いつものように私は、窓側の席に座り、いつもの珈琲を注文し、ぼんやりと窓の外を眺めていました。
この日は、朝からの真っ青な空に小さな白い雲がぽっかり浮かんでいました。遠いその雲の下に、いつものように、見慣れている山の姿が窓から見えました。その山を見る私の目は、焦点がぼけ、意識のはるか彼方にありました。
「今日は久しぶりにいい天気になりましたね」
珍しく若い女店員が、イタリアンレトロ風のカップに注がれた珈琲を、テーブルに置きながら声をかけてくれました。
「そうねえ。不思議だねえ。天気が良いというだけで気分まで晴れてくるからね」
彼女は、笑みを浮かべながら、一礼してカウンターのほうに向かいました。
ブラックの珈琲が一口私の喉を潤します。日頃めったに味わえない、まさに至福のひとときです。
出窓から見える遠くの山の姿を見ながら、珈琲カップを唇に乗せ、二口目をいただこうとしたその時です。山の形が私の目を鋭く刺したのです。私は一瞬ハッとしました。真っ青な空の下に横たわる薄緑の山の姿が、はっきりとした輪郭を持って眼前に鮮やかに映し出されたのです。これまで意識の外にあった景色が、完全に意識の中の鮮明像と化したのです。それは言葉に出来ないほどの、とても神秘的な女性の姿をしていました。仰向けにしたその寝像が強烈に私の目に映し出されたのであります。その姿は、この世の何人たりとも及ばない、とても美しい女性の姿に思えてきました。おそらくは山の神々達が創造したであろう、その美しい姿に、私は、うっとりとした気分で、珈琲カップをテーブルに戻す意識に及ばず、手に持ったまま、しばし見とれてしまっていたほどでした。
以来私は、晴れた日は、毎日のようにこの窓辺の席に座り、「山の女神」を眺めながら珈琲をいただくようになりました。「女神」の見えない雨や曇りがちな日が続いたり、他の客が私の「指定席」を占領しているような日は、心なしかイライラして欲求不満がちょっぴり顔を出すのであります。
毎日の天気予報が気になりだし、朝起きては空を見上げてしまうのが日課となってしまいました。その日の天候しだいで、知らず知らずのうちに私の一日のバイオリズムに変化をもたらしているのではとさえ思ってしまうぐらいです。
山の姿が見える日は、珈琲カップを手に高く持ち、「女神」に向かって乾杯の仕草をしてから、珈琲を口にするようになりました。そして、そうすることが次第に普通となり、とても楽しみになってきました。私は完全に女神のとりこになってしまったみたいです。
この私の仕草に、他の客は、多分好奇心を持って、あるいは奇異に、私を見ていたであろうことは容易に想像できますが、私にしてみますと、誰にも知られず、自分だけの秘密の別世界を、独り占めしていることの優越感に浸っていたのです。