□ 第一章 帰郷 □
横浜市港北区の大倉山駅で東横線の電車に乗り、終点の渋谷駅で山手線に乗り換えて、東京駅の改札口で切符が無造作に機械に吸い込まれた時、早川の腕時計の針は十八時を少し回っていた。
折りしもラッシュアワーと重なり、東京駅は異様なほどの混雑を見せていた。いや、これが日常のことなのだが、早川悟はその度に異様さを感ずるのである。多くは目的があって行動しているのだろうが、狭い日本の都心部で生活する人々が、駅構内のみならず、至る所でせかせかと往来している様は、人口密集地特有の現象とはいえ、人の流れが濁流する川のようで、どう見ても異様としか思えなかった。
切符売り場のカウンターで、乗車券と特急券それに寝台券を買い求め、再び改札口を通過して、幅の広い階段を昇り切りプラットホームに出た時には、既に大勢の人々が思い思いの姿で長い列を成し、始発の列車がホームに横付けするのを待っていた。
大きな荷物を携えた子供連れの家族や、カップルらしき若者が、顔に恋愛中を記しながら会話を楽しんでいる。かと思うと、喫煙場では、サラリーマン風の男性が一人、吹き出したタバコの煙のゆらゆらを目で後追いしている。場内放送がしきりと列車の進入が間もなくだということをアナウンスしていた。
早川は急いで売店に駆け寄り、ポケットの小銭を手探った。手探りながら、缶コーヒーにするか缶ビールにするか迷ったが、旅でござんす感覚が迷いを解決してくれた。週刊誌とスポーツ新聞、それに缶ビール二本とつまみを買い求めた。そして、持って来た大き目のレジャーバッグにそれらを詰め込み、それとなく列の最後尾と思われる位置に加わった。
九月の気候は、既に秋の始まりを宣言していた。早川悟は、東京発鹿児島中央行きの、レトロ寝台特急ハヤブサに乗った。
一九六四年(昭和三九年)十月一日に、東京オリンピックの開催に合わせて東海道新幹線が開業した。そして今や、北は青森、南は鹿児島まで全線開業し、世界に冠たる高速鉄道となり日本の大動脈となった。高速新幹線の急速な伸長・進歩により、物流・商流を中心とした経済はもとより、人的交流や旅行形態に計り知れない効果をもたらした。それに伴い、JRの大きな安定した収入源になっているのも確かである。
しかし、鉄道の運行が経済優先になるのは致し方のないことではあるが、新幹線の登場でダイヤが大きく変わり、結果として、次第に寝台特急などの路線が廃止され続けてきた。その為に旅行愛好家などからの、旅の醍醐味が失われたなどの声も根強く残っているのも事実である。
ある鉄道会社がこれらの声に応えるべく、レトロ寝台特急ハヤブサと銘打って、昨年九月、十月、十一月の三ヶ月間の運行を試験的に始めたが、これが思わぬ人気を博した。本来持っている鉄道の良さ、つまり、ゆったりとした旅の醍醐味が改めて見直され、多くの人々の共感を呼び、結果として人気の根強さを証明した格好になった。早くて快適なのもいいが、遅くて少々不便でも、ゆったりとした時間の流れに身を任せて、旅という醍醐味を味わえた方がもっと良い、というファンが結構多いということを物語っている。
折しも、二〇〇三年に宇宙に打ち上げられた小惑星探査機はやぶさが、七年の歳月を経て劇的に地球に生還し、多くの人々に大きな感動を与えた。探査機と鉄道の違い、さらには、ひらがなとカタカナの違いはあるが、同じ”はやぶさ”という名前に、イメージを重ね合わせた人も多かったと推測される。超高速の探査機と特急列車の真逆の対比に、夢という共感を見出そうとする人々の、特に旅行愛好者の心をつかみ人気に拍車をかけたと思われる。
これに気を良くした鉄道会社は今年も、九月、十月、十一月の三ヶ月間の季節運行を継続した。
レトロ寝台特急ハヤブサは、昭和三十九年当時のダイヤを基本に、車種は国有鉄道時代当時の十四系十五型を再現、内装は当時と同じシックなモケット柄に統一されている。名称も当時の、ひらがなの”はやぶさ”からカタカナの”ハヤブサ”に変更された。カタカナの方が早く走るイメージがある、と言うのは関係者の話であるが、そう言われれば確かにそんな気がするから不思議である。
盆に帰省したばかりであったが、再び遠い故郷の香りを嗅ぐために、早川はこのレトロ寝台特急ハヤブサに乗ったのである。
車両の扉を開け、指定された自分の席を探した。車両中央付近の、通路から見て右側の上段が指定の席だった。荷物を席に置いて下段の席に腰を下ろした。車窓からは、ホームで見送る人々と見送られる人々とが、互いに別れの言葉を交わす光景が見える。早川の座っている席のボックスには誰も来なかった。どうやら暫らくは早川一人のボックスである。途中誰かと乗合わすことになるかもしれないが、それまではゆっくり出来そうである。
十九時丁度となりアナウンスが出発を告げた。笛が鳴り同時に列車のドアが静かに閉じた。汽笛と共に、……ゴトン、車輪の音が回転を促す。列車は、乗り合わせたそれぞれの人々の人生を乗せて、ゆっくりと動き出した。
別れの辛さは涙となり、掛け合う言葉に感情が交錯する。車輪に徐々に加速がつく。手を振る姿が小さくなる。別れは約束されない再会。再会の喜びは想像のぬけがら。今、この瞬間が想像の扉を閉じる。
汽笛を鳴らし、列車はさらに加速し猛烈なスピードとなって走る。寝台車の走り窓に映る眼下の灯火は、一家団らんの幸せを照らすのか。それとも恋人たちの囁きを覆うためか。時折聞こえるトンネルの轟音は、希望と期待への合図なのか。それとも悲しみに打ちひしがれて咽び泣く悔恨の慟哭か。
売店で買った缶ビールとつまみを口にしながら、早川は週刊誌を読んだ。読むには、電灯の灯りが薄暗く目が疲れてくる。早川は下戸である。さほど強くもないアルコールが、徐々に身体中を散歩しながら酔いを誘う。短時間の間に酔いが顔面を覆い、脳の中をぐるぐる廻る頃には少々いい気分になってくる。いま座っているこの席は他の人の寝台席である。このまま眠る訳にはいかない。廻りを片付け上段の席に移って横になった。列車は時々汽笛を鳴らしながら走り続ける。早川はカーテンを引いて灯りを遮り、携帯ラジオのスイッチを入れた。好きなジャズの音がイヤホンを通して心地よい。暫らくしてウトウトと睡魔が襲ってきた。
どの位の時が流れたかは自覚の外にあった。虚ろな眠りに遠くスピーカーの音が聞こえてきた。レトロ列車は何処かの駅に到着したらしい。
なごや~~ なごや~~
早川の耳には、ざわざわとした騒音が遠く小さく聞こえた。大勢の乗客が乗り込んで来たようである。人の話し声や子供の声がぼんやり聞こえる。だが、いつの間にか騒音を深い眠りが打ち消した。
寝台席は寝るには窮屈であった。早川は途中何度も寝返りを打ち、その度に目が覚めた。列車は、カタン コトン ゴーー カタン コトン ゴーーと、一定の速度を刻み走り続ける。これ以外、辺りは物音一つしない。誰もが寝静まっていた。
カーテンを開けると、薄暗い筈の電灯がやけに眩しかった。早川は細目を開けた。下段の左右のカーテンが閉まっていた。どうやら何処かの駅で乗り込んだ来た客であろうと思われる。反対側の上段はカーテンが開け放たれている。空席のようである。ふと小水の誘惑に駆られた。そういえば寝る前に、珍しく缶ビールを二本も口にしたのを思い出した。腕時計の針は午前二時半を少し廻っていた。早川は物音を立てないように恐る恐る下に降りた。下段のカーテンの奥からは、スースーと寝息の音がかすかに聞こえる。そろりと通路に出た。
列車は田園地帯を爆走中らしい。外は真っ暗闇で全く灯りが見えない。たまに電柱らしきてっぺんに取り付けられた灯りが、遠くで小さくスゥーっと走り去って行く。
早川は進行方向に急いだ。トイレはデッキ近くにあった。扉を軽くノックしたが返事がない。もう一度少し強めに叩いた。またもや返事がない。深夜である。こんな時間に用を足す人がいる筈がないと思い、扉の取っ手を引いた。その瞬間しまったと思った。扉は開かなかった。誰かが用を足しているらしい。返事のノックぐらいしてくれても良さそうなものを。猛烈に襲いかかる小水は我慢の限界に来ていた。トイレが空くのを待っている余裕などなかった。仕方なく早川は次の車両に向かった。車両と車両の継目の鉄板が激しく揺れていた。早川は用心深く、そこをまたぎ、次の車両の入り口の扉に手をかけたその時、人の気配を感じた。内心ビクッとし、とっさに身構えながら左側を見た。
猛烈に走り去る暗闇と列車内を仕切る出入り口用のドアガラスに、女の姿が映っていた。薄暗い灯りの下で、女はドアガラスに向かって紫煙をフゥーと吹き掛けていた。紫煙の向こうに映る女は、濃いサングラスを掛けたいた。やけに厚ぼったい唇にタバコを乗せ、いかにも旨そうに吸っている。年齢は、おそらく四十過ぎだろうと思われた。うしろ姿の服装は地味だった。女にしては長身で、髪の毛の長い細身の身体である。せわしくサングラスに手をやる。その奥にある目は見えない。女はドアガラスに映った早川を見て、左手の指にタバコを挟み、吸い口を口元に置いたまま、早川の方に向き直った。顔を合わせた途端、女は少し笑ったように見えた。早川の慌てた様子を、さっきから見ていたに違いない。
こんな夜更けにサングラスを掛け、外の暗闇に顔を向け突っ立ている。何故だ。早川はこの女が異様に思えてきた。眠れない訳でもあるんだろうか。いや、きっとトイレが空くのを待っているのだろう。
限界にきていた小水が、いまにも暴発しそうである。早川は扉を静かに開け、一目散に次の車両のトイレに向かった。アルコール混じりの小水の臭いが鼻につく。ズボンのチャックを引き上げながら、早川はサングラスの女のことを考えていた。妙に気になる女である。
列車は、カタン コトン ゴーー カタン コトン ゴーー、相変わらず一定の速度を刻み走り続ける。乗客は寝静まっていて物音一つしない。早川は戻りの通路の先ほどの扉を静かに開けた。無意識に右側の出入り口用のドア辺りを見た。サングラスの女は既にいなかった。あれからそんなに時間は経っていない。おそらくトイレの中だろう。
そっと寝台席に戻る。下段のカーテンの奥からは、スースーと寝息の音がかすかに聞こえてくる。それから暫らく寝つけなかった。腕時計は午前三時になろうとしていた。
思えば 随分長いこと東京で暮らしている。長い割にはいまだに馴染めない街だ。雑踏、騒音、汚れた空、無味乾燥な会話、凄まじいばかりの競争心や見栄と虚栄心。ぞっとする騙し合い。空虚な慰め。人はどうしてこんな街に憧れるのだろう。
人の数だけ人生がある。出会いの数だけ別れがある。別れの涙は出会いの序章。人生には涙はつきもの。涙の数だけ喜びも感動もまたある。しかし、その喜びや感動の多くが、長く続かない運命にあることも確かなような気がする。人が人として生きる喜びの数よりも、生きるための苦しみ、悶え、葛藤、そして言い知れぬ孤独感、救いようのない虚脱感などの数のほうが多いのも、これまた確かなような気がする。
人は誰でも愛を欲しがる。だが欲しがるだけの愛は壊れやすく逃げ易い。逃げる愛は追いかけても無駄なような気がする。人は愛されることよりも、愛することのほうが多くのエネルギーを必要とする。確かに人を愛することは出来る。だが時としてそれは、砂上の楼閣となり易いことを、世の多くの事例が証明している。愛とはそんなに脆いものだろうか。そんな筈はない。何かが足りないのだ。何かが意識されていないのだ。愛と欲望に満ちた喜びの大きさよりも、愛と欲望の果てに残る虚しさや悲しみの方が、ずっとずっと大きい。いや全てがそうだとは思えない。しかし、そう思わざるを得ないことが時々起るから心が痛むのである。
そんな東京を離れ、たまに故郷で過ごすことが早川にとって何よりも楽しみだった。
今どの辺りだろうか。……汽笛が遠く小さく聞こえる。……再び睡魔が襲ってきた。
早川はいつの間にか寝入ってしまったらしい。目が覚めた時、カーテンの隙間から淡い光が差し込んでいた。どうやら熟睡したようだ。乗客の朝の挨拶らしき声や雑談が耳に入ってきた。腕時計の針は七時半近くになっていた。
早川はカーテンを思い切り開けた。開けたと同時に慌ててまた閉めた。下段の客が既に起きていて談笑していた。カーテンを開けた瞬間、斜め左下の客の一人とチラッと目線が合ってしまった。二人連れの女である。二人の会話が一瞬止まった。こういう場合、男はなすすべを心得ていない。早川は暫らく横になりながら、これからどうするかを思案しかねていた。下の二人は何処で下車するか分らないが、少なくとも下車するまでの間は同席である。何と言葉を発したら良いものやら。早川はカーテンを開けるのを躊躇した。
こんなことになるんだったら、もっと早く起きるべきだった。洗面を済ませ、二人が起きるのを、デッキか何処かで待っていれば良かったのだ。今更悔やんでももう手遅れである。それに、いつまでもこのままでは却ってまずい。早川は片手に洗面用具を持ち、ゆっくりとカーテンを開けた。小さく会釈し、「どうも」と言いながら下に降りた。「どうも」の言葉しか見当たらなかった。いや、言えなかった。相手の二人も同時に軽く会釈した。髪はバサバサだし、髭面を見られては、男といえどもまともに顔を向けられない。早川は急ぎ通路に出た。既に多くの乗客達が座席で談笑したり身支度している。カーテンが閉まったままになってる所もある。焦る必要はないが、早川は急ぎ洗面所に向かった。
早川は洗顔の前にトイレに行く習慣があった。昨夜、いや正確には今朝早くに此処に来た。ところが、トイレの扉には使用禁止の張り紙が貼られていた。そうか、このトイレは故障していたのだ。道理で扉が開かない筈だ。昨夜と違い、それほどひどく小水をしたい訳ではなかった。反対側の洗面の鏡を見ながら髭を剃り洗顔を済ませ、次の車両のトイレに向かった。昨夜デッキに立っていたサングラスの女のことは、すっかり忘れてしまっていた。
座席に戻ると、二人の女性が同時にこちらを見た。
「おはようございます」
早川は、はっきりした口調で挨拶した。
「おはようございます」
女性二人が幾分はにかんだ顔をして、異口同音に言葉を返した。ここは男らしくしなくてはならない。
「道中よろしくお願い致します」
少し深めに頭を下げた。
「こちらこそ」
二人の緊張気味の声は小さかった。
自分の寝台席の真下は、おそらく二人の女性のうちの、どちらかの寝台である筈であるが、綺麗に片づけられて空席になっていた。上段の自分の寝台席にある荷物を片付けて、早川はその席に座った。真正面の二人と対座する格好になった。少々照れくさい感じである。目が正面の二人に向くことを躊躇した。暫らく車窓を流れる田園風景を眺めていた。故郷に帰る度に見る光景であるが、いつも新鮮であった。早川は思い切って二人に尋ねてみた。
「どちらに行かれるんですか?」
「博多です」
窓側のやや小太りの女性が答えた。もう一人の女性も小さく頷いた。向かって左側に座っている女性は、痩せ型でなかなかの美形であった。顔が白く目鼻立ちがはっきりしていて、真一文字に閉じた口元が気丈夫に見えた。やや厚く品の良い唇の上唇中央は僅かに隆起していた。胸の膨らみが薄着を押し出していた。見た目にも上品な感じのする女性である。窓側の女性が尋ねてきた。
「どちらまで?」
「鹿児島です」
「まあ、これからまだ大分時間掛りますね」
「そうですね、あと半分くらいですかね」
「鹿児島はご旅行?」
左側の女性が初めて口を開いた。透き通った澄んだ声である。
「いえ、実家に帰るところです」
この時、列車は急に速度を緩め何処かの駅に滑るようにして止まった。窓越しに乗る人降りる人の姿がある。早川は乗り込んだ人の中に数人の警察官がいるのを見た。
「駅弁でも食べましょうか?」
二人に尋ねた。早川は空腹であった。
「いえ、手弁当を持って来ていますから」
二人は、ごそごそバッグの中をあさり出した。
「そうですか、じゃあ私は買ってきますから……」
早川は腰を上げ通路に出ようとした。
「あのー、……」
左側の女性が、如何にも恥ずかしそうな顔で早川に向かって言った。
「よろしかったら、……どうぞ」
彼女の手には紙包があった。紙包みの中は、多分おにぎりか何かだろう。お互い、顔を合わせて間もない他人である。好意はありがたいが、受け取る訳にはいかないと早川は思った。
「でも、……それは」
早川が言いかけたと同時に左側の女性が遮った。
「いえ、別に自分のものはありますから、……どうぞ」
列車とプラットホームの間から白い蒸気が立ちこめ、間もなく列車は静かに走り出した。早川はこの際、せっかくの好意を断るのも大人げないと考え直し甘えることにした。
紙包を受け取る時、女性の指が早川の指にかすかに触れた。一瞬女性の指の温もりが伝わってきた。早川の目が女性の目を見詰めた。女性も見つめ返してきた。ほんの短い間だったが、その時早川の意識に何かが働きかけたような気がした。説明のつかない何か不思議な感覚が心を支配した。紙包の重さがその感覚を打ち消したが余韻が残った。妙に新鮮な感覚の余韻だった。
手弁当の味は格別だった。とても美味しい味だった。この女性は、きっと料理が得意なのだろうと思った。思いがけない朝食が雰囲気を和やかにし、三人の緊張感が少しずつ解けていった。左側の女性は花岡亜希子と名乗り、右側の女性は遠藤君子と名乗った。博多へ観光目的の旅行の途中らしかった。早川は自分の名を名乗り、東京の会社に勤務していることを告げた。
三人は手弁当を食べ終わり、それぞれ熱いお茶を口にしようとした、その時、通路に一人の警察官が現れた。早川はパッと見て切符切りの車掌かと思った。だが、よく見ると警察官の服装をしていた。中肉中背のどっしりした体つきである。隙のない目付きが鋭かった。
「ちょっと調べたいことがありまして、皆さんにご協力をお願いしております」
警官は、メモらしきものを手に取り話しかけてきた。警官がこんな所に来るなんて尋常じゃない。
「何か事件でもあったんですか?」
早川が警官に尋ねた。
「トイレで、人が死んでいるのが発見されました」
少し関西訛りの標準語である。三人は一様に驚き思わず顔を見合わせた。
「殺されたんですか?」
早川の言葉が遮られた。
「いえ、まだ断定できませんが……」
「……」
「列車が次の小郡駅に到着するまでに調査を完了しなければなりません。ご協力お願いします」
殺人事件とはまだ断定出来ないという警察官の言葉ではあるが、トイレの中で人が死ぬこと自体穏やかじゃない。二人の女性の顔色が少し変わったように見えた。無理もないことである。もしかしたら殺人事件なんて、普通の生活者には無縁の世界である。それが、降って湧いたように目の前に現れたのである。
「昨夜一時頃から二時半頃 いや、正確には、今朝一時頃から二時半頃は何処に居ましたか?」
警察官の鋭い質問に一瞬圧力を感じた。まるで容疑者に質問してるように言い放った。花岡亜希子が口を開いた。
「ここで休んでいました」
はっきりした口調だった。
「寝ておられたんですか? 席は何処ですか?」
「そうです。……ここです」
亜希子は、右手で今座ってる席に手を置いて説明した。
「隣の方は?」
警察官は遠藤君子に訊ねた。
「同じです。場所はそちらです」
君子は早川の座ってるほうを指差した。
早川は、今朝二時半頃トイレに行った事を思い出していた。同時に、サングラスの女のことが脳裏に鮮やかに蘇ってきた。まさか、あのトイレの中で人が死んだのだろうか。
「あなたは?」
警察官は早川に質問した。早川はふいに我に返った。
「はい 私もこの上で寝ていました」
咄嗟に言った。
「上段の方ですね?」
「そうです」
早川は、あのことを言うか言うまいか迷っていた。
「何か変な物音とか 変わったことはありませんでしたか?」
警察官は、少し後ずさりして通路の座席番号をメモした。
「あのー、その人が死んでいたというトイレは何処ですか?」
早川は言ってしまってから内心しまったと思った。関わりたくないという思いもあったが、それより楽しい旅を壊されるのが嫌だった。だが隠し事が嫌いな早川はもう度胸が座っていた。
「いえ、実は……」
言いかけて警察官の目を見た。
「何かありましたか?」
鋭い目が早川を凝視した。
「はい、二時半頃だったと思うんですが」
「はい」
「トイレに行ったんです」
「あなたがですか?」
「はい、そうです」
こういう時の警察官は、どんな情報でも見逃すまいとする異常な勘が働くものらしい。警察官は一歩前に進み出た。
「何処のトイレですか? 詳しく話してくれませんか?」
警察官は、たたみ掛けるように早川に質問を浴びせた。遠藤君子は、事の成り行きがどうなることかと、心配そうに早川の顔を見続けていた。花岡亜希子は気丈夫と見えて平然と構えていた。
早川は、昨夜二時半ごろの様子を細かく説明した。トイレの扉が閉まっていたこと。サングラスの女のこと。帰りがけには既にその女はいなかったこと。亜希子と君子は、早川の口から飛び出す言葉に凝視した。
「それは何処のトイレですか?」
警察官はメモをとりながら再び聞いてきた。
「この車両の進行方向にあるトイレです」
早川は、すぐそこだというふうに手を後ろに向けた。外は雨になって来たらしい。滴が窓ガラスを伝わって流れ落ちていた。
「実は、そのトイレで死んでいたんです」
早川がさっきから気になっていたことが今分った。自分が用を足そうとしたトイレの中で人が死んでいたことになる。早川も亜希子も君子も、ことの成り行きに、ただごとじゃないのを感じていた。扉が開かなっかたのは使用中じゃなかったのだ。いや使用中だったかもしれないが何かが起きたのだ。それとも誰かが殺して……、外から鍵をかける? まさか出来る筈がない。
「そうですか。でも私が行ったときは、扉が閉まってましたよ」
警察官は頷いてこう言った。
「そうです。その筈です」
「その筈?」
経緯について警察官は次のように説明した。
列車が広島駅を出て間もない夜明け近くになって、トイレを使用する乗客が多くなっってきた。最初のうちは乗客の誰かが使用中と思い、次の車両や手前の車両に移動して用を足した。ところが長すぎることと、いくらノックしても返事がないことに疑問を持った乗客が車掌に連絡をとった。駆けつけた車掌は、トイレの前で、ノックしたり声をかけたりした。だが、まったく音なしである。
「よくあるんですよ 何かの弾みで鍵が掛かってしまうことが」
車掌は、こういう時の為の非常用の鍵を持ち出した。そして扉を開けた途端、男が便器の前方に頭をつけた格好で、うつ伏になっているのが目に飛び込んできた。便器はいわゆる汽車式といわれ一段高いところにある。その便器を全身で覆っていたのである。乗客から悲鳴に近い声が上がった。車掌は身体を激しくゆすり声をかけた。だが、男からは何の応答もなかった。見た限りでは、外傷もなく血痕らしきものは見当たらなかった。車掌はすぐさま一一〇番と一一九番に連絡をとった。次の岩国駅まではそう時間はかからなかった。あらかじめ待機していた警察官数人と救急隊員が乗り込んできた。現場の確認・検証、そして聞き込みが一斉に行われたのである。
「今朝七時過ぎ頃、悲鳴は聞こえませんでしたか?」
警察官の質問に亜希子が答えた。
「そう言えば、何か騒いでいるような物音が聞こえました」
落ちついた話ぶりである。
「悲鳴みたいな声も聞こえました。実はそれで目が覚めました」
亜希子の話では、騒がしい物音を聞いて、すぐ君子を起こしてそのことを伝えた。しかし、君子はまだ寝たりなさそうな顔をしていて、すぐには起きてこなかった。気になりながらも亜希子は、また寝台に身を横たえたのである。亜希子と君子が、進行方向と逆の洗面所に向かったのが七時四十分頃であった。亜希子は、騒ぎのあった方向に目をやったが何事もない様子だった。二人が席に戻って間もなく、早川が目を覚まして降りてきたのである。
「一応参考までに、お名前と住所と連絡先を書いてください」
警察官はメモ紙を早川に渡した。早川は言われるままに名前と住所を書いた。
「あのー、この連絡先は、住所だけでいいんですよね?」
「念のため住居とお勤め先と、これからどちらに行かれますか?」
「鹿児島の実家です」
「じゃあ、そちらの電話番号も書いてください」
早川はまずいと思った。実家は片田舎である。何の理由にしろ、警察から電話が掛かることは、年老いた親に心配を掛けることになる。だが、こういう場合、警察官の要請を拒むことは却ってまずいと思った。
「あのー、出来ましたら」
一応言っておこうと思った。
「親が心配しますので田舎には連絡して欲しくないんですけど」
「そうならないような結果になればいいですな」
警察官は冷たく言い放った。
「あーあ、旅行が台無しだ」
早川は、両手を頭の後にやり小さく呟いた。
警察官に渡したメモが、そのまま亜希子に渡った。亜希子は、早川の書いたメモを暫らく見た後スラスラと書き始めた。そして君子に手渡した。
「私も書くんですか?」
「はい あくまで参考までですから」
警察官に促され君子は、何かまずそうな顔つきをして書き始めた。そして、書き終わって、メモ書きを警察官に手渡した。
「お休みのところすみませんでした。ご協力ありがとうございました」
警察官はくびすを返し、狭い通路を足早に次の列の座席に向かった。
暫らく三人は無言であった。警察官に取り調べを受けること自体いい気分じゃない。特に、もしかして、殺人事件ともなると事は深刻である。雨は相変わらず降り続いている。窓の外をぼんやり眺めていた君子が静寂を破った。
「鍵の掛かったトイレの中で死んでいたということは、絶対事故死と思うわ」
早川もさっきからそのことを考えていた。
「そうですね、密室の中の人は、どう考えても殺せませんね」
「失礼しちゃうわ、まったく」
君子はかなり憤慨した面持ちである。まだ、殺人とも事故死とも分らない段階での取り調べである。君子の気持ちも分らないでもない。
「私が黙ってれば良かったんです。ご迷惑をお掛けしました」
その言葉に亜希子が口を挟んだ。
「早川さんはちっとも悪くないと思います。……だって……」
言いかけて君子の顔を見た。君子は不満そうだった。
「少なくとも早川さん自身も迷惑受けたんですから。……ね、君ちゃん、そうでしょう?」
君子と亜希子の関係は定かじゃない。亜希子の諭すような口ぶりに君子は小さく頷いた。
「もう忘れましょう、……楽しい旅にしましょうよ」
「そうね、亜希子の言う通りだわね」
君子と亜希子は、どうも幼馴染らしかった。早川はそう感じた。
「あ、遅くなりました。……ご馳走様でした」
早川は食事のお礼を言うのを忘れていた。いや忘れてた訳ではない。突然の予期せぬ訪問者に、すっかりタイミングを狂わされたのである。
「いいえ、お口に合いましたかしら」
亜希子は照れたような素振りで言った。亜希子の白く細い両手が膝の上にあった。
「お料理が得意みたいですね。とっても美味しくいただきました」
「ふふふ お世辞がお上手ですね」
「亜希子の料理は、とても美味しいって評判なんですよ」
君子が横から割り込んできた。
「へェー そうでしたか、道理で」
早川は頷きながら、改めて亜希子の顔をしげしげと見た。
「まあ、君ちゃんまでそんなことを言って、……もう」
亜希子のはにかんだ笑顔が早川の心を強く動かした。
「ところで早川さんのお仕事って、どんなお仕事なんですか?」
君子が尋ねてきた。
「私の職業ですか?」
「はい、どんなお仕事かしら?」
「建設会社で設計を担当しています」
「まあ、設計士さん? 素敵な職業ですね」
「あは、ちっとも素敵じゃありませんよ。苦労ばっかりしています」
「一級建築士なんでしょう?」
「はあ、一応そうですけど、肩書なんてあまり気にしないほうですから、私は」
「へえー、でもとても難しい国家試験なんでしょう?」
「そうですね、難関ですね」
「どんな建物の設計されるんですか?」
君子はだんだん熱心に質問してきた。
「そうですね、住宅もたまには設計しますが、主にビルの設計が多いですね」
「すご~い、私が家を建てるときはお願いしようかなあ」
「あは、冗談でも嬉しいですね。その節は宜しくです」
早川は、笑いながら頭を下げて見せた。
どうしてこのレトロ寝台特急に乗ったのかとか旅行の話など、三人の間で暫らく取り留めのない話が続いた。
「あのー、確か長野からの旅ですよね」
早川は二人に尋ねた。
「あら、どうしてご存知なの?」
「いえ、あの、……さっきメモしていらした時、チラッと見えたものですから」
早川は少し慌てて、バツが悪そうに右手を頭にやりながら言った。
「まあ、早川さんて隅に置けない人ですね」
この君子の言葉が、三人を取り巻いていた緊張感を一挙に解き放した。笑いがこぼれ、警察官の取り調べの最中から続いていた緊張感が、一気に緩んでいくのを三人はそれぞれ感じ取った。
「長野は何処ですか?」
「篠ノ井です」
早川の言葉に咄嗟に反応して君子が言った。
「長野県はリンゴの名産地と聞いてますけど……」
「そうですね、青森県が有名ですが、長野県も美味しいリンゴが一杯採れますよ」
今度は亜希子が如何にも嬉しそうに答えた。
「南国生まれな者ですから、リンゴの木を見たことないんですよ」
早川は東京で長いこと生活している。だが長野には足を運んだことはなかった。
「以前から、たわわにぶら下がったリンゴを、一度見てみたいと思っていました」
早川は続けた。
「そのうち暇が出来たら、ぶらっと出かけて見ようとは思っていますが」
亜希子はにこにこしながら聞き入っていた。
「リンゴ畑なんて、そんなに見るほどのこともないですよ」
リンゴの木を見たさに、わざわざ東京辺りから、どうして? とでも言いたげな君子の言葉である。
「もっとも 当分は実現しそうにありませんけどね」
窓から差し込む明かりが少し強くなった。どうやら雨は止んだらしい。列車は程なく小郡駅に着いた。小郡駅から二時間半もすれば博多駅に到着する。つい数時間前に出会ったばかりなのに、三人はすっかり打ち解けていた。警察官の取り調べの緊張が、お互いの理解と安心感を導いたのか。それなら、死んでしまった人には申し訳ないが、感謝しなくてはなるまい。それとも、運良く良い人と巡り会えたのか。思いがけない朝食が和みを演出してくれたのか。
寝台車は怖いという人もいる。カーテンの奥が見えないからだと言う。確かにそうかもしれない。だが、その怖さも、今三人の経験した経緯が逆に反動して安らぎへと変化したのかもしれない。ジュースやお茶を飲みながら暫らく談笑に花が咲いた。通路を行き交う人々には、気心の知れた友人達の会話と見えたに違いない。それほど打ち解けていたのである。
窓の外には、雲一つない初秋の空一面に、眩しいばかりの海が見えてきた。海の遠くに見えるヨットが、夏を名残惜しそうにして浮かんでいた。
早川は会釈してトイレに立った。無意識のうちに進行方向とは反対側のトイレに向かった。トイレは空いていた。トイレの中で早川は亜希子のことを考えた。どんな人なんだろう。いつ長野に戻るんだろうか。談笑の際には、ついつい切り出せなかったのである。もう逢うこともない人なんだと思えてきた。そう思うと何だか寂しい気もした。旅の楽しみは旅の終わりと共に終わるんだ。早川は自分にそう言い聞かせてトイレの扉を開けた。
トイレの扉を閉めて、通路を挟んで反対側の洗面所の方を振り向いた。そこに鏡に映った亜希子の顔を見た時、早川は胸の高まりを抑えることが出来なかった。亜希子は、いつのまにか洗面所に来ていたのである。早川が席を立つほとんど前後して、亜希子も席を立ったのであろう。
鏡の奥で亜希子は、早川の目を見て微笑んでいた。惹き込まれそうな笑顔である。早川も笑顔で会釈した。亜希子は歯ブラシを出して歯を磨こうとしていたが、早川の顔を見てその動作が止まった。咄嗟に判断した早川は、慌てて手を洗い席に戻った。
席に着くと同時に、君子が会釈しながら席を立った。小太りの腰の脇に化粧道具を持っていた。座席は早川だけになった。何故か淋しい思いが早川の脳裏を覆った。もうすぐ二人とお別れだ。いろいろあったが楽しいひとときだった。旅をしたりハイキングや山登りの好きな早川にとって、何回となく列車に乗ったが、こんな経験は初めてである。もう二度とこんな経験は出来ないかもしれない。そう思うと残り少ない時間が惜しくなってきた。だがどうすることも出来ない。早川には時間は止められなかった。
暫らくして二人が席に戻ってきた。早川の腕時計の針が十一時二十分を指していた。暫らく取り留めのない話になったが、心が切なさを訴えていた。こういう時は、その場を離れることで気を紛らわせるのが一番だ。会釈して再び通路に出た。好奇心が進行方向に足を向けさせた。人が中で死んでいたというトイレを見てみたかった。だが、トイレの扉に張り紙があり、使用できない旨の案内が、車掌という肩書名で書いてあった。仕方なく次の車両に向かった。
席に戻る前にデッキに立ち、走り去る外の風景を眺めていた。このデッキは例のサングラスの女が立っていた場所である。その時列車は轟音と共にトンネルに入った。外の風景が遮断され黒が勢いよく流れ去って行く。九州にはいる関門トンネルである。その時ドアガラスにスーッと横切る女の姿が映し出された。一瞬だったので定かではないがサングラスを掛けていた。あっ、あの女だ。咄嗟に通路に出て女の後姿を目で追った。確かにあの女だ。まだこの汽車に乗っていたらしい。早川は、気づかれないようにそっと後をつけた。なぜ後をつけるのか自分でも分らなかった。女は、早川が今さっき用を足したトイレの前を通り過ぎて、さらに次の車両に入っていった。早川は、はやる気持ちを抑えながら、そっと扉を開けた。だが通路に女の姿を見ることは出来なかった。おそらく扉近くが女の座席なのかもしれない。そうでなかったら、女は早川が後をつけているのに気づき、何処かに身を潜めてるのかも知れない。どうするか、このまま通路を突き進むか引き返すか。
列車は関門トンネルを過ぎた。黒の流れが消え周りが急に明るくなった。早川はその場を引き上げた。追ったところで何になる。会って何を話す。ただ、昨夜の出来事のことで、好奇心が女の跡を追わせただけだ。
席に戻り思案した。そう言えば、あの女も警察の取調べを受けてる筈だ。目を閉じた。早川に良からぬ想像が浮かんだ。女は警察官に早川とデッキで会ったことを喋ったに違いない。早川もあのサングラスの女のことを話している。女のほうから同じような話があってもおかしくはない。となると女の話し方によっては、あらぬ嫌疑が掛かってしまう。だが今となってはどうする手もない。鍵の掛ったトイレの中での死である。まして自分の潔白は明らかだ。別に気にすることでもないような気がしてきた。
思案している早川の様子を見て、亜希子と君子は首をひねった。それから間もなくのことだった。社内放送で列車が博多駅に着く旨の案内がなされた。亜希子と君子の二人は、身支度をし早川に挨拶した。
「とても楽しい旅でした。ありがとうございました。……お元気で」
亜希子の言葉に早川は返す言葉を失っていた。
「い、いえ、こちらこそ」
「早川さん、お元気でね、気をつけて」
君子も名残惜しそうに言ってくれた。列車は滑り込むようにして博多駅に到着した。早川は二人をデッキまで見送ろうと思い席を立った。降りる客がかなり多かった。狭い通路を君子が先に歩き、亜希子と早川はその後に続いた。歩きながら早川は、この二人とは、いや亜希子とはもう二度と逢えないのだ、逢う機会が永遠に閉ざされるんだと、一歩一歩近づく別れに虚しい思いをしていた。思い切って連絡先を聞いておきたい気もしたが、初対面でいきなり聞き出すのも気が引け、とうとうその機会を失ってしまった。早川には、デッキまでの時間がとても早く感じられた。出口近くに差し掛かった時、左前方にいた亜希子が小さな声で囁いた。君子は気づいている様子ではなかった。
「東京にはいつお帰りになるの?」
早川は大きな建設現場を終えたばかりであった。次の仕事までの間、会社から長期休暇を貰うことが出来た。久しぶりに帰る田舎で、のんびりとするつもりだった。
「はい。十日から二週間位したら東京に戻るつもりです」
亜希子は小さく頷いた。
「そうですか 心の洗濯にはちょうどいい期間ですね」
まるで、早川の心の内が分っているような口ぶりだった。そして、くびすを返し、顔を早川の正面に向けた。
「じゃあ、……さようなら、……お元気で……」
辺りがぱっと明るくなるほどの満面の笑みである。
「はい、ありがとうございました。花岡さんもお元気で」
発車のベルを、これほど切なく感じたことはなかった。ドアガラス越しに見る亜希子と君子が手を振っていた。早川は一礼して肩のあたりで手を振った。君子はにこにこしていたが亜希子は違った。すがるような目つきで、じっと早川の目を見詰めていた。美しい顔だった。早川はこの時、猛烈にこみ上げる惜別の念を感じ、亜希子の目を食い入るように見つめた。
無情にも、汽車は蒸気を立ててゆっくりと動き出した。その時、亜希子が進行方向に歩いた。二歩、三歩と歩き、そして早川に向かって激しく手を振った。亜希子も早川と同じ思いだった。もしかしたら、もう逢えない人かもしれない。もう二度と顔を見れないかもしれない。その思いが一挙に噴出し、物事に動じない筈の亜希子の気持ちを激しく揺さぶった。早川はドアに顔を付け、花岡亜希子の姿が小さくなるまで見続けた。
暫らくの間早川には祭りの後の余韻のような覚めやらぬ気分の高まりが残っていた。がらんとした席にただ一人いると、先ほどまでの出来事が、まるで嘘みたいに思えてきて、あれは夢だったのかと錯覚すら覚えた。亜希子の座っていた席をじっと見つめていると、彼女の笑顔やしぐさや語らいが鮮やかに蘇ってきた。同時にどうしようもない虚脱感が身を包んだ。こんなことなら電話番号を聞き出しておけば良かったと、永遠に連絡すらも出来ないという思いが痛烈な後悔の念に変わった。今となってはもう遅い。楽しい夢を見たことにしようと、早川は気分を紛らわす為に外の景色を眺めた。
まだ黄緑色した稲穂の田園風景が、真昼時の日の光に照らされて、穏やかな初秋の絵を描いていた。郷里もきっと同じくこんな風景に違いない。小さい頃の想い出がふっと頭に浮かんだ。田植えをしたり実った稲を刈り取ったり、よく手伝わされたものだ。田植えや稲刈りは、田舎にしてみれば一種のお祭りみたいなもので、近所のおばさんやおじさん達は手伝いに行くのが習慣だった。子供達も一緒になって手伝い、結構楽しい行事であった。唯一嫌なことは、蛭に足を噛まれることだった。膝近くまで泥にまみれて田植えをしてる間、蛭は容赦なく吸い付いてくる。それでも、畦道に腰を下ろし一息入れる時の、お茶の美味しさや昼飯時の握り飯の美味しさは今でも忘れられない。
田植え作業をはじめとして、今では、農作業は機械がそれらの全てを簡単にやってくれる。作業の能率は格段に上がった。しかし、それと引き換えに、あのおばさんやおじさん達との楽しい触れ合いがなくなってしまった。美味しかった握り飯はとうの昔に作られなくなった。得たものと失われたものとを天秤にかけるつもりはないが、人との触れ合いが少なくなった農作業は、やはり寂しい気がする。
車内販売の声が聞こえてきた。食事をする気になれないでいた早川は、缶ビールと少しばかりのつまみを買った。ビールを飲みながら、今は亡き親父のことが思い出されてきた。
親父は漁船を一艘持っていた。夕暮れになると、よく連れ出されて親父と一緒に漁に出た。浜に繋がれた小さな漁船には、ディーゼル機関が主流になりつつあるというのに、焼玉エンジンが搭載されていた。機械いじりの好きな親父が、古い焼玉エンジンを改良して取り付けたものだった。早川は、ポンポンと鳴る焼玉エンジンの独特の音と重油の焼ける匂いが大好きだった。船は薄明るい灯りをともし、ポンポンと泣きながら浜を出て海に出る。晴れた日は、遠くに開聞岳や桜島が地平線にくっきりと浮かんで見える。開聞岳のあたりに夕日が沈む光景は、まさに絶景と呼ぶにふさわしい自然のパノラマである。この夕景色見たさに早川は親父の漁に付き合っている、と言ってもいいくらいであった。
無類の酒好きだった親父は、漁よりも船の上での焼酎が楽しみだった。ほとんど親父の勘によると思われる漁場を探し、ざっと百メートル程度と思われる太いロープを少しづつ沖に流すのである。ロープには網が縫い付けられていて、さらに網の下方には、網が流されないように鉛の錘がついていた。そのロープの先端には、ガラス製のボールに入った灯りが取り付けられていた。バショウカジキ漁用の流し網と呼ばれるものである。バショウカジキは秋を告げる魚と言われ、鹿児島では秋太郎と呼ばれて親しまれている魚である。
その作業を終えると決まって食事である。親父は嬉しそうに風呂敷を解き焼酎を取り出し、母親が用意してくれたおかずを口にしながら、実に旨そうに焼酎を飲んでいた。早川も母親が作ってくれた弁当を開けた。母親は料理が得意だった。どんな料理も味がとても良かった。地区の行事や隣近所の寄合がある時には、必ずといっていいほど呼ばれて料理を作っていた。弁当の中身は、もちろん贅沢なものではないが、船に揺られながら口にする一つ一つがとても美味しかった。親父は無口だった。親父と息子の間にはほとんど会話はなかった。以前はそうじゃなかったような気がしていた。事業の失敗が親父の心に変化をもたらした。そのことを子供心に理解していた。早川はそんな親父をそっと見つめていた。親父に残されたこの小さな漁船が唯一の宝物なのである。親父が残り少ないこれからの人生を、この船と共に楽しんでくれたらと早川は思っていた。
親父は焼酎を飲みながら今夜は大漁だと一人悦に入っていた。だが早川の知る限り、大漁になったことはほとんどなかった。が、それでも二度ほど大きなバショウカジキが何匹か網にかかって、汗を流しながら網を引き揚げたことがあった。親父は、意気揚々と隣町の市場に向かい水揚げしセリにかけた。その時の親父のありったけの破顔は未だに忘れられない。まるで天下を取ったようなはしゃぎようで、おそらく最高の気分だったに違いない。早川は子供心に心配していた。酒よりも、もっと漁の研究をしたらいいのにと。だが所詮、親父の漁は過去の域を出ることはなかった。
海が荒れた日は漁が出来ない。そういう日に限って親父は酒をあおった。普段は無口で仏様みたいな親父が荒れ狂った。まさか、海の荒さに自分を合わせてる訳でもあるまいが、恐ろしい程に荒れ狂った。
今日食べる米どころか、焼酎の一合すらも買う金が無い程の極貧の中、早川は母親の苦労が痛いほど分っていた。お金を借りる為に隣近所に何回も足を運び、頭を下げる母親の姿を見る度に、少年の心は痛み悲しみに暮れた。そして母の強さを知ると同時に、母の心に容赦なく振りかかる悲しさや苦しさが、この少年の心の奥底に、消えることのない記憶として刻み込まれていき、いつしか宿ってしまったのである。
そんな境遇を親父自身が一番よく知っているが故に、なおさら自分の至らなさが歯がゆくて酒をあおったのかもしれない。数年前までの、あれほど栄華を誇った自分の哀れな末路を認めたくなかったのかもしれない。事業の失敗というよりも、作業場での従業員の事故による賠償で全財産を失って、親父は親父でなくなった。
右手の握り拳の親指を高く上げて、『いいか、世に出たら社会的勉強をしろ』とか、『早川家は代々士族であるぞ、誇りを持て誇りを』と子供たちに説教した。酒の力を借りて怒鳴る親父の姿は、子供心に哀れさえ感じたものである。絶頂の時、道楽で買った漁船がたった一つの財産として残された。以来親父は、この小さな漁船をかけがえのない友として大事にしていたのである。
親父が荒れ狂った夜は、早川は決まってすぐ近くの海岸に出た。そして遠くに見える地平線に浮かぶ灯りや山に向かって叫んだ。
「バカヤローー」
早川の頬を伝い滴り落ちる涙が薄白く光る砂浜に染みた。
早川が社会人となり東京での寮生活のある日、父危篤の電報を受け取った。急ぎ帰郷したが、ほどなく親父はこの世からいなくなった。漁港の船着場近くのトイレの中で倒れていたらしい。パトカーが親父を病院まで運んだという知らせを持って来てくれた。何回かのリハビリを経て、一時的に回復したように見えたが、あの頑丈だった親父が七十一歳の生涯をあっけなく閉じたのである。
遠い日の出来事が昨日のように思い出され、早川は窓の景色が滲んで見えるのを覚えた。三歳の時早川は不明の病気を患ってしまったという。命絶え絶えの我が子の幼い命を、必死になって守ってくれた親父の話を、母親から聞いたことがある。親父が救ってくれなければ、今の俺はないのだと思うと無性に泣けてきた。
酒豪だった親父に似ず酒に弱い早川は、一本の缶ビールを飲み干せないまま、程良い睡魔の中に身を委ねた。
目が覚めた時には辺りはすっかり午後の明かりになっていた。車窓の外は時折見える風景の中で、初秋の穏やかな日差しが稲穂に注がれていた。車内はもの静かであった。
既に九州に入って三時間ほど経過している。その間、乗客はそれぞれに降車したに違いない。時折聞こえる汽笛の音が妙に侘しかった。依然として座席は早川だけだった。今の早川にしたらそのほうが好都合に思えた。間もなく車内放送が熊本駅の到着が近いことを知らせた。
熊本駅で駅弁を買おうと思っていた早川は、列車が駅につくと同時にホームに出た。その時、右手前方を歩いている女の後姿を見てハッとした。サングラスの女である。左手にバッグを持ち、右の腕にはショルダーバッグを下げていた。あの女、熊本の女だったのか。でなければ何かの用事で降りたのだ。よく見ると、出迎えに来ていた男が、列車から降りたばかりの女に近づいてきた。男は年輩である。頭を深く下げた後、何やら言葉を交わし女の持っていた左手のバッグを受け取り、後ろからしずしず女について行った。女は堂々とした姿勢で歩き、やがて階段に消えた。
早川は、売店で週刊誌とスポーツ新聞を買った後、売り歩いていた駅弁売りのおばさんに声をかけた。駅弁とお茶を買い求め席に戻った。間もなく列車は汽笛を鳴らして走り出した。鹿児島中央駅までには、まだまだたっぷりと時間がある。早川は買い求めた駅弁を食し、お茶をすすりながら週刊誌とスポーツ新聞をじっくりと目で追った。
列車が鹿児島中央駅に滑り込むように到着した時は夕暮れの五時半だった。昨日東京を出発してから遠路二十二時間半の旅であった。
新幹線や飛行機で帰郷することも、もちろん選択肢の一つではあった。しかし、せっかくの鉄道会社の新企画の運行である。乗らない手はない。現にそれを実際に体験してみて、この人気のレトロ寝台特急ハヤブサの旅は、途中思わぬ出会いもあったこともあって、実に快適な旅であった。本来の旅の醍醐味を存分に満喫させてくれた。出来れば毎年運行してくれればと思うことだった。
ホームに出て夕刊を買った。そして、改札口を出て階段を下り駅前広場に出た。この小さな地方都市でも、年々景観が変貌していくのが良く分る。昨年よりも明らかに広場の賑わいが違う。早川は、桜島フェリー桟橋行のバスに乗った。客は少なかった。実家に帰るには、垂水フェリーの方が近いかもしれないと思いながら、結局、桜島経由で帰るのが常だった。桜島を眼前に見る度に、鹿児島に帰ったのだという実感が湧くのである。もちろん、垂水フェリーからも桜島は、手の届きそうな距離の所に見ることは出来る。しかし早川は、フェリーに乗り、だんだんと近づく桜島の雄大な姿に、特別な思いを感じていたのである。
噴煙を上げる桜島は時に厄介ものの感はあるが、しかしそれ以上に、ただ見ているだけで何故か身体中に込み上げてくる活力みたいな、やるぞというパワーを感ずるのである。溶岩道路を走るバスの中から見る裾野の景色は、圧倒的な男性的荒々しさで迫ってくる。この躍動感と迫力が何ともいえず好きなのである。
桜島フェリー桟橋までのバスの中で夕刊を広げた。政治面は目新しいものはない。社会面は誘拐事件の速報がでかでかと報じられていた。一通り目を通して、新聞をたたみ掛けながら下段のほうに何気なく目をやって、おやっと思った。
―― 寝台特急内で死亡者 ―― という小さな見出しがあった。早川が先ほどまで乗っていた列車である。新聞を広げ直し目を凝らした。
寝台特急のトイレ内で中年の男性が死亡。警察は事故死と殺人の両面から捜査をしていたが、トイレの扉の鍵が掛っていたままの状況から事故死と断定。死因については現在調査中だが、心臓麻痺による突然死の可能性が高い。死亡推定時刻は本日未明の一時から二時半の間、とあった。
早川は紙面から目を離し車窓の外の街並みを見ながら、こういう場合のような変死の場合、死体の解剖をした上で死因を断定するのでないのだろうか、それとも医者の診たてだけで済ませるのだろうか、と知識外のことに疑問を感じた。死体解剖には、親族の承諾がないと出来ない筈だから、解剖するには、時間的に無理な状況なのかもしれない。夕刊には、死亡した人の身元のことは触れていなかった。
いずれにしても、あの人騒がせな出来事の結果が分り、早川はホッとして、フーっと息を強く吐き出した。そして、ふっと亜希子の美しい顔を思い出した。亜希子は、この新聞の報道のことを知っているだろうか。
本土最南端の小さな町に辿り着いた時は、夜の八時半を少し過ぎていた。あらかじめ母親には連絡しておいた。既に風呂が沸いていて、夕飯の支度もできていた。息子の帰りが、どんなに嬉しいものか母親の顔に書いてあった。その顔を見る度に、帰ってきて良かったと早川はいつも思うのである。
「疲れたろう。さ、お風呂に入って汗を流しなさい」
「うん」
風呂は、薪でたく鉄製の五右衛門風呂である。内側は、あちこちに赤茶けたさびが浮いていて年代ものである。薄い板を張り合わせた、直径五十センチ程の丸い形をしたスノコに、片足を乗せ踏み込むと、湯が下から勢いよく上がってくる。もう片方の足と共に、身体を湯船に沈めるのである。実はこのスノコを踏むにはコツがある。ある時、こんなことがあった。姉の子供が、この五右衛門風呂に入ろうとした時のことである。スノコを踏み外してしまい素っとん狂な声で悲鳴を上げた。スノコだけが無情にもプカプカ浮いていて、子供の体は湯船の中に沈んでいた。姉は大笑いしながら子供を抱き上げた。子供も照れ臭そうにして笑っていた。幸い、何ごとなかったから良かったが、タイミングによっては、底の鉄板は直火を受けて相当熱いから飛び上がってしまうこともある。
コンクリートむき出しの洗い場で汗を流していると、風呂場を囲っている板塀のすき間から、秋の風が吹き込んでくる。熱い湯気と柔らかく吹き込むすき間風が、顔のあたりで溶け合い、何とも言えない感触で風情なのである。最近のユニットバスでは、決して味わえない極上のレトロ感なのである。板塀のすき間から、その気になれば風呂場の中を覗くことが出来る。だが、この田舎町では、そんなことは心配の外にある。誰一人覗こうとする者はいない。
神戸に住む弟がたまに帰省した折に、近くに住む姉夫婦も交えて、母の為にも、最近流行の風呂に改装しようか、という話が何度か持ち上がった。しかし、母と早川が反対した。母は使い慣れているから、お金を掛けてまでする必要はない、と言う。早川は、何にも代えがたいこの風流な気分を、いつまでも味わいたいと主張した。姉も弟も納得した。だから、未だにそのままになっている。長い都会生活に慣れている早川には、まるで別世界の気分が最高の喜びであった。
「湯加減はどうな? 薪をくべようか?」
母の声である。
「いや、いいよ。丁度いい」
薪の残り火の熱が、ジワーッと鉄板を伝ってくる。だから、残り火がある間は保温が持続するのである。まさか、残り火の中にサツマイモが埋もれているとは思えないが、小さいころは、そうして焼き芋を食べたものである。これがまた、たまらなく美味しい。薪は高床の開放された床下にいつもあった。最近は母親も歳を取り、さすがに薪を取りに山には行けない。隣近所のおじさんたちが運んできてくれる。ありがたいことである。
「ああ、久しぶりにいい湯だったなあ」
早川は手拭いを首に掛け、いかにも満足そうな顔で風呂場から出て来て、用意してあった食卓代わりのちゃぶ台に座った。ちゃぶ台には母がこさえた自慢の料理が所狭しと並んでいた。
「ご苦労だったね。……お帰り」
母親は息子の方に向かって正座し、両手を畳につけ頭を垂れた。
「うん、ただいまでした。……母さん、暫らく厄介になります」
息子も頭を下げた。
「元気そうで、何よりだね」
「健康な身体を産んでくれて、母さんには感謝しています」
「人生、身体が資本だからね。元気でなくっちゃ何にも出来ないからね」
「そうだね」
母と子の間に余計な言葉は必要なかった。相対座している二人の間に漂う空気すべてが、まさに親子の愛に同化していた。
「さ、焼酎をおあがり。……少しなら大丈夫だろう?」
「うん、ありがとう。少しならね」
「お父さんに似なくて良かったね」
母親はにっこり微笑んで、いかにも嬉しそうだった。母親はあの酒豪の父親に、酒のことでどれだけ苦労したことか。顔には出さないが、母の言葉にはしんみりとした思いが込められていた。父がこの世を去って暫らくは、仏壇の茶碗に焼酎はなかった。あれだけ飲んだのだから、あの世まで行って飲むことはないだろう、というのが母の口癖だった。しかし、最近になり、仏壇の茶碗の中には焼酎が入れてある。茶碗一杯くらいならね、と母は多くを語らないが、あの頃の父を懐かしむことが出来るくらいの時間が経過したのだろう、と早川は思った。
東京ではまず味わえないキビナゴの刺身を、酢醤油で口に入れる。大好物の肉じゃがの絶妙な味は、たかが肉じゃが、されど肉じゃがと叫びたくなるほどの旨さである。その様子をじっと見つめている母親のシワだらけの顔は破顔であった。
「ところで、母さん、謙二はたまには帰ってくる?」
弟の謙二は、神戸で会社勤めをしていた。そこそこ大きな通商会社で営業主任を任されている。都会生活はどうしても馴染めないから田舎に帰ろうかなあ、とこぼしていた。
「いや、帰って来ないよ。みんな忙しいのだろうよ。それに、お金も掛るしね」
「そっかあ、電話は?」
「電話はたまにあるよ。ま、みんな元気そうだからね。それが何よりだね」
「母さんだって、謙二の顔を見たいんだから、たまには顔を見せたらいいのに」
早川は母親の顔を見ながら代弁した。
「ところで、お前もそろそろ、嫁さんのことを考えなくっちゃね」
急に痛いところを突かれてしまった。
「仕事も大事だけど、自分の家族のことも、それ以上に大事だからね」
その時、なぜか早川の脳裏に亜希子の面影が浮かんだ。
「そうね。そういうことになったら、いの一番に母さんに知らせるからね」
「そうなるといいね。なにしろ早川家の長男だからね」
長男の何たるかは、今の早川家では問題にはならないが、この田舎町では、いまだに厳然として残っている。同級生の中にも、嫌でもそうならざるを得ない境遇に愚痴をこぼす者もいた。親父の事業が順調にいけば、早川は長男として、間違いなく跡を継ぐ羽目になっていた筈である。幸か不幸かそうはならなかったが、母の心の中には、長男としての息子の今後を思ってのことであった。
「生きてる間に孫の顔が見られるといいね」
母のこの何気ない言葉が、早川の胸に痛烈に突き刺さった。そうだ、この母の生き甲斐とか喜びとか幸せ感は、もはや俺たち子供の責任として親に与えなければならないのだ。親とはそういうものなのだ。あと何年生きられるか分らないこの母親に、泣いて嬉しがらせるだけの親孝行をしなくてはならないと、早川は痛切な思いで母親の顔を見つめた。
次の日から早川は郷里でのんびり暮らしていた。
姉の真知子は、随分前に地元の農家に嫁いでいった。子供が二人いる。すぐ近くに住んではいるが、農作業が忙しく母親が元気なことをいいことに、母の所にはたまにしか顔を出さない。母もその方がいいと言っていた。早川は帰郷したら、必ずこの姉夫婦の家に顔を出していた。この日も農作業を終えて、日が暮れるころに姉は家に帰ってきた。
「あら、悟、帰ってたの? 元気そうね」
「姉さん相変わらず忙しそうだね。農家も大変だね」
二人は縁側に腰を下ろした。姉は手拭いで汗を拭き拭き話した。
「今が一番稼ぎ時なんだから。……この時期に暇だったら、それこそ大変よ」
「もう農作業も、すっかり板についたみたいだね」
「そう、なんとかね、それでも最初はもう大変だったわよ。慣れないことばかりでね。旦那に怒られっぱなしだった」
姉の日焼けした顔を見て、苦労が絶えなかったんだろうなと思った。それでも、明るい性格と苦労を苦労と思わない前向きな姿勢が、次第に農家に溶け込み、姉が姉らしく振る舞うことが出来るまでになったのである。
「そっかあ、姉さんは頑張り屋さんだから続いたんだね」
「そうね、今じゃ旦那からも頼りにされているし、農作業も慣れてしまえば結構楽しいもんよ」
姉はにっこり笑った。悟は姉が生き生きとしていることにホッとした。
「今夜は、久しぶりにうちで食事しない?」
「いや、忙しそうだし、それに母さんが淋しがるから、母さんと食事するよ。そのうちゆっくり遊びに来るから」
悟は、姉夫婦にとって、今が一年の内でも一番忙しい時期だと思い遠慮した。
「そう、忙しいもんだから、こんなに近くにいながら、母さんの所へもなかなか行けずに親不孝してるのよ」
「母さんも、その方が気楽でいいって言ってるよ。その内、嫌でも面倒見なけばいけない時期が来るから、それまでは今のままでいいんじゃない?」
「そうよね、その頃になれば、息子や娘が手伝ってくれると思うから、そしたら思い切って親孝行出来るから、それまでは母さんも元気でいて欲しいわね」
「だね、……姉さんごめんな、長男の俺が母さんの面倒見なきゃいけないのに、姉さんに押し付けてしまって」
「何言ってるのよ、悟は今の仕事を一生懸命やればいいのよ。何にも心配しなくてもいいんだよ」
「ありがとう」
「その代り出来るだけ頻繁に帰って来てね。悟や謙二と話しするのが姉さんは一番嬉しいんだから」
「うん、そうするよ。……姉さん、ありがとう」
「あ、それと、ずーっと先の話になると思うんだけどね」
「うん、何?」
「今こんな話するのもなんだけど、悟もそのうち結婚して子供が出来るでしょう?」
「うん」
「そして、いずれは母さんもあの世へ旅立ったら、この田舎には姉さんだけになってしまうじゃない?」
悟は思いもかけない姉の言葉に驚いた。
「どうしたんだよ姉さん、いきなりそんな話して」
「ま、聞いて。……私が心配するのは、お母さんがいなくなったら、悟や謙二が、もうこの田舎に帰ってきてくれないのじゃないかと思ってね」
「あはは、姉さん心配性だなあ。そんなこと絶対ないよ」
「ほんと? だって、ご近所の人たちの家では、もう誰も帰って来なくなった家もあるのよ」
悟は姉が、そんなことまで考えていたのかと思うと、胸が締め付けられる思いになった。
「うん、俺は田舎が好きだし、姉さんがいると思えば、時々帰って来たくなると思う。その時は、田舎にいる間、俺も姉さんの仕事手伝うよ」
「そんなことは考えなくてもいいんだけど、ほんとにそうしてくれるのね? ……約束してくれる?」
「約束するよ絶対に。姉さんが元気なうちは、うるさいほど来るかもよ。だって俺、姉さん好きだもん」
悟は姉の気持が痛いほど良く分っていた。
「そう、良かった。ありがとうね。今の話は、多分ずーっと先の話かもしれないけど、……姉さんね、稲刈りをしたり田んぼの雑草を取ったり牛に餌のわらを斬ったりしてる時にね、悟や謙二のことをいつも思ってるの。元気でやってるかなあ、とか、今度いつ帰ってくるのかな、ってね」
姉は悟の顔をじっと見つめて話した。切々と語る姉に家族の絆を強く感じた。小さい頃から、二人の弟の面倒をよく見てくれた。とても優しいこの姉の人生に、出来るだけ寄り添ってあげられるようにしたいと強く思った。
「姉さんも、あまり無理しないで身体に気をつけるんだよ。忙しそうだから今日はこれで帰る」
「ありがとう、悟も元気でね。……また帰って来てね」
「うん、じゃあね、兄さんにもよろしく言っといて」
「分ったわ、じゃあね」
親戚筋や気の合う同級生の所に赴き、談笑したり酒を酌み交わしたりもした。さらに海岸や川や山に出かけ、あてもなく時間を消費した。
郷里は今も、昔とちっとも変わっていない。若者は殆どが都会に出て行き、同級生もごく僅かばかりになり、漁業や農業にいそしんでいた。残された年寄り達は、ただ漫然とひっそり暮らしている。テレビが唯一の楽しみであった。
夜も九時頃になると、各家庭の電灯は消え、町は闇の中に沈んでしまう。早川は都会生活が長いこともあって、そんなに早くは寝床につけなかった。海岸の砂浜に腰をおろし、地平線の遠くに見える街並の灯りを、ただぼんやりと眺めていた。スーっと流れる灯りは漁船の灯りだろう。静寂が辺りを包み、手が届きそうな満天の星空は、およそ東京では見ることの出来ない自然のきらめきである。
川岸に出ると、決まって誰かが夜釣りをしている。もう忘れかけた方言で釣果を聞く。釣れても釣れなくてもいいような、そんな返事が返ってくる。時間が止まって見える。何もかも止まって見える。人々はその止まった時空に全てを預け、ただひたすらに呼吸を繰り返す。同じ人間でありながら、時の刻みと命の燃やし方は、あたかも別な人間の様な錯覚すら覚える。
早川が郷里についてから四日が過ぎ五日目の朝がきた。
縁側に向かって腹ばいになり本を読んでいた。親父が元気な頃は縁側の軒先にいくつもの鳥籠がぶら下がり、小鳥達のさえずりが聞こえたものである。その小鳥達を狙って、青大将が出没することもあった。親父が他界して暫らくは母親が世話をしていたが、そのうち、小鳥達のさえずりは聞こえなくなってしまった。
猫が早川の顔に擦り寄って来る。もう随分前から飼っている三毛猫である。早川は動物や魚や植物が好きである。少年の頃は、犬やウサギや鳥やメダカや鰻まで飼っていた。三毛猫の頭をさすってやると嬉しそうな表情を見せる。母親一人になってしまったこの家だ、この猫にしてもきっと寂しいのだろう。会話の出来ない動物だが心のやりとりは出来る。年老いた母親も、この三毛猫との心の会話で、気を紛らわせているのかもしれない。親父が健在だった時よりも、母親は随分明るくなったような気がする。早川は、そのことが何よりも嬉しかった。
電話が鳴った。腰の曲がった母親が近づいて来て受話器を早川に渡した。東京からだった。上司の郷田部長である。早川には こういう場合の電話がどんなものかは、経験上おおよそ察しがついていた。
郷田は、早川の将来性に、特に目を掛けてくれている上司である。早川の想像は残念ながら当ってしまった。至急東京に戻れないかということだった。次の仕事が待っているというのだ。早川は、滅多に帰れない郷里で、最低でも後二、三日はのんびりしたかった。だが、そうも言っておれない状況らしかった。まして、部長じきじきの電話とあっては断る訳にもいかなかった。今夜の最終便の飛行機で上京する旨を伝えた。母親は、郷田と早川の電話のやりとりを聞いて、少し寂しげな顔をしたが、すぐ笑顔になり行きなさいというように目で語った。
早川は自分の仕事に誇りを持っていたし、どんな場合でも、仕事中心に物事を考える癖があった。それでいいと思ってはいたが、たまにふっと、これでいいのかと自問自答することもあった。会社の歯車になることのみの自分に対し、疑問に思うこともあった。しかし、与えられた目の前の仕事を、誰よりも早く効率よく処理することの醍醐味を、これまた、誰よりも数多く味わってきたのも事実である。
会社の期待に応え、仕事を順調にさばく能力は、座しては叶えられない。会社の為だなんて一度も考えたことはないし、これからもそうだ。早川は持ち前の向上心で、人の何倍も努力し身体を張って頑張ってきた。そして、今や社内では揺るぎない自信と発言力を得ていたのである。
東京に戻るのに、残念ながら今度は寝台列車という訳にはいかない。飛行機にせざるを得なかった。飛行場までは四時間はたっぷりかかる。
残り少ない時間を母親とゆっくり過ごした後、仏壇に向かって手を合わせた。遺影の親父が笑っていた。仏壇の下の引出しから線香を取り出した。ふと見ると、さらに下の地袋の観音開きがやや半開きになっていた。早川は何気なく観音開きを開けてみて驚いた。その中に現金封筒がぎっしりと詰まっていた。取り出して見た。姉や弟の名前の封筒もあったが、ほとんどが早川悟の差出人であった。母は捨てずに取って置いたのだ。母親はこの様子を先ほどからじっと見ていた。
「お前のお蔭で苦労しなくて済んでるんだよ。とてもありがたいと思ってる。……ありがとうね」
母親は、もうすぐ息子と再び別れなければならないという感情も手伝ってか少し涙ぐんでいた。
「何を言うんだよ母さん、俺が出来る間は続けていくから心配ないよ。それにしても、謙二のバカ何を考えているんだ」
無理なことも言えないが、もう少し考えてもいいだろうにと思った。
「謙二は謙二の生活で一生懸命なんだから、そう言いなさんな」
「うん、だね」
早川は小さく頷き、現金封筒を地袋にしまい込み扉を閉じた。
隣近所に母親のことを頼みながら、挨拶もそこそこに家を出た。途中、姉の家に寄ってみたが留守だった。農作業で忙しいのだろう。
牛がこちらを見てモーと泣いた。早川はメモ紙に走り書きをした。
急に会社に戻らなけばならなくなりました。またゆっくり遊びに来ます。
元気で頑張ってください。
メモ紙を郵便受けに入れた。
いつもの事ながら、母親はバス停まで見送ってくれた。細くなったシワだらけの手や顔。曲がった腰。この母親といつまでこうして生きて暮らせるのだろうと思うと、もう少し一緒に居てあげたい気持ちが胸にこみ上げてくる。自分が去ったら、また寂しい毎日が始まる筈である。今度ばかりは、十日~二週間くらいは傍にいてやろうと思っていた。だが、その思いも果たすことが出来なかった。
バスに乗る時になって、さすがに悲しくなってきた。こんな年老いた母を残して、どうして行かなければならないんだ。それほど仕事が大事なのかと自分に腹立たしくなってきた。息子の悲しい顔や辛そうな顔を母親は決して喜ばなかった。常日頃から早川は母親に、男たるものたとえ親でもそういう顔をするものじゃないと言われていた。
何年か前のことだが、隣の人から聞いたことを思い出した。弱音を決して顔に出さない母親ではあったが、早川がバスに乗り、遠くに消えるまで見送った後、母が一人、火鉢にあたりながら泣いていたと言う。それを聞いて早川は母が老いたことを感じた。それからというもの、帰郷した時はいつも母の近くにいてやり、いろいろな話を聞いたり話したりしたものである。
だがこうして、また去って行く息子を眼の前にして、さぞかし悲しい思いをしてる筈なのに、息子の前では、いつまでも強い母を演じておかなければならないのであった。バスが去った後の泣いている母親を想像して、早川は母がふびんでならなかった。
精一杯の笑顔を母に向け別れを告げた。
母は細く痩せた手を小さく振り、弱弱しい足取りで二、三歩バスを追いかけた。また近いうちに帰ってくるから、それまで元気にしてるんだよ。早川は心で叫びながら、小さくなる母親の姿をじっと見つめ続けた。