□ 第九章 家族の絆 ② □
十二月二十四日、その日の朝は良く晴れていた。アキとリコそれに悟の三人は朝食を済ませてから、イブのパーティーの準備にやたらと忙しかったが、心はルンルン気分であった。悟を交えての初めてのクリスマスイブである。今年は大々的に、両親への感謝を込めたものにしようと話し合っていた。
三人は車に乗って、まずレンタル屋に寄った。玄関先や庭の木々とリビングルーム内に飾るイルミネーション、モミの木のクリスマスツリー、サンタのコスプレなどを借りた。続いてスーパーに車を止め、手作りケーキ用の材料、鶏肉やビーフなどの食材のほかに、シャンパンとワインそしてジュース類を買い求めた。さらに雑貨屋によりロウソクなどを買った。
既に二、三日前から飾り付け用のクリスマスリースや、いくつかのオーナメント、ピクチャーフレームなどは作り終わっていた。特にリコは、得意のデジカメから選りすぐりの写真を使って、手作りのピクチャーフレームをオーナメント風に作って、ツリーに飾ろうと考えていた。アキは、松ぼっくりをペイントしたオーナメントや、レースペーパーで折った鳩のオーナメントなどを作っておいた。
昼食を終わるころから、次第に雲が多くなり段々天気が怪しくなってきた。リコが、オーディオコンポを出窓の下に置いて、クリスマスソングを流した。急にイブの雰囲気が盛り上がってきた。出窓のカウンターには、リコ自慢のデジカメが出番を待っていた。
アキとリコは料理に取り掛かった。悟は、玄関先の木々とリビングルームから見える庭先の木々に、イルミネーションを飾り付けた。それが終わったら、イベント会場のリビングルームからダイニングルームに掛けての壁に、イルミネーションを飾りリースを飾り、いくつかのオーナメントを飾った。そして、雰囲気を出すためのロウソクを数本配置した。レンタルした鉢植えのモミの木は、結構大きくて重たかった。それを床に置きイルミネーションを飾り、アキとリコが作ったオーナメントの残りを飾り終わった瞬間から、一気に雰囲気がクリスマスの夜らしくなった。これでイルミネーションが点灯すればイブのパーティー会場は一段と華やかになる。
アキとリコはケーキやイブ料理に終始余念がなかった。香ばしい香りが漂い始め、出来た料理が少しずつテーブルに並び始めた。両親には合図するまで会場には入らないように伝えていた。
夕方になり、悟がイルミネーションの灯りを点灯させる頃には、とうとう雪が降り始めた。
イルミネーションが点灯し、壁飾りやツリーが華やかさをかもし出し、リビングルームから見る外の景色も、木々に取り付けたイルミネーションが点灯し、一段と会場を盛り上げ雰囲気を作った。今夜は願ってもないホワイト・クリスマスになりそうである。
食卓にならんだ豪華な食の飾り付けが終わるころ、パーティー会場が一気に盛り上がった。オーディオコンポのクリスマスソングがさらに場を盛り上げた。食卓には所狭しと、鶏肉のジューシーオーブン焼き、ローズビーフ、ハニーチキン、鶏肉の赤ワイン煮込み、ローストチキンレッグ 、ラムチョップ 、リースサラダ 、帆立のコキール、じゃがいものグラタン、スモークサーモンとポテトのカナッペ、りんごとプルーンの赤ワイン煮などが並べられていた。よくもこんな料理が作れるものだと悟は感心した。
悟は一本づつロウソクに火を灯していった。そして天井の照明を消した。ゆらゆらと揺れるローソクの灯だけになり部屋中が薄暗くなった。その為にイルミネーションが一段と輝きを増した。正にスタンバイOKになった。
アキの合図でリコが両親の部屋に走った。暫らくして、リコが両親の真ん中になり、父と母の手を引いて会場のドアを開いて入ってきた。悟がオーディオコンポの音量をぐっと上げた。と同時に、アキと悟はクラッカーを鳴らした。アキは出窓に置いてあったデジカメのシャッターを押した。フラッシュの灯りで両親の姿がフォーカスされた。両親が、何事が始まったのだと一瞬たじろいだ。会場を見回し、腰を抜かさんばかりにびっくりしていた。父の誠一郎は母の典子の顔を見た。アキの合図で三人の子供が一斉に声を発した。
「お父さんお母さん、メリークリスマス」
リコが、あっけにとられた両親を食卓に導いた。両親が椅子に座るのを待って、アキが宣言した。
「ようこそ、花岡家のパーティーにお越しくださいました。これから、クリスマスパーティーを開催いたします」
同時に、またもクラッカーを鳴らした。両親は言葉がなかった。感詰まっているのか、突然の出来事を未だ理解しきれていないのか、何と声を発したらいいのか戸惑っているようであった。悟がシャンパンの瓶を両手でつかみ、コルク栓を抜こうとした。リコがデジカメを片手に、イヤーン怖いと大きな声を上げ耳をふさいだ。と同時に、パンパンと弾ける音がしてコルク栓が天井にあたって落ちた。悟はダイニングテーブルに置かれたグラスに、父親のグラスから順に液体を注いでいった。
「それでは、次期社長の音頭で乾杯を行います。次期社長、真理子様よろしくお願いいたします」
アキは、わざと丁重に少し腰を折り、リコに視線を流した。
「エヘン、えェー、ご指名により、乾杯の音頭を取らさせていただきます。その前に一言」
リコは、懐から紙を取り出して読み始めた。両親はあっけにとられ、事の成り行きに任せるよりなかった。
「花岡家が、こうして盛大にクリスマスパーティーを行うのは、後にも先にも初めてでございます。悟兄さんが亜希子姉さんとの結婚を宣言し、こちらにお越しいただけるようになって、花岡家も見違えるような変化を遂げました。お父様も、ほんとのお父様らしくなり、とても嬉しく思っております。これもひとえに悟お兄さんの賜物と深く感謝申し上げる次第でございます。外は雪になりました。まるで私たちを祝福しているかのようです。今年のクリスマスイブは、最初で最後のイブになるかもしれません。ですから、今夜は、お父さんお母さんを囲んで、心行くまで楽しんでください」
悟とアキは深く頷いていた。そうだ、来年のイブはないかもしれない。確かにそんな思いが走った。
「それでは、ご起立願いましてグラスをお持ちください。……よろしいでしょうか? ……それでは、花岡家の益々の発展と、お父さんお母さんの健康と長生きを祈念いたしまして、……メリークリスマス!」
一斉にグラスを高く掲げ、メリークリスマスと声を発し乾杯した。そして、拍手が起こった。立派な挨拶だった。音楽がきよしこの夜に変わった。突然、母の典子が泣き出した。父の誠一郎も、貰い泣きしそうになった。その姿をリコが見逃す筈がない。デジカメのフラッシュが光った。
「さあ、今夜はアキとリコが、腕を振るって一世一代の料理を作りました。思う存分に召し上がってください。後で手作りのケーキも用意していますので、別腹は残しておいてくださいね」
アキの合図で食事が始まった。何から食べたらいいのか迷うくらいである。ちょっと待って、と言ってリコのデジカメがフラッシュした。ロウソクの灯りだけで食べる食事もなかなか乙なものである。父の誠一郎は、シャンパンを飲み干してからビールを要求した。依然として黙して語らず、どう切り出したらいいものやら言葉を探していた。母の典子は、まだ時々ハンカチを顔に当てていた。
「お母さん、今年はいい思い出になりそうですね」
悟は典子に顔を向けた。典子は涙が止まったみたいだった。
「突然でびっくりしてしまって、心臓が止まりそうだったわよ。でも長く生きて来たけど、こんなの初めてだわ。なんだか、ドキドキワクワクしちゃって子供に帰ったみたい。……悟さん、ありがとう」
「いえ、アキとリコが、どうしてもお父さんお母さんに感謝したい、ということでこうなったんですよ。優しい娘さんを持って、お母さんも幸せですね」
悟の言葉に、典子がまたも泣き出した。悟、何でお前は泣けそうなことを言うんだよ。父の誠一郎も、とうとう目にハンカチを当てた。いや、そんなつもりで言ったんじゃないんだけどなあ。
「悟兄さんのお蔭で、お父さんの涙を生まれて初めて見ることができました。親の泣く姿って何だかいい感じですね」
リコがしみじみとした口調で悟に話した。
「子供の前で親が泣くなんてことは、余程でないとないことだと思うんだよな。やはり、アキとリコの親を思う気持ちが伝わったんだね」
悟は、アキとリコの顔が微笑んでいるのを見た。何もかもが、ほんとの親と子になったのだと思ったようである。
「なんだか最近、お父さんお母さんが仏様に見えてくることがあるの」
アキが笑みを浮かべながら語りかけてきた。
「ほォー、仏様かァー、そうか、そう思えるようになったってことは、アキの心も仏様に近づいたってことだな」
「あら、そうかしら。そんな風に見える?」
「時々、別な顔に見えることもあるけどな」
「どんな顔?」
「エンマ大王」
「コラッ、それはないでしょう?」
「あはは、でもたまにはいいもんだよ、そんな顔も。身が引き締まるからね」
「フフ、じゃあ、毎日エンマ様になろうかしら」
「あはは、それにしても、クリスマスイブに仏様とかエンマ大王とか、……あはは、いかにも日本的だなあ」
「あら、そうね。怒られそうだわね」
「……あ、お父さん、どうぞ。今夜は思い切り飲んでくださいね。酔い潰れてください」
ビール瓶を誠一郎のグラスに傾けた。悟は、さっきから黙りこくっている誠一郎が気になっていた。何かきっかけを作ってあげなければと考えていた。
「お、ありがとう。……でもなんだな、こうして、家族が何の拘りもなく、時間を楽しむのもいいもんだな。今日ほど家族の良さを思った日はないよ。……ほんとにありがとう。……アキもリコも、ありがとうな」
やっと口を開いた父親の顔は、にっこりとして優しい顔だった。一つ一つかみしめるように、言葉を選びながら話す父親を見て、アキもリコもしんみりとなり涙ぐんだ。これがほんとの家族なのだ。家族の絆って、こんなにも尊いものなのだと、身体中を駆け巡る喜びに浸っていた。
「悟兄さん、はいどうぞ」
リコが悟のグラスにシャンパンの残りを注いだ。
「お、サンキュー。今夜は酔っぱらってみようかな。リコ介抱してくれるか?」
「あら、お姉さんの前で良く言えましたね。エンマ大王に睨まれますよ」
「おう、そうだな。クワバラ、クワバラ」
「悟さん、ワインもありますからね。今夜は羽目を外してもいいわよ。……歌でも唄ったら?」
アキが優しく話しかけた。
「うた? 勘弁してよ。スカウトされたらどうするんだよ。困るだろう?」
「まあ、自信たっぷりね。そう言えば、悟さんが唄うの聞いたことないわね。リコも悟さんに唄って欲しくない?」
「うん。聞きたい。声がいいから、きっと上手かも。ねえ、お兄さん唄って?」
「おいおい、本気かよ、参ったなあ、座が白けてしまうよ」
「大丈夫っ、唄って。……どんな歌が得意なの?」
「得意も何もないよ。……、あ、お父さんはどんな曲が好きですか?」
悟は誠一郎に振った。
「俺は演歌だよ。ムード演歌だな」
「へェー、お父さんの口から、ムードって言葉が出るとは想像もつかない」
リコが茶化した。
「コラッ、リコ、お父さんだって結構ロマンチストなんだぜ、知らないだろ? お母さんに聞いてごらん」
誠一郎は典子の顔を覗き込んだ。証明しろと言いたげである。
「お母さん、ほんとなの?」
「そうね、とてもロマンチストよ。お前たちは厳しい顔しか見てないだろうけど、お母さんには、時々だけど優しくてロマンチストだったよ」
「嘘だあ、全然知らなかった」
「この前、アメリカに行ってからは、さらに濃厚なロマンチストになったみたい。見直したわ」
典子は、誠一郎の顔を見ながら、うっとりとした表情になった。
「へェー、そうなんだ、ご馳走さま。……ところで、お母さんも演歌が好きなの?」
「そうね、私たちの年代の人は、みんなそうなんじゃないかねえー。洋楽のムードミュージックも悪くはないけどね」
「悟兄さんも演歌は好きなの?」
「大好きだよ。なんて言うか、歌詞に日本人の心が込められているような気がしてね。だから、どちらかというとメロディーよりも、自分が気に入った歌詞の歌を良く口ずさむよね。サザンや省吾なんかの歌も好きだよ。あちらの歌だったら、聞くだけの場合が多いけど、アンディ・ウィリアムスやフランク・シナトラなんかが唄ってる歌もいいよね。……あはは、俺って古いね」
「へェー、じゃあ、今夜はそのジャンルの歌を唄ってくれるの?」
「そうだな、こうしないか?」
悟が急にアキの耳元で何かを囁いた。
「うんうん、それっていいかも」
アキが手を叩いて喜んだ。そして、リコにその話をした後、別な何かを伝えた。リコも大きく頷き手を叩いた。リビングルームとダイニングルームの間を広くするために、三人はソファセットとダイニングテーブルを少し動かした。ちょっとしたホールが出来た。
食事が進みお酒が進み、夜が少しづつ色濃くなって行った。
「それでは、そろそろ二次会にしたいと思います。ケーキを用意しますから、みんなリビングルームに移ってください」
アキの指図で、みんながリビングルームに移り、ソファに思い思いに腰を掛けた。音楽がムードミュージックになった。暫らくして、手作りのいちごのクリスマスケーキがテーブルに置かれ、ワイングラスが用意された。
「ケーキをつつきながらワインを飲みましょう」
アキがみんなにワインを注いだ。その間、リコが部屋を出て、二階に駆け上がるのが聞こえた。
「悟さん大丈夫? 今夜は下戸返上?」
「もう限界に近いよ。……でも、まだ大丈夫。ご心配ありがとう」
「ふふ、歌唄えるのかしら。心配になってきたわ」
「大丈夫、大丈夫。……アキも歌うんだろ?」
「下手ですけど、心を込めて歌います」
「おー、初めて聞くことになるなあ、これは楽しみだ」
リコが片手にCDを何枚か持ち、片手にマイクを持って戻ってきた。
「リコ、ちょっと見せてどんな曲があるのかな?」
「歌のない演奏曲と演歌とムードミュージック集。お兄さん、何唄うの?」
「えーとさ、お父さんお母さん達がこの前出張したの、サンフランシスコだったよな?」
「ええ、そうね」
「だから、ちょっと古い歌だけど、想い出のサンフランシスコ、……ある?」
「えーとね、……あるわよ。歌が入ってるのと演奏だけのもあるわよ」
「歌はトニー・ベネット? フランク・シナトラ?」
「ううん。アンディ・ウィリアムスよ」
「そうか。じゃあ、アキこうしようか。俺が唄うから、お父さんお母さんにダンスして貰って、俺の歌が終わったら、ひき続きアンディ・ウィリアムスの歌を流そう。つまり、お父さんお母さんには二曲続けて踊ってもらおう。……どうかな?」
「ええ、いいわね。グッドアイディアよ」
リコがアキの代わりに手を叩いた。
「あは、早速リコが英語を入れ出したぞ。……よし、じゃあ、それで行こう。後は流れで行こうか。……リコも唄ってくれるんだろ?」
「もちろんです。びっくりさせてやるから」
「ほォー、自信たっぷりだな。これまた楽しみだねェー」
アキがリコを呼んで耳元で囁いた。リコがOKマークを出した。両親は、また何ごとが始まるんだろうと、三人の様子を見ていた。
「その前に悟さんちょっと来て」
アキと悟が部屋を出て行った。二人は二階のアキの部屋に入った。入るなりベッドに横たわりキスをして強く抱き合った。そしてすぐ起き上がり、紙袋からサンタのコスプレを出して着替えた。悟が着替えたのを確認して、アキは階下に降りた。リコがオーディオコンポの方に歩いて行った。音楽をテナーサックスのムードミュージックに切り替えた。アキがゆっくり立ち上がり、マイクを握って語り始めた。
「はい、これからダンスタイムとします。お父さんお母さん、これからサンタのおじさんが、お父さんお母さんに歌のプレゼントをします。さあ、ホールの中央に出てください」
「何だって? ……ダンス? ……母さんと? 照れるなあ」
と言いながらも、満更じゃなさそうな顔をした。典子は、恥ずかしそうにして誠一郎について行った。音楽が急に切り替わった。思い出のサンフランシスコである。間髪をいれずにアキが言った。
「それでは、お待たせしました。本日のメインゲストの登場です。トニー・ベネットさんどうぞ」
アキの声が終わるか終らない間に、リビングルームのドアが開きサンタクロースが現れた。リコがキャーキャー言いながら、飛び上がりながら手を叩いてはやし立てた。デジカメのフラッシュが何回もたかれた。
「待ってました! サンタさーん、……カッコいいー」
両親はピタッと抱き合い、前奏に合わせて腰を揺らし始めた。アキからマイクを受け取り、悟が英語で唄い始めた。低く通った声がエコーして響き渡った。まるで、外人の歌手が唄っているみたいに聞こえた。アキとリコが、飛び上がらんばかりにびっくりして目を合わせた。思わずソファに腰を下ろし、両手を胸のあたりに合わせて聞き入っていた。両親も少しびっくりしたようであったが、目を閉じでムードに酔いしれているようだった。母の典子は、誠一郎の胸に顔を埋め幸せそうな顔をしていた。時折、誠一郎の顔を見つめ目を閉じた。誠一郎は照れに照れていたが、顔は終始ニコニコ顔だった。嬉しくてたまらないと顔に書いてあった。曲の最後のせり上がりを聞いて、リコがコンポのところに行き次の準備をした。悟の歌が終わると同時にアンディ・ウィリアムスの甘美な声が流れた。悟が唄い終わり、両親は元に戻ろうとしたが、続いて曲が流れて戸惑ってしまった。
「お父さんお母さん続けて踊って」
サンタ姿の悟がアキの横に座った。アキは思わず悟の手を握りしめた。
「びっくりしたわ、プロよりうまいわよ、ほんと、スカウトが来るかも」
リコが急ぎ足で駆けてきて悟に抱きついた。
「お兄さん、リコしびれてしまった。ねえねえ、もう一曲歌って? ねえ、お姉さんも聞きたいでしょ?」
「そうね。何度でも聞きたいわね。今度は何にする?」
「俺はおだてに弱いからなあ。じゃあ、もう一曲だけな。今度は、お父さんが好きな演歌を唄おうかな。アキとリコが唄った後に唄うよ」
「やだー、リコはもう唄えない。下手が目立ってしまうわ。お姉さんだけ唄って」
リコがしり込みした。
「何言ってるんだよ、唄うって約束だろ? 歌はハートで唄えばいいんだよ。心を込めて唄えば上手に聞こえるんだよ」
「分ったわ。じゃあ、唄うけど笑わないでね」
「あはは、大丈夫だよ。アキは上手みたいだな」
「ふふ、二人で芸能界にデビューする?」
「相当な自信だな。何唄うんだい?」
「演歌」
「えっ、演歌? ほんとかよ想像できない」
「ふふ、他の歌も唄えるけど、今夜はお父さんお母さんの為の日だから」
「あ、そうか、だな。リコは何唄うんだい?」
「演歌」
「えっ、嘘だろう? アキは分るけどリコまで演歌かい? それで、えーんかい?」
「もう、駄洒落言って、知らないっ」
丁度曲が終わった。両親が手をつないで元の席に戻った。父親は照れていたが母親は満足そうだった。
「悟サンタの姿も堂にいってるけど、お前は歌が上手いんだなあ。アメリカの劇場で聞いてるみたいだったぜ」
「あはは、お父さんおだてるのが上手ですね」
「いや、ほんとだよ。道を間違えたんじゃないのか? な、アキそう思ったろ?」
「今夜はサンタの姿でしたが、スーツ姿でしたらもっと良かったと思います」
「そうだな、いやー、いい思いをさせてもらった。ありがとう、……な、母さん」
「ええ、もう身体中がしびれてしまって、お父さんにしがみついていました」
「あはは、もうちょっと上手な表現できないのかよ。……あはは、今夜は楽しい」
急に曲が演歌になった。アキがすくっと立ちあがってマイクを握った。
「お父さんお母さんの為に演歌を歌います」
アキの歌を聞くなんて、両親にとっては初めてのことである。曲が流れアキが歌い出した。悟はびっくりした。上手い。たいしたもんだ。その時、リコが悟に近づき手を引いて真ん中に出た。そして、両親にもダンスするよう促した。両親は再び抱き合って踊りだした。
リコと悟も、手と手を合わせて腰を揺らした。リコの美しい顔が目の前にあった。サンタの格好だからムードは出ないが、うっとりとしてリコを眺めていた。リコは腰を揺らしながら、少しづつ悟の腰に体を密着させてきた。そして腰に回した手を強く引き寄せ、悟の胸に顔を埋めた。リコの豊かな胸の感触が伝わってきた。リコは少し酔っているようである。頑張れよ、辛いことや悩みがあったら、いつでも相談するんだよ、とリコの耳元で囁いた。リコは顔を上げ、にっこり笑ってコックリ頷いた。とても美しい顔だった。リコは、時々歌っているアキの方を振り向きVサインをした。アキも笑いながらVサインを返した。両親はすっかりダンスに酔いしれていた。母親の顔がどことなく色気を発散していた。
曲が終わった。アキが悟のそばに来て着替えてきたらと言った。悟は二階の秋の部屋に戻り着替えて戻ってきた。今度はリコの番である。その時、母親がリコに近づきマイクを握った。
「私にも唄わせて」
ハプニングが起こった。思いもかけない演出に、父親の方がびっくりしていた。
「おいおい、どさくさに紛れて大丈夫かよ、母さん、少し酔ってないか?」
「ふふ、今夜はからんじゃうから、覚悟しといてね」
ああ、娘たちの前で言うか? アキもリコも成行きに俄然興味を持った。何かとんでもないことが起りそうな雰囲気になった。父親が心配そうに言った。
「酔った勢いで裸になるなよ」
「まあ、娘たちの前でお父さんたら、なる訳ないでしょう? ……でも、なっちゃおうかしら」
母親にこんな茶目っ気があったなんて信じられない。リコと何やら打ち合わせして曲が流れてきた。テレサ・テンの曲である。
「お姉さんたち踊ったら? 私はお父さんと踊る」
リコに促されてアキは、悟の手を引いて中央に行き身体を寄せ合った。リコも父親に寄り添って踊った。誠一郎は今夜は別な世界にいるような、そんな錯覚すら覚えた。
アキは悟の新しい魅力に触れ嬉しかった。リコや両親がいなければ熱いキスを交わしたい気持ちだった。腰をピタッとつけてお互いを見つめ合った。アキの目が赤々と燃えていた。アキは時折悟の胸に顔を埋め、腰に巻いた腕を強く引き寄せた。そして何もかも新しい体験の今夜の出来事が、悟のお蔭で実現したことに、たまらなく嬉しく、感謝の気持ちでいっぱいになり感詰まってしまった。悟さん、ほんとにありがとう。大好きよ、愛してるわ。アキは悟の耳元で囁いた。悟はにっこり笑って頷いた。
初めて聞く母親の歌は情感がこもっていた。今までの苦労を洗い流してしまったかのような、清々しい顔で色気たっぷりに歌ってみせた。
母親の歌が終わり、リコが父親から離れ母親を悟のところに導いた。そしてマイクを握り演歌を唄いだした。澄んだ声が響き渡った。あれは謙遜だったのか。情感があって上手いじゃないか。
悟は照れながら、典子の手を引いて身体をぴったり寄せ合って踊った。不思議な感覚だった。典子は新しく息子になってくれた悟の身体を強く抱きしめた。これからも宜しくね、アキのことお願いね、と耳元で囁いた。悟は典子の顔を見て微笑みながら頷いた。
アキは父親の手を取り踊った。父親と寄り添いながらダンスするなんて、とても考えられないことだった。何だか照れくさい感じがした。父も長女の顔をしげしげと見て、幸せになるんだよ、と小さな声で言った。アキは大きく頷いて笑った。
最後に再び悟が唄った。両親もアキもリコももう踊らなかった。ソファに深く身を沈め悟の歌声に酔いしれていた。
こうして、初めてづくしの花岡家のクリスマスイブは、盛大にそして余韻を残して幕を閉じた。
次の日の夕方、リコとアキは、ダイニングからリビングに掛けての壁に、イブのイベントの開始から終了までの、デジカメで撮った画像を張っていった。大、中、小のサイズの相当の枚数の画像が、所狭しとずらりと張り出された様は、まるで写真展のようだった。イベントの華やかさと楽しさが伝わってきて、家族全員がしばし見とれてしまうほどだった。
悟はふと思った。あの三組のカップルたちのイブはどんな具合だったのだろうか、記念すべき夜になったのだろうか、と……。
次の日空は曇天だった。悟はリコの養成講座を終えて横浜への帰路に着いた。 悟が社宅に帰り着いた時は二一時を過ぎていた。留守電の赤ランプが点滅していたが、心配しているだろうと思い、アキへの電話を優先した。
「無事着いたから、心配は机の引き出しの中にしまっていいよ」
「ほんとにお疲れ様でした。相当疲れたんじゃない? いつも、いろんなことをお願いしてごめんね」
アキは悟を気遣った。
「何言ってるんだよ。アキの為に、何か役に立ちたいといつも思ってるから、そんなこと気にしなくてもいいよ。それに、今出来ることは今しておかないと、後悔することになるからな」
「ありがとう。お父さんがね、悟は今度いつ来るのか確かめておけっ、ですってよ。もう、悟さんなしでは生きて行けない感じよ」
「あはは、それはオーバーだよ。でもそう言ってもらえる内が花だと思わなきゃな。そのうち振り向いてもくれなくて、ん? お前は誰だ? なんてことになりかねない」
「フフ、そんなことある訳ないじゃない。もう悟さんに、ぞっこんよ」
「あはは、参ったな、ま、嫌われるよりはいいか。嬉しいことだから、素直に喜ばなきゃいけないな」
「悟さん、リコとダンスしてる時に何か言った?」
「何かって?」
「ええ、リコが喜ぶようなこと言ったの?」
「ああ、頑張れよ、辛いことや悩みがあったら、いつでも相談するんだよ、と言ったような気がするけどなあ、それがどうかしたの?」
「リコがすっごく喜んでるの。これでリコは、一生安心して生きて行けるって」
「あはは、今年の冬はかなり寒くなりそうだな」
「えっ、どういうこと?」
「オーバーな話が多いからさ」
「まあ、呆れた駄洒落だこと、オーバーは古いわよ。それを言うならコートでしょう?」
「そういうことに、しとコート」
「ふふ、参ったわ」
「リコが一生安心して生きて行けるって言ったって、俺がいつまでも傍におれる訳ないし、リコに彼が出来るまでの間だよさ。彼が出来ればそんなのスッと忘れるさ。そんなもんだよ」
「それもそうね。今は頼れる人が、悟さんだけだからそう言うのよね、きっと」
「ところで、お父さん達何か言ってた?」
「あ、そうそう、そのことを先に言おうと思てたんだったわ」
「何かあったの?」
「ええ、悟さんが帰った後、夕食の時に、正月もダンスパーティーやろうかですって」
「へェー、よっぽど気に入ったんだ、イブのパーティーが」
「そうみたい。でも、言ってやったの、正月はやらないわよって」
「だよな、正月早々からは、ちょっとどうかなあ、あまり気が進まないなあ」
「でしょう? でも、悟さんの歌がよっぽど気に入ったみたいで、もう一度聞きたいですって」
「それだったら、カラオケボックスに行ったほうがいいんじゃない? そこで、ダンスも出来るんじゃない?」
「あら、そうだわね。思いつかなかった。……ほんとだ、そうしましょう。それがいいわ。……予約しといていい?」
「俺はいいけど、一応、お父さんに確認しておいたほうがいいと思うよ」
「分ったわ。そうする。……今度は餅つきね」
「そうだな。餅つきは随分久しぶりだなあ、杵を持ち上げられるかなあ」
「ふふ、返し手の手に落としたりして」
「それはないと思うけど、……今までは誰が餅つきしてたの?」
「若手の従業員さんに手伝って貰ってたの」
「あ、そっかあ、今年も手伝ってもらうの?」
「どうしたらいい?」
「どのくらいの量つくの?」
「会社の独身の社員さん達に食べて貰う分もつくから、結構多いわよ」
「あ、そうなんだ。じゃあ、俺一人じゃ無理だな。手伝って貰ったほうがいいかもな」
「そうねえ、ほんとは今年は、水入らずで餅つきしたかったけど、しょうがないわね。悟さん一人じゃ、……やっぱり、ちょっと無理よねェー」
「お父さんは? 餅つきしたことあるの?」
「見たことないわ。ずーっと社員さんがついていたから」
「そっかあ、でも今年は身内だけでやりたいから、お父さんも手伝ってって言ってみたら? 今のお父さんだったら、意外と乗ってくるかもよ」
「そうねえ、言ってみる。もしかしたらOKするかも」
「それとさあ、今、餅つき機っていうのがあるだろう? それは家にはないの?」
「餅つき機はないわね。どうして?」
「手伝っても貰わないで、出来れば身内だけで餅つきしたいと思ってさ。だから、こう言うと悪いんだけど、社員さん達には、その餅つき機でついた餅を、分けてあげてもいいんじゃないかなあと思って。……でも、やっぱりまずいか」
「あら、いい考えだわ。実は、もう杵でつく餅つきは、お父さんお母さんも歳をとって来てるし、もう止めて、餅つき機にしようかなあと思っていたところなの。
今はこの辺でも、杵で餅をつく所は随分少なくなって来ているし、餅つき機でついた餅も立派な餅ですもの。さすがね、いい考えだこと。それにしましょう。……早速明日にでも餅つき機を買ってくる。昔ながらの餅つきは、今年が最後になりそうね」
「社員さん達に悪くないかい? 毎年の行事みたいなもんだったんだろう?」
「ううん。大丈夫。ちゃんと言うから。お父さんからも言ってもらうわ。きっと、お父さんも喜んでくれると思う」
「お父さんが賛成してくれるといいけど」
「大丈夫よ。説得するから。それにワイワイガヤガヤ言いながら、身内だけで餅をつくって、結構楽しいことだから、分ってくれると思う」
「そっかあ、じゃあその線でイベントしようか。餅つきの段取りでお母さんやアキは大変だけど、年に一度だからな頑張るしかないな」
「あ、その点は大丈夫。もう手慣れたものよ。お母さんも長年やっているベテランだから全然心配なし。お任せあれ」
「餅つきのイベントには、別に何か考えているの?」
「えっ、何かって何? ただお餅をつくだけでしょう?」
「例えば、音楽を鳴らしながらつくとか、変装してお餅をつくとか」
「まあ、楽しそう。ふふ、悟さんが変装して腰を振り振りしながらお餅をつくの? 想像しただけでも面白そう。……悟さんの田舎ではそんなことしてるの?」
「あはは、する訳ないじゃん。したら面白いかもと思って。どうせなら、イブでやったみたいなことをすると、楽しいし面白いと思わない?」
「悟さんてどうして次々にアイディアが浮かぶの? 凄いわね」
「あは、凄くも何ともないよ。バリアがないだけだよ」
「あ、そうか。この前歩きながら話した、あれね?」
「そう。アキにはバリアがあっても、俺にはないからな。ただそれだけのことだよ」
「なるほど、今はっきりと分ったわ。納得したわ。心のバリアをフリーにね。なるほどそういうことなんだ」
「感心していないで、何か考えたら?」
「お餅つきながらダンスする?」
「あは、腰に餅をつけて踊ったら、くっついちゃって離れないなんて、あはは」
「あはは、面白~い。モチモチって感じ」
「ま、考えたら、結構面白いことが出来ると思うよ。リコのほうが、いいアイディアが浮かぶかも」
「そうね。二人で考えてみます。お父さんも乗せちゃえ」
「そうだな、お母さんもな。……ところで、お餅をつく場所は何処なの?」
「南側のテラスよ。あそこだと、深い屋根があるから、雨が降っても雪が降っても大丈夫だから」
「そうか、余計な心配だったな」
「……ああ、お餅をついたら今年も終わりねえー。……今年は悟さんに巡り合えたし、私の人生を変えてくれた年だったわ」
「俺も同じ気持ちだよ。アキみたいな素敵な女性と巡り合えるなんて、俺は実についてる男だな。これはまさに、奇跡以外の何物でもないな」
「そうね、奇跡よねェー。……運命だったのねェー」
「もしアキが、あのレトロ列車の中でのメモを記憶していないか、メモを渡す順番が違っていたら、二人が出会うことはまずなかったと思う」
「そうよね。メモを悟さんがまず書いて、それから私に回って来たから、私は記憶出来たのよね。……これが、もし私から君子に渡って、最後に悟さんに渡っていたら、どうなったのかしら? 悟さんが記憶したとか?」
「あはは、それはどうかなあ、俺はそんなに、記憶力はいい方じゃないからなあ」
「と言うことは、もしも逆回りだったら、悟さんと私は永遠に逢えなかったということよね?」
「そうなるよな。だからアキの凄さに驚いてるんだよ」
「一つ質問ですけど」
「うん? ……何?」
「私はメモが私に回ってきた時に、悟さんにもう一度、どうしても逢いたいと思って、これ幸いにと、メモを必死になって記憶したのね? 悟さんはどうだったの? 警官にメモしなさいと言われた段階では、私のことどう思ってたの? 私にもう一度逢いたいと思ってたの?」
「それは、アキが、俺に手弁当を渡してくれた瞬間から思ってたよ」
「あら、そうなの?」
「そして、何故別に手弁当を用意していたんだろうと、疑問に思いながら手弁当をいただいた。その味の美味しさに驚き、アキの理知的な美貌やスタイル、語り口や素振りなど全てが魅力的で、その上何故か、凄い優しさを感じたんだよ」
「……」
「……だから、その時から俺の心に、この人ともう一度逢えたらいいなとか、逢えないかなあとかいろいろな思いが巡って、連絡先を聞いておこうかと思ったんだけど、初めて会って失礼ではないかという思いが支配して、とうとう言い出せなかった、という訳なんだよなあ」
「……そうだったんだ、……嬉しいなあ。……別にもう一つの手弁当作ってて良かったなあ、……ほんと良かったなあ」
「アキはどうしてその段階で、もう一度俺に逢いたいって思ったの? 俺のどこが気に入ったの?」
「そうね、悟さんが起きてきて、下に降りようとした時私と目があったでしょう?」
「だったね。髪はバサバサだし、髭は剃ってないし最悪だったな」
「ふふ、それから暫らくして、食事をして警官が来ていろいろ質問されて、悟さんがいろいろ答えていた。その時かしらね、私の心に天から命令が下ったの。この男は、お前を幸せにする為にお前の前に現れたんだ。だから死んでも離すなってね」
「あは、そうなんだ。だから、アキは必死になってメモを記憶したんだ。その結果、天が俺達に奇跡をプレゼントしてくれたんだ」
「ええ、そうだわね、ほんとにそう思います」
「その意味では、この奇跡は”めもるの奇跡”と呼んだ方がいいかも知れないな。……うん。その呼び方がふさわしいな」
「めもるの奇跡? あら、いい響きね」
「俺にとってアキは、一生をかけて愛するに値する素晴らしい女性だと思ってるよ」
「ありがとう。とっても嬉しいわ。私も同じ気持ちよ。今の気持を一生持ち続けたいと思っています」
「長い人生いろんなことがあると思うけど、二人で頑張れば乗り越えられると思う。改めて宜しくな」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
「今度は二十九日の夜に行くから、お父さんにも言っておいたら?」
「はい。分りました。もう驚かすの止めるのね」
「うん、もういいだろう」
「そうね」
「じゃあ、今夜はこれで風邪引かないようにな。……愛してるよ」
「はい。悟さんもね。……愛しています。おやすみなさい」
留守電のボタンを押した。今日の日付で友人の中村純一郎からだった。いつでもいいから、携帯に連絡欲しいと言うことだった。時間が気になったが、携帯の番号をプッシュした。
「はい、今でした。……元気かな?」
「オォー、悟か、なんだ日曜日も仕事か? 相変わらず忙しそうだな。俺は元気だけが取り柄だからな」
「あはは、野暮用が多くてな。……何だか声が弾んでるぞ。いいことでもあったのか? 大きな仕事でも舞い込んできたのか?」
「仕事じゃないけど、大きな幸せが舞い込んできた」
「そうか。それは良かった。幸せの名は浅田って言うのか?」
「そうなんだよ。お前には今度ばかりはすっかり世話になってしまって、このお礼は必ずするからな」
「何を言うんだよ、当たり前のことをしたまでだよ、お礼なんていらないよ。……ということは、上手くいってるって思っていいのだな」
「上手くいくどころか、伴侶に出来ればと思ってるよ。いやあ最高の女性だよ。お前から宝くじの一等のあたり券を貰ったようなものだよ。いやァ、ありがとう。恩にきるよ」
「そうか、それは良かった。紹介し甲斐があったというものだよ。純一郎にふさわしいと思ってたからな、……うん。良かった、良かった」
「彼女が、悟のことをべた褒めしてたぜ。凄い人だって」
「止めてくれよ。純一郎の方がよっぽど凄いよ。これでも純一郎のことを、俺は尊敬してるし、友人として誇りに思ってるんだぜ」
「ありがとう。おれもお前みたいな優秀な友人を持って鼻が高いよ」
「で、伴侶に出来ればと思ってると言ったけど、彼女とはまだ結婚の確認はとれていないのか?」
「そうだ。まだ付き合い始めて間がないしな。だが、今その線でいろいろ進めているところだ。こうなると、一日でも早く結婚したくなったんだよ」
「変われば変わるもんだなあ、今仕事に乗りに乗ってるから、それどころじゃないと言ってたのは、何処のどいつだったっけ?」
「あはは、それを言うな。彼女が俺の気持を変えたんじゃないか。彼女を紹介してくれたのはお前だろ? 責任を持てよ」
「おいおい、俺のせいにするのかよ。ま、でも、お前がそういう気持ちになってくれたのは嬉しいよ」
「彼女も早くとは思ってくれてるみたいなんだけど、来年の五月以降でないとダメだっていうんだよな」
「どうしてだと聞かなかったのか?」
「もちろん聞いたさ。だけど今は言えないの一点張りなんだよ。何かあるのか?」
「そうか、やっぱり浅田は立派な女性だよ。うん、大したものだ」
「何だよ、ブツブツ言っていないで俺にも教えろよ。どうしてだ?」
「俺が今国際設計コンペの作業をしていて、浅田もスタッフの一員だってことは先日メールしたよな?」
「うんうん。読んだ」
「あのな、来年の四月の末が国際コンペの締め切りなんだよ。だから、それまではどんな親しい人であっても、他言無用にしてあるんだよ。彼女はその指示を守ってるんだよ。ほんとは言いたいのだろうけど、お前にまでも言わないところが素晴らしいところだろ? そう思わないか?」
「なるほど。そうだったのか。益々見直したよ。いやあ、なるほどなあ、うん、大した女性だ」
「何か、変な勘繰りをしてたんじゃないのか?」
「正直なところそうなんだよ。今付き合ってる男性がいて、それまでに別れて、身ぎれいにすることかなあと思ったりしてさ」
「あは、バカ。そんな状態の女性を俺が紹介する訳ないだろう? ったく」
「ほんとのことを聞いてほっとしたよ」
「あのな、惚れ過ぎて目の前のことが見えなくなったらおしまいだぞ。恋は盲目って言うからな。彼女にしてみたら、この世でお前一人だけが頼りなんだからな、しっかり頼んまっせ」
「あはは、言われてしまった。だけどその通りだな、いや、ありがとう。……一言でもお前にお礼を言いたかったんだよ。また連絡するから。ほんとにありがとう」
「いや、お礼なんていいよ。彼女を大事にしてくれよ。俺からも頼むわ」
「うん。分った。お前と彼女をがっかりさせるようなことは、死んでもしないからその点は安心してくれ」
「おォー、嬉しいこと言ってくれるじゃないか、ありがとう、何より嬉しいよ。……じゃあな、元気でな」
「お前もな。また電話する。……ありがとう」
パソコンを立ち上げ受信メールを開いた。六人のうちの誰かが、メールしてくれているのではないかというかすかな期待は裏切られた。連絡のないのは嬉しい便り、と割り切るよりないかと悟は一人苦笑いした。
二〇一一年もいよいよ押し迫ってきた。世間は一気に慌ただしい様相を呈した。二十八日は午前中に大掃除を済ませた。早川は会議室に各スタッフを集め、今年の全スタッフの労をねぎらった。
来年はいよいよコンペの最終章に向けてスパートしなければならない。その意識を強く持つよう全員に伝えた。そして早川はスタッフ一人一人に今年の反省と来年の抱負を述べるよう求めた。早川は各人の話す内容を、会議ノートに細かく書き綴っていった。全員の発言が終わり雑談になった。野田と高津の件は誰も口にしなかった。各人は思い思いに胸にしまい込んでしまったようである。
各人の前に蕎麦と寿司が配られて昼食となった。昼食が終わりテーブルが綺麗に片付けられた。最後に早川の業務終了の合図で、各スタッフは、早川に挨拶して三々五々と退社していった。浅田は、みんなが退社するのを待って、にっこりした顔で早川に近づいて来た。早川は浅田が一段と綺麗になったような感じがした。
「今年は、ほんとにいろいろとお世話になり、ありがとうございました。来年も宜しくお願い致します」
「こちらこそありがとう。楽しい一年だった様な気がする。来年も宜しくな。期待してるよ」
早川は、わざと浅田と中村純一郎との交際については触れなかった。
「はい。目一杯頑張ります。ご指導宜しくお願い致します」
「良いお年を迎えてください」
「ありがとうございます。リーダーも良いお年を」
「ありがとう。……あ、それと、ごめんだけど、田部井君と島田君には、君から宜しく伝えといてくれないかなあ」
「分りました。伝えておきます」
浅田はまだ語りたかったようであったが、深く頭を下げて会議室から出た。
早川は一人残り、二〇一一年という年を振り返った。言いにつけ悪いにつけ、いろいろなことがあり過ぎた年だった。だが、言えることは、二〇一一年という年が、早川にとって紛れもなく人生の大転換期だったということだろう。おそらく死ぬ間際まで、この年のことは脳裡に焼き付いて離れないだろうと思うことだった。
早川は郷田部長と岩田課長に挨拶して五階のC&Tのデスクに戻った。甲斐オーナーに電話し、お礼の挨拶をした。ホテルは年末年始が稼ぎ時である。オーナーのバタバタした足音が聞こえてきそうな、そんな電話先の感じだった。マネージャーの水島にも電話したが不在だった。電話に出た女性に、宜しく伝えてくれと依頼して電話を切った。関東建設日報の内村にも電話したが不在だった。同じように電話に出た女性に、よろしく伝えてくれと依頼して電話を切った。電算課の吉田主任には世話になったと礼を述べた。年明けの食事を約束した。吉田はたいそう喜んでくれた。
早川は会社を出て、ジャズ喫茶コルトレーンに足を運んだ。ドアを開けた途端、耳につんざくような音が飛び込んできた。ここに来るのは随分久しぶりである。奥の席に腰を下ろしコーヒーを注文した。この席は忘れもしない。亜希子と初めて会った日に腰を下ろした同じ席である。目の前に座っていた亜希子の目から一滴の涙が光って落ちたのを、昨日のことのように思い出した。
コーヒーを運んでくれた女店員の顔が違っていた。多分、前の店員は辞めてしまったのだと思った。店員にテイクファイブとカルフォルニア・シャワーをリクエストした。
目を閉じると、亜希子とのことが走馬灯のように浮かんでは消え、消えては浮かんだ。今この場所で、運命の出会いが始まり、二人の共有の時を刻み始めたのである。早川は、リクエストした二曲の演奏が終わるのを待って店を後にした。
社宅に帰り弟の謙二に電話した。
「元気にしてるか?」
「オォー、兄貴か。元気だよ、兄貴は?」
「元気だ、いつ帰るんだ?」
「明日の夕方の便で帰る。明けて三日に神戸に戻る予定でいる」
「そうか。母さんによろしくな。姉さんにもな。俺の結婚の話もそれとなく話しといてくれるか?」
「分った。そうする。兄貴はやっぱり長野か?」
「そういうことになって、俺も明日の晩に長野に行くことになってる」
「そっかあ。長野は寒いんだろ?」
「そうだな、大陸性の土地だから寒いところだな。雪が良く降るみたいだな」
「そうか、ま、気をつけてな」
「ところで、年明けてからの、例の東京での新年の挨拶の日程決まったのか?」
「ああ、ごめん。連絡が遅くなったな。決まった。やっぱり十日の日になった」
「その日の予定はそれだけか?」
「いや、あと何件か用事があるから、全部が終わるのは夕方になると思う。だから、夕方の新幹線で神戸に戻る予定を立ているんだけど」
「そうか。物は相談だが、俺の彼女、ほらこの前話したろ? 結婚する相手」
「うんうん。聞いた。それがどうかしたの?」
「その実家の父親が、是非謙二に会いたいと言っているんだよ」
「えっ、俺に? どうしてまた」
「何かのついでに、ほら謙二が、これからも長い付き合いをするところだから、挨拶に行こうかとか言ってたろ?」
「うん。言った」
「それを俺が言ったら、是非連れて来てくれって言うんだよ。だから一日でいいんだが、七、八、九の三連休中にでも時間取れないかなあ」
「九日に東京に一泊して、十日に用事を済ませて帰る予定だから、その前だったらいいけどな」
「そうか、じゃあさ、八日の日に神戸をたって東京に一泊して、九日の朝、長野駅か篠ノ井駅まで来れないかなあ?」
「兄貴は篠ノ井にいるんだな? そして、俺は家族に会ったら、夕方の便で東京に戻ればいいのだな?」
「そういうことだな。篠ノ井駅まで迎えに行くから、そうしてくれないかなあ。九日の夕方には俺も横浜に帰らなければならないから、一緒に東京に戻ればいいだろ?」
「あ、そうか。それはいいな。そうしようか。……分った。それに決めよう。……九日の朝、篠ノ井駅に着く前に兄貴に到着時刻を電話する。それでいい?」
「よっしゃ。悪いけどそうしてくれ。頼む」
「ちょっと緊張するかもしれないけど、兄貴が傍にいる訳だから、大丈夫だな?」
「その点は大丈夫だ。なかなかいい家族だぜ。お前もきっと気に入ってくれると思う」
「そうか、ま、楽しみでもあるな。親戚になる訳だからな」
「だな。じゃあ、謙二気をつけてな、いい年を迎えろよ」
「うん。兄貴もな、……じゃあ」
弟との電話を切り今度は田舎の母親と姉夫婦に電話した。年末の挨拶をした。今年は帰れない旨の話をして切った。それから、部屋の片付けと掃除をした。狭い部屋だし、普段からこまめに掃除しているから、さほど時間は掛らなかった。
二十九日の朝、パソコンを立ち上げ受信メールを開いた。関東建設日報の内村と、ホテルマネージャーの水島からメールが届いていた。早川が電話した時、留守だったことの詫びと年末の挨拶だった。二人とも共通して、素晴らしい女性を紹介していただいてありがとう、と喜んでいる旨の文面であった。
内村からは例の件は順調に進んでいます。来春には第一報が世間を驚かすことになるかもしれませんとあった。早川は何だか遠い昔のことみたいに思えたが、会社を食い物にした奴らに対する復讐心が消えた訳ではない。内村による結果は、あくまで第一弾であり、第二弾はこれからである。内村のメール文を読み、触発されたように強い思いがメラメラと燃えあがった。そうなのだ、コンペで、相手を徹底的に叩きのめすのだ。
その日の夕方悟は東京を出た。篠ノ井駅でアキの運転する車に乗り、アキの実家に到着した時は二十一時を回っていた。空は雪模様である。明日も多分雪が降るかもしれない。寒い夜だった。門の前の門松は既に飾り付けられていた。ふと見ると、会社の入り口の門松が外灯に照らされていた。多分、専門家のこしらえた門松であろうと思われた。
アキの父親誠一郎は、悟が来てくれたことをたいそう喜んだ。時間が遅かったこともあり、両親は早々と部屋に引き下がった。リコは嬉しさを全身に表わし、悟の腕にしがみつき甘えてきた。アキの作ってくれた夕食は、いつものように格別な美味しさだった。既におせち料理の準備中のようである。香ばしい匂いが部屋中に充満していた。
リコも含めた三人は、ソファに腰を下ろした。ダイニングからリビングにかけての壁には、まだイブの写真が貼られたままだった。
「写真はいつはずすの?」
悟が尋ねた。
「悟さんが帰ったあと外そうとしたら、お父さんがそのままにしておきなさいって言うの」
アキが答えた。
「ここにはお客様は来ないの?」
「ほとんど会社の応接間を使うから、滅多に見えないわね」
「そうか、じゃあ別の気にすることないのか」
「たとえお客様が見えても別にいいじゃないか、ってお父さんは言うの。これまでのお父さんだったら、あり得ないことよね」
「余程写真が気に入ってるんだな、お父さんは」
「そうみたいよ。時々写真の前に立って、じーっと見つめてるの。そして、ニヤッと笑ったりするの」
「あはは、思い出し笑いか」
「こんなこと初めてのことだから、余韻を楽しんでいるんじゃないかしら」
「そうだね。きっとそうだよ。これに、明日の餅つきの写真とか、お正月の写真なんかを足していったら、もっといいかもな」
「もう貼る場所が少ししか残ってないから、どうしよう」
リコが壁を見回しながら言った。
「今貼っている写真で、いいのばかりを残して間引きしたら?」
「あ、そうね、じゃあ、そうします。……でも、どの写真を残そうかしら」
「簡単だよ。投票して、ランキングで決めるんだよ」
悟が提案した。
「ランキング? お兄さんそれってどうするの? 教えて」
リコが悟の顔を見た。
「まず、写真に番号をつける。で、表を作って、残したいと思う番号に丸を付けてもらう。五人でやって、丸の数の多い写真を残す。……どう?」
「なるほど、お兄さんって、どうしてそんなに簡単にアイディアが出るの?」
「こんなの、アイディアのうちには入らないだろう。誰だって思いつくことだよ。……なあ、アキ」
「ええ、考えたら思い浮かぶけど、間髪をいれずに出てくるところが凄いと思うわ。……ね、リコ」
「そうなの、そこなの。こんなのアイディアのうちには入らない? もう悔しい」
「あはは、経験の差だな。似たようなことを経験すると、それが引き金になって、さっと思い浮かぶだけだよ」
「ねェー、お兄さんの脳みそ少し分けて頂戴」
リコが笑いながらふざけて言った。
「俺の脳みそ? あー、いいよ。他でもないリコだから、自分の好きなだけ持っていきなさい」
「えっ? 嘘っ、出来る訳ないでしょう? どうやったらいいの?」
「あはは、ったくもう、……アキ、何か言ってあげたら?」
悟は大笑いしながらアキに振った。
「リコ、そんなの出来る訳ないでしょう? 冗談よそんなことも分らないの?」
「残念でした、そんなこと分ってますーだ。もしかしたら、お兄さんのことだから、とんでもないことを言いだすのじゃないかと、期待しただけでーす。イーだ」
リコが負けじと返してきた。悟はリコの無邪気で明るい性格が好きだった。
「明日の段取りはもう出来てるの?」
「ええ、スタンバイOKよ」
「何時からするの?」
「九時頃からになると思うわ」
「そう、で、何か考えた?」
「はい。まず明日の餅つきは、身内だけですることになりました。お父さんも大賛成してくれました」
「ほー、それは良かったね。相談してみるもんだな」
「それと、お父さんも餅つきすると言ってた。凄く張り切っていたわよ」
「そうか、それは心強いなあ、で、餅つき機は買ってきたの?」
「ええ、来年からのことも考えて、少し大きめのを買ってきました」
「なるほど。これで準備万端整った訳だ。返し手は誰がやるの?」
悟の問いにアキが自分の顔を人差し指で指した。
「えっ、アキがやるの? 大丈夫? 出来るの?」
「ふふ、私を甘くみたらいけませんよ。明日、天下一品の腕を披露するわ。見てらっしゃい」
「へェー、これは驚いた。ほんとかよ。リコほんと?」
「ええ、お姉さん大した腕よ、社員さんたちもびっくりするくらいの腕なんだから」
「いつ頃からやり始めたの?」
「高校生の時、見よう見まねでやったら、結構面白くて、はまってしまったの」
「そうなんだ、じゃあ、もう十年もやってるんだ。知らなかった。明日が楽しみだな」
「ね、お兄さん。明日の餅つきのイベントですけど、面白くする為にこんな案どうかしら」
リコが身を乗り出して説明しようとした。
「おーー、リコのプロデュースした餅つき大会が始まるかな?」
「ふふ、そんな大袈裟じゃなくて、面白おかしければいいかなと思って」
「そうだな。……で、どんな感じ?」
「簡単。音楽とコスプレによる仮装イベント」
悟はアキの顔を見た。この前の晩、電話で話したのと全然一緒じゃないか、と言いたげであった。
「リコといろいろ頭をひねってみたけど、思い浮かばないの。だから結局、悟さんが言ったのと同じになったの」
このことはリコには知らされていなかった。
「ええーっ、じゃあ、このアイディアはお兄さんも提案してたの? 姉さん何で教えてくれなかったの?」
「リコから新しい案が出てこないかなと思って黙ってたの。たまたま、悟さんと同じになったというだけのことよ」
「俺の脳みそがリコに盗られたということだ」
「あ、あ、ほんとだ。リコの脳のレベルが、お兄さんと同じレベルになったの?」
「まあ、この子ったらすぐ調子に乗るんだから。そんなの、逆立ちしたってなれっこないわよ」
「はい、はい。分ってますとも。分ってますとも。……あれっ、どこまでいったっけ。……あ、そうそう、そこでね、問題は仮装なんだけど」
「やっと本論に戻った」
「昨日、レンタル屋に行って全部用意しました。一人一人縫いぐるみを着ます。サル、うさぎ、くま、ねこ、パンダの五匹。お兄さんがサルね、お父さんがクマ、お母さんがネコ、アキ姉さんがウサギ、私がパンダ」
「ほーいいね。面白いね」
「まだあるの。全員仮面をかぶるの。お兄さんがヒョットコ、お父さんが般若、お母さんがオカメ、アキ姉さんが赤鬼、私が青鬼」
「あははは、面白い。……じゃあ、俺はサルの縫いぐるみを着て、ヒョットコの面をかぶって餅つきするんだな? あはは、面白い。いいねェー。リコ、グッドアイディアだな」
アキは今にも吹き出しそうな顔をしていたが、我慢していた。
「エヘン、いいでしょう? お父さんなんか、クマが般若面してるのよ、……どう?」
アキがとうとう吹き出してしまった。お腹を抱えて笑った。
「うん、うん。面白い。面白い。かぶり物は? ないの?」
「ありません。全員、白いタオルを頭からすっぽり被ります」
「なるほど。いいね。……ん? アキはさっきから笑ってるけど。……アキは? ウサギが赤鬼の面?」
「あはは、もう止めてっ、おなかが痛い」
アキがソファに倒れ込んでしまった。
「音楽は?」
「ええ、どうしようかと悩んだの。お姉さんと出した結論は、……お兄さん何だと思う? 当ててみて」
「俺だろ? サルの縫いぐるみを着て、ひょっとこの面をかぶって餅つきする時の音楽かあ、そうだなあ何だろうか。何か魂胆がありそうな気がするんだよなあ」
「ふふ、さて何でしょうか、お楽しみ」
「サルだろう? 猿蟹合戦? うーん、思い浮かばない」
「じゃあ、発表します。お猿のかごや、おてもやん、いたずらおさるのピッチンパッチンの三曲をランダムに流します」
「なるほど、腰を振り振り、曲に乗りながらペッタンペッタンかあ、なんだか、つき損なってしまいそうだなあ」
アキがまた悟の姿を想像して笑い転げた。
「リコ、もうだめお医者さん呼んでっ」
「はい。ちょっと待って」
と言って、リコが電話の所まで走り出したからたまらない。アキと悟が目を合わせて、テーブルを叩いて笑い転げた。
「お父さんは? ……ん? お父さんは、クマが般若面を被って餅つき? 何だか怖いな。曲は何なの?」
「森のくまさん、鬼のパンツ、だんご三兄弟、ねこふんじゃった。それに長野県の民謡、熊ひき唄のほか数曲を用意しました」
「こりゃまた可愛いね、鬼のパンツなんて曲があるんだ。ねこふんじゃったは、お母さんがオカメの面をかぶったネコだから、クマの般若面のお父さんが杵を担いで、オカメのお母さんを踏んじゃった? 想像出来る?」
これにはリコも大笑いした。
「悟さん、もうダメッ、あははは、想像しただけで可笑しい」
三人はまたも笑い転げてしまった。
「ねっ? こんな感じで明日はいいでしょう?」
「いいよ。いいよ。最高だよ。劇団アリの名プロデューサーだ」
「劇団アリ?」
「そう。アキとリコの劇団」
「こんな餅つき、全国初めてじゃないかなあ。ギネス級餅つきね」
アキが笑いながら言った。
「多分、そうだろうな、テレビ局呼ぼうか? 受けるぜー、高視聴率間違いなしだな」
「ほんとね、リコが、はいスタート、はいカットとか言って監督するのね」
「えっ、私が監督? いいですねェー。……どこのテレビ局なの?」
「アサリテレビ局」
「アサリテレビ局?」
「アキとサトルとリコのテレビ局」
「何だか、味噌汁ばっかり放映しているテレビ局みたいね」
アキが笑いを誘った。
「ウォー、決まったね。じゃあ、明日の本番まで休憩とします」
リコが嬉しそうな顔で声を張り上げた。
次の日は、晴れてはいたが時々雪が降った。全員、朝からてんてこ舞いだった。八時頃から音楽が流れだした。五人とも縫いぐるみを着て仮面をかぶった。お互いの姿恰好を見て笑い転げてしまった。前日から用意されていたもち米を蒸し、臼・杵の準備が整っていった。いよいよ、餅つきが開始された。
音楽が流れ、サルのぬいぐるみを着てヒョットコの面をかぶった悟が、杵を持ってつき始めた。ウサギのぬいぐるみを着た赤鬼の面のアキが、返し手の担当である。だが、実際には餅つきにならなかった。
実際にやってみると、視界が遮られ思うようにつけない。ウサギの赤鬼の返し手と、サルのヒョットコのつき手の危なっかしいしぐさが可笑しかった。アキは悟を見て、悟はアキを見て吹き出してしまう有様だった。その二人を見て、両親もリコも大笑いし手を叩いて面白がった。デジカメのシャッター音がやたら鳴った。
リコが曲をおてもやんに変えた。途端に、サルのヒョットコ面が杵を持って踊りだした。腰を振り、足をばたつかせ、首を上下にしながら餅をつき出した。赤鬼も青鬼もキャーキャー言いながら笑い転げた。もう餅つきどころではない、完全なショーである。
……こうして、一臼つくのに相当な時間は掛ったが、なんとかつき終えた。
クマの縫いぐるみを着て、般若の面を被った父親が登場してきた。
「クマさん、怖い」
返し手のウサギの赤鬼が大きな声を上げた。クマの般若が、ウァオーと言って赤鬼に襲い掛かるしぐさをした。そこにネコの縫いぐるみにオカメの面を被った母親が、臼に蒸したもち米を入れた。母親も完全に乗っている。腰を左右に揺らしながら、オカメは、臼を中心に両方に待機している赤鬼と般若を見た。そのしぐさに、アキが笑い崩れた。父親も余りの可笑しさに、ちょっとタンマと言ってその場から離れて、身体を上下させて笑い転げた。パンダの青鬼のリコは唖然としていた。
ようやく落ち着きを取り戻して、ペッタンペッタンと音がし出した。だが、やはり実際にやってみると、視界が遮られ思うようにつけない。そこにパンダの青鬼がまた意地悪をした。急に音楽をねこふんじゃったに切り替えた。それを聞いたクマの般若は、何を思ったか、つくのを止めて、杵を肩に担ぎ地面を片足で踏み始めた。そして、ネコのオカメを四つん這いにさせ、背中に片足を乗せて音楽に合わせて身体をゆすった。四つん這いのネコのオカメが、顔を斜めにしてクマの般若を見ながらニャーにするの? ときたから、ヒョットコも赤鬼も青鬼も、飛び上がったり地面を足で蹴ったりしながら手を叩き面白がった。もうハチャメチャになってきた。
乗ってきたら止まらないのが親父である。
音楽に合わせて踊る座る走り出すの大騒ぎになった。クマの般若が、ネコのオカメを抱いて面と面をくっつけてキスをした。面と面がくっつくたびに、カチャッカチャッと音がした。そこまでやるか? 空いた口が塞がらない。
クマの般若がついた後、今度は般若とヒョットコの二人でついた。さすがに、被っていた面を半分頭の方に上げ、視界を良くしてからついた。返し手はウサギの赤鬼である。長野県の民謡に乗せて、三匹は掛け声を発しながらついていった。返し手のウサギの赤鬼の手さばきは、実に見事なものだった。変わりばんこに落ちてくる杵の間をぬって、巧みに餅を返していった。餅はあっという間につき終った。
時間はたっぷり掛ったが、面白可笑しさもたっぷり味わった。餅を予定通りつき終え、普通の白い丸餅のほかに草餅、あんころ餅、のし餅や大福餅などが次々と作られた。終わる頃にはみんな身体がヘナヘナになってしまった。だが、とても心地よい疲れである。
仮面をはがし、頭からすっぽり被っていたタオルをとり、縫いぐるみを脱いだ。顔面から汗がしたたり落ちてきた。この寒空にも拘らず、五人とも全身が汗びっしょりになっていた。
着替えをして、作りたての餅を口に入れ、お茶を飲みながらみんなで談笑した。五匹の姿恰好を思い出しながら終始笑いの渦が絶えなかった。もちろん、こんな餅つきは、全員が初めての体験である。病み付きになりそうな餅つきイベントは、こうして成功裡に終了した。
その後に、母親とアキとリコは、買ってきたばかりの餅つき機の説明書を見ながら、主に大小の鏡餅や飾り餅、社員用の餅などを作った。
二〇一一年という記念の年が幕を下ろした。
元旦の日は快晴だった。悟は亜希子と真理子の着物姿を初めて見た。何とも晴れやかで艶やかで、眩しいくらいの美しさである。これでは紋付き袴を着ないと不釣合いである。だが、悟は普段着しか持ち合わせていなかった。ま、仕方のないことである。両親を含めて五人で善光寺に初詣にいった。大変な混みようだった。
「今日のアキはまた一段と綺麗だな。何だか別人みたいだな」
「ふふ、新しい恋人が出来たみたい?」
「あはは、それはないけど、うん、実に美しい。……余は満足じゃぞ、姫」
「フフ、また始まった」
「いつもの年も家族全員で初詣しているの?」
悟はアキに尋ねた。
「ううん、いつもはリコと二人だけの初詣よ。だから、家族全員で初詣するのは今年が初めてね」
「そうなんだ」
「きっと、悟さんのこともあるし、今年にかける何か意気込みがあるんじゃないのかしら」
「そうだな、新たな気分で一年を乗り切ろう、と思っているんだろうな。それと、思うんだけど」
「ええ」
「やはり、家族を大切にしていこう、という気持ちの表れみたいな気もするけどな」
「そうね。それもあるかもしれないわね」
「ここのところのお父さんは、まるで別人だからなあ。きっと、今の年になって考えることがあるんだろうな」
「そう思うわ。悟さんが私をまるで変えてしまったと同じように、家族全員の全てを変えてしまったような気がするわ。その証拠に、お父さんお母さんのことで、知らなかったことが次々と分かって来て、毎日のように新鮮な驚きを発見してるんですもの」
「俺がアキを変えた? どういう具合に?」
「あら、言わせたいの? 時間がいくらあっても足りないわよ」
「あはは、じゃあ聞くのは止めようか。でも聞きたいなあ」
「そう?」
「いや、今はいい。今夜ベッドの中で聞くから」
悟はアキの耳元で囁いた。
「まあ、あきれた。初詣に来てそんなこと言って」
アキは満更でもない顔をした。
「それにしても、リコも着物が似合うねぇ」
リコは両親と一緒に歩いていた。時々、悟とアキの方を振り返っていた。
「そうなの。私より似合ってるわね。悔しいけどこれだけは負けるわ」
「来年の初詣は、リコの隣に彼氏がいるといいな」
「そうね、そうあって欲しいわ」
「大丈夫だよ。リコ程の女性は、ほっといても彼氏は出来るさ」
「でも、この前の彼のことで少々ショック受けていたから、当分はその気になれないのじゃないかしら。……でも、最近のリコは、少ーし変わってきたみたいな感じはするけど」
「変わったというと?」
「ええ、悟さんが家に来るようになってから、何だかそんな気がするの。何となくだけど」
「そうか、俺とアキが、リコの前で当てつけているってこと?」
「私達にはそんな気持ちはなくても、リコにはそういう風に映るのかもね」
「アキと同じように、リコも年頃の女の子だから、その辺は敏感なのかもな」
「私の考えでは、悟さんが原因してるような気がするの」
「えっ、俺が? どうして」
「前の彼と比べたら、比較するのが馬鹿らしいくらい悟さんて魅力のある人だから、男性を見る目が相当変わったと思うの」
「どんな風に?」
「あの子は、根はしっかりしているから、一時の感情ではなく、遠い将来を見据えて男性を見なければ、と思うようになったと思うわ」
「なるほど。それと俺とどう関係があるの?」
「悟さんの講座をうけたり、イブとか餅つきとかの新しい体験をして、目が覚めたというか何かに触発されたというか、自分自身で今まで気づかなかった人間としての、何か新しいものを発見したような気がするの。特に、悟さんの人間味あふれるスケールの大きい考え方に、すっかり魅了されてる所があるみたい」
「そうか。そのことはとてもいいことだけど、その為に、男性を見る目が変わってしまったということだな?」
「そう思います。ほんととてもいいことだと思います。最近のリコは以前と比べて見違えるぐらいになったし、その分、女のとしての魅力も増したと思うけど、人生に対する意欲がまるで違ってきたわね」
「そっかあ、いいことだな。やっぱり、リコにはそれだけの能力があったってことだな。うん、大した奴だ」
「最近は一途一心の言葉を良く口に出しているし、もう、完全に悟さんのクローンの誕生よ」
「あはは、クローンはいいね。俺が女になったら、リコみたいになるんだ。悪くないねぇー」
「ふふ、女装してみたら?」
「あはは、俺にはそんな趣味はないよ。でも、リコについては楽しみだね。大いに期待が持てそうだな」
「そう思います。悟さんのお蔭ね」
「何言ってるんだよ。リコの元々の能力が花開こうとしているだけで、俺は何にもしていないよ」
「でも、人間気づきって大事でしょう? 悟さんはリコに気づきを教えてくれたのよ。これって、誰にでも出来ることじゃないわよ。悟さんだから出来たことだと思うわ」
「そう言ってくれると嬉しいけど、俺にしたら、アキの妹だし長い人生を、しっかり歩んで欲しいという思いで一杯だからな」
「ほんとにありがたいわ。後はリコに理想の男性が見つかることよね」
「だな。なーに、大丈夫だよ。リコの心をドキドキさせるような男性はきっと現れるよ。心配ないよ」
「そうね。そう願うしかないわね」
両親とリコの参拝が終わり、悟たちの番になった。お賽銭を放り投げて、悟とアキは手を合わせて参拝した。今年に賭ける特別な思いが交差した。
「何か祈願したの」
悟はアキに尋ねた。
「ふふ、ひ・み・つ。……悟さんは?」
「欲張って二つも宣言しちゃった。……俺も、ひ・み・つ、だな」
「あら、宣言? そう言われると聞きたくなるわ。一つだけでも教えて?」
「教えてもいいけど、今は教えない」
「ケチ、意地悪」
「リコは何を祈願したのかなあ」
「賭ける?」
「あはは、正月早々から賭けかよ。うん、いいよ、何を賭けるの?」
「お餅一個とコーヒー」
「おーー、いいねえー。正月らしいねェー。じゃあ、アキからだな」
「リコはねェー、早く彼が見つかりますようにって祈願したと思う。悟さんは?」
「そうだなあ、俺もそう思ったんだけど、先を越されてしまったから、早く英会話がマスター出来ますように、……かな?」
「そうね、それもあるわね。なるほど。でも、リコも秘密にするんじゃないかなあ」
「あ、そうかあ、だよな、その時は引き分けだな」
「引き分けの時は? どうするの?」
「お互い負けていない訳だから、何にも無しだろ?」
「そっかあ、つまらないなあ」
その時、リコがニコニコしながら近づいて来て言った。
「お兄さんたち、おみくじ引いた?」
「引いたの?」
「ええ、大吉だったわよ、嬉しい」
「そう、良かったわね。悟さん引く?」
アキが悟の顔を見た。
「俺はそんなのあまり興味ないんだよな」
「どうして?」
「うん。なんだなあ、全部、大吉か吉しか入ってないような気がするんだよ」
「どうしてそう思うの?」
「だって、お寺だって商売だろ? 大凶なんて入れないと思うよ。いい気分で帰って貰いたいものなあ。そうすれば、また来年も来てくれてお賽銭がいただける、とまあこういう風に考えるんだよな」
「なるほど。そういう考え方もあるのね」
アキが感心しているところにリコが口を挟んだ。
「二人とも何よ、夢も希望もないような言い方して、お遊びでしょ? こんなの」
「リコは大吉を引いたからそう言えるんだよ。もし大凶だったら同じことが言える?」
「……あら、そうだわね。言えないかも」
「ま、いろいろな考え方があって、もちろんいいんだけど、大凶を引いたら、そのことが一年間気になるなんて馬鹿馬鹿しいと思わないかい?」
「確かにそうね。そう思わせたくないから、せめて吉のついたおみくじだけを置いてあるってことだ?」
「必ずしもそうとばかりは思わないけど、あり得るって話をしたいだけ。だから、俺はあまり興味がないし、お金を出してまで引きたくないって訳」
「なるほど、大吉を引いて事故死したなんてあり得る話だものねぇー」
「そこまで極端じゃないにしても、充分あり得ることだよね。そんな他力本願にすがるよりも、自分が大吉だと思えばいい訳だよ」
「なるほど。自分は毎年大吉なんだ、そうなるように、一途一心で頑張るんだっということね」
リコが頷きながら呟いた。
「リコ、新年早々からいいこと言うじゃないか? 俺が言いたいことをズバリ言ってくれたね」
「ヘヘヘ、お兄さんに褒められちゃった。おだてられてるって分ってても何だか嬉しいわね」
「おだてられついでに聞きたいんだけど、お寺さんには何か祈願したの?」
悟はニヤニヤしながらアキを見た。アキは悟の誘導尋問の上手さに驚いた。これなら、もしかしたらリコは答えるかもしれない。
「えっ、それは秘密よ。人に言ったら、ご利益がなくなるって言うでしょう?」
ああ、やっぱりそうなるか。作戦は失敗だ。
「それじゃあさ、リコは、何でおみくじが大吉って俺たちに教えたんだい? 人に話したらご利益がなくなるって、じゃあ大吉じゃないってことになるってことかい? それとも、おみくじと参拝は意味が違うと言いたいのかな?」
これにはアキも驚いた。なるほど、この男したたかもいいとこだな。さあ、リコは何と答える。賭けが掛ってるんだぞ、答えろ。
「あら、ほんとだ。私ってバカねえー、そうね、こうなったら言っちゃおうかしらね。その代り、お兄さんたちも教えてね」
なるほど、そう来たか。リコも負けてはいないな。さあ、悟はどう応えるのだ。
「そう来たかあ、さっきから姉さんと同じような話してて、お互いに秘密にしたんだよな」
「やっぱりそうなんだ、じゃあ、私も話さない。……残念でした」
あーあ、やっぱり駄目か。残念。賭けは引き分けだ。だが、悟は諦めなかった。
「人に話しちゃいけないっていう時の人って、他人のことじゃないの? 身内だったら、仏さんもニコッと笑って、許してくれるんじゃないかなあ」
何たるしたたかさ、一歩も引かないど根性は見上げたものだ。
「なるほど、他人には話すなってことね。それって言えてるかも」
「じゃあ、話してくれる?」
「ええ、お兄さんたちもね」
「おっと、その前に聞きたいんだけど、どういう気持ちでお参りしてるの? 何々を叶えてください、ってお願いしてるの?」
「えっ、お参りってそうでしょう? 今年もいい年でありますようにってお願いしたり、元気で暮らせるようにお願いしますって祈願するんでしょう? 違うの?」
「ちょっと教えてくれるかなあ、此処善光寺を訪れる人は、一年間に何人くらいなの?」
「さあ、はっきりは分からないけど、七年に一度の御開帳の時は、二か月間で六百万人くらいの人が参拝するそうよ」
アキが思い出すような様子で答えた。
「へェー、二か月間で六百万人? ほんとかよ。凄いなあ」
「それがどうしたの?」
「アキがもし仏様だとしてだよ、それだけ多くの人の願いを聞き届けられると思う?」
「とても無理だわね。でも、仏様だったら出来るんじゃないの? 不思議な力をお持ちなんでしょう? 仏様って」
「俺は絶対無理だと思う。だから、祈願するのは無駄だと思う」
「祈願しないでどうするの?」
「そんな他力本願みたいなことじゃなくて、自ら宣言するのさ。誓いを立てるのさ。私は、今年これこれを成し遂げますから、温かく見守ってください、とまあこういう感じだな。それだったら、仏様も見守るだけだから楽だろ?」
「じゃあ、悟さんは宣言してきたの?」
「そうだよ。他力本願の祈願は俺は嫌だな」
「そうなんだ。なるほどねェー、考え方が根本的に違うわね」
「仏さんに、宣言とか誓いを立てる訳だから、ご利益も何もないよな、だから、人様にも言おうと思えば言えるよな」
「お兄さんってやっぱりどこか違う。それだと、自分を奮い立たせることが出来るわね」
「そこが狙いなんだよな。人間って弱いから、仏や神に誓うことで、宣言したことを達成するために、自分自身を奮い立たせるんだよ」
「とてもいい考えだわ。もう一度戻って宣言してこようかしら」
「あはは、よしなよ。……それより何を祈願したの?」
「お兄さんの話聞いたら、なんだか空しくなったわ。たしかに他力本願だもの」
「あはは、で、何をお願いしたの? 当ててみようか?」
悟はアキの顔を見て笑った。賭けに勝つかどうか今はっきりする。
「私が何を祈願したか言ってみて。お姉さんから」
リコはアキの方を振り向いて言った。
「そうね、お兄さんみたいな素敵な彼が出来ますように」
「ええ、最初それを思ったんだけど、なんだか今はいいや、みたいな気持ちになって止めたの。お兄さんは?」
悟は賭けに勝ったと思った。
「英会話を早くマスター出来ますように」
「それも考えたんですけど、仏様にお願いしなくても出来ると思って止めたの」
悟もアキもガクッと膝を落とした。引き分けた。
「じゃあ、何を祈願したのよ」
アキは、賭けが引き分けに終わったことが面白くなかった。
「ええ、お兄さんもアキ姉さんも、もうすぐ遠くに行っちゃうでしょう? そうしたら、リコはとっても淋しくなるから、たまでいいから、お兄さんとアキ姉さんが、篠ノ井に遊びに来てくれるようにお願いしたの」
リコは今にも泣きだしそうになった。アキは、思わずリコの顔をじっと見つめた。そして、リコに駆け寄って強く抱きすくめた。何といじらしい妹なのだ。悟も思わず貰い泣きするところだった。
「……そうだったの。もうリコの願いが通じたわよ。出来るだけそうする。ね、悟さん?」
「だな。リコ心配ないよ。リコがうるさいと思うくらいに来てあげるから大丈夫だよ」
悟はリコに近ずき肩を抱いてやった。
「ほんと? 嬉しい、……絶対だよ。嘘ついちゃだめだからね」
リコの顔がパッと明るくなった。
「ああ、せっかくの晴れ着姿が台無しになるところだったな」
悟がアキを見て笑った。アキも思わずニコッとした。
「それで、お姉さんは何とお願いしたの」
とうとう来たか、もう成行き上秘密に出来なくなった。何だか、悟さんに上手くしてやられたような気がしないでもない。
「私? 私はね、……ちょっと言いにくいなあ。……やっぱ、……言わなきゃダメ?」
「何よ、お姉さん、約束でしょう?」
「そう、じゃあ、思い切って言うわね。……あのね、……あのね、……早く赤ちゃんが出来ますようにってお願いしたの」
「ヤッター、ほら、お兄さん、両手を高く上げて丸を作るのっ」
リコの大きな声に、悟は思わずリコの言う通りにした。何が始まったのだと、周りの人たちがキョロキョロ見ながら通り過ぎた。
「リコッ、ほら、恥ずかしいじゃない」
アキはいかにも恥ずかしそうな顔をした。
「お兄さんは何をお願いしたの?」
「俺は、お願いじゃなくて、さっき言ったように、宣言して誓ったんだよ」
「あ、そっかあ何を宣言したの?」
「二つ宣言した。今の仕事、……そうか、リコには話したことなかったかもしれないな、……今、国際設計コンペの参加作品の作業中なんだけど、その国際設計コンペで一位、つまり優勝しますと宣言した」
「エエーッ、すごい、すごーい。お姉さん何してるのよ、拍手でしょ?」
完全にリコペースである。アキは周囲を気にしながら拍手した。
「もう一つは?」
「もう一つ? 聞きたい? ちょっと照れるなあ。……やっぱ、……もういいだろ?」
悟はほんとに照れたような顔でリコを見た。
「ダメッ、言って頂戴。……早く言って」
「しょうがないなあ、……じゃあ、言うよ、……」
「どうしたのお兄さん。そんなに言いにくいことなの? 言いにくいことを宣言したの?」
「そうなんだよ。俺にしてみれば、とっても大事な宣言、誓いの言葉なんだよ」
「だったら、なおさら早く聞きたい」
「あはは、じゃあ、言っちゃおうかな」
アキもリコも興味深げに悟の口元を見つめた。
「俺は、亜希子を死ぬまで大事にして、幸せにしますから、どうか温かく見守ってください」
今度はアキが泣き出しそうになり、リコがアキを抱きすくめた。
「やったー、お姉さん良かったね。……お兄さんて最高だね」
アキは頷くばかりだった。なんと嬉しいことを言ってくれるのだろう。もう、憎たらしいたらありゃしない。
「あーあ、やっぱり、リコもそんな風に誓ってくれる人を早くみつけなきゃ」
両親が楽しそうに会話しながら近づいてきた。
「あら、お父さん達楽しそうじゃない?」
リコが冷やかした。
「そうなの、こんなにしてゆっくりと参拝したことなかったから、何だか新婚気分になっちゃってね」
母の典子はいかにも嬉しそうで喜色満面だった。
「あはは、母さんも良く言うよ。……実は俺もそんな感じ」
五人が大きな声で笑った。
「お父さんせっかくだから、みんなでお茶して帰らない?」
アキが提案した。
「オォー、そうだな。ここは混んでいるから、家の近くにしようか?」
五人は車に乗って善光寺を後にした。
車の中で父の誠一郎が急に言い出した。
「茶店じゃなくて、カラオケにしないか、なあ、母さん、悟の歌聞きたいだろう?」
「そうね、聞きたいわね」
母の典子も賛成した。
「実はね、お父さんお母さんには内緒にしてたんだけど、明日の晩予約してあるの。やっぱり夜がいいでしょう? 昼間じゃムードが出ないわよ」
「お、予約してあるのか、それはいいな。だけど、それはそれ。じゃあ、今夜食事してから行こうか? 幸い雪も降って来ないようだし、どうだ?」
「二日連チャン?」
「そうだよ、悟も仕事が忙しいだろうし、そうちょくちょくは来れないだろうからな」
「じゃあ、そうする?」
「そうしよう。決まりだ」
誠一郎が強引に決めてしまった。
悟とアキは、夕飯の時に、結婚式の日程についての話をしようと決めていた。悟は、弟のことも話すからとアキに告げていた。八帖間で夕食が行われた。テーブルに、所狭しとお節料理が並びお酒が出た。
「後でカラオケに行くんだろ? 今夜は母さんが運転してな。だからお酒はダメだぞ」
「はい。分りました」
美味三昧の夕食が終わった。頃合いをみてアキが切り出した。
「お父さん、少しお話があるの」
「そうか何だ?」
「結婚式の日取りの件ですけど」
「オォー、決めたのか?」
「はい。五月二十日の日曜日にしたいのですが、都合はどうでしょうか?」
「五月か、今のところ予定は入ってないと思う。入っていても大丈夫だ。何とかする」
「じゃあ、その予定で進めますから、よろしくお願い致します」
「分った。いよいよだな。悟頼むぞ」
「はい。よろしくお願い致します」
「もう家族同然だから、式も挙げなくてもいいくらいだが、ま、一応形式だからな。……質素な式にしろよ。結婚してからが金が要るんだからな。俺のメンツなんか絶対考えるなよ、いいな?」
「はい。悟さんからも華美に走るなと釘を刺されています。心は華美でもいいけど、生活は質素を常とすべしときつく言われています」
「おォーー、そうか。さすが我が息子だ。良く出来てる。その通りだ。肝に銘じたほうがいいぞ。そうでなくても、いつ何時どんなことが起るかわからないご時世だからな、金は大事に使わなくてはいけないぞ」
「分りました。それではその線で進めます」
「ところで、何処で式を挙げるんだ? 聞くまでもないだろうが、東京だろ?」
誠一郎は悟の顔を見て言った。
「いえ、篠ノ井で挙げたいと思っています」
「えっ、今何と言った? 此処で挙げる気か?」
「いけませんか?」
「バカもん。何で東京で挙げないのだ? 結婚式を何だと考えているんだ。……おまえ、頭がおかしくなったんじゃないか? 狂ってるのと違うか?」
大きな声で罵声が飛んだ。アキが思っていた通りの言葉が、父親から発せられた。これはヤバいぞ。
「……亜希子」
悟はアキに、ちゃんと説明してくれと頼んだ。アキは、先日悟と話し合った内容について、じっくり、ゆっくり説明した。なぜ篠ノ井でなければならないかを説いた。アキの話にじっくり耳を傾けて聞いていた誠一郎は、悟の真意が分り、悟の目をじっと見続けた。だが、言葉を失っていた。何という若者だ。どうしてそういう考えになるのだ。頼むから教えてくれ。ほんとにそれでいいのだな。なんと、なんと、嬉しいことをぬかしやがって、この野郎。
「悟、ありがとう。お前はほんとにいい奴だ。泣けてくるぜ。亜希子、お前はほんとに幸せ者だぞ。分ってるな?」
「はい。分り過ぎるぐらい分っています。悟さんに足を向けて寝られません」
「あはは、当たり前だろ。顔を悟の胸に埋めて寝てるんだろ?」
「まあ、お父さんたら、呆れた」
「あははは、いいじゃないか。家族だ。あはは」
「お父さん、……あのね」
リコが口を挟んだ。
「悟お兄さんね、善光寺で宣言したことがあるのよ」
しまった。リコの奴余計なことを。おいおい止めてくれよ。悟がリコの顔を見て、人差し指を口の前で立てたが遅かった。
「宣言? 何だよそれ。どんな宣言をしたんだ」
誠一郎が興味深げにリコに顔を向けた。あーあ、誰かリコを止めてくれ。
「俺は、亜希子を死ぬまで大事にして幸せにしますから、どうか温かく見守ってください、って誓ったんですって」
ああ、言っちゃった。バカ。
「何? 俺だって、母さんに言ったことのないことを、仏さんの前で誓った? アキ何とか言えよ。コラ」
「ふふ、お父さんが照れてどうするのよ、悟さん、……お願い、お父さん達の前で同じこと言って」
「あはは、バカ言うなよ、仏さんだけに誓ったんだから、罰が当たるよさ」
「あら、そうね、そうだわね」
「そうか、そうか。悟、改めてありがとう、地元の人達も、さぞ心から喜んでくれると思う。いやァー、ありがとう」
「いえ、喜んでいただいて嬉しいです。どうかよろしくお願い致します」
悟は正座して、畳に両手をつき頭を深く下げた。誠一郎は悟の凛とした立ち振る舞いを見て、かねてからイメージしていた、本物の武士の姿を見たような気がした。誠一郎の背中に一瞬戦慄めいたものが走った。
「お父さん、悟さんからもう一つお話があるそうです」
誠一郎は何故か、知らず知らず、背筋をぴんと張った姿勢になった。
「悟から? 何だ? 改まって」
「はい。弟の謙二のことなのですが」
誠一郎の顔が急に輝きだした。
「オォー、謙二君がどうした?」
「よろしければ、九日の日にお邪魔したいと言ってるのですが、よろしかったでしょうか?」
誠一郎は壁の真新しい暦を見た。リコが俄然興味のある顔をした。それをアキは見逃さなかった。
「成人の日の祝日だな。予定は何もない。よろしい何もない。頼む。連れて来てくれ」
「私は多分ここにお邪魔してると思いますので、アキとリコと私の三人で、駅まで迎えに行こうと思っています」
「そうか長野駅か? 篠ノ井駅か?」
「それは、当日私に弟から電話が入ることになっています。それから、駅まで迎えに行こうと思っています」
「そうか、謙二君が来てくれるか。それはありがたい。いろいろ話を聞いておこう。何から何まですまないな。恩にきるよ」
「何をおっしゃいます。お役に立てるようなことがありましたら、何でもおっしゃってください。私が出来ることでしたら何でもさせていただきます」
「そうか。何よりも心強い言葉だな。いやあー、ありがとう」
「ついでにお話しさせていただきますと、弟は次の日に、商社との打ち合わせが予定されていますので、日帰りになります。私も同行して東京に戻ります。それでよろしいでしょうか?」
「忙しい謙二君を引き留めておく訳にはいかないだろう、話す時間が余りなさそうだから、効率よく話をしないといけないな」
「参考までにお伺いしますが、私は同席しないほうがいいと思うのですが、いかがでしょう」
「何言ってるんだよ。悟がいてくれた方が、謙二君も初めてだし、心強いのじゃないのか?」
「いえ、弟はそんな軟ではございません」
「……いや、やっぱり悟もいてくれ。嫌かもしれないけど、俺の方が助かる。……な? 話を聞いといてくれ、な?」
「分りました。そのようにさせていただきます」
「うん。頼む。……いよいよ我が社も展望が開けて来たぞ」
誠一郎は満足そうに破顔した。
「弟に会うことぐらいで展望は開かないと思いますが」
「何言ってるんだよ。関西支社を出すのは我が社の夢だったのだ。その夢実現に、謙二君から関西地区の情報が、支社を設立する前に聞けるのは、実に貴重なことだよ。謙二君の勤めている会社が、うちの会社と全く違う業種だったら、こんなことは言わないよ。同じような業種だから意味があるんだよ。分るだろ?」
「良く分ります。その代り、お願いがございます」
「うん、何だ?」
「弟は駆け引きされたり、嘘や虚飾に塗られたことを極端に嫌います。私もそうですが、正義感にあふれた考え方をする男です。嘘偽りのない世界で堂々と生きて行きたいと、いつも私に言っています。その辺のところをお汲み取り頂いて、お話を進めていただければ、弟を傷つけずに済むと思います」
「そうか、兄貴に似てなかなかの人物みたいだな。願ってもないことだよ。俺もそんな人物を所望しているところだ。最近は、そんな骨のある若者が、皆無といっていいくらいに少なくなっているからな。……そうか、益々会いたくなった」
「ありがとうございます。よろしくお願い致します」
「何だな、そんな弟さんが、田舎に帰って農業でもするかなんて言っていたろう? 実に勿体ないことだなあ」
「私もそう言うのですが、それでいて、仕事が面白くてたまらないなんて矛盾したことを言うものですから、この前、どっちなんだと、どやしつけたんです」
「ほォー、そうしたら、どんな返事が返って来たんだ」
「ただ笑っているばかりで、返事はありませんでした。私が思うには、弟はそういう性格ですので、ビジネスでしたら割り切れますから、本人も納得の上でしょうが、個人的な付き合いとなりますと、都会育ちの人達とは、いまいちウマが合わないのだと思います。ただそれだけのような気がしています」
「なるほど」
「ですから、できましたらお父さんの方から、それとなく探りを入れていただければ助かるのですが」
「うん」
「私は、その方面の仕事のことは良く分りませんが、弟の将来のことは、兄としてチャンとしてあげたいといつも思っていますから、どうかその辺も探り出していただいて、弟に何か良いアドバイスをしていただけたらと思います。よろしくお願い致します」
アキは、ほんとにこの人は、泣けてくるぐらいの弟思いなのだと再び確信した。リコも同じ思いだった。目の前にいる妹思いの姉と同じ考えの持ち主なような気がした。
「よし、分った。俺の出来ることを最大限考えよう。任せとけ。婿の弟のことだ、悪いようにはしないから」
「ありがとうございます。よろしくお願い致します」
悟はまたも深々と頭を下げた。
「お父さん、もう一つお聞きしたいことがあります」
悟が父親に顔を向けた。
「元旦早々から、いろいろ出て来るな」
「一年の計は元旦にあり、と申しますので元旦だからこそ、お聞きしておきたいことが一杯ございます」
「なるほどな、で、今度は何だ?」
「真理子のことです」
悟はリコと言わず真理子と言った。リコがアキの顔を見た。何のことだろうと思った。アキも同じ思いだった。
「真理子のこと? 何だ?」
誠一郎は酒を口にしながら悟を見た。
「真理子は、いつから正式に社員として採用になるのでしょうか?」
リコはびっくりした。気にはなっていたことだが、父親が言い出すまでは聞いたらまずいと思っていた。アキは、また悟一流の問答が始まったと思い、成り行きに注視していた。
「うん、そのことは一応決めているが、何か気になることでもあるのか?」
「はい。その日程によりましては、養成講座の内容も変わってくると思いまして、差支えなかったら教えていただきたいのですが」
「そうか、なるほど。……真理子は、正社員として十日から出社して貰う」
リコの顔が緊張の顔に変わった。いよいよ具体的になってきた。お屠蘇気分ではなくなってきた。アキは大きく頷いた。いよいよだと思った。そして、おそらく悟はこれに絡んで、また別なことを考えているのじゃないかとワクワクしてきた。
「真理子、聞いたか? 十日からだそうだ。お父さんにお礼を言いなさい」
悟は、この上なく可愛い妹の人生の門出を祝ってあげたかった。
「はい。……お父さん、いえ、社長、ありがとうございます。一途一心で一生懸命に頑張ります。よろしくお願い致します」
リコは座布団を外し、父親に向かって、両手を畳につき深々と頭を下げた。悟のしぐさとそっくりだった。
「うん。真理子の新しい人生の始まりだ。人の恥にならないように、精一杯頑張るんだぞ、いいな?」
「はい。かしこまりました」
親しい仲にも礼儀あり。リコは緊張しながらもはきはきと答えた。
「悟、それでいいかな?」
「はい。早い決断をしていただき、ありがとうございます。そこで提案なのですが、真理子のお祝いをしてあげたいのですが、賛成していただけますでしょうか?」
アキもリコも驚いた。リコの就職祝い? 誰も考えていないことをどうして思いつくの?
「何? 就職祝い? そんなもの、身内の会社に就職するんだから、必要ないだろ?」
「いえ、そうは思いません。真理子にとっては、新たな人生の第一歩をしるす、一世一代のとても大切な門出です。生まれて初めて、社会という敵を相手にして戦う初陣の日です。是非共お祝いしたいのです。どうか、賛成していただきたいのです」
リコは悟の必死の姿を見て、嬉しさがこみ上げてきて、たまらない気持になり泣けてきた。アキは、心に決めたら、一歩たりとも後には引かない悟の性格をよく知っていた。お祝いをするのに父親が賛成しない筈はない。にもかかわらず、悟には、あえて父親に賛成していただきたいと願い出る裏には、きっとそれなりの計算があってのことではないかと思った。
「そう言えばそうだな、悟の言う通りだな。分った。みんなでお祝いしてあげよう。日を改めて、……亜希子、企画しろ」
誠一郎はアキを見て言った。
「いえ、その必要はございません」
悟が誠一郎の顔に言った。
「何? どういうことだ?」
「はい。簡単です。今夜のカラオケと明晩のカラオケを、真理子の就職祝いのイベントに変えていただければいいのです」
何という発想だ。アキも悟の予想だにしない発想に度肝を抜かれた。なるほど。悟は元旦のこの日に、お祝いすることの意義を求めていたのだ。
「カラオケを? 真理子の就職祝い? 考えたな、悟」
「ほんとは、何処かの場所を借りて、もっと盛大なほうがいいかもしれませんが、家族が心の底から祝ってあげられれば、形にこだわる必要はないと思うのです。真理子もその方がきっと嬉しいのではと思います。な、真理子、どうかな?」
「お兄さんのおっしゃる通りです。真理子はとっても嬉しいです」
「亜希子はどう思う?」
「これからは、家族が全員そろって何かをやることは、滅多にできないと思うのです。ですから、悟さんの提案は最高の企画だと思います」
「一つ参考のために聞いておきたいのだが、……悟はこういう風になることを、あらかじめイメージして事を進めているのか?」
「いえ、違います。私の頭には、真理子の将来のことが、ひと時たりとも頭から離れません」
悟の言葉にリコが号泣した。アキがリコの肩に手を置き、そっとハンカチを渡した。
「ですから、お父さまから十日が真理子の入社日だとお聞きしたことと、たまたま今夜と明日の二連チャンで、カラオケに行くことになっていましたから、それをつなぎ合わせたまでのことです」
「……うーん。なるほど、と言ってしまえばそれまでだが、残念ながら俺にはそんな発想は出来ないな。……悟は囲碁をやるのか?」
「えっ、囲碁ですか? いえ、やったことはございません。どうしてですか?」
「いや、囲碁や将棋は、何手も先を読んで打っていくんだよな。悟を見てると、それと似ているような気がしてな」
「あはは、私にはそんな頭脳はありません。ただ、思い込んだら、とことん思い込む悪い癖がありまして、何かのきっかけで、思い込んでいたことが、新しい何かが出てくると、急にそれとくっついたりして、また違った発想が生まれたりするのです」
「そうか、良く分った。じゃあ、悟の提案で、早速真理子の就職祝いをやるとしようか。2連チャンとは豪華だな、な、リコ?」
「はい。凄く嬉しいです。お兄さん、ありがとう」
リコはいつの間にか泣き止んでいた。明るい笑顔で、隣に座っていた悟にしがみついてきた。アキはまたも大きく頷いて微笑んだ。
「お父さん、ついでで申し訳ないのですが、もう一ついいですか?」
「まだあるのかよ。今度は何だ? またびっくりさせるのか?」
「すみません何度も。また新しい事がくっ付いて来たものですから」
「そうか。お前の頭は磁石みたいなもんだな。何がくっ付いて来たんだ?」
「はい。真理子の養成講座は、あと三回で終わりにしようかと考えています」
「あ、そうか、そうだな。大分長いことしてきたからな。後は実践で学ぶしかないな」
「そう思います。最後の三回は、明日と来週の土曜日と月曜日の成人の日の祭日です」
「おいおい、成人の日は弟の謙二君が来る日だろ? 無理じゃないのか?」
「いえ、弟には可能な限り早く来てもらって、お父さんとの時間を確保するようにします。養成講座は、十四時から十六時を予定していますので、それまでは時間はたっぷり取れます」
「なるほどな」
「そこでお父さんにお願いなのですが」
「うん」
「真理子の養成講座の時に、お父さん達と一緒に、後ろの方で弟も見ていて貰いたいのです」
これにはみんなアッと驚いた。全く想像外の発想である。だが、父の誠一郎は俄然興味のある顔をした。アキは来たーと思った。何かを考えているのではとは思ったが、落としどころがこれだとは、さすがに想像できなかった。
「悟、お前はまたもびっくりさせおって、心臓がいくつあっても足りないぞ」
「すみません。実は私も、自分で言っておきながら、びっくりしているんです」
「じゃあ、たった今の今思いついたのか?」
「はい。そうです。急に何かがくっ付いて来たのです」
「なるほど」
「ただし、これには真理子の同意が必要だと思います。たとえ私の弟はいえ、全く知らない人が後ろで見ていては、真理子もやりにくいでしょうからね」
「そうとは思うけど、これからそういうこと、つまり、仕事上で社外の人と初対面なんて、何度でもある訳だから、いい経験になるんじゃないのか? なっ、真理子、どうだ?」
「私は嫌です。初めても人の前で恥を掻きたくありません」
リコがキッとした顔をした。
「そうか、やっぱりな、真理子が反対じゃしょうがないな。諦めるか」
「お兄さんと初めて駅で会った時、もう、心臓がパクパクして破けそうだったのよ」
この時、アキがひらめいた。そしてさっと手を上げた。
「オォー、亜希子何かくっ付いて来たか?」
「はい。素晴らしい案がくっ付いてきました」
「ほォー、聞きたいね」
「真理子の言う通りだと思うわ。男性はそうでもないのでしょうけど、女性は、初めて会う男性については、凄くデリケートなものよ」
「なるほど。分るような気がする」
悟が頷いた。
「前もって顔とかでも知っていたら、そんなこともないと思うの」
「あ、なるほどな。そうか」
「で、悟さん、今お財布持ってる?」
「えっ、財布? 持ってるけど? ……あ、そうか、……分った」
「ふふ、出して」
アキは悟の財布のポケットに、田舎で撮った悟の家族の写真があることを知っていた。いつか食事をしながら見せられたことを思い出した。
「そっかあ、ほんとはもっと早くにお見せすれば良かったなあ」
「ふふ、思い立ったが吉日よ、あれ、この言い方可笑しいね、ふふふ」
悟は内ポケットから財布を取り出した。財布のポケットにあった数枚の写真を抜き出した。
「じゃあ、お父さんから見ていただきましょうかね。私の田舎の家族の写真です。今年のお盆に帰った時に撮った写真です。……まず、これが全員の写真です」
悟は、父の誠一郎に一枚の写真を渡した。誠一郎は写真を受け取りじっと見つめた。首を縦に振り頷いた。そして、隣の母典子に渡した。母は、暫らくじっと見ていたが、見終って前の席のアキに渡した。アキは一度見ていたから、すぐにリコに渡した。リコは少し興奮していた。写真をジィーッと見ていた。
「ふふ、リコ、写真に穴が開くわよ」
リコはそれでもじっと見続けた。これが悟の家族なんだ。親戚になるんだ。なんだか不思議な感じだ。
「これが、私の母です」
次の一枚が悟から再び誠一郎に渡った。こうして順繰り写真が渡されていった。
「これは、姉夫婦が農作業をしている時の様子と、姉夫婦の子供たちです」
「お姉さんも少し悟に似ているな」
誠一郎が悟の顔を見て言った。
「そうですか? 私は姉を慕っていますから嬉しいです。……はい、これが私と弟のツーショットです。田舎の風景をバックにして撮りました。弟の顔は笑っていて優しそうに見えますが、仕事となりますと厳しい顔になります」
悟と弟の謙二が、おそろいのポロシャツを着て、お互いに肩に手を廻しているツーショットだった。いかにも仲の良さそうな兄弟が写っていた。
「弟さんの目のあたりが悟とよく似ているな」
誠一郎が再び悟の顔を見ながら言った。
「小さい頃はもっとよく似ていたと思いますが、段々大人になるにつれて変わってきたように思います」
悟と弟の謙二のツーショットの写真がリコに手渡された時、誠一郎が言った。
「真理子、謙二君の顔を良く見ておけよ」
何の意味で言ったのかは分らないが、余計なこと言わないで。言われなくても見るわよ。ツーショットだから、少し遠目に小さく映っているが、リコにしてみたら謙二との初対面となった。いわゆる、見合い写真のようなものである。目鼻立ちの整った笑った顔の目がとても優しかった。スタイルの良いイケメンを見て、リコが思わず悟の顔を見た。悟は笑っていた。
「これが、弟謙二の写真です。普段の顔です。私が言うのもなんですが、いい男でしょう? あは、自慢の弟です。じっくり見てやってください」
アキは、悟の弟思いを嫌というほど聞かされてきたが、全く嫌みがなく、いつも好感を持って聞いていた。
「おォー、これはいい顔だ。結構ハンサムだな。女の子に持てそうな顔だなあ。うんうん。なかなかの好青年だ。気に入った」
親父が気に入ってどうするのよ。早く回してよ。リコは内心で叫んでいた。早く見たかった。母の手に渡り、アキに渡り自分に渡された。何故か一斉に真理子の表情に注目した。真理子もそれを感じたが、素知らぬ顔をした。
それこそ、穴が開くほど見るとはこのことである。真理子は手に取ってみたり、テーブルに置いたりしてジィーッと見続けた。アキが悟の顔を見た。悟は嬉しいそうな顔をしてアキの顔を見返した。
「あら、悟さんの写真は?」
アキは、リコがじっくり見ておきたいのではと察して、話題を変えた。
「俺の? あはは、写真より実物のほうがいいだろ?」
悟はおどけてみせた。
「フフ、どちらもいいわよ。でも、皆さんほんとに優しいそうな方たちね。ね、お父さんそう思わない?」
「ほんとだな。謙二君が田舎に帰りたいという気持ちも、分るような気がするなあ」
誠一郎は、写真から醸し出されている家族の、何とも言えない良い雰囲気に、しきりに頷いていた。
「でしょう? 私もそう思うのです。ですが、見た目よりも農作業は大変ですからね。それより、自分の好きな仕事を続けて行ってくれた方が、私としては嬉しいのですけどねぇー」
悟は誠一郎に答えた。その間もリコは、弟謙二の写真を見続けていた。そして、説明のつかない感情が、リコの身体中を駆け巡り始めたことを誰も知る由がなかった。リコは黙って写真を悟に返した。だが、少し未練を感じた。
「どうだ? リコ、養成講座の時、弟が後ろで見ていてもいいかな? 弟の写真を見て気は変わらないかな?」
「一つ質問があるんですが、いいですか?」
「いいよ。言って見なさい」
「弟さんを後ろに立たせる目的は何ですか?」
実は父誠一郎も同じ質問をしようと思っていた。
「おォー、なかなかいい質問だな、……弟は、今そこそこの規模の会社で、営業主任という立場で仕事をしている訳だけど、聞いた話だが、新入社員の時、相当に厳しい教育訓練を受けたそうだ。余りの厳しさに自信を失い、一時ノイローゼになったくらいだったと言ってたよ」
「……」
「もちろん、此処でやっているようなロールプレイングなどの訓練もやったそうだ。弟の会社の社員教育は、それはそれはかなり厳しいそうだ。当然、脱落者が出る。会社は脱落者には手を差し伸べない。会社を辞めるか、適当な部署で万年平社員を味わうことになる」
「……」
「人呼んで、ライオン式スパルタ教育だそうだ。ライオンは親が子を崖から突き落として、子供が這い上がってくるのを待っているそうだな。……実はこの話は架空の話で、”獅子は我が子を千尋の谷へ突き落とす”という話の、獅子がライオンに変化したという話だが、そのくらい厳しい教育ということだな」
「……」
「弟は、その訓練を優秀な成績で見事にクリアして、今の地位を得て頑張っているという訳だ。ここまでは分るよな」
「はい。凄い人だと思います」
「このくらいで驚いてはいけない。弟は厳しい教育のお蔭で、社内でみるみる間に頭角を現して、現在では、トップスリーに入る営業成績、つまり契約高を獲得するまでになった。そうなるには、会社の教育以外の、それなりの努力がなくては実を結ぶ筈がない」
「……」
「その一つが、この前話した英会話もそうだが、その他のこと、例えば、社外の一流の講座に参加したり、図書館に通ってより高いレベルの専門の知識を習得したりして、自分を高めているんだよな。俺が話すと簡単なように聞こえるかもしれないけれども、通常の業務をしながらこういうことをするというのは、かなりの努力がないと出来ないと思うんだよ。俺が言ってること分るか? リコ」
「はい。何となく分ります」
「弟は、やるからにはといつも言ってるんだよ。やるからには徹底してやろうとな。だから、ふだんのモチベーションの持ち方が、他の人に比べて尋常じゃない。モチベーションって分るだろ?」
「いえ、聞いたことはありますが、しっかりとは理解していません」
「そうか、大事な言葉だから、あとで調べておきなさい」
「はい。そうします」
「こうして、弟は二十八歳という若さで、将来を期待される人物になったという訳だが、俺は、決して弟の自慢話をしているつもりはないのだよ」
「ええ、続けてください」
「ライオン式スパルタ教育を受けて這い上がって来たある一人の人物が、せっかくこんな遠くまで足を運んでくれて、真理子の養成講座を見ることは、それなりに、とても大事な意味があると思ったものだから、そうしたほうがいいのではと提案した訳だ。……お父さん、この考えどう思いますか?」
悟は誠一郎に顔を向けた。
「うーん、何とも素晴らしい話だな。これで分ったよ、悟の考えがな。なるほどな。他の会社は相当頑張っているんだな。それに比べたら、うちなんか小学生にも満たないレベルだな情けない」
「弟から見たら、ここでの養成講座は生ぬるくて、兄貴そんな教育じゃ駄目だよ、なんて言われそうな気がするんだが、とにかく俺の考えは、社長のいらっしゃる前で、はなはだ失礼なことを言いますが」
「いや、構わん。遠慮な言ってくれ」
「将来に亘って、真理子のこともそうだが、会社は今何をしておかなければならないかを、真剣になって探っていかなければならないと思っているいるんだよ。あまり上手な説明ではないかもしれないけれども、そんな風に思って、弟に聞かせてあげたいと思ったという訳だ」
「真理子、今の悟の話を聞いてどう思った?」
「レベルが高すぎて、いまいち理解できない所もありますが、とても興味深い話でした。真理子の為に、そこまで考えて下さっていることに深い感銘を受けました」
「おい、真理子、お前最近言うことが違ってきたな。深い感銘を受けましたなんて、良くスラスラと言えるようになったな」
「ふふふ、すべて悟お兄さんのお蔭です」
「で、どうなんだ。肝心の話、やっぱり駄目か?」
「お兄さんの弟さんが、後ろで聞いてくださる話ですか?」
「そうだ」
「少し恥ずかしい気もしますが、さっき写真を見て、もう初めてじゃないような気がしますから、OKです」
悟もアキも目を合わせて頷いた。アキは悟の粘り腰に驚いた。的は絶対にはずさない、悟の意気込みがそこにあった。
「そうか、そうか。良くぞ言ってくれた。さすが俺の跡継ぎだ」
誠一郎は嬉しそうな顔でリコを見た。
「お父さん、それは十年早いです」
リコがピシャッと言い放った。
「あはは、これは参った。あははは」
誠一郎は愉快に笑った。
「あのー、お兄さんお願いがあるんですが」
「うん? 真理子の話だったら何でも聞くよ」
「あら、悟さん甘い」
「そう言うなよ。可愛い妹の願い事じゃないか」
「はい、はい。そうですね」
「で、なんだ? リコ」
「少し言いにくいんですが、来週までに弟さんの顔を忘れるといけませんから、さっきの写真お借りしてもいいですか?」
リコの顔が気のせいか赤くなったような気がした。この時、アキは別な予感をはっきりと感じた。リコは、悟の弟謙二に、はっきりとした興味を持ち始めたのだと思った。それは、悟も誠一郎も同じ思いだった。そうでなければ、写真を借りたいなんて言う筈がない。
「おォーー、そうだな。忘れてしまったから、後ろに立つのイヤッなんて言われたら困るからな。いいよ、いいよ。ほら、これだ」
悟はリコに写真を手渡した。悟の何でもないような語り草にアキは感心した。相手に変な意識を持たせないやり方は絶妙である。
「悟、まだ何かあるか?」
「いえ、もうありません。全てがすっきりしました。今夜は大いに唄えそうです」
「そうか、そうか。それは良かった。じっくりと、たっぷり聞かせて貰おうかな」
「俺はバカだなあ、また余計なことを言っちゃった」
悟は苦笑いした。それを受けてアキが言った。
「ふふ、いいじゃない? 喜ぶ人がいるんだから」
「あはは、そういうことにしとこうか?」
夕食が済み、アキと悟はアキの部屋に戻った。
「あのさ、リコに何かお祝いのプレゼント買いたいんだけど、何がいいかなあ」
「そうね、花束でいいんじゃない?」
「それと?」
「えっ、もう一つ?」
「後々まで残るようなもの。リコは、何か欲しい物ないかなあ、……聞いたことない?」
「そうねえ、腕時計が古くなったとかは言ってたけど、高いしねえ」
「よし、決まった。アキ、少しお金貸して。今度来たとき返すから」
「あら、ほら、この前お父さんに頂いたお金あるわよ、もっとも通帳に入ってるけど」
「その金は駄目だ、それはアキが預かっている金だから、使う訳にはいかないよ。……アキは今ここにいくら持ってるの?」
「五万円くらいだったらあるわよ」
「じゃあ、三万円でいい」
「気に入った腕時計があっても、お金が足りなかったら困るから、はい、全部持っていって」
「そうか、悪いな来週持ってくる」
「はい、はい。あげてもいいけど、どうせダメというに決まってるから、何時でもいいわよ」
「一緒に選んでくれるんだろ?」
「ええ、いいわよ」
「ほら、これを見ろよ」
悟は腕まくりして自分の腕時計を指差した。アキがプレゼントしてくれた記念の腕時計だった。
「ふふ、ちゃんと動いてるのね」
「当たり前だろう。これが止まったら俺達も止まってしまうぞ」
「あら、そうなの? もし何かの弾みで川とか海に落としてしまって、止まってしまったら大変だから、床の間に飾っておいたら?」
「あはは、それじゃ腕時計の意味ないじゃん」
「じゃあ、お願いだから絶対に止めないでね」
「はい。姫、命に代えましてもお守りいたします」
「良くぞ申した。アッパレであるぞえ」
「あはは、それって姫が言う言葉か? ……ところで、お父さん達も何かプレゼントしてくれるのかなあ」
「悟さんて、ほんとにリコ思いなのね。ほんとの親兄弟より親身になってるわ」
「あはは、嬉しいこと言うねぇー。たまに錯覚することがあるんだよ。子供のころから一緒に暮らして来たんじゃないかなあ、なんてね」
「へえー、そこまで思ってるんだ。これは本物だわ」
「で、どうなの、お父さん達、リコに何かプレゼントしてくれるのかなあ」
「さあ、どうかしらね。急な話だから、今日は間に合わないかもね」
「あ、そうだよな、ま、いいか。……あ、今思ったんだけど、花屋は開いてるかなあ」
悟が腕時計を見ながら言った。
「あら、もうこんな時間ね。でも、花屋さんは結構遅くまでやってるから、大丈夫だと思う」
「何処にあるの?」
「花屋さんは、カラオケボックスから歩いて行ける距離だから、着いてからそっと買い行ったら?」
「時計屋は?」
「今日は無理かも。明日一緒に買いに行かない?」
「そうだな。今日のほうがいいと思ったけど仕方ないな。今日は花束だけにするとしてと、……じゃあさ、こうしない?」
「またまた何か考えたのね。何かくっ付いたの?」
「そうなんだよ。アキに頼みがあるんだけど、いいかな?」
「何よ、私を困らせる気?」
「いや、そうじゃないよ、アキは字が上手だから、目録を書いて欲しいんだよ」
「目録?」
「そう。リコに渡す目録。祝就職と書いて、目録の中身は、一、時は金なり、時間を大切にしましょう」
「えっ、腕時計って書かないの?」
「書かない。二、亜希子の心、三、悟の心、なんだけど。……アキは、就職祝いに関して、リコへのはなむけの言葉ある?」
「そうねえ、そう言われても急には考えつかないわねえ。ネバーギブアップ、思い切って羽ばたいてね、は?」
「それでもいいけど、アキがリコに対して普段思ってる大切な言葉はない? 一つ目で就職祝いの言葉にしたから、あとは就職にこだわることはないと思う」
「あ、そうか。そういうことね。……えーとね、真理子、大好きよ。いつも真理子の傍にいるからね、は?」
「いいね、いいねえ。それにしよう」
「悟さんは?」
「そうだなあ、アキと同じことを考えていたけど、先を越されたからなあ、……真理子の無邪気で明るいところが大好きです。真理子の幸せを心から願っています。っていうのはどうかな?」
「ええ、とってもいいわね。リコはきっと喜ぶと思う」
「まず、最初に花束を渡して、それから目録を渡す。明日もある訳だから、目録はその場では開けないで、今日はリコに持ち帰ってもらう。これでどうかな?」
「そうね。いいわね。それは悟さんがするのね?」
「俺がリコに渡す。……花束を受け取って、リコは泣くかなあ」
「あら、……また?」
「賭ける?」
「ええ、いいわよ、どっち?」
「泣かない」
「じゃあ、私は泣くに賭けるわ」
「何を賭けるの?」
「そうね、今日はお腹いっぱいだから、またコーヒー?」
「いや、アイスクリームは?」
「こんなに寒いのに?」
「だって、暖房入れたら平気だろう? 冬のアイスクリームも乙なものだよ」
「多分、冷蔵庫にはなかったと思う。買ってくるの?」
「あ、そうか、そうだよな。買ってまですることはないよな。……じゃあさ、手紙は?」
「えっ、手紙? 手紙って? ラブレター?」
「ラブレターというイメージじゃなくて、そうだなあ、マイ・ハート告白文かな」
「マイ・ハート告白文? 何それ」
「賭けに負けたほうが、勝った方に心の内を告白する。今の気持を正直に書く訳」
「あら、いいわね。ということは、悟さんが私に、今の私に対する気持ちを、包み隠さず告白するってこと?」
「俺が負けたらそうなるよな」
「それ、いいアイディアね。楽しそう。でも、今日すぐ目の前で書く訳? それは無理でしょう?」
「今日の今日は無理。だから手紙にしたためて届ける」
「メールで出すの?」
「いや、メールじゃ味気ないし面白くないから、本物の手紙。便箋に手書きでしたためて郵便で出す」
「ええェー、郵便で出すのー、……面白~い。いい、いいわねえー、さすが考えることが違うわね、わァー、考えたただけでも楽しそう」
「だろう? さーて、どっちが手紙を出す側になるかな? アキからの手紙貰いたいなあ」
「あら、もう勝った気分でいる、そうはいかないわよ、リコはきっと泣くから」
「あはは、ほんと楽しみになってきたな。じゃあ、目録今すぐ作ってよ」
「分りました。縦書きがいいわね」
「そのほうがいいね」
「あ、ちょっと待って、……で、肝心の腕時計はどうするの? 今日は渡せないでしょう?」
「だから、明日アキと一緒に買いに行って、明日のカラオケボックスで、タイミングを見て渡すのさ。そしたら、目録の意味がより正しく伝わるってことになるだろう? 二回もお祝いをすることになるし、もしかしたら、お父さん達のも同時に渡すことになるかもしれないから、リコがうんと喜んでくれるんじゃないか、と思うんだよな」
「なーるほど。さすがだわね。それで決まりね」
「だな。……あのさあ、もう時間があんまりないから、目録はすぐ作ろうよ」
「分ったわ。少し待っててね、……ねぇー、その前に」
「でも、リコが飛び込んでくるかもよ」
「いいのっ」
アキが甘えてきた。二人は抱き合ってキスをした。
アキは筆を出し目録を作った。白い紙に達筆の黒い文字が縦書きされた。作り終えて、出来栄えを確認して紙袋にしまい込んだ。丁度その時ドアをノックする音が聞こえた。アキが悟を見て声にならない声を出した。フフ、危なかったね。
「リコなの? 入っていいわよ」
リコが入るなり言った。
「何してるのよ。お父さんたち待ってるわよ」
「あら、そうなの、じゃあ行きましょうか」
アキは、何ごともなかったような顔をして悟を促した。悟はニコニコしながら、目録の入った紙袋を手にした。
母典子の運転でカラオケボックスに行った。家族そろってのカラオケは初めてのことである。変わりばんこに好きな歌を唄った。
悟は目録の入った紙袋を持って途中で抜け出し、予めアキに教えてもらった花屋に飛び込んだ。就職祝いと言って花の選択は花屋に任せた。そして、外からアキに携帯した。丁度よかった。リコが唄っている最中だった。カラオケの音で携帯の声が聞き取りにくい。アキはそっと部屋の外に出た。そこに悟が片方の手に紙袋を下げ、片方の手に花束を抱えて立っていた。悟はアキの耳元で二言三言囁いた。アキは大きく頷いて部屋の中に消えた。
アキはわざと入り口付近に立った。悟に合図のノックを送る為である。リコが唄い終わるのを待って、アキが調光器のパネルを調整して部屋を暗くした。薄暗くなった部屋の中央を向いてアキが口を開いた。
「えェー、宴たけなわですが、ここで、リコの就職祝いのセレモニーを挙行いたします」
前触れもなく突然のことで、両親もリコもキョトンとしていた。
「真理子様はこちらにどうぞ」
アキが奥にいたリコを真ん中に手で誘導した。リコは、何が始まるのかと思い少し緊張した。そう言えば、さっきから悟兄さんの姿が見えない。アキは雰囲気を盛り上げる為、ちょっと古い曲だなあと思いながらも、歌詞がぴったりだと思って―夢をあきらめないで―をBGMとして選曲した。
「えェー、先ほどの家族会議で、真理子の就職祝いの話が急に出ました。急なことで、未だ準備が整っておりませんが、取り急ぎ挙行することにいたしました。就職祝いは、本来は実際に就職した後にするのが筋だとは思いますが、諸般の事情と、本日の元旦という目出度い日に行うことも、意義があるのではと思い、執り行うことにしました。また、こういうご挨拶も、冒頭に行うのが筋ですが、準備の為遅れてしまいました。悪しからずご了承ください」
身内のお祝いにしては、やたら堅苦しい 挨拶だなと思いながらも、両親とリコは頷きながら、アキのスピーチに聞き入っていた。
「それでは、晴れの就職決定をお祝いしまして、お祝い品の贈呈を行います。後程一人づつお祝いの言葉を頂戴いたしますので、準備をお願いいたします」
予期しないことで、リコはびっくりしたが、急に喜色満面になった。両親も同様にびっくりしていた。アキはBGMの音を大きくした。そして、ドアを三回ノックした。悟が、ドアを開けて、にっこりした顔で花束と紙袋持って登場してきた。リコの前に進み出て花束を渡した。
「リコ、就職おめでとう。頑張ってな」
リコの顔は、満面の笑顔で喜びに溢れていた。続けて悟が、紙袋から目録を出してリコに渡した。
「さあ、今、悟さんからお祝いの目録が手渡されました。真理子様、目録を大きな声で読み上げてください」
目録はただ渡すだけの予定だったが、アキは、リコが泣くどころか喜色満面な顔をしているのを見て、急きょ変更した。悟と取り交わした約束をほごにした。完全なルール違反である。構うものか。アキは、リコをどうやって泣かそうかと必死に考えていた。賭けに負ける訳にはいかないのだ。どうしても、悟から告白の手紙を受け取りたかったのである。目録を読み上げることで、もしかしたら、リコが泣き出すのではと期待したのである。リコが灯りを気にしながら目録を開き読み始めた。顔は笑っているが照れていた。
「一、時は金なり。時間を大切にしましょう。
二、亜希子の心。真理子大好きよ。いつも真理子の傍にいるからね。
三、悟の心。真理子の無邪気で明るいところが大好きです。真理子の幸せを心から願っています」
読み終わってリコは、何故か目の前にいる悟に抱きつき、お兄さん、ありがとうと言った後、花束と目録を両手で高々と持ちあげた。身体中から喜びが満ち溢れていた。両手をおろし、今度はアキに抱きついて来て、お姉さん、ありがとう、リコとっても嬉しいと言った。アキは喜びに満ち溢れたリコの顔を目のあたりに見た。
完全な敗北の瞬間だった。ルール違反した上に負けてしまった。悟になんて言われるか後悔先に立たず。瞬間的に悟の顔を見た。悟がニタニタした顔で、ガッツポーズをしていた。憎たらしい。
「それでは、一人ずつ、リコへのお祝いのメッセージや激励の言葉をお願い致します。出来るだけ手短に、心を込めたメッセージをお願いします。まずお父さんからお願いします。そのままでいいです」
アキは気を取り直して進行係を務めた。BGMの音量を絞った。父であり社長である誠一郎が立ちあがった。
「まずは、先に悟と亜希子にお礼を言わなきゃならないな。ほんとは俺の方で考えなければいけないことを、二人で考えてくれたことに親としてとても嬉しく思う。ありがとう。……真理子、良かったなおめでとう。初めてのことだらけで、辛いこともあるかもしれないが、頑張って夢を掴むんだ。夢は向こうからは寄ってこないからな、自分の努力で引き寄せるしかない。それと、会社では親でもなければ子でもないからな、そのつもりで頑張ってな。以上簡単だがお祝いの言葉とします」
みんな拍手した。リコは神妙な面持ちで首を垂れて、時々頷きながら聞いていた。
「続いて、お母さんお願いします」
母の典子は私もかい? というような顔をしたが、立ち上がって口を開いた。
「私は今とっても幸せを感じています。真理子がお父さんの会社で仕事をするなんて、今まで一度も考えた事もないし未だに想像できません。でも今、目の前の真理子のほんとに喜びに満ちた顔を見て、親として、古い考えに縛られていた自分を反省しています。もう少し早く真理子の心に寄り添い、真理子のやりたいことに、手を差し伸べてやれていたらと思うことでした。真理子、ごめんね」
母親が泣き出してしまった。あーァ、リコじゃなくて母親が泣いちゃった。悟がサッとハンカチを渡した。母は悟に頭を下げて涙をふきながら話を続けた。
「ほんとは笑ってお祝いしてあげなければならないのに、……湿っぽくなってごめんなさい。……お父さんからも話がありましたが、悟さんと亜希子ありがとう。ほんとは、お父さんみたいに悟と呼び捨てにしたいんだけど、……その方が親しみが湧くからね。悟さんって、さん付けにすると、何だか他人行儀な感じがして」
母典子が独り言のようにして言った。
「お母さん、悟でいいです。その方が私も嬉しいです」
「ほんと? じゃあこれからそう言います。……私は、いつか言わなければと思っていたことがあります。せっかくの機会ですから、今言います。
お父さんには悪いのですが、お父さんも含めて私たち親子には、家族の絆というものがありませんでした。いえ、ありませんでしたと言うより、考えたこともありませんでした。その為に、娘たち、いえ私自身もそうでしたが、家庭の和みや喜びや癒しを感じたことがなかった、と言っていいと思います。
今思いますと、とても悲しいことです。たった一度の人生の中で、家族であることの喜びが感じられないなんて、とても虚しいと思います。お金は少し蓄えがありますが、そんなものはどうでもいいことです。いえ、今そう言えるようになった、と言ったほうがいいかもしれません。もちろん、お金もとても大事なものだとは思いますが、それ以上に大事なものがあることを、心の底から学びました。
お父さんも私も、亜希子も真理子もみんな同じ思いだと思いますが、人への思いやり、優しさ、家族の絆などは、家族の一人一人の心に寄り添って生きて行く考えがなければ、生まれて来ないということが良く分りました。ほんとの意味での、心の大きさ心の豊かさほど大切なものはないと、痛切に思うようになりました。この歳になるまで分らなかったなんて、とても恥ずかしいことですが、残された人生を、せめてもの教訓として生きて行きたいと思います。
何を言いたいかと言いますと、このような考え方が出来るようになったのは全て悟さん、……もとい……悟のお蔭だということを言いたいのです。私は、悟が花岡家に、とてつもなく大きな財産をもたらしてくれたと思っています。少し長くなりましたが、どうしても言っておきたいと思って、敢えて言いました。改めて、悟、ほんとにありがとう。これからも、どうかよろしくお願い致します。
……リコに対するお祝いの言葉になったどうか分りませんが、お母さんの意のある所を汲み取ってね。リコ」
みんな拍手した。リコも拍手しながら大きく頷いた。おかあさん、ありがとう。リコの心は、はち切れんばかりの思いで一杯だった。父誠一郎は、時々母典子の顔を見ながら大きく頷いていた。アキも同じだった。それぞれに、過去のいろいろなことが思い出されて来て、母の言葉と重ね合わせて、しんみりとなってしまった。アキは気を取り直して口を開いた。
「お母さんとてもいいお話をありがとう。身に浸みて聞き入ってしまいました。ありがとう。……では続いて、……あ、今度は私の番だ」
アキが改まった感じでリコの方を向いた。
「リコ、ほんとにおめでとう。良かったね。夢にまで見たことが実現したんだから、一生懸命頑張って、今度はお父さんを泣かすんだよ。……姉さんはもう少ししたら遠くで暮らすようになるけど、悟さんと一緒に時々帰ってくるからね。今までみたいにリコの傍にいてやれないけど、気持ちはいつも傍にいるからね。何かあったらいつでも相談してね。……リコ、ほんとにおめでとう。……私からは以上です」
みんな拍手した。リコがアキに抱きついた。
「お姉さん、ありがとう、ありがとう……」
リコはアキの肩の辺りを拳で叩き、そして、感詰まって、ついに泣き出した。今頃泣いてどうするの。泣くのが遅いのよ。アキは苦笑いした。
「えェー、それでは最後に悟さんのお言葉を頂戴致します」
悟はリコの様子を見て微笑んだ。
「じゃあ、私から一言、お祝いの言葉を述べたいと思います。その前に、お父さんお母さんから過分なお褒めをいただき痛み入ります。ありがとうございます。
……えェー、お父さ、お母さ、亜希子、……リコのこの晴れ姿をじっくりと見てやってください。一生にたった一度の晴れ姿です。私は、今日は嬉しくて仕方ありません」
父も母も亜希子も一斉にリコの顔を見た。ほんとに晴れやかな顔をしている。
「……リコ、月並みだけどおめでとう。良かったね。……みんなからも話があったように、とにかく一途一心で頑張り通すのだ。自分の思いを貫き通すのだ。リコだったら必ず出来ると信じています。これからのことは、今まで養成講座を通して、さんざん言ってきたからこれくらいにします」
リコは小さく頷いた。その顔には悟に対する尊敬の念が満ち満ちていた。
「今日は、リコにどうしても理解して欲しいことが一つだけあります。それは何かと言うと、リコという人間は、この世でたった一人だけだということです。当たり前の話だと思うかもしれないが、実はそうじゃないということを分って欲しいのです。どういうことかと言うと、リコが死ぬまでの間にやらなければならない、宿命的なことが存在すると言うことです。これは決して、宗教的なことを言っているのではありません。つまり、リコの置かれた立場や生きて行く環境は、リコだけが唯一所有しているものであるということです。言葉を変えて言うと、リコの代わりを務める人は、この世には存在しないということです」
誠一郎は悟の言わんとしていることを察した。人間の根源的な宿命について語り始めたのである。こいつは、一体今何才なんだ?
「今は多くは語りませんが、今私が言った言葉を、心から理解し実践できた時に初めて、リコは思い描いていた夢が実現した時と思ってください」
「……」
「それは、死ぬ時かもしれないし、十年後かもしれません。この世の誰も知らないことなのです。私は、リコにそういう時が来ることを切に願っています。……リコ、改めて言うよ。今日が人生の始まりだと思ってください。ほんとにおめでとう」
リコは大きく頷いた。
「何かにつまずいたり、困ったり悩んだ時は、まず最初に、私のことを思い出してください。そして、心を開いて打ち明けてください。そしたら、必ず、必ず解決出来る知恵が湧いてきます」
リコは、悟の優しい言葉に泣けてきそうになった。
「最後に、さっきも亜希子から話がありましたが、私と亜希子はもうすぐ遠いところで暮らします。そんな時に、時々お父さんやお母さんに電話して、リコはどうしてるって多分聞くと思います。その時にお父さんが元気な声で、おォー、リコのことか、あいつは元気に頑張ってるぜ、と言う言葉を聞きたいと思っています。これは、亜希子も同じ気持ちだと思います。……えェー、以上で終わります」
悟はリコの手を両手で強く握りしめた。そこまでは良かったが、リコが悟に抱きつき悟の肩の辺りを激しくたたいて、遠くへ行かないでと激しく泣き出した。あ~ァ、とうとうやってしまった。だからぁー、今頃泣いてどうするの。泣くのが遅いのよ。アキはまたも苦笑いした。
誠一郎は悟の話に感動した。完璧なまでのスピーチであると思った。
「えェー、予定の時間を大幅に超えてしまいましたが、リコの目から水がしたたり落ちたところで、リコの就職祝いのセレモニーを終わります。最後に私が―夢をあきらめないで―を唄いますので、みんなで口ずさんでください。歌が終わりましたら、その後はまた水入らずの歌と行きましょう」
何だか、おかしな言い方のような気がするが、ま、今日は元旦だ大目に見ようか。再びカラオケが始まった。父が唄い母が唄う頃には最高の盛り上がりを見せた。部屋を薄暗くして、狭いスペースだったが、それぞれの歌に合わせて、思い思いにカップルを組みダンスした。父も母も終始笑顔で楽しんでいた。リコのデジカメが大活躍だった。二時間があっという間に過ぎた。
次の日の昼間、悟はアキと一緒に、リコにプレゼントするための腕時計を買いに行った。夜になり昨夜の延長戦が行われた。
「えェー、リコ前に出てください」
いきなり言われてリコは戸惑いながら、テーブルをどかして作られた小さなスペースの前に進み出た。
「昨夜の目録の内容を覚えていますか? ……一、は何でしたか?」
「一、時は金なり。時間を大切にしましょう、でした」
「良く覚えていましたね。ご褒美に、素敵なプレゼントがあります」
「えっ、また? 嬉しい」
リコははしゃぎだした。
「リコ、改めて就職おめでとう。昨日だったら良かったんだろうけど、間に合わなくて今日になってしまった。気に入ってくれるかどうか分らないけど、お祝いにお姉さんと私からプレゼントします」
悟は小さな箱の入った紙袋をリコに手渡した。
「ウァー、嬉しい。お兄さんお姉さん、ありがとう、……ありがとう。……開けてもいい?」
「いいけど、もう一度、目録の一を言ってみて?」
「一、時は金なり。時間を大切にしましょう」
「じゃあ、開けてみて」
リコはリボンを丁寧に解いて箱を開けた。そこには女性用の高級腕時計があった。開けた途端、リコはびっくりした顔をして悟の顔を凝視した。暫らく声にならなかった。
「気に入ってくれた? 目録の意味が分った?」
悟の言葉が終わるか終らないうちに、リコが悟に抱きついた。
「お兄さん、ありがとう、……リコね、こういうのが欲しかったの、……ウァー、どうしよう、……嬉しい」
「はめてあげようか?」
「うん、うん。お願い」
箱の底に洒落たゴムバンドで固定されていた時計を、悟は丁寧にゆっくりと取り出した。そして、リコの腕を握り時計をはめた。途端にリコの顔がはじけた。腕を上に高く伸ばしたり折り曲げてみたり何度も繰り返した。
アキの所に行って抱きついて、お姉さんありがとう、と何度も口にした。そして、両親の所に行って喜びを爆発させた。
「続いて、お父さんお母さんからのプレゼントです」
「エエーッ、お父さんお母さんからもっ? ほんと? 嬉しい」
母の典子が、紙袋を手にしてリコに近づいた。
「真理子、改めておめでとう。頑張ってね、これは、お父さまからのプレゼントです」
典子はリコに紙袋を手渡した。リコは喜びの顔を振りまいた。父親からのプレゼントなんて、生まれて初めてである。
「ありがとう。嬉しい。……どうしよう、……心臓が止まりそうよ」
「あは、止まったらだめだよ」
父の誠一郎が茶化した。
「お父さんお母さん、ありがとう。開けてもいい?」
「開けてごらん、気に入るかな?」
紙袋には、小さな箱と細長い箱の二個が、綺麗なリボンで飾られていた。悟もアキも何だろうと楽しみにしていた。細長い箱のリボンを解きふたを開けた。うす革色の女性用の財布が目に入った。リコは思わず母の顔を見た。もう一つの箱には名刺入れがあった。
リコはこの時初めて、会社の社員としての自分を意識した。
「ウァー、お父さんお母さん、ほんとにありがとう。大事に使います。何だか、今日はメチャクチャ嬉しいわ。……ヤッター」
リコが万歳した。その様子をじっと見ていた誠一郎は、大きく頷いて笑った。
悟のお蔭で、家族の絆の大切さを学び思い知らされた。家族のほんとの温かさを肌で感じ、人生の中で最も大切な何かを教わったような気がした。カラオケボックスで、みんなが楽しんでいる様子を見て、アキはつくづくそう思うのだった。自分が結婚して、第二の人生を歩み始めてしまったら、おそらく、こうして家族全員でカラオケを楽しむなんてことはないだろうと思うと、今のこの時間を思い切り楽しみたいと思うのだった。悟さん、素敵なプレゼント、ほんとにありがとう。
こうして二日に亘って行われた、リコの就職祝いのイベントは無事終了した。