「おや!、主任、改まった顔して何だね。仕事で何か問題でも?」
「いえ、そうじゃないんです。少しばかりお時間いいでしょうか」
「分った、何だ?」
隅田川テラスで泣く女性
「ココじゃ何ですから、別な所で」
「お、そうか、じゃ応接室にしようか?」
「応接室は声が外に洩れませんかね」
「う~ん、防音措置していないから多分漏れるかもな」
「ちょっと、人に聞かれてはまずいような気がするんですが」
「そっか、じゃ、外に出てどっかの茶店にするか?」
「そうですね、その方が良いと思います」
(二人は近くの喫茶店の片隅に腰を下ろし、珈琲を注文した)
「真剣な顔して話って何だよ。もしかして、近々結婚するとか?」
「そんなんじゃありません。課長、お聞きしたい事があるんですが」
「うん、何だ?」
「最近、お子さんとの会話とかは、されてますか?」
「何だよいきなり娘の話なんか持ち出して」
「お答え下さい」
「話っていうのは、それと関係がある事なのか?」
「はい、そうです」
「君も知っての通り、ここんとこず~と忙しくて、帰りが遅いからなあ」
「ですね。しかし、時々は早く帰ってあげないと」
「そうなんだよなあ、そうは思ってるんだが、なかなかなあ」
「でも課長の立場だったら、その辺は自由に出来るんじゃないですか?」
「ん、ま、それはそうだが」
「お話っていうのはですね、驚かないで下さいよ」
「おいおい、脅かすなよ、これでも心臓が弱い方だから」
「アハ!……ウソバッカリ。……実は、娘さんが泣いている所を見てしまったんですよ」
「何だと娘が?どっちの娘だ?佳奈か?杏奈か?」
「佳奈ちゃんの方です」
「姉の方か、何処で?」
「隅田川テラスです。川の方に向かって、背中越しでしたが泣いていました」
「一人だったかい?」
「ええ、余程声掛けようかと思ったんですが」
「君も佳奈の事を知らない訳じゃあるまいし、声掛けてくれたら良かった」
「何だか訳ありそうな感じでしたので、声掛けられなかったんです」
「何時頃だ?」
「そうですね、社に帰る途中でしたから、夕方ですね」
「いつの事だ」
「二、三日前です。課長にこの事を言うべきかどうか迷ったもんですから」
「……」
「でも、やっぱり気になって、今日になってしまいました。すみません」
「いやいや、良く話してくれた。ありがとう!」
「大学で何かあったのですかね?心当たりあります?」
「う~ん、夜は遅いし、朝は早くに家を出てるから、娘と顔を合わせる事すらなあ」
「分ります。でも若い女性が、川べりで一人で泣くなんて尋常じゃないですよ」
「何かあったのかなあ」
「課長!今日は早く帰った方が良いと思いますが」
「うん、そうするかなあ」
「そして、さりげなく様子を伺った方が良いような気がしますが」
「自信ないなあ」
「えっ?自信が有るとか無いとかの問題じゃないと思いますが」
「そう責めるなよ!急な話で気持ちの整理がイマイチなあ」
「何をおっしゃいます、切れ者で通ってる課長らしくないです」
「君には分らないかもしれないが、娘の事となると親父はからっきしなんだよ」
「それだったら、奥さんにそっとお話しして聞き出すとか」
「う~ん、家内も知っての通り、ああいう奴だから、どうだろうか」
「そんなこと私には分りませんよ。一応お話ししましたから、後は課長の方で」
「オイオイ、……困ったなあ」
「課長!ともかく、佳奈ちゃんを悲しませるような事は、絶対に許しませんよ」
「佳奈の事になると、いつも嫌に突っ掛かるなあ」
「課長!失礼ですけど、説教させてもらいますが、いいでしょうか」
「あはは、これで二回目だ」
「良いですか?私が言いたいのは」
「うん」
「課長に似合わず、あんな可愛くて頭の切れる娘さんの将来の事を少しでも」
「考えろって言いたいんだろ?」
「そうです」
「それは分るけど、俺に似合わずか?……うん、あれは何もかも母親似だな」
「感心してる場合じゃないですよ」
「一応分った、いろいろ心配かけたな。ありがとう!」
「いえ、『少し余計な事をしてしまったかなあ』と、今思っています」
「君の優しさは以前から分ってるつもりだよ。特に今度の場合は娘の事だからな」
「ありがとうございます」
「う~ん、……ちょっと、……たった今思い付いたんだが」
「はい?」
「勿論、家に帰って家内とは良く相談するが、君に頼みたい事があるんだが」
「えっ、私にですか?」
「そうだ。聞いてくれ」
「課長!まさかこの問題を、私に振るなんてないでしょうね」
「さすが、君の頭の回転の速さに、いつも感心してるんだが」
「課長!嫌ですよ、そんなに褒められても、課長の考えてる事は読めてます」
「だったら話が早い。説明するまでもないな。じゃ、頼むよ」
「ちょっと!課長それはないですよ」
「いや、俺にしては名案が浮かんだと思ってる」
「……」
「とにかく娘とあって、色々聞きだしてくれ。そして逐一報告してくれないか」
「何だかミイラ取りがミイラになった感じですね」
「あはは、それは了解したと受け取って良いのだな?ありがとう!恩に着る」
「ヤダなあ、いつもこうなってしまう」
「あはは、君との会話はいつも楽しい。珈琲のお替り頼もうか?」
「分りました。一応やっては見ますが、……あの~、佳奈ちゃんに逢う口実は?」
「口実?……お、……そうだよな」
「佳奈ちゃんとは、もう、かれこれ2年近く逢ってないと思うんですよ」
「だよなあ、佳奈の大学進学のお祝いの食事会に、駆けつけてくれたよなあ」
「はい、それ以来です」
「もう、そうなるか、月日の経つのは早いなあ」
「ですから、いきなり連絡して、逢うなんて無理じゃないですか?」
「構わんよ、適当に理由を見つけて逢えばいいじゃないか」
「そんな無神経な事ではいけないと思います。勘の良い佳奈ちゃんだから」
「なるほど、変に受け取られたりしたら、ヤブヘビだな」
「そう思います。何か良い口実を見つけないと」
「う~ん、……ちょっと待てよ、……うん、分った、こうしよう」
「何か名案が浮かびました?」
誘いの口実
「俺と君と佳奈の三人で飲みに行こう」
「課長ご免なさい!仕事の時は切れものの課長でも、こんな事になると」
「からっきしと言いたいんだろ?…認める。だから頼んでるんじゃないか」
「問題をすり替えないでください。……課長の案、それは無理ですよ」
「何?無理?どうしてだよ。佳奈はもう酒を飲んでも良い年齢だぜ」
「それは知っています。いつでしたか、課長からそのお祝いの話聞きましたから」
「そうだったな、じゃ何でだ?」
「だって、普段家族と顔を合わすのもままならない課長ですよ?」
「ん?」
「佳奈ちゃんをどうやって飲みに誘うんですか?いきなりですよ。口実は?」
「お、そうだよな、下手な芝居をしたら、変に勘ぐられてしまうしなあ」
「でしょう?全てに自然体でなきゃいけませんよ。さあ、どうします?」
「オイオイ、何をニタニタしてる。何か考えがありそうな顔に見えるが」
「課長、佳奈ちゃんは、お酒は飲める口なんですか?」
「そんなの知るかよ。……お、ちょっと待てよ、つい最近の事だけど」
「ん?」
「家内から聞いた話だが、佳奈が酔っぱらって帰って来たって言ってたな」
「大学で、成人のお祝いでもしてくれたんじゃないですか?」
「なるほど、そうかもな」
「家族で成人のお祝いをした時、お酒は?」
「うん『佳奈も今日から成人だ、一杯行こう』って乾杯した」
「それだけでしょ?」
「うん、もちろんそれだけだ」
「それ以外に佳奈ちゃんが、お酒を飲める年齢になってからは?」
「家で飲んだなんて話、家内からも聞いてないから、多分ないと思う」
「そこなんですよ、上手い口実がありますよ」
「ほんとかよ」
「課長は、家では確かパパとか言われてますよね?」
「うん、そうだが、そんな事まで、どうして知ってるんだ?」
「大学進学のお祝いの食事会の時、佳奈ちゃんがそう呼んでたような気が」
「へえ~、2年前のこと良く覚えてるなあ。……はは~」
「はは~って何ですか?」
「いや、何でもない、こっちの事だ、で、その口実っていうのは?」
「真剣な顔で『パパはな、佳奈が成人になったら』と切り出すんです」
「……それから?」
「『いつか二人で、スナックでお酒を飲むのが夢だったんだよ』と言うんです」
「お、おお~、いいね、いいねえ~!」
「そして『近いうちに会社の主任と飲むんだが、一緒にどうだ』と誘う」
「いやあ~、参ったなあ、これ以上のアイディアは無いね。恐れ入りました」
「あはは、課長、オーバーですよ」
「いやいや、それで行こう。うんうん、それいいねえ~、それで行こう」
「佳奈ちゃん、誘いに乗ってきますかねえ」
「絶対だ。確信がある」
「確信?ま、何かの理由で佳奈ちゃんが誘いに乗らなかったら」
「ん?」
「もうチャンスは無いと思いますから、後は課長の方で直に聞き出して下さい」
「あい分った何とかする。で、そういう事だと、……今思いついた」
「はい?」
「スナックで俺は、何かの理由をつけて先に失礼するからな、後は二人だけで」
「課長それは良くありません!」
「何でだよ、俺が居ない方が、話を切り出し易いだろ?」
「理由は三つあります」
「三つもかよ……」
「一つは、課長の芝居は、多分佳奈ちゃんに見破られてしまいます」
「かもな、二つ目は?」
「折角の機会ですから、佳奈ちゃんにとって良い想い出になる様にすべきです」
「うんうん、良いこと言うね。三つ目は?」
「お酒を飲みながら話を聞き出したりするのは、私の信条に合いません」
「信条?この場合は曲げるべきじゃないのか?」
「いえ、もし、この機会が設けられて、楽しい一時が過ごせたら、課長!後は」
「お、そうだな、連絡し易くなる?口実が出来る?」
「そういう事です。飲み会で、佳奈ちゃんから携帯の番号を聞いておきますから」
「なるほどなあ~、完璧なシナリオだな。成功間違いないな」
「自信はありませんが、そうなるように努力します。朗報をお待ちください」
「君なら大丈夫だ。俺も良い部下を持って幸せだ!……うん」
「あはは、本当の事が分るまでは安心できませんよ」
「な~に大丈夫だ。うん、絶対大丈夫だ。おっと、珈琲が空だ。何か取ろうか?」
「はい、お願いします」
「ソーダ、佳奈の好きなクリームソーダはどうだ?それで良いカナ?」
「サブッ」
「改めて、佳奈ちゃんが泣いてた原因は何なのでしょうね。課長想像できますか?」
「振出しに戻るなよ!想像出来ないから、君に頼んでんだから」
「私はだいたいの想像はつきます」
「ほんとかよ!どう思ってるんだ」
「多分、失恋ですね」
「オイオイ、脅すなよ、彼氏が居たって言うのか?」
「佳奈ちゃんの器量と人柄、それに抜群のスタイル。周りがほっとく筈ないですよ」
「……」
「もし、それが原因で泣いていたのなら、これはとても深刻ですね」
「……飲み会は、今夜はどうだ?」
「あれっ、余計なこと言いました?」
「何だか、急に心配になってきた」
「課長、大丈夫ですよ。今日は早く帰って、佳奈ちゃんに、さっきのセリフを」
「うんうん、だな、それからだな」
「セリフ、トチッちゃ駄目ですよ。落ち着いて、そうでないと全てがオジャンに」
「そんなにプレッシャー掛けるなよ。何だか仕事してた方が楽だなあ」
女優を目指して悩んだ結論
(数日後三人は新宿歌舞伎町のスナックで飲んだ後、カラオケを楽しんだ)
・
・
・
・
・
(さらに数日後、主任は課長のデスクの前に立った)
「課長、お話ししたい事があるんですが」
「おや!、主任、改まった顔して何だね。仕事で何か問題でも?」
「いえ、そうじゃないんです。ちょっと時間いいでしょうか」
「分った、何だ?」
「ココじゃ何ですから、別な所で」
「そっか、じゃ、外に出てどっかの茶店にするか?」
「そうですね、その方が良いと思います」
(二人は近くの喫茶店の片隅に腰を下ろし、珈琲を注文した)
「例の件だろ?あれからずーっと気にしてたんだよ。で?」
「はい、課長、もしかしたら大変な事になるかもしれませんよ」
「なんだよ、いきなり、で、何だよ早く話せよ」
「昨日の日曜日に、佳奈ちゃんと逢ったんですが」
「昨日?……そっか、なるほどな。道理でな」
「……何か?」
「いや、昨日だろ?俺も家に居たんだが、佳奈がニコニコして帰ってきた」
「そうでしたか」
「余程嬉しい事でもあったんだろうな、あんな顔初めて見たよ。昨日だろ?」
「私と別れた後、何か嬉しい事でもあったんじゃないですかね」
「かもな、うんうん、で?」
「佳奈ちゃん、かなり良くない男と付き合ってたみたいです」
「えっ、ほんとかよ、……嘘だろ?」
「課長、相当な覚悟がいるかもしれませんよ」
「オイオイ脅かすなよ。相当な覚悟ってどういう事だよ」
「命とまではいかないでしょうが、会社を辞めることに」
「何?冗談も休み休みにしろ」
「はい、じゃあ、休みます」
「ん?……嘘か?……冗談だったのか?」
「佳奈ちゃんからの仕掛けです。『パパを懲らしめて』ですって」
「オイオイ、オイオイ、心臓が破裂しそうだったぜ。佳奈もタチが悪いなあ」
「い~え、タチが悪いのは課長の方です」
「どうしてだ、何で俺がタチが悪いのだ」
「佳奈ちゃんが言うには『たった二人の子供の面倒も見れないようじゃ』」
「ん?」
「『仕事も大したことないと思う。さっさと首にしたらいいのよ』って」
「あはは、とうとう佳奈に首にされちまったか」
「そしたら、パパはいつも家に居てくれるから、ルンルン」
「……」
「佳奈ちゃんも杏奈ちゃんも、パパが大好きみたいですよ」
「……」
「パパのいない家の二人は、とても淋しい思いを毎日してるみたいですよ」
「今から俺は隅田川テラスに行ってくる」
「どうしたんですか?」
「思い切り泣きたくなった」
「それって、課長の反省の弁と受け止めていいですか?」
「……」
「思いましたよ、課長ってほんとに幸せな人だなあって」
「……」
「子供達は『パパは仕事が忙しいから家にいる時間が無い』と理解はしても」
「……」
「やっぱり毎日が淋しい。それでも愚痴もこぼさず、パパをこよなく愛してる」
「……」
「実に良い子供ですね!でもですね、子供達のけなげな気持ちを思うと……」
「……」
「ん?鬼の課長の目に涙?課長も人の子だったんですね。安心しました」
「コラッ!、……」
「ん?……皆に見られますよ、テラスはすぐそこですから、お待ちしています」
「……ゴメン、ちょっと行ってくる」
「あれ?ほんとに行っちゃった。佳奈薬が利きすぎたカナ。あれっ?」
・
・
「テラスに久しぶりに行ってみたけど、以前より随分綺麗に整備されてるなあ」
「場所は多少違うと思いますが、そのテラスで佳奈ちゃんは泣いてたんですよ」
「うん、泣くにはもってこいの所だな」
「どうして佳奈ちゃんが泣いてたのか、聞きたくないですか?」
「何言ってるんだよ、それを聞く為に、わざわざ此処に来たんじゃないか」
「課長は、佳奈ちゃんが大学で、どんなサークルに入ってたかご存知でした?」
「家庭内で会話すらないのに、知る訳ないだろう。サークルに関係ありか?」
「そうなんです。佳奈ちゃんは、女優を目指していたみたいなんですよ」
「何だと?女優?ほんとにそう言ったのか?」
「ほんとです。佳奈ちゃんの美貌とスタイルなら、立派な女優になれますよ」
「で、それがどうしたんだ」
「毎日のように、厳しい訓練をしていたみたいです」
「うん、それで?」
「ある日、テラスで泣いてた数日前の事みたいですけど」
「うんうん」
「訓練中に、男女の抱擁シーンとキスシーンを要求されたみたいなんです」
「何だと?抱擁シーンとキスシーン?絶対にダメだ」
「ま、ま、課長!声が大きいですよ。皆見てますよ。落ち着いて」
「……」
「課長は『話は最後まで聞くもんだ』と、いつもおっしゃってるじゃないですか」
「うん、スマン、ついカッとなってしまった」
「勿論、脚本に書いてある訳ですから、佳奈ちゃんはそのシーンの事は」
「事前に知ってたんだな」
「そうなんです。佳奈ちゃんは相当悩んだらしいんです」
「……」
「いくら女優志望とは言え、今、そこまで演技する必要があるだろうかと」
「うんうん、そうだよ」
「そこで佳奈ちゃんが出した答えは」
「ん?答えは?」
「その場は強く断ったそうです」
「うん、さすが俺の子だ、偉い!」
「『脚本でこのシーンがあるのは承知してた筈だ』と、その場が騒然となった」
「……」
「そこで佳奈ちゃんはきっぱりと決断したみたいです『サークルを止めよう』と」
「そうか、良かった、……うん、実に良い判断だ」
子供とのアッという間の人生
「佳奈ちゃんが、とても立派な事を私に言ったんですよ、課長!聞きたいですか?」
「モチだよ。勿体ぶるなよ!……何と言ったんだ?」
「『抱擁もキスも、自分が思うただ一人の為に取っておきたい』ですって」
「何と?ほんとにそんな事言ったのか?佳奈が」
「ほんとです。目がキラキラしてて、とっても魅力的な顔でしたよ」
「そうか、……良かった。フ~、良かった。佳奈も大人になったな、……うん!」
「間近で見ると、2年前と違って、本当に素敵で惚れ惚れとする人になってますね」
「そうか、ありがとう!」
「それで女優志望を諦めて、佳奈ちゃんが将来何になりたいか当ててみて下さい」
「そんなの分る訳ないだろ。う~ん何だろ、普通の会社勤めでいいと思うけどなあ」
「佳奈ちゃんは少し含み笑いの顔で『パパの会社で仕事したい』と言うんですよ」
「オイオイ、口から出まかせ言うなよ。そんな事言う筈ないよ、絶対に」
「そしたら、パパといつも一緒に電車で出勤できるし、会社でもいつも傍に居れる」
「……」
「あはは、満更でもない顔ですよ課長」
「思いも付かない事だけど、悪くはないなあと思ってな」
「でも、佳奈ちゃんの含み笑いが気にはなったのですが」
「うん」
「そんな考えは甘い!良くないと言いました」
「えっ、何でだよ。何で良くないんだよ」
「会社の仕事って、傍で見るよりドロドロしたところもあるし、それと」
「それと?」
「社員が何かと課長のお嬢さんという目で見てしまい、実際には仕事がやりずらい」
「うんうん、そうだよな。同感だな。精神的に参ってしまう。悩みになる」
「悪く言うつもりはありませんが、特に女子社員の世界は色々あるみたいですしね」
「うんうん、分る分る」
「そうなると仕事が楽しくないどころか、余計な神経を使わなければならなくなる」
「うんうん、それも分る」
「だから、気持ちは良く分るけど、止めた方が良いと言ったんです」
「なるほど、仕事は伸び伸びと楽しくなくっちゃなあ。うん、良いアドバイスだな」
「佳奈ちゃんは、またも含み笑いして『実社会って厳しくて甘くは無いのね』って」
「そっかあ、……佳奈がなあ、……なるほどなあ。何だか考えさせられてしまうな」
「ですね」
「それが駄目だったら?……佳奈は何か言ってなかったかい?」
「課長、実は後から分ったんですが、私は佳奈ちゃんに、試されたみたいです」
「ん?君を試した?どういうことだ」
「パパの会社で仕事したいと言えば、どういう言葉が返ってくるか試したんです」
「じゃあ、会社で仕事したいというのは、本心で言ったという事ではないのか」
「はい、そのようです。佳奈ちゃんの含み笑いが気にはなっていたのですが」
「うん、さっきそんなこと言ってたな」
「やっと分りましたよ、含み笑いの意味が」
「じゃあ、最初からその気はなくて言ったと言うんだな」
「思いましたよ、さすが佳奈ちゃんだと。課長にとっては誠に残念なことですが」
「それはいいけど、何でさすがなんだよ」
「私はその時はっきりと確信しました。佳奈ちゃんの強い信念を」
「強い信念?」
「一本立ちしようという強い信念ですよ」
「……」
「佳奈ちゃんは、何もかも分った上で、さっきのような事を私に言ったのですね」
「いや、それもあるかもしれないけど、今、思ったんだが、違う考えもあるな」
「違う考えですか?」
「佳奈は君がどういう返事をするか」
「……」
「君がどういう考えで、人生を歩んでいるかを知りたかったんだよ」
「えっ、どうして私の事を知りたがるんですか」
「これは俺の単なる推測だが、佳奈は君の存在が少し気になってるじゃないかな」
「えっ、課長今何とおっしゃいました?私の存在?……ですか?」
「君と逢った後の、あの笑顔といい、今の事といい、多分そうだな」
「あはは、課長!佳奈ちゃんはまだ学生ですよ。あはは、それは無いですよ」
「この際尋ねるけど、君は佳奈に対して、正直どう思っているのか聞いておきたい」
「どうっておっしゃられても、課長の子供さんという、ただそれだけですが」
「ほんとか?」
「はい、確かに佳奈ちゃんはとても魅力的な女性です。好感は持っています」
「うん」
「佳奈ちゃんのこれからの人生で、私が何か役立つような事があれば応援しますが」
「うん」
「今のところ、それ以上でもそれ以下でもありません」
「……」
「美しく聡明なお嬢さんですから、きっと輝かしい未来が待ってるとは思いますが」
「……」
「人生何があるか分りませんから、差支えなければ、陰ながら応援出来ればと」
「そっか、分った、ありがとう!」
「話は元に戻りますが、佳奈ちゃんは女優志望を断念して、将来何になりたいか」
「おっと、そうだったな、何か話があったかい?」
「女優志望を断念して残念そうでしたが、声優になろうと決心したみたいですよ」
「声優?……声優ねえ~、……君はどう思う?」
「その時初めて気づいたんです。佳奈ちゃんの声って凄く魅力的だなあって」
「さっきから聞いてると、君は佳奈の事をやたらと褒めているけど、眉唾か?」
「眉唾とか、ヨイショとか、忖度と言う言葉は、私の辞書にはありません」
「あはは、そのことなら俺が一番良く知ってる」
「肝心の、佳奈ちゃんが、テラスで泣いてた理由は聞かないんですか」
「お、そうだったな。心配事が消えて、すっかり忘れてしまった」
「何だと思いますか?」
「俺が家にいる時間が余り無いから、淋しくて泣いていた?……違うか?」
「それに関連して、ここで、お得意のダジャレは出ませんか?」
「う~ん、ちょっとタンマ……『カナの涙はカナしい涙カナ』はどうだ?」
「あはは、上手い、いいですねえ!」
「あはは、はじめて褒めてくれたな。……ほんとに子供達にはすまない事をしてた」
「はは~、テラスで大いに反省して、今後はなるべく早く家に帰ってやろうと?」
「うん、娘たちの心情が、初めて分かったような気がする」
「ほんとですか、その言葉を聞くと、娘さん達は大いに喜ぶと思いますよ」
「テラスで、親子の愛、つまり家族愛について痛いほど考えさせられたよ」
「考えてみますと、人生の中で子供たちと接する時間なんて短いと思いません?」
「そうだよな、それを思うと、もう少し早くに気づくべきだったと痛切に思った」
「で、また大いに泣けてきて、大粒の涙が頬を伝って落ちた?」
「うんうん、反省じゃないなあ、悔恨の涙だね。生まれて初めて泣いたよ」
「これからは、時々テラスに立ち寄るといいかも知れませんね?」
「人生を考える最良の場所としてな」
「そうですね、良い場所が見つかりましたね」
「そうだな、君のお蔭だな、ありがとうな」
「あと最低でも2回は、テラスにお世話になるかもしれませんね」
「2回?オイオイ、今の地位から降格させられた時と会社を首になった時か?」
「あはは、課長が首になる訳ないじゃないですか」
「いやいや、このご時世だ、分らんぞ」
「違いますよ、佳奈ちゃんと杏奈ちゃんの結婚式ですよ」
「ん?お、なるほど、そう来たか」
「式場とテラスで、課長が泣くところが見たいもんですね」
「いや、俺は絶対に泣かない」
「それはそうと課長、佳奈ちゃんと杏奈ちゃんがお嫁に行ったら」
「ん?」
「奥さんと二人きりになりますね」
「ん?……お、そうだな、……そうなるよな。考えた事もなかった」
「それからの人生の方が長くなるかもしれませんよ」
「うん、だなあ」
「ですから、今のうちに奥さんも大事にしてあげて下さいね」
「いつもながら、痛い所を突いて来るなあ。参ったなあ」
「仕事も大切ですが、家族はそれ以上に……」
「だな、テラスでそのことをもう一度真剣に考えてみるよ」
「それにしても、良かったなあ、佳奈ちゃん達の喜ぶ顔が見たいですね」
「近いうちに、俺の家で食事会をやろうと思うが、来てくれるよな?」
「良いですねえ~、ありがとうございます。喜んでお伺いします」
「ところで、佳奈が泣いた本当の理由は何なんだね」
「おっと、でしたね。あれは、佳奈ちゃん一流の儀式だったみたいです」
「儀式?」
「はい。小さいころから夢見ていた、女優願望とのお別れの儀式」
「なるほど、そうなると、その涙は悲しみの涙と言うより、次のステップへの」
「過去を振り切り、未来へ希望を託す涙だったのかもしれませんね」
「……」
「女一人で生きていく為の、強い決意の涙だったのでしょうね。泣かせますね」
「おいおい、俺をまたテラスに行かせるつもりかよ」
「いえ、今度は私が行きたい心境です」
「ん?そうか。だったら行って来い!業務命令だ!」
「何でしたら一緒に行きませんか?」
「お~、それもいい考えだな!行こう、行こう!」