この物語は正義感に満ちた一人の男の物語です
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◇ 第13章 姉弟の契り

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□ 第十三章 姉弟の契り □

 翌朝、佐知代は早い時間に会社に電話して、出社しない旨を伝えた。そして、悟が寝室でぐっすりと眠っているのを確認して、再び自分の寝室のベッドに身を横たえた。完全な二日酔いである。頭が重たい感じがした。目が覚めた時は十時を回っていた。リビングルームのカーテンを開き急いで台所に向かった。
 これから作ろうとする料理は義理で作るのではない。大好きな弟の為に作るのだ。そう思うと心がうきうきとし、窓から差し込む朝日の色が何故か違って見えた。目に飛び込んで来る全ての情景が、いつもの情景と違って見えるのはどうしてだろうか。リビングの南側の窓の外の、こんもりとした庭木が、鮮やかに美しいたたずまいをして威張っているのが見えた。それは、今まで全く感じたことのない、実に新鮮な景色だった。CDコンポから流れる音楽さえも違って聞こえる。

 料理を作り終えて、悟を起こそうと思い寝室に向かった。悟は昨夜の出来事を覚えているのだろうか。かなり酔ってしまい失神寸前だった。だから、もしかしたら、記憶が喪失しているかもしれない。そうだとしたら喜ばしいことだろうか、いや、少し寂しい気がする。佐知代はそっと寝室のドアを開け、出窓のカーテンを開けて部屋を明るくした。そして、まだ目の覚めない悟の傍に近づき顔をしげしげと見た。思わずキスをしたい衝動に駆られたが、さすがに躊躇した。悟の身体に手をやり揺り動かした。しかし、悟は起きなかった。
「悟、……朝よ、……十一時よ。朝ご飯で来てるわよ、もう起きたら?」
 悟の体を何度かゆすった。だが、死んだように爆睡している身体からは容易に返事がなかった。暫らくして、ようやく悟の片目が開いた。眩しそうな目が佐知代の顔にとまった。しかし、まだ状況が呑み込めていない様子だった。
「悟、おはよう姉さんよ。……分る? ……フフ、何よその顔は」
 その声に、悟は少し状況が呑み込めたようである。この時初めて、自分は姉の家に泊まってしまったのだと思った。
「あ、お姉さん、おはよう」
「フフ、目覚めたようね。おはようさん」
「あれっ、ごめん。結局俺は姉さんちに泊まったんだね。社宅に帰るつもりだったのに、バカだなあ俺は」
 佐知代は、悟の言葉から、昨夜のことは完全に記憶にないのだと察した。なんだか淋しさがこみ上げてきた。少しでも記憶が残っていて欲しかった。
「大分酔っていたからね。帰る帰ると駄々をこねていたけど、とても無理だと思ってここに寝て貰ったのよ」
 佐知代は悲しい嘘をついた。
「あ、そうだったんだ。……このベッドは? もしかして、前の旦那さんが寝てたベッド?」
「そうよ。何もかも片づけたから、今はその面影はないけどね。……寝心地はどうだった?」
「分らない、……何にも覚えていない。何だか腰の辺りが痛いから、もしかしたら、このベッドは俺に合っていなかったのかなあ。頭も少し重たいし」
「そうかもね。何回か寝たら慣れるわよ。頭が重たいのは二日酔いよ」
 悟は、時間が気になって左手首を見たが、腕時計がなかった。
「フフ、時間が気になるの? 何時だと思う?」
「九時頃かなあ」
「十一時よ」
「えっ、もうそんなになるの? 俺が寝た時間分る?」
「今朝の二時ごろだったと思う」
「そっかー、九時間も寝てしまったんだ。熟睡したんだねえ」
 悟は体を起こそうとしたが重たそうだった。
「まだ寝ててもいいわよ。どうせ休みでしょ?」
「あれっ、そういえば姉さんは会社は?」
「うん。休んだの」
「えっ、どうしてよ。まずいんじゃないの?」
「悟と一緒にいたいと思ったから、今日は休むことにしたの」
「そうか。姉さん、ごめんな。悪いことをしたなあ」
「何言ってるのよ。滅多にないことだから、気にしなくていいのよ」
「ありがとう。……姉さん、シャワーを浴びてきていいかなあ」
「いいわよ。姉さんもさっき浴びたばかりだから。新しい下着とガウンを置いておいたから、それを使ってね」
「ありがとう。でも、もうすぐしたら帰ろうかな。長居しては悪いから」
「何言ってるのよ。何も悪いことないのよ。ゆっくりしなさいよ。……そんな話は食事しながらでも出来るから、取り敢えずシャワー浴びてきてシャキッとしたら?」
「そうだね。そうさせて貰うかな」
 悟は起き上がって洗面所に向かった。

 佐知代は、悟が昨夜のことを全く覚えていない様子に驚いた。本当だろうか。覚えていないなんて信じられない。それだったらどこまで覚えていて、何処から記憶が飛んでしまったのか気になってきた。
 シャワーを済ませた悟がダイニング゛に姿を見せた。
「あら、さっぱりした顔になったわね」
「うん。さっパリしたよ、やっぱりモーニングシャワーはいいねえ。スカッとする」
「スカッとしたところで、迎え酒はどうかしら美味しいわよ」
「おーー、そうだね。どうせ今日と明日は暇だから、のんびりさせて貰おうかな。いいかな?」
「その方が姉さんも嬉しいわよ。わざわざ会社も休んだことだし、ゆっくりお話ししようよ」
「そうだね。そうと決まれば迎え酒と行くか」
「ふふ、下戸のくせして迎え酒を所望するなんて。それに、昨夜のあの飲みっぷり、ほんとは下戸なんて嘘なんじゃないの?」
「あはは、昨日から下戸返上、……と言いたいところだけど、やっぱり下戸は下戸だね」
「ウフ、じゃあ何にするの? ビール? ワイン? それとも焼酎?」
「姉さんに合わせる」
「じゃあ、ビールでいいかしら?」
「いいね。頂きます」
 佐知代は、冷蔵庫からビールを出して二つのコップに注いだ。テーブルには料理が並んでいた。
「お昼兼用の朝食になってしまったわね」
「そうだね」
「お腹すいたでしょう。たくさん食べてね。美味しいかどうか保証の限りではないけど」
「いーえ、昨夜のあの味は絶品でしたよお嬢さん? だから、もう今朝はうんと頂こうかな」
「あら、昨夜の味憶えているの?」
「もちろんさ。とっても美味しかったよ」
 佐知代は、悟が昨夜のことを、どの辺まで覚えているのか聞きたくなった。
「悟はさっき、昨夜のことはあまり覚えていないと言ったけど、本当なの?」
「シャワー浴びながらいろいろ考えたけど、さっぱり覚えてないんだよ」
「昨夜のことはどの辺まで覚えているの?」
「……そうだなあ、二回目の乾杯はしたよね?」
「そうね」
「それから足のない恋人みたいな話、……した?」
「ええ、したわよ。それから?」
「秘密の楽しみなんて話も、……した?」
「それはもっと前よ。前後の順番が狂ってるね。それから?」
「そうかもね。曖昧なんだよなあ」
「そうね。相当ワインを飲んでいたし、その頃はもうふらふらしてたわね。姉さんもそうだったけど、何か朦朧としてたわね」
「やっぱりね。じゃあ、その辺りから記憶が飛んでしまって、何処かに行ってしまったんだな」
「じゃあ、悟が、姉さんと結婚してもいいと思ってたって言ったこと、憶えていないの?」
「あ、それはかすかに覚えてる」
「じゃあ、姉さんが悟に告白したの憶えてないの?」
「えっ、告白? 姉さんが俺に何か告白したの?」
「そうよ。悟と結婚してもいいと思ってたってこと。だけど言い出せなくて、悟が八王子に花岡さんを連れて来てショックだったこと」
「……そうか、そういえば何となく思い出した。これも運命よね。仕方ないわよね。……とかなんとか言った?」
「そんなこと言った気がする。……憶えてるじゃないよ。……それから?」
「……だいたいその辺までだね、後はさっぱり覚えていない。記憶喪失症だね。あはは」
 佐知代は愕然とした。肝心要なことを覚えていないという。
「じゃあ、三回目の乾杯は完全に記憶がないと言うの?」
「……えっ、三回目は口移しの乾杯だったよね?」
「そうよ。記憶にないの?」
「姉さん、三回目の乾杯は昨夜はしてないよ」
 悟は、ソファに横になって、お互いにワインを口移ししたことを覚えていないと言う。とても信じられない。
「悟、覚えているのに、わざと覚えていない振りをしてるんじゃないの?」
「えっ、そういう言いかたは、三回目の乾杯をしたのに、俺が憶えていないと言いたげだね?」
「そうよ、違うの?」
「あはは、していないものはしてないよ。残念でした。私の記憶の中には全く存在しておりません」
 呆れた。そんなことがあるのだろうか。信じられない。だが、自分もところどころ記憶が飛んでいるところがない訳ではないが、全く記憶が喪失してしまって思い出せないなんて、……
 佐知代と悟は、ビールを飲みながら会話を楽しんだ。
「朝食を好きな人と食べるって最高ね。何だか、とっても美味しい感じね。これって幸せ感なのかしらね」
「食事は、大勢で食べると美味しいって言うからね。ほんとだね」
 佐知代は悟の顔を見て、改めて昨夜のことが脳裏に蘇ってきた。だが、何だか嘘みたいにも思えた。
「この続きはリビングでしようか? 食事はもういいの?」
「ご馳走様でした。とっても美味しくいただきました。ほんとに癖になりそうな美味しさだね」
「だから、毎日でも来たらいいのよ」
「でも、たまに来るくらいの方がいいと思うよ。そのうち、俺のことがうっとうしくなってくるかもよ」
「心配ご無用だよ、そんな風にはならないから。……ビールもっと飲むでしょ?」
「うん、そうだね。リビングに持って行こう」
 二人はリビングのソファに腰を下ろした。このソファの上で、口移しの乾杯をしたことを悟は知らないと言う。
「今日はどうするの? 帰るの?」
「うん、帰る」
「何時頃?」
「夕方にしようかな?」
「良かったら、どこか飲みに行かない?」
「またー? どこに行くの?」
「そうねえ、何か美味しいものを食べてから、あ、そうそう、ほらこの前行った、銀座のクラブにでも行って見ない?」
 佐知代は、出来るだけ悟と一緒に居たかった。
「そうか、あそこも久しぶりだね? あのママさん元気かなあ」
「ふふ、……じゃあ行くのね?」
「どうしようかなあ、取り敢えず何もすることがないから、姉さんに付き合うかな、……うん、……そうしよう」
「でも、ああいう所はゆっくり話が出来ないから、家に早めに帰って、今夜は悟とじっくりお話ししたいなあ」
「だね、それより、クラブに行くのは止めて、食事が済んだら、すぐまた家に帰ってもいいんじゃない?」
「でも、たまにはああいう所も行きたくない? どうせ遊びだし、羽目を外すのもいいんじゃない?」
「俺はそうでもないよ、何もクラブに儲けさすことないんじゃないの?」
「そう言うけど、ほら、ママのこれが悟の話をよく聞いておきなさいとか言ってたじゃない。仕事の話が舞い込むかもしれないよ」
 佐知代は親指を立てながら言った。
「お、そうだったね。なるほど。その後どうなったか聞き出したい訳だね」
「そうなの。どうかしら」
「だけど、例えいい話になっても渡米したりするから、仕事として引き受けるのは、多分無理だと思う。それに、もしそういう事になっていれば、姉さんに電話があると思うけど」
「そうね、そう言えばそうね、だったら行くこともないわね。いつでも行けるし、次の楽しみにとっておく?」
「そうだよ。そのほうがいいよ。ここでじっくり楽しもうよ」
「それだったら、夕食も家でしない? 腕によりをかけて美味しいの作るわよ」
「そうだなあ、姉さんの味は、そこらのレストランの味と比べ物にならないくらい美味しいから、何もわざわざ出かけてまで食事することもないよね」
「思いもかけない事に成ってしまって、食材がもうなくなってしまったのよ。後で近くのスーパーに買い物に行かない?」
「そうだね。いいよ。付き合うよ」

 社宅に帰ったところで、この週末は何もすることはないから、今日と明日はのんびり出来る。いや、来週あたりから、国際設計コンペの作業の追い込みやら、四月いっぱい毎週の土日に行われる篠ノ井での研修やら、米国支店設立準備室のことやら、さらには結婚式の準備、そして渡米と、何だかんだと忙しくなることは目に見えている。
 もしかしたら、今日、明日は、独身として心置きなくエンジョイ出来る最後の二日間かも知れない。お、そうだよ。あと僅かで独身ともいよいよお別れなんだ。だったら、思いっきり羽を伸ばすのも悪くはない。うん、そうだ。そうしよう。

「決まりね。……ところで、さっき悟は三回目の乾杯はしてないと言ったよね?」
「まだしてなかったね。でも口移しはねえー……」
「えっ、何よ、昨夜はしてもいいって言ったじゃない? あれは嘘だったの? それとも記憶が飛んでしまったの?」
「えっ、俺、そんなこと言った? あちゃー、ほんとに言った? 俺」
「あれ、やっぱり覚えてないんだ。最初は嫌だと言っていたけど、後になって三回の乾杯を完成させたい。だから、口移しの乾杯はしてもいいよ、と言ったくせに覚えてないなんて、……もう」
「あはは、そんなこと言ったんだ。そう言えば、何となく、言ったような気もしないでもないなあ」
「まあ、口移しの乾杯を認めたくないから、口から出まかせを言ったんでしょう?」
「そうじゃないけど、ちょっと抵抗があってね。分るでしょう? 俺の気持」
「もちろん分るわよ。花岡さんに悪いと思っているんでしょう?」
「だね。でも、別にエッチする訳じゃないから、いいと思うけどね」
「昨夜も同じこと言ってたわよ。姉と弟の大事な契りだからってね。秘密の快楽の一つと思えばいいじゃない? そんなに大袈裟に考えることないわよ」
「うん、そうだね。分った」
「それとも、三回目の乾杯の方法を変更する? 何かいい案ある」
「まだ俺達三分の二の契りなんだよね」
「そうよ。完全じゃないのよね。三回目をしてないという事だからね」
「だよなあ。じゃあさ、夕食が終わるまでに、何か案を考えることにしようか? 食事している間に、意外といい案が浮かぶかもしれないよ」
「そうね、何かいい案考えといてね」
「分った。……ところで姉さん、俺は二時頃ベッドに入ったと言ってたけど、それまで何してたの?」
 佐知代はドキッとした。まさか覚えていて、何と答えるか試しているんじゃないわよね。
「遅くまでいろいろ話したわよ。私も酔っぱらっていたから確かなことは言えないけど」
「例えばどんなこと話したの?」
「これからの人生の話とか、これからの姉さんと悟のこととか、いろいろだったと思うわ」
 佐知代は適当なことを言って誤魔化した。
「そうなんだ。俺、酔った勢いで、姉さんに何かしなかった?」
 佐知代は思わず悟の目を見た。憶えていて言っているのかどうか確認したかった。
「何よ、何かしたような気がしてるの?」
「そうじゃないけど、好きな姉さんが傍にいたんだから、もしかしたらと思っただけだよ」
「あら、満更そういう気持ちがないという事じゃないのね、嬉しいこと言うわね」
「あはは、そう痛いところを突っ込まないでよ。参ったなあ」
「実を言うとね、一度だけあったのよ」
「えっ、俺が姉さんに何か変なことしたの?」
「そうよ。もう寝る前のことだけど、悟は、もう前後の境がつかない位にフラフラに酔っていて、姉さんが悟をベッドの方に連れていったのよ」
「うんうん。それで?」
「姉さんが悟をベッドに寝かそうとした、その時、私はベッドに押し倒されて、悟にキスされたの」
「ええーっ、ほんとに? ……ほんと?」
「ええ、ほんとよ。姉さんはとっても嬉しかった。ウフッ」
「姉さん、それ、ほんと? まさか、嘘じゃないよね」
「本当よ。でも、証明は出来ないけどね」
「そっかー、俺、とうとうやってしまったのか。俺はバカだなあ。……で、それだけだったの?」
「何かいろいろしたいみたいだった。姉さんは嬉しかっけど、ダメって言って寝かしつけたの。姉さんお利口でしょう?」
 佐知代は嘘をついた。悲しかった。ほんとのことを言おうかと喉まで出たが抑えた。
「そっかー、何にも覚えていないよ。あ~あ、情けないなあ」
「そんなことないわよ。姉さんだったからいいんじゃない? そう思ったら?」
「そうだよな。他の人だったら、ちとヤバかったね」
「姉と弟がキスしたって構わないと思うわ。そうは思わない?」
「うん、だね。……そっかあ、とうとう姉さんとキスしてしまったか」
「そうよ」
「…………姉さん?」
 悟が急に意味ありげな顔をして、佐知代の顔を覗き込んだ。
「なーに?」
「姉さんて嘘つくの下手だね?」
「えっ、どういうことよ」
「俺ね、実は、今までとぼけていたけど、昨夜俺が、どういう話をして何をしたか、全部覚えてるんだよ」
 悟がニタニタしながら言った。佐知代は、飛び上がらんばかりにびっくりした。悟は全て覚えていたと言う。そうなんだ、ずーっと、とぼけていたんだ。何という事だ。それならそれで話がし易い。
「ほんと? じゃあ、姉さんとキスしたこと認めるのね?」
「あはは、残念でした。悟は姉さんには指一本も触れていません」
 佐知代はまたもびっくりした。
「でも、今、昨夜のことは全部覚えていると言ったじゃない」
「だから、俺が姉さんをベッドに押し倒してキスした、って、さっき言ってたよね? あはは、そんな嘘は通用しませんってこと」
 佐知代はこの言葉で、悟が、完全に記憶喪失な状態になっていたことを確信した。
「ふふ、バレバレね。少しからかってみたかっただけよ」
「姉さん、どうしてそんな嘘言うのよ。俺にキスして欲しいから言ったの?」
「さあ、どうしてかしら。悟が、酔った勢いで姉さんに何かしなかった? と聞くから、とっさに意地悪してみたかったのよ」
「あ、そういう事なんだ。俺にキスして欲しいから言ったんじゃないんだ。……少し期待はずれでした。……がっかり」
「フフ、何をブツブツ言ってるのよ。……じゃあ、今だったら記憶はしっかりしてるから? する?」
「……」
「あらどうしたのよ、ビールに酔っちゃったの? まさか、それはないわよね?」
 佐知代は気を利かして話題をそらせた。
「うん、それはない。何だかまだいけそうだよ」
「あら、昨夜の訓練が効いたみたいね。下戸返上する?」
「あはは、返上は出来ないけど、行けるところまで行く」
「頼もしいわね。もう一本持ってくるわね」
 佐知代は台所の方に向かった。そして、足早に戻って来た。
「だけど、姉さん、後で買い物に行くと言ったじゃん。車で行くんじゃないの?」
「そうよ。夕方だから平気だと思うけど、少し抑えなきゃね。もし危ないようだったら、タクシーで行くから心配ないわよ」
「赤い顔して、姉さんの後に着いて行ったら、何だかヤバくない?」
「何言ってるのよ。夕方までには醒めるわよ。心配だったら車の中で待ってたら? いっそのこと、家で待っててもいいわよ」
「だね。なるほど。その時考えようか」
「迎え酒って美味しいでしょう?」
「そうだね。どうしてなんだろうね?」
「昨夜のアルコール分がまだ残っていると思うから、今朝になって、新しい仲間が出来たって喜んでいるのじゃないかしらね」
「なるほどねえ。上手い表現するね、姉さん」
 二人はビールを飲みながら楽しい会話で終始した。
「良く見ると、姉さんの今朝の顔は、昨日より一段と綺麗に見えるけど気のせいかなあ」
「ふふ、ありがとう。悟はまだ酔いが残ってて、ボケて見えるのよ」
「あはは、そうかもね」
「何よそうかもねとは、いーえ、ボケてなんかいませんて言って欲しいわ」
「あはは、俺は気が利かないなあ。……あはは」

「悟に仕事をお願いするのは、早くても四年後よね」
 佐知代が急に仕事の話を持ち出した。
「そうだね。アメリカでの事前調査はもうすぐ始まるけど、実設計はそうなるね。でも、あっという間だよさ四年なんて」
……そうね、そうだわね。……悟はアメリカに行くのね。暫らく逢えなくなるのね。淋しいわね、とっても」
 佐知代の言葉に実感がこもっていた。
「だね。淋しくなるね」
「時々、悟を訪ねて行ってもいいかしら?」
「それは構わないよ、むしろ、事前調査のことを現地でいろいろ聞いたりして、知っておく必要があるんじゃないの?」
「そうだわね、じゃあ、そうするね? ほんとだ。そうしなければいけないわね」
 佐知代は、いろいろと想像を巡らせていた。
「大事なことだよ。それに、俺もたまには逢いたいしね。だから、そうこうしている間に、四年間なんてあっという間だよさ」
「なるほど。世界に羽ばたく最初のステップだから頑張らなきゃね」
「そうそう、その気にならなかったら何事も成就しないからね」
「分ったわ」

「ところで姉さん、つかぬ事を聞くけど、姉さんの身内は? ……お母さんは健在なの?」
「母は、父の後を追うようにして亡くなったわよ。苦労ばっかりした一生だったみたいね」
「そうなんだ。他に身内は?」
「もちろん、いるわよ。でも、もう遠い親戚ばかりになってしまったわね。……どうしてそんなこと聞くの?」
「姉さんが世界に羽ばたくのはいいけど、そろそろ跡継ぎのことを考えて、今から教育しておいた方がいいと思ってね」
「実は、それが悩みの種なのよねぇー。今はまだそれほど深くは考えてはいないけど、いずれは考えなければならない大事なことなのよね。困ってるのよ」
「養子を迎えたら?」
「それも考えない訳ではないのよ、でもねえー、これもまた難しい問題なのよ」
「確かにね。姉さんの考えていること、何となく分るよ。姉さんのお眼鏡にかなう人なんて、そうざらには居ないからねえ。まして、姉さんの残した世界中のホテルを経営管理するとなると、それ相応の能力を要求されるし、相当な教育が必要だしねえ」
「そうなの。私は好きでやって来たけど、これからのことを考えると、ほんとに頭が痛くなるわね」
「そうだね。ま、でも、そんなことも頭に入れて計画しないと、とんでもない事に成りかねないからね」
「そうね。避けて通れない問題よね」
「いっそ、水島さんあたりに任せてもいいかもね」
「それも考えないことはないの。でも、名選手名監督にあらずって言うでしょう? まさにそんな感じなのよね」
「そっかー、なるほどね。……ま、いつも考えていれば、そのうち何とかなるよ。心配ないよ姉さん」
「そうね、まだ少し先の話だしね」
 結局迎え酒のビールは二本で終わった。珍しく、ほとんど悟が飲んでしまった。佐知代は、やはり車の運転のことが気になっていたのである。二人はCDを聞きながら雑談に終始した。

 夕方になり、佐知代がスーパーまで買い出しに行くと言い出した。
「悟も行く? 一緒に行こう?」
 佐知代は悟と一緒に買い物がしたかった。スーパーに買い物に行くなんて、これから先はまずあり得ないことである。だから、どうしても一緒に買い物をしたかったのである。
「俺の顔、赤くない?」
「醒めたみたいね。全然大丈夫よ。ふふふ、悟も大分酒に強くなったみたいね。いい傾向よ」
「少し訓練できてるみたいだね。ま、ぼちぼちと行きますかね?」
「何か食べたいものある?」
「チキン南蛮」
「チキン南蛮? まあ、こってりしたのが好きなの?」
「好きなんだよ。作れる?」
「もちろん訳ないわよ。分った。他は?」
「後は姉さんに任せる」
 二人は富ヶ谷のスーパーに行って、夕食用の食材を買い求めて帰ってきた。
「これから夕飯作るから、適当にくつろいでてね?」
「俺も何か手伝おうか?」
「男子厨房に入らずでしょう?」
「あはは、姉さんて古いねえー、そんなこと言ったら、今、笑われるよ」
「そんなこと分ってるわよ。いいのっ、悟はテレビでも見てて。……それより、三回目の乾杯のこと考えといてよ、ねっ? 姉さんも料理しながら考えるから」
「あ、だったね、……うん、分った」
 佐知代は台所に引っ込んだ。
 悟はリビングのソファに腰を下ろした。テレビのスイッチを入れたが見る気がしなかった。思えば、都内有数の一等地にこんな大きな邸宅を構えて、しかも一人住まいである。姉は、何を思いながら暮らしているのだろうかと思った。
 悟はテレビを見ながら、三回目の乾杯のことを思った。佐知代はワインを口移ししようと言う。今となっては、それでもいいとは思っていたが、もっと何かいい方法はないもんだろうか。

 考えてみたら、そもそも姉弟の関係になろうという話は、赤坂の料亭野菊で、佐知代が強引に持ち出してきた話である。『どうして弟でなければならないのですか?』と聞いた時、『一心同体の関係になりたいの。堅苦しい肩書は抜きにして、おいお前の関係になりたいの。そうなるには姉と弟の関係になった方が一番いいでしょう?』と言い、挙句の果ては、『私の気持がそうして欲しいと言ってるのよっ』と言う始末である。これでははっきりとした理由にはならない。誠に曖昧で、ただ強引に意思を貫き通したいだけである。しかし、どんな理由にしろ、姉弟の関係にどうしてもなりたいのなら、いっそのことなってもいいじゃないか。駄目だという理由はない。
 時のいたずらが二人の仲を割いたという事なら、姉弟いう関係で、人生を全うして行くのも面白い事ではある。よそ様に迷惑が掛かる訳でもない。おそらく、二人だけの永遠の秘密なのである。
 そんなこんなで、二人でじっくり話し合って、姉弟になることをお互いが承諾した以上、今更、ああだこうだと言っても始まらない。なるようになるだろう。だが、所詮は男と女である、お互いが余程の理性を保たない限り、好き合った二人には、暴発しかねない危険がはらんでいる。それにしても妙なことになったもんだ。

 四十八歳の姉と三十二歳の弟、二人の年を合計すれば丁度八十歳になる。このことは何の意味も持たないが、絆80120323記念日と言えば意味を持つ。いつの日か昨日のことを思う時、二人の強烈な絆が誕生した記念の年月日と思えばいいのだ。そんなことは言えても、三回目の乾杯の新しい方法は思い浮かばなかった。姉の案で行くより方法はなさそうである。
 家の外が次第に暗くなってきた。悟はリビングのカーテンを閉じた。灯りをつけて、面白くもないテレビのスイッチを切り、CDのスイッチを入れた。何処かで聞いたようなJポップが流れてきた。
「姉さんジャズの曲の入ったCDないの?」
 悟は台所に行って佐知代に尋ねた。
「ジャズ? ジャズはないわよ。悟好きなの?」
「ジャズ以外は音楽じゃないよ、と言いたいくらい好きだよ」
「そうなんだ。じゃ、今度来るとき持ってきといたら?」
「そうだね。姉さんはJポップファンなの?」
「そうね、でも洋楽も聞くわよ。あるでしょう? アームストロングとかシナトラとか」
「へー、そんなのも好きなんだ」
「あ、そうそう今夜はムーディーな曲がいいわね。そこらにあるでしょ? 適当に探して好きな曲をかけたら?」
「うん、分った。そうする」
 悟は何枚かのCDの中からムード音楽を選んだ。
「姉さん部屋の灯りはどうする? 昨日みたいにロウソクにする?」
「その方がいいわね。もうなかったから、さっき買ってきたわよ。そこのビニール袋に入っているでしょ? でも食事がすんでからでいいんじゃない?」
「そうだね。そうしようか」
「あ、悟、お風呂どうする? 食後でいいの?」
「おーー、そうだなあ、ほんとは食前がいいけど、一人だけそうするのも嫌だなあ。食後にしようかな」
「あい、分った。姉さんも、料理を作る時汗かくから食後がいいわ。何だったら一緒に入る?」
 佐知代はほんとはそうして欲しいと思ったが、軽い冗談のつもりで言った。
「お、いいねえ、そうしようか。姉さんの美形を、たっぷりと眺めさせてもらおうかなあ。あはは」
「えっ、ほんと? 嘘でしょう?」
「あはは、冗談だよ。そんこと出来る訳ないじゃん」
「ふふ、だよね」
「でも、ちょっぴり期待したりして」
 悟は言いながらリビングに足を向けた。

「悟、こっちいらっしゃい。出来たわよ」
 佐知代の声に促されてダイニングテーブルに向かった。テーブルに並べられている料理を見てびっくりした。佐知代にとってはおそらく人生で初めてのことであろう。腕を振るって作った豪勢な料理が、所狭しと並べられていた。
「ウォー、姉さん凄いね、これは凄いや。わーー、たまげたね。美味しそうなものばかりだね」
「フフ、ついつい張り切り過ぎたみたい。作り過ぎた感じだね。……ま、いいでしょう、今夜は大いに食べて、大いに飲みましょう。さあ座って」
 佐知代は満ち足りた顔でご機嫌だった。好きな弟の為にと思って作った料理が、こんなにもルンルン気分で作れるなんて、思っても見ないことだった。
「俺、ほんとに姉さん見直しちゃったよ、姉さん冗談抜きで、ホテル業を止めてレストランでも開業したら?」
 悟は、同じようなことを、亜希子にも言ったような気がして、心の中で苦笑いした。
「バカも休み休み言いなさい。悟に食べて貰いたいから作っただけじゃない。他の人だったら、作る気なんかこれっぽっちもないわよ」
「そうかなあ、勿体ないねえ。この味は、多くの人を幸せ気分にしてくれると思うけどなあ」
「ありがとう。その言葉だけでも作った甲斐があったわね」
「それにしても凄い料理だね。このチキン南蛮美味そうだねぇー」
「前置きはそのくらいにして、ビールにしたわよ、いいでしょ?」
「そうだね。じゃあ、取り敢えず乾杯しようよ。姉さん何か音頭とって」
「今夜でほんとに姉と弟になるのよね? それを祝して乾杯ね」
「姉さん、記念日の名前考えたよ」
「へえー、そうなの? どんな名前にしたの?」
「絆80120323記念日」
「また、ややこしそうな名前ね。絆は分るけど、後の数字は何なの?」
「うん。80は姉さんと俺の年の合計。これは今年しかないんだよ」
「なるほど。後は?」
「年月日だよ。2012年03月23日。昨日の日付。今日の日付でも良かったけど、昨日の方がいいと思って」
「あら、そうね、いいわねえ。さすがだね悟、うんいい、覚えやすいし、どういう意味かも後からすぐ分る名前ね」
 佐知代はすぐに賛同した。昨夜の強烈な体験を、後々思い出す為の記念日の名前である。最高。
「そう思ったんだけど、ちょっと長ったらしいし、ダメかなあ」
「姉さんと悟だけが分ればいい訳だから、却っていいと思うけど。それに数字の頭に8がついて8桁になっているし、末広がりで縁起がいいじゃない?」
「なるほどだよね。じゃあ、そうしておこうか」
「じゃあ決まったところで、改めて絆80120323記念日に乾杯」
「かんぱい」
「さ、悟が気に入ってくれるかどうか分らないけど、大いに飲んでたくさん食べてね、と言いたいところだけど、後でシャワー浴びるから、ビールは程々にね?」
「ヤッター、だね、じゃあいただきまーす」
 二人は食事をしながら談笑した。
「悟どうなの? そのチキン南蛮の味。美味しいかしら」
「姉さんさあ、俺はチキン南蛮が好きで良く食べるんだけど、今まで食べたチキン南蛮は何だったんだろうと思ってしまうね。この味は麻薬だね。もう外では食べないことにした。すげえ上手い。口がとろけそうだよ」
「まあ、オーバーなこと。でも、そういってくれるだけでも嬉しいわ。何だか、とっても幸せな気分ね。こんな気分て初めてだわ」
「姉さんの旦那さんになる人幸せだろうなあ。毎日こんな料理が食べられるんだから」
「旦那さんになる人は、もうおりませんよ。……悟はそう言うけど、前の旦那の時は、料理なんか作らなかったのよ」
「どうして?」
「だって、こっちも作る気なかったし、二人とも時間がまちまちだったから、結局二人とも、外で適当に食べたのよ」
「あ、そうなんだ。勿体ない話だなあ。……姉さん、旦那さんになる人はもうおりません、ってどういう意味?」
「もう結婚は完全に諦めたの。悟と生きて行くことに決めたから、もういいのよ」
「えっ、だって姉弟の関係と結婚とは意味が違うじゃん。どうしてそういう事になるの?」
「いいのよっ、もう決めたんだから。……さ、飲んで」
 佐知代は多くを語りたくないようである。一瞬悲しそうな顔をして、悟にビールを注いだ。

「俺は姉さんに再婚して欲しいなあ。そして、幸せになって欲しいなあ」
 悟は佐知代の目を見て切実な思いで語った。
「ありがとう。でも、昨日も言ったけど、これが私の運命なのよ。運命を素直に受け止めて歩むこともいいんじゃないかと思ってるの。だって、再婚したからって、幸せになれる保証なんて何処にもないんだものね」
「……」
「幸いに弟も出来たことだし、これ以上のことを望んだら、それこそ罰が当たるわよ」
「そうなんだ。意志が固いんだね。……だったら、俺は姉さんに何をしたらいいの?」
「何もしなくてもいいわよ。ただ姉さんの傍にいてくれさえしてくれればね」
「だって、俺は五月には結婚するんだよ。新しい生活が始まるんだよ。いつも姉さんの傍にはおれないよ」
「そんなことは分ってるわよ。悟は花岡さんと幸せに暮らしていけばいいのよ。姉さんも応援するわ」
「ありがとう」
「それはそれとして、悟は、前に突き進んで行かなきゃならないわよね。……姉さんが傍にいて欲しいと言う意味はね?」
「うん」
「仕事やたまにプライベートで付き合う中で、弟として心の支えになって欲しいという事なのよ。……分る? 姉さんの言っている意味」
「うん。分るよ」
「たまには、ここの家で姉さんといろんな話をして欲しいのよ。悟は、今はあまり感じていないかもしれないけど、口で言ったり頭で考えるのは簡単だけど、独立したら、それなりに大変だと思うの」
「そう思ってる。やっていけるかと心配もしてるよ」
「そう言った精神状態の時には、何でも話せる人が必要でしょう? もちろん、花岡さんだって話し相手にはなると思うけど、姉さんとはまた別な意味で、いろいろな話が出来たり、慰め合ったり癒されたり助け合ったり出来ると思うの」
「そうだね。そうありたいよね」
「でしょう? 姉と弟のほんとの絆って、そんなところにあるような気がしてるのね」
「全く同感だね」
「あなた方夫婦は、夫婦なりの生き方をもちろんして行けばいい訳だし、姉さんが、とやかくいう問題ではないわよね。だけど、それはそれ、姉さんとの関係は、どちらかと言うと仕事中心になる訳だから、その辺もしっかりと考えて生きて貰いたいと思ってるのよ」
「そうだね。大事なことだよね」
「それって、悟にとって重荷かしらね?」
「いや、そんなことないよ。俺がその辺を割り切って、弟として姉さんに尽くしていけばいいんだろ?」
「尽くしてなんて言葉は使わなくてもいいのよ、要は日頃から、いつも悟が傍にいてくれていると姉さんが思えるような毎日にしたいだけなのよ」
「分った。必ずそうする。だから安心して」
「ほんと? ありがとう」
「……姉さん、それって、いつ頃からそんな風に考えるようになったの? だって、再婚も無きにしも非ずみたいな雰囲気もあったじゃない?」
「昨日、最終的に決心したの」
「昨日? どうして昨日なの? 昨日何かあったの?」
「何もないわよ、ただ、そう決めたのよ、それでいいでしょう? 昨夜からずーっと、考えに考えて出した結論なのよ」
「まあ、姉さんがそう言うならそれでいいけど、何だか切実だったから」
「ふふ、しんみりした話になってしまって、せっかくのご馳走も台無しね」
「あはは、そんなことないよ。姉さんの心の隠し味が効いてて、一段と美味しいでござるよ」
「やっぱり、悟はいい奴だ。ほんとに惚れ惚れするね。こんな弟を持って姉さん幸せだわあ」
「さ、姉さんも飲んで」
「ありがとうね。美味しいね」
 佐知代は少し目が潤んできた。夕食を、こんなに楽しくルンルン気分で食べられるなんて何と嬉しい事だろう。
「ほら、料理もあんまり食べてないじゃない」
 悟は自分の箸で料理をつまんで、佐知代の口に持っていった。
「さ、姉さん食べて」
 佐知代は感詰まってしまった。暫らく悟の目を見詰めていた。辛うじて泣くのを思いとどまった。
「フフ、ありがとう優しいのね。こんなの初めて。とっても嬉しいわ。じゃあ、今度は姉さんがしてあげるね、……はい」
 佐知代は悟にの口に箸を向けた。
「ありがとう、なんだか照れるね、あはは、でも、いいねえ」
 食事が進み二人の語らいは尽きることがなかった。

 長い食事が終わり、佐知代は後片付けを済ませて、リビングルームのソファに腰を下ろした。
「ふー、お腹一杯になったわね」
「それにしても、美味しかったなあ、ついつい食べてしまって、お腹パンパンだよ」
「あら、いい音楽ね。ムードがあるわね。……どうする? ビールでいいの? それともワインにする?」
「そうだね、ビールはお腹が膨らむから、シャワー浴びた後の一杯だけビールにして、後はワインがいいかもね」
「だけど、悟、ちょっと大丈夫なの? 随分飲めるようになったわね。信じられない」
「あはは、こんな綺麗な人と美味しい料理とこの雰囲気と、飲むなと言われても飲みたくなるような、そんな感じだね」
「へーー、変われば変わるもんだね。驚いたわ。……じゃあ、今夜は昨夜のワインと違うのを持ってくるね」
 佐知代は奥に引っ込んで、暫らくしてからビニール袋とボトルを手に戻って来た。
「さ、ロウソクを出して火をつけて」
 悟は姉に言われて準備した。天井の光が消えて、代わりにロウソクの火ががゆらゆらと燃えだした。雰囲気が一気に盛り上がり、二人の顔が灯りに揺れた。
「悟、シャワー浴びてきたら? 下着とガウンは用意してあるわよ」
「そうだね、じゃあ、お先にそうするかな?」
 悟が洗面所に消えた。
 悟はシャワーを浴びながら、三回目の乾杯のことをまた考えていた。そして、最終的に姉に任せようと思った。姉の気の済むようにさせたかった。どうなるかは分らないが、ここまで来たら、そうするより手はないだろうと思った。これも人生だと思って受け入れざるを得ないだろう。そうすることの代償があるのなら、甘んじて受けようと強く思い、覚悟した。
「ああ、気持ち良かった。姉さんも浴びてきたら?」
「うん。そうする」
 佐知代が洗面所に消えた。佐知代は、シャワーを浴びながらいろいろな思いが頭をよぎった。ぎりぎりのところで、お互いの理性が勝利することの大事さを思い、貫き通さなければならないと、自分に強く言い聞かせた。佐知代は、今夜は努めて冷静になろうと思った。おそらく、月曜日以降は悟も忙しくなる筈だから、今夜が最後の夜になるかもしれない。記念日にふさわしい夜になるようにしようと思った。そして、三回目の乾杯は、簡単に普通に済まそうと思い直した。とっても切なく哀しい気もしたが、今はこれが最善の方法なのだと自分に言い聞かせた。
 佐知代が気持ちよさそうな顔で、ビール瓶を片手にしてリビングルームのソファに腰を掛けた。
「さあ、湯上りの一杯といこうかしらね?」
 二人はビールをコップに注いだ。
「今夜も泊まるんでしょ?」
 佐知代が悟に尋ねた。
「そうだね、もう、こういう機会もあんまりなさそうだから、今夜は徹夜で楽しもうか?」
「とっても嬉しいけど、何をして楽しむの?」
「そうだね、ワインを飲みながらいろいろお話して、トランプして、またお話しして……」
「あらトランプ? まあ随分と長いことしたことないわね。トランプは何するの?」
「ババ抜き」
「コラッ、何で姉さんの顔を見て言うのよ、呆れた。どうせ姉さんはババアですよーだ」
「あはは、そんなつもりで言ったんじゃないよ」
「あ、でも、トランプあったかしら」
 佐知代は奥に引っ込んだ。そして、すぐ戻って来た。
「残念でした。やっぱりなかったわよ」
「あ、そうなんだ。じゃあ仕方ないね」
「今度買っておくね」
「そうだね、……さて、そろそろワインにしない?」
「フフ、もうすっかり下戸返上したみたいね。それって、呑兵衛の言うセリフだわよ」
「あはは、そうかなあ。いつもは、理性を失ってはいけないと緊張して飲んでるから、あんまり量はいけないけど、今夜みたいに、姉さんと飲む時は緊張しなくてもいいから、いけそうな感じになるね」
「でも、理性は失ってはダメよ、何もかもぶち壊しになるからね? 分ってる?」
「分ってるよ。そうならないように、姉さんも気をつけといてよ。そうなりかけたら俺を叱ってな?」
「分ったわ。ふふ、今朝みたいに、昨夜のことはさっぱり覚えていない、なんてならないようにしなきゃね」
「あはは、ほんとだ。……だね」
 部屋はロウソクの灯りだけである。CDからは相変わらずムード音楽が流れている。
「このワインはね、昨夜のワインよりも高級なのよ。きっと美味しいと思うわ」
「ほんとう? 嬉しいなあ。だけど、そんなに美味しかったら、また泥酔しそうだなあ。自信ないなあ」
「それはいいのよ。その時はベッドで寝てしまえばいいんだから。飲む前からそんな風に構えたら、ちっとも楽しくないでしょう? 今夜は大いに楽しもう。ねっ?」
「そうだね。酔いに任せて今宵を楽しむ」
「あら、それって駄洒落?」
「あはは、何でもいいのじゃよ。楽しければそれでいいのだよ、姫君」
「フフ、また姫にされたわね。時々出るのねそのフレーズ。花岡さんにも言ってるの? そんなこと」
「うん、しょっちゅう言ってる。二人ともその気になって演ずるから結構楽しいよ」
「へーー、そうなんだ、楽しそうだね。羨ましい」
 佐知代は正直にそう思った。
「姉さんの傍にいる時もやりたいと思ってるよ。……ちょっとやって見る? 姫になったつもりで演技するんだよ」
「私は嫌よそんなの。花岡さんとだけやったらいいことだわ。私は遠慮します」
 佐知代は少しひねくれたような言い方をした。

「余は、姫のそのようないじけた顔が好きなのじゃ、あはは」
 佐知代も悟の言い回しに可笑しくなって笑った。
「まあ、困った人ね」
「ところで、そなたの名は何だったかのう」
「あら、もうお忘れになりましたの?」
 佐知代は仕方なく受け答えしようと思った。
「すまん、余ももう歳を取り過ぎた。最近は物忘れがひどくてのう、昨夜のことも覚えとらんのじゃ」
 佐知代は可笑しくなってきた。
「殿、それでは、姫が正室だという事もお忘れなのですか?」
「いやいや、そこまでは老いぼれてはおらんぞ。そなたはわしが一番愛してる姫だが、名を何と言ったかのう」
 一番愛しているんだったら、名前くらい覚えておけよ。
「佐知代と申します」
「お、そうだったのう。今思い出した。フム、佐知代か、いい名だのう。これから、そなたを呼ぶ時、何と呼ぼうかのう。佐知姫かのう、知代姫かのう、それとも佐代姫がいいかのう。そちはどう呼ばれたいのじゃ、答えてみい」
「姫は佐代姫と呼ばれとうございます」
「何? 佐代姫とな。……さよか」
 佐知代は吹き出してしまって、大きな声で笑った。
「あはは、可笑しい、あはは、悟、姉さん、可笑しくってお腹が痛い」
「そうか、お腹が痛いか、ならば、これを進ぜよう。これを飲めば、たちどころに良くなるぞ」
 悟は佐知代のグラスにワインを注いだ。
「さあ、飲むがいい、……どうじゃ? 気分は」
「はい。少しばかり良くなったような感じが致します」
 佐知代は、ますます可笑しくなってきた。
「そうか、それは何よりじゃ、……それにしても、そなたは美しい姫じゃのう。これからも、余がちょくちょく参るがよろしいか?」
「はい。有り難きお言葉痛み入りましてございます。殿がおいでになるのを、毎晩、首を長くしてお待ち申し上げております」
「そうか、良くぞ申した。毎晩、動物園に行けばいいという事だな?」
「はっ? 動物園ですか?」
「そうじゃ。そなた今、首を長くと申したではないか。首が長いのはキリンしかおらん。キリンは動物園しかおらんではないか」
 佐知代は今にも吹き出してしまいそうだった。
「しかし殿、動物園で姫をお抱き遊ばされるのですか?」
「そうじゃ。仕方あるまい。そなたが言うたことじゃからのう。しかし、オリの中ではみんなが見ているから、気になるなあ」
「夜は観客もおりませんので、大丈夫かと思われますが」
「しかし、最近は、動物達の夜の生態を見て貰おうと、夜間も見学させている所もあると聞くぞ」
「はい、確かにそのようでございますね。それはそれで、隠れてすればよろしいかと思いますが」
「そうじゃな。いたし方あるまいのう」
「もしも動物園で男子のお子が生まれたら、何という名前にしたら宜しゅうございますでしょうか」
「その前に、そなたは、わしの名を知っておるのか?」
「はい。存じ上げております。小早川悟五郎 薩摩守様でございます」
「良く存じて居るのう。余は嬉しいぞ。但し、言っておくが、わしは決してただ乗りではないぞ、心得ておけ」
「はい。心得ております」
「フム、そうか、して、そのお子の名前のう、さーて、そちとわしの子が動物園で生まれたのだな? そうよのう、佐代五郎助左衛門はどうじゃ。……ん?」
 佐知代は、良くもスラスラと名前が出て来るもんだと感心した。
「佐代五郎助左衛門ですか? 佐代と五郎が助け合って生まれたという意味でしょうか」
「オオー、そちは呑み込みが早いのう、正にその通りじゃ、いい名ではないか、どうじゃ? そうは思わんか?」
「はい。結構な名前とは存じますが、お子は動物園のオリの中で暮らすのですか?」
「そうじゃ。キリンと一緒に暮らすのじゃ、分ったな?」
「ハハー、かしこまりました。毎晩お子と一緒に、首を長くしてお待ち申し上げております」
「はて、そちの名は何て言ったかのう」
「あれ、殿、もうお忘れなのですか?」
「歳は取りたくないのう」
「失礼ですが、殿は今、おいくつになられましたか?」
「わしか? わしは四十八じゃよ。そなたは何歳じゃ?」
「はい。三十二歳になりましてござりまする」
「そうか、三十二歳か若いのう。羨ましいのう」
「いえ、おなごの三十二は、もうババアでございます」
「いや、余が言うているのは、身体のことを言うているのではない。心が若いと言うているのじゃ。体は誰しも歳をとるが、心は永久に歳は取らん。そなたのように、いつまでも心の美しいおなごでいたいよのう」
「ありがたきお言葉、姫は嬉しゅうございます」
「して、そちの名は何て言ったかのう」
「佐代と申します」
「そうだったのう。佐代姫か。……さよか」
 佐知代は、可笑しくて、可笑しくてソファに崩れた。
「あはは、面白い。やって見ると何だか楽しくなるわね」
 佐知代は笑い転げながら悟の顔を見た。
「でしょう? やり始めたら止まらなくなるんだよね、楽しいと思わない?」
「とっても楽しいね、ほんと病み付きになりそうね」
「受け答えの仕方によって、とんでもない方向に行ったりして、それがまた面白くて楽しいよね」
「うんうん、言えてる。……ああ、楽しかった」

 二人の会話は夜更けまで続いた。ワインがあっという間に減っていった。
「姉さん、このワインほんとに美味しいね。相当な高級品じゃないの?」
「まあね。結構するわね」
「だろうなあ、下戸の俺が言うのもなんだけど、アルコールに対する認識を改めなければならないね」
「ふふ、悟はもう完全に下戸じゃなくなったみたいね。見てごらん。もう残り少なくなっているよ」
「道理でさっきから酔いが回って、少しふらふらしてきたよ」
「大丈夫? もう夜も遅いから寝たら?」
「まだ大丈夫だよ。さっき徹夜で飲もうと言ったじゃないか」
「悟が大丈夫ならいいけど、少し心配になって来たわ」
「それはいいけど、姉さん、三回目の乾杯しないの?」
「あら、そうだわね。忘れかけていた。悟が意識のある間にしないとね。何回もしなきゃいけなくなるからね。……そうね、そろそろしようかね」
「どうするの? 何か新しい案考えたの?」
「考えたわよ。もう口移しは止めて、新しい方法を考えついたよ」
「お、そうなんだ。どうするの?」
「うん、ダンスしながら乾杯するの」
「ダンスしながら? ワイングラス持って?」
「そうよ。グラスの中のワインがなくなるまで踊るの。なくなったら、三回目の乾杯が無事終わったってことになるわね」
「なるほど、いいね。ムーディーな音楽もかかっているし、それで姉弟の契りが完成するという事だね」
「そういうことね。二日間に亘るイベントの終りという事よね」
「うん、分った。じゃあ、始めようか」
 二人は、並々と注がれたワイングラスを片手に身体を合わせた。音楽に合わせて腰を振った。佐知代の甘い香りが香水と共に悟の鼻を刺激した。
「姉さん、音頭は?」
「これまでさんざん言い尽くしてきたから簡単にするね? これが最後の乾杯です。この乾杯で、完全に姉と弟の契りが完成します。……それでは、悟と姉さんの永遠の絆を祝して、……乾杯」
「かんぱい」
 二人はにっこり笑って乾杯した。片手でお互いの腰を強く引き寄せた。佐知代は思わず昨夜のことを思い出した。酔いとムードが感情を昂ぶらせてしまい、いまにも興奮を抑えきれなくなっている自分がいた。それでも理性が邪魔をしたお蔭で、辛うじて気持ちを抑えることが出来た。
「悟はまだ大丈夫よね? 昨夜みたいに覚えてないなんてことないよね? まだ大丈夫よね」
「姉さん、まだまだ大丈夫だよ」
「じゃあ、これ何本に見える?」
 佐知代は指を三本立てた。
「うん、六本だね」
「ふふ、嘘言ってるんでしょ?」
「あはは、ばれたか三本だよ」
「ああ、良かった。……あら、早いわね飲むのが、飲み終わったらダンスも終わりなのよ」
「うん。分ってるよ。早く飲み干して、グラスを置いてからまた踊ろうよ。ねっ?」
「なるほど、片手が邪魔だと言いたいのね?」
「ご名答。……だから早く飲んでよ」
「まあ、少しでも長く楽しもうと思ったのに。……でもそれっていい案ね。賛成です」
 二人は乾杯のワインを飲み終えて、ソファに腰を下ろした。
「ああ、これで契りが終わって、俺に姉さんが出来たんだ。……ねっ、佐代姉さん?」
「フフ、佐代姉さんになったのね。いいわねー、何とも言えない良い響きね、悟?」
「改めて、ほんとにこれから宜しくお願い致します」
「私からもよろしくお願いします」
「でも、口移しの乾杯を覚悟していたから、意外とあっさりとした感じだったね」
「そうね、姉さんは口移しを望んだけど、やっぱり良く考えたら、結婚前にそんなことしたら、きっと悟が後悔するに決まっていると思って諦めたの」
「そうか。……だよね。……でも、俺は結婚する前だからまだ許されるかなと、ちょっぴり考えていたんだよね。甘かったかな。でも、姉さんの言う通りだね。うん、分った。納得」
「姉さんも、キスくらいだったらと思ったんだけど、何だか怖くなったのよ」
「何が怖いの?」
「だって、キスだけで終わりそうにないでしょう? 姉さんが悟の身体を欲しくなったらどうするのよ。きっとそうなると思って、怖くなったの。だから止めた方がいいと思った訳。……お分かり?」
 佐知代は昨夜の再現を一方では望みながら、一方でそれは絶対だめという別な考えがあった。
「はい。良く分りました。至極ご尤もな考えです。はい。納得しました」
「ふふ、もう殿は嫌よ」
「あはは、それはまたの機会にしましょう」

 ロウソクに照らされた二人の顔が紅潮していた。ムード音楽が二人をいい気分にしてくれていた。
「こんな素敵な夜は、もうないかも知れないわね」
 佐知代が切ない顔でつぶやくように言った。
「そうだね。結婚して家庭に入れば、今みたいに自由には出来ないからね。当たり前の話だけど、姉さんの家に泊まるなんてことは、まずないというか出来なくなるね」
「そうよねえ、それが現実よね。ま、仕方のないことだわね。でも、泊まらなくてもいいから、夜遅くに家に帰るなんてことは構わないでしょう?」
「それは全然平気だと思う。仕事柄そういうことは良くあるし、彼女もその辺のことは分っているみたいだよ」
「もちろん、家庭は大事にして欲しいと思っているけど、姉さんのことも少しは考えてね?」
「何言ってるんだよ当たり前だろう? 大事にし過ぎて嫌わないでよ?」
「フフ、そんな訳ないわよ。……それを聞いて安心したわ。世の中何が起こるか分らないから、その時々の判断が大事になるけど、悟がいつまでもその気持ちでいてくれさえしたら、姉さんはもう何も言うことはないわ」
「姉さんに甘えるかもよ。いいの?」
「はいはい、心の準備は、もうとっくに出来ていますよ。遠慮なく思い切って甘えて頂戴」
「ウォー、嬉しいなあ、ヤッターって感じだね」
「姉と弟になったんだから当たり前じゃない」
「姉さんかあ、なんだか夢みたいだなあ」
「悟、ワインは? まだ飲むの? もう止めにしたら? それこそダウンしてしまうよ」
「さっきから何だか朦朧としてきたんだよね。大丈夫かなあ俺」
「フフ、何言ってるのよ。そんなこと姉さんが知る訳ないじゃない? まだ意識はあるんでしょ?」
「うん。大丈夫。あるよ。姉さんは? 大丈夫?」
「姉さんも、さほどではないようだけど、少し酔ってきたみたいね。いい気分になって来たわ」
「じゃあ、もう寝なさい。これは余の命令じゃ」
「また出て来た。もう、その手には乗らないわよ」
「あはは、君は賢いのう」
「ふふ、じゃあ、大丈夫かどうかテストするからね。答えて目の前にいる人は誰だ」
「佐代姉さんだよ」
「その人は、綺麗ですか醜いですか?」
「少しボケて見えるけど、綺麗だよ」
「ああ、かなり酔ってるわね。もう寝たほうが良さそうね。さ、ベッドに行って寝なさい」
「あれっ、姫が殿に命令するの? それはないでしょう」
「ったくもう、困った人ねぇ。じゃあ、好きにしたら」
 佐知代はわざと突っぱねた。一方で、悟はまだ昨夜みたいな状況ではないと思った。意識ははっきりしているようだ。
「とうとう怒られてしまった」
「怒ってなんていないわよ。少しでも意識のある間に寝たほうがいいでしょう? だって、朝起きて意識がないなんて気持ち悪くない?」
「そうだなあ、でも、知らない美徳ってあるでしょ?」
「知らない美徳? そんなのある訳ないじゃない? 勝手に美徳を作らないでよ」
「あはは、ほんとだね。手厳しくなってきたね。……でも、姉さんて素敵だなあ」
「あら、ありがとう」
「今度生まれてきたら、姉さんと一緒になりたいなあ」
「あら、そうなの? 嬉しいこと言ってくれるじゃない?」
「全然その気がないみたいないい方だね」
「フフ、姉さんはね、非現実的な話は苦手なの」
「なるほどね。確かに非現実的だね」
「ところで姉さん、明日は仕事は?」
「ホテル業は年中無休の商売だけど、姉さんは、可能な限り日曜日は出社しないことにしてるの」
「へーー、その可能な限りが曲者だね。休みなんか取れていないんじゃないの?」
「そうよ。図星よ。まだまだ、私が采配を振るわないと回っていかないのよ。情けないと言ったらありゃしない」
「で、明日は可能ってことなの?」
「そうよ。明日はまた悟と一緒にいたいの」
「そっかあ、嬉しいなあ。姉さん大好きだよ、ほんとにキスしたくなっちゃった」
「ふふ、ダメな人ねぇ、もう少し理性のある人かと思ったけど、お酒が入ると駄目なの?」
「いや、姉さんに責任があるんだよ。俺の理性を狂わしてるのは姉さんなんだよ。自覚しなさいよ」
「あら、今度は私が怒られたわね。変なの。どうして私に責任があるのよ」
「じゃあ、言うよ。いい? 俺が姉さんを好きという思いが、理性の範囲を超えているんだよ。分る? 言っている意味」
「はっはー、悟はまだ酔っぱらっていないね。立派なこと言うじゃない。そんなの、しらふの時にも言えない言葉よ」
「あはは、だからさっきから、酔ってはいるけど、意識ははっきりしてると言ってるじゃない。話の焦点をはぐらかさないでよ」
「でも、言っていることは完全に屁理屈よね。そんなの通用しないわよ。独りよがりな考えだわ」
「そうかなあ」
「じゃあ、答えて頂戴。花岡さんに対する理性はどうなるの?」
「……」
「ほら、ご覧なさい。答えられないでしょ? さっきから言っているでしょう? 分らない人ねぇ。ここで、悟と私が関係を結んだら、二人とも奈落の底に突き落とされるのよ。それくらいのことが分らないの?」
「姉さんと俺がキスしたぐらいで?」
「だから、キスだけでは終わらないでしょう、という事を言ってるの、何度も言わせないでよ」
「じゃあ、キスだけで終わったら、いいという事なの?」
「……まあ、そうね。秘密の快楽の範囲内かしらね」
 佐知代は言葉に窮してしまって適当に言った。悟の意識のあるうちは絶対に受け入れてはいけないと思った。少し卑怯な考え方だと思ったが、止むを得ないと思った。出来れば、今夜はさっき決心したようにそうなりたくなかった。
「でも、そう言われれば俺も自信ないなあ。姉さんと関係結んでしまうかもなあ」
「でしょう? だから、理性はしっかり持っていなければだめよ。それが何もかも上手く行く方法なのよ、分る? 何だか堂々巡りしている感じだわ」
「だね。もうこの話やめよう。辛くなってくる」
「何が辛いのよ、あんないい彼女がいるのに。彼女のこと、心の底から愛してるんでしょう」
 佐知代はわざと冷たく言った。
「それはそうだよ。二人といない、俺が一番愛している女性だよ」
「でしょう? それでいいのよ。それ以上望んだら、早川悟の名が汚れるわよ。私だって、悟にそう思われていることは嬉しいわよ。一番じゃなくてもいいわよ。今すぐにでも抱かれたいわよ。でもそのことと、悟が立派に世間を渡っていくという事とは別な筈よ。それをはき違えたらいけないと思うわ。これは姉さんの精一杯のアドバイスよ。姉さんだって、悟が思っている以上に辛いのよ。分るでしょう?」
「……」
「だから、今夜は、そんなこと思わないで楽しく飲もうよ。ねっ?」
「うんそうだね」

「悟に一度どうしても聞いておきたいって言うか、どう思ってるのか知りたいことがあるの」
「何だか真面目な話になったみたいだね」
「と言うより、現実的でとても重要な話よ。切実な話と言ってもいいかな」
「さて、何だろう? 話して見て」
「二つあるんだけど、一つはセックスの位置付けについて」
「えっ、セックスの位置付け? どういうこと?」
「セックスって、結婚が前提でないと出来ないのかしらね?」
「えっ、そういう場合もあるけど、必ずしもそうでもないと思うけどなあ」
「結婚と言う意識はなくても、付き合っている間に必然的にと言うか、自然な流れとしてセックスする場合があるってことよね」
「そうそう、そうじゃない?」
「それは、快楽を味わいたい為よね?」
「そうだね。映画を見るような感覚の、一種の楽しみじゃないかなあ」
「じゃあさ、結婚したら、奥さん以外の人とのセックスは許されない、という事はどう考えたらいい訳?」
「浮気とか不倫はどうして許されないのか、と言いたい訳?」
「そう。道徳上とか倫理上とかモラルとか言い方はいろいろあるでしょうが、そういうものに照らし合わせたら、良くない行為だと言いたいのかしら」
「そうだと思う。……難しいなあ」
「難しく考えるから難しくなるのよ。そもそも、道徳とか倫理とかモラルって何なの? 誰が作ったの?」
「道徳とか倫理とかモラルは、人が生きる為に、人として守るべき道として、考えや行動についての普遍的な規準みたいなものじゃないかと思う。誰が作ったと言うより、長い期間を経て、社会の秩序を保つために、必然的に出来た、言わば教訓みたいなもんじゃないかなあ」
「簡単に言うと、結婚した相手以外の人とセックスするのは、良くないですよと言う教訓ってことよね?」
「だよね。結婚しているしていないが分岐点なんだよね?」
「こんな話聞いたことがあるの。馬鹿げた話だから、ま、適当に聞いててね?」
 佐知代が話題を変えた。
「うん」

「好きで結婚したある夫婦の話ね。二人はこれまで、夜の営みが、ずーっと順調って言うか、結構楽しんでいたんだけど、あることが起ったの」
「オー、何だか興味あるね」
「奥さんの方が、何かのきっかけで、あるイケメンの芸能人の大ファンになってしまって、テレビや雑誌を一生懸命に見るようになったのはもちろんだけど、そのうち追っかけマンになってしまった訳ね」
「うんうん、面白そうだね」
「旦那さんの方も苦笑いしながら、ま、そういう楽しみもいいだろうと、軽く考えていたみたいなの」
「うんうん、それから?」
「部屋中にその芸能人の写真を張り出して、もう気が狂ったみたいに夢中になってしまったそうなの」
「へーー、まるで中高生がやりそうなことだね」
「そこまでは良かったのよ。ある晩、旦那さんが求めたら、奥さんが嫌だと言い出して、それ以来、もう何年も続いてると言う話よ。どう思う?」
「どう思うって、ちょっと考えられないなあ。旦那さんはどう考えているんだろうか」
「一時は離婚を考えたり、よそに女の人でも見つけようかと真剣に考えたそうだけど、結局、子供が可哀想だと思って諦めたんだけど、未だに悶々としているみたいよ」
「へえー、それはたまらんなあ、メチャクチャな馬鹿げた話だねえ」
「もし仮に、その芸能人が奥さんを求めてきたら、奥さんは、その芸能人とセックスしてもいいと思うのかしら」
「多分、OKするんじゃないかなあ。だって、心を奪われているからねえ、多分、そうなると思う」
「これがもし芸能人じゃなくて、普通の男の人でもそうかしらね」
「心を奪われてしまった女性が、男性の要求に応じるのは自然の成り行きだと思うよ」
「そうかなあ、そんなに簡単なものなのかしらね」
「尊敬や憧れの念が愛に変わることがあると良く言うけど、尊敬や憧れを支配しているのは心だから、心を奪われているってことはそういう事でしょう? だから、同じように許してしまうことに抵抗はないと言うより、もっと積極的な意味で、願望を果たしたいと思うんじゃないのかなあ」
「思うんだけど、曲がりなりにも家庭さえ上手く行けば、セックスなんて、どうでもいいってことなのかしらね?」
「なるほど、言えてるね」
「それに、ここで考えなければいけないのは、芸能人に心を奪われてしまった奥さんが、旦那さんとのセックスを嫌だと思うようになったってことよ。つまり、セックスは心の支配下にあるってことよ。言い換えればセックスよりも心が大事だってことよね。さらに言い換えれば、身体よりも心が大事だってことよね」
「姉さんは、心が伴わないとセックスは出来ないと言っていたけど、これと関係ありそうだね」
「まさにそのようね。だから、セックスしてもいいけど、心までは絶対に奪われてはダメよって、奥さま族の言い分が聞こえてきそうよね」
「ちょっと待ってよ。……心を伴わないセックスは出来ないと言いながら、心は絶対に奪われちゃだめだなんて、矛盾してない?」
「ふふ、矛盾してるわね。だから、いつも問題になるのよ。そこで、心の葛藤が始まるのよ。複雑だわねえ。永遠のテーマね」
「なるほどなあ、……だけど、今の話は例外中の例外じゃない? そんなこと滅多にないことだと思うけどなあ」
「ところが、信じられないけど結構多いんだってよ」
「へえー、驚いたなあ。……という事は、お互いの心の理性を保っていれば、セックスなんてどうでもいいってこと?」
「そうとも言えるわね。だって、歳を取ってきたら、そんなことより、お互いの心しか頼りに出来ない訳だから、意外と本質を突いた話だと思うわ」
「なるほどね。ということは、心の理性を失わず家庭を壊さなければ、好きな人とセックスを楽しんでも、罪にはならないという事?」
「今、好きな人と言ったけど、好きな人は普通は一人だけじゃないわよね?」
「そうだよね。最愛の人は、一人だけかも知れないけど、好きな人は結構いると思う」
「だとしたら、その好きな人とは関係を持っても、心さえ奪われなければ、つまり、最終的に最愛の人のところに納まれば、いいってことよね?」
「そうなるよなあ、でも、なんだか屁理屈みたいな気がしないでもないなあ」
「多少の罪の意識はあると思うけど、守るべきものをちゃんと守ってさえいれば、いいってことじゃない?」
「ほーー、新思考だね。なるほどそうか、心がセックスまでも統治下においているという事か。だから、セックスが全てではないという事だね」
「そう思うわ。もちろん、彼女にあからさまに見せつけるのは、エチケットに反するとは思うけどね」
「そっかあ。なるほどなあ。……その奥さんは、旦那が浮気したら怒るかなあ」
「旦那は奥さんが応じてくれないから、仕方がなかったと言いたいところでしょうけど、そういう類の奥さんに限って、目くじら立てて怒るんじゃないかなあ」
「あはは、そうかもね。旦那が可哀想だね。何処にも不満の持って行きようがないね」
「ふふ、でも馬鹿げているけど、十分にあり得る話よね。それでいて、本質を突いてるから面白いわね」
「でも、セックスに対する考え方は人それぞれだから、ある一定の考えでくくり付けるのは、良くないような気がするね。ま、そういう考えもあると言う程度に置いておいた方が無難だね」
「そうよね。セックスの価値観をどこに置くかという事でもあるからね」
「姉さん、とても参考になりました。……と言いながら、何だか訳が分からなくなってしまうのは、どうしてだろうか」
「フフ、考え過ぎよ。言えることは、自分の心をコントロールして、理性を失わず、しかるべきものをしっかり守っていく能力さえあれば、多少のことはどうでもなるってことよね」
「なるほど、能力の問題なんだ」
「その為には、相手をしっかり選ぶことも大切よね」
「だよね。セックスに対する考え方が人それぞれっていう事は、必ずしも自分の思っている価値観と同じではないからね。場合によっては、大怪我することも念頭におくべきだということかな?」
「そういうことよね。気をつけなさいよ」
「あはは、姉さんもね。変な人に心を奪われたらいけないよ」
「私は大丈夫よ。自信がある。私の心を奪ってしまってる人は、この世に一人しかいないから」
「へーー、そうなんだ。会社の恋人? 仕事?」
「ふふ、そうね」

「もう一つの問題はね? 賞味期限のことよ」
「賞味期限? 肉とかの?」
「この場合は、人間の肉のことね」
「ええー、人間の肉を食べるの?」
「バカねえー、そんな訳ないでしょう? 女の身体の賞味期限のことよ」
「あ、そうか。そのことね。……ああ、びっくりした」
「ふふ、もう酔っぱらってしまって、焦点が定まらないのじゃないの?」
「言えてる。俺の理性の賞味期限は、あと何分かだね」
「あはは、面白い表現ね。うんうん、言い得て妙だね。でも、理性の賞味期限は、酔いを醒ませばまた元に戻るけど、女の身体の賞味期限は、嫌でも年々減っていくから困ったことよね」
「女の身体の賞味期限って、具体的にどういう話なの?」
「例えば女性の場合だと、男性が抱いてみたいと思う、女性の年齢の限界のことよ。いい例として、姉さんのことを考えて見て。今、四十八歳でしょう? 誰も抱きたいとは思わない年齢に来てると思うの」
「あはは、姉さんそれは違うと思う。だって人によって、価値観や年齢やものの考え方によって全く違ってくると思うよ」
「そうかしら」
「さっきも姉さん言ったじゃない。セックスは心でするもんだって。その考えからいったら年齢は、ま。もちろん多少関係はあるけど、言う程は気にならないのじゃないかなあ」
「だって、男性って、出来るだけ若い子とセックスしたいんじゃないの? 肌が綺麗でぴちぴちしているし、そっちの方がいいと思うわ」
「でも、いくら若くてスタイルが良くて、顔も綺麗で身体に魅力があっても、会話が続かなかったり、心に添っていけないようだったら幻滅を感ずると思う。一夜限りだとか、単に性のはけ口のみが目的だったら、それでもいいかもしれないけど、決して長い付き合いは出来ないと思うし、なんだか虚しさだけを感じてしまうような気がするよ。恋人にはしたくないと思う」
「言ってることは分るけど、本音の部分では違うと思う。やはり若い人がいいに決まっているわよ」
「例えば、結婚相手にしたい場合と、好きなんだけど、結婚までは出来ないといったような場合とでは、自ずと考えが違うんじゃないかなあ」
「どういうこと?」
「もちろん例外もあるけど、若いうちに若い人と結婚して家庭を持つ。そして、子供が何人か出来てくるという一般的なパターンの場合は、後々の人生を考えた場合、出来るだけ若いうちに結婚した方がいい、という考え方もあるけど、そうじゃない場合は、必ずしも、若いから良いという風にはならないと思う。やはり、相手の心に寄り添えるかどうかが最大のポイントじゃないかなあ。その意味では、年齢はあまり関係ないような気がするけどなあ」
「年齢を重ねただけの、心の深みとか情愛の濃さとかがむしろ大事だと言いたい訳?」
「そう思う。だから賞味期限なんてないと思うけどなあ」
「でも、いくらなんでも肌の衰えた、シワだらけのババアは、抱く気にはならないでしょう?」
「ま、人によりけりだと思うけど、俺はあんまり気にならないなあ。極端な話、七十歳のお婆さんで心が美人だったら、可能ならセックスしたいと思うよ」
「まあ、口から出まかせ言って、そういう気になる訳ないでしょう? 絶対にないと思う」
「体験したことはないけど、俺は多分気にならないと思う。断言出来るね」
「でも、若い時と歳を取った時の感じ方が全然違うと思うの。性感帯は当然鈍くなってくるから、男性の喜びの度合いも違ってくると思うけど」
「なるほど、それは言えてるね」
「悟は、セックスする時の喜びって言うか、満足する時ってどういう時なの?」
「うん、もちろん、イク時もそうだけど、女性の喜びの表情や仕草を見る時かなあ」
「でしょう? 一晩に女性が何回もイク様を見たいのでしょう?」
「確かにそうだね。だからそうなるように、一生懸命に尽くすって言うか、愛撫してあげる」
「いくらそう思って愛撫しても、歳を取ってきたら、その感じ方が鈍くなってきて、男性をがっかりさせるのよ」
「あ、なるほどね。そうかもしれないね。何となく分るような気がする。……はっはー、という事は、姉さんの言っている女の身体の賞味期限って言う意味は、その感じ方の賞味期限と言う意味だね」
「そうなの。やっと分ってくれたみたいね」
「なるほどねえ、そうかも知れないなあ。なるほどね。……それは重要な問題ですな、姫」
「あはは、何を感心してるのよ。そうなのよ。女としては、とても切実な問題なのよ。分るでしょう?」
「だね。期限がいつ到来するかは分らないけど、間違いなく、段々と残り少なくなっていくことだけは確かだ、と言いたい訳だね?」
「そういうことよ。女特有の問題よね」
「女特有というと、閉経と感じ方の賞味期限との関連はあるのかなあ」
「あら、興味ある話だけど、その件はさっぱり分らないわ。……でも、関係がありそうな気もするわね」
「妊娠する可能性がないから、却ってうんと楽しめる、って言うのを聞いたこともあるよね」
「なるほど。そうよね。そういう心配が邪魔になることあるからね」
「ちょっと質問だけど、歳とった男性に抱かれたいと思う?」
「好きな人だったら、全然平気だと思う。その辺は男性と考え方が違うかもね」
「なるほど。でも、やっぱり若いほうが良かったりして」
「ふふ、心に寄り添える人だったら年齢は関係ないわよ。女はね」
「そっかー、いい勉強になったなあ。女の賞味期限かあ。切実な問題かあ。なるほどなあ、考えさせられるなあ」
「何をブツブツ言ってるのよ。だから、姉さんも、残り少ないのじゃないかと、正直焦ってるのよ。分る?」
「あはは、姉さんはまだまだ大丈夫だよ。少なくとも、あと十年は大丈夫だね」
「どうしてそう言うことが言えるのよ。姉さんがどう感じるかを分っていない癖に良く言えるわね、そんなこと。……姉さんの賞味期限は、あと一年かも知れないじゃない」
「そうだね。こればっかりは迂闊には言えないね。言えてる」
「何だったら、今夜試してみる?」
「心の理性があって、家庭を壊さなければ許される? しかも、何もかも理解し合っている人だから許される?」
「そうよ。そう思うでしょ? 未来永劫、二人だけの秘密の快楽よ。……良いと思わない?」
「……何だか、誘導されているような気がするなあ」
「ふふ、冗談よ。……ただ、姉さんの気持になってみて。今のうちに、好きな人に抱かれて一生の想い出にしたい、と思っても、こればっかりは相手がいないとねぇ。一人じゃ出来ないでしょう?」
「うん、分る。……一人でしたことないの?」
「もちろん、あるわよ。でも、とっても虚しくなるわね。どちらかというと、したくないわね」
「そうかもね。今のうちに、好きな人に抱かれて一生の想い出かあ、泣かせるねえ。でも、気持ちは良く分るなあ。死ぬ時に、その人のことを思って、ニッコリ笑って死にたいよね」
「いきなり死なせないでよ。……でもそうよね、そうありたいわね」
「あ、その話で思い出したことがある、そうそう、聞くも涙語るも涙の物語」
「似たような話なの?」
「そうそう。女としての、何というかなあ、悲哀に満ちた物語だね」
「聞きたいわね。……話して」

「大分前の話だけど、ある年配、そうか、当時の年齢は、姉さんより少し上の人だったかなあ。結婚してて子供が二人いたよね。その人、分り易くAさんとするね。その人から聞いた話なんだけど、Aさんに一人の女性の友人がいたんだよね。Bさんとしようかな」
「うん」
「Aさんの友人のBさんは、たまたま俺も知っている人だったんだけど、お世辞にも綺麗な人ではなかった」
「結婚してたの?」
「いや、独身だった。付き合っている人もいないみたいだったね」
「そう」
「だけど、気さくな人で心根のとてもいい人だった。そういった意味では魅力的な人だったよね」
「そういう人に限って、いい人に縁がないのよねぇ」
「ある日、AさんとBさんが喫茶店か何かで雑談していた時、突然、Bさんが泣き出したそうだよ」
「何があったのかしら」
「Aさんが、どうしたのと聞いたら、Bさん曰く、一度でいいから好きな男性に抱かれて死にたい、と、とてもしんみりとした口調で呟くように言ったみたい」
「……」
「Aさんは、Bさんの告白みたいな突然の話にびっくりしたけど、Bさんのことは知り過ぎるぐらいに知っていたから、人一倍その気持ちが良く分っていた。だから、ついつい貰い泣きしてしまったらしい」
「まあ、切ない話ねぇ」
「女としての魅力はもうないかも知れないけど、すっかりなくなる前に、この身体を好きな人に思いきり捧げたい。それはもう、ほんとに切実な訴えにも似た話しぶりだったみたいだよ」
「で、どうなったの」
「Aさんは、何とかして彼女の思いを叶えてあげたいと、必死になって考えたけど、この手の話は、右から左に簡単にはいかないってこともよく知っていたから、困ってしまって途方に暮れた。……で、Aさんはどうしたと思う?」
「さあ、諦めるよりないんじゃない?」
「びっくり仰天だったけど、俺にその話を持ってきたんだよ」
「えーーっ嘘でしょう? ほんとなの? 信じられない」
「でしょう? 俺はその時、まだ二十歳そこそこだよ。いくら俺がBさんを知っていて、Bさんも俺に好感をもって接してくれていたことは分っていたけど、それはないよ」
「で、悟はどうしたの?」
「もちろん、即座に断ったよ。逆立ちしても出来ないと言った。そしたら、Bさんは、俺だったら処女を上げてもいい、と言っていると言うんだよ」
「まあ、その人処女だったの?」
「そうみたいなんだよ。Aさんは必死になって、それこそ涙ながらに俺を口説いたけど、俺は応じなかった」
「それからどうなったの?」
 佐知代は俄然興味を持った。
「Aさんが、たった一度だけでもいいから、Bさんに女としての幸せを感じさせてあげたいと言うから、女の幸せって? と問い返したら、Aさんは何と言ったと思う?」
「さあ、分らない」
「好きな人に抱かれることよ。と、あっさり言うんだよね。……で、俺が言ったんだよ。経験の浅い二十歳の青年の俺がだよ? いくらBさんを抱いても、Bさんが満足する筈がないじゃないと、最後には怒ってしまって、言ってしまったんだよね」
「まあ、真面目な青年だこと」
「はは、……Aさんのその時の顔は未だに忘れられないよ。とても悲しそうな顔をして一言、満足するしないの問題じゃないの、あなたには分らないかもしれないけど、女の性って言うのはそうしたものなの。理屈なんてないのよ。……でも、もう諦めるよりないわね、分ったわ。ごめんね」
「そうだったの、姉さんはとても良く分るわ」
「ところが、これには余談があってね、Aさんは知ってて、俺に一言もそれを言わなかったんだよ」
「そうなの? 何かあったの?」
「Bさんの身体に変化が起きていたんだね」
「身体の変化?」
「Bさんに不幸な出来事が進行中だったんだよ」
「えっ、何があったの?」
「うん。癌を患っていたらしいんだよ。Bさんはそれを医者から言われて、さっきの喫茶店での涙になったという訳だよ」
「まあ、……それからどうなったの?」
「暫らくしてから、余命幾ばくもないと医者に言われたんだ」
「まあ、可哀想に」
「小さい頃からの友人だったAさんの嘆きようは尋常じゃなかった。深い悲しみに明け暮れた。ある日、病院にBさんを見舞った時、願いを叶えてあげたくて、いろいろ奔走してみたけど駄目だったと言ったら、Bさんはにっこり笑って言ったそうだよ」
「……」
「女として、たった一つの願いも叶えられないなんて、私って、そういう星の下に生まれてきたのね」
「……」
「それから間もなく、Bさんはこの世を去ってしまった」
 佐知代が泣き出した。
「どうしてBさんを抱いてあげなかったのよ、悟しかいなかったんでしょう? 彼女が抱かれてもいいと思っていたのは」
「葬式の時、棺に横たわっているBさんを見て、そうしてあげたほうが良かったのかなあ、と思ってしまった。何故かその顔が切なそうな顔に見えてね。今でも時々思い出して、頭から離れないんだよね」
「可哀想」
「手を合わせながら、ごめんなさいと呟いた。理由もなく悲しかったなあ」
「そうだったの」
「その時、Aさんが俺に近づいて来て、せめてキスしてお別れしてあげたらって言うんだよ」
「うんうん、分る。分るわあ、Aさんの気持。でどうしたの? キスしてあげたの?」
「いや、出来なかった。大勢の前だったこともあるけど、キスする意味が見いだせなかった」
「まあ、呆れた。キスぐらいしてあげればよかったのに」
「今思うと、そうすればよかったと後悔してるよ」
「その時、悟には好きな彼女でも居たの?」
「うん。大学生だったけど、付き合いは浅かったけど、好きな彼女がいた」
「そう、だから、逆立ちしても出来ないなんて言ったんだ。それとも、年配の人だったからなの? 美人じゃなかったからなの?」
「いや、そんなの関係ないよ。田舎から出て来た、純情無垢の二十歳の青年には不純に思えたんだよね。ただそれだけのことだよ」
「でも、悟がその気になってBさんを抱いてあげたら、思い残すことがなくなった訳だから、泣いて喜んでくれたかもね。Aさんが言うように、満足するセックスじゃなくても良かったのよ。悟に抱かれることに意味があったのよ」
「今この歳になって、そのことが良く分るようになった。だから、なおさら抱いてあげれば良かったと、痛切な後悔の念に駆られるようになったんだよね」
「で、そのAさんは、まだ元気でいらっしゃるの?」
「元気だよ。年に一度ぐらい電話があって、会いに行くんだけど、会うといつもその話が出て参っちゃうよ」
「Bさんのお墓参りもするの?」
「Aさんと会った時に、Aさんの家族も一緒にお参りに行くよ」
「そっかあ、いい話ねぇ」
「会った時、Aさんに言われたよ。今だったら抱いてくれたでしょう? ってね」
「まあ、で、悟は何て答えたの?」
「はい喜んで、と、一つ返事した」
「Aさん、喜んだでしょう?」
「涙を流してた。そして、あなたのその言葉を聞いて、彼女もきっと天国で喜んでるわねと言われて、俺も泣けてきたよ」
 佐知代の目から涙が溢れてきた。それを見て、悟も思い出して目が潤んできた。

「身につまされる話だわね。でも、悟はとってもいい経験したね」
「そうだね。そう思ってる。だから、特に年齢だとか美人だとかスタイルがいいとかに、俺が拘らないのは良く分るでしょう? 一番大事なことは、心が素敵かどうかということだね。それがまずあって、スタイルや顔が良ければなお良しということになった」
「うんうん。素晴らしい境地に到達したみたいね。いいことだわ」
「人の本質を分ろうとしても、複雑怪奇でなかなか分りにくいけど、相手に対座してじっくりと語らい、じっくりと観察すれば、自ずとその人となりは分って来るよね」
「そうね。大事なところよね。ややもすると、インスピレーションだなんて言って、いい加減な判断をすると、後々後悔する羽目になってしまうのね」
「確かにそう思うね。だけど、言うは易し行うは難しだけどね」
「そうよね」
「ということで、姉さんの今の気持はとっても良く理解できますが、しかし、賞味期限は無限であります」
「ふふ、一応そういうことにしておくわね」
「ぶり返すようだけど、さっきの、Aさんが話してくれたという話、Bさんの気持、とっても良く分るわね、でも、結局、Bさんは願いが叶えられずに、あの世に行ってしまったのね。ほんとに可哀想ね。気の毒にねえ」
「だね。叶えてあげれば良かったなあ。ほんとに悪いことをしたよなあ。変に拘ってしまったような気がするね。いまさら言っても仕方ないことだけど後悔先に立たずだね」
「そう考えると、人間どうせ死ぬんだし、生きてる間に結婚とか何とかと関係なく、好きな人と、何も考えずに情を重ねることも大切だなあと思うし、罪にはならないような気がするわね」
「そうねえ、簡単には割り切れないところもあるけど、好きな人の心のすき間を埋めてあげるってことは、ある意味必要なことなのかもしれないね。俺の場合、亜希子のことを思うと、道徳心とか倫理が邪魔して、彼女に悪いなあと思っているから、なかなかそういう風にはなりにくいけどね」
「あら、彼女の名前、亜希子さんって言ったかしらね。いい名前ね。……そうね。その気持ち良く分るわね。一生大事にしてあげなきゃ駄目よ。姉さんも、彼女のことを妹と思って接して行こうと思ってるのよ」
「あは、今度は妹か、……うんうん、それもいいかもね」
「ふふ、私って欲張りね、思ってしまったら、しつっこいんだから」
「まさか、亜希子と姉妹の契りを結ぼうと考えているんじゃないよね」
「あはは、それは絶対ないわよ。ただ、そういう気持ちで接して行こうと思っているだけよ。それならいいでしょう?」
「そうだね。そういう事なら、俺からもお願いしたいくらいだね」
「ありがとう。じゃあ、そうするね」
「姉さんは、さっき今のうちに好きな人に抱かれて、一生の想い出にしたいなんて言ってたよね」
「正直そう思ってるわ。今だったら、賞味期限の範囲内だと思うし、そこそこ感度もまだ衰えていないと思うから、少しは満足させられそうな気がしてるからね」
「ちょっと聞きたいんだけど、姉さんは夕食の時、もう結婚は完全に諦めたの、悟と生きて行くことに決めたって言ってたじゃない?」
「言ったわね。そう思ってるわよ」
「くどいようだけど、どうして結婚を諦めたの? 再婚したくないって言うのは何か理由でもあるの?」
「そうねえ、どう言ったらいいのか知らねえ。離婚を経験して、いろいろ考えさせられたんだけど、まず一番大きな要因は年齢よね。その次が自分の思ってる理想の男性がいないってこと。それと会社を経営していく上で、足かせになるような状況を作りたくないことかしらね」
「俺と生きて行くことに決めたって言ったけど、それは、再婚の問題などと関係あることなの?」
「大いにあるわね。悟と姉弟の契りを結び、悟と世界中にホテルを建設して行くのが姉さんの夢なのね。ホテルを建設はこれからだけど、事業を展開する上で、悟抜きには考えられないと前から言ってきたでしょう?」
「うん、そうだね」
「悟が、パートナーになってくれると言ってくれたけど、実はこれは、姉弟の契りという形で、より強固な関係が出来たと思ってるのね」
「そうだね」
「それと、悟も指摘していたけど、事業の継承の問題を、どう解決していくかという問題が横たわっているのよね? これはまあ、まだ時間があるからおいおい考えることしたらいいと思う」
「うん。そう言ってたね」
「残されたのは、姉さんの私的な人生を、どう満たしていくかと言う問題に絞られてきたと思ってるの」
「そこのところが、俺の気にしてることなんだよ」
「そうだと思う。再婚するかどうかという問題と、悟と生きて行くことに決めたことの関連性について聞いておきたいのね?」
「そう、それって、どういう気持ちで言ったの? もっと詳しく教えてよ、さっきから気になってるんだよ」
「聞きたいの? 聞いたら、悟が困ることになるかもよ。だから聞かない方がいいと思うけど」
「聞かなきゃ、困るかどうか分らないじゃん。さっき言ってた、今のうちに好きな人に抱かれて、一生の想い出にしたいってことと関係あるの?」
「まあ、困った人ねぇ。言いたくないわ」
「姉さん、こういうことは、はっきりしておいた方がいいと、思うけどそう思わない?」
「さあ、どうかしらね」
「姉さんが今好きな人っていうと?」
「悟しかいないわよ」
「ということは? 今のうちに俺に抱かれて、一生の想い出にしたいってことなの?」
「さあ、どうかしらね」
「姉さん、とぼけないでよ、だってそうなるでしょう? 何を言われても俺は驚かないし、これからのこともあるから、物事をはっきりさせといた方がいいと思うんだ」
「悟、やっぱりそれから先は聞かない方がいいと思う。聞いたら、きっと後悔することになると思う」
「何言ってるの。聞かない方が後悔するってこともあるんだよ。違う?」
「そうかも知れないけど、やっぱり、姉さんの気持はこれ以上聞かない方がいいと思う」
「どうして? どうしてそう思うの?」
「……」
「じゃあ、ズバリ言うよ、いいね。賞味期限の切れる前の今のうちに、俺に抱かれて、一生の想い出にしたいと解釈していい訳だね?」
「……」
「返事がないと言うことは、肯定してると受け止めていいってことだよね?」
「悟は姉さんの気持を察して、何とかしてあげたいと思ってるかもしれないけど、それは間違ってるわよ」
「どうして? さっきのBさんの話みたいに、また後悔することになるかもしれないんだよ」
「Bさんの場合と状況が違うでしょう? じゃあ、聞くけど、亜希子さんに対してどう申し開きするの?」
「……そういわれると、弱いけど、亜希子が二人いると思えばいいじゃない。そう言えば、姉さんは亜希子に似たところがあるよね」
「ふふ、亜希子さんに似てる? こんな年よりのおばさんが、亜希子さんに似てる? それを言ったら、亜希子さんが可哀想だわよ。ふふ、悟に抱かれている時だけ、姉さんは亜希子さんになる訳? ……あら、いい考えね」
「あはは、同意した?」
「そんな非現実的な話に同意出来る訳ないでしょう? 呆れた人ねぇ」
「だって、いい考えだと言ったじゃん」
「バカねえ、いい考えだということと同意出来るかどうかは別でしょう?」
「あは、屁理屈言ってる」
「姉さんはいいわよ。悟に抱かれるなんて夢みたいな話だから、そう願いたいのは山々だわよ。しかし悟、良く考えてごらん、……ほんとにそう思ってるの?」
「……うん。思ってる」
「悟と亜紀子さんの問題だから、姉さんがとやかく言うことはないかも知れないけど、結局苦しむのは悟なのよ、分ってるの? 一生背負って生きて行かなければならないのよ。それでもいいの?」
「うん、いいよ。後悔するくらいだったら、それくらいは背負っていくよ。それが罪だと言うなら、罪をそっくり背中におぶって生きていくよ。それより姉さんの喜ぶ顔が見たいよ。だから、姉さんを亜希子と思って抱けばいいんでしょう?」
「よくそんなことがスラスラと言えるわね。事の重大さが分っていないみたいね」
「姉さん、俺はもう子供じゃないよ。それくらいのことは言われなくても分るさ。しかも、まだ独身なんだよ。今日現在結婚はしていません。れっきとした一人者です」
「あら、そうか。そうだわね。なるほど。結婚した後だと、何かと心に引っ掛かるけど、独身だから、気にしないでいいという訳なのね?」
「……うーん。そういうことでもないけど、結婚した後でそうなるより、いくらかでも許されるんじゃない?」
「悟ね、一旦関係を持つと、一度きりという訳にいかなくなるのよ。そうなると、結婚した後も関係を持ちたくなるでしょう? そんなこと絶対にだめだと思うけど」
「……」
「もちろん、姉さんは、悟とたとえそういう関係になっても、悟の家庭を壊すなんて気持ちは全然ないし、むしろ、あなた方二人をいい意味で、陰になり日向になって支え続けて行く気持ちには変わりないわよ。少し複雑なことだけど、姉さんはやり通せる自信はあるわよ」
「……」
「悟、今夜はお酒が入ってるし、この問題はとっても大事なことだから、お酒の勢いを借りて語りたくないのよ。この話の続きは明日にしない? それとも、日を置いた方がいいかしらね。お酒を飲まずに、じっくり話し合おうよ」
 佐知代は努めて冷静に悟を諭した。
 こんな大事なことを安易な考えで行動して、大火になることだけは避けなければならない。ぎりぎりのところで理性を保つことが出来たが、何故か、とても複雑な心境だった。
 悟も多分冷静になれば、正しい判断をしてくれるものと思ったが、これまた、心と裏腹なことを願う自分に対し苦笑いせざるを得なかった。
「そうだね。姉さんの言う通りかもしれないね。分った。少し頭を冷やしたいから、日を置かない?」
「そうね。いいわよ。姉さんもじっくり考えることにする」
「姉さん、俺もじっくり考えることにする」

 その時、悟の脳裏をかすめるものがあった。『悟、酒と女には、場合によっては、人生を狂わしてしまう魔物がすんでいるから、十分に気をつけるんだよ』田舎の父も似たようなことを言っていたが、とりわけ母にはきつく言われていた。
 その言葉を思い出し悟はハッとした。自分を見失ってはならないという教えを忘れた訳ではないが、冷静ではない自分がいることは確かである。危ういところで、完全に自分を失いかけていることを思い背筋が寒くなった。
 佐代姉もギリギリのところで冷静になろう、冷静になろうと必死になっている。しっかりしろサトル。悟は我に返った。

「来週の土曜日は時間取れるの? 金曜日の晩でもいいけど」
「いまのところ予定は入ってない。その次の週からは、当分全く時間が取れないね。国際コンペや結婚式の段取りやらでいろいろ忙しくなるから、姉さんの家に来れるのも、来週の土・日が最後だね。渡米するまでは単身赴任という形になるから、今の社宅にいることになったけどね」
「あら、そうなんだ、じゃあ、金曜日の夜来れる?」
「都合が悪くなったら電話する」
「分った。独身時代に姉さんと逢えるのは、来週の土・日が最後ということのようね?」
「そうだね、あは、独身最後の週末か。なんだか寂しい気もするね」
「何言ってるのよ。結婚という晴れ舞台が待ってるじゃない」
「それはそうだけど」
「じゃあさ、お別れパーティーしない?」
「お別れパーティー?」
「そう。独身とお別れするパーティーよ」
「お、いいねえいい考えだね。……そうかあ、独身最後かあ。大いに羽目を外して飲みまくるかなあ」
「あはは、それって下戸の言うセリフ? あはは、可笑しい」
「ま、どうなるかはその時のお楽しみだね」
「さっきの話の続きも、来週の金曜日か土曜日ということにしない?」
「そうだね、そうしよう。分った」
「それまでに、しっかり考えておくのよ、いいわね? 分ったわね?」
「うん。分った。気持ちを整理しておくよ」
「はい。じゃあ、この話は今夜は打ち切りね。……どうする? 大分遅くなってしまったけどまだ飲む? それとも、もう寝る?」
「何だか酔いが冷めてしまったね。飲み直そうか?」
「もう、完全に下戸返上ね。頼もしくなってきたわね」
「ワインの旨さがそうさせてるんだねきっと。それと、姉さんと飲んでいるってこともあるかもね?」
「そうね。さ、大いに飲んで大いに語ろう。……何かおつまみ作ろうか?」
「いや、作るまではないから、何か適当に、つまみになるようなのないの?」
「あるわよ。持ってくるね」
 二人は真夜中が過ぎ、夜明け近くまで飲んだ。悟はまたも泥酔した。佐知代も泥酔に近かった。

 次の日の日曜日、遅い昼食の時、佐知代が家の合鍵を手渡そうとした。
「姉さん、此処には姉さんがいる時だけしか来ないから、合鍵はいらないよ」
「何言ってるのよ。自分の家と思えばいいでしょう? 姉さんの都合で、先に家に行っといて、なんてこともあると思うから、持っといて」
「でも、必要ないと思うけどなあ」
「いいからそうしなさい。使う使わないは悟の考えでいいわよ、持っといて邪魔にはならないでしょう?」
「それはそうだけど」
「……あ、そうか、亜希子さんに見られたら困るかしらね。そのことを思ってるのね?」
「あ、そうか、いや、そこまで考えが及ばなかったけど、……そう言えばそうだね」
「でも、何も悪いことをしている訳でもないし、適当に言い訳したら?」
「あはは、その適当が俺は苦手なんだよなあ」
「ふふ、純情無垢な二十歳の青年じゃあるまいし、いいから持っておきなさい」
 半ば強引に押し付けられ、仕方なく受け取った。

悟は、夕方佐知代の家を後にした。

 
 


第13章 姉弟の契り
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