったら、ちっとも教えてくれないんだから。……それで?」
「はい、今度逢うことになっているんですが、まだ連絡がありません」
「連絡がないということは、亜希子から連絡することになってるの?」
「はい、そういうことになっています」
「まあ、何してるんでしょうねえ、まったく。早川さんから連絡したら?」
「いえ、約束ですから、おそらく花岡さん、会社の休暇が取れないんじゃないでしょうか」
「ご存知ないの? 亜希子は会社勤めなんかしてなくってよ」
「えっ、そうですか? 知りませんでした」
「亜希子はいいとこのお嬢さんだから、お勤めなんか必要ないんです」
「そうでしたか」
「もっとも亜希子は、そんな境遇が嫌みたいですけどね。何か仕事したいっていつもこぼしてます」
「ご両親が反対なんですか?」
「そうなの。とても厳しい家庭ですからね、花岡家は」
「じゃあ、ご両親の反対で思うように出来ないのかもしれませんね」
「そうではないと思います。そのへんは賢いから。それに亜希子は、ああ見えてもね……」
「はい」
「自分が思ったことは、たとえ親が反対しても、貫き通すだけの芯の強さがあるの」
早川もレトロ列車での経緯から、なんとなくそんな気はしていた。
「そうですか。じゃあ、何か他の理由がお有りなんでしょうよ、きっと」
「何でしたら、私から言いましょうか?」
「いえ、それは花岡さんに失礼ですから」
「それもそうね。どうします?」
「はい。待ちます。そのうち連絡があると思います。……それまで待ちます」
「亜希子は、親から見合いをしろって、うるさいくらい言われてるのよ。のんびりしてていいの?」
君子は早川にもっと積極的になれと言わんばかりである。
「他の男に取られても知らないわよ」
「……でも、やっぱり待つことにします。約束は約束ですから」
「律儀な方ね早川さんって。でもそこがまた魅力なのね」
早川は君子の好意に感謝した。
「じゃね、頑張ってね!」
早川は君子との電話を切った後、何か不安がよぎった。ほんとに亜希子は連絡して来るのだろうか。いっそのこと、こちらから連絡してみようかとも思った。だが、やはり待つことにした。少なくとも、それが亜希子に対する礼儀である。
悶々としながら一週間が過ぎた。土曜日だった。洗濯物がたまっていた。洗濯をしながら部屋の掃除をした。そんなに広くない部屋である。ジャズの音が、掃除機と洗濯機の音の間に挟まれて時々しか聞こえない。
暫らくして、電話の音が小さく聞こえた。掃除機のスイッチを切った。
「はい、早川です」
「わたし、……花岡です」
早川は一瞬耳を疑った。そして鼓動が高鳴るのを覚えた。慌てて少し大きめにしていたCDのジャズの音を絞った。電話先に騒音と共に駅のアナウンスらしき音が聞こえる。
「やあ、花岡さん、おはようございます」
「今ね、東京駅にいるの」
早川はびっくりした。まさか東京に出て来ていたとは。
「えっ、東京駅ですか、東京駅の何処ですか?」
「八重洲口です。……時間取れます?」
「もちろんです。電話をお待ちしてました。今から車でそちらへ行きますから」
早川は一瞬、電車でもいいと思ったが、何かと自由に行動出来る車の方がいいと判断した。
「何処で待ってればいいかしら?」
「そうですね、……新宿まで出られませんか?」
「新宿の何処?」
「南口を出て左に曲がって暫らく歩きますと、左手にコルトレーンというジャズ喫茶があります。すぐ分ります」
行きつけの喫茶店である。早川はここで良く時間を潰した。亜希子がジャズが好きかどうかは分らない。それよりも、今は一番確実に逢える場所の方がいい。
「分りました。これからそちらに向かいます。新宿の南口ね?」
亜希子は念を押した。
「そうです。新宿の南口です。手元にメモ紙あります?」
「メモ紙? ありますけど?」
「これから、私の携帯の番号と、念のためメルアドを言いますから控えてください」
早川が個人の携帯の番号を人に教えるのは、これが初めてであった。ましてメルアドも。会社関係や同僚にも一切教えてなかった。公私混同を極端に嫌う早川の考えからであった。だから、上司である岩田課長や時々会う浅田にも教えてなかった。教えてくれと何度かせがまれたが応じなかった。当然、仕事用の携帯電話は会社にある。出社中は、もっぱら会社用の携帯電話を使用していたので不自由はなかった。
亜希子のことだから、メモしなくても記憶出来るかも知れなかった。
「はい。控えました」
「何かありましたら、この番号に連絡してください。メールでもいいです」
早川は携帯電話のありがたさを今ほど感じたことはなかった。
「新宿までは混んでなければ、三十分から四十分で行ける筈です。そのつもりでいてください」
「はい、慌てて事故起こさないようにしてくださいね。ゆっくりでいいですから。いつまでも待っていますから」
だが、早川は大いに慌てた。亜希子が来てくれた。亜希子に逢える。着替えながら、洗濯機を途中で切り、CDを切り窓を閉め玄関のドアを閉めて鍵を掛け、階段を転げるようにして駆け降りて車に乗った。途中、洗車していた同僚が挨拶したが目もくれなかった。同僚は不審そうに首を横に振った。
早川は車に乗りエンジンを掛けてから、しまったと思った。ガソリンが殆どなかった。ゲージの針が、Eのほんの少し上の方を指していた。新宿までは何とか持ちそうであるが、その先が心配である。途中で入れてもいいが、万一の事を考えて早川は、イライラしながら近くのスタンドに車を乗り付けた。燃料を入れる時間がやけに長く感じられた。
ついに亜希子に逢える。しかも二人きりで。
思えば、レトロ列車で初めて逢って以来二ヶ月近い時間の経過である。だが、何年も逢っていないような気がした。突然だったが、わざわざ長野から上京してくれた。嬉しさが猛烈にこみ上げてきた。車のスピーカーから流れるスウィングジャズが軽快なリズムを刻んでいる。
高速道路を飛ばした。制限速度をはるかにオーバーしていた。おそらく、パトカーに見つかるか鼠捕りに掛かったら免停は免れない。早川はたとえ免停になってもいいと思った。とにかく、早く亜希子の顔が見たかった。
この運命は俺のものだ。早川は心で絶叫した。
ジャズ喫茶コルトレーンには駐車場はない。早川は近くの有料駐車場に車を滑らせた。コルトレーンは地下にある。階段を駆け降り、店のドアを思い切り開けた。炸裂するジャズのビートが、ウッドベースの腹を突くような低音と共に耳に飛び込んできた。
「いらっしゃい」
顔馴染みである。早川は店員に軽く会釈して店内を見渡した。薄暗い店内はそんなに広くない。所狭しと、どでかいスピーカーやらアンプが置いてある。
早川は、最初の待ち合わせ場所としては、まずかったかなと思いながら、左手の奥の亜希子の恥じらいの笑顔を見て、ホッと胸をなでおろした。薄暗い店内の、そこだけがぱっと明るく見えた。亜希子は小さく手を振っている。亜希子のテーブルには、飲みかけのコーヒーカップが置いてあった。
「お待たせしました。すぐ分りました?」
早川は廻りに気を使いながら話しかけた。
「ええ、携帯でSOSを出さずに済みましたわ。それより突然ですみませんでした」
亜希子は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえいえ、この日を待ってました。遠い所までありがとうございます」
堅い挨拶である。
「いらっしゃいませ」
女の店員がメニューを持ってきた。その眼は早川を注視していた。早川はコーヒーを注文した。
「場所がまずかったですかね?」
「此処のこと? いいえ、素敵ですわ。早川さん良くいらっしゃるの?」
「はい。暇な時や考え事をする時は、いつも此処に来ます」
「早川さんはジャズがお好きなようね」
「はい、もう私の一部です。花岡さんはジャズは?」
「あんまり聞いたことはありません。でも、こんな所で聞くのっていいですね」
「お待たせしました」
コーヒーが置かれた。
「やあ、ありがとう」
早川は店員に笑顔で言った。
「篠ノ井にはこんなお店ありませんもの。羨ましいですわ」
早川は内心ほっとし、コーヒーを口に運んだ。味がいつもと違って思えた。
「良かった、嫌われるんじゃないかと内心心配でした」
「ふふ、安心しましたわ。早川さんが、此処でいつも瞑想にふけった姿を想像して」
亜希子の笑顔が美しかった。廻りの客がチラチラ亜希子の顔を見ていた。恐らく、この店にとっては珍客であろう事は確かである。
「東京には良くいらっしゃるんですか?」
「ええ、父の仕事の関係で、良く付き合わされるんです」
「どんなお仕事なんですか? お父さんは」
「貿易関係の仕事です」
「そうですか。貿易関係ですと、良く海外にもいらっしゃるんでしょう?」
「父は良く行きます。私も父に同行して三回ほど行きました」
ジャズの音が静かな曲に変わった。テナーサックスがドラムとベースのリズムに乗って、咽び泣くように切々と歌い上げる。
亜希子と早川の間に暫らく沈黙があった。もはや、二人には言葉はいらなかった。
亜希子のやさしい目が話しかけている。その目は潤んでいるように見えた。何か訴えているような目付きである。再会出来た喜びが身体中に満ちていた。
早川もまた同じであった。ムーディーなこの曲が永遠に奏で続けてくれることを祈った。
レトロ列車での出来事が思い出され、奇跡に近い再会が現実になって、早川の胸は溢れんばかりの喜びと、亜希子に対し運命的な何かを感じていた。レトロ列車での出会いから今日まで、たった二ヶ月近くしか経っていない。だが二人にとってそれは、長い長い年月を経て再会できたかのような思いであった。運命が時間を拒否したのだ。情念が時間を支配したのだ。
早川は抑えていた気持ちが今にも爆発しそうで怖かった。亜希子は早川の目を見続けていた。今にも泣き出しそうな目である。美しいその顔がさらに美しく見えて、早川は亜希子が愛おしく思えてならなかった。
早川は小さなテーブルの上に置いてある二つのコーヒーカップを横にずらした。待っていたかのように、亜希子の両手がすーっとテーブルの上に伸びてきた。胸の鼓動が早くなった。早川はその手に自分の手をそっと重ねた。亜希子の柔らかな手から、暖かい血流が自分の体内に注ぎ込まれる感じがした。亜希子の顔に赤味が増し、恥ずかしそうにして早川を見つめていた。早川は少し力を入れて亜希子の手を包んだ。少し震えているように感じた。亜希子がぐっと握り返してきた。
二人はテーブルに両肘をつき、握り合った手を口元に持ってきて見つめ合った。二人の胸の鼓動が張り裂けそうに激しく揺れた。亜希子の目から一滴の涙が光って落ちた。
曲が変わった。ピアノがドラムと掛け合いを始めた。ベースがリズムを刻む。テイクファイブは早川の好きな曲の一つである。
早川はポケットからハンカチを取り出し亜希子に渡した。亜希子は嬉しそうにハンカチを受けとってそっと涙を拭いた。
「ありがとう。……ごめんなさい」
亜希子は小さな声で早川に言った。そのいじらしい仕草に、早川は亜希子に対する愛おしさがぐっと胸に迫ってきた。
「出ましょうか?」
二人は席を立った。
「外で待っててください」
早川は亜希子がコーヒー代を払おうとするのを制して言った。ドア近くのレジで、マスターがニヤニヤしながら早川の顔を見た。
「これっ」
マスターは小指を立てた。早川はこれまで、この店に来る時はいつも一人だった。
「そんなんじゃないですよ」
早川は照れながら言った。
「すごく綺麗な人ですね」
マスターの言葉に早川は嬉しくなった。
「じゃあ、また」
「いつもありがとうございます。またご一緒にどうぞ」
マスターの冷やかしを背中で聞きながら、早川は出口のドアを開けた。この時、コーヒーを運んでくれた女子店員の、悲しそうな顔を早川は知る由もなかった。
地下の薄暗い場所から外に出た。秋一杯の青空が眩しかった。
「ドライブしましょうか?」
早川は駐車場に向かいながら亜希子に言った。
「ええ……」
亜希子は、はにかみながら嬉しそうに小さく頷いた。
「あ、もし良かったら、先ほど教えた番号に電話してみてくれませんか? 弘法も筆の誤りってこともありますから」
「あら、私が、もしかしたらメモを書き違えているかも、って言いたげですよ」
「あはは、だって私も大いに慌てていましたから、間違った番号を言ったかもしれませんからね」
亜希子はメモを見ながら番号をプッシュした。
「はい、じゃあ、いいですか? いきますよ、……エイッ」
早川の携帯からメロディーが聞こえた。
「おおー、間違ってなかったみたいですね」
「ふふ、……あら、それ何の曲?」
「カリフォルニア・シャワー」
「なんだかいい曲ね。タイトルもロマンチックね」
「でしょう? もう古いですけど、世界中で大ヒットした曲ですよ。ナベサダの曲です」
「ナベサダ? すき焼き鍋でサラダを煮てるみたい」
「あはは、渡辺貞夫さんといって、ジャズ界では、世界的に有名なサックス奏者ですよ。私の好きなジャズマンの一人です」
「そうなの? ……私も取り込もうかしら」
早川は亜希子の携帯の番号を登録した。
「これで、いつでも好きな時に連絡出来ますね。……嬉しいなあ」
早川は満面の笑みを亜希子に向けた。
「こんなの初めての感じなんですけど……」
「はい?」
「お互いの携帯番号を登録するって、まるで恋人同士が同棲してる感じですね」
「えっ、同棲?」
「ええ、だって……友達と登録し合う感じと全然違うんですもの」
亜希子の頬に、心なしか幾分赤みがさしていた。
「なるほど、うんうん、ですね。……うんうん」
早川は二度頷いた。
早川は国道二十号の甲州街道を、西に向けて車をゆっくり走らせた。スピーカーから流れるジャズの音が小さく聞こえていた。
「別な曲にしましょうか? どんな曲が好きなんですか?」
「何だかとってもいい曲ね、このままでいいです」
亜希子は助手席に身を深く沈め、早川の目を見て言った。先ほどの喫茶店での余韻が残っている様子だった。暫らく沈黙が続いた。早川は車を走らせながら、左手で亜希子の手を引き寄せた。そして、目と目が見詰め合ったまま、暫らく離れなかった。亜希子の顔に再び赤味が増し、ウットリとした仕草をした。
「ふふっ、安全運転でね」
亜希子は無邪気に笑った。早川の勤務している会社が左手に見えてきた。だが、早川は何も言わなかった。早川はスピーカーの音量を少し上げた。急なことで何処に行くあてもない。
「何処か行きたい所あります?」
「いいえ、何処でもいいです。お任せします」
時間はたっぷりある。
突然、亜希子の携帯が鳴った。ディスプレイに家の電話とあった。早川は慌てて亜希子から手を離し、スピーカーの音量を小さくした。亜希子は、早川の横顔をチラッと見て携帯を左耳に当てた。
「はい、あきこです」
「あきこ? わたし」
「あら、お母さん。どうしたの?」
母親からの電話らしい。
「急に出ていったから心配で、……今何処なの?」
「嫌だあ、お母さんたら、亜希子はもう子供じゃなくってよ。心配しないで」
「何処にいるの?」
「東京よ。東京のお友達の所」
亜希子は嘘をついた。東京には、これと言った友達はいなかった。
「そう、で、いつ帰ってくるの?」
「そうねえ、もう帰らないかもよ」
亜希子は、にこにこし肩をすくめながら早川を見た。
「まあ、なんてことを言うの。お父様が聞いたら大変よ」
「冗談よっ。二、三日したら帰るから、それに今、お父さんバンクーバーでしょう?」
「そう、だから余計に心配なのよ。……怒られるの母さんだからね」
「はいはい、二、三日したら帰るから心配しないで。……じゃあ切るね」
「ちょっと待って、……真理子に代わるから」
「……」
「あら、まりこ、……なーに」
亜希子は送話口を右手で押さえながら、小さな声で「いもうと」と早川に告げた。亜希子には真理子という妹がいたらしい。
「お姉さん、遠藤さんからさっき電話あったわよ」
亜希子は、妹には東京に行くと言っておいた。
「君子から? 何か言ってた?」
「うん、今度同窓会があるから、その件だって」
「そう、その他には? 何も言ってなかった?」
「うん、それだけ、また電話するって」
「君ちゃん、私が何処に行ったのか聞かなかった?」
「ううん、で、お姉さんいつ帰るの?」
「さあ、いつになるのかしらねえ」
亜希子は、早川の眼を見ながら意地悪そうに話した。早川は、膝の上の亜希子の右手を、左手でそっと握り締めた。亜希子も早川の手を握り返した。
「お姉さん、もしかしたら、好きな人出来たんじゃない?」
「お母さん傍にいるの?」
「いたらこんな話しないわよ」
「さすが私の妹ね。だけど、どうしてそういう風に思うの?」
「だって、お姉さん、博多から帰ってから、様子がおかしいんだもん。女の感でそう思ったの」
「ふふ、真理子にそういう風に思われるようじゃ、お姉さんも修行が足りないわね」
「えっ、ということは、いい人出来たってこと?」
「想像にお任せするわ」
「もー、お姉さんたら意地悪なんだから。何でも話するって約束じゃない」
「そのうちゆっくり話すから、今はまだ言えないの。お父さんとお母さんには内緒だからね」
「私にほんとのこと言わなかったら言っちゃうから」
「はいはい。もう少し待って。ちゃんと話すから、……ねっ」
「うん、分った。こっちのことは心配しないでいいから、ゆっくり楽しんできて」
「ありがとう。恩にきるわ」
亜希子は携帯をバッグにしまい込んだ。
「ごめんなさい。長話しちゃって」
「お姉さん思いのいい妹さんですね」
「姉妹二人だけですから何でも話すんです」
「そうですか。羨ましいですね」
「早川さん、ご兄弟は?」
「歳の離れた姉と、四つ違いの弟がいます」
「一姫二太郎ね」
「そういうことになりますね」
国道二十号の上部は首都高速になっている。早川はその大きな柱脚を右手に見ながら、国道をゆっくりと西へ西へ走った。やがて国道二十号を高井戸に入り車を中央自動車道に乗せた。都心からは少しずつ遠ざかり車の量も少なくなってきた。多摩川、府中を過ぎ八王子インターで降りた。
「食事にしましょうか?」
早川は八王子には仕事で良く来ていて、地形に明るかった。
「花岡さんは好き嫌いあります?」
「いいえ、何でも頂きます」
亜希子の料理上手は、レトロ列車の中で君子から聞いている。亜希子が差し出してくれたあの手弁当の味がまだ忘れられない。
少しくねくねした坂を登ると、うっそうとした緑に囲まれた、和風の一軒家が見えてきた。早川は、車を砂利敷きの広い庭園をゆっくり進め、大きな木の下の木陰に停車させた。
「ここは、建設現場が近くにあった関係で以前よく来た所です。味はお奨めですよ」
二人は車を降り玄関までゆっくり歩いた。
「それに、景色もとてもいい所です。今日は天気もいいし、きっと、紅葉が綺麗に見えると思いますよ」
亜希子の今の境遇からすれば、多くの名所旧跡は飽きるほど見てる筈であるし、料理にしても同じであろう。それだけに早川は、亜希子がこの場所を気に入ってくれれば良いがと内心心配していた。
二人は玄関ののれんをくぐり、凝ったガラス戸を開けて中に入った。
「いらっしゃい。……いやー、早川さんじゃありませんか。……これはまたお珍しい」
五十歳前後と思われる店の主人が、両手を前で合わせ、にこにこしながら丁重に頭を下げた。
「こんにちは。ご無沙汰しております」
「また、この辺りでお仕事ですか?」
「いや、今日はちょっと……」
主人は、早川の後ろで微笑んでいる亜希子を見て、丁重に頭を下げた。亜希子も深々と頭を下げた。
「おや、いつの間に、……ご結婚を?」
早川は慌てたが、亜希子は口に手を当てて笑っていた。満更でもなさそうな顔をしていた。
「違いますよ、まだそこまでは……」
照れながら早川は苦笑いした。
「そうですか。でも、よくぞ忘れずにいらしてくださいました」
店主はいかにも嬉しそうな顔である。
「今日はゆっくり出来るんでしょう?」
「はい、……まあ」
早川は亜希子の顔を見て言った。亜希子も嬉しそうに頷いた。
「久しぶりに、腕がムズムズしてきました。何かご注文あります?」
「いえ、お任せします」
二人は奥の八畳間に通された。数奇屋風の造りである。
「少しお待ちください。ごゆっくりどうぞ」
案内がテーブルの上にお茶を置き、畳の上に両膝をつき、丁重に頭を下げて襖を閉めた。亜希子は部屋の障子を開け広縁に出た。
「まあ、きれい」
眼下に広がる紅葉の海が、秋晴れの日差しに照らされ、そよそよとした爽やかな風を受けながら、鮮やかな彩りを見せていた。
早川も縁に出て亜希子の右横に立ち、久しぶりに見る絶景に見とれていた。
紅葉の海に向かってせり出された広縁はL型になっていて、その視界はパノラマのような広がりである。まさに美しさの極みを取り入れた設計である。早川と亜希子だけが、この美しく広大な自然の中を遊泳しているような錯覚さえ覚えた。
早川は景色の美しさに見とれている亜希子の横顔を見て美しいと思った。眼下に広がる景色の美しさより、亜希子の美しさの方が遥かに優っている。ふと、新宿のジャズ喫茶で、亜希子が流した一滴の涙の事が脳裏に浮かんだ。
早川は胸の奥底から、抑えようもない突き上げるような衝動を感じた。左側に立っている亜希子の手に触れ、少し身体を亜希子の方に寄せた。亜希子も早川の方に向き直り、二人は真正面を向く形になった。早川は亜希子の両手を外側からそっと包み込み、胸のあたりまで持ち上げた。亜希子はじっと早川の眼を見ていた。少し紅潮しているようであった。二人に言葉はなかった。早川は手を離し亜希子の両肩に手を置いた。亜希子は予期していたようであった。顔をやや上に傾け目を閉じた。早川は亜希子の燃えるような唇にそっと手を触れてみた。柔らかい。亜希子の身体中の温かい情熱が凝縮してるようであった。亜希子の身体が一瞬震えたように感じた。
「いいの?」
早川は小さな声でささやいた。
「……」
亜希子は目を閉じたまま頷いた。早川は亜希子の額にそっとキスした。亜希子の甘くて爽やかな香りが早川を包んだ。亜希子は恥ずかしそうにしてうす目を開けたが、すぐまた閉じた。美しく可憐な顔が一段と美しく見えた。白く透き通るような美しさである。早川は亜希子の唇に唇をそっと重ねた。動悸が早くなるのを感じた。唇が溶けて行くような感じがした。亜希子が両手を早川の腰に廻してきて引き寄せた。早川は亜希子を思いきり抱きしめた。亜希子が小さく声を発した。
「好きになりました。……たまらなく好きなんです」
「私も……好きです。……好きなの」
亜希子は早川の胸に顔を埋めしがみついてきた。早川はもう一度亜希子を強く抱きしめキスした。
時間的には短いが、博多で別れてからの、早川に対する辛く切ない思いが日増しに強くなる自分を、亜希子は抑えることが出来ないでいた。どうして、こういう気持ちになったのかも整理出来ないでいた。ただ、早川を思い出す度に、身体中のあちこちに火がついたように燃える自分を持て余していたのである。
レトロ列車での、あの運命的な出会いと再会を経て、亜希子の早川に対する深い思いが今まさに現実となった。亜希子はこの時、自分の全てを早川に任せようと決心した。自分の気持ちに正直になろうと思った。自分の気持ちに従順になろうと思った。
「早川さんのこと、サトルさんと呼んでもいいですか?」
亜希子は、恥ずかしそうにして聞いてきた。
「はい、その方が嬉しいです」
「ねえ、アキコと言って」
亜希子は、とろけるような目つきである。
「……アキコ、……」
二人は身体を離してお互いを見つめ合った。早川は亜希子の目の中に赤々と激しく燃える炎を見た。亜希子は顔を紅潮させ再び早川の胸に倒れ掛かるように寄りかかった。
「失礼します」
襖の向こうで店主の声がした。二人は大いに慌てた。咄嗟に身体を離し、乱れた髪を整えた。何でもなかったような顔をするには時間がなさ過ぎる。
「はい、どうぞ」
早川はとりあえず返事した。そして、襖の方に小走りに歩き戸を開けた。
「お待たせ致しました」
店主が立っていた。その横に料理がワゴン一杯に載せられていた。亜希子は景色を眺めている振りをした。
「素敵な景色ですね」
亜希子は何事もなかったかのように、広縁からタタミの間に笑顔で入って来た。
「この部屋からの景色が、一番美しく見えるんですよ」
店主は嬉しそうな顔をして、料理をテーブルに並べ始めた。
「お口に合うかどうか分りませんが、どうぞごゆっくりお召し上がりください」
店主は両手をタタミに置き丁重に頭を下げた。
「何かご用の時はお呼びください。……では失礼します。……ごゆっくりどうぞ」
店主が去った後二人は、顔を見合わせて苦笑した。亜希子が、危なかったねと言わんばかりの顔をした。そして、クスクス笑った。突っ立っている早川の手を取り、床の間側に座るように促した。早川の座った位置からは景色が良く見える。
テーブルを挟み、二人は向かい合って座った。山菜の鍋料理に火がついている。山の中腹はもう肌寒い。グツグツと煮える鍋を見ながら、亜希子はウキウキした気分になっていた。生まれて初めて体験する恋であった。
まだ動悸が収まらない。時折、上目使いに早川を見ながら具が煮えるのを待った。
早川も同じ思いであった。こんなに身体中が燃えるなんて。美しい顔を見つめながら、亜希子の虜になっていく自分を感じた。
二人とも無口だった。先ほどの余韻がまだ残っている。あの時店主が現れなければ、ずーっと抱き合っていたに違いない。
早川がテーブルの右側に座布団と身体をずらしながら口を開いた。
「あきこ、こっちにおいで、景色を見ながら食事出来るよ」
早川の言葉が、恋人同士の言葉使いに変った。それが嬉しかったのか、亜希子の顔がポッと赤くなった。そして、敷いてあった座布団を持ち早川の傍に廻った。開け放たれた障子の向こうの広縁を通して見える景色が、二人には終生忘れ得ぬ想い出となった。木立を通して漏れた秋の太陽の光が、広縁に揺れて落ちている。
「どう? ここの味」
早川が言った。
「とても美味しいわ。こんな美味しいの初めてだわ」
早川はホッとした。
「そう、良かった。亜希子の口に合うか、ちょっと心配だったんだ」
「悟さん、山菜料理好きなの?」
「うん、ここに来る時は、たいがい山菜料理だね。気に入ってるんだよこの味が」
「店主も分ってるみたいね、悟さんの好みが」
「よく来たからねえ此処には。何故かホッとするんだよね、此処って」
「分るわ、とっても良い所ね。また来たいわ」
「うん、また一緒に来れるといいね」
亜希子はこっくり頷いて、早川の方に身をずらしてきた。
「ところで悟さん明日もお休みでしょ?」
「そう、明日は日曜日だしね。どうして?」
「ううん、月曜日は?」
「うん、出社だよ。……ところでこちらには、いつまで居れるの?」
「ええ、母が心配するから、火曜日には帰ろうかと思うの」
「そうか、泊まる所はもう予約してあるの?」
「いいえ、まだよ」
「火曜日までこちらに居るんだね」
早川は確認した。
「ええ、そのつもりです」
早川は胸のポケットから携帯電話を取り出した。亜希子は、早川がホテルの予約をしてくれるものだと思った。
「もしもし、岩田さんのお宅でしょうか?」
亜希子の予想は外れた。
「はい、そうですが」
岩田課長の奥さんが出た。
「同じ課の早川悟と申しますが……」
「まあ、早川さん、いつも主人から伺ってます」
「あのー、お休みのところ申し訳ありません。課長いらっしゃいますか?」
「ええ、おります。……ちょっと待っていただけます?」
「はい」
早川は亜希子を見て人差し指を口の前で立てた。思ったことを直ぐに行動に移す早川を、亜希子は男らしく頼もしく思った。
「あ、課長、早川です」
「おォー、どうした、珍しいね電話くれるなんて」
「はい、ちょっとお願いがありまして、今いいですか?」
「いいよ。何だい?」
「はい。今度の月曜日と火曜日なんですが」
「うん」
「会社を休みたいんですが」
亜希子の顔がパッと弾んで明るくなった。そして早川の左腕に手を入れ寄りかかってきた。
「どうしたんだ、何か用事でも出来たのか?」
「いえ、たいした事はないんですが、この間の長期休暇に」
「うん」
「予定してたことがあったんですが、例のお呼び出しで、まだ実現してないんです」
早川は嘘をついた。いわゆる、ずる休みを要求しているのである。
「そうか、あの時はすまないことをしたからなあ、早川君には」
「水曜日には出社出来ると思いますので、……宜しいでしょうか?」
岩田は先日、食事をしながら早川に頼み事をした。早川の後任の候補者の推薦の件である。当分先とはいえ、ここで早川の機嫌を損ないたくなかった。
「コンペの準備や作業で、これから先益々忙しくなることだし、ま、いいだろう。ゆっくり休んでくれ」
「ありがとうございます。何かありましたら携帯に電話してください」
この際止むを得なかった。早川は岩田課長に携帯電話の番号を教えることになっってしまった。
「分った」
「嬉しい、ずーっと傍にいて下さるのね?」
亜希子は、如何にも嬉しそうに早川の顔を見て言った。
「うん、亜希子を一人ぼっちにさせとく訳にはいかないからね」
「ねえ、……キスしてっ」
亜希子は食事がまだ終わっていない。鍋はグツグツと音を立て煮えたぎっていた。
「食事はもういいの?」
「ううん、まだよ。……その前にキスして」
亜希子は完全に早川に甘えている。
「あきこ、好きだよ。いつまでも僕の傍にいてくれるね」
亜希子は呼吸が乱れていた。
「ほんと? うれしい、……悟さんスキッ」
亜希子が激しく早川に抱きついてきた。
「さっ、早く食事しないと店の人が来るよ」
早川は亜希子から身体を離しながら促した。
二人は店主に丁重にお礼を述べた。
「早川さん、またいらしてくださいね。お待ちしています」
店主は手土産を用意し早川に渡した
「いつもすみません。遠慮なく頂きます」
早川は店主の好意に感謝した。店主は幾分寂しそうな顔をしていた。
「今度来られる時はお子さんも一緒に連れて来てください」
店主は経験上、二人の関係についておおよその察しはついていた。
「そうなるといいんですが、その時は宜しくお願い致します」
早川は照れながら頭を下げた。店主の顔には、若い二人を見守るような温かい笑顔があった。二人は表に出て深々と頭を下げた。そして、店主と従業員達に見送られながら車に乗った。
早川は亜希子ともう一度ここに来たいと思った。恐らくは、この場所での出来事は、生涯忘れられないだろうと思った。亜希子は店主達が見えなくなるまでいつまでも手を振っていた。
夕暮れまでにはまだ少し時間が掛かりそうである
「どうする? 疲れてない?」
早川は亜希子を心配した。長野から上京して、長時間車に揺られてここに来た。慣れない場所で初めてのことの連続だし、きっと神経をすり減らしているのではと早川は思った。
「ううん、逆よ。何だかとっても元気が出てきたわ。これでも健康には自信があるの」
「それならいいけど。疲れたら遠慮なく言ってよ。身体に悪いからね」
「はい、言うわ。ありがとう。これから何処へ行くの?」
「秋川渓谷、行ったことある?」
「ないわ、どんな所?」
「うん、夏に良く行ってたんだけど、今の季節はどうかなあ」
「景色の綺麗な所?」
「うん、だね。せせらぎって言うか、きれいな川があって川べりを散歩出来る」
「そう、行って見たいわ。連れてって」
「分った。そこで暫らく時間潰すか」
亜希子は微笑みながら頷いた。秋川渓谷まではそんなに時間は掛からなかった。二人は手を取り合って、渓谷の川べりに降り岩の上に腰を下ろした。川のせせらぎが、かすかな音を立てて流れていた。此処の紅葉は、もう少し経ってからが見頃かもしれない。夏には結構な人で賑わうこの場所も今は誰もいなかった。
「静かね。空気が美味しい」
時折ひんやりした空気が、二人の顔を撫でて通りすぎた。心地良かった。時々知らない鳥たちが、木々の間を行き来しさえずっている。
早川は亜希子の肩に手を廻した。亜希子が身を寄せて来て、早川の胸に頭をもたれ掛けた。髪の香りが早川を刺激した。暫らく二人は無言のまま目の前の情景をじっと見ていた。
亜希子は早川とのこれからを考えていた。
厳しい家庭に育った亜希子は、自らの意思で歩もうとしている自分と、父や母の厳しい顔とをダブらせていた。これからどうなるか分らないが、自分はもう一人じゃない。早川という心強い味方がいる。妹の真理子も賛成してくれる筈である。父や母はなんと言うだろう。親に反抗する自分に激怒するだろう。
古い考えの父親は、特に亜希子の意見を聞こうとしなかった。一方的に自分の考えを押しつける父親に、亜希子はどうすることも出来ないでいた。後継ぎの居ない父親は、時々養子縁組の話をしていた。亜希子にその思いを実現して欲しいと思っていた。だが、亜希子はそんな自分の人生を好まなかった。再三、見合いの話を持ちかけられたが、その度に亜希子は応じなかった。
父との感情的なしこりが次第に大きくなり、亜希子には辛い毎日であった。妹の真理子にその役を担って貰うには、余りに真理子がふびんに思われてならなかった。亜希子はそのことが頭から離れず悩み続けていた。
いずれ、早川を交えた父との壮絶な戦いが起こるかもしれないと思った。しかし、早川にそんなことは絶対させたくない。早川の為にも、自分が何とかしなければと思っていた。だが、父親に対しほとんど無力な自分を、情けないと思っていた。そのことが悔しくて仕方がなかった。
少しずつ夕暮れ近くになり、辺りが薄暗くなってきて一段とひんやりしてきた。
「寒くない?」
早川は亜希子をいたわった。
「ううん、大丈夫。このままじっとしていたいわ」
「うん」
早川は念の為用意しておいた薄いジャンバーを、亜希子の肩にかけた。亜希子は、両手を早川の腰に廻してきて早川の顔を見上げた。何か訴えるような目である。早川は心配して尋ねた。
「どうしたの? 何か考え事でもあるの?」
「ううん、何でもない。……何でもないの」
亜希子は両腕に力を入れ、早川にしがみついてきた。
早川は君子から、亜希子の境遇についてはあらかた聞いていた。世間から見たら裕福で幸せそうな家庭の境遇でも、一人の人間として、一人の女としての生き方を考えると、これまでに人に言えない、いろいろな悩みや苦しみがあったろうことは容易に想像がつく。
家族であるというだけで、亜希子という一人の人間の個性や生き方に、制約があったとしたらそれはもう暴力に等しい。
早川はある決意をしていた。亜希子の悩みや苦しみの全てを、何処までも背負い続けて行こうと。この愛すべき亜希子を、どんなことがあろうとも、何処までも守り続けて行こうと。
「帰ろうか?」
「ううん、もう少し居て」
亜希子は首を左右に振った。早川は亜希子が愛しくてならなかった。
「心配事があるんだったら、話してくれないかな」
「何にもなくってよ。亜希子はね、今幸せなの」
「隠さなくても顔に書いてあるよ」
「もし、心配事が出来たら、いずれ相談するわ」
「そうしてくれると嬉しいね。自分だけ背負ってちゃダメだからね」
亜希子は早川の優しさに泣きそうになった。早川が自分を大きく包み込み受け入れてくれることに、かってない喜びと幸せを感じていた。
これから、この人と一緒に歩きたい。どんなことが身に降りかかっても、一生この人と離れたくない。その為にも、自分はもっともっとしっかりしなくてはと思った。亜希子は、張り裂けそうなそんな思いを、渓谷に向かって叫びたい心境であった。
「ごめんね、もういいわ帰りましょ」
亜希子は、早川の腰に廻していた手を解き立ち上がろうとした。
「亜希子いいね、これからは僕が傍にいることを忘れないでな」
亜希子は早川の言葉に、せきを切ったように泣き崩れた。早川は亜希子を抱き締め、
「心配しないでいいから。亜希子はもう一人じゃないよ。僕が守って見せるから」
「……」
亜希子は感詰まって言葉にならなかった。溢れる涙が早川の膝に滴り落ちた。早川はハンカチを取りだし、涙でぐしゃぐしゃになった亜希子の顔を拭いた。
「ほら、ほら、せっかくの美貌が台なしだよ」
「ごめんね、……こんな泣き虫で」
亜希子は、少し泣き笑いしながら早川を見た。
生まれて初めて、心から泣いたような気がした。自分では芯の強い女と思っていた。だが、こうして早川の前にいる自分は、なんて弱い女なんだろうと思った。
早川は亜希子を抱き寄せ軽くキスした
「しょっぱかった?」
亜希子は涙をハンカチで拭きながら笑って言った。いつもの亜希子に戻ったようである。早川はホッとした。
「うん。ちょっとね」
ふたりはクスクス笑った。
「亜希子、俺の顔を良く見て」
早川は自分のことを僕と言わずに俺といった。その方がより男らしいし、亜希子も頼もしいと思ってくれるのではないかと、およそ馬鹿らしい意味のない考えに、自分ながら呆れてしまったが、言い心地は悪くない。
「あら、何だかいい感じよ」
「えっ、何が?」
「だって、俺って」
「あは、そうか。……いい感じだった?」
「ええ、俺の方が、何だか男らしくって頼もしい響きね。僕って、お坊ちゃまって感じもするわね」
「おっと、そうか。お坊ちゃまかあ、一度も言われたことないから、……じゃあ、やっぱり僕にするかなあ」
「ふふ、悟お坊ちゃま? やっぱり似合わないわよ。俺の方が、……頼もしく思えて、私は好きだわ」
「あは、そっか。やっぱりな、じゃあ、これからそうするかな、キミ」
「私は、キミじゃなくて、亜希子とかアキと呼ばれた方が嬉しいわ」
「分りました、亜希子お嬢ちゃま?」
「ふふ、止めて、くすぐったい。……で、俺の顔を良く見て、ってなーに?」
亜希子は悟の顔をしげしげと見た。
「俺の顔に何か書いてある?」
「えっ、何かって? ……そうね、イケメンて書いてある」
「あは、それはない。……他には?」
「そうね、……ふふ、俺はお前が好きだよ、って書いてあるわ」
「あは、……ピンポーン」
秋の夕暮れはつるべ落し。急速に辺りが暗くなって行く。二人は急いで車に戻った。
「都心に戻ろうか?」
早川は早く亜希子をゆったりさせたかった。
「悟さんとなら何処でもいいわ。でも、せっかく来たから、何処かこの辺でゆっくりしない?」
亜希子は、早く悟とゆっくりくつろぎたいと思っていた。そして、いろいろ話したかった。
早川は実は、亜希子を都内のホテルまで送り、明日の朝改めて出直してくるつもりでいた。いくらなんでも、最初のデートで、夜を共にするのは亜希子に対して悪いと思って気が引けた。かといって、見も知らぬ場所に、亜希子一人を残して去るのも却って心配である。
亜希子の気持ちが分って、早川は決心がついた。社宅に帰ってもイライラするばかりである。
「そうだね、都心には明日戻ればいいか。そうと決まれば、宿を探そうか」
二人は車を走らせながら宿泊場所を探した。暫らくして八王子駅の近くに洒落たホテルがあった。
「ちょっと待ってて、空いてるかどうか聞いてくるから」
「ええ、待ってるわ」
「部屋は別々にとるからね。その方がいいよね?」
早川は亜希子の気持ちを察して、今夜はやはり、別々の部屋で泊まることにしようと思った。最初のデートで、一つの部屋で夜を共にするのはさすがに気が引けた。
「……ええ、お任せします」
早川は車を止めホテルに入っていった。
実はこのホテルは、早川の設計によるものだった。
完成した当初は、その斬新な設計が話題になった。早川はこのホテルの設計で、一躍注目を浴びるようになった経緯がある。当然、早川はこのホテルのレイアウトについて、全てを知り尽くしていた。
亜希子は今夜のことを考えていた。
早川と今夜を共にすることに、多少の躊躇がない訳ではなかった。しかし一方、今ではもう、他人ではないような気持ちにもなっていた。むしろ、二人だけの夜を大事にしたい気持ちで一杯だった。早川の心遣いが、亜希子にはとても新鮮で、今まで味わったことのない、何とも言えない優しさを感じていた。
この人となら、自分の一生を捧げてもいいのでは、という思いが次第に心を支配していた。だから、成行き上、ベッドを共にすることになっても、喜んで受け入れようと思うようになっていた。
再会してから今まで、そんなに時間が経っている訳ではない。レトロ列車での時間も、君子がそばに居た訳で、二人きりではなかった。にもかかわらず、こんなに急速に早川のことを好きになり、一時も離れたくない気持になっている自分が居たなんて、考えられないことであった。
しかし、もし、あのレトロ列車での出会いがなければ、しかも、あの警察官の取調べがなければ、早川と再会することはなかった筈である。亜希子には、それが運命的な出会いとしか考えられなかった。
それに、亜希子にとって早川は、時間を共にすればするほど、むしろ、自分の思っていた以上の魅力ある男性であった。早川も自分を好いてくれている。好きな人の前で、心から泣ける自分を幸せだと思った。
間もなく、早川がニコニコしながら、右手の親指と人差し指で輪を作って、知らせに戻った。
「ふふ、良かったね」
「うん。ついてるね」
「そうよね。今観光シーズンなのに、よく空いてたわね」
「普段の行いがいいからじゃないかな」
早川は亜希子の顔を見ながら嬉しそうに言った。
「誰の?」
「もちろん、二人のさ」
「ふふっ、そうね」
車をホテルの駐車場に停車させ、二人はそれぞれフロントでチェックインした。早川が八一七号室で亜希子が八〇八号室だった。
早川は亜希子のバッグを右手に持った。空いている早川の左手に、亜希子は右手をすっと差し込んだ。八階までのエレベーターの中は二人きりだった。亜希子は、つかまった早川の左手を強く握りしめ身体を密着してきた。途中、他の乗客が乗り込んでくる心配がなければ、キスをして欲しい気分だった。
八一七号室に行く途中、早川は四階のコインルームで洗面道具を買った。なにしろ、亜希子から電話があって、慌てて社宅を飛び出したのである。ほとんど着の身着のままの状態であった。まさか、最初の日から、亜希子と一緒にホテルに泊まるなんて、思いもよらないことであった。
八〇八号室の前に来て、早川は手に持っていたバッグを亜希子に渡した。
「後で食事でもしようよ。携帯するから」
「はい。じゃね」
亜希子は、早川の目を見ながらほほ笑んだ。そして、お腹の前に両手でバッグを持ち、部屋のドアの前に立ち、早川の後姿を目で追った。
新宿のジャズ喫茶であって以来ずっと一緒だった。いつも早川が傍にいてくれた。早川の後姿を目で追いながら、言いようもない淋しさを感じた。
早川は八一七号室の前に来て、今来た廊下を振り返った。亜希子が立っているのが見えた。亜希子が手を振っていた。早川も軽く手を上げて、部屋のドアを開けて中に入った。
それを確認して、亜希子も部屋のドアを開けて中に入って驚いた。壁に向かって右側にセミダブルのベッド、左側にシングルベッド、その間に机があり、窓辺には、二人掛け用の、ゆったりしたソファとテーブルが置いてあった。やや大きめの机にはスタンドとテレビが置いてある。かなり広い部屋だった。亜希子は直感的に、この部屋しか空いてなかったのだと思った。
ベッドに腰を掛けた途端、猛烈な淋しさが襲ってきた。衝動的に携帯を手にして、番号をプッシュしようとして思い留まった。
洗面所に飛び込み、洗面台のカウンターに両手をつき、前かがみになって顔を鏡に映した。泣き虫の顔がそこにあった。車の中で手鏡を見ながら、薄化粧の顔に少しは手を入れたが、こんな顔で、……ああ、亜希子は情けない顔になった。暫らく鏡に映った我が顔をじっと見つめていた。
早川は部屋に入り、洗面所で顔を洗った。そして、窓辺の椅子に腰を掛けた。部屋はシングルベッドが置かれていたが、よくあるビジネスホテルのあの狭さではない。程よくコーディネートされた、少しゆとりのある空間であった。
早川には、これからのホテルはこうあるべきだという持論があった。その持論が、時間の流れと共に、高い評価を受けるようになってきたのである。バブルがはじけて久しいが、今でも、早川の主張は、見事なまでに時代が受け入れてくれたのである。当然、お客の人気も高まりホテルの業績も順調そのものであった。
インテリアは浅田香織が手がけた。女性らしい細かい配慮がなされている。早川はインテリアについてはことのほかうるさかった。その為、香織と再三にわたって衝突した経緯がある。
人気のこのホテルに、急に宿泊することになった。折しも秋の観光シーズン。空いてる部屋を期待するのは無理な話である。幸いにも、支配人の計らいで、からくもこの部屋と亜希子の部屋を手配してくれた。それだけでも感謝しなければと思った。
思わぬ出費で、少々懐具合が寒くはなったが、亜希子のことを思えば、そんな犠牲も止むを得ないことだった。いやむしろ、思わぬハプニングとはなったが、亜希子とこうして宿泊でき、一緒に行動出来ることに無上の喜びを感ずるのであった。
後で亜希子と食事に行くことになっているが、どういう訳か、やや落ち着かない気分である。テレビの横のテーブルに置いてあった夕刊を開き目を通した。通したというより、視線を紙面の上で泳がせたといった方が正しい。脳には全く伝わっていない。
暫らくして、携帯からカリフォルニア・シャワーが流れてきた。おやっ? と思いながら携帯を見た。ディスプレイには番号だけが表示されていた。今日は土曜日。登録外の電話である。おそらく間違い電話だ。早川はそう思いながら携帯を耳に当てた。
「はい、早川ですが」
「休みのところすまんな、岩田だ」
おいおい、だから言わんこっちゃない。番号を教えるとこうなるのだ。早川はうんざりした。
「あ、課長どうしたんですか?」
「うん、今度君が出社した時でもいいと思ったんだが」
だったらそうすればいいじゃないですか。ったくもう。
「せっかく番号を教えてくれたから、悪いと思ったんだけどな」
ちっとも悪いなんて思ってもいないくせに、
「この前頼んでおいた、君の後継者の候補者の件だけど、いつ教えてくれるか、それが気になってな」
もう、やだなあ。勘弁してよ。公私混同も甚だしい。バカヤローと叫びたかった。
「課長、後継者は課長の思うような、満足する結果を出してくれる社員でないといけないでしょう?」
早川は穏やかに話した。
「ま、それはそうだよな」
「私としても、いい加減に課長に推薦する訳にもいきませんから、ここはじっくり考えたいのです」
「なるほどね、ごもっともだね。いやあ、ありがたいことだね」
「ですから、課長、もう少しお時間いただけませんか? 必ず推薦しますから」
「そっか、頼むわ。……すまなかったね電話して」
「いえ、じゃあ、失礼します」
電話を切ろうとした時、
「あ、すまん早川君、もう一つ」
ったくもう、今度は刑事コロンボスタイルだ。
「あ、はい」
「君の送別会のことだが」
送別会? なんだよそれ。
「私の送別会ですか? えっ、何ですか、それ」
「うん、後継者が決まってからでもと思っていたんだが、早い方がいいと思ってな」
「課長、私はどこかの支店に行く訳ではないのですよ。送別会だなんて」
「いや、君のことだから、多分そう言うだろうとは思っていたんだが、幹事がな、これまでの主任の慰労も兼ねて、どうしてもしたいって言うんだよ」
「大袈裟ですよ」
「いや、社員も君のお蔭でいろいろ学ぶことが出来たし、いろいろな意味で、君に対して特別な思いを抱いているみたいなんだよな」
「はあ」
「だから、連中の為にも付き合ってくれないかなあ。きっと喜んでくれると思うよ。それに、課をまとめなきゃならない私としては、この機会をとらえて結束を促したい気持ちもあってな」
だろう。俺をだしにして飲み会をしようと思ってるんでしょう。見え見えもいいとこですよ。だが、課長の腹はともかくとして、これまでの部下たちの協力には心底感謝しなければならない。その協力があってこそ、早川も伸び伸び仕事が出来たのは確かである。その一人一人の部下たちの、自分に対する思いを大切にしなければと思った。送別会と思わず、ただの飲み会と思えばいいのだ。むげに断ってしまっては余りにも大人げないと思った。
「そうですか。分りました。みんなのありがたい気持ちを無にしてはいけませんよね。喜んで参加させていただきます」
「そっか、ありがたい。じゃあ幹事に、君の予定が空いてる時に段取りするように言っておくから」
「はい。すみません」
「今日はほんと、休みのところすまなかったね。くどいようだけど、さっきの件も宜しくな。……じゃあな」
ったく、どういう神経の持ち主なんだ。付き合いきれない。早川は少し不愉快な気分になった。出社してからでも充分な筈である。よりもよって、亜希子との楽しいひと時を過ごそうという時に、もぅー。この時早川は課長からの着信メロディーを別なものにしようと思った。……必殺仕事人にしよう。
読みかけの新聞を読む気にもなれなくなった。テレビのスイッチを入れた。と、ほとんど同時に、再びカリフォルニア・シャワーが流れてきた。まさか、またかよ。テレビのスイッチを切り、ディスプレイを見てホッとした。亜希子からであった。
「はい、さとるです」
「悟さん、カリフォルニア・シャワー、もう浴びた?」
この亜希子の言葉に、今までの気分が嘘のように消えた。
「あはは、アキちゃんて。あはは、上手い表現するね」
「ふふふ、そうかしら。で、シャワー浴びたの?」
「いや、寝る前にしようと思って。アキちゃんは?」
亜希子は、早川がアキちゃんと言ってくれたことに感動した。嬉しかった。
「私も寝る前にしようかと思ってるの」
「うん。……で、何?」
「ええ、ちょっと、……私の部屋に来てくれないかなあと思って」
「どうしたの?」
「ええ、ちょっと。……いい? ごめんなさい」
亜希子は淋しいからとは言えなかった。
「分った。すぐ行くから、ちょっと待ってて」
早川には、亜希子の今の気持ちが、手に取るように理解できた。自分もそうだが、初めてのことばかりで緊張の連続である。ポツンと一人になるとホッとするどころか、なんとも切ない気持ちになる。多少の疲れもある。
亜希子の部屋のドアをノックした。ドアが開いて亜希子の顔が目の前にあった。いきなり早川の手をとり、部屋に引き込みドアを勢いよく閉めた。そして、抱きついてきた。
「おやおや、先にやられてしまった」
早川は亜希子を強く抱きしめた。
「ごめんなさい。一人でいると淋しくって。……ごめんなさい」
亜希子は、今にも泣きそうになっていた。
「うん、俺だって同じだよ」
二人はもつれながら窓辺に向かった。
「悟さんのお部屋も、この部屋と同じ?」
「いや、俺の部屋はシングルだよ」
早川は急なことだったし、止むを得なかったことを話した。
「でも、悟さんが、こちらの広い部屋になさったらいいのに。……どうして?」
「いやいや、俺のことなんかどうでもいいよ。せっかく来てくれたアキちゃんに、ゆったりとした気分になって欲しくてね」
「でも、とても嬉しいけど、広すぎてなんだか落ち着かないわ」
「それに、おそらくアキちゃんは、相当疲れてるんじゃないかとも思って」
「おあいにく様です。アキはちっとも疲れていません。……ほんとよ」
「ならいいけど。ま、ここでゆったりして、身も心も癒したらいいよ」
「そうね。せっかくだからお言葉に甘えようかな」
「うん、そうしたらいいよ」
亜希子は早川の優しい心遣いがことのほか嬉しかった。半開きだった窓のカーテンを開けた。宵の口の市街地の明かりが一面に広がって見えた。亜希子が早川に寄り添ってきた。早川は軽く亜希子の肩に手を置いた。
「綺麗な夜景だね」
「そうね、この街って人口どのくらいなの?」
「さあ、どの位になってるだろう。最近急速に人口が増えてる街だからね」
「都心のベッドタウンね」
「そうだね。大学が一杯進出してきて、学園都市とも言われてるんだよ」
「そうなんだ。綺麗な街ね」
「ところで、お腹空いてない?」
「そうね、お昼はあまり食べられなかったものね」
亜希子は思いだし笑いした。結局、亜希子はあれから食事を口にしなかった。胸が一杯で、それ以上食べる気にならなかったのである。仕方なく早川はグツグツ煮えたぎっていた鍋の火を切ってしまった。
「せっかく店主が、腕によりをかけて作ってくれたのに、食べないなんて罰が当るよ」
「ごめんなさい。お店の人に悪かったわね。だって……、でも、とっても美味しかったわ」
早川には亜希子の気持ちは良く分っていた。無理もないことである。早川自身も、同じ位に食事が喉を通らない気持ちだった。おまけに、店主の計らいで、料理の品数や鍋の具が、いつもより多めだったように思う。だが店主の手前、料理を残しておくのも失礼と思い、無理して食べてしまった。それでも残してしまったのである。店主は何て思ったろうか。
「悟さんて食欲旺盛ね」
亜希子が意地悪そうに言った。
「人の気も知らないで。アキちゃんの分も食べないと、あの店に嫌われると思ってさ」
「ふふっ、アキが途中で食べられなくなったの誰のせいなの?」
亜希子は屈託なくクスクス笑った。早川もつられて笑ってしまった。
「最上階にレストランがあるみたいだけど、そこにする?」
早川はベッドに腰を掛けながら尋ねた。
「それとも、まだ少し早いから街をブラブラする?」
「そうね、街をブラブラするのもいいわね。その方が、少しでもお腹空くんじゃない?」
「なるほどそうだね。でも、くどいようだけど疲れてない? 大丈夫?」
「平気よ連れてって。暫らく散歩してから最上階のレストランに行かない?」
「うん、それがいいね。……じゃ行こうか」
「ちょっと待ってて」
亜希子は洗面所に入った。ほとんど素顔の顔であるが、泣きそうになった顔が気になるらしかった。
二人は部屋の鍵をフロントに預けて街に出た。
亜希子は、早川の左腕に自分の右手を絡ませて来た。
「一度こんな風にして街を歩きたかったの」
亜希子は、上目使いに早川を見ながら嬉しそうに言った。
「男としては満更でもない気分だよ」
早川は正直に気持ちを伝えた。暫らく歩いて、亜希子は小綺麗なブティックの前で足を止めた。少しの間ショーウィンドウを見た後、
「ちょっといい? 付き合って?」
亜希子は早川の腕を引っ張りながら、その店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
店員が明るく大きな声で挨拶した。店はそれほど広くはなかった。亜希子は早川の手を掴んだまま、ゆっくりと店内を見て廻った。
「何か買いたいものでもあるの?」
「ううん、ただ何となく見たいだけ。勉強の為にね」
「勉強?」
「そうよ、勉強の為。ほら流行ってサイクルが短いでしょう?」
「うん」
「だから、今どんなものが流行っているのかなあって思って」
なるほど、女性ってファッションに敏感なんだ。早川は感心しながら亜希子の後をついていった。亜希子は、店内をぐるーっと見渡しながら小さな声で言った。
「悟さん、こんなお店設計したことあるの?」
「いや、ないね。大きな物件が多いから」
「そう、でも、お客様から依頼されたら引き受けるでしょう?」
「そりゃ、お客様の要望ならね。それに、こういうお店も一度は設計したいもんだなあ」
「そうよ。この位のお店の設計って、意外と面白いかもしれなくてよ」
亜希子は、マネキンに着せたドレスの前で立ち止まった。
「これ、いくらですか?」
店員に尋ねた。
「はい。三万八千円です。試着して見られたらいかがですか? きっとお似合いですよ」
「そう、ありがとう」
亜希子は、ただ値段を聞いただけだった。店内を一回りした後、亜希子は店を出て、もう一度ショーウィンドウを眺めた。
「ああ、いい目の保養になったわ」
亜希子は、早川を見ながら屈託なく笑いながら言った。
「博多の天神のブティックとどうだった?」
「えっ、どうしてそれを知ってるの?」
亜希子は驚いたように大きな声を上げた。
「あはは、俺の目は千里眼なのじゃ。千里というと、えェーと、ざっと四千キロメートルの先まで見えるのじゃ」
「そうか、君ちゃんね。……君ちゃんから聞いたんでしょ?」
「あはは、早っ、もうばれてしまった」
「ふふふ、そうね。どちらも良かったわ。同じブティックでもいろいろあるのね。お付き合いありがとうございました」
「いいえお嬢様、どういたしまして。今度はどちらに参りましょうか?」
早川も負けじと返した。亜希子が大きな声で笑った。アーケードの両サイドには店が軒を連ね、通路には赤茶けたタイルが敷き詰めてあった。恐らくこの時間帯が、一日のうちで一番賑わうのであろう。大勢の人々が往来していた。時折、亜希子に見とれて、すれ違った人が振り返ることもあった。亜希子の心はウキウキしていた。今まで、男性と手をつなぎながら街を歩いたことはなかった。
「お嬢様、今度は私にお付き合いいただけますか?」
早川はおどけてみせた。雑貨屋みたいな洋服屋みたいな店の前である。
「はい、王子様かしこまりました。喜んでお供しましてよ」
「ははは、なかなか上手いもんだね。宝塚のスターみたいだよ」
笑いながらその店のドアを開けた。
「お嬢様、いや姫君、どれが良かろうのう」
二人は舞台俳優のつもりらしい。早川は下着と靴下とハンカチを買いたかった。
「姫はこれまで、男が身に付けるものを手に触れたこともありませぬゆえ」
亜希子は恥ずかしそうだった。
「そう言わずに、……余の命令じゃ」
「王子様、それは、側近のものにでもご指示下さればよろしゅうございますのに」
「いやいや、余が身につけるものじゃ、そち以外には選んで欲しゅうないのじゃ」
「ふふ、堂に入ってるわ、悟さん」
店を出て二人は爆笑した。
いきなり亜希子の携帯が鳴った。君ちゃんとディスプレイしてきた。亜希子は早川を見ながら携帯を耳に当てた。
「あら、君ちゃん。こんばんは」
「ご無沙汰、……元気?」
「ええ、元気よ」
「ふふ、今、私の噂してたでしょ?」
「聞こえた?」
「うん、聞こえた」
「どうしたの? 今何処なの?」
「うん、大阪に来てるの」
「大阪? えっ、もしかして、……君ちゃん」
「そう、そのもしかしてよ。……そうなの。私ってダメね。ちっとも懲りないんだから。……呆れたでしょう?」
「ううん、で、どうなの? 上手くいってるの?」
「うん、まあ今のところはね。……ところで、アキちゃんは今何処にいるの?」
「ふふ、教えない」
「ごまかしてもダメよ。ちゃーんと見えてるんだから。……傍に早川さんいるんでしょう?」
「今ね、八王子ってとこなの」
「へェー、王子様が八人もいるとこなの?」
「ふふ、王子様は一人で充分よ。ちょっと待って」
亜希子は携帯を早川に渡した。早川は少し慌てたがすぐ気を取り直した。
「もしもし、早川です」
「早川王子様、やったわね。……おめでとう」
「やだなあ遠藤さん。冷やかさないでくださいよ」
「ふふふ、早川さんの顔が見えるようだわ。……姫を大事にしてね」
「あ、はい。分りました」
「早川さん、相変わらずね。安心したわ」
「じゃあ代わります」
早川は亜希子に携帯を返した。汗が出そうであった。それを見て亜希子がクスクス笑った。
「君ちゃん、早川さんになんて言ったの? 汗かいてるわよ」
「アキちゃん、良かったね。……頑張ってね」
「うん、ありがとう。君ちゃんもね」
「私はどうなってもいいの。……もうこれしかないからね。……じゃまたね」
「うん。頑張るのよ。弱音を吐いちゃだめよ」
「うん、分ったわ。……あ、それと真理ちゃんから聞いてくれた?」
「同窓会の件?」
「そう」
「それなら聞いたわ。いつやるの?」
「亜希子いつ帰るの?」
「火曜日になるかしらね」
「そう、じゃ帰ってから詳しい話するね」
亜希子は携帯を切って、ふーっと息を吐いた。
「突然携帯渡すからびっくりしたよ」
早川は照れくさそうに亜希子に言った。
「だって君ちゃん、随分気にしてくれてたから、……それで」
「うん、そうだな。いい友達持って、アキちゃんは幸せだなあ」
「そう、なんでも話せるからありがたいと思ってる」
ホテルを出て一時間近く経った。
「そろそろお腹が空いて来たでしょう?」
亜希子が早川の手を引いて、今来た方向にくるりと向きを変えた。
「そうだね、そう言われてみると、少し空いて来たかな」
「きっと食事が美味しくいただけてよ。早く戻りましょ」
二人は少し急ぎ足になった。途中まで来て、二人が宿泊しているホテルが真正面に見えてきた。亜希子は一瞬立ち止まった。改めてホテルの威容を見て驚いた様子だった。
「とっても素敵なホテルね さっき見たのと変って見えるわ、夜のホテルって感じね」
「うん。ホテルは夜に生き生きしないとな」
早川は自分の部屋に戻り、下着類の入った買い物袋を椅子の上においた。そして、再び亜希子の部屋に行き、連れ立って最上階のレストランに向かった。最上階のレストランは客で賑わっていた。白いピアノが、スポットライトを浴び静かな曲を奏でていた。二人に窓際のテーブルが用意されていた。
「予約席になってるわ、……予約しといたの?」
亜希子は、少しびっくりしたような顔で早川の顔を見た。
「うん、チェックインの時頼んでおいた」
「そうだったの。しかも一番いい場所みたい。さすがね悟さん」
「いえいえ、どういたしまして」
亜希子は、早川がほんとに頼もしく思えてきた。街の灯りが一望に見渡せた
「いらっしゃいませ、どうぞごゆっくり」
給仕は、二人に水の入ったコップと灰皿を置いた。
「あ、すみません。タバコ吸いませんから、灰皿は下げて貰っていいですか?」
早川が給仕に言った。
「はい、かしこまりました」
給仕が立ち去った。暫らくしてフォークとナイフなどが入った洒落たケースを置いた。
「あら、メニューは?」
「うん、さっき頼んでおいた。このホテルの自慢の味をね」
「まあ、手回しが良いこと」
「うん。時間が勿体ないと思ってさ」
亜希子は早川のそつのなさに驚いた。その時、一人の五十歳前後と思われる女性が近づいてきて、早川の前で足を止めた。
「いらっしゃい」
早川はびっくりして、立ち上がって深々と頭を下げた。このホテルも含めたグループ企業オーナーの甲斐佐知代である。
「いつもお世話になっています」
「いいえ、お世話になってるのはこちらのほうよ」
「甲斐オーナーがわざわざお見えになるなんて光栄です。今日はお世話になります」
「早川さんがプライベートでいらっしゃるなんて嬉しいわ。ゆっくりしていって」
「あ、ご紹介します」
早川は亜希子をオーナーに紹介した。
「まあ、お美しい方だこと。早川さんの恋人?」
「はあ、まあ、いや、そんなところです」
早川は大いに照れた。
「こちらはこのホテルのオーナーの方です」
早川は亜希子にオーナーを紹介した。
「はじめまして。花岡と申します」
「はじめまして。甲斐と申します。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
亜希子は丁重に挨拶した。
「早川さんのお蔭で、このホテルも潤っています」
亜希子は、最初その意味が良く呑み込めなかった。
「ほんとに感謝してます。今日はゆっくりしてらしてね」
オーナーは微笑みながら亜希子に挨拶した。
「さすが早川さんね。お目が高いわ。とても素敵な女性ね」
甲斐オーナーは早川の耳元で囁いた。早川は頭を掻きながら照れていた。
「じゃあ、ごゆっくり。早川さん、またね、失礼しますね」
「はい。ありがとうございました」
オーナーは、二人に向かって丁重に頭を下げて立ち去った。女性経営者としての貫禄が後姿に滲み出ていた。
だが、その時、オーナーの顔が、深い悲しみの表情になっていることを、早川は知る由もなかった。
「どうして、あの方をご存知なの?」
「うん、仕事でね。うちの会社のお客さん。上得意さん」
「ふーん。すごい貫禄ね。しかも、スタイルがいいし、とても美しい方だわ」
「そうだね。なにしろ七つの会社の代表だから凄いよな」
「そうなんだ。道理で圧倒されそうだったわ」
「うん、こっちだって同じだよ。頭が上がらないよ、あの人には」
「私もあんな風になりたいなあ。羨ましい」
「亜希子がその気になったらなれるんじゃない?」
「そうかしら。じゃあその気になってみようかなあ。悟さん応援してくれる?」
「もちろん一身を投げ打って応援するよ」
「わァー、嬉しい」
亜希子は無邪気に喜んだ。
「お待ちどう様でした」
給仕が料理とワインをテーブルに置いた。
「このワインは、オーナーからのプレゼントです。年代物ですから美味しいですよ」
給仕はワインの講釈を述べながら、氷で冷やされたワインを二人のグラスに注いだ。
「ごゆっくり、どうぞ」
給仕が立ち去った。
「乾杯しようか」
「はい」
「乾杯。……これからも宜しくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。乾ぱーい」
グラスを上にあげ二人は乾杯した。ワインの香りが脳を刺激する。まろやかでコクのある。何とも言えない旨さが二人の喉を潤した。
「おいしい~。……とっても美味しいわ。……こんな味初めて」
「うん、やはり年代ものだけはあるね」
「悟さんと一緒だと、初めてのことばかり経験するわ」
「ははは、それはオーバーだよ。この味は俺だって初めてだよ」
料理も豪勢である。オーナーが気を利かせてくれたらしい。
「ねえねえ、今思ったんだけど、もしかしたらこのホテル、悟さんの設計?」
「えっ、どうして分ったの?」
「ええ、何となくだわ」
亜希子は、早川とホテルのオーナーとのやり取りを聞きながらそう思った。
「うん、いつか機会があったら話そうかと思ってた」
「やっぱりね。そうは思ってたけど、悟さんって凄いのね」
亜希子は街から戻る時、立ち止まって見たこのホテルの威容を思い出した。
「ははは、俺だけの力じゃないよ。スタッフが頑張ってくれるから出来たことだよさ」
亜希子は改めて早川の仕事の力量の凄さを感じた。それに、見栄を張るでもないし、威張るでもないし自慢するでもない。むしろ、全てにおいて淡々としていて、どこにこんな力量が潜んでいるのかと思うくらいであった。
二人にとって初めての晩餐会である。食が進み、ワインが二人の酔いを誘惑していった。
「今日は記念日だから、うんと飲もうか」
「何の記念日?」
「うん、そうだねワイン記念日はつまらないね。……えーとね、泣き虫記念日なんてどうかな?」
「ダメッ。……うーん。……私だったら、ハヤブサ記念日かな」
「おォー、それいいねえ。それにしよう。……うん名案だ」
二人を結びつけたレトロ列車にあやかって記念日とすることにした。二人は、レトロ寝台特急ハヤブサに共通の思いを抱いていた。今夜の晩餐会が、記念日にふさわしくムーディーで楽しい雰囲気を演出してくれた。
亜希子は早川の人となりに接し、さらに強く自分の思いを確信し、これで良かったのだと、幸せな気分に酔いしれていた。
早川も、亜希子の人間的な魅力に恋焦がれて行く自分の気持ちに身を任せ、出来る事なら、亜希子の心に自分の心を重ねた一生を全うしようと決心していた。そして、亜希子という女性の真心を大事にし、愛し続けようと自分に誓った。
「ふふ、もう酔ってしまったわ。顔がほてってきたみたい」
亜希子の頬がほんのり赤い。何とも言えない美しさである。
「俺もあんまりいけない方だから、心臓がドキドキしてきた」
客が段々少なくなってきて静かになっていた。ピアノの音が良く聞こえる。亜希子はうっとりとしてきた。早川の顔をしげしげと眺めながら言った。
「悟さんって不思議な人ね」
「えっ、どうして?」
「小さく叩けば小さな音が出るし、大きく叩けば大きな音が出る。そんな感じ」
「ははは、まるでドラムの演奏だね」
「そうそう、そんな感じ。亜希子も思いきって叩いて見ようかしら」
「ドラムが壊れそう」
「壊れちゃ大変ね。買いかえる訳いかないものね。これだけは」
二人はくすくす笑い転げた。ワインがほとんど空になってしまった。大分酔ってきたらしい。元々酒に弱い二人がボトル一本を空けるということは、かなりの量を飲んだことになる。だが、二人とも意外としっかりしていた。恋人同士になれたとは言え、二人には、まだ少しの緊張感があったのかもしれない。
「そろそろ部屋に戻ろうか?」
「ええ、ご馳走様でした。とっても美味しくて、楽しくて素敵な記念日でした」
「亜希子にそう言って貰うと、とても嬉しいよ」
亜希子はもう廻りの客に遠慮することはなかった。早川の腕に寄り掛かりながら、歩調を合わせてレストランを出た。
その姿を、甲斐オーナーが、遠くから微笑みながら見ていたことを二人は知らなかった。
「ねえ、……」
途中のエレベータの中で、亜希子が早川にキスを求めた。早川は亜希子を強く抱きしめて言った。
「あきこ、……好きだよ」
亜希子は酔いも手伝ってか悶えるような仕草をした。
「愛してるわ」
二人に言葉は要らなかった。抱き合いながら激しくキスをした。エレベーターが八階ですと告げた。二人は、抱き合うようにして亜希子の部屋の前に立った。
「じゃあ、おやすみ、……楽しい夜でした。……ゆっくり休んでね」
早川が、亜希子から身体を離しながら言った。亜希子が悟の腕をつかんだ。
「ねェ、……もう少し私の部屋でお話ししない?」
「でも、アキはもう酔っぱらってるし、……それに……」
「それに?」
「うん、俺も酔ってるし、夜も遅いから」
早川は心とは裏腹に精一杯の返事をした。
「まだ十一時頃よ。ね、もう少しだけ。……ダメ?」
「うん、ダメ。これ以上亜希子と一緒にいると……」
「一緒にいるとどうなるの?」
「うん、狼になるかもしれないし、ならない自信ないよ。それに……」
「それに、……なあに?」
「今日初めて会ったばかりだし、君に悪いから」
「そう、悟さんの気持ち分ったわ。……じゃ十五分だけ。……だったらいいでしょう?」
「……」
「ね、いいでしょう? ……十五分間だけ、……お話ししたいの」
「……あのさ、下のロビーで話しない? それだったら、いつまでも話出来るじゃない?」
「……」
「……」
「イヤッ、イヤッ、もう少し一緒にいて、……ねっ、お願い」
亜希子は必死になっていた。声が廊下に小さく響き渡った。悟は心の裏を返した。
「分った、十五分だけだよ。いいね?」
「……」
亜希子は嬉しそうに黙って頷いた。亜希子の気持ちを踏みにじる気は毛頭ないが、この時点では理性が打ち勝っていた。いや、そうであるべきだ。そうでなければならない。
早川は部屋の明かりをつけた。
「ああ、とっても楽しかったわ。少し食べ過ぎたみたい」
「アキちゃんは、お昼あまり食べてなかったし、美味しい料理だったしな」
「こんなにゆったりしたの久しぶりだわ。……悟さん、ありがとう」
亜希子は、身も心も満ち足りたような顔つきになっていた。顔のワインによる赤味も少し引いたみたいである。テレビのスイッチを入れた。途端にテレビから大きな音が聞こえてきて。亜希子は慌てて音を小さくした。
「あはは、大丈夫だよ、そのままでも。隣には聞こえないよ」
「あら、そうなの? たいがいのホテルは音が聞こえるでしょう?」
「うん、でも、ここは完全防音になってるからね大丈夫だよ」
「ほんと?」
「ほんとだよ、たとえカラオケしても、隣の部屋には絶対聞こえない構造になってるんだよ」
「悲鳴を上げても外からは聞こえない?」
「あはは、そうだよ。なんだったら試して見る?」
「どうやって?」
「テレビの音を最大にして、ドアの外に出たら分ると思うよ」
「へエー、そうなんだ。これがこのホテルの魅力のひとつ?」
「そうだね。工事費は掛かるけど、その分お客様が安心してくつろげるからな」
「ええ」
「それに、耳の遠いお客さまだっていらっしゃる訳だから」
「ええ、そうよね。だからこのホテル人気があるのね」
「ま、そういうことかな」
「悟さんが提案したの?」
「そう、最初はオーナーも、予算オーバーだって言ってたけど」
「どうやって説得したの?」
「分ってもらえるのに時間掛かったけど、データで説明したら納得して貰えた」
「どんなデータなの?」
「ホテルにおける、人の心理的分析ってやつ」
「そんなデータがあるの?」
「いや、自分で作ったんだけどね。いろいろ調査してね」
「すごい」
「今じゃ、オーナーも喜んでくれてるよ。俺に騙されて良かったってね」
「悟さん騙すの上手なの?」
「ははは、人聞きの悪いことを平気で言うんだ」
「ふふっ」
「仕事は、ただ受注すれば良いなんてもんじゃないからな」
「どういうことかしら」
「受注した時が始まりと思ってる。結果が良ければ次の受注が生まれるから」
「ええ」
「だから良いアイディアを出さなくちゃいけないし……」
「ええ」
「お蔭でこのオーナーには、随分仕事させて貰ってるんだよ」
仕事に対する早川の考えを聞いて、亜希子は嬉しくなった。テレビのチャンネルをあちこち切り替えていたが、おまり興味のないものばかりであったのか、すぐに切ってしまった。そして、BGMのスイッチを入れた。
「どんな音楽がいい? ジャズ?」
亜希子は、BGMの番組のメニューを見ながら早川に尋ねた。
「うん、亜希子の好きな曲でいいよ」
「新宿で聞いた曲、もう一度聴きたいわ」
「どの曲? トランペット? サックス?」
「ピアノとドラムとサックスが、追いかけっこしてた曲」
「ああ、テイクファイブか。聞けるといいけど。多分、無理かも」
ジャズの音が静かに部屋を包んだ。窓のカーテンは開いたままになっていた。窓から見下ろす夜景は、もう既に深い闇に包まれ、街の灯りが点々と見えていた。
「街って動いているのね。あの灯りの下でみんな何してるんでしょうね」
亜希子が早川の腰に手を廻しながら寄り添ってきた。
「そうだなあ、何してるんだろうな。きっと楽しい事してるんじゃないかなあ」
「楽しい事って?」
「たとえば、友達とお茶してるとか、恋人同士で好きな映画見てるとか」
「それぞれの人が、それぞれの場所で、それぞれの人生してるのね」
「うん、おうだよね。みんなが幸せだといいけどな」
「ええ」
「でも、そうもいかないのも人生だからなあ」
「悟さん、今、どんな気持ち?」
「そうだねえー、何ていうか、身体中が一点の曇りもない晴れ晴れした気持ちだし、それに……」
「ええ」
「何かが渦を巻いた竜巻のようにグルグル廻ってるって感じ。……亜希子は?」
早川は亜希子の目を見ながら尋ねた。
「これが幸せなのかなって思ってる」
「と言うと?」
「この世に生まれたの、自分の意思じゃないでしょう?」
「それはそうだね、それだったらお化けだよ」
「ふふ、だから、言わば与えられた命と人生な訳じゃない?」
「うん。……だね」
「その与えられた命と人生を、みんな燃焼してる訳でしょう?」
「燃焼の仕方は人それぞれだけどな」
「そうね。これまでの私ね、とてもつまらない生き方をしてきたような気がするの」
「どうして? だって、遠藤さんから、亜希子の家庭は名門で裕福だって聞いてたけど?」
「確かにそうね。その意味では何不自由なく暮らしてきたわ。……でもね」
「うん」
「いつも心が満たされないの。いつも心が空虚だったのね。自分が自分でなかったのね」
亜希子は、早川を見ながら寂しそうな顔をして言った。
「だんだん大人になってきて」
「うん」
「お金や名声よりも、もっともっと大事なことがある筈だと思うようになったのね」
「うん」
「悟さんとお会いして、それを確信したの。だから、これが幸せかなって思ったの」
亜希子は、眼下に広がる夜の灯りの一点をじーっと見ながら呟くように言った。早川に話すことによって、過去の辛く悲しい心の塊が溶け出して行くのを感じていた。
「これからは、悟さんの力を借りて、自分なりの人生を生きられたらいいなって思ったの」
亜希子の切々と語る苦しみや悩みが、早川には自分のことのように思われた。
早川は父親の事業の失敗を境に、まともにご飯も食べられない辛い体験をしている。子供心に、世の中の、いや家庭の激変を目のあたりにして、人の心の弱さを感じていた。
父親が悪い訳でもない。母親が悪い訳でもない。これまで手にしていた大事なものが、壊れていく事に対する人の心の弱さが、なにもかも失ってしまったかのように感ずるだけである。
打ちひしがれた心を修復するには、余りにも大きなエネルギーを必要とするのである。
亜希子の慟哭にも似た話しを聞きながら、早川は女であるが故の悲しみを初めて知った。
「今日という日が永遠に続くといいのに……」
亜希子は、早川の目に訴えるように呟いた。BGMのピアノの奏でる悲しい音色が、いっそう亜希子の心を揺さぶった。
「そうだね。これから予期しないいろいろな事があると思うけど、亜希子の願いが叶えられるといいね」
「……亜希子の願い叶えてくれる?」
「大丈夫、きっと叶えてあげるよ」
その為にも、まだ見えないでいる亜希子の世界を、早く知りたいと思った。
「叶えてあげるけど、もしも、お金もなく仕事もなくなってしまったらどうする?」
「大丈夫よ」
「多分、亜希子には耐えられないと思うよ」
「大丈夫よ、その時は私がなんとかするわ」
「ほォー、それは嬉しいね。心強い言葉だね」
「ふふっ、でも、私はこのままでいいの? 何かすることある?」
「今は、今のままで充分だ。後のことは後でじっくり考えたらいいと思う。そしたら、きっと上手くいくよ」
「でも、私って気が弱いところがあるから」
「でもないと思うよ。レトロ列車で見た亜希子は気丈夫に見えたよ」
「あの時はまだ知らない人だったから、無理に演技してたのかもね」
「うん、人間ってそんなところってあるよな」
「ええ」
「さっきの、このホテルのオーナーから、似たような話聞いたことがあるよ」
「あら、そうなの?」
「うん。一見気丈夫そうに見えても、からっきし弱い人間だと言って笑ってたよ」
「そうなの。あのオーナーがねえ。想像できないわ」
「その弱さを奮い立たせて、今日を築いた人だから凄いよなあ」
「しかも、女性だからなおさら凄いと思うわ」
「だから、亜希子だって、その気になればオ-ナーみたいになれると思うよ」
「ふふ、悟さんってその気にさせるのお上手ね」
亜希子は明るく笑った。
「おっと、もうこんな時間だ。……楽しかった。……じゃね。また明日」
「はい。引き止めてごめんね。ありがとう。とっても楽しかったわ」
「チェックアウトは十一時までだから、明日は九時頃電話するけど、いいかな?」
「ええ、いいわ」
「じゃあね、……おやすみ」
早川は亜希子をそっと抱き寄せキスをした。
「おやすみなさい……」
亜希子の眼は潤んでいた。別れが辛かった。胸が張り裂けそうだった。もっと傍にいて欲しいと思った。お願い行かないで。一晩中私を抱き続けて。
心はとうに悟を受け入れる準備は出来ているつもりだったが、悟の気持ちも痛いほど分っていた。男って辛いよなあ、って歌を聞いたことがあるけど、それにしても、なんて辛く切ないことなの……、残酷すぎるわ。
早川が部屋を出て行って、亜希子はベッドに身を投げ出して激しく泣きじゃくった。
一方早川は部屋に入るなり、気持ちを整理するのに必死だった。照明を消し、窓の外の夜景をじっと見つめていた。そして顔を天に向けて心の中で呟いた。
意気地なし。変に意固地ぶるんじゃないよ。逢ったのが今日が初めてだから? 何言ってんだよ、だからどうだっていうんだよ、バカヤロー。じゃあさ聞くけど、何回目のデートだったらいいんだよ。二回目か? 三回目か? そんなの誰が決めたんだよ。アホらしい。
逢ったのは今日じゃないだろう? レトロ列車で逢ってから、もう二ヶ月近くもなるんだぞ。だろう?
亜希子に悪いからだって? お前はバカか。もう少し、亜希子という女の気持ちになってみたらどうなんだ。もしもだよ、もしも亜希子の気が変わったらどうするんだよ。一生取り返しのつかないことになるかもしれないのだぞ。それでもいいのか?
亜希子だって、お前と夜を共にすることが嫌だったら、ホテルなんかに泊まろうなんて気にならないだろう? だろう?
お前は亜希子が好きなんだろう? 死ぬほど好きになったんだろう? 失いたくないんだろう? だったら、何でそんなに恰好つけるんだよ。好きなら好きのままでいいじゃないか。誰に遠慮がいるんだ。
運命を共にしたい女性だろう? 一生傍にいて欲しい人なんだろう? だったら自分の気持ちに嘘をつくんじゃないよ。このバカ。
天を仰いだ早川の目から、涙がこぼれ落ちた。亜希子ごめん、ごめんな。涙を手でぬぐいながら携帯電話を手にした。
「もしもし、あきこ……」
「あら、どうしたの?」
「うん、この電話の着信音って、どんなメロディーなの?」
亜希子は、備え付けのティッシュペーパーで涙をふいた。
「普通のベルの音よ」
「そっか、だよね……今日登録し合ったばかりだもんな」
「何よ、何だか変だわ悟さん」
亜希子の胸は、既に動悸が昂ぶり始めていた。
「亜希子……」
「なあに?」
「うん……」
「どうしたの?」
「ウン……」
「うんじゃあ分らないわよ、……どうしたのよ」
悟の苦しみが、亜希子の胸を突き上げているのが良く分った。
「あのさ……」
「ええ」
「あのさ……明日の朝、亜希子の部屋で、一緒に食事とか珈琲を飲みたいんだけど、いい?」
亜希子の胸に、今にも張り裂けそうな衝撃が走った。
「え、ほんと? それってホント? まさか冗談じゃないわよね」
「うん、いいかなあ?」
「いいかなあどころじゃないですっ。……嬉しい」
「でね? もう一つ、……さっきのことだけど」
「さっきのことって、なあに?」
「着信メロディーの件」
「それがどうしたの?」
「うん、これからそちらに行って」
「ええ」
「シャワーを転送しようかと思って。転送の仕方知ってるよな?」
もはや、亜希子の胸は爆発寸前だった。ちょっと意地悪心が働いた。
「お風呂のシャワーの転送? そんなこと出来るの? 私知らないわよ」
「あはは、参ったなあ。意地悪なんだから、もう」
「ふふふ、着信音の転送ならお手のもんよ。今から来る?」
「うん、ちょっと待って、五分後に行くから」
顔を洗って、心を落ち着かせる時間が必要だ。
「十分後にして」
泣き虫顔を見せたくなかった。
「分った。十分後ね。オーケー」
亜希子は尋常ではなかった。洗面所に飛び込み、鏡に映った自分の顔を見た。顔から紅潮がゆらゆらと舞い上がっていた。悟がドアをノックするまで、何をどうしたのか記憶になかった。
ドアが開くなり手に紙袋を持ったまま、悟は亜希子を強く抱きしめ熱いキスをした。亜希子が声を発した。首に両手を巻き付け、しがみついた。悟は亜希子の目を凝視した。
「亜希子」
「はい」
亜希子も悟の目をじっと見つめた。心臓の動悸が上下左右に激しく脈打った。
「亜希子……」
「なあに?」
「たったいまから、俺は狼に変身する」
「おおかみ? まあ、怖い」
「そうだよ、怖い怖い狼だよ俺は。……それでもいいかな?」
「ふふふ、じゃあ、私は何に変身しようかしら」
「そうだね、白雪姫」
「まあ、可愛い。いいかも」
二人は身体を離し窓辺に来た。早川は持ってきた紙袋をテーブルの脇に置いた。さっき商店街で買った下着類である。
「シャワーの転送は? 今じゃなくていいの?」
もはや野暮な質問だった。
「そうだね、明日の朝でもいいよな」
「そうよね」
カーテンを開けた。深夜の十二時近かった。暗闇の窓に映る二人の姿が、くっきりと浮かび上がった。
「汗流してきたら?」
悟は亜希子に促した。
「ううん。悟さんから先に済ませて。私は暫らくこのままでいたいの」
「そう。じゃあ、お先にそうするかな」
「はい」
悟は紙袋から買ったばかりの下着を取り出し、ベッドに置いてあった浴衣と一緒に持って洗面所に消えた。
亜希子は、窓に映る自分の顔に小さな声で語り掛けた。
「あきこ、これでいいのよね。これから私は幸せになれるのよね」
窓に映った亜希子が、大輪の花のようににっこり笑って大きく頷いた。
思えば、自分ながら大胆な行動である。レトロ列車の中で悟に逢って以来、それほど時間は経っていないのに、こんなことになるなんて。母親に黙って家を出てしまった。妹の真理子にそっと告げただけで、家を飛び出してしまった。掛かってきた電話で、東京の友達の所に居ると、母親に初めての嘘をついた。
海外に出張中の父親は、そんなことを今は知る由もないが、いずればれる時が来る。その時の覚悟は出来ていた。もう後戻りは出来ない。後戻りする気はない。悟に全てを任せる決心はついている。あとは、自分がしっかりしさえすればいいんだと強く思っていた。
悟のシャワーを浴びる音が聞こえる。亜希子は急ぎ部屋を暗くし浴衣に着替えた。悟に着替えのところを見られたくなかった。
さっきまでのワインの酔いはすっかり醒めていたが、徐々に迫ってくる出来事を想像して、緊張と共に、亜希子は自分の身体が、熱くほてってくるのを覚えた。亜希子は窓のカーテンを静かに閉めた。
「お待たせ」
暫らくして悟が浴衣姿で洗面所から出てきた。薄暗くなった部屋の明かりに照らされた亜希子の浴衣姿を見て、悟は、その余りの美しさに、夢の世界にいるかのような錯覚を覚えた。亜希子は、恥ずかしそうにして洗面所に駆け込んだ。
シャワー口から勢い良くあふれる出る湯が、亜希子の過去の全てを洗い流すかのように輝きながら流れ落ちた。甘いボディーソープの香りがあたりに充満していた。
顔を天井に向け、泡に包まれた身体にシャワーを掛けながら、亜希子は泣けてきた。少し身体を震わせ、今日はよく泣く日だと思いながらも、抑えられなくて、止めどなく溢れる自分の喜びの涙が、シャワーと一緒にただ流れるに任せていた。
悟は、ベッドの上で両手を頭の下に組み仰向けになった。いろいろな思いが頭をよぎった。BGMの静かな曲が悟には心地よかった。洗面所のドアが静かに開く音がした。悟は身体を起こそうとした。
「お願い、……ちょっと待って」
亜希子は恥ずかしさの余り、どうして良いのか思いあぐねていた。暫らくして意を決した。
「……もういいわ」
悟は、ベッドから降りて立ち上がって亜希子を見た。薄灯りの亜希子の湯上りの姿が、まるで天女のように思えた。これまで見てきた、ありとあらゆる美をはるかに超える美しさである。
「亜希子綺麗だよ。……とっても綺麗だ」
悟は亜希子に近づきながら言った。
「嬉しいわ、……天にも上る心地よ」
亜希子の甘い香りが悟を刺激した。悟は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。冷えた二つのコップにビールを注いだ。一つを亜希子に渡しながら言った。
「湯上りは特に美味しいから」
亜希子は、悟の心遣いが嬉しかった。正直言って、飲まずにはおれない心境であった。一気に飲み干して腕を差し出した。
「もう一杯ちょうだい」
「おいおい、大丈夫かい?」
悟は笑いながら亜希子のコップにビールを注いだ。
「うーん、美味しいっ」
亜希子は、如何にも美味しそうに飲んだ。
「少し踊ろうか」
「……」
ジャズの音が二人を包み込むように奏でていた。悟は、亜希子の肩に手を置き額にキスした。そして、震える亜希子をそっと抱きしめた。右手を亜希子の背中に廻し、左手を肩に置いて言った。
「愛してるよ、……亜希子」
亜希子は照れながら嬉しそうに微笑んだ。胸の鼓動が激しくなり、抑えられない興奮が身体中を駆け巡った。そして、両手を悟の腰に廻した。
「愛してるわ、……悟さん」
二人は、ジャズの音に合わせて身体を揺らせた。悟は亜希子を見詰め、亜希子も悟の目をじっと見詰めていた。もう言葉は要らなかった。どちらともなく顔を近づけ唇を軽く重ねた。亜希子の全身に稲妻が走った。
「自分もそうだけど、もう一人じゃないからね。これからはいつも一緒だからね」
悟は、亜希子を抱いて耳元で囁いた。
「嬉しいわ、悟さん。亜希子はもう泣かないから」
「うん」
「私の傍にいつも居て下さるのね?」
「うん、どんな事があっても、亜希子を離さないからな」
亜希子はその言葉を待っていたかのように、悟に抱きついてきた。
二人にとって、記念すべき土曜日の夜は、穏やかに、そして静かにその幕を閉じた。
悟は毎朝六時半に起きる習慣が身に付いていた。たとえ夜更けの二時や三時まで飲んでいても、必ず六時半には目が覚めた。余程のことがない限り、タイマーを使うことはなかった。会社が休みの日でも変わりはなかった。
この朝もそうであった。だが、目は醒めてはみたものの、いつもと勝手が違う。ぱっと起きれる状況じゃなかった。横に亜希子が居るのである。悟はまた目を閉じた。一旦目覚めた脳は、簡単には眠らせてはくれなかった。仕方なく目を閉じて考え事をしていた。昨夜の、いやさっきまでの出来事と言ってよかった。そのことが悟の脳に鮮やかな余韻を残していた。二度寝が出来る筈がなかった。
亜希子は深い眠りに落ちているようである。寝息が聞こえてくる。悟は少し身体をずらし、暫らくの間亜希子の寝顔を見続けた。
亜希子との二人三脚の人生を考えるとワクワクしてくる。この女性を、人生の良きパートナーとして選んだことに、いささかの悔いもなかった。いや、むしろ、亜希子こそが神が自分に与えてくれた宝物だと思った。こんなに優しくて綺麗で頭の良い女性は、二人といないと思った。自分には出来すぎた女性である。
悟は亜希子のほっそりとした指にキスした。亜希子をきっと幸せにして見せる。そうしなかったら罰が当るような気がした。およそ、見も知らぬところで育ってきた二人が、何の因果か知らないが、今こうしてベッドを共にしている。深く愛し合った仲になってしまった。これを、神が与えてくれた運命と呼ばずして何て呼ぼうか。
悟は、亜希子の右手に自分の手を重ねた。そして、いつのまにか寝入ってしまった。
亜希子が目覚めた時、悟は深い眠りに落ちていた。自分の右手に悟の左手が重ねてあった。亜希子は、そーっと身体をずらし、乱れた髪と浴衣を整えた。そして、悟の顔の近くに自分の顔を近づけ、じーっと悟の顔を見た。
悟が、自分の傍にいつも居てくれる、と言ってくれたことが嬉しかった。この人となら、どんなことでも出来そうな気がしてきた。たとえ、今まで経験したことのないような厳しい現実に遭遇しても、この人となら、上手く乗り越えられそうな気がした。
亜希子は悟の額にそっとキスした。そして、悟の身体に我が身をかぶせた。悟はその重みで目が覚めた。
「ふふ、おはよう」
亜希子は意地悪そうに挨拶した。悟は咄嗟に判断がつかなかったが、目の前の亜希子の唇を見てやさしく笑った。亜希子の鼻を人差し指でつつきながら言った。
「おはよう、早いね」
「たった今起きたところよ。重たい?」
亜希子は少し恥ずかしそうであったが、無邪気に笑って言った。
「いや、平気だよ 亜希子は軽いからそのままにしてて」
「ええ、いいわ。お望みでしたらね」
悟は、両手を亜希子の背中に廻した。
「綺麗だよ、亜希子」
「ふふ、嬉しい。ねえ、モーニングサービスってないの?」
亜希子の目が甘えていた。悟は、亜希子の言ってる意味を理解した。
「朝から食欲旺盛だね もちろんありますとも、お嬢様」
「ふふっ、じゃ注文していい?」
「はい、どんなお味が宜しいですか? 甘いの? 辛いの?」
「うーん、そうね、どうしょうかなあ。蜂蜜みたいな甘いのがいいわ」
「かしこまりました。お嬢様が目を閉じてる間にお届け出来ると思います」
亜希子は目を閉じた。
「これでいい?」
「はい、結構ですよ。蜂蜜みたいな甘いものですね」
悟は両腕に力をこめて亜希子を抱きしめキスした。
「どうですか? お嬢様、お味の程は」
「素敵なモーニングサービスね。気に入ったわ」
「ありがとうございます。そちらのモーニングサービスは?」
「食べたい?」
亜希子は、悟の唇に指を当てながら、意地悪そうに聞いてきた。
「はい。どんなメニューですか?」
「えーとね、ふふっ、笑わないでね」
「笑いませんとも」
「えーと、やっぱり止めとくわ。恥ずかしい」
亜希子は言いかけて、恥ずかしくなったのか少し赤くなった。
「おやおや、お嬢様らしくもない。大丈夫ですよ、思いきって言って見てはいかがですか?」
「笑わないでね。えーと、名物長野のリンゴと、もぎたての桃と、……それから」
「それからなんですか?」
「……熟れたイチジクです。ふふ、……どれも一級品です」
亜希子は、悟の口に指を入れ、顔を真っ赤にしてクスクス笑いながら言った。
「ほォー、これは新鮮で美味しそうですね。全部頂いてもいいのですか?」
「はい、今日は特別サービスメニューになっています」
「どれから頂いたら宜しいのですか?」
「特別順番はありません。お好きなものからお召し上がりください。……但し条件があります」
「条件ですか? どんな?」
「お召し上がりになった感想を、それぞれのメニュー毎に、二日以内にレポートとして提出してください」
「えっ、レポートですか? どうして必要なんですか?」
「今後の参考にさせていただきます。当店は味には特別なこだわりを持っておりますから」
「なるほど」
「ねっ、さとるさん」
「うん? なに?」
「今、シャワーを転送しない?」
「えっ、今?」
「そう、今よ。……、このホテルの名前なんていう名前?」
「エルコンGホテルだよ。……どうして?」
「そうなの? 変な名前ね」
「エルは大きなという意味で、コンはコンチネンタルの略で、大陸風のって意味があるんだよ」
「Gは?」
「グループのG」
「あの、なんていう曲だった? シャワーの曲」
「カルフォルニア・シャワーのこと?」
「あ、そうだったわね。……じゃあ、私の携帯の着信音のシャワーは何て言うの?」
「……」
「ふふ、このシャワーはね……」
「うん」
「エルコンG・シャワーっていうのよ。……いい曲名でしょう?」
「あはは、なるほど、いいかも」
「だから、悟さんからの着信は同じメロディーでも、曲の名前はエルコンG・シャワーって名前にするわ」
「おォー、いいねえ、うん、いいアイディアだなあ」
「でしょう? こうすると、いつまでも、今日のことを思い出せるわね」
亜希子は屈託なく笑った。そして悟の顔をじっと見つめて、念を押すように言った。
「アキは、もう一人じゃないのよね。……いつまでも、悟さんと一緒なのよね」
「うん、そうだよ。いつも傍に居るよ。ずーっと一緒だよ」
「嬉しい、悟さん好きっ」
「亜希子、綺麗だよ。……ほんとに愛してるよ」
「嬉しい、ありがとう」
亜希子は洗面所に向かった。
悟はカーテンを開け外の景色を見た。
今日は日曜日、窓一杯に秋晴れが広がっていた。この地で随分多くの仕事をしてきた。眼下の街の建物の一つ一つが、あの公園が、遠くに見えるあの山々が、そしてこのホテルが、恐らく脳裏に焼き付いて離れない強烈な想い出として、いつまでも忘れられないだろうと思った。
悟は、入り口のドアのポストから新聞を抜き取った。ベッドに腰を掛け、新聞をシーツに広げて読んだ。
経済面に、不景気の足音が少しづつ近づいてる内容の記事が載っていた。企業のリストラが始まり、倒産の憂き目に合い失業者が増加傾向にあるらしい。いよいよ日本経済も、正念場の時期が近づいてきたみたいである。
中小企業は、悲鳴にも似た状況となり、銀行の貸し渋りはさらに増幅して行きそうである。各企業は生き残りに必死になっている。バブルのツケの返済が済んだかに見えたが、別な形をした嵐が吹き荒れそうである。
大きい会社ほど、その代償の大きさに振り回され易い状況になってきた。大量のリストラ・大型倒産・デフレ等々が巻き起こす社会不安がスパイラル化し、場合によっては、世情が混迷・不安定になり、恐慌になる可能性もない訳ではない状況である。
悟は、自分の会社が少し心配になってきた。もちろん悟が、このことをうんぬんする立場ではないが、他人事ではないような気がしてきた。
スポーツ欄を読み社会面に目を移した。
目新しいニュースはなかったが、次のような記事が目に飛び込んできた。
―― ファッション界に旋風、いよいよ米国進出 ――の見出しが目に入った。そこには、女性の顔が小さく載っていた。
悟は、思い当たるその顔におやっと思った。ついこの前、テレビで見た女性である。いや、レトロ寝台特急の列車内で見たあの女である。サングラスの女である。写真では、サングラスは掛けていないが、テレビで見た顔に間違いはない。
日本のファッション界に疾風の如く登場した浦上亮子という女性が、いよいよニューヨークに事務所を構えるという内容であった。
悟は、このことを亜希子に伝えておきたかった。レトロ列車での出来事は、亜希子も共有の出来事である。ファッション界の有名人らしいから、もしかしたら亜希子はこの女性を知ってるかもしれない。丁度、亜希子が洗面所からドアを開けて出てきた。
「ああ、いい気持ちだった。悟さん浴びてきたら?」
「うん、ちょっと、ちょっと来てみて」
悟は新聞を横にずらし、亜希子に腰掛けるように言った。
「なあに、何か珍しいニュースでも載ってたの?」
「いや、ほらこの女性知ってる?」
「あら、浦上亮子じゃない? ファッション界のスターよ。それがどうかしたの?」
「うん、この人誰だか分る?」
「ですから……」
「そうじゃなくて、……じゃヒントあげる」
「……」
「第一ヒント、亜希子と乗ったレトロ列車」
「レトロ列車? ……えっ、……レトロ列車?」
亜希子は、皆目見当がつかないようだった。
「第二ヒント、警察官」
亜希子は暫らく考えて言った。
「警察官ということは、取り調べの内容ということでしょう? しかも女性と言うと、……えっ、……まさか」
「そう、その、まさかだよ」
「ほんと? あのサングラスの女って、この浦上亮子だったの?」
「うん、間違いないな」
悟は、テレビの話しを亜希子にした。ついでに、この女性が熊本で降りたことも話した。
「そうだったの。あの怪しい女が浦上亮子とはねえ」
亜希子は不思議そうに言った。
「どうして忙しい筈のスターが、レトロ寝台特急なんかに乗る必要があったのかしら。飛行機も新幹線もあるのに」
「そこなんだよ。さっきから俺もそれを考えていたんだよ。おかしいと思わない?」
「そうね、何か臭うわね」
「うん、どうもおかしいよ」
「トイレで死んだ中年の男のこと?」
「うん」
「サングラスの女、つまり浦上亮子が殺したって言うの?」
「うん、でもなあ夕刊に、死因については現在調査中だが、心臓麻痺による突然死の可能性が高いと出ていたからなあ」
「そうなの?」
「うん、その後のことは分らないけど、もしも、死体を解剖せずに結論づけているとしたら、気になるんだよなあ」
「ええ」
「あ、そういえば、この件の話してなかったな」
悟は夕刊の内容について亜希子に話した。
「そうだったの。……じゃあ、シロじゃない?」
「うーん、……でも、こんな風には考えられない?」
「……」
「つまり、死因を、調査中という言葉を使って曖昧にしておいて、その上で心臓麻痺を偽装する」
「偽装? そんな必要があるかしら」
「うん、犯人を安心させる為の、警察の計略かもよ」
「なるほど、あり得るわね」
「うん」
「もしそれが当ってれば、人気スターにのし上がった女の、裏側に潜む陰ってとこね。……面白いわね」
「うん。だけど、トイレの中は密室だから、どう見ても殺せる筈ないよなあ」
「そうよ、絶対無理だと思うわ」
「うーん、やっぱりそうか……」
「……でも、ちょっと待って」
亜希子が天井を向いて考え込んでいた。
「うーん、……一つだけ殺せる方法があるわね」
亜希子が新聞を頷きながらポツリと言った。
「えっ、ほんとかよ、……どういう方法?」
悟は、亜希子の口から何が飛び出してくるのか興味を持った。
「この浦上亮子と車掌とが、何らかの関係があるとしたら殺人は可能よね」
悟は、亜希子の発想に度肝を抜かれた。
「えっ、車掌とかい?」
「ええ、そうね、車掌と浦上亮子とが何らかの繋がりがあれば、簡単にやれるわよね」
「えっ、どうやる訳?」
「外傷がないということであれば、例えば劇薬を注射するとか大量の睡眠薬を飲ませるとか、方法は分らないけど、何らかの方法で殺しておいて、トイレの中に死体を置く。後は車掌が外からカギを掛ける。そして、朝になって、素知らぬ顔をしてカギを開け警察に通報する」
「あ、なるほど、車掌はマスターキーを持っているからなあ、……なるほどなあ、その手があるか」
「問題は、車掌と浦上亮子が、ほんとにグルかどうかということと、動機は何なのかよね」
「そうだなあ、だけど車掌と浦上亮子がグルだとは、どうしても考えられないよなあ」
だが、言いながら早川はある考えが頭をよぎった。まさかとは思うが、考えられない事ではない。この新聞記事の裏に潜む驚愕の事件を予感した。
「やっぱり、そうよね。……ねえ、そんなことより、お腹空かない?」
「そうだね。ちょっとシャワー浴びてくるから、その間今日の予定考えといて」
「そうね、お天気もいいし、絶好のドライブ日和ね。何処に連れって貰おうかしら」
悟は洗面所に入った
二人は食事を済ませ、フロントでチェックアウトした。その時、悟はホテルマンにメモを手渡された。
「オーナーからお渡しするように言われました」
「甲斐オーナーから? そうですか。ありがとう」
悟は首をかしげながらメモを開いた。
「なんて書いてあるの?」
亜希子が覗きこんできた。悟は亜希子にメモを手渡した。メモは筆書きで次のように書いてあった。達筆である。
当ホテルをご利用いただき、ほんとにありがとうございました。
またいらしてくださいね。お待ちしております。
お仕事の話で近々打ち合わせしたいことがあります。
お電話します。その時は宜しくお願い致します。
それから、花岡さんをお大事にね。とっても素敵なお嬢さんね。幸せにしてあげてね。
悟は、甲斐佐知代のスラッとした体形と美しさを思い浮かべながら、無性に胸が熱くなった。その思いを振り払うようにして、悟はにっこり笑って亜希子の手を引いた。
「さあ行こうか」
亜希子はこの時、初めて悟との新しい旅立ちを実感した。
悟と亜希子の休日は、あっという間に過ぎてしまった。そして、火曜日の朝になった。亜希子が篠ノ井に帰る日である。都内のホテルで、その日の朝を迎えたが、亜希子の顔がこの三日間の朝の顔と違っていた。カーテンを開け放った窓辺に立って、悟が寂しく言った。
「あいにくの雨だね、今朝は」
亜希子は、悟の腰に手を廻して寄り添っていた。
「……」
「帰るんだね、今日」
「……」
亜希子は無言だった。都心の雑踏が雨でかすんで蟻のように小さく見える。一点を見詰めて亜希子が呟いた。
「悟さん、明日からまた会社ね」
「うん」
「忙しくなるんでしょう?」
「そうだね、会社の命運が掛かっている大仕事に取り組まなきゃならないからなあ」
「これからは、思うように時間取れなくなるんじゃない?」
「そうでもないと思う。一時的にはそんな時もあると思うけど」
「ほんと?」
「うん、スタッフに指示して、チェックするのが俺の役割だからな、それに……」
「それに?」
「うん、アキのことをもっともっと知っておきたいし、その為の時間も欲しいしな」
亜希子の顔がぱっと明るくなった。
「あのね?」
亜希子はベッドに腰をかけ、悟に椅子に座るように促した。
「かしこまって、どうしたの?」
「この前から、言おう言おうと思ってたことがあるの」
「うん、何?」
「とっても大事な話なの。相談に乗ってくれる?」
「アキ、水臭いことは止めようよ。この前も言ったけど、何でも話してくれなきゃ」
「はい」
「アキの心の中に、悩みと言うゴミが巣食っていたら、俺が取り除いてあげるから」
「ありがとう。でも話にくくって」
「どうして? 俺には、アキの話を聞く耳がないってこと?」
「ううん、そうじゃないの。悟さんは、いつでもアキの話をよく聞いてくださるわ」
「じゃあ、話しにくいっていうと?」
「うん、あのね? アキね、仕事したいの。家にばかりいないで、何か仕事したいのね」
「うん、その話だったら、遠藤さんからも聞いたよ」
「君ちゃんから?」
「うん、亜希子が仕事したいけど、親が許さないから困ってるって」
「君ちゃん、そんなことまで?」
「亜希子を思ってのことだと思うよ」
「そうだと思うわ。ありがたいことよね」
「うん」
「君ちゃんの言う通りなの。いつまでもこのままでいたくないの」
「そうだね、その方がいいとは思うけど、ご両親が反対じゃあ難しいんじゃないの?」
「アキね、決めたの」
「何を?」
「もう子供じゃないんだし、いつまでも親の言いなりにはならないって」
「うん」
「それに、悟さんに、このことで迷惑掛けたくないの」
「俺のことは心配ないよ」
「ううん、早かれ遅かれ、いずれははっきりしなければいけないことだし」
「でも、難しそうだなあ、お父さん、かなり気難しいって聞いたよ」
「そう、尋常じゃないわね。昔かたぎの頑固なところがあるから」
「そうか」
「養子縁組の為の見合いをしろしろって、とてもうるさいの」
「見合いしたことあるの?」
「全部断ってきたわ。……私、そんなの嫌なの」
「一度くらい、してみたら?」
「いいの?」
亜希子は怒ったように言った。
「ははは、冗談だよ。そんなことしたら狂うよ。ほんとのオオカミになってしまうよ、俺は」
「ふふっ」
亜希子は嬉しそうに笑った。
「でね? 悟さんに相談と言うのはね」
「うん」
亜希子は暫らく躊躇した。
「思いきって言うわね」
「うん、そうこなくっちゃ」
「あのね、わたし、東京に出て来て仕事することにしたの」
「えっ、ほんと?」
悟は自分の耳を疑った。
「ええ、ほんとよ」
「だって、ご両親が許さないでしょう? そんなことしたら、大変なことになるんじゃないの?」
「もう覚悟してるの」
「そう、大丈夫?」
「ちょっと自信ないけど、もう決めてしまったの。自分の道を歩もうってね」
悟は驚いた。これまでの亜希子とは別人みたいである。
「で、俺に相談ていうのは?」
「言いにくいわね。……でも、ずばり言うわ。……父親に会って欲しいの」
悟はまたも驚いた。いずれは亜希子の父親には会って、ちゃんと話をしようとは思っていたが、まさか亜希子の口から今聞こうとは思いもよらなかった。
「ははァー、アキ、何か魂胆があるな」
悟は亜希子の顔をじっと見て言った。
「うふふ、誤魔化せないわね、図星よ」
「そうか、俺に、君のお父さんと戦って欲しいんだな」
「最初は、自分だけで親を説得しようと思ってたけど、とても出来そうもないし」
「うん」
「悟さんと一緒になって説得すれば、何とかなるんじゃないかと思ったの」
「そうか」
「そうなの。父親から私を奪って欲しいの。でも、無理なお願いね」
「いや、このことは、遅かれ早かれ解決しておかなければならないから」
「ええ」
「困難なことは、早めに仕掛けた方がいいうと思うよ。で、何か作戦でもあるの?」
亜希子は大きく頷いた。何か考えがあるようである。
「悟さんに逢ってから、ずーっと考えてたのね、このことを」
「そうなんだ」
「このことが解決しないと、ほんとの私になれないと思ったの」
「うん」
「もう少し早く相談しておけば良かったのに、悟さんに悪いと思って、言い出せなかったの」
「いや、よく話してくれたね。嬉しいよ」
「今日、東京を離れるとなると、辛くって。ほんとは帰りたくないけど、そうもいかないし……」
亜希子が淋しく笑った。悟と離れるのが無性に辛かった。
「俺だってアキがいなくなると淋しくなるから、ほんとはもっといて欲しいけど……」
「ですから、思いきって言っておきたかったの。悟さんにも考えておいて欲しかったから」
「分った。そうとなれば、何だか勇気が湧いて来たよ」
「ふふ、……ねえ、こっちに来て」
亜希子は悟に傍に来て欲しかった
「うん」
「私の父ね」
「うん」
「悟さんが思ってるほどヤワじゃないわよ。相当覚悟しないと負けるわよ」
「おいおい、今から脅さないでよ。こう見えても心臓弱いんだから」
「ふふ、そうかしら」
「もしも、負けたらどうなるの? アキとお別れ?」
「そうね、そうなるかもしれなくってよ」
「まじで? それはないよ。なんだか段々自信がなくなってきたなあ」
「大丈夫よ。悟さん信頼してるから。それに父の弱点知ってるから」
「えっ、お父さんに弱点あるの? 何なの?」
「いざ本能寺の時話すわ」
「うん、分った。なんだかワクワクするなあ」
「うふふ、頑張ってね」
「ところで、仕事って何か当てがあるの?」
「ううん、ないの、まだ決めてないの」
「それはそうだよね、急な話だからな」
「ええ、一応親との問題がすっきりしてからと思ってたから」
「そうだね、それが先だな」
「ええ、だからお願いね」
「分った。何とかするよ」
「嬉しい。これですっきりしたわ」
亜希子は安堵した。
「でも……」
「どうしたの?」
「……やっぱり、……別れるの淋しい」
「うん」
「もう少し東京にいようかしら」
「俺はそうしてくれたら嬉しいけど、でも、計画を早く実現するには、辛抱も大事だよ」
「そうね、そうだわね」
「今日は何時に帰るの?」
「夕方にするわ。……悟さん見送りしないでね」
「えっ、どうして?」
「だって、淋しくなって泣きそうだから」
「だったら、なおさら見送らなきゃあ」
「どうして?」
「アキの涙を拭いてあげられるの、俺しかいないだろう?」
亜希子がもう泣き出しそうになった。
「もう泣かないって約束だよ。俺が傍にいるんだから」
「だって……、わたし……」
亜希子は感詰まって言葉にならなかった。
「また、すぐ逢えるんだから、少しの辛抱だよ。……さあ、いつものアキに戻って」
「……はい」
夕方になり、二人は駅のホームにいた。
「亜希子、いろいろありがとう」
「お礼を言うの私の方よ、とっても楽しかったわ」
「うん、俺もだよ」
「ねえ……」
「うん、なに?」
「携帯に電話していいの? 迷惑じゃない?」
「大丈夫だよ、気にしないで。電話でもメールでもいいけど、電話の方が声聞けるからいいかも。仕事中で、よっぽどまずい時は言うから」
「嬉しい、……出来るだけ夜にするから、それでいい?」
「その方が助かる。でも何かあったら、どんな時間でもいいから連絡するんだよ」
「はい、そうします」
「それと、俺から電話とかメールしても平気なの?」
「もちろん平気よ、その方が嬉しい」
「うん、毎晩電話するかもよ」
「ほんと? 毎晩エルコンG・シャワーが聞けるのね。……ね、お願いそうして」
「あはは、うん、分った出来るだけそうする。……で、今度いつ東京に来れそうなの?」
「いろいろ親のことで作戦があるから、……でも、なるべく早く来たいの」
「うん、頑張ってな」
「はい、悟さんが篠ノ井に早く来れるように段取りもしなくてはね」
「うん、アキのリンゴは見たけど、木にぶら下がってる本物のリンゴを、いよいよ見られそうだなあ」
「まあ、ふふふ、悟さんたら。そうだったわね、レトロ列車の中で、そんな話してたわね」
「うん、こんな形でリンゴの木が見れるなんて思いもよらないけどな」
「わたしも嬉しいわ、悟さんの願いが叶えられそうで」
「ありがとう。……ところで、亜希子」
悟の顔がかしこまった顔になった。
「はい?」
「もう一度言うけど、亜希子はもう一人じゃないからな、分ってるよな」
「はい」
「自分を大事にして、くれぐれも無茶なことしちゃだめだよ」
「はい」
「困ったことや辛いことがあったら、必ず俺に相談するんだよ、いいね?」
「はい、そうするわ。……悟さん、……ありがとう。もう大丈夫よ」
亜希子は悟の顔を見詰めながら言った。雨に濡れた長野行きの新幹線が滑り込んできた。
「亜希子、……愛してるよ」
「私もよ、……愛してるわ」
二人は自然と手を取り合った。そして、目と目でじっと見詰め合った。
「気をつけてな、頑張るんだよ」
「ええ、悟さんも元気でね。お仕事頑張ってね。……電話待ってるね」
悟は大きく頷いて、出来るだけ明るい顔をした。亜希子が列車に乗り込んだ。乗客はそれほど多くなかった。亜希子は席のところには行かず、デッキに立ち悟の目を見ていた。悟は亜希子にそっと囁いた。
「今夜は眠れそうもないよ。着いたら電話してくれる?」
「ええ、そのつもりよ。私もきっと眠れなくってよ」
暫らくして、アナウンスと共にドアが閉まった。
亜希子の目から涙が頬を伝い流れ落ちるのを見て、悟は無意識にハンカチを出した。亜希子もハンカチを出して少し微笑んだ。そして、そのハンカチを振った。列車が動き出した。悟は、手で大きくハンカチを振りながら、列車と一緒に歩いた。亜希子がドアのガラスに手をあてがい、必死にハンカチを振った。
別れがこんなにも悲しいなんて、涙と共に胸に激痛が走った。亜希子は心で叫んだ。あと一分でいい、いや、一秒でいいから時間を止めて、お願いっ。
悟の疾走も列車には追いつけなかった。雨に煙り、小さくなる列車を見て大きくため息をついた。
ホームの天井を見詰めた悟の目から、一粒の涙が頬を伝った。淋しさが急激に悟の胸を襲った。そして、大きな穴がぽっかり開いたような感じがした。