□ 第二章 打診 □
次の日の朝、早川は八時前に出社した。新宿駅の南口から甲州街道を右に歩いて五分。超高層ビルの立ち並ぶ一角のはずれに九階建のビルがある。環太平洋建設株式会社の社屋である。
環太平洋建設株式会社は、国内の太平洋ベルト地帯に、北は東北仙台から南は鹿児島までの営業エリアに三十四の支店・営業所を構え、従業員約三千五百名を擁する準大手建設会社である。
早川は、田舎の高校を、アルバイトをしながらやっとの思いで卒業できた。親も一生懸命になって息子の学費を捻出してくれた。極貧の生活でも、何とか高校ぐらいは卒業させないと、という親の懸命さが早川には痛いほど分っていた。
以前は親父の事業も隆盛を極め、経済的には裕福であった。工務店を経営していた親父は、小さな町ではあったが、建築工事を始め土木工事なども手掛け、受注が切れることはなかった。長男の悟を跡継ぎにと考えていた。
だが、その思いは頓挫することになる。その後まもなく、親父に非情な事態が襲ってきたのである。そしてあえなく、あっけなく倒産してしまった。早川が十五歳の時である。それ以来、極貧生活が始まったのである。
高校三年の時の進路決定の段階で、担任の先生に勧められたのが環太平洋建設株式会社であった。当時この会社は、将来の幹部候補生養成を目的に、全国から優秀な人材を求めていた。出来れば大学進学を望んでいた早川には、この会社の入社条件に魅力を感じた。
条件は指定の大学の理工学部建築学科に合格した者で、会社の面接試験を突破すれば、学費を全て会社が負担するというものだった。指定校は東京の二校と大阪の一校で、働きながら通う二部つまり夜学である。いずれも有名な大学で、合格するには難関は必至の大学である。当然のこととして、入社後一定期間は退社できない旨の条件もあった。
担任の先生は、早川の家庭の事情もよく知っていた。早川が、出来れば大学へ進学したい希望を持っていることも知っていた。学力のレベルから判断して、この会社の入社条件は、早川なら難なく突破出来るのではと思い、就職を勧めたのである。
この話を聞いた早川は一も二もなかった。何も考えず話に乗った。担任に頭を下げた。もちろん、難関の大学に合格出来る保証は何もない。が、やってみるだけの価値はある。早川はこの会社に将来に対する希望を感じた。いや、この道しかないとさえ思った。
就職の準備もしてはいた。鹿児島市内や福岡市内の会社の面接を何度か受けたりもした。だが、早川は何となく気に入らなかった。すべてに希望が持てなかった。気分的に滅入ってしまい、悶々とする自分の気持ちを持て余していた。担任は、その様子をじっと見つめていた。将来性豊かなこの生徒に、何か手立てはないものかと思案していたのである。
こうして、無事指定の大学に合格し、環太平洋建設株式会社に入社出来たのである。そして、会社に勤めながらの四年間の夜学生活を卒業した。ちょうど十年前の春のことである。
最初の勤務先は都内の京橋支店であった。設計課に配属された。それ以来脇目も振らずに、ただがむしゃらにひたむきに働いてきた。そして、今十年が、いや苦学期間を入れると、十四年間という歳月が流れ、将来を担う若手のホープとまで言われるようになった。
早川は守衛に軽く挨拶し、このビルの正面の玄関ドアを開けた。二階の設計部のドアを開け席についた。広いフロアはがらんとしていて誰もまだ出社していなかった。いつものように早川は、ゆっくりと席に腰を下ろした。設計部は他の部署に比べて、机の上は書類や図面で一杯である。しかし、ついこの前、大型プロジェクトの仕事を終えたばかりの早川の机は綺麗に片付いていた。
早川は大きなガラス張りの窓辺に立ち、超高層ビルの立ち並ぶ方角を見た。近辺では超高層ビルが次々と建設され、都心の急速な変貌ぶりは目を見張るものがある。今でこそ慣れてはきたが、圧倒的なスケールのビル群に、当初は度肝を抜かれたものである。
設計技師の早川は、いつかあのような超高層ビルを、自分の手でプロデュースしてみたいといつも思っていた。毎朝こうして窓辺に立ち、眼前に広がる超高層ビルを見上げるのも、その夢を実現したい思いからであった。
八時半頃になってようやく社員が出社してくる。
「あ、早川主任おはようございます」
同じ課の宮下俊郎である。
「うん、おはよう」
「あれっ、主任は長期休暇ではなかったのですか?」
「うん、きのう部長から呼び出しがあってな」
「そうでしたか、おちおちゆっくりできませんね。ご苦労様です」
「何がご苦労様だよ。お前らがしっかりしないからだろう?」
早川は苦笑いしながら宮下に言った。
「すみません」
宮下はちょこんと頭を下げて、
「また、何か新規の計画でもあるんですか?」
と尋ねてきた。
「まだ詳細を聞いていない。また忙しくなるかもしれないぞ」
「はい、楽しみにしています」
「お帰りなさい」
部下達は早川のデスクの前に来て、朝の挨拶をしてそれぞれ席についた。
「あら、もうお帰り?」
コーディネーターの浅田香織が、にこにこしながら近づいてきた。
「おっ、丁度良かった。……これ頼むわ」
早川は、手提げ袋から、郷里の土産物を浅田に渡した。
「うわー、嬉しい。いただきまーす」
浅田の声は弾んでいた。早川は、浅田が自分に好意を寄せていることに気づいていた。理知的な顔立ちでスタイルもいい。だが早川は、彼女に対してそれほど興味はなかった。仕事詰の毎日である。誘われて、たまに食事や喫茶店に行っても、日常のありきたりの話に終始するばかりで、色恋の話からは程遠い付き合いである。
八時五十分に朝礼があり、始業は九時である。課長の岩田健一が右脇に書類を持って入ってきた。
「あ、課長おはようございます。休暇中はご迷惑をお掛けしました」
「いや、すまん。せっかくの休暇を台無しにしてしまったなあ」
既に部長と岩田は打合せ済みらしい。
「俺から君に連絡しようと思ったんだが、丁度部長が居てな」
「いえ、どちらでもいいですよ。どうせ結果は同じですから」
早川は岩田にすねてみせた。
「ははは、ま、そう言うなよ。それだけ部長が君を信頼してる訳だから」
早川にしてみれば、誰から電話があろうと知ったことではなかった。ただ、会社の一員として、業務命令には従わなくてはならないし、部下達の手前もあり、チームワークを乱す訳にもいかない。
「じゃあ、行こうか」
岩田課長は早川を促した。郷田部長の部屋に行こうと言うのである。郷田は建設事業本部担当の役員である。近い将来この会社のトップになるであろうと言われていて切れ者である。郷田部長の部屋は八階にある。
ドアをノックして岩田が先に入って行った。奥の方に部長の部屋がある。手前の部屋の応接セットに掛けて待っているように秘書に言われた。
暫らくして、秘書がお茶をテーブルの上に置いた。
「部長は、ただ今書類に目を通していらっしゃいますので、そのまま暫らくお待ちください」
秘書が去って暫らくして部長室のドアが開いた。
「おはようございます」
岩田と早川は立ち上がり深々と頭を下げた。岩田が郷田の前に進み出た。
「早川君を連れて参りました」
「やあー、おはよう。待たせたね」
岩田と早川は、促されて応接用のソファに腰をおろした。岩田は、部長の前にいる時はいつも緊張していた。ゴマすりのタイプではないが小心者ではある。社内の人事の厳しさは、小心者の岩田には、たった一つのミスでさえ恐いのである。その考えが、余計に気持ちを萎縮させてしまっている。郷田は、ハンカチで眼鏡を拭きながら席についた。
「早川君、すまんな。せっかくの休暇を呼び出したりして」
郷田はニコニコしながら早川の顔を見た。
「いえ仕事優先ですから」
早川はごく普通に自分の考えを述べた。
「そう言ってくれるとありがたいが、お母さんが悲しんだろう?」
「そうですね。もう大分年老いてますから」
早川は正直に答えた。ありのままを正直に語る早川に、郷田は好感を持っていた。それに、一旦議論になると、たとえ役員であろうと社長であろうと、臆することなく理路整然と、しかも堂々と持論を展開する早川に、期待に膨らむ思いを抱いていた。
「岩田君から指示してもらっても良かったんだが」
郷田は分厚い書類をテーブルの上に置いた。
「今度のプロジェクトは、社運を賭けることになりそうでねえ」
眼鏡を掛け書類に目を落とした。
「だから、俺が陣頭指揮することにしたんだ」
こういう場合の郷田の目つきは鋭い。
「競合相手が手強いから、慎重に且つ大胆に事を運ばないといけない」
書類を早川の目の前に滑らせた。
「この書類に目を通しておいてくれ。そして、君の意見を聞かせてくれないか?」
郷田は早川の上司である岩田を無視していた。
「分りました。時間はどのくらいの猶予がありますか?」
「三日間で取りまとめてくれ」
「はい承知致しました。三日後にご報告に上がります」
「そうしてくれ。頼むわ」
岩田と早川が郷田に一礼して席を立とうとした時、
「早川君は好きな女性はいるのか?」
早川は、郷田の突然の質問に少々慌ててしまった。
「いえ、おりません。それどころじゃありませんから」
「そうか、だが家庭も良いもんだぞ。それにだな、いい仕事をする為にも早く嫁を貰うことだな」
余計なお世話ですと言いたかったが、さすがにそれは言えなかった。
「……」
早川は黙っていた。
「ま、そのうち見つかるさ。何だったら世話してもいいぞ」
郷田の顔は笑っていた。自分の息子と話してるような話ぶりである。
「いえ、結構です。そういう気持ちになりましたら、ご相談にあがります」
「ははは、いつものことながら早川君らしいのう」
郷田は豪快に笑った。嬉しそうな顔つきである。
「じゃあ、これで失礼します」
岩田と早川がドア付近まで来た時、郷田が背中越しに言った。
「早川君、今度のプロジェクトの件だが、いつもと違うからな」
早川は振り向き郷田の目を見た。
「良い意見を待ってるぞ」
郷田のこのプロジェクトに賭ける意気込みが目に伝わってきた。
「かしこまりました」
早川は深々と頭を下げた。
「それとな、役員会の議題に上ったんだが……」
言いかけた時、郷田に電話がある旨を秘書が伝えた。
「この続きはまたにしよう。じゃあ頼むわ」
郷田は、ゆったりとした足取りで奥のドアを開けた。
「おはようございます」
部長の声が小さく聞こえた。岩田と早川は応接室を出た。
早川は郷田部長から手渡された書類に目を通した。大規模コンベンションセンターの国際設計コンペの詳細であった。
過去にも何度か設計コンペに参加したが、これほど大規模なコンペは初めてである。しかも、今回は国際設計コンペである。郷田部長の意気込みがこれまでと違うのも頷ける。部長は、このコンペに勝つための方策を意見としてまとめ上げ、三日後に報告しろと早川に命じたのである。岩田課長も郷田部長も言わなかったが、おそらく、他の主任クラスにも同様の意見を求めている筈である。その中で一番良い意見を中心に部内で調整し、コンペに向けての社内体制を整えようというのだろう。
休暇中にも拘らず早川を呼び戻し、コンペに対して部長じきじきの指示があったのには、それなりの理由があった。早川のこれまでの輝かしい実績がそうさせたのである。
設計部のリーダー的存在の早川は、そのデザイン力や管理能力、そして相手を説得する折衝力において、社内外から高い評価を受けていた。
競争の激しいこの世界では、受注活動において、他社との攻防の結果が会社の命運を握っている。油断をしたら直ぐひっくり返される世界でもある。特に設計コンペは、結果如何によっては、内外に大きな影響力を持ち、業界での発言力や企業のイメージアップに大きく作用するだけに、各社としては意地にかけても勝ち取りたいのである。
こうした中、早川の手掛けた設計やリーダーとして手がけたコンペは、ことごとく賞賛を受け、若手設計技術者として時代を担うホープとまで言われた。相手の会社にとってはやっかいな奴である。早川が担当になったという情報が流れると、各社も一線級の技術者をぶつけてきた。
だが、早川本人はそんなことは全く意に介していなかった。早川の気持ちの中には、仕事としての責任感を全うするために、一つ一つの作品に全知全霊を傾けて取り組んでいるに過ぎない。結果がありがたい結果になればいいし、そうでなかったら、研究努力して次のステップに生かしていけば良いことである。
何事も自然体で取り組むことをモットーにしている早川にとって、数々の賞賛や勲章にたいして、気をよくすることはあってもおごる事は全くなかった。むしろ、この会社で伸び伸び仕事が出来ることに感謝していた。会社のバックがあって初めて仕事が上手く行くこともよく理解していた。早川が会社を飛び出し、個人で事業したところで、誰も相手にしてくれないことぐらい充分知っていた。世の中はそんなに甘くはないのである。
早川は、部長に提出する為の報告書の作成にとりかかった。こういう時の早川の集中力は並外れていた。周囲の雑音が全く耳に入らない。声を掛けるものがあっても、ただ「うん」と言うだけで実際は耳は閉ざされているのである。周囲の社員や上司も、そのことを充分承知していて、滅多なことでは声を掛けない。相談事すら出来ない状態である。むしろ、社内で人望の厚い早川の行動を皆が注視してるところがあった。
特に若手の技術者達は、羨望の眼差しで早川を見つめ、彼の作品の持つ特異な設計やデザインに驚嘆していた。彼の作品の優れたところは、奇をてらわず自然に逆らわず、建築物と人間や自然との融合を意識して、人間に優しく、誰にも分り易い動線を保持しつつ、静な中にも躍動的な空間の創造にあった。
定時を過ぎ、早川に退社の挨拶をしながら部下達が帰り始めた。早川は部下達に笑顔で労をねぎらった。
「早川君、久しぶりに一杯やらないか」
岩田課長が、帰り支度をしながら話しかけてきた。早川は、課長の無神経ぶりに少々腹が立った。
「いえ、申し訳ありませんが、報告書の作成がありますので、……今日はちょっと」
「あ、そうだったな。しっかり頼むわ。じゃあお先に」
岩田は、まるで他人事のようにさっさと出ていった。いつもの事なので、早川は気にも留めずに報告書の下書きを続けた。
「早川さん聞いたわよ。部長に呼ばれたんですって?」
背後から浅田香織が声をかけてきた。早川は下書きに目をやりながら、
「うん」
とだけ言った。
「今度は何だったの?」
浅田は興味深げに聞いてくる。
「いや、大したことじゃないよ」
浅田に内容を漏らす訳にはいかないと思い適当に答えた。浅田は早川の態度を見て、部長から重要な指示が出されたと直感した。賢い女である。
「そう、じゃあ大したことじゃなかったら、今日は早く帰れるんでしょう?」
香織は笑いながら皮肉を込めて言った。早川は香織が誘っていると直ぐ察しがついた。
「いや、いろいろやることがあるんで、今日は遅くなると思う」
早川は香織の顔を見て言った。香織は笑っていた。
「そう、じゃあまたね。失礼します。……あ、それと、お土産物、みんなとっても美味しかった、って言ってたわよ」
香織はいかにも嬉しそうだった。
「……」
「じゃあね、頑張ってね」
香織がドアの向こうに消えた。
早川はそれから二日間かけて下書きを作り上げ、パソコンで清書して約束の三日後の朝、報告書と預かった書類を課長に手渡した。直に部長に手渡しても良かったが筋を通した。課長はその書類と早川の報告書を手にして喜んだ。
「いやあ、ご苦労だったね」
岩田は、書類と報告書を大事そうに抱え、八階の部長のところへ向かった。
それから一週間が過ぎた朝、岩田課長に呼ばれた。
「さっき連絡があったんだけど、朝礼が終わってから部長のところへ行くことになった」
岩田は少し緊張気味であった。
「例の報告書の件だと思うが、君も一緒に来いという部長の命令だ」
朝礼が終わり、岩田と早川は郷田部長の部屋のある八階に行った。岩田はソワソワしていた。自分の課の意見が採用されるかどうかは、課の責任者である岩田にとっては重要な問題である。
建設事業本部には、設計部と工務部、それに建設事務課と建設業務課がある。設計部が三課、工務部が三課のそれぞれに別れていて、各課に平均三十名ほどの社員が配属されている。
設計部の第一課長である岩田は、受注実績において他の課を大きくリードしていた。当然部内では発言力もあり意見を求められることも多かった。もし、今回の設計コンペに対する一課の報告書が不採用になり、他の課の報告書が採用されたら……、と思うと、岩田はいても立ってもおれないのである。受注実績は、早川という主任の力に負うところが大であることは認めざるを得ないし、今回のようなビッグな設計コンペの報告書も、早川の手によるものである。
報告書を作成するにあたり、早川は課内の全員から意見を吸い上げ、なお且つ徹底的に討論した。もちろん、設計コンペのことは伏せておいた。仮定の話として意見を求めたのである。
課内を統率し、一つの目標を達成する場合にどうしても必要なのが、作品に対するあらゆる価値観の共有である。価値観を共有するという意思の統一が出来なければ成果は期待出来ない。何をするでも、早川がこれまでとってきたやり方はこの一点である。いわゆる高度なチームワークの重視である。各人の能力を最大限に引き出し育て、大輪の花を咲かせるには、これしかないと思っていた。
激しい討論を通して、一人の社会人、そして、一人の技術者としての、それぞれの価値観や成果を共有してこそ大きなエネルギーが生まれ、そしてまた、そのエネルギーを作品の創造の過程でぶつけていくことこそ、生きた良い作品が誕生する唯一の方法だと思っていた。だから、早川が召集する討論会はいつも沸騰した。意見を持たないか、もしくは、言おうとしない部下も中にはいる。そういう場合、早川は決して部下を怒らない。その部下の目を期待を込めてじっと見て、何か発言するよう促すのである。
早川は部下達を信じきっていた。必ず意見はある筈だ。必ず分ってくれる筈だ。たいがいの場合この早川の信念は通じた。
岩田自身、自分の課長としての威厳が保たれるのも、早川のこういったチームワーク造りの成果が徐々に発揮され、そして課の実績に跳ね返った結果だということは充分承知していた。それだけに、今回の報告書が採用されるかどうかは、今後の社内での存在そのものに影響があるだけに、胃の痛む思いであったのである。当然早川から提出された報告書は、岩田自身もじっくりと目を通している。良くできた報告書であった。その点は岩田も自信があった。
秘書に案内されて、部長室の前の控室の応接間に通された二人は、郷田部長の現れるのを待った。
「採用されるといいけどな」
岩田は小さな声で、自分に言い聞かせるように言いながら早川を見た。
「多分、今回は厳しいかもしれませんね」
早川の言葉に岩田は驚いた。
「えっ、どういう意味だ。自信あるんだろう?」
岩田の目が早川の目を凝視した。狼狽していた。
「今回のコンペは課長もご存知なように、これまでにない規模とテーマです」
「うんうん、そうだな。で?」
「はい、今の社のレベルでは、とても無理だと思うんですよ」
「何だって? 君の報告書には、そんなこと書いてなかったぞ」
岩田は、少し大きな声で怒鳴るように言って、慌てて口を手で塞いだ。
「報告書はあくまで報告書です。重役に出す報告書に、無理だとは書けませんよ」
「それもそうだな」
「しかし、一課の全頭脳が集約されています」
「うん」
「ですから、それなりに評価はされるとは思います」
早川は小声で岩田を安心させた。
「それなりに評価はされるとは思いますが、私の考えでは、今のままでは無理だと思います」
「何か実現可能な対策でもあるのか?」
岩田は心配そうに訊ねた。
「はい、ない訳ではありませんが、問題は社が応じてくれるかどうかですね」
「どういう事だ?」
岩田は、早川のほうに少し身体を寄せてきて訊ねた。その時、早川は腰を上げて頭を下げた。郷田部長が近づいてきたのである。岩田もつられて慌てて起立し頭を下げた。
「やあ、おはよう、待たしたね。……ま、掛けたまえ」
郷田の顔は柔和であった。
「早川君、ご苦労だったね。報告書見させて貰ってるよ」
「はあー、ありがとうございます」
早川はこの時、呼ばれたのは報告書のことじゃないなと直感した。
「報告書の件は、近いうちに結果を発表するとして、……岩田君」
郷田は岩田の方を振り向いた。
「どうだろうか、早川君に少し旅をして来て貰いたいんだが」
「はっ?」
岩田は突然のことで意味が分らなかった。早川も、郷田の言わんとしてることが呑み込めなかった。
「この前ここに来てもらった時、私が言いかけたことがあったろう?」
早川は思い出した。部長が言いかけたとき電話が鳴ったことを。
「はあー」
岩田は曖昧な返答をした。
「実は役員会で議題になったんだが、米国に支店を出すことになってな」
寝耳に水とはこの事である。
「アメリカ支店ですか?」
岩田がびっくりしたように問い返した
「そう、これからは、グローバルな視点で経営して行かないと駄目なんだよ」
「はあー」
「その為にも、海外の拠点造りは、我社の夢だったんだよ」
郷田は続けた。
「で、正式発表の前に、内々に打診しておきたかったのでな」
岩田は返事に窮していた。
「事務所を構える前に、いろいろ調査して貰いたいことがあるんだよ」
郷田はお茶をすすりながら続けた。
「そこで、早川君に下調べをしてもらいたいと思ってな」
「米国は何処ですか?」
岩田がやっと質問した。
「西海岸のカルフォルニア州のサンフランシスコを考えてる」
「一人だけで調査するんですか?」
今度は早川が尋ねた。
「いや、二人随行させる予定だ。二人の人選は人事部に任せてある」
岩田は困惑しながら尋ねた。
「どの位の期間でしょうか?」
「そうだね、二年は掛からないだろう」
岩田は、郷田の前でなければ腰を抜かすところだった。
「岩田君にしたら、ドル箱がいなくなる訳だから大変だろうけどな」
見抜いたように、郷田は岩田を見て笑っていた。
「これは……」
言いかけて郷田は、一枚の印刷物を目の前に置いた。
「今やらないと、タイミングを失してしまいかねない」
印刷物は、ライバル会社の海外拠点進出の予定表だった。
「今計画を実行しないと意味がない。他社にやられてしまう」
郷田の目が鋭くなった。そして、
「いいかね、この話はまだ内密にしておいてくれ。近いうちに社内発表する」
郷田は早川を見た。
「早川君、すまんが承諾してくれ。君しかいないんだ。もちろん人事部の了解はとってある」
「はあー、少し時間頂けませんか? 良く考えてみます」
普通ならこんなことは言えない。上司に対する早川特有の応じ方である。
「頼むよ、会社の為だと思って」
「返事は明日でいいから、今夜ゆっくり考えてくれ」
早川はこの時、設計コンペのメンバーから外されたと直感した。
早川と岩田は席に戻った。岩田はショックを隠しきれない様子だった。それもそうである。今後の課の運営に重大な局面が訪れようとしているのである。早川は目を閉じ、じっと考えた。
浅田がお茶を入れてくれた。
「おはようございます。朝から何を思案してるの?」
「うん、ちょっとね」
早川は厳しい顔で曖昧に答えた。
「まあ、怖い顔」
浅田は早々に自分の席に戻った。
早川は考えを整理してメモした。
- 米国支店設立は役員会での決定事項である。
- 郷田部長がその責任者になった。
- 調査員として早川が選ばれそうである。
- 多分これは部長自らが決めたものであろう。
- 従ってこの命令はほとんど拒否できないであろう。
- 随行員が二人つく。この人選は人事部が決定する。
- 米国での滞在期間が二年程度になる。
- 社内の正式発表が近々なされる。
- 間違いなく一課の成績が落ちるであろう。
- 設計コンペのスタッフとしては参加できないであろう。
- 早川の後任に誰がなるのか。
- 米国での経験が今後の自分に役立つかどうか。
- 少なくとも二年間は設計の仕事から遠ざかる。
- 米国の建築物の視察やデザインの勉強が出来る。
- この点は願ってもないチャンスである。
いろいろな考えが早川の脳裏を巡った。腕組みをし目を閉じ考え続けた。
早川のデスクの電話が鳴った。早川は電話の音で我に返った。
「はい、早川のデスクです」
「早川主任、お電話です」
交換手からの声だった。
「誰からですか?」
「はい、遠藤とおっしゃる女性の方からです」
早川の知らない名前である。
「遠藤さん? 女性? 人違いじゃないかなあ? 知らないけどなあ」
早川は思わず、遠藤という名前と女性ということを口に出してしまった。
「いえ、早川悟さんとはっきりおっしゃっています」
「何処の遠藤さんか聞きましたか?」
下請けかどこかの会社の社員かもしれない。
「いえ、すみません。うっかり聞きそびれました」
交換手は申し訳ないような口ぶりだった。それでも交換手かよ。
「もう一度聞いてくれませんか?」
早川は交換手に、何処の遠藤さんかを聞くように頼んだ。暫らくして交換手から連絡があった。
「長野の方だそうですが」
「そうですか、ありがとう。……切り替えてください」
早川は電話に出た。
「お待たせしました。早川です。……どちらの……」
言い終わるか終わらないうちに、
「わたしです。分ります? 遠藤です」
早川は、何処かで聞いたような声のような気はしたが、思い出せなかった。
「遠藤君子です。ほらレトロ列車の中で……」
まさか……、早川は脳天を打たれた。すっかり忘れてしまっていた。
「あァー、遠藤さん。……これは、これは、失礼しました。この前はどうも」
「ふふふ、やっと思い出してくれましたね。……その節はどうも」
そういえば、あの出来事から二週間以上が経過していた。早川はこの時、あるただならぬ予感を感じた。亜希子のことが、昨日の出来事のように鮮烈に思い出されてきた。
「どうしてここが分ったんですか?」
あの時、会社の電話番号を教えた覚えはなかった。
「ふふふ、どうしてでしょう。当ててみて」
遠藤君子は、からかっているようだった。社内である。しかも女性からとあって、部下達が聞き耳を立てているようだった。早川には過去にゴシップらしきものは一度もなかった。仕事柄、男性だけの世界で生きてきただけに、女性からの私的な電話は珍しかった。早川は気まずさもあって話を変えた。
「さっぱり見当つきません。……あのー、もう長野に帰られたんですか?」
「そうです。でも今は違うところからですよ」
「違うところ? さて何処でしょうか」
早川は、遠藤君子が、どうして会社の電話番号を知り得たのか、さっきから気になっていた。
「今、東京にいます。早川さん、今夜時間取れません?」
早川は驚いた。君子は東京に来ていたのである。しかも、逢ってくれないかと言うのである。何の用事だろう。
「はあー、そうですね、八時には仕事から解放されると思いますが」
今夜は誰にも会いたくなかった。米国行きの件を部長に指示されている。明日にでも返事しなくてはならない。じっくり考えたかったからである。
だが早川には、あるもう一つの思いが急に出てきた。遠藤君子と花岡亜希子が、あの後どのような行動をとったのかは分らない。いつ長野に帰ったかも、もちろん知る由もなかった。それどころか、今の今まで記憶の彼方にあった出来事である。もしかしたら、遠藤君子に逢えば亜希子のことが分るかもしれない。そう思うとなおさら、亜希子のあの美しい笑顔が眩しく思い出された。
早川は、遠藤君子の指定するホテルのロビーで待ち合わせすることを約束した。
浅田香織は、相手の声はもちろん聞こえなかったが、早川が女性らしい相手と会話しているのを、事務を取りながらじっと聞き耳を立てていた。不安が頭をよぎり心が動揺していた。
君子の指定したホテルは渋谷にある。会社から二十分もあれば充分である。七時が過ぎた。社員がいなくなるのを待って、コーディネーターの浅田香織が早川のデスクの前に来た。
「今夜はデートみたいね」
香織の顔には、いつもの笑顔はなかった。
「デートって言えるものじゃないよ」
「だって、女の人と会うんでしょう?」
「うん、それはそうだけどな」
「取引先の人?」
「いや、ほらこの前田舎に帰った時があったろう?」
「ええ、ついこの間よね。……田舎の人?」
「いや、列車の中でたまたま同席した人だよ」
早川は正直に話した。
「長野の人でね、東京に来たから、時間があったら会ってくれないか、って言うから」
「どんな人なの? 歳は幾つくらい?」
香織は完全に嫉妬していた。
「そうだねぇー、俺と同じか少し下かなあ。……どんな人って俺にも分らないよ」
「じゃあ、どうして会うの?」
「こういう場合、むげに断る訳にもいかないだろうと思ってね」
早川は、亜希子のことは言いたくなかった。
「もうー、人がいいんだから早川さんは」
香織はすねて見せた。早川の性格は良く分っていた。香織は早川のそんな性格がたまらなく好きだった。早川とは、たまに食事をする程度の付き合いであった。最近になり、早川が、いつまでたっても、自分の真正面に居てくれないもどかしさを感じていた。まして、社内での人望も厚く実力のある早川に、若い女性社員達は憧れの目で見ていた。
湯沸し場や洗面所の中での会話の中に良く出てくるのが早川のことである。建設部には事務課も入れて十人近い女性がいた。香織はたまたま建設部の中でも、インテリアコーディネーターとして作品に直接携わっていた。時には早川と一緒に作品に携わることもあった。それだけに、同僚からは女性特有の妬みに近い態度をとられることもあった。
香織は、早川を理想の男性として慕い恋焦がれたていたが、完全な片思いであった。早川は、そんな香織の気持ちは良く分っていたが、同僚社員の域を出ることはなかった。
八時五分前に早川は君子の指定したホテルに着いた。
時間にことのほか厳しい早川は、余程のことがない限り約束の時間を守った。君子は既にロビーのソファーに、やや太目の身体を深く沈めて待っていた。
「お久しぶりー、来ていただいて嬉しいわ」
君子はいかにも嬉しそうだった。
「こんばんは、お元気そうですね」
「お食事は?」
君子はソファから立上りながら尋ねた。
「いえ、まだです。食事しながらお話ししましょうか」
二人はホテルの最上階のラウンジに向かった。エレベータの中で、君子は早川の顔をしげしげと見ていた。君子の服装は清楚で地味だった。早川は最上階までの時間が長く感じた。ラウンジは割合空いていた。二人は窓辺のテーブルに案内された。知らない人が見たら、まるで恋人同士みたいな二人である。
「うわー、さすが東京ですね。夜景が綺麗ですこと」
君子は、ラウンジから見える東京の夜景にしばし見とれていた。料理とワインを注文した。
「東京は何の用事でいらしたんですか?」
早川が切り出した。
「はい、目黒にいる弟が、たまには遊びに来たらというものですから」
「東京には時々いらっしゃるんですか?」
「いいえ、二度目です」
「そうですか。弟さんはどこかにお勤めで?」
「はい、コンピュータ関連らしいですけど、私には分りませんわ」
横文字の会社名が、君子には記憶としてないらしかった。
「お待たせしました」
料理とテーブルに並べられた。赤ワインが氷の器に入れられていた。給仕がまず早川のグラスにワインを注ぎ、続いて君子のグラスに注いだ。
「ごゆっくりどうぞ」
給仕が去って行った。再会の乾杯をし食事に手をつけた。
「あら、結構な味ね、この料理」
「そうですね、割合いけますね。……ところで、料理のことで、一つだけ気に掛ることっていいますか、何故だろうと思っていることがあるんですが、教えていただけますか?」
「あら、何かしら」
「ええ、あの時、朝食をご馳走になったのですが、花岡さんは、どうして別にもう一つの弁当を用意されていたのかなあ、と思いましてね」
早川はこの際、花岡亜希子のことを少しでも多く聞いておきたいと思っていた。
「ふふふ」
「だって、普通はそんなことまずあり得ないことでしょう?」
「そうね、そう言えばそうよね。……でもね?」
「はい」
「あれは、別に特別なことではないのよ」
「でも、花岡さんは……」
「実はね、亜希子はいつもそうなの。友達同士で集まる時とかハイキングをする時とか、そうそう、カラオケに行く時なんかもそうですが、必ず一つ余計に弁当を用意するの」
「ヘェー、またどうしてなんですかね」
「あのね、亜希子は、料理を作ることがとても好きなのね」
「ええ」
「だからっていう訳でもないんでしょうけど、一つ余計に作ることで、何かの時に人の役に立つのではと、いつも思ってるみたい」
「何かの時?」
「ええ、この前の旅行の前にも一度あったわ」
「……」
「お友達五人でハイキングに行った時にね?」
「ええ」
「お昼ご飯を食べようとした時、一人の友達が、お弁当を家に置き忘れてきたことに気づいたのね」
「ヘェー、よっぽど慌てていたんですね、その人」
「そうなの。その友達っていつもそうなの。おっちょこちょいよね」
「そこで、花岡さんのもう一つの弁当が役に立ったという訳ですね」
「そうなの。亜希子はそれを”もう一つの幸せ”って言ってるの」
「もう一つの幸せ? ヘェー、何だかいい響きですねー」
「でしょう? 亜希子が言うにはね?」
「はい」
「人間、一番幸せを感ずる時って、食事する時じゃないかって」
「なるほど」
「人はそれぞれ食べる喜びもあるけど、食べられる喜びの方が、よっぽど幸せ感が強いのじゃないか、って言うの」
「うんうん」
「亜希子の家は、とてもお金持ちだけど、そのお金持ちの家の娘が言うのよ。食べられる喜びって。……分ります?」
早川は食べることの切実さを痛いほど感じていた。食事が出来る喜びは、親父の会社の倒産以降身をもって体験してきたのである。それは恐怖にも似た苦しみであった。
毎日食事がいただけて、空腹を満たすことが出来る喜びは、食の苦しみを味わったものしか分らない痛切なものである。だから、早川は、食べられる、つまり、食べることが出来るということは、生活上とても幸せなことであり、人生の喜びの一つだといつも思っていた。衣食住の中で、満たされない食ほど過酷なものはないとさえ思っていた。
国内はもとより、世界中のあちこちで、この人生の喜びを味わえない人々が何と多いことか。好き好んでそういった境遇になった訳ではない。民族、宗教、政治などの複雑な絡みが、そういった事態を生んでいるという指摘もある。同じ人間として生まれて、なぜそのような目に合わなければならないのか。悲しい現実である。
ご飯茶碗にこびり付いた米粒一つも残さず食べる。早川にとっては、この極々当たり前のことが、実は食べられることへの精一杯の感謝の念を表していたのである。
「はい、分ります。……分りますとも」
早川は、遠藤の目をじっと見つめて言った。
「亜希子はいつも言ってるわ。自分の家は生活には困らないし、もちろん食べることも困らない。でも、好きな手料理で何かの時に人が幸せになれるなら、たとえそれが結果として無駄になってもいいの。万に一つかもしれないけど、別の一つの幸せを作れたら自分も幸せって」
「なるほどねー、なかなか出来ることではないですよね」
「そうなの。私なんか料理も得意じゃない上に、自分の手弁当を作るのに精いっぱいで、情けない話ですけど、時には近くのコンビニ弁当持参なんてこともあるのよね」
「そっかあ、じゃあ、私は、その、何かの時の、別のもう一つの幸せを頂いた、って訳ですね?」
「そうよ。だけどそれは、亜希子にとっては何でもないことなのよね」
「でも、もし、その弁当が無駄になってしまったらどうするのですか? 捨ててしまうのですか?」
「いいえ、亜希子の作った美味しい料理を捨てるなんて勿体ないことですもの。みんなの小腹に納まっていきます」
「あは、なるほど」
「あら、やだあ。早川さん、私の身体をしげしげ見て」
「あ、いや、その、……そんなつもりじゃあ」
「ふふふ、幸せ太りね。亜希子のせいよ」
「あはは、なるほどねー、これで納得しました。それにしても、花岡さんて優しい心の持ち主なんですね」
「だから私は、亜希子が大好きなの。最高の友達よ」
早川は、世の中にはそういう人もいるんだと内心感心していた。夜景が二人を和やかにし会話が弾んだ。
「旅行はどうでしたか?」
早川はやんわりと話題を変えた。
「はい、楽しかったです」
「それはよかった。花岡さんとはよく旅行されるんですか?」
「いいえ、初めてのことでした。亜希子に誘われたの」
「あ、そうでしたか。……で、博多はどうでしたか?」
「程良い規模の都会だし、食べ物は美味しいし人情味はあるし、とっても素敵な街ね」
「どの辺りを観光されたのですか?」
「えーとね、海ノ中道とか太宰府天満宮でしょう? 福岡タワーでしょう? それと、佐賀県の唐津まで足を延ばしました」
「唐津ですか?」
「そう、呼子町というところがあって、そこのイカの料理が有名だって聞いてたもんですから」
「イカを食べに、わざわざそこまで行ったのですか?」
「そうなの、イカが大きないけすの中でたくさん泳いでいて、見ているだけでも楽しいけど、料理がまた最高に美味しかったの」
「へェー、そうですか。獲りたてのイカ料理三昧?」
「そうなの、フルコース。イカに美味しかったか、食べた人でないと分らないわね。わざわざ行くだけの価値は充分あるわよ。早川さんも一杯イカが?」
「あはは、上手い、二回も洒落ましたね。……後はどの辺に行かれたんですか?」
「そうね、いろいろ回ったけど、あ、そうそう、博多に戻って、天神のブティックも何軒か回ったわね」
「えっ、ブティックですか? ……ああ、ショッピングですね?」
「それがそうじゃないの。亜希子がどうしても付き合ってくれって言うもんだから、一緒に見て回ったんだけど、買う気は全然ないのよね」
「そうですか、目の保養ですかね?」
「博多は全国に先駆けて、いち早く流行を知らせる街だとも言われているから、最近流行しているのはどんなのがあるだろうと思って、見て回ったんじゃないかしらね」
「そうでしたか、博多は、リトルトーキョーなんて言われているくらいですからね、とても魅力のある街ですね。……中州の夜も散策されたんでしょう?」
「ええ、あの屋台は凄いわね。軒を連ねて、いい雰囲気よねぇー。橋のたもとの屋台でラーメン食べてブラブラしました。居酒屋にも行きました」
「そうでしたか、博多の夜を満喫されたのですね?」
「橋の上で芸道人が何かやってたり、それに、あれ何て言う川なのかしら、川面に映るネオンがキラキラしてて、何とも言えない風情があって、……いいわねぇー」
「おや、思い出しウットリになりましたね」
「ええ、何だか一生暮らしてみたい街ね。……ほんと素敵な街よね、博多って」
「そうですか。……ところで、せっかくウットリされてるところに、話がまるで変わってしまって申し訳ないのですが、もう一つ質問してもいいですか?」
「はい? 何でしょうか?」
「どうして私の連絡先をご存知でした?」
早川は昼間から喉につかえていたことを尋ねた。社内では同僚の手前もあり長電話出来なかった。君子の顔はワインが効いてきたらしい。頬がほんのり赤くなっていた。
「ふふふ、どうしてか知りたい?」
君子は意地悪そうに言った。
「はい、列車の中では、お教えした覚えがないものですから」
「実はね、亜希子に教えてもらったの」
「えっ、亜希子さんに? どうしてご存知だったんですか?」
早川はつられて、ここで初めて亜希子という名前を口にした。
「ふふふ、私も驚いたけど、ちょっとしたトリックね」
「トリック? 何ですかそれ」
「あのね、ほら、警官に言われて連絡先をメモしたでしょう?」
「ええ、そうでした」
「まず早川さんが書いて、それから、そのまま亜希子にメモ書きが渡された」
そこまで聞いて早川は唖然とした。亜希子は渡されたメモに自分の連絡先を書きながら、早川の電話番号を暗記したのである。
「私も、どうして知っていたのか最初分らなかったの」
君子は、亜希子の記憶力の良さに驚いていた。
「もともと学校の成績も良かったし、頭がいい人だからね亜希子は」
早川はそこまで聞いて、君子の言うトリックの意味が分った。それにしても、どうして早川の連絡先を記憶する必要があったんだ。察した君子は早川の顔を見ながら言った。
「私が東京に来た目的のもう一つは、いま早川さんが考えてることと関係してるのよ」
「と言いますと?」
「ちゃんと聞いてね!」
「はい」
「これから亜希子が、どうして早川さんの連絡先を記憶したかったのかを話しますから」
「はい」
「亜希子ね、汽車の中での早川さんを、とても気にしてたみたいなの」
「ヘェー、そうですか」
早川は照れながら言った。
「私も全然気づかなかったんですけど、博多駅についてから、どうも様子がおかしいのよね」
「おかしいって、どうおかしいんですか?」
「ええ、いつもの亜希子じゃないの。長い付き合いだからすぐ分るのね」
「はい」
「あれでも亜希子は身辺は綺麗だし、滅多なことでは男性に気持ちが動かないタイプなの」
「はあー」
早川は事のなりゆきに胸がドキドキしてきた。そして、降り立った駅での亜希子の表情が鮮やかに思い出された。
「亜希子はね、もう一度早川さんに逢いたいみたいよ」
早川の心にパッと日が差し込んだ。胸の鼓動が激しく突き上げてくるのを感じた。
「早川さんはどうなの? 亜希子のことどう思う?」
すぐにでも「同じです」と言いたかったが、
「どうと言われても、……でも、とっても素敵な方だとは思います」
ワインのせいではなかった。早川の顔に赤みがさしていた。
「ふふふ、白状なさい。……逢いたいんでしょう?」
君子は屈託がなかった。
「参ったなあ、君子さんには」
早川は、遠藤君子のことを君子さんと言うことで親しみを表した。
「ごまかしても顔に書いてありますよ。逢いたくて仕方がないとね」
微笑みながら君子は続けた。
「ねえ、逢ってあげて亜希子に。……お願い」
君子は、顔の前で両手を合わせて早川に懇願した。言われるまでもなかった。逢いたいのは山々である。博多駅で別れる時、もう二度と逢えない人だと思っていた人だった。それがこうして、その気になれば逢えるという。いや亜希子のほうが逢いたがっている。早川には奇跡が起こったとしか思えなかった。
「亜希子の携帯番号教えるね。……電話してあげて」
君子はバッグの中から手帳を取り出して、亜希子の携帯電話の番号をメモした。そして、メモしたページを破いて早川に手渡した。メモ書きを受け取りながら、亜希子に対する君子の友情に早川は胸を打たれた。
「ありがとう、君子さん」
「あー、これですっきりした。……さあ飲みましょう、今夜は」
それから二人は、スナックに立ちより夜更けまで飲んだ。君子は亜希子のことを、我がことのように楽しそうに話してくれた。君子は酒が強かった。下戸の早川はウーロン茶で相手した。君子と別れたのは深夜の一時過ぎだった。君子をタクシーに乗せ見送った。
終電には間に合わなかった。早川も社宅のある横浜の大倉山までタクシーを飛ばした。早川はタクシーの中で考えた。
亜希子はなぜ直接電話してこなかったんだろう。なぜ、わざわざ君子に依頼したのだろう。それとも電話したくても何かの理由で出来なかったのか。それに業を煮やした君子が段取りしてあげたのか。
それともう一つ、早川が東京に戻っていることを、どうして知っていたのだろう。たしか列車の中での会話では、十日から二週間程度は田舎にいると言ったような記憶がある。実際には四日間しか田舎にはいなかったものの、今日でだいたい二週間ぐらいは経っている。それにしてもタイミングが良すぎる。
いずれにしても亜希子と連絡がとれる。亜希子と再会出来るかもしれない。早川にとってこんな嬉しいことはなかった。まさか、亜希子が自分のことを気にかけてくれてたなんて。あのレトロ列車での出来事が、亜希子の表情とダブって思い出され、改めて亜希子の魅力に酔いしれていた。
早川の社宅は横浜市港北区の大倉山にある。八世帯の小さな独身寮である。東京渋谷区の代々木にも大きな独身寮はあったが、早川はこちらを希望した。本社のある新宿と代々木は、歩いて行けるほどの距離である。会社と住居が近いのを早川は嫌ったのである。せめて寝る場所ぐらいは、静かでゆっくり出来る所にしたかった。
タクシーを降りて社宅の階段を上り、部屋のドアを静かに開けた。深夜も二時近い。廻りは寝静まっている。部屋に入り、とりあえずシャワーを浴びたかったがベッドに横になった。少し興奮していて、頭が冴え眠れそうになかった。ふと、電話のランプが点滅しているのが目に入った。留守録のランプである。早川は巻き戻してテープを聞いた。
「早川君、明日の晩、時間空けてといてくれないか、ちょっと相談があるんだが」
珍しく岩田課長であった。会社で言えばいいことをわざわざ留守電とは。早川が帰っていると思って掛けたが、留守だったから録音したのだろうが、それにしても留守録することもないだろうにと思った。テープは次の音声を出した。
「早川さん、さっきはごめんね。明日、社が引けてから逢えない?」
香織の声である。早川はネクタイをはずし寝巻きに着替えた。改めてベッドに横になり、明日、いやこの時間だと正確には今日のことを考えた。亜希子のこともあるが、渡米の返事もしなければならない。渡米はおそらく断れないだろうし、米国に行けば亜希子とは当分逢えないことになる。せっかく亜希子に逢えるチャンスがありながら、それが出来ないなんて。早川は思案にくれた。だが、それも束の間だった。寝つきのいい早川は、いつの間にか寝入ってしまった。
寝不足で朝はさすがに辛かったが、いつものように八時頃会社に着き、窓辺に広がる超高層ビル群を仰ぎ見ていた。
その時、早川は、ふとある考えが浮かんだ。
岩田課長が珍しく早く来た。窓辺の早川に近づいて来た。
「おはよう、留守電聞いてくれたかな?」
「あ、おはようございます。……はい、聞きました」
「今夜いいかな、時間とれるかい?」
「多分大丈夫ですけど、社内じゃまずいことですか?」
「いや、そういう訳でもないんだが、ちょっと込み入った話なんだよ」
「そうですか、課長の頼みですから、断る訳にはいかないでしょうからね」
早川は冗談めいて笑いながら答えた。
「すまん、頼むわ、今夜七時ごろ例の茶店で待ってるよ」
「いえ、一緒に出ましょう。そのほうがいいんですが」
早川は、今夜逢ってくれと言う香織のことが頭にあった。
「そうか、じゃあそうしよう」
朝礼が終わり早川が席に着くなり、課長が声を掛けてきた。
「早川君、今朝部長に返事するんだろ? 例の話」
「はい。何時ごろ行けばいいか、後で部長に連絡しといていただけませんか?」
「うん、それだけどな」
課長は躊躇しているような口ぶりだった。その時、早川の机の電話が鳴った。
「はい、早川のデスクです」
「おー、早川くん、おはよう」
郷田部長であった。
「昨日の渡米の返事聞きたいんだが、ちょっと来てくれないか」
「はい、課長と一緒に参ります」
「それだったら課長に電話しとるよ。君だけ来てくれ」
「はい。かしこまりました。ただいま参ります」
課長が怪訝そうな目つきで早川を見た。
「部長に呼ばれました。行ってきます」
「で、なんて返事するんだ」
「もちろん、社の命令ですから断れないでしょう?」
「そうだよなあ、君の将来の為にもいいチャンスだからなあ。……あーぁ、設計コンペはダメだろうし、君は行ってしまうし困ったもんだ」
岩田の顔には苦悩が滲み出ていた。
「じゃあ、行ってきます。後でご報告します」
秘書に案内されて早川は部長の部屋に入った。控室の応接間である。秘書はテーブルにコーヒーを置いた。秘書が部長室のドアの前のカウンターの席に座って間もなく、ドアが開いて部長の柔和な顔が現れた。
「おはようございます、部長」
「やあ、忙しいのにすまんな。……ま、掛けてくれ」
郷田は、秘書の入れたコーヒーを飲みながら早川の顔を見た。
「早速だが承諾してくれたかな」
「はい。社の命令ですから承知しておりますが……」
早川は郷田の目を見て言った。
「聞いていただきたいことがあるんですが、宜しいでしょうか?」
「うん、言いたいことがあったら言ってごらん」
「はい、ありがとうございます。……実は、米国行きを少し延期して貰えないかと思いまして」
「延期? そりゃまたどうしてだ、日程は役員会で決まっとるぞ」
「はい、承知しております。確か米国への出発予定は来年の四月でしたね」
「そうだ」
「そこで私のお願いなんですが、私の渡米を三ヶ月から半年間程度先送りして貰いたいのです」
郷田は早川に何かがあったと思った。早川は続けた。
「出発日は変更出来ないでしょうから、私の変わりに先発隊として誰かに行って貰う訳には……」
「おいおい、早川君。今度の渡米が会社にとってどれだけ重要か、君には分ってないようだな」
郷田は厳しい顔になった。だが、ここで怯むような早川じゃなかった。
「いえ、充分理解しているつもりです。それに、私を指名していただいて光栄に思っております」
「出発まではまだ半年もあるぞ。早川君らしくないね。何かあったのか?」
「いえ、何もありません。ただ……」
「ただ、何なんだ」
「はい。……設計コンペのことなんですが」
「設計コンペがどうした」
郷田は、今にも怒鳴りそうな剣幕である。
「はい、どうしても私の手でやらして欲しいんです」
この時、郷田は、早川が何を言おうとしているのかが呑み込めた。
「渡米しますと、少なくとも二年間は設計業務から遠ざかります」
早川は続けた。
「ですから、これは私の希望です。思い上がった考えかもしれませんが、今回の設計コンペで、自分の腕を試してみたいんです。報告書には書きませんでしたが、今の会社のレベルではとても難しいコンペです」
確かに今回のコンペは規模といい内容といい、これまでのコンペと大きく違う。郷田もこの点は思案しかねていた矢先である。郷田は早川がそこまで考えているとは思ってもいなかった。
「そうか、いやその件でも、実は、君に意見を聞こうと思っていたんだがな」
「はい」
「君の言う通り、かなりハードルの高いコンペだな。だから応募を断念しようと思ってるんだよ」
郷田は応募して惨敗するより、棄権したほうが得策だと言うのである。
「部長、お言葉ですが、私に勝算があります。私にやらせてください」
早川は強い口調で懇願した。
「だから、渡米を三ヶ月から半年遅らせてくれと言うのか、コンペの設計に専念する為に」
「はい。そうです。申し訳ございませんが、何とかご配慮いただけないでしょうか」
早川が郷田に対して、仕事の上で懇願するのはこれが初めてであった。
郷田は、早川の将来性を高く評価していた。渡米後は実戦部隊から退かせ、重要ポストに抜擢する予定であった。若いにも拘らず、社のことを実に良く考える青年であった。しかも、今の早川の提案には無理がない。むしろ、良い提案のような気もする。報告書の中身も、早川の意見が的を得ているし実現可能なような気がする。場合によっては、早川にとって現役最後の大仕事になるかもしれない。早川ならやってくれそうな気もするし、やらせてみたい気持ちにもなっていた。
郷田は暫らく思案していた。米国への出発予定は来年の四月ではあるが、出発前の準備としてやらなければならない業務がある。国際設計コンペの応募の締め切りは四月末である。完全に重なってしまう。応募の締め切りの変更は当然無理なことであるが、米国への出発予定は役員会に諮れば多少の延期は出来るかもしれない。だが、一旦役員会で決定した案件を軽々しく変更するのもどうかと思う。
早川の意見は、米国には来年の四月に先発隊を派遣し、三ヶ月から半年後に基礎調査が終わり次第に本体を派遣する。それが可能なら、来年四月締め切りの設計コンペを担当させてくれ、ということのようである。そして、コンペに応募した後、渡米前の準備業務を終了し次第、渡米させてくれと主張しているのである。
「分った。暫らく考えさせてくれ」
郷田は、コーヒーをぐっと飲み干した。
「役員会にも諮らなければならないし、根回しも必要だ。……少し時間をくれ」
「はい、ご無理なことを申しましてすみません。よろしくお願い致します」
「いや、構わんさ。早川君ありがとう」
郷田の凄さはここにあった。思考が実に柔軟である。どんな立場の社員からの意見でも、じっくり聞き、そして結論を出す。その結論に対する社内調整を自ら精力的に行うのである。早川は、郷田に一礼して控室を出た。
早川が、渡米を三ヶ月から半年間延期してもらうよう部長に懇願したのには、ある考えがあってのことだった。部長にはコンペを理由に延期をお願いした。確かにそれもあったが、そればかりではなかった。課の成績のこともあったが、早川の関知する問題ではなかった。
それは、亜希子のことである。早川が私的なことで、しかも役員会で決定された重要事項を、懇願してまで会社に変更を迫ったことは、これまで一度もなかった。その意味では、早川の心に、会社に悪い事をしたという気持ちがない訳ではなかった。だが、動き出した亜希子に対する気持ちは、もはや止める事は出来なかった。中途半端なことが嫌いな早川にとって、亜希子との再会の為には、充分な時間が必要だと判断したのである。渡米にしても最初の数ヶ月間は基礎調査である。先発隊が調査したものを引き継いで続行すれば良いことである。
郷田部長がどういう結論を出すかは、今となっては運を天に任せるよりなかった。万一願いが通じなくても、それはそれで仕方がない。やるだけのことはやったという安堵感が早川に落ち着きをもたらした。
岩田課長には、とりあえず大まかな経過だけを話せばいいと思った。
「ただいまでした」
早川の言葉に、岩田は早川の顔を覗きこむようにして聞いてきた。
「どうだった?」
「はい、詳しくは今夜お話します」
「そうだな、詳しく聞かせてくれ」
午後の三時には必ずコーヒーが出される。香織の役目みたいになっている。嫌な顔一つしないで、お茶やコーヒーをそれぞれの机の上に置いていく。香織は、その理知的な顔立ちとスタイルの良さや気立ての良さもあって、同僚の男性達に人気があった。それだけに、浮いた話の一つや二つはあってもいいようだが聞いたことはない。
「どうぞ」
香織は早川の机の上にコーヒーを置いた。
「いやあ、ありがとう。……いつもすまないね」
「いいえ、どういたしまして。……ところで、留守電聞いてくれました?」
香織は少し心配そうな顔で囁いた。
「うん、聞いたよ」
「今夜逢えますか?」
「いや、それが先約があってね、課長と付き合うことになってるんだよ」
香織は課長のほうをチラッと見た。
「そうなんだ、何時ごろ終わるんですか?」
「うーん、いつもの調子で遅くなると思うよ」
「そう、残念ね。……じゃあ、近いうちに逢ってくださる?」
香織は、いかにも残念そうな顔をして聞いてきた。
「仕事が忙しくなりそうだし、時間がとれたらな」
早川は曖昧に答えた。香織には、早川が段々遠くに行ってしまいそうな気がしてならなかった。
「じゃあ、行こうか?」
六時半頃になって、岩田は早川に声を掛けてきた。夕闇が迫る新宿の街はネオンが灯り始める。人並みがせわしく往来する。いつもの光景である。
いつもの喫茶店に腰を落ち着かせたが、岩田課長は心なしか落ち着かないらしい。窓辺に見える光景はもうすっかり秋である。相変わらずせわしく人々が往来し車は渋滞している。
「部長との話どうだった?」
岩田がコーヒーに砂糖を入れながら聞いてきた。
「その前に課長の話ってなんですか?」
早川のコーヒーはブラックである。
「うん 君が渡米した後のことが心配でな」
「課の成績のことですか?」
「そうなんだよ、君のお蔭でいい顔ができたけど、これからはそうもいかないと思うと、どうもな」
岩田は、いかにも気が重たいという顔をした。
「心配ないですよ。優秀な社員が来てくれますよ」
「そうだといいんだが、こればっかりはなあ」
「ことによっては、課長の人事問題になり兼ねないでしょうしね」
早川は回りくどいのを好まない。ズバリ言った。一方岩田も部下でありながら、ストレートに話す早川に好感を持っていた。
「そうなんだよ。そこで、相談なんだが」
岩田はコーヒーを一息に飲んだ。
「君の後任には誰がいいと思うかね。……二、三人推薦してくれないかなあ」
岩田は課長という立場上、どの社員が早川の後継者にふさわしいかぐらいは、分らない訳ではなかったが、早川の口から言わせることで確信を得たかったのである。早川は課長の相談の意図が分った。
「私が推薦したとして、それをどうするんですか?」
「うん、うちの課に引き抜く為に、早いうちに根回ししておきたいんだよ」
早川は呆れた。この手の細工は良くあることではあるが、早川の是とするところではなかった。
「課長、私がその手の話を好んでないことぐらいご存知な筈でしょう?」
「分ってるよ、だけど君の後任の話だよ。君にも責任の一旦はあると思うよ」
岩田課長一流の屁理屈である。
「課長にはいろいろお世話になっていますし、それに気持ちも分らない訳ではありませんが」
「だろう? だから君には迷惑掛けないから頼むよ」
岩田は熱心に目で懇願した。その顔は苦渋の顔だった。早川は暫らく考え込んだ後、岩田の顔を見て言った。
「分りました。余り気乗りはしませんが、考えておきます」
「ありがたい。恩にきるよ」
岩田の顔が急に明るくなった。
「じゃあ、ちょっと食事に行こうか。俺がおごるから付き合えよ」
「部長との話はいいんですか?」
「その話は食事しながら聞こう。……な、行こう」
まったく現金な人である。早川は、課長のこうしたやり方は何回となく経験している。苦笑いしながら課長の後について行った。
「何でもいいよ、好きなもの頼んでくれ。……ビールでいいか?」
岩田はすっかり上機嫌である。食事しながら早川は部長とのやり取りをあらかた話した。
「そうか、渡米を延ばすように頼んだのか。それにコンペも手掛けるのか」
「いえ、課長、早とちりしないでください。まだ決定じゃありませんよ」
「なあに決まったようなもんだよ。なんせ、部長は君を高く評価してるからなあ」
早川は少し反省していた。やはり、最終決定してから話すべきだったと。岩田は、天ぷらをつまみにビールを二本軽く飲み干した。早川は下戸である。コップ一杯で顔がほてってきた。
「今日は時間あるんだろ? 一杯行こうか」
岩田は、スナックでも行こうかと言うのである。
「課長、せっかくですが、昨夜が遅かったんで、今日は早く帰宅したいのですが」
「まあ、いいじゃないか。若いんだから、一晩ぐらい遅かったからって平気だろう?」
早川は、さっきから亜希子のことで頭が一杯だった。会社からは連絡できない。社宅に帰ってから電話しようと思っていた。
「いえ、やはり今夜は失礼します 先ほどの話、二、三人推薦しておきます」
「そうか、残念だなあ。……いや、今夜はありがとう。……頼んだよ」
早川が社宅に着いた時は二十一時を少し過ぎていた。シャワーを浴びながら、亜希子に何て切り出そうかと考えていた。パジャマに着替えてテレビのスイッチを入れた。ファッションショーの番組のようである。音を小さくした。
君子が手渡してくれたメモ紙を手にして早川は受話器を上げた。もう夜も遅い。この時間に電話するのは失礼かもしれない。君子は、亜希子が早川に逢いたがっていると言ったが本当だろうか。もしかしたら、君子の勝手な考えかもしれない。君子が早川に電話番号を教えたことを、亜希子は知っているのだろうか。亜希子は今何をしてるのだろうか。
早川はいろいろな思いが頭を巡り、電話するのを躊躇した。そして一旦受話器を元に戻した。
テレビは、黒人女性がせり出した舞台の先端から、くるりと背を向け奥に引き返すところを映し出していた。ショーに出るだけのことはある。スラリとしていて、なかなかのプロポーションである。ショーも終わりのようである。続いて司会者は主催したデザイナーの紹介に移った。
一人の女性が登場してきた。華やかさはないが貫禄のある出で立ちである。濃い紫色のロングドレスの胸に、真珠らしきネックレスが光って見えた。東洋系の顔で、唇の厚ぼったい女性である。目はキリリとして美形である。女性は舞台中央に進み出て一礼した。会場の観客が総立ちになって拍手した。司会者が絶叫している。なかなかの売れっ子デザイナーらしかった。観客に何度も礼をして微笑みながら手を振る。デザイナーにしてみれば一生一代の晴れ姿であろう。舞台の先端からくるりと客席に背を向けながら、胸から何か取り出しているようだった。
画面がアップになった。一瞬デザイナーは客席を振り向いた。いつの間にかサングラスを掛けていた。……おやっ? 早川はその顔を何処かで見たような気がしたが、すぐには思い出せなかった。テレビに顔を近づけた。女性は最後に、正面の客席を向いて深々と一礼した。観客は総立ちのまま一段と強く拍手した。割れるような拍手である。
画面がズームアップし、その女性の顔が大写しになった時、早川は我が目を疑った。あの女である。熊本で下車したサングラスの女である。間違いない。そうだったのか、あの女はファッションデザイナーだったのか、しかも売れっ子の。早川は、鳴り止まぬ拍手の中舞台を去る女性と、レトロ列車のデッキの女とをダブらせていた。何気なく見ていたテレビに、偶然にもあの女が映し出されるとは、思いもよらぬ事であった。
思わぬ時間を消費してしまった。だが、早川には、このことで何故か踏ん切りがついた。受話器を取り番号をプッシュした。今度は躊躇はなかった。
携帯電話は場所によっては繋がらないことが良くある。発信音が鳴っている。早川の鼓動が波打ってきた。暫らくしても亜希子は出なかった。早川は焦った。もしかしたら、このまま永遠に亜希子は出ないのかもしれないと思った。
「はい、……花岡ですが」
透き通った声が聞こえてきた。列車で聞いたあの声である。早川は胸の鼓動が早くなるのを覚えた。咄嗟に言葉が出て来なかった。
「あのー、……もしもし、花岡ですが」
早川は自分を失っていた。
「夜分突然すみません。……早川です。……お久しぶりです」
早川は矢継ぎ早に言葉を発したが、自分で何を言ってるのか分らなかった。返答がなかった。少しの間沈黙があった。
「……早川さん? ……早川悟さん? ……で・す・か?」
「そうです。……早川悟です」
「まあ、お久しぶりです。……その節はどうも、……お元気でした?」
亜希子の声が弾んで聞こえた。
「……こちらこそ、お蔭様で元気にしています。……そちらは?」
気持ちの昂ぶりを抑えるのに必死だった。
「はい、元気ですよ。……どうしましょう、……とっても嬉しいですわ。お電話いただけるなんて。……あら、でも、どうしてこの電話をご存じなの?」
「どうしてか、当ててみてください」
「……」
「思い当りませんか?」
「さあ、咄嗟には思い当たりません。……誰かに教わったのですね?」
「はい、昨夜、遠藤さんに教わったんです」
早川はやっとの思いで冷静になれた。
「まあ、そうでしたの。お会いになったんですか? 君ちゃんに」
「そうです。その時教えて貰いました」
「君ちゃんが、どうしても早川さんの電話番号を知りたいと言うものですから」
「花岡さんは記憶力がいいんですね。感心しました」
「あら、列車での件? もうバレバレね。ふふふ」
「花岡さんも隅に置けない人だと言いたいところですが、嬉しい限りです」
早川は、すっかり落ちつきを取り戻していた。口調も滑らかになって来た。今こうして亜希子と会話してる。夢を見てるような気分である。
「君ちゃんとは、どんなお話しなさったの?」
早川は、君子が昨夜のことを、まだ亜希子に伝えていないことを知った。昨夜のことを一通り話した。
「そうでしたの。君ちゃんは、東京には滅多に行かないから楽しかったでしょうねえ、きっと」
「はい、お酒を大分飲まれてました。お強い方ですね」
「そうなの。でも、しっかりした方ですよ」
「ええ、そうですね。あんなに飲まれたのに、しっかりされてました」
「早川さんはお酒はお強いの?」
「残念ながら下戸です。ですから、お酒の強い方が羨ましいです」
「そうですか。私と同じね。少しぐらいなら何とかいけますが」
亜希子も打ち解けたみたいである。あのレトロ列車の亜希子そのままである。早川は嬉しくなった。
「……あのー、花岡さん、……ぶしつけで申し訳ないのですが」
「はい?」
「……近々お逢いできませんか? いえ都合の良いときで結構なんですが」
早川は思いきって亜希子を誘ってみた。
「……」
「なんでしたら、そちらに参りますから、……是非、逢ってください」
暫らく返事がなかった。
亜希子は嬉しさがこみ上げてきた。胸の中の塊がスーっと溶けていくのを感じた。亜希子は早川からの誘いの言葉を待っていた。亜希子の美貌と人となりからすれば、恋愛や見合いの一つや二つはあってもおかしくない。いや世の中の男性が放っておく筈がない。事実そういう話は捨てるほどあったが、亜希子は一切見向きもしなかった。自分の情熱に火をつける男性がいなかったのである。
レトロ列車の中で早川に逢って以来、いや正確には、博多駅で汽車から降りた途端と言ってもいい。亜希子の心に、かって味わったことのない、身体中を突き抜けるような、激しい気持ちが込み上げて来たのである。
早川の警察官とのやり取りや話ぶりに、いつしか魅せられた亜希子は、連絡先を書くようにとメモ紙を警察官から渡された時、メモに記されていた早川の連絡先を、暫らく見てからサッと記憶した。余程早川のことが気になっていたのである。
人と別れてしまうことの辛さを初めて味わった。君子との旅行もそこそこに長野に帰ったのである。十日から二週間後に東京に帰ると言っていた早川に、どうやって連絡しようかと悩んでいたのである。
「……ほんとですの? 私みたいな女と、……ほんとに逢っていただけますの?」
「もちろんです。一度だけでもいいです。是非お願いします」
亜希子が自分に対して好意を持ってくれていることは、君子からの話からも分ってはいたが、こういう場合は、礼儀として男から誘うものだと、変に男げが出てきて、早川は積極的になった。
「嬉しいです。……ありがとう。……こちらこそお願いします」
亜希子は素直に喜んだ。
「でも、忙しい方だから、……ご迷惑では?」
「いえ、その点は大丈夫です。こう見えても、段取りは上手い方なんですよ」
「じゃあ、早川さんのご都合は、いつ頃がよろしいんですの?」
「いつでもいいです。花岡さんに合わせます。こちらから参りますから」
「いえ、田舎は何かとうるさいですから、そちらにお伺い致します」
早川も田舎育ちである。亜希子の気持ちは理解できた。
「そうですか、花岡さんの都合の良い日に電話してください」
「そうします。ほんとに、いつでもいいのかしら?」
「はい、何とか都合つけますから、気になさらないでいいですよ」
「分りました。連絡は社宅の方がいいかしら?」
「えっ、ここの電話番号も記憶されのですか?」
「ふふっ……」
驚いた。あの時、警察官から書くように言われたメモ紙には、会社と社宅と田舎の三ヶ所の連絡先を書いた。亜希子はあの短い間に両方の電話番号を記憶したことになる。
「ええ、その方がありがたいです。……留守のときは録音しておいていただければ」
「分りました、そのように致します」
早川は電話を切った。喜びが天を突き抜けるようであった。その夜 早川は興奮の余り夜明けまで眠れなかった。
それから一週間が過ぎた。月初めには必ず管理職会議が開かれ前月の業績の総括がなされるが、月の半ばには個々の課の会議はあっても、建設事業本部全体の会議は滅多にない。その滅多にない管理職会議が開かれた。
会議室の円卓テーブルの上座中央に郷田部長、向かって右側に工務部の課長や主任・係長と続く。反対側は設計部の課長・主任・係長である。他に建設総務・建設事務・資材課・技術研究所の管理職がテーブルを囲っている。総勢三十六名である。
進行係は建設総務課の皆川課長である。
「本日急拠お集まり頂いたのは、黒板にも書いておきましたが、二点の案件についてであります」
皆川はプリント用紙を見ながら説明した。
「まず最初の案件の国際設計コンペについて、部長よりお話を頂戴致します。……部長お願い致します」
皆川は郷田の方を向き一礼した。郷田はゆっくりと立ち上がり中央に進み出た。
「諸君ごくろうさん。諸君も薄々は感じていたとは思うが、今回の設計コンペは……」
郷田は中央前方に視線を向けながら話し始めた。
「実は、今回は当初は応募を断念しようと思っていた。だが、会社としてのプライドもある。熟慮に熟慮を重ねた結果応募することにした」
そして、ひとしきり国際設計コンペの内容を説明した後、
「そこで、本日、この設計コンペの業務に携わるスタッフを発表する。名前を呼ばれたものは前に出るように」
郷田は眼鏡を取り出し印刷物を手にした。
「今回の設計コンペは、先にも言った通り、会社にとって極めて重要な戦いになる」
郷田は念を押した。
「従って、選ばれた者は、これまでにない責任を担うことになる」
会場に緊張が走った。
「尚、この会議に出ていない一般社員については、各課に持ち帰り伝えるように」
郷田は、一般社員も含めた全スタッフの一人一人の名前を呼び上げた。その中に、一般社員の浅田香織の名前があった。名前を呼ばれたスタッフは、緊張の面持ちで前に進み部長の後ろに並んだ。
選ばれることの栄誉を誰しも味わいたいがそうもいかない。会社独自の選定基準をクリアーするにはハードルが高かった。
早川の名前はまだ呼ばれていない。岩田は、心配そうに横にいる早川を見た。これまでの実績から当然選出される筈である。他の課長も一様にそう思っていた。早川は目を閉じていた。
名前を呼ばれた十九名のうち管理職は、係長職の石川達郎、野田恵一、田崎淳司の三名であった。設計課の各課から一名ずつ選出されたようである。三名とも、そこそこ実績のある優秀な設計技術者である。石川は早川の部下である。香織を含む残りの十六名は一般社員である。
早川の名前は、とうとう呼ばれなかった。と同時に、場内に意外だという雰囲気が漂った。早川は部長への懇願は通じなかったのだと思った。
会社は、米国支店設立の方針を曲げる訳にはいかなかったのだ。過去は過去、今は今である。会社は今が重要である。今最も適した人材を選出するのが当然である。だから、人選に漏れたことそのものに対して、早川本人は、それはそれで仕方のないことと意に介しなかった。
「選ばれた三名は、おめでとう」
郷田は、緊張と喜びの面持ちで後ろに立っている石川ら三名に顔を向けて言った。
「一人ずつ今回のコンペに対する抱負を述べなさい」
全管理職から羨望の眼差しが向けられた。一人の者が抱負を述べる度に激励の拍手が送られた。三人は話し終えてそれぞれの席についた。
「この度のコンペは、先ほどからくどい程話してる通り、社運を掛けたイベントである」
郷田は眼鏡をはずしテーブルの上に置いた。
「同業他社も、必死の戦いを挑んで来る筈である。だが、絶対に勝たねばならない。負ける訳にはいきません」
郷田の気迫が場内を圧倒した。目が鋭く光った。
「もし負けたら、選ばれた各スタッフ並びにその上司の席はないと思え。……いいな?」
場内がシーンと静まり返った。郷田のコンペに対する並々ならぬ思いが伝わって来た。
郷田にしても担当重役として、結果如何では責任問題に発展しかねない。重役同士の足の引っ張り合いは日常である。近い将来、社長になると目されている郷田といえども、汚点を残す訳にはいかないのである。
「そこでだ、今回に限り、この十九名の陣頭指揮を取る総責任者を任命することにした」
郷田が早川の方を向いた。
「早川悟君をその任に当らせることにした」
会場がどよめいた。全員の目が一斉に早川に向けられた。早川は意外な展開に驚いた。今回はてっきり選出されないものとばかり思っていたのである。米国支店設立を優先させたと思っていたのである。
「早川君、君の抱負を述べてくれ」
郷田の顔がこれまでと違い柔和になった。一旦は参加を棄権しようとまで思ってた郷田は、あえて負けるかもしれない戦に挑んだのである。
郷田は早川と心中するつもりらしい。その顔に、勝負師の落ち着きすら漂っていた。早川は郷田に一礼して正面を向いた。
「はい、ありがとうございます。……突然のことで、正直言葉を失っております」
早川は素直に述べた。
「会社のご期待に添えるよう精一杯頑張ります。……ご協力お願い致します」
簡単なコメントだが充分であった。大きな拍手に一礼して早川は席に戻った。
「続きまして二つ目の案件に移ります」
皆川課長が拍手を静めた。
「えェー、次は米国支店設立準備に関する問題です。部長よろしくお願い致します」
郷田が再び腰を上げた
「この件は、明日の朝礼でも発表する予定であるが、管理職の諸君には前もって発表しておく」
早川と岩田課長以外の管理職は初めて聞く話である。一斉に驚きのどよめきが起こり部長の話に聞き耳を立てた。
郷田は、米国支店設立の趣旨や意義を話した。そして、それに向けての、来年四月からの現地調査の人選を終えた旨を話した。
「調査期間は二ヵ年程度を予定している」
郷田の話では、基礎調査を終えた後、現地に設立準備室を設け、実務に向けて具体的な活動に移すと言う内容であった。
「とりあえず今回は基礎調査に当る人選を行った」
部長は眼鏡を掛け印刷物を手にした。そして、建設事業本部から一名総務部から一名企画部から一名、計三名の名前を読み上げた。早川の名前はなかった。早川は内心ホッとした。
「なお、設立準備室の人選は、基礎調査の進展を見ながら決定される手筈になっている」
臨時の管理職会議は終わった。
早川は郷田部長の配慮に感謝した。願いが通じた喜びを噛みしめていた。いやこの結果を一番喜んでいるのは岩田課長だったかもしれない
次の日の朝礼で、三代目社長河田陽三から米国支店設立の正式発表がなされた。
社長は設立の趣旨と意義について熱弁を振るった。営業畑出身の社長は、話しにそつがなく流暢で、聴衆を惹きつける話術に長けていた。
ひとしきり話が続き、その後人事部より基礎調査員の発表がなされた。昨日の管理職会議で発表されたメンバーである。恒例により選出されたメンバーは、全社員約三百名の前でそれぞれ挨拶した。
「続いて、設計部を中心に進めています、国際設計コンペの詳細について発表致します」
朝礼の進行係は総務部の課長の役目である。中央マイクに進み出て、担当重役の郷田は、参加に至った経緯を細かく説明した。総務課長は郷田の話が終わるのを待って一段と声を大きくした。
「尚、今回の国際設計コンペの業務を遂行する部署の組織名は、プロジェクトC&Tと命名されました」
総務課長は続けた。
「それでは、これから今回のコンペに携わるスタッフを発表します。呼ばれたものは前に出て、人事部長より辞令を受け取ってください。受け取ったら前に並んでください。……人事部長お願い致します」
人事部長の高橋新一が中央に足を運んだ。一般社員を含む十九名が前に進み出て、辞令を受け取って横一列に並んだ。女性は浅田香織だけである。
「最後に、プロジェクトC&Tを統率し、指揮するリーダーを発表致します」
全社員が息を殺している。暫らく間をおいてから、総務課長が早川の名前を告げた。
全社員の目が一斉に早川に注がれ、一瞬どよめきがあったがすぐに静寂になった。早川は人事部長の前に出て深く頭を下げた後、辞令を受け取り、既に並んでいるスタッフの横に並んだ。
「これよりスタッフを代表して、早川悟君から挨拶があります。……早川君」
早川は昨日岩田課長から、朝礼での挨拶を考えておくように言われていた。
「はい」
早川は前に進み出て、居並ぶ役員に軽く一礼してから振り向き、全社員に一礼した。そして、中央にあるテーブルのスタンドマイクを前にして一礼しスピーチした。
「おはようございます」
早川の第一声が場内に響いた。低音の太い通る声である。
「この度の設計コンペのスタッフの一員に、私ごとき若輩者が選出の栄誉に浴することが出来ますことを、とても嬉しく思っております。ありがとうございます。
……ですが正直申しまして、私には少々荷が重たい感じが致しております。と申しますのも、これまではもっぱら国内のコンペでしたが、今回は国際コンペです。
国内外の、一流の優秀な企業が参加して参ります。ですから、規模や質的レベル技術的レベルにおいて、会社がこれまで参加してまいりました設計コンペとは、とても比較になりません。格段の違いがあります。いわば我が社は、竹やりを持って難攻不落の城を攻めるようなもので、心して取り組む必要があると思考する次第であります」
早川は暫らく間を置いて全社員の反応を見た。前列の管理職をはじめ社員達も、やや緊張した面持ちで早川の話に聞き入っていた。
「その辺の対策につきましては、これから練り上げることになる訳ですが、この場をお借りしまして、誠に僭越ではありますがお願いの儀がございます。スタッフは私を含め、たったの二十名であります。もちろん、この二十名は全知全能を傾けて、敵を倒すべく必死に頑張る所存ではあります。
私がいま一番懸念しておりますのは、全社一丸となって戦わなければ、到底良い結果が得られないということであります。この戦いは、社の命運を掛けた戦いと言っても過言ではありません。言い換えますと、結果如何によりましては、これまで順風満帆に推移してきました我社の歴史に、重大な汚点を残すことになりかねません。
私のお願いと申しますのは、まさにこの点にあります。皆様方各人の胸の中に、このことを深くご理解いただきまして、あらゆるご協力をお願いする次第であります」
早川のスピーチには説得力があった。自信に満ち堂々とした話ぶりに、将来の期待を担う若手のホープとしての力強さがあった。
「高い所からはなはだ失礼とは思いますが、どうか、このプロジェクトC&Tが成功裡に終わるべく、皆様方の絶大なるご支援を賜りますよう心からお願い致しまして、私のご挨拶とさせていただきます。ご静聴ありがとうございました」
万雷の拍手の中、早川とスタッフ十九名は元の場所に戻った。早川はこの拍手を耳にしながら全社の協力を得られそうだと確信した。
「社長のお言葉を頂戴致します」
進行係の総務課長は社長に一礼した。
「諸君も知っての通り、今度のコンペは国際コンペである。米国への進出は、実は、このコンペが伏線にあることを理解して欲しい。国際コンペに勝利することで、その知名度を武器に、米国での営業活動を他社より有利に展開したい。
従って今、早川リーダーのスピーチにもあったが、今度のコンペは社運を賭けた戦いになる。プロジェクトC&Tと命名したのもこの意味が込められておる。つまり、最初の”C”はチャレンジ、挑戦であり、後の”T”はトップ、一番を取るという意味である。
従って、諸君一人一人が、竹やりを持つ心構えが必要となってくるし、諸君一人一人が、自分のこととしてプロジェクトC&Tを支援すること、そして、このコンペに勝利することが、我社が国際社会に君臨し世界にはばたく建設会社として、確固たる地位を築き上げる第一歩であることを肝に銘じてもらいたい」
社長の言葉が終わると同時に総務課長が後を受け継いだ。
「尚、プロジェクトC&Tは、五階の特別室にて、二週間後の二十日より任務を開始致します。各課はそれまでに業務の引き継ぎ等を完了しておくようにしてください。尚、業務の引き継ぎに関してですが、人事部長よりお話がございます。部長お願いします」
人事部長が中央に歩いた。
「今回の設計コンペも、従来と同じように各課の欠員の補充は行いません。従いましてC&Tの業務が完了するまでの間、業務の引き継ぎにつきましては、大変でしょうが各課毎に手分けして業務に支障のないように対処してください。お願い致します。以上です」
「本日の朝礼はこれにて終了。……一同……礼」
総務部長の言葉で朝礼が終了した。