□ 第七章 弟と妹 □
次の日の金曜日、十一月も丁度半ばとなり、晩秋の色が濃くなってきた。朝礼後五人の増員スタッフが配属になり、各自挨拶して席に着いた。意外にも早く増員になり、早川は少しばかり驚いた。これで準備は整った。いよいよエンジン全開で突き進める。繁忙を極めるであろう。だが結果は自ずとついて来る。突き進むのみである。
十時頃にデスクの電話が鳴った。
「はい。早川のデスクです」
「早川謙二様とおっしゃる方からお電話です」
交換手が告げた。弟からの連絡は久しぶりだった。
「オォー、謙二か、久しぶりだな、……元気か?」
「何とか元気でやってるよ。……兄貴は?」
「俺も元気だ、……どうだ、仕事は順調か?」
「ま、可もなし不可もなしってとこかな。何とかこなしてるよ」
「そうか、……何か用事だったんじゃあないのか?」
「いや、特別用事はなかったんだけど、久しぶりに兄貴の声が聞きたくなったもんだから」
「ちょっと聞きたいことがあるだが、時間はいいか?」
「ああ、いいよ、……何?」
「謙二はこの前、会社を辞めて田舎に帰り、姉さんの手伝いでもするかなあ、なんて言ってたよな」
「そうだな、そんなこと言ったことあるね」
「今も同じ考えなのか?」
「今すぐじゃないけど、いずれはそうしたいと思ってるよ」
「そっか。都会の生活がどうも性に合わない、なんて言ってたけど、今も同じ気持ちなのか?」
「そうだね、殺伐とした人の心に、どうも馴染めないんだよなあ」
「だけど、せっかくキャリアも積んできたことだし、会社からも将来を期待されているんだろう?」
「うん。ま、そんな感じはするけど、所詮は会社の歯車に過ぎないからなあ」
「そう言うけど、努力して営業主任という地位まできたのに、勿体ないように思うんだよな」
「俺もそう思うけど、田舎で農作業するのもいいかなと思ったりしてて、正直悩んでいるんだ」
「仕事が嫌になった訳ではないんだろ?」
「むしろ逆だね。今仕事が面白くてたまらないんだよ。大きな仕事が次々と取れているし、会社の業績も、対前年度比でみても、かなりいい感じで来てるんだよ」
「将来独立したいなんて考えはあるのか?」
「あはは、俺はそんな器じゃないよ。資金もなし人脈もなし。とてもじゃないけど無理だね。それに、俺は頭になって陣頭するより、黒田官兵衛タイプだな。参謀役の方が、性に合っているような気がしてるんだよ」
「社長のご意見番だな」
「ま、そんな役割かな。参謀役って結構重要だと思わない?」
「だな。むしろ社長より器が大きくないと務まらないな」
「俺もそう思うんだよな。だから二番手が俺に合ってる」
「そうか、なるほどな。……話変わるけど、通商会社だから、為替の変動によって利幅に影響があるんだろう?」
「そうなんだよ。だから、商いのタイミングが最も難しい商売だね。最近はそのコツもだいぶ分ってきて、安定的に商いが出来るようになったから会社も喜んでいるよ」
「為替の話なんか、俺なんかはさっぱり分らない世界だから、謙二は大したもんだよ」
「何言ってるのさ、俺が兄貴がやってる仕事のことが分らないのと一緒だよさ」
「ま、そう言われればそうだけどな。……あ、そうそうこの前、田舎に帰ったんだよ」
「あ、そうなんだ、……おふくろ元気だった?」
「うん、元気だった。謙二から最近あんまり電話がないって淋しがっていたぜ、たまには電話しろよ」
「あ、そっか少しご無沙汰だったな、この電話を切ったら、おふくろに電話しとく」
「うん。そうだな。……それから、姉さんがよろしくと言ってたぜ。頑張って仕事に励みなさいってよ」
「そっか、分った。……ところで、兄貴は今度の正月は田舎に帰るのかい?」
早川は、今年の年末年始のことで思いを巡らせていた。田舎はこの前帰ったばかりだから、この年末年始は帰らないで、亜希子の家に年始の挨拶をしたほうがいいと考えていた。
「いや、この前帰ったばかりだから、今回は帰らないことにする。行かなければならない所もあってな」
「行かなければならない所って?」
「今度会った時ちゃんと話そうと思っていたんだけど、丁度いいや今話しておくな」
「改まって何?」
「あのな、結婚することにしたんだよ」
「えっ、また急に驚かさないでよ、……ほんと?」
「ほんとだ。式はまだ相当先だけど一応先方の親元の了解も得られた」
「そっかあ、良かったなあ、兄貴が結婚しないから、俺も遠慮していたんだよ」
「ということは、彼女がいるのか?」
「あはは、いる訳ないよ。その話は相変わらずであります。……さっぱりない。目下独身貴族を謳歌しております、……はい」
「謙二は頭は切れるし器量もいいし、性格も実直で仕事熱心だし言うことないと思うけどなあ。昨今の女性は男を見る目がないのかなあ」
「兄貴、だからダメなんだと思う。今は適当な遊び心があった方がモテるんだと思うよ」
「そうかなあ、そんな気持ちで付き合うから、長続きしないですぐ別れたりするんだよ」
「だね、俺もそう思う。軽いんだよ考え方が」
「会社には女性社員も多いんだろ?」
「こういう会社だから、むしろ女性の方が多いよ。部下も男性より女性が多いね」
「だったら、いい子がいるんじゃないのか?」
「いるかもしれないけど、興味ないね」
「なんでだよ、いいと思う子がいたら、誘ってみたらいいじゃないか」
「そうかもしれないけど、俺はどうも都会の子は苦手だね。田舎の子のほうがいいな。だって、場合によっては、田舎に帰って農作業をしなければならない訳だから、都会の子はまず無理だと思う」
「あ、そうか。だよなあ。なるほど。じゃあ、彼女が出来ないんじゃなくて、敢えて今は作りたくないと、こういうことだな」
「ま、そういうことです。田舎に帰ってからじっくり探します」
「そうか、なるほど、それがいいかもな、ま、慌てることはないよ。そのうちいい話が舞い込んでくるさ」
「兄貴の結婚の話は、おふくろや姉さんにはもう話したの?」
「いや、まだなんだよ、急にそういうことになったもんだから、今思いあぐねているとなんだよな。どうしたもんだろうとな」
「式の日取りは決まっていなくても、こういうことになりそうだぐらいは、一応言っておいたほうがいいと思うけど」
「だよな。電話で話しておくかな」
「で、その相手の人ってどこの人? 東京なの?」
「いや、長野の人なんだよ」
「そうか、長野か、……年始の挨拶に、長野に行かなければならない訳だ」
「そういうことだ。だから、今年は田舎には帰らない。謙二はどうするんだ?」
「帰るよ」
「そうか、じゃあ、悪いけど帰ったら謙二の方からも、それとなく話してくれるか?」
「いいよ、めでたい話だから、きっと喜んでくれるよ。おふくろは孫の顔がみたい筈だからな」
「それと、謙二は神戸に帰ってから、東京出張なんて予定はないのか? もし、あれば会いたいと思ってな」
「あるよ、えーとね、……ちょっと待ってな。……東京の商社に、一月十日前後に年始の挨拶に行くことになってる。前後というのは、先方の都合を聞いてからになるから、今のところアバウトなんだけど、出張することはするよ」
「今暦を見ているんだけど、一月十日は火曜日だよな?」
「そうだな」
「その前が三連休だろ? 九日の成人の日にでも時間は取れないかな」
「はっきりしたことは今のところ分からないけど、ま、何とかなると思うけど、はっきりしたら連絡しようか?」
「そうだな、ここのところ謙二とも久しく会ってないし、会っていろいろ話したいと思ってな」
「そうだな、……そうしよう」
「それともう一つ。良かったら俺の彼女の所に遊びに行く気はないか?」
「えっ、兄貴の彼女の家に? どうして? まだ、早くないかい?」
「だよな、だけど、どうせなら早いほうがいいと思ってな。お前も忙しいし、いつでもって訳いかないだろう? そう思ってさ」
「そうか、なるほどな、どっちみち、これから長いお付き合いになる訳だから、挨拶には行かないとな」
「だろう? 考えておいてくれないかなあ」
「そうだな。分った。……兄貴、ごめん別な電話が入ったから、今日はこの辺で」
「分った。じゃあな、……おふくろに電話しとけよ」
「分った、分った。じゃあ、……バイ」
電話を切って、すぐまた電話のベルが鳴った。交換からである。
「お電話中に、中村純一郎様とおっしゃる方からお電話がありました。連絡して欲しいということでした」
「ありがとう」
早川は中村に電話した。
「すまん。電話中だったみたいだな」
「いや、来週の木曜日、夕方から時間取れないかい?」
「ちょっと待ってな、……えーと、今のところ大丈夫だけど、何だい?」
「ほら、この前話しておいた、内村さんも交えて、忘年会を兼ねて一献いかないかと思ってな」
「いいねえー、何時からだい?」
「十九時からでどうだ? 場所は改めて電話するから、一応身体だけ空けといてくれないかなあ」
「了解、了解。楽しみだな」
「内村さんが、君のことをえらく誉めていたぜ。あんな人に会ったのは初めてだとか言って」
「あはは、誉めて貰うのは何であれ嬉しいね、悪い気はしないね」
「企業秘密だから、いくら世話になっている先生でも申し上げられません、と言っていたけど、なんでも、凄い資料を作ったんだって?」
「あはは、大したことないよ、あの業界の一流の言い回しだよ」
「そっか。じゃあ、さっきの件頼んだよ、……楽しみだな」
「そうだな。ありがとう。……じゃあな」
早川は社宅から亜希子に電話した。
「明日はどうするの?」
亜希子の父親と母親が、明日から長期出張に出る。成田で見送ることになっていた。
「ええ、父と母と一緒に成田まで行きます」
「飛行機は何時発なのかな?」
「夕方の五時半ぐらいよ」
「じゃあ、その時間までに成田に行っておけばいいかな?」
「悪いけど、そうしてくれる?」
「うん。いいよ」
「先に悟さんと逢って、時間になったら、二人で成田に行けばいいと思っていたけど、やっぱり、父母と一緒に行くことにしたの。何となくそのほうがいいかなと思って」
「そのほうがいいよ。暫らく会話が出来ないし、その方がお父さんお母さんもきっと喜ぶよ」
「ええ、そう思っています」
「俺が見送りに行くことを、お父さんお母さんには言ってあるの?」
「言ってありません。びっくりさせようと思って」
「なるほど、だな。肝心の手紙忘れないようにしなきゃあ駄目だよ」
「そうなの、ですから、腰に巻いて寝ようかしらと思ったりして」
「あはは、面白い。くしゃくしゃになってしまうよ。……リコは書いたのかな?」
「書いた、書いた。私より長文なの。驚いたわよ」
「えっ、長文て、何をそんなに書くことがあったの? 読んだの?」
「ええ、読んだわよ。泣けてくるようなことを延々と書いているの」
「泣けてくるって? どんなこと?」
「お母さんの苦労話が中心ね。リコから見たお母さんの心情を切々と書いているの。私よりも文がうまいと思った。私も思わず泣いてしまったの」
「そうか、泣き虫のリコだから、人を泣かすのも上手いのかもしれないな」
「ふふ、そうね、そうかも。……悟さんのことも相当長く書いていたわよ」
「えっ、俺のことを?」
「ええ、今読んであげましょうか?」
「いや、今はいいよ。コピーしといて」
「あ、そうね、お父さんに渡したら見れないわね。明日コピーしておきます」
「そうか、となると、俺が行くことにまず驚いて、アキとリコの手紙を飛行機の中で読んで号泣する。うんうん、いいねぇー」
「ウフ、何を一人で悦に入ってるのよ。でも、今までと全く違う出張になることだけは確かね」
「だね、お母さんにも何か書いたら良かったかもな」
「書きました。リコも書きました」
「ほんと? それはいいや。さすがだなあ。お父さんもお母さんもきっと喜んでくれるよ。第二の新婚旅行の気分になったりして」
「そうね、そうなってくれるといいけど」
「ところで、明日は東京に泊まるんだよな?」
「東京駅の近くのホテルを予約しましたから」
「あ、そうなんだ。分った」
「じゃあそういうことで今夜は、……明日を楽しみに」
「リコにもよろしく言っといてな」
「何と言いましょうか?」
「そうだね、近いうちにまた遊びに行くと言っておいてくれる?」
「えっ、それほんとなの? いつ? ……いつ?」
「ご両親の留守中じゃあ、世間体が悪いよな?」
「……そうかしらね?」
「俺の考えでは、すぐ隣が会社だからそんなこともないかとは思うけど、ご両親がいないから、女二人だけじゃ心細いのではと思って、一度だけでも遊びに行こうかな、と考えていたんだよな」
「そうね、そうなると嬉しいけど駄目なのかしら、お父さんに聞いてみようかしら」
「止めておいたほうがいいよ、あのお父さんのことだ、おそらく怒られるよ。世間体ってややこしいなあ」
「残念ね」
「どっちみち、新年の挨拶には伺うつもりだけどな」
「でも、その前に逢いたいわ」
「アキ、イブはどうするの? 何か考えてる?」
「ええ、そちらに行こうかしらと考えているんですが。……アキにとっては初めてのクリスマスイブだから、とっても楽しみにしてるの」
「だよねえー、そうか、……やっぱりそうか」
悟は独り言のように小さく呟いた。
「何よ、何か他に考えていることあるの?」
「うん、あのな? 今年だけは、そちらで、みんなで楽しんだらどうだろうかと考えているんだけど。……お父さんお母さんに感謝の気持ちを込めてイブしてあげたら、きっと喜んで貰えると思ってさ。……アキとリコが手作りのケーキを作って、……クラッカーをパンパンと鳴らして。俺も家族でしたことないから、いい思い出になりそうな気がして、……そう考えていたんだよ」
亜希子は、悟の家族思いに言い知れない感動を覚えた。人に対する思いやりが生半可じゃない、その優しさに心を打たれた。
二人だけのイブは来年からはいつでも出来る。今年ぐらいはと言う悟の心の奥深くに、悟しか持ち合わせていない人間愛を感じた。
「悟さん、……、ありがとう。……ありがとう。……私ってバカね。……目先のことしか考えないんだから」
「そんなことないよ、俺だってほんとはそうしたいよさ。この世で一番好きなアキとイブを一緒に楽しめたら、こんな嬉しいことはないなと思ったさ。何しろ生まれて初めてのことだからな」
「……」
「でも、よくよく考えたら、アキを生んでくれたご両親に、まず感謝したい気持ちになったんだよ。そうでなければ、アキという世界一素晴らしい女性とは巡り会えなかった訳だからな」
「はい」
「それに、あれだけ頑固なお父さんが結婚を許してくれた。これだけでも凄いことなのに会社を他人に譲る? とてもじゃないけど、そんじょそこらの人にはできない芸当だよ。俺は、そんな考えの出来るアキのお父さんを、見直したと言うと失礼だけど、ほんとに凄い人だと思うよ」
「ええ」
「そのお蔭で、アキもリコもお父さんと心の底から仲直りして、ほんとのお父さんとして迎え入れようとして手紙まで書いたんだよ? ……俺は素直にそう思って、今年のイブは、そういう全てに感謝の気持ちを込めて楽しむことが出来たらいいかなあ、なんて考えていたんだ。感謝の気持ちを表す機会なんてあんまりないことだろう? そう思ってさ」
「……」
「どうしたの? ……アキが反対だったらアキの考えに従うけど?」
「悟さんて」
「うん?」
「どうしてアキを泣かせることばっかり考えることが出来るの?」
「泣いてるの?」
「そう、泣いてるの。……だって、余りにも理屈が叶ってるし、アキの嬉しいことばっかりを言ってくれるし、……もう、悔しい」
「あはは、じゃあそうする? お父さんお母さん、それにリコも喜んでくれると思うよ、きっと」
「喜ぶどころじゃないわよ、特にリコなんて上を下への大騒ぎよ、きっと」
「じゃあ、階段を補強しとかなきゃ壊れてしまうな」
「……悟さんありがとう。さすがね。感服いたしましたでござる」
「あはは、良かった、良かった。段取りはアキとリコにお任せだな」
「……でも、イブの日は何曜日なの? 会社は?」
「その辺はぬかりないよ。暦を見てごらん」
「……ちょっと待って。……あらほんとだ。ラッキー。二十三、二十四、二十五と三連休じゃない?」
「そうだよ、ばっちしだろ? こんな年なんて滅多にないぜ。だから、会社を休まなくても、ゆったりとした気分でそちらに行けるって訳」
「へェー、二〇一一年って二重丸のいい年って読むんだ」
「二重丸のいい年か、なるほどね。……でも、今の言葉、取り消したほうがいいみたいだよ。春先に、とても信じられないことが起きているから」
「ん? あ、そうね、東北の事よね? ですね。そんなこと言ったら怒られるわね」
「そうだな」
「次の日には、此処長野県の北部の方でも大きな震災があったから、とても怖い思いしたのよ」
「だろうね」
「台風などと違って、地震はいつ起こるか分らないから、それだけに恐怖だわね」
「だよな。東京も大変な騒ぎだったからなあ。その晩は、お客さまからの被害状況の連絡があるかもしれないということもあって、会社で待機していたんだよ。緊急二十四時間体制だった。だから、寮に帰れずに会社に泊まったんだよ。少し寒い思いをしたけどね」
「そうなんだ。パニックだったのよね。特に建築物件を扱っている訳だから、大変だったでしょう? 何か被害の連絡が入ったの?」
「入った。俺の管轄ではなかったけど、他の部署で少しあったみたいだね。幸い、大事には至らなかったみたいだけどね」
「そうなんだ。自然の猛威の前には、人間なんて、ひとたまりもないわね。ゾッとするわね」
「だな。……地球が急速におかしくなっているようだね。不都合な真実ってタイトルだったっけなあ、その映画を、この前借りてきて見たけど、それはそれは、背筋が寒くなる位に、地球に変化が起きているみたいだよ。アキも見ておいた方がいいかも。俺たちの子供や孫たちのことを思うと、何とかしなければならない、今、一級のテーマなような気がするよね」
「そうなんだ、不都合な真実ね。見ておきます」
「この映画ばかりではなく、いろいろな本でも取り上げられているようだから、この際読んでおいた方がいいかもね」
「そうね。予め知っておくことは大切なことよね」
「この映画を見て思ったんだけど、もはや、各国が、いがみ合ってる暇はないね。一時も早く、世界中の人々が知恵を出し合って何とかしないと、それこそ地球滅亡って言葉に意味を持たせることになると思う」
「最近のゲリラ豪雨とか豪雪も関係があるのかしらね」
「大いに関係があると思う。そのうち、今まで経験したことに様な事態が襲いかかって来そうな気がして、何だか怖いよね」
「全てが、人間が過去に取った来た行動に起因している訳でしょう?」
「そう思う。世界中の人口が増えているのも起因しているかもしれないけど、やはり、経済最優先のツケが回ってきたような気がするね」
「最近になって、地球温暖化とか二酸化炭素とかダイオキシンなどの言葉を良く聞くけど、ほんとに、その対策は施されているのかしらね」
「いや、『地球が危ない』とか、『かけがえのない地球を守ろう』とか、いろいろな人やマスコミで叫んではいるけど、はたして、今地球がどういう状態になってるか、ほんとに理解している人が、どれほどいるのだろうか、はなはだ疑問に思えるね」
「そうよね、これは、この地球に住んでいる一人一人の問題だわね」
「俺もそう思う。それにしても、東北は……。思い出しても怖いよな。生活している人のことを思うと……、いくら天災とは言え、余りにも可哀想で、ほんとに、どうしようもない気持ちになるよな。……東北が早く復興して、安心して暮らせる生活が戻るといいけどなあ」
「そうよねぇー。でも、あの被害だと、完全に復興するまでは、相当な年月が掛かるみたいね。……可哀想……」
「だね。個人や地域の力は限られているから、ここは、国が中心になって、行政上の思い切った大胆な策に期待するしかないようだね。……出来るだけ早い復興を願って祈るしかないね」
「そうよね。……話を元に戻すけど、悟さんて先の先を見て常に話したり行動するのね?」
「あ、さっきの話? それぐらいは誰だってやってるよさ。……三連休のど真ん中がイブだから、今年のイブは、いつもの年と一味違うイブになるかもね」
「そうね。そうなるかも」
「じゃあ、そういうことで、……明日を楽しみにしてるから」
「はい、……おやすみなさい。……悟さん?」
「うん?」
「愛しています……」
「言い夢見てね」
「最近、変な夢見るの」
「どんな夢?」
「悟さんに抱かれて、身動きできなくて目が覚めるの」
「俺に抱かれたら、なんで変な夢になる訳?」
「あら、間違えちゃった。……素敵な夢でした」
「あはは、だろう? ……じゃあね、……アキ、愛してるよ、……おやすみ」
「……おやすみなさい」
十一月も下旬になると肌寒い。早川が成田空港に着いた時は、夕方の四時を少し回っていた。空港待合室の、独特の騒音に身を包まれながら亜希子達を探した。暫らくして、早川の顔を確認した亜希子が、ここよと大きく手を上げた。
父親の誠一郎は、亜希子が誰に手を振っているのだろうと思い、亜希子の目線の方向に目をやり、早川が小走りに駆け寄ってくる姿を見て驚いた。早川は、誠一郎に近づき頭を下げた。
「オォー、悟君、来てくれたのか。ありがとう」
誠一郎にいきなり悟君と呼ばれて早川は驚いた。亜希子もびっくりした。
「遅くなりました。間に合って良かったです。もうすぐ搭乗手続きでしょう?」
「あと十分位かな?」
「気をつけて行ってらっしゃい」
「ありがとう」
「いつ頃お帰りの予定ですか?」
「三週間の予定だから十二月の十七日だ」
「そうですか。……当分淋しくなるね」
早川が亜希子の方を向いて言葉した。
「そうね。淋しくなるわね」
「悟君に頼みがあるんだがな」
誠一郎が悟の顔を見ながら言った。
「はい? 何でしょうか?」
「うん。君の都合でいいんだけど、時々家に遊びに行って貰えないだろうか?」
悟が亜希子の顔を見た。亜希子はびっくりしたような顔をしていた。
「篠ノ井の自宅にですか?」
「そう。娘たちが淋しい思いをするだろうから、君が来てくれたら、淋しさも少しは紛れるんじゃないかと思ってな」
「はい。おそらく、土・日の休みの日にしか行けないと思うのですが、出来るだけお邪魔するように致します」
「君はもう、うちの家族と同然なのだから、遠慮することなんかないんだよ?」
「はい。実は、自分もそう考えた事があったのですが、留守中にお伺いしたら、世間体が悪くなるのではと心配していました」
「何を言ってるんだね。家族が家に出入りするのに、何が世間体だよ。君も意外と古いんだな。会社の連中にも君のことは話してあるから、心配することはないよ。それとも、この前の結婚したいという話は嘘だったのか?」
誠一郎の顔が笑っていた。世間体? 生意気な。なかなか考えるじゃないか。そんな配慮が出来るなんて、いい奴だよ。既に息子を見ているような顔である。
「いえ、とんでもございません。嘘だなんて、……私は嘘はつきません」
誠一郎の顔を見ながら、悟は少しむきになって答えた。
「だったらそうしてくれ、……頼んだよ、……いいな?」
「はい。良く分りました」
「亜希子、いいか、そういうことだから、ちゃんとしろよ。分ってるな?」
「はい、お父さま、悟さんにそうして貰います」
亜希子は父親の口から、そんな話が出るなんて、とても信じられなかった。嬉しくて仕方がなかった。思わず、涙が出てきそうな顔になった。親がそれを見逃す筈がない。
搭乗手続きの時間が迫ってきた。
「じゃあ、行ってくるから留守を頼んだぞ。何かあったら電話しなさい。いいね?」
父親は、亜希子に向かって諭すように言った。悟が亜希子に目で合図した。
「お父さんお母さん、……ちょっと待って」
亜希子がバッグの中から二通の封筒を出した。
「これを飛行機の中で読んで、……はい、これお父さん、……これはお母さんに」
「何なんだ? これ」
誠一郎が封筒に中身を出そうとした。
「ここじゃダメッ」
亜希子が父親の手を押さえた。
「そうか。分った」
「私と真理子からのラブレターよ。何にも言わずに機中でゆっくり、じっくりと読んで、……ねっ?」
「分った。……母さんそういうことらしい」
誠一郎は母の典子の顔を見て言った。顔が笑っている。
「はい。何が書いてあるのかしらね」
両親がゲートに向かいだした。
「じゃあ、行くから。後は頼んだよ。悟君いいね?」
「はい。分りました。行ってらっしゃい。……気をつけて」
「ありがとう。亜希子もいいな?」
「はい。お父さんお母さん気をつけて行ってらっしゃい。……お母さん、久しぶりにお父さんに甘えられるね。……第二の新婚旅行だね」
「ふふ、お父さん照れてるよ。……そうね、せいぜいそうするわ。……あなた方も帰ってくるまでしっかりね」
「はい」
亜希子と悟が異口同音に返事した。亜希子の父の誠一郎と母の典子がゲートの向こうに消えた。それを確認して、亜希子が悟の左腕に右腕をからめてきた。思わぬ展開に、二人は内心びっくりしていた。
「世間体が古い考えだと言われてしまった。やはり、海外に良く足を運んでいる人は考え方が違うなあ」
悟が独り言を言った。亜希子はそれを聞いてほんとだと思った。父親を見直さなければならない。
「私もあんな物分りのいい父親初めて見たわ」
「いい親父じゃないか。さすが実業家だよ」
「ええ、私もとっても嬉しくなった。尊敬しちゃうわ」
「ま、いずれにしても良かった。俺もこれで、堂々とアキの家に行ける訳だ。あはは、嬉しいねぇー」
「悟さんの熱意が通じたのよ、きっと、アキはそう思うわ」
「いや、親としては、もうここまで来てしまったら、アキとリコの心に添って生きて行こうという証しみたいなもんだよ。……いや、素晴らしい」
「ここから都心まで一時間ぐらいかかるから、ホテルの近くで食事でもしようか?」
「そうですね。今日はゆっくりできそうね」
「うん。ずいぶん久しぶりなような気がするなあ」
その時、亜希子の携帯が鳴った。耳に当てて、いきなりリコの声が聞こえた。
「悟兄さんも一緒なの?」
「そうよ。もちろんよ、代わろうか?」
「この前、お姉さんから悟兄さんの番号聞いたから、思い切って直接掛けようかと思ったけど、ドキドキしちゃって、結局掛ける勇気がなかったの」
「代わろうか?」
「うん、後で代わって」
「分った」
「で、どうだった? 渡してくれた?」
「ちゃんと渡したわよ」
「そう、良かった。で、お父さんお母さん、どんな風だった?」
「悟さんが来てくれたことに、すごく驚いてたよ」
「あ、そう、まさかと思ってたんだね」
「そうそう、あのね、びっくりしたことが起こったの聞きたい?」
「えっ、何があったの? 聞きたい」
「悟さんから聞いて。今、代わるね」
「ちょっと待って、……胸がドキドキなの」
「バカねェー、お兄さんじゃないの」
「でも、そうなのっ。……もういいわ。代わって」
亜希子が悟に携帯を渡した。
「はい。悟兄さんだよーん」
悟はわざとふざけ加減にトーンを上げた。
「お兄さん? こんにちは、この前はありがとうございました」
「こちらこそ、……元気?」
「はい。とっても元気です。……今日何があったの?」
「ああ、さっきの姉さんの話?」
「そう、早く聞かせて」
「あは、相変わらずだね。落ち着いて落ち着いて、大事な話はね、落ち着いて聞くもんだよ」
早川はわざとじらした。
「ああ、もう早く教えて。どんなびっくりしたことが起こったの?」
「リコちょっと待ってくれる? びっくり君がどこかに行ってしまった。迷子になったみたいだよ」
悟は送話口を押さえながら、亜希子にウィンクして耳元で囁いた。
「イブの話、リコにしたの?」
「ううん、びっくりさせようと思って、直前まで言わないでおこうと考えてるの」
「うんうん。いいね、リコには、さっきお父さんが言ったことを言いたかったんじゃないの?」
「そうよ」
「それも、直前まで言わないでおこうか、そうしない?」
「あら、いいわね、びっくりさせちゃおうか?」
亜希子が意地悪を楽しもうと言いたげだった。
「そうなると、リコになんて言おうか、びっくりしたこと。……リコ、待ってるよ」
「お母さんが泣き出したとかしない?」
「嘘はまずいよ。後ですぐばれてしまうよ」
「そうね。ちょっと待って今考えるから。……あ、そうそう、ほら、お父さん呼んでたでしょう? 早川君じゃなくて悟君って、……驚かなかった? 悟さん」
「そっか、それにしようか、実際に俺もびっくりしたから、うん、それにしよう」
悟が携帯を再び耳に当ててリコに語った。
「ごめん、やっと、びっくり君が見つかった」
「お姉さんと、何かこそこそ話してたんじゃない?」
「……あはは、バレバレだね。あのね、びっくりしたことはね」
「ええ、何なの?」
「お父さんがね、ほら、今までは俺を呼ぶときに、早川君なんて言ってただろう?」
「ええ、そうでしたね」
「それがさ、俺の顔を見るなりいきなり、悟君て苗字じゃなくて名前で言うもんだから、びっくりしちゃってさ」
「へェー、そうなんだ」
「それに、悟君はもう家の家族になったんだから、何も遠慮することないんだよ、だって」
「お父さんがそんなこと言ったの? 変われば変わるものね。それはびっくりするわね」
「だろう? 急にそう言われて、なんだか俺も、リコのほんとの兄貴になったような感じになったんだよな、不思議だな」
亜希子は、悟の巧みなリコとの会話に感心していた。
「ほんとの兄貴? ほんとのお兄さん? 何だかいい響きねェー。嬉しいなあ」
「俺も嬉しかったよ」
「じゃあ、何時でも家に遊びに来れる訳ね」
悟は亜希子の顔を見て、ヤバいと目で伝えた。
「うん。そうだね。そういうことだね」
「お父さんお母さんが居なくても、いいってことでしょう?」
やっぱりそういう風になるか、と悟は困ってしまった。
「でも、そうだけど、世間体があるから、留守中はまずいと思わない?」
亜希子も、リコが悟に何を求めているかが分った。
「世間体かあ、そうね、田舎は何かとうるさいからまずいか。そっかあ、つまらないなあ」
リコはぶつぶつ言いだした。
「それに、今追い込みの仕事もあるし、なかなか難しい面もあるんだよ」
「そう、じゃあ、今度いつ来れるの?」
「そうだなあ、お正月には、新年のご挨拶にそちらに行こうとは思っているけどな」
「お正月? ……その前に来れないの? 一度だけでもいいから」
リコがしつっこく要求してきた。
「だね。考えておこうかな?」
「ほんと? 嬉しい。きっと来てよ?」
「あは、お姉さんと代わるね」
悟は困ったような顔をして、携帯を亜希子に渡した。
「ダメじゃないの。悟兄さんを困らせては。兄さんはお仕事があるんだよ」
「そうよね。リコの我が儘よね。だって、会いたいんだもん。分るでしょう?」
「それは分るわよ、リコ以上に姉さんだってそう思ってることだもん」
「そうだわね、お姉さんも我慢してるんだから、妹も我慢しなくっちゃね」
「それでこそ私の妹だわ。でもね、私からもお願いしておくね、なるべく年内にもう一度遊びに来てってね」
「ほんと? 嬉しい、さすが私のお姉さんっ」
「まあ、現金な子ね、じゃあね切るわよ」
「うん、……お姉さんいつ帰るの?」
「明日の晩帰る予定よ。留守番お願いね?」
「お姉さんいいなあ。私も恋人が欲しいなあ」
「その前にやるべきことがあるでしょう? お父さんのことだから、明日にでも電話あるかもよ。月曜日から会社の仕事をしなさいって」
「うっそー、そんなに早く?」
「あるかもよ。だから、心の準備だけはしておいたほうがいいかもよ。だって、あなたが手紙に書いたことだから嬉しいことじゃないの?」
「それはそうだけど、……そうね、あるかもね。……分った」
「じゃあね」
「はい。ゆっくり楽しんできてね。……バイバイ」
「都心に帰る前に少しお茶しない?」
「いいわね。少し喉も乾いたし」
悟と亜希子は、空港内の茶店に入った。コーヒーを注文した。
「あのさ、昨日の晩アキに電話した後いろいろ考えたんだけど」
「ええ」
「ちょっと手帳持ってる?」
「ええ、あるわよ」
亜希子はバッグから手帳を取り出した。
「えーとね、仕事の関係で土・日も仕事してることはアキも知ってるよね」
「ええ、知っています」
「年が明けるとコンペの提出期限が迫ってくるから、それこそ二月以降は土・日は完全にアウトになると思ってるんだよ」
「そう、……そうなんだ。……でも、月のうち一度くらいは空けられないの?」
「なるだけそうしようとは思ってるけど、作業の進行状況によっては、それも無理になると思うんだ。だから、せめて十二月と一月位は、なるべく頻繁に行こうと考えてるんだよな」
「ええ、それで?」
「で、いま俺が考えているスケジュールを言うから手帳に書き込んでくれる?」
「はい、いいわよ」
悟は手帳を取り出した。
「えーとね、再来週の土・日、その次の週の日曜日、十二月十八日だけど、この日は日帰りだね。……書いた?」
「はい書きました。それから?」
「次の週の二十三日から二十五日は三連休で、昨夜話したイブが来るから、二十四日に出て二十五日に帰る予定」
「あら、二十三日は? ……場合によっては、二十二日の晩に来てもいいでしょう?」
「考えたんだよな、そうなると、アキの家に三泊もすることになるから、どうなんだろうなあと考えたのさ」
「どうなんだろうなあ、ってどういうこと?」
「お父さんがどう思うだろうかと思ったもんだから。でも、さっきのあの雰囲気では、今はそうでもないような気はしてるけどな」
「そうよ。もう気にすることないわよ。逆に今の父だったら、きっと喜んでくれると思う。もう東京に戻らないで、ずーっとここにいてくれなんて言いだすかもよ」
「おいおい、勘弁してくれよ、……えっ、もしかして、それがお父さんの策略だったりして、……俺が養子になる?」
「まさか、……ちょっと待って、……うーん、もしかして、……そうかもよ。……そうなったらどうする?」
「またまた、意地悪を言うんだから」
「私思うんだけどね」
「うん」
「父には息子がいない訳でしょう? 跡継ぎの男の子が欲しい欲しいと、寝言に出てくるくらいに思い込んでいたと思うの」
「うん」
「ところが男の子に恵まれなかった。しかも、娘の反抗にあって、養子縁組を諦めざるを得なくなったどころか、どうせ、後継ぎが出来ないのであればと、会社を他人に譲るとまで考えるようになった。だけど、心のどこかに諦めきれない気持ちもあった」
「うん、うん」
「そこに、彗星のごとく登場したアキの恋人から、結婚を承諾してくれという申し出があった」
「うん」
「最初はまだ、心のどこかに養子縁組のことを思っていた父が、悟さんと話をしている間に、何かが吹っ切れてしまった」
「うん」
「長い間思い悩んでいたことを、その時初めて諦めることが出来たんだと思うのね。新しい生き方をしようと思ったのね、多分」
「うん、なるほど」
「ある日突然に、彗星のごとく現れた悟さんを、本当の息子と思うようになったと思うの。それも、この前の結婚を申し込んだ時ではなく、たった今さっき、父が悟君と言った時がそうだと思うの」
「うん」
「父としては、そう呼ぶことのタイミングを計っていたと思うのね。そこに、思ってもいなかった悟さんの見送りに、びっくりして思わず口走ったと思うの。口に出したその瞬間から、悟さんは父の子供、すなわち父にとっては待ちに待った待望の息子になった訳です」
「なるほど」
悟は亜希子の心の読み取り方に驚いた。
「なるほど、アキは、ほんとに人の心を読む能力に長けてるね」
「ふふ、お褒めいただいて恐縮に存じます。……ま、聞いて。そう思うようになると、我が息子に対して、親としての我が儘が出てきてしまう。東京に帰るな。……と、まあこうなる。……かもよ。そのうち、此処から会社に通え、なんて言い出しかねない」
「あはは、まさかそれはない。……ということは、二十二日の晩からでもいいって訳か」
「そいうこと、回りくどかったかしら?」
「いや、説得力があったよ。じゃあ、そういうことに訂正しよう。俺もその方が嬉しいからな」
「で、次は?」
「次はもう正月だね。会社は十二月二十八日が御用納めで、明けて一月九日迄の休み」
「そんなにお休みがあるの? 凄いわね、さすが大きな会社は違うわね」
「職人さんたちが実際に仕事を始めるのは、早くて十日すぎなんだよな。だから、中堅以上の建設会社はどこもそんなもんだと思うよ」
「あ、そういうことね、なるほどね。職人さんたちは大抵田舎から出てきているから、田舎に帰ってしまう訳ね」
「そういうことだな。田舎の家族と水入らずの正月を過ごして、十日頃からまた仕事に取り掛かるという訳だよな」
「悟さんはどうするの?」
「俺は正月三が日は休んで、四日から仕事をしようと考えている」
「せっかくのお正月休みなのに? 正月早々からそんなに働かないで、もう少しのんびりしたらいいのに」
「いや、今度ばかりはそういう訳にもいかない事情があるから、のんびり出来ないんだよ」
「そうなの? で、どうなるの?」
「だから、二日に新年のご挨拶に行こうかな」
「年末はどうするの?」
「年末はそうだねえー、社宅の部屋を掃除して車を掃除して、……後は、いつもは田舎に帰るけど今年は、……あはは、見事に何にもすることはない」
「だったら、こちらに来たらいいじゃない。社宅でボケーっとしていてもつまらないでしょう? それに悟さんのことだから、社宅にいたら仕事のことが気になってしまって、会社に走ってしまったりしかねない。普段も忙しくしている訳だから、年末年始ぐらいのんびりするべきよ。充電したら、明けてから仕事に馬力が出るわよ」
「そうだな、アキの言うとおりだな」
「だから、年末年始を家でのんびり過ごさない?」
「でも、いろいろしきたりがあるんじゃないの? うちの田舎でもそうだけど、結構いろいろしきたりがあるんだよ」
「うーん、昔はそうだったみたいだけど、今はそうじゃないわよ。あまり気にならないと思うけど」
「そうか。じゃあ、そうしようかな。俺にしても嬉しい限りだけど、なんだか初めてだから少し躊躇するよな」
「お餅を突いたり、年越しそばを食べたり、お雑煮を食べたり、トランプをしたり、どこでもやってる田舎の風情よ。悟さんが一緒だと、いつもと違う年末年始になるから、きっと楽しいと思うわ。リコが特に喜んでくれると思う」
「じゃあさ、二十八・二十九日で掃除を済ませて、三十日に行こうかな。どうだろうか、いいかな?」
「今年も多分そうなると思うけど、毎年三十日の朝から餅つきが始まるの。だから、二十九日の夕方にでも来れない?」
「そうか、餅つきしたいなあ。分った。そうしよう」
「そして、開けて三日の日に東京に戻るのね。そのように手帳に書くわよ」
「そうだな。取り敢えずそこまでだな」
「ちょっと見てみて、こうなるわよ」
亜希子が自分の手帳を悟に見せた。
- 十二月十日(土)朝~十一日(日)夕
- 十二月十七日(土)夜~十八日(日)夕
- 十二月二十二日(木)夜、二十三日(金)
二十四日(土・イブ)、二十五日(日)夕 - 十二月二十九日(木)夜、三十日(金・餅つき)
三十一日(土)
元旦(日・善光寺)、二日(月)、三日(火)夕
「うんだね。あれっ、十八日は日帰りって言わなかったっけ?」
「ダメ、休みの土曜日だから少し早めに帰って、夕方の便に乗ったらいいでしょう?」
「……おい、ちょっとちょっと、……今思い出したけど何か忘れてない?」
「……」
「肝心なこと忘れてるでしょう?」
「……あれっ、何だっけ?」
「お父さん達のこと」
「……あ、ほんとだ。……大変だ怒られる」
「十七日とかじゃなかった? 帰り」
「そう、そうなの。嫌だあ、忘れるなんて。もう、最近は悟さんのことばっかり考える癖が付いちゃって……」
「あは、……で、迎えに行くの?」
「ええ、そのつもりだったけど、どう思う?」
「アキが迎えに行くって、お父さん達に言ってあるの?」
「ううん。行くつもりではいたけど言ってはいない。やっぱり行ったほうがいいかしら?」
「だよなあ。迎えに行かない訳にはいかないだろう?」
「ううん。行かない時もあったから、別にいいと思うけど、……でも、行けば、それは喜ぶわね」
「そっかあ。じゃあさ、俺が迎えに行こうか?」
「えっ、ほんと? ……で、どうするの? 後は」
「決まってるよ。お父さん達と一緒に家に帰るのさ」
「えっ? えェー、ほんとに? お父さん達、それは大喜びよ」
「だったらそうしよう。何時に着くの? 成田に」
「確か、十五時三十分ぐらいよ」
「よし分った。社は昼までで終わりにしよう。どうせ、土曜日の出勤なんだからな。……よし決まり。それでいこう。……いいね?」
「嬉しい。悟さんてほんとに決断が速いのね」
「何言ってんだよ。自分が忘れたことを棚に上げといて、決断が速いもないもんだよ」
「ふふ、ごめんなさい。大失態をやらかすとこだったわ」
「あはは、分ればいい。うん、分ればいいんだよ、君」
「あら、威張ってる」
「あはは、一応そのような予定でいこうか?」
「うふ、嬉しい。とっても嬉しい。……そうすると、十日から毎週土・日は悟さんと一緒よね? まるで同棲してるみたい」
「あは、ほんとだね。嬉しいね、……でも、夜は殆ど駄目だね」
「あら、どうして?」
「だって、リコが急にノックするかもしれないから、落ち着かないよ」
「あら、考え違いしてる。私の部屋で寝る訳にはいかないわよ。 そうじゃなくても、私のベッドはシングルだし」
「そうだね。十七日以降から年末年始にかけては、お父さんお母さんもいることだし、さすがに親は許さないでしょう。リコもいることだしね。だから殆どダメだろうなあ」
「ふふ、それだったら、私が東京まで行ったほうがいいってことになるでしょう? 年末年始は、女はそういう訳にはいかないのよ」
「じゃあ、どうするのさ」
「大丈夫。私に考えがあるから大丈夫よ。任せといて」
「だな。任せるよりないな」
「はい、この話はもう終わり。……リコの喜ぶ顔が目に浮かぶわ」
二人は成田から都心に戻り、東京駅近くのレストランに入った。夕食時のレストランはかなり混んでいた。
「遠路はるばる大変だったね。……疲れた?」
悟が亜希子を気遣った。
「ううん、大丈夫よ。昔と違って、今は新幹線で二時間ぐらいで来れるから、あんまり疲れないわよ。……悟さんは?」
「アキに会えると思うと不思議だね、同じ一日なのに、昨日からの一日の長いこと長いこと、それで疲れてしまった」
「うふふふ、ありがとう。逢えてとっても嬉しいわ」
「随分久しぶりだからね」
二人は食事を済ませコーヒーを頼んだ。亜希子は、悟に逢えた嬉しさを噛みしめていた。
「あのさ、今日と明日のことだけど」
「うん、何?」
「今夜は東京に泊まるとして、明日はどうする? 何処か行きたい所ある?」
「特別ないわ。悟さんと一緒だったら何処でもいいわ」
「あのさ、お父さんお母さんが旅立って、家はリコが一人じゃない? 今夜はいいとして、明日は最初だから淋しくないかなあ」
「そうね。そう言えばそうよね。可哀想よね、……ということは、明日の朝早く帰りなさいと言いたいの?」
「そうなんだけど、少し違う」
「違うの? 何か言いたそうね」
「篠ノ井駅まで送ってあげる」
「送って行く?」
「そう。一緒に帰ろうかなと思って。そうすればリコも喜ぶだろうしね。……俺は、夜の便で東京に帰ってくればいいと思って」
「ええっ、家まで一緒に行ってくれるの? ほんと? 嬉しい」
「ほんとは今夜からのほうがいいだろうけど、今夜はねえー、……久しぶりだし」
「そうよ。今夜はダメッ。明日、朝早くに新幹線に乗りましょう、……ねっ?」
「だな。そうしよう」
「ヤッター、二人で新幹線に乗るの初めてでしょう? うふふ、……とっても嬉しいわ。ああ、どうしよう」
「あは、ま、コーヒーでもどうぞ。……リコの喜ぶ顔が見たいね。びっくりして気絶するかもよ」
「そうかも。救急車が来たりしてね、ふふ」
「空港での電話で、リコに、明日の夕方帰るとか言ってたじゃない? 電話しといたら?」
「ううん、しない。電話したら、びっくりしないでしょう?」
「あ、そうか、……じゃあ、駅から家まで歩いていく訳?」
「そう。距離にして家までニキロ程度だから歩かない?」
「その程度だったら散歩には丁度いいな。……だな、そうしよう」
レストランを出る時、悟がポツリと言った。
「もう手紙読んでくれたかなあ」
亜希子はそれを聞いて胸が詰まった。この人は、いつも冷静になって物を考える癖が出来ていると思った。優しい気配りを感じた。
「そうね。もう読んでくれたかも」
「おそらく、今頃号泣してるね。涙で機内が一杯にならなければいいが」
「ふふ、そうなったら大変ね」
二人がホテルの部屋に入ったのは二十時を少し廻っていた。部屋に入り、二人は待ち焦がれていたかのように強く抱き合った。亜希子の持っていた手提げバッグが、ポトリと音を立てて床に落ちた。
「嬉しい。やっと逢えたって感じ」
亜希子が洗面所の横の浴室に入った。都心の観光ホテルにしては大きめの浴槽が横たわっていた。壁にボタンの並んだパネルがある。浴槽の壁の四方のやや低いところに数個の空洞がある。浴槽のテーブルにはクリーム色のカランが品良く座っている。亜希子はカランをひねりお湯を出した。お湯が勢いよく落ちた。窓辺の二人掛けのソファに座っていた悟にも、お湯の落ちる音が良く聞こえた。洗面所のドアを閉める音が聞こえて亜希子が悟の横に腰を下ろした。
「ここのお風呂、いつものより大きいの。ゆったり入れそうよ」
「そうか、たまにはいいね。疲れがとれるかもな」
「壁にボタンがあるパネルがあったり、浴槽の壁の下の方に、いくつかの穴が開いているの。あれってなんだろう」
「へェー、都心に、そんな贅沢な設備をしているホテルがあったんだ」
「悟さん見なくても分るの?」
「分るよ。ジェット噴射の浴槽だと思うよ。ちょっと見てみようか?」
悟が洗面所を通って浴室に入った。亜希子もついてきた。浴室の引き戸を開けた途端、お湯の落ちる音が耳に飛び込んできた。湯気が立ちのぼり、鏡が曇っていた。悟は浴槽の設備を見て頷いた。
「やっぱりそうなの? ジェット噴射?」
「そう。これはすごく気持ちいいんだよ。健康にもいいみたいだよ」
「あら、悟さん詳しいのね。経験あるみたい」
「あるよ。メーカーの宣伝用に設備してあるショールームがあって、体験出来るようになっているんだよ。そこで体験した。ここの設備は、体験した物とは若干違うけど、ま、同じようなもんだな」
「そうなんだ。お家にあるといいかもね」
「最近は、個人住宅にも設備しているところが、大分増えて来たみたいだよ」
「じゃあ、私たちの家にも欲しいなあ」
「あはは、気が早いね。でも、欲しいね確かに」
「朝風呂に入ったら大変ね。気持ちよくて会社に遅れたりしてね」
「あはは、あり得るかも」
「時には、あんまり気持ちよくて、朝から晩まで入っていたりしてね」
「あはは、ふやけてしまう。ジェット噴射で全身を刺激するから、普通の湯船に浸かっている時よりも、早くのぼせてしまうみたいだよ」
「あら、そうなの? じゃあ、使い方を考えなきゃね」
「だな」
二人は浴室を出てソファに戻った。深緑色の身体が沈むような高級ソファである。風呂に入れるようになるまでは少し時間がある。
暫らくして二人はシャワーを浴びて浴衣に着替えた。冷蔵庫から缶ビールを出し、コップに注ぎ乾杯した。亜希子は、さらに一段と色艶が出て綺麗になっているように見えた。濡れた髪をアップにし、あらわに見える細いうなじは、ぞくぞくするような妖艶の美しさである。
「ああ、美味しいわ」
亜希子が一杯目のビールを飲み干し、二杯めを要求した。
「おや、いけるね。じゃんじゃんやって。ほんと湯上りの一杯は美味しいな」
「ええ、余りいけない私でも美味しくいただけるわ」
二人の会話は夜がふけるまで続いた。悟も亜希子も、会話することの大切さと意義を強く感じていた。出来れば、死ぬまでとことん会話して、お互いを認め合い、楽しんでいけたらと思うことだった。
「明日は朝早く出なければならないから、もう休もうか?」
「えっ、もう寝るの? ……駅はすぐそこだから、もう少し遅くまでいいじゃない?」
「俺はいいけど、アキが疲れてるんじゃないかと心配したんだよ。大丈夫?」
「ふふ、平気平気。悟さんと一緒だと、不思議と元気が出るの」
「あはは、アキは丈夫で長持ちしそうだね。百二十歳くらいまで生きそうだな」
「そうよ。ひ孫ややしゃごを入れて百人ぐらいになるように頑張るの」
「あはは、身が持たない」
「あら気弱ね。殺しても死なないような身体をしているのに」
「とうとう、殺されちゃった」
「だって、結婚して一緒に住むまでは、こんな調子でしょう? 家に来てもらっても、リコや親が傍にいる訳だし、悟さんに思い切って甘えられないでしょう?」
「それはそうだな」
「だから、こうして二人きりで逢っている時ぐらいは、一秒でも長く甘えたいのよ。いいでしょう?」
「うん」
「嬉しい」
「……ところで、今結婚の話が出たけど、俺は、先週からずーっと頭から離れないんだけど、式はいつ挙げる? ……何か考えてる?」
「ええ、私は出来るだけ早い方が嬉しいけど、この前悟さんは一年以内とか言ってたわよね? あれって何か考えがあってのことでしょう?」
「国際コンペの締め切りや、もしアメリカに行くようになれば、どうなるかなと、タイミングを計りかねているんだよ。だからこの前は、ああいういい方になってしまったけど、出来れば俺も早いほうがいいと思ってるんだよ」
「何か拘っていることあるの?」
「あるよ。アキはジューンブライドを希望してる?」
「六月は雨が多いからあんまり気乗りしないわ。六月の花嫁は幸せになるっていうけど、私は悟さんと一緒にいれば、いつも幸せだから拘らないわね」
「遠藤さんは確か六月だとか言ってたよな」
「そうそう。君ちゃんはそうね」
「あ、そうだ、話がちょっとずれるけど、俺たちのこと遠藤さんにはもう話したの? 結婚するようになったってこと」
「まだなの。式の日取りがはっきり決まってからでもいいかなと思って」
「そうだな、……最近遠藤さんからは電話ないの?」
「時々あるわよ、でも、いつも世間話で終わるの」
「そっか。話を元に戻すよ。……じゃあ、こうしようか。俺の考えだと、四月のコンペの設計図書の提出期限までは動けないと思うんだ」
「そうね。私もそう思うわ」
「問題はその後なんだよな。会社の発表では、設立準備室の人選は、米国での基礎調査の進展を見ながら決定される手筈になっているから、おそらく来年の五月から九月までの間に設立準備室が出来ると思う。出来たらすぐ渡米しなければならない」
「そうなの? そうなると、会社が五月から九月までの間の、いつ設立準備室を設けるかに掛っている訳ね」
「そういうことなんだよ。俺はアキをアメリカに連れていきたいから、設立準備室が出来る前に結婚式を挙げておきたいんだよ。アメリカから帰って来てからじゃ余りにも遅いからね」
「そんなのイヤッ、……絶対イヤッ、一緒に連れて行って」
「もちろんそのつもりだよ」
「でも、来年の四月からの基礎調査って、私にはどんな調査なのか分らないけど、そこそこ時間が掛るものなんでしょう?」
「そう。だから、多分早くても八月か九月じゃないかと思うんだよね。準備室が出来るのは」
「もし、そういう風になるとすれば、来年の七月までに、式を終えておかなければならない訳よね」
「そうなるよなあ、……えっ、えっ、……これはヤバいぞ。来年の五月から七月の間に、結婚式を終えていなければならないことになるじゃない?」
「あら、やっぱりジューンブライド?」
「あは、そうなるよなあ。だけど遠藤さん達の結婚式と重なっても良くないからね。……遠藤さん達は、新婚旅行は何処に行くの?」
「旅行はしないみたい。今同棲中だから、ただ式を挙げたいだけですって」
「遠藤さんより先がいいの後がいいの? 式を挙げるのは」
「それは、別にどちらでもいいと思うわ」
「そうだよな。……で、アキはどう思う? それだと、少し慌てないといけないよな」
「関係ないことかもしれないけど、念のためにお聞きします。その国際設計コンペの審査の発表っていつ頃なの?」
「おそらく、来年の十月頃だと思う」
「発表の頃には、もしかしたら、アメリカに行ってるかもしれない訳ね」
「そうなるよな」
「悟さん……」
「うん? 何? いい案浮かんだ?」
「ええ、来年の五月に結婚式しない? ……こうなったら、一日でも早いほうがいいわ」
「そうだな新緑の季節か。……ゴールデンウィーク明け?」
「電車や飛行機の混まないほうがいいから、そうなるわね」
「式は何処でするの?」
「決まってるよ」
「東京? ……それとも鹿児島?」
「いや、どちらでもない。……篠ノ井でやりたい」
「ええっ、篠ノ井でやるの?」
「当たり前だよ」
「ウソッ。……どうして? 東京か鹿児島とばっかり思っていた」
「東京でやってどうするの。何の意味もないじゃん。鹿児島は少し遠すぎるし、母親も歳をとりすぎてるから無理だと思う」
「鹿児島は分るにしても、仕事上でお付き合いしてる人達は、殆どが東京やその近辺でしょう?」
「仕事上の付き合いはそうかもしれないけど、結婚式なんてプライベートな行事だろう? 見世物じゃないんだよ」
「それは、ま、そうですけど」
「俺はね、世界一の花嫁姿を篠ノ井の人達に見て貰いたいんだよ。アキのお父さんやお母さん、それにリコやお父さんの会社の人達に、アキの花嫁姿を見て欲しいんだよ、そして、良かったねとか、心から祝福して欲しいと考えているんだよ」
「……」
「結婚式は、ほんの身内だけでするのがほんとだと思うよ。だから、ま、世間の通念上、実際には、仕事上お付き合いのある、東京界隈の人達にも招待状を出すことになるとは思うけれども、そのうちの何人かから欠席の連絡があった。あるいは篠ノ井まで足を運んでくれなかった、いや、全員欠席の連絡があった、とするよね、それでも俺は何とも思わないよ。まして、最近の意味のない商業ベースの結婚式なんてまっぴらだよ」
「……」
「多分、あんな遠いところまで、高い新幹線代まで払って誰が行くかよ、と考える人もいると思うんだよね。それでもいいじゃん。俺と亜希子の一世一代の結婚式だよ? さっきも言ったけど、これは見世物じゃないんだ。俺とアキの一生をかけた、門出のそれこそ記念日なんだから。誰が何と言おうと、どう考えようと俺は構わない。むしろ、アキの花嫁姿を、そんな人たちには見せたくないね」
「……」
「心の底から喜んでくれる人が、例えそれが一人だけでもいいと思う。ほんと言うと、俺自身が亜希子の花嫁姿を見さえすれば、それでいいとさえ思ってるんだよ。だって、世界一綺麗な花嫁姿を、他の人達に見せてどうするの、俺が独占したいよさ」
「……」
「それじゃあ、あんまり大人げないから、アキと俺の結婚式を篠ノ井で挙げて、アキを育ててくれた地元の人たちに、大いに祝福され喜んで貰う。これが最高の結婚式だと思うよ、……違う? ……それともアキは東京で挙げたいの?」
「……」
「おや、黙ってないで何とか言ってよ。……意見を聞かせてよ」
「悟さんて、どうしてそういう考え方が出来るの?」
「えっ、じゃあ、俺の考え方が間違ってる、と言いたい訳?」
「そうじゃないの。全く逆なの。アキね、……嬉しくて、嬉しくて、……もう泣けてきそうなの」
「……」
「父や母それにリコだって、きっと結婚式は東京だろうなって思ってると思うの。結婚式って、昔から花婿の地元で挙げるのが常識になっているでしょう? 花婿も花嫁も同郷だったら別だけど、私と悟さんの場合、そうじゃない訳だから、花嫁の地元で挙げるなんて、誰も考えてないと思うの」
「そうかなあ」
「そうよ。だから、篠ノ井で結婚式を挙げると言ったら、サトルおまえ頭がおかしくなったんじゃないか? 狂ってるのと違うか? って言われそうよ」
「あはは、狂人扱いか」
「でも、凄く喜んでくれると思う。……悟さんありがとう。こういう時、何と言ったらいいの?」
「あはは、篠ノ井でやる? そんなの当り前でしょ、とでも言っとけばいいさ」
「まあ、あきれた。……でも、ほんと嬉しい、悟さんて、付き合えば付き合うほど、惚れ直すことが一杯出てくるのね」
「あはは、ありがとう。俺の考えも満更じゃないってことだね。嬉しいね」
「ふふふ、素敵な旦那さん」
亜希子は小さく自分に語った。
「新婚旅行はどう考えてる?」
「悟さんは? ……何か考えてるんでしょう?」
「えっ、どうして分るの?」
「フフ、顔に書いてある。俺の考えに従えって」
「あはは、あのね、アキが承知してくれればの話だけど、鹿児島の母親と姉に、アキを会わせたいんだよね」
「はい」
「凄い田舎だけど、これだけは、どうしても俺の願いを叶えて欲しいと思ってる」
「実は、私も同じことを考えていたの。鹿児島のお母さんとお姉さんにお会いして、どうして、こんな青年を育てられたのかお聞きしたいの」
「あはは、それは良く取ったほうがいいのかな? それとも悪く取ったほうがいいのかな?」
「フフ、決まってるじゃない、私を狂わしてしまった、こんな悪い青年をどうやったら育てられるの? って」
「そしたら俺の母親が言うよ。そのセリフ、こちらからそっくりそのままお返ししますっ、てね」
「あら、怖い。……お母さんて怖い人なの?」
「なにせ、元武士の家系に嫁いできた人だからね、恐いよー、アキはいっぺんに嫌になるかもよ」
「あら、嫌だ。じゃあ、行くのやめようかしら」
「そうする? 俺一人で新婚旅行するよ」
「バカ」
「あはは、冗談はさておいて、鹿児島は新婚旅行じゃなくて単なる家族紹介だね。どっちみち、アメリカに行く訳だから、それが新婚旅行代わりだね。会社の費用で行けるからラッキーだな?」
「うふふ、言えてる。超ラッキーね」
「じゃあ、そうする? 五月のゴールデンウィーク明けのいい日に式を挙げて、鹿児島に行って、会社の指示に従ってアメリカに新婚旅行に行く」
「まあ、あきれた。会社の指示でアメリカに新婚旅行なんて聞いたことないわよ。アメリカに出張でしょう?」
「ん、ま、そうだね。……どうだろうか、その線で」
「はい、アキにとっては、もう何にも言うことはございません。願ったり叶ったりです」
「そう来なくっちゃ面白くない。じゃあ、その件に関して最後のお願いです」
「あら、選挙運動みたい。何でしょうか?」
「結婚式の段取りは、全て花岡亜希子姫そなたに命ずる。粗相なきよう取り計りたまえ。ただし、華美に走ってはならぬ。質素を旨とすべし。姫君分ったな?」
「まあ、堂にいったご命令だこと。はい。殿のご意向確かに承りました。万端怠りなきよう取り計らいまして、後日ご報告に参上つかまつります」
亜希子はわざとひれ伏すようなしぐさをした。
「よくぞ申した。……これで一件落着」
「おや、今度は遠山の金さんだ。ふふ。こんな場面、何処かであったような記憶があるけど。何処だったかしら」
「八王子の、雑貨屋みたいな洋服屋みたいな店じゃなかった?」
「そうそう、そうよ。いま思い出した。下着を買ったところ」
「あはは、俺たちの尊い記念日、ハヤブサ記念日の日だった」
「うんうん、でした」
亜希子は、いよいよ迫ってきた人生の転機到来に胸が躍った。
「さあ、ほんとに遅くなってしまった。もう休もうか?」
「えっ、もう少し、もう少しだけ、いいでしょう?」
「あはは、アキは夜光性だな。そのうち朝になってしまうよ」
「そうね、うふふ、悟さん、大好きっ、……ねェー」
二人はそのまま横になった。
次の日の日曜日の朝は快晴だった。悟と亜希子はホテルを早く出て長野行きの新幹線に乗り、長野駅で乗り換えて篠ノ井に到着した。二人が新幹線に同乗するのは初めてであった。二時間があっという間に過ぎてしまった。篠ノ井駅から歩いて亜希子の家に到着した。
道中、通りすがりの何人かが二人の姿を振り返った。悟は第二の故郷となるこの地を、踏みしめるような感じで歩いた。
さすがに田舎に帰ると、亜希子は悟と腕組みして歩けなかった。なぜ、こういう考えになるのだろうと思った。好きな人と腕を組みながら歩くのに、東京じゃ出来て地元では出来ない? 何故? 歩きながら亜希子はそのことを悟に尋ねてみた。
「それは簡単さ、アキの心に巣食ってる心のバリアがそうさせているんだよ」
「心のバリア?」
「そう。これは俺の考えなんだけど、生まれながらに知らず知らずに洗脳された物の考え方とか、習慣や風習などが心を支配してしまっているから、日常の物の判断や自分の行動が、どうしても、その洗脳されたエリアを超えることが出来ない状態のことを言うんだよ」
「……」
「じゃあ、なぜ東京では出来て此処では出来ないかというと、東京の場合は洗脳されたエリアの外にあり、此処の場合はエリア内にあるというだけだと思う。つまり、ここに降り立った途端に、この地域の物の考え方とか習慣や風習がアキに命令するんだよ。アキ、例え恋人であっても、この地域では腕組みをすることは、恥ずかしいことだと教えているだろう? その教えを守りなさい、とな。逆に東京の場合は、洗脳エリアの外での行動だからそういう命令を出しようがない。ということだと思うよ」
「へェー、そうなんだ。なんだか怖いわね」
「確かに怖いと思う。宗教だって似たようなところがあるよね。自分が信じている宗教が絶対だと思うから、他の宗教を排他してしまう。その為に、幼い子供を含めた、罪のない多くの人達の命が失われている例は、世界の至る所で見られるよな。だから考え方によっては、世界が平和になるためには、洗脳されることの恐ろしさと戦うことが、実は今求められている、最も大切なことではないかと思ったりもするんだよ」
「バリアから外に出ようとすると、あいつは変わってるなどと言われる訳ね」
「そういうことだな。恋人同士が腕を組むなんて、ごくごく自然なことだよな? 此処に住んでいる人でも、ほんとはみんなそう思っていると思うんだよな。だけど腕組みしたくても出来ない。全く馬鹿げたことだよ。言ってみれば、地域に対するカッコ付だよ。地域に対してお利口さんを装ってる訳だよな。俺に言わせたらナンセンスだな」
「じゃあ、鹿児島に行った時、腕組みしてもいい? 誰も何とも思わない?」
「誰が何と思おうと俺は構わない、ということを言ってるんだよ。俺が好きな人と腕組みして何が悪い? 人前でイチャイチャするな、って言いたい訳? 焼きもちを焼かせるな、って言いたい訳?」
「なるほど、でも、そういう姿を見て、無性に頭に来たなんてこともあるでしょう?」
「そういう人もいるよな確かに。だけど恋人同士が腕組みして歩くなんて、テレビや映画で良く出てくるシーンじゃない? みんなそれを見ていて何の疑問を感じない、むしろ、微笑ましい光景としてとらえていると思うんだよな。なのに、この地域で同じことをしても、恥ずかしいとか変だよとか、どうして思うのか、俺は、それが分らないんだよなあ」
「そうね、心のバリアかあー、確かにあるかも。瞬間瞬間の行動や考えを、心のバリアのフィルターを通して判断するから、外から見たり理性的に見たら、時には滑稽に見えることもありそうな気がするわ」
「でも、そういう気づきって、なかなか出来ないものなんだと思う。その地域の、長い長い歴史と風土の中で育まれたものは、簡単には変わって行かないものだとしみじみ思う。変わらないことで、良い面もあるし悪い面もある。しかし、悪いと思われることを変えようとすると、地域に変な波風が立ってしまう。ほんとに難しいよな」
「なるほど、そうかもしれないわね。……」
「その点アキのお父さんは偉いよ」
「父が? どうして?」
「俺が世間体のことを言ったら、一笑に付されたじゃない。憶えてる?」
「ああ、そうね、成田ででしょう?」
「あれだけの年齢の方が、一番気にしている世間体のことを、俺が話した時お父さんなんて言った? 君は古いね、だぜ?」
「あら、お父さんは、心のバリアを既に破いているってこと?」
「そうなんだよ。バリアがフリーなんだと思う。さすが実業家だよ。尊敬しちゃうよ」
「ふふ、悟さんにも尊敬出来る人が出来たのね」
亜希子が悟に腕組みしてきた。
「あは、いいの?」
「これからは、お父さんみたいに、心のバリアを破いて、悟のバリアに乗り換えます」
「あはは、スペースシャトルみたいだね」
「アキ、俺と賭けをしないか?」
悟が急に話題を変えた。
「賭け? どんな賭け?」
「今日、俺がアキの家を後にするまでの間に、お父さんから家に電話が掛ってくるかどうか」
「何を賭けるの?」
「そうだな、コーヒー」
「えっ、コーヒー?」
「そう。俺が負けたら俺がコーヒーをアキに入れてあげる。アキが負けたらアキが俺にコーヒーを入れる」
「ふふふ、悟さんて時々分らなくなるわ」
「えっ、どうしてだよ。こんな分り易い男もいないと思うけど」
「だって、賭けにコーヒーだなんて可愛い、あはは」
「コラ、笑ったな、じゃあ、何を賭けたらいい訳?」
「思いつかない」
「だろう? そら見たことか」
「ふふ、で、悟さんはどちらに賭けるの?」
「俺は掛ってくる方に賭ける」
「じゃあ、私は掛って来ない方に賭ける」
「よし、そうしよう。……もう一つ賭けない?」
「今度はどんな賭け?」
「もうすぐ家に着くだろ?」
「そうね。もうすぐよ」
「家に着いた時、リコが俺の顔を見て泣き出すかどうか」
「何を賭けるの?」
「ミルクティー」
亜希子は吹き出してしまった。あきれてものが言えない。
「あはは、おかしい。ああ、おかしい、……で、悟さんはどう思うの?」
「リコは、びっくりはすると思うけど、泣くことはないと思う。……アキは?」
「リコは泣き虫だから、悟さんの顔を見たら、びっくりを通り越して感詰まって泣くと思う」
「よし、わかった。楽しみが増えた」
亜希子は理由もなく楽しかった。この人は、楽しさとか喜びとかを大量に生産するマジシャンじゃないかと思った。とにかく楽しい。
家の玄関に入る前に、亜希子が悟を見ながら口元に指を立てた。悟は外の隅で待機していた。
「ただいまあー」
玄関の引き戸を開けながら、亜希子はわざと大きな声で言った。暫らく返答がなかった。
「ただいまあー、誰もいないの? ……マリコー」
またも大きな声で言った。暫らくして、真理子が不審な顔で出て来た。そして亜希子の顔を見て驚いた。
「あら、お姉さんじゃない、どうしたのよ。夕方じゃなかったの?」
「その予定だったけど、急に帰りたくなったから帰って来ちゃった」
「えええーっ、じゃあ、お兄さんと喧嘩したの?」
「そうじゃないけど、お前は帰れって言うもんだから」
「悟兄さんが?」
「そうよ」
「ほんと? 信じられない……。それにしても、電話してくれたら車で迎えに行ったのに。歩いて来たの?」
「そうよ。とっても楽しかった」
「楽しかった? ……お前は帰れって言われて、楽しい筈ないじゃない。お姉さん何か隠しているでしょ?」
「何にも隠してなんかいませんよ。……あ、リコの為に土産物買ってきたけど外に忘れてきちゃった、ちょっと待ってね」
「土産物? ……????」
亜希子は玄関を開けてまた閉めた。隅の樹木を眺めていた悟に合図した。そして再び玄関の戸を開けた。
「リコへのお土産の登場です。どうぞ」
リコは、玄関のガラス戸に人影が写っているのを見て、もしやと胸がときめいた。
「ジャーン」
悟がおどけた格好で、笑いながら胸のあたりで両手を広げて入ってきた。それを見て真理子は、腰を抜かさんばかりにびっくりした。暫らく声が出なかった。
「……」
「おはよう、リコちゃん。リコの兄ちゃんだよ」
悟が一歩前に出て亜希子の横に来て並んだ。真理子は今にも泣きそうになっていた。そして、突然スリッパのまま玄関の土間に下りて、悟に抱きついて泣きだした。亜希子は妹の様子を見て、淋しかったのだと思った。一人での留守番は初めての筈であった。昼間はいいとしても、夜は特に淋しかったに違いないと思った。悟はポケットからハンカチを出して、真理子の手に握らせた。
「淋しかったんだね。そう思って、今朝早くに東京を出たんだよ。さ、美貌が台無しだよ、涙をふいて」
悟は真理子の両肩に手をやり、優しく言葉をかけてやった。そして、亜希子に目で合図した。亜希子は、真理子の肩を抱きながらホールに上げ奥の方に連れていった。悟は、ゆっくりホールに上がり奥のリビングに歩を進めた。亜希子と真理子はリビングのソファに腰を下ろしていた。真理子はまだシクシクしていた。
「リコ、コーヒー入れてよ。リコの入れたコーヒー飲みたくなった」
リコがパッと明るい顔になり、悟の所に駆け寄ってきて、ぺこりと頭を下げてハンカチを返した。泣きべその顔が半分はにかんでいた。そして、台所に小走りに去った。亜希子は悟の気配りに感謝した。悟の横に座って、悟の手に自分の手を置いた。
「悟さんありがとう。助かったわ。やっぱり朝早く出て良かったと思っています」
「そうだね。良かったね。きっと凄く淋しかったんだよ。……賭けは俺の負けだな」
「ふふ、そうね」
「少し待っててな。台所に紅茶あるの?」
「ええ、あるわよ」
「姫、少しお待ちください。ただ今美味しいミルクティーをご用意いたします」
「ほほほ、殿方にミルクティーを馳走になるなんて姫も満足じゃ。うん。待っておるぞえ、……あれっ、こんな風でいいんだっけ?」
悟は台所に歩を進めた。台所では真理子がコーヒーの準備をしていた。
「あら、お兄さんどうしたんですか?」
「ちょっと訳ありでね。姫にミルクティーを入れる羽目になってしまったんだよ。紅茶とミルクはどこ?」
「姫? ミルクティー? なんなのそれ」
リコがカップと紅茶とミルク、それと盆をカウンターの上に並べてくれた。
「お、ありがとう。訳は後で教えるから」
悟はミルクティーを作り盆の上に置いた。
「一緒に行こうか?」
「はい。お兄さん」
リコと悟は台所からリビングに入った。悟は、亜希子の前にひざまずき頭を下げた。亜希子は胸を天井に向けて威張った。
「姫君、大変お待たせ致しました。お口に合いますかどうか、少しばかり心配ではありますが、心を込めてお作りいたしました。どうぞご賞味くださいませ」
「そうか、大儀であった。そちからこのようなことをして貰うなんて思ってもみないこと、姫はとても嬉しいぞえ」
「はっ、ありがたきお言葉、胸に浸みいってございます」
この様子を傍で見ていたリコが、大声で笑い出した。
「どこかの劇団みたい。どうしたの二人とも、頭がおかしくなったんじゃない?」
それを聞いて悟が、リコの方を向いて言った。ひざまずいたままだった。
「あ、これはこれは姫君の妹様、悟は正常でございますが、姫君が少しおかしゅうございます」
こうなったら負けてはいないとリコが乗ってきた。
「コレ、言うていいことと悪いことがあるぞ。そちが今申したことは聞き捨てならぬ。我が尊敬する姫君のことを、こともあろうことか、おかしゅうございますとは何事だ、その訳を申して見なさい。事と次第ではそちの首が飛ぶぞ」
「はっ、申しあげます。拙者が姫君に、妹君をもう少しお大事になさった方がいいのではと申し上げたら、姫君が仰せられるには、今のままでよろしい。妹は妹の道を進む。今のうちから甘やかしては本人の為に良くないのじゃ、そのくらいのことが分らないのか? ……とまあこう仰せられるのです。おかしゅうございますでしょう?」
「何処がおかしいのじゃ? 姫君の仰せの通りだと思うが」
「はっ、手前が思いますには、この世でたった二人だけの姉妹でありますれば、姉様として、妹様をもっともっと大事になされた方がよろしいのでは、と思ったまででございます。間違っておりますれば、平にお許しを」
それを聞いていた亜希子が割り込んできた。
「良くぞ申した。そちの言う通りじゃ。痛み入るぞ。……それと、このミルクティーじゃが、そちは何か勘違いをしていないか?」
「はっ、勘違いでございますか? ミルクティーでございますから、ミルクの中に紅茶を少しばかり落としましたのでございますが」
ここまできて、三人が腹を抱えて吹き出してしまった。
「あはははは、ああ、おかしい、お腹が痛くなってきた。……お兄さんとお姉さんは、いつもこんな風なの?」
リコが、おかしくて仕方ないという顔をしながら言った。
「そうよ。劇団アゴよ」
「アゴ? 何それ、そんな劇団あった?」
「バカねェー、ある訳ないでしょ? 今作ったのよ。アは亜希子の亜、ゴはさとるの悟」
「なるほど、考えたわね。顎で言い合う訳だ。……ああ、面白い」
言いながら、リコがコーヒーを悟の前に置いた。
「オー、ありがとう、ありがとう。これは、コーの中にヒーを少し落としたんだな」
リコとアキがまた吹き出した。
「悟兄さんって面白い、……大好きっ」
リコは笑いが止まらない様子だった。
「でも、どうしてミルクティーなの?」
リコが二人に疑問を投げかけてきた。
「姫君、ご説明を」
「また始まった」
亜希子がミルクティーを口にして、ミルクティーのいきさつを話した。
「そうだったんだ。私が泣かなければ、お姉さんがお兄さんにミルクティーを入れることになっていたんだ」
「そうなの。だから、負けたのが分ったものだから、リコにコーヒーを頼んだ訳。ね、そうでしょ?」
「そうなんだよ、これ幸いとね。しめた、リコの入れてくれるコーヒーが飲めると、……イッヒヒーって感じ」
「だから、コーの中にヒーを入れる? うまい」
リコが感心した。悟がコーヒーを口にした。
「うん。旨いよ。心がこもってる」
「お後がよろしいようで」
亜希子が締めた。
それから数時間はリコの独壇場だった。その喜ぶ様は尋常じゃない。悟も亜希子も、たった一人の妹を、これまで以上に大事にしていこうと思うことだった。夕方になり悟が帰る雰囲気になった。アキと悟は、またリコが泣き出すんじゃないかと気が気でなかった。悟はリコを呼んだ。リビングのソファに座らせて諭した。
「リコ、いいか、兄さんはこれから東京に戻る。そこでお願いがあるんだけど、もう泣かないと約束出来るかな?」
「リコが泣いたら、また賭けに負けることになるの?」
「そうだよ」
「えっ、今度はどんな賭けなの?」
「リコが泣いたら、もう二度とここには来ない、笑って送ってくれたら毎週にでも来る」
悟は亜希子を見ながら辛い嘘をついた。
「ほんと、ほんとなのね?」
「ほんとだよ。兄さんも毎週でも来たいから、出来れば笑って見送って欲しんだけどなあ」
亜希子は悟の機転に感心した。リコを思いやっていることが嬉しかった。
「分ったわ。リコ、泣かない。約束する、……ハイ」
リコが小指を差し出した。悟は小指をからませながら言った。
「約束だからな、いいな?」
「はい。お兄さん。約束します」
「ありがとう。これで俺もいつでも来れるな。……リコ、好きだよ。ありがとう」
「リコも、お兄ちゃんのこと大好きです」
「よっしゃ。じゃあ、そろそろ戻ろうかな」
悟はまた賭けに負けたと思った。父親からの電話はなさそうである。
「アキ、ありがとう来てよかった。とっても楽しかった。じゃあ、今日はこの辺でおいとまします」
「こちらこそありがとう。リコも喜んでくれたし良かったわ」
ソファから腰を上げて玄関に向かった。靴を履こうと思い、靴ベラに手が掛った時、奥の方で電話の音がした。
「悟さん、ごめん。ちょっと待って」
アキが奥に走った。そして、奥の方から玄関の悟とリコに、両手で来るように手招いた。悟とリコは、何だろうと首をひねりながら奥に足を運んだ。アキが、お父さんからの電話だと小さく言った。
「お待たせしました。無事着いたのね」
「留守は大丈夫か?」
「お父さん、私もリコも立派な大人よ。心配しないで」
「だから心配するんじゃないか。女が二人だけだから」
「心配ご無用よ。それより、お母さんを大事にね」
「そんなことは、言われなくても分ってる」
「手紙読んでくれた?」
「うん。じっくり読んだ。お前の気持はよく分った。悟君と仲良くするんだぞ、いいな?」
「はい。お母さん傍にいるの?」
「いるよ、ちょっと変わろうか? ……はい、亜希子だ」
母親に代わってくれた。
「わたし。心配しなくていいからね」
「お母さん手紙読んでくれた?」
「読んだわよ。ありがとう、……大変だったのよ」
「えっ、何が?」
「あんなの初めて見たわよ。お父さんがね、飛行機の中で泣いてしまってね、もう大変だったの」
そんなことは言わなくてもいいから、という父親の声が聞こえてきた。
「そう、真理子の手紙も読んでくれたかな」
「もちろんよ、……ちょっとまたお父さんに代わる」
「亜希子、お母さんに変なこと聞くなよ」
親父の照れ隠しだった。
「ふふふ」
「そんなことより、そこに真理子は居るか?」
アキは来たーと思った。チラッとリコを見た。リコもアキの顔を見て察しがついたようである。
「ええ、居るわよ、今代わります」
アキがリコに受話器を渡した。
「はい。真理子です」
「真理子、明日から会社の仕事を手伝いなさい。と言っても急な話だから、俺が帰ってからちゃんとするが、とりあえず専務に話しておいたから、明日、専務の所に行って資料を受け取りなさい。その資料を自宅で学習しておきなさい。俺が帰ってから、お前の席を作って正式に社員として働いてもらうようにするから。いいか、分ったか? ……何か言いたいことがあったら言いなさい」
「いえ、ありません。よろしくお願いいたします」
真理子は、受話器を耳に当てたまま頭を下げた。
「よっしゃ。社員になったら親も子もないと思えよ。厳しい試練が待ってると思えよ。お前ならやれる。大丈夫だ自信を持ちなさい」
父親にこんなことを言われたのは、生まれて初めてだった。リコは泣き出しそうになった。アキがすかさずリコの肩に手を置いた。
「はい。分りました。頑張ります」
「じゃあ、また亜希子に代わってくれ」
アキが受話器を受け取った。
「はい。代わりました」
「何かあったら必ず電話するんだぞ、いいな?」
「はい、分っています」
「それとだな、悟君のことだが、飛行場でも言ったが、出来るだけ家に足を運ぶように、お前からも頼んでおけよ。あの野郎、世間体のどうのこうのって生意気なことをぬかしやがって、いいとこあるぜ」
「お父さん、それって誉めてるの? けなしてるの?」
「分り切ったことを聞くな。両方だよ」
「ま、呆れた。本人に言うわよ」
「ナニ? まさかそこに居るんじゃないだろうな」
「ふふ、悟さんは、お父さん以上に、家のことを心配してくれてるのよ。分ってる?」
「うん。段々分ってきた。お前が惚れた奴だから、ソコソコしっかりしていそうだな」
「まあ、言うことに事欠いて、良くも言えたこと」
「ブツブツ言わないで、悟はそこにいるのかいないのか? どっちなんだ」
「おや、今度は呼び捨て?」
「俺の息子だ。呼び捨てにして何が悪い」
アキは悟の方を振り向いてウィンクした。亜希子から受話器を受け取って悟は口を開いた。会話の内容がアキ達にも聞こえるように、受話器を少し耳から離した。
「悟です。無事に着いたみたいで良かったです」
「オォー、悟か。早速遊びに来てくれんだな。うん、ありがとう。お前のことだから、俺からあれこれいう必要はないと思うが、ま、よろしく頼んだよ」
「はい。分りました。出来るだけそうします」
「うん、頼む。今日は泊まっていくんだろ?」
「いえ、明日仕事ですから、今帰りかけていたところです」
「今夜は泊まって、明日の朝一番では間に合わないのか」
アキとリコがニコッとして顔を見合わせた。
「調べていませんから分りませんが、無理かなと思っています」
「時刻表を調べて、可能なようだったらそうしなさい。いいな?」
一方的な命令であるが、てきぱきとしていて心地よかった。
「はい。良く分りました。こちらのことは心配いりませんから、ゆったり楽しんでください」
「ありがとう。仕事で来ているから、そんなにゆったりも出来ないが、母さんも一緒だから、せいぜいそうするかな」
「はい。じゃあ、代わります」
「あ、ちょっと待て。言っておきたいことがあるんだが、いいかな?」
「はい? 何でしょうか」
「お前は海外に出たことはこれまであるのか?」
「はい。青年の船で、東南アジア各国を訪問したことがあります。それと、二週間程度でしたが、アメリカの西海岸とカナダに建築物件の視察旅行に行ったことがあります」
「おォー、そうか。いい経験しているんだな。あのな、見識を広めるには日本国内だけに留まっていては駄目だぞ。これからはグローバルな世界を意識した商売をしないと、世界の列強に後れを取ってしまう。若いうちに広い視野に立った見識を広めるには、海外に積極的に出てキャリアを積むことが最も大事になってくる。近いうちに機会を作るから、俺と一緒に旅してみないか?」
亜希子は、悟が困ったような顔をしたから気が気でなかった。旦那様、負けるな頑張れ。
「はァー、実は、来年の十月くらいまでには決まると思うのですが、サンフランシスコに長期出張することが決まっています」
「何? ほんとかよ。何でそんな大事なことを早く言わないんだよ。……で、どのくらいの期間だ?」
「一年半から二年くらいです」
「なにー、それはまた長いな、……ということは、……まさか、その出張が済んでから式を挙げる、っていうのじゃないだろうな」
「いえ、どうしても亜希子を連れていきたいものですから、……あのー、その話は亜希子に話してありますから、お帰りになってから、じっくりご相談に乗って欲しいのですが」
「分った。さすがに我が息子だ。大したものだ。すまん。亜希子に代わってくれ」
悟はふーと息を吐いてアキに受話器を渡した。
「はい。亜希子に代わりました」
「今、悟からいろいろ聞いた。帰ってからじっくり相談に乗るから、心配しなくていいからな。それと、真理子を社員として採用することにするから、悟にも、そのつもりで真理子を指導するようにお前からも頼んでくれ。頼むぞ」
「はい。分りました」
「じゃあな、切るぞ、いいかな?」
「はい。無事に帰って来てね」
「心配するな」
電話が切れた。
三人は再びリビングルームのソファに腰を下ろした。
「フフ、今度は私の負けね」
アキが両手を上にあげて万歳の格好をした。
「あはは、そのようだな」
「えっ、また何か賭けたの?」
リコが驚いた。
「そうなの、劇団アゴの再演がもうすぐ始まるわよ」
アキが楽しそうに話した。
「だけど、困ったな聞こえてた?」
「聞こえていましたよ。今夜は泊まって、明日の朝一番行きなさいと言われたんでしょ?」
「そうなんだよ」
「さあ、どうします?」
アキが意地悪そうな顔をした。リコは思わぬ展開を喜んでいた。
「リコ、ごめん時刻表ない?」
悟がリコに聞いた。
「その必要ないと思う」
アキが口を挟んだ。
「どういうこと? 時刻表で調べないと、明日の朝、会社の始業時間までに間に合うかどうか分らないじゃない」
「会社の始業時間は、九時だと前に聞いたことがあるけど?」
「そうだけど、遅くても八時半までには会社に入らないとヤバいよ」
「でしょう? ……ちょっと無理ね」
「えっ、そうなの? ……どうして分る訳?」
「悟さんに会う為に、穴が開くくらいに時刻表を調べたわ。だから分るの」
亜希子のことだから、一度見たら記憶してしまうに違いない。
「そうか。会社を無断で休む訳にはいかないから、やっぱり、今日のうちに戻ることにするかな」
「そうよね。残念だけど仕方ないわね。……ね、リコ」
リコは、もしかしたら、悟が泊まってくれることになるのではと期待したが、期待外れとなってしまった。アキの顔を見て小さく頷いた。
「それは、そういうことでいいとして、リコ良かったね。いよいよ仕事が出来るんだよ」
悟はリコの顔を見て優しく言った。
「はい。お兄さんのお蔭です。何事も熱意を持って当たれば、道が開けることを学びました」
「そうだな。良かった、良かった。しかし、会社勤めって、傍で見ているよりも厳しいからな、そのつもりで頑張るんだよ。いいね?」
「はい。頑張ります」
リコが神妙な顔つきで答えた。
「そのことだけど、悟さんの講座を開設しない?」
アキが悟の顔を見た。
「俺の講座?」
「そう、リコが実践で立派にやっていけるように、リコを徹底的に鍛える講義の時間を設けるの。名付けてリコ鍛錬養成講座」
「なんだか、本格的になってきたなあ」
「だってこのリコは、親の考えでもあったけど、いわゆる箱入り娘で、世間のこと、ましてや会社で仕事することなんて、それこそ初めてだから、身体に染みついて来るまでは、戸惑いやら苦痛やら慣れないことばかりで、相当悩むと思うの」
「それは充分あり得るな。だから仕事につく前に、心構えみたいなものを身につけてから仕事を開始すれば、いくらかでもスムースに行くかも、という考えだな?」
「ええ、そうなの。やっぱりそれなりの覚悟で仕事をしないと、特に社長の娘というレッテルがあるから、逆に変な目で見られてしまうと思うの」
「そうだな。そうなると、それがまた悩みになってしまう、という悪循環になってしまい易いからね。それだけは避けなければならない」
「私もそう思います」
「リコは今の話聞いてどう思う?」
悟は本人の覚悟のほどを聞いておきたかった。
「私は手紙には書いたけど、現実に急な話になってしまって、まだ心の準備が出来ていない状態なの。でも、いつまでもそんなこと言っておれないなとは思ってるのよ」
「そうだよ。どうせやるんなら、早くその気になったほうがいいと思うよ」
「そうよね。でも、リコ鍛錬養成講座ってなんだか厳しそう」
リコが不安そうな顔をした。
「あのね、この悟兄さんはね、こうしているけど、仕事のことになると、鬼、いやそれ以上に厳しい人なんだよ」
「えっ、そうなの? ……とてもそんな風に見えない。ほんとなの?」
「ええ、ほんとよ。妥協を許さない人だから、リコは相当覚悟しておかないと、それこそ悟兄さんに嫌われるわよ。なんだこの程度だったのか、って見放されたら口もきいてくれないかもよ」
「リコはそんなの嫌だ、絶対イヤッ、お兄さんに嫌われたくない」
「でしょう? だったら、覚悟して講座を受けることね。そのかわり、所定の講座を修了した時点では、お父さんがびっくりするくらいに立派な社会人になってるわよ。立派な社員になってるわよ。どうせなら、姉さんはそういう風になって欲しいと強く思うわ」
アキがリコを諭す姿を見て悟は感心した。妹思いの気持が溢れている。
「リコにとっては、願ってもない人生の転機と言ってもいいくらいの、ビッグチャンスだと思うの。このビッグチャンスを、ものに出来るかどうかが、リコの今後の人生を大きく左右すると言ってもいいと思うの。言い換えれば、リコにとって、今、とっても大事な時期に差し掛かっていると言えるわね」
「分った。頑張ってみる」
「だめよ。頑張ってみるじゃなくて、頑張ります。でしょ?」
アキがリコに厳しい言葉を投げかけた。
「あはは、俺より厳しいね。リコちゃんと聞いてくれる?」
「はい」
「人間はね、あるレベルのハードルを乗り越えた人しか味わえない、人生の喜びってあるんだよ。努力しなかったら、それなりの人生だし、分らないとか私なんか駄目な人間だからと思った瞬間から、人生の喜びは遠のいていくんだよね。逆に厳しい訓練・鍛錬を乗り越えた人は、他の人には見えない世界が見えるようになるんだよ。これは不思議なくらいだよ。だから、リコもどうせならそうなって欲しい、というお姉さんの切なる気持ちなんだと思うよ。分るだろう?」
「はい。良く分ります。私はこれまで、何一つ苦労することなく、ぬくぬくと甘やかされて育ってきました。これはこれで、親やお姉さんに感謝しなければなりませんが、自分が将来の為に自立して行く為には、そういう風に育ってきただけに、逆に他の人よりも、何倍も努力しなければと薄々思ってはいたの。でも、今、お姉さんとお兄さんの話を聞いて、生半可なことでは、とても駄目だということが良く分りました。正直、こういう気持ちになること事態考えられないことですし、何だかとても充実感も感ずるの。何もかも人の何倍も努力して、自分で切り開いていかなくっちゃと思っています」
「良くぞ言ってくれました。その気持ちさえあって、気持ちが持続出来れば、第一関門は突破したようなもんだ。期待できそうだね。なっ? アキ」
「ええ、そうね。私も応援するからリコ頑張ろうね」
「うん。リコ絶対に頑張って見せる」
「うんうん、その調子よ。そしたら、悟兄さんも益々リコのことを好きになってくれると思うよ。……ね、お兄さん?」
「あはは、アキがお兄さんていうことないだろう。……その通りだね。妹が立派な人間に成長していく姿を見るのは、たまらなく嬉しいことだからな」
「はい。ありがとうございます」
「お父さんの会社の社長になることを目指したら? 女社長、……いいねえ。これからはそういう時代だよ」
「えっ、私が社長? ……まさか、……すぐ倒産してしまう」
「とうさん、助けてって言うの?」
「まあ、駄洒落が飛び出してしまった。でもよく考えたら、その線もアリね。……うん、リコ、それを目指して頑張ろう。お父さん絶対喜ぶわよ。リコの社長ぶりを見て、俺はいつ死んでもいい、なんて言いだすかもよ」
「勝手にお父さんを死なせないでっ。……でも、言わせてみたいわ、ふふふ、快感ね。絶対」
リコが含み笑いをした。
「よっ、大社長」
「でも、あの役員さんたちの顔を見ると、一筋縄ではいかないから苦労の連続ね多分。……ああ、お父さんの苦労が分るような気がする」
「あはは、その意気だ。ガンバレ。頑張って、リコの新しい世界を作るのだ」
「お兄さんて、その気にさせるのがとっても上手ね。何だかもう、天下を取ったみたいな気持ちよ」
「バカ。すぐ頭に乗るんだから」
「ふふ、すみません」
リコが明るい顔をした。悟は、リコが女社長になったイメージを膨らませた。
「リコ、……リコは賢いから分っていると思うけど、敢えて言っておくことがあるから、この際言っておくよ」
「はい」
「この前も言ったような気がするけど、リコは社員になったら、社長の娘だということを忘れることだね。捨てることだね。みんなと同じ土俵の中で仕事をするんだ。リコ以外の人は、リコのことを常に社長の娘だと意識している訳だから、リコの言うことだとか行動する全てが、その意識で見られていることを絶対に忘れてはならない。つまり役員を含めて、社員全員がリコを色眼鏡で見ているってことだよな」
「はい」
「仕事で失敗したら、普通だったら上司に怒られるよな」
「そうだと思います」
「じゃあさ、リコが同じ失敗をしたら? どうなると思う?」
「同じように怒られると思います」
「そうあって欲しいよね、ところが、必ずしもそうはならない」
「どうしてですか?」
「リコが社長の娘だからさ」
「娘だったら、どうして怒られないのですか?」
「とってもいい質問だね。あのな、役員も含めて社員のほとんどの人は、上司の顔を伺いながら仕事をしているんだよ。良く見られたい為にな。特に社長のご機嫌を損なってしまったら、給料が下がってしまったり格下げになったり、最悪の場合、会社を首になることもある訳だから、みんな必死になって仕事する訳だろ?」
「そう思います」
「リコが仕事を失敗して、普通だったら、上司にこっぴどく怒られる筈なのに、怒られないのは、リコが社長の娘だからと言ったよな」
「はい」
「何故そう言ったかというと、社長の娘であるリコを怒ると、社長に怒られてしまうと思ってしまうんだよ」
「お父さんは、そんな人じゃないと思います」
「俺もそう思うよ。だけど、社員はそうは思わないってこと。だから怒りたくても怒れない」
「ふーん、そうかしら」
「このことは、リコが実際に仕事し出したら、必ず直面するとても大事なことなんだよ。何を言いたいかというと、そうならないように、リコが努力することの大切さを言いたい訳。……分るかな?」
「何となく分ります」
「あのな、怒られなければならない時に、怒られないことほど悲しいことはないんだよ。怒るってことは、期待をかけているから怒るってこともあるんだよな。それさえもなかったら、期待されていないか、どうでもいいやと思われたかなんだよ。そこのところを、深く理解しておく必要があると思う」
「じゃあ、リコはどうすればいいのですか?」
「さっき言ったように、仕事をしている時には社長の娘を捨てること、例えば社長に何かで呼ばれたらどうする? 何と返事する?」
「お父さん、……じゃなくて、はい。社長?」
「そうだな。会社に一歩入ったら親子の縁を切ることだな。純粋の社員として働く。この気持ちを忘れたら、リコは将来、絶対に社長にはなれない」
「どうしてですか? 参考までに教えてください」
「社員がついてこないから。会社は、従業員つまり役員を含んだ社員の力で成り立っていることを、片時も忘れてはいけない。その社員たちが、リコの態度や行動や考え方が、社長の娘というイメージを振りかざしていては、リコの心に添って働こう、なんて気にはならないと思うんだよ。リコはまだ実際には働いてない訳だから、理解し難いかもしれないけど、そういう風に思っていて間違いないと思うよ。……アキ、どう思う?」
「私も悟さんの言うとおりだと思います。リコは幸せ者よ。会社に入る前に、こんな大事な話を聞ける訳だから」
「さっきからそう思っていました。直面しないと分らないことが、たくさん出てくると思うけど、今のお話を教訓にしたいと思います」
「仕事をしていて、何か壁にぶつかったり悩み事が出てきたら、自分の胸にしまい込まないで、必ずお姉さんか兄さんに相談するんだよ、いいな?」
「はい。良く分りました。よろしくお願いします」
「後は養成講座ね」
アキがリコの顔を見て言った。
「リコ、養成講座については、お姉さんがスケジュールするから、それに従うように、いいかな?」
「毎週あるのですか?」
「いや、それはいつになるか分らない。突然言われる場合もあるからそのつもりで」
「なーんだ、毎週じゃないの?」
リコが残念そうな顔をした。
「ふふ、目的をはき違えてる。悟さんだって、仕事の合間をぬって此処まで足を運んでくださるのよ。リコが、スムーズな出発が出来るようにと思って講座をお願いしているのに、考えが不純よ」
「だって、お兄さんとは毎日でも会いたいんだもん」
「ったく、困った子ね。……あら、まだいいのかしら? 時間」
「おっと、そうだな、じゃあ、コーヒーもう一杯いただいて帰ろうかな、……卑弥呼」
「はい。殿下、かしこまりました。ただ今お持ちいたします、今暫らくお待ちくださいませ」
「あら、今度は卑弥呼と殿下なの? 面白い」
リコが明るく笑った。
悟が帰りの電車に乗る時、リコはもう泣かなかった。約束を守ろうとするリコの必死な様子が分った。こうして、一歩一歩強くなってくれればと悟は心から思うのだった。